大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

お江戸の時を告げた「鐘」探し・その場所はかつての牢屋敷【その3・お江戸ご府内日本橋(本)石町】

2010年10月12日 10時34分53秒 | 中央区・歴史散策
浅草、上野とお江戸の代表的な「時の鐘」を別ページで紹介しましたが、シリーズ第3弾として日本橋石町の鐘を探してきました。とは言ってもこの鐘は本来の場所である石町ではなく、現在の地名である日本橋小伝馬町の一角に置かれています。かつての石町は小伝馬町から2丁(約180m)ほどの離れた場所にあった地名です。

それでは簡単に石町の鐘の変遷をお教えいたしましょう。
実はお江戸の時の鐘の始まりは開幕初期に遡ります。お江戸の大普請が始まる頃(1603年以降)、時の鐘は城鐘としてなんと江戸城内に置かれていたのです。慶長から元和へと時代が移り、城内で鐘撞きがうるさいということで、第2代秀忠公の御世にこの城鐘を内郭の外の日本橋石町に移したと記録されています。その際に新たに鐘を鋳造し鐘楼を造ったのが、江戸で最初の「時の鐘」とされています。 そして幕末まで日本橋石町で江戸の町に時を知らせていたわけです。維新後は時の鐘は廃止され、昭和5年に石町から小伝馬町の十思公園内に移設されました。

さて現在の地下鉄日比谷線小伝馬町の駅は賑やかな江戸通りに面した大きな交差点角に位置しています。江戸時代には幕府の牢屋があった場所としてよく知られている場所なんですね。
地下鉄駅出口から秋葉原方面に50mほど進むと左手に「大安楽院」が現われてきます。この大安楽院が建っている場所が江戸時代の牢屋敷があった場所で、その牢屋敷の中でも斬首刑を行っていた最も忌まわしい場所なのです。

大安楽院

維新後、牢屋敷の跡地はその祟りを恐れて誰も住むことなく、荒れ果てていたと言います。そんな状況を知ってか明治の財界の大物であった大倉喜八郎と安田善次郎が明治15年に寄進したのが、この大安楽院なのです。
だからお二人の名前の頭をとって「大安楽院」となったとのことです。

大安楽院の境内はそれほど広くはありません。狭い境内を取り囲む塀に挟まれるように「江戸伝馬町処刑場跡」と赤い文字で刻まれた石柱がなんとも薄気味悪く立てられています。
「江戸伝馬町処刑場跡」の石柱

また境内の中にも「江戸伝馬町牢御�頂場跡」の石柱が寂しげに立てられています。そして「江戸伝馬町牢御�頂場跡」のすぐ脇に祀られている。
「江戸伝馬町牢御�頂場跡」の石柱

延命地蔵の台座には山岡鉄舟の筆になる「為囚死群霊離苦得脱」という文字が刻まれています。「刑死したものたちの霊よ、苦しみを離れ、解脱を得よ」との意味なのでしょうか。更には牢屋敷の石積みに使われていた石が境内の隅に寂しく置かれています。
牢屋敷の石積の石

この大安楽院の正面門の路地を隔てて比較的広い公園があります。十思公園(じっし)と呼ばれています。この場所もかつての牢屋敷の敷地の一部だったのですが、この公園の中央部に、近代的なコンクリートの棟があって、その棟の上に大きな鐘が吊されているんです。
 
 


この鐘がかつて石町にあった江戸時代の「時の鐘」なのです。棟の上には螺旋階段で登っていけるようになっているようなのですが、残念ながら階段の入口は施錠され登っていくことはできません。

こんな云われのある十思公園にはこんな方の記念碑が公園の奥の木々に囲まれた薄暗い場所に置かれています。時は幕末、あの安政の大獄で捕縛され、伝馬町の牢屋敷で斬首刑となった「吉田松陰」の終焉の地と刻まれた碑石がひっそりと佇んでいます。
吉田松蔭終焉の地の石碑

安政の大獄では吉田松蔭の他に橋本左内、頼三樹三郎を含め100人近い勤皇志士が伝馬町の牢屋敷で露と消えていったのです。

忌まわしい刑が行われたかつての牢屋敷の敷地であったこの場所に移設された「時の鐘」は無念の情を抱いて旅立った方々の魂を鎮魂するかのように静かな公園の中にその姿を残していました。

尚、江戸時代には市中9ヶ所に時の鐘が置かれていたといいます。すでにブログで紹介した浅草浅草寺、上野寛永寺の他に、赤坂円通寺、市ヶ谷八幡宮境内、目白不動尊境内、四谷天龍寺、芝切通し、本所横川町と日本橋石町です。そして現在まで残っている鐘は上野寛永寺、浅草浅草寺、日本橋石町と四谷天龍寺の4鐘です。
近い内に四谷天龍寺の時の鐘を取材する予定です。

お江戸の時を告げた「鐘」探し【その1・お江戸浅草時の鐘】
お江戸の時を告げた「鐘」探し【その2・お江戸上野の山・旧寛永寺境内】





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お江戸の時を告げた「鐘」探し【その2・お江戸上野の山・旧寛永寺境内】

2010年10月11日 22時16分08秒 | 台東区・歴史散策
私たち現代人にとって「時」の把握の仕方はそれほど苦にならないほど簡単な仕草で片付いてします。誰もがもっている腕時計の針をちらっと見るだけで、いつでも、どこでも無造作に時を知ることができる。最近は腕時計だけでなく携帯電話の時計表示も時を知る便利な手段である。

ところでお江戸の時代に城下の武家、商人、町人はどのようにして時の把握をしていたのだろう?
1603年の開幕以来、江戸は参勤交代の武士、上方からの商人、地方から流入する農民などで人口が飛躍的に拡大していきます。これに伴い、江戸の産業も発展していくなかで暮らしや仕事など社会全体にメリハリをつける秩序が必要になったのです。

その方法のひとつが時を知らせる「時の鐘」の制度。幕府は公認の「時の鐘」を上野、浅草、本所、日本橋など人が多く集まり、さまざまな商売が賑やかに営まれている場所をはじめ、江戸市中10か所に設置したのです。その方法は江戸城の時計係が西洋時計の時刻を基に太鼓を打って知らせ、それを聞いた「時の鐘」のある寺などが続いて撞くという人の耳に頼りながらのたよりないやり方だったんですね。このため同時にすべての鐘が撞かれる訳ではなかったので多少時間差ができたしまったらしい。ともかく江戸市民はこの時の鐘を時計代わりにし1日の時間割をしていったのです。複数の「時の鐘」が存在したのは江戸だけであり京都、大阪、長崎は幕府による「時の鐘」はそれぞれ一つしかなかったようです。

こんなお江戸の時の鐘の中で、最も知られている3ヶ所の鐘探しにでかけました。つづいてのお題はもう一つの有名な時の鐘「上野の山・旧寛永寺境内」です。


上野の山に残る時の鐘

京成上野駅の地上出口からつづく階段を登り、西郷隆盛像の立つ広場からなだらかな坂を進んでいきましょう。
清水観音堂を左に見ながら、目指すは上野大仏・パゴダがある場所です。このパゴダが置かれている小高い丘と相対するように置かれているのが上野の山の「時の鐘」です。道路から少し高い位置に木々の葉に隠れるように鐘楼が置かれているので、気が付かない方も多いようです。

 


木漏れ日の中の時の鐘

初代の鐘は寛文6年(1666)につくられましたが、現存するのは天明7年(1787年)に鋳直されたものです。松尾芭蕉の名句「花の雲鐘は上野か浅草か」で詠われているのが、この上野の山の鐘なのです。
この上野の山の「時の鐘」は寛永寺さん所蔵のもので、現在でも朝夕6時と、正午の3回、江戸時代と同じ音色を響かせていて、環境省の日本の音風景100選に選ばれています。

お江戸の時を告げた「鐘」探し【その1・お江戸浅草時の鐘】
お江戸の時を告げた「鐘」探し・その場所はかつての牢屋敷【その3・お江戸ご府内日本橋(本)石町】





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お江戸の時を告げた「鐘」探し【その1・お江戸浅草時の鐘】

2010年10月11日 21時15分14秒 | 台東区・歴史散策
私たち現代人にとって「時」の把握の仕方はそれほど苦にならないほど簡単な仕草で片付いてします。誰もがもっている腕時計の針をちらっと見るだけで、いつでも、どこでも無造作に時を知ることができる。最近は腕時計だけでなく携帯電話の時計表示も時を知る便利な手段である。

ところでお江戸の時代に城下の武家、商人、町人はどのようにして時の把握をしていたのだろう?
1603年の開幕以来、江戸は参勤交代の武士、上方からの商人、地方から流入する農民などで人口が飛躍的に拡大していきます。これに伴い、江戸の産業も発展していくなかで暮らしや仕事など社会全体にメリハリをつける秩序が必要になったのです。

その方法のひとつが時を知らせる「時の鐘」の制度。幕府は公認の「時の鐘」を上野、浅草、本所、日本橋など人が多く集まり、さまざまな商売が賑やかに営まれている場所をはじめ、江戸市中10か所に設置したのです。その方法は江戸城の時計係が西洋時計の時刻を基に太鼓を打って知らせ、それを聞いた「時の鐘」のある寺などが続いて撞くという人の耳に頼りながらのたよりないやり方だったんですね。このため同時にすべての鐘が撞かれる訳ではなかったので多少時間差ができたしまったらしい。ともかく江戸市民はこの時の鐘を時計代わりにし1日の時間割をしていったのです。複数の「時の鐘」が存在したのは江戸だけであり京都、大阪、長崎は幕府による「時の鐘」はそれぞれ一つしかなかったようです。

こんなお江戸の時の鐘の中で、最も知られている3ヶ所の鐘探しにでかけました。今日のお題はその1として「浅草・浅草寺境内」に残る有名な時の鐘です。





芭蕉が生きていたあの元禄時代、隅田川の辺に立つ庵にまでその鐘の音が届いたその様子を詠った名句が残されています。
花の雲 鐘は上野か 浅草か

浅草の「時の鐘」は浅草寺の宝蔵門からさほど離れていない浅草寺弁天山の鐘楼に吊るされています。。この鐘は元禄5年(1692)5代将軍徳川綱吉の命によって造られたものです。高さ2.12m、直径1.52mの堂々としたものです。東京大空襲で鐘楼は焼失しましたが、梵鐘は無事に残りかつての姿を私たちの見せてくれます。今でも朝6時に鐘が撞かれ時刻を知らせてくれます。浅草という場所柄、江戸時代の鐘が時を告げてくれるなんて、粋な計らいですよね。

この浅草の時の鐘の鐘楼へと上る階段脇左側に芭蕉の句碑が目立たない存在で立っているんです。

 
芭蕉らしき人物が彫られています。

寛政八年(1796)に造られたといいます。句碑の標識が立てられているのでかろうじて気がつくのですが、碑面は文字が薄れ判読はかなり難しい状態です。碑面の上部には「くわんをん(観音)のいらか見やりつ花の雲」とあったと記録されていようです。その碑面の下の方に芭蕉らしき人物が彫られているのが薄っすらと残っています。この像はよくよく見るとかろうじて判読できます。
浅草寺本堂や三社様だけでなく、是非江戸の時代の時の鐘も是非ご覧になってみてください。

※浅草寺ご本堂の屋根瓦の修理が終わり、本堂を覆っていたカバーがとれて本来の姿が戻ってきました。

屋根瓦の葺き替えが終わった浅草寺ご本堂

お江戸の時を告げた「鐘」探し【その2・お江戸上野の山・旧寛永寺境内】
お江戸の時を告げた「鐘」探し・その場所はかつての牢屋敷【その3・お江戸ご府内日本橋(本)石町】





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雲一つない青空の下・体育の日のはつらつスカイツリー

2010年10月11日 19時34分10秒 | 墨田区・歴史散策
カラリと晴れ上がり、秋とは思えない陽気となった11日体育の日、東京はどこへ行っても人、人、人で大混雑。上野の山を一巡りしたのち、浅草へと足をのばし早速、例のビューポイントへ直行。
隅田川クルーズの波止場が隣接する吾妻橋の台東区側から対岸のアサヒビールのガラス張りビルと墨田区役所のビルの間から姿をみせる美しいスカイツリーの雄姿を眺める。



スカイブルーの背景にくっきりと浮かび上がるタワーは確実に成長している。その姿を吾妻橋上から見ようと今日も大勢の人で溢れ返っている。

橋上の人ごみを掻き分けながら対岸の墨田区側へ移動する。墨田区側の浅草通りは休日のこの日はかなり車の往来が多く、それ以上に歩道はスカイツリーへ向かう人、浅草方面に向かう人が行き交い、まるで日曜日の銀座通りが下町にやってきたかのような様相を呈している。

今日も浅草通りの歩道脇にスカイツリーに因んだ、楽しいオブジェを発見。



なんと竹細工で作られたスカイツリーが適度な間隔を置いて浅草通りに沿った歩道脇に置かれているではないか。立ち止まって眺めている人はほとんど見かけませんが、おそらく浅草通り商店街の新キャンペーンではないでしょうか?

スカイツリー直下は足の踏み場もないほどものすごい人出である。業平橋側は特にすざましい。
夏を思わせるような強い陽射しにスカイツリーの白磁のような白がよりいっそうその鮮やかさを増している。



世間が休日であってもスカイツリーの建設現場ではトンテンカンと音が鳴り響き、地上400mに据え付けられた大型クレーンから吊り下がるワイヤが休むことなく建設資材を遥か高みへと運んでいる。



今日のスカイツリーの高さは先日よりも8m成長。478mになっていた。頑張れ!頑張れ!




【特集】徳川将軍家所縁の菩提寺「増上寺」と感動の徳川将軍家墓所参内(墓所内の宝塔画像一挙公開)

2010年10月08日 21時31分52秒 | 港区・歴史散策
徳川将軍家の菩提寺と言えば、東の上野寛永寺が最も有名ですが、もう一つ西の芝・増上寺も菩提寺として双璧をなすものです。徳川家の庇護の元、歴代6人の将軍が眠る増上寺ですが、かつてはこれだけの寺格として広大な寺領を有していました。
現在の芝公園全域と東京プリンスホテルの敷地そして御成門のある場所までが、かつての増上寺本山の寺領だったのです。さらに塔中と呼ばれる小院の寺領を含めるとそれはそれは上野寛永寺と並ぶほどの広さを持っていたのです。

増上寺大殿

かつての栄華を偲ぶものはそれほど多く残っていませんが、日比谷通りに面して将軍家の威光を示す立派な御門が目に入ってきます。その代表的なものが2代将軍秀忠公の霊廟前に置かれていた惣門(旧台徳院廟惣門)です。

旧台徳院廟惣門

実は、終戦間際の大空襲前まではこの増上寺境内の大部分に徳川将軍家の6人の将軍やその正室や側室、更には家門大名の霊廟が整然と配置されていました。その様子は壮麗で、まるで日光東照宮の陽明門がいくつも立ち並んでいたかのような美しさを誇り、その全ての建造物が国宝に指定されていたのです。
しかし、大戦末期の米軍による大空襲によりほとんどの霊廟建築は焼失してしまい、現在わずかながら霊廟に通ずる参道に置かれていたた惣門又は勅額門が残るだけとなってしまったのです。

戦災で荒れ果てたかつての将軍家の霊廟はその後しばらくは荒れるがままの状態だったのですが、日本の戦後復興の記念事業として東京オリンピック招致(昭和39年以前)が決定してから、増上寺周辺の再開発と整備が急がれたのです。その整備の一環でそれまで増上寺敷地内に放置されていた将軍家の陵墓の発掘調査が行われ、調査完了後に各将軍の宝塔をはじめ石燈篭などを一ヶ所に集めた場所が増上寺大殿の裏手に作られたのです。
これが徳川将軍家墓所なのです。

まず最初に申し上げておきますが、この墓所にはいつでも誰でも勝手に入れる訳ではありません。まず個人では入所はできません。実は先日この墓所に入る機会を得たのですが、それはある団体の一員として幸運にも入る事ができたのです。

増上寺大殿前を右に進み、黒本尊を祀る安国殿の脇を回りこむように裏側へと向かうと、わずかな傾斜のある舗装された坂道の先に歴史を感じさせる霊廟の門が現れてきます。

墓所入口の鋳抜門

鋳抜門の葵のご紋

この御門は銅製鋳抜門(いぬきもん)と呼ばれ、葵のご紋が配されています。もともとは6代将軍家宣公の宝塔前に置かれていた「中門」だったのを、現在の墓所の入口に移設したものです。この鋳抜門は通常は錠前で施錠され入ることが出来ないのですが、特別に団体で入場する際に増上寺の安国殿の僧侶が鍵をもって開錠してくれます。
大の大人一人でもやっと動かせる位の重い銅製の扉をおもむろに開けると、その先に見えるのは玉砂利が敷かれ、静寂の中で佇む幾つかの宝塔と石燈篭が整然と並ぶ異空間が広がっています。

墓所内の光景

足を踏み入れた瞬間に「凛」とした空気が肌に感じられるくらいな静寂な時と空間が流れています。
歴史の教科書で登場する徳川将軍家の歴代将軍の内、6人の将軍の宝塔(墓)が目の前に並んでいるのです。これらの宝塔には前述の調査発掘ででてきた遺骨を荼毘に付して、あらためて納骨しなおしているといいます。

墓所の一番奥に左右に並ぶ宝塔は、右に第2代将軍秀忠公とその正室江与が合祀された宝塔です。左には第6代将軍家宣公ご夫妻が合祀された宝塔です。めったに撮れない貴重な画像を一挙公開します。

第2代秀忠公とお江与の合祀宝塔 秀忠の享年54歳

第6代家宣公と正室の合祀宝塔

家宣公は5代綱吉公の甥にあたり、家光公の三男綱重(甲府宰相)の子です。将軍在位は僅か3年半。享年51歳

不謹慎かもしれませんが、来年2011年のNHK大河ドラマは秀忠公の正室江与(お江)を取り上げるとのことで、たくさんの訪問者がこの墓所を訪れるのではないでしょうか。とは言っても、個人では入所できませんのでご注意を!

そしてこの墓所の中で私が一番感動したのが幕末悲劇の若き将軍、第14代家茂公とその正室であつた皇女和宮(静寛院宮様)の宝塔が仲良く並んで置かれていることです。
特筆すべきは、家茂公の宝塔は石造り、一方静寛院宮様の宝塔は青銅製でその宝塔には16紋の菊のご紋章が彫りこまれていることです。

第14代家茂公宝塔

紀伊徳川家出身。時の大老井伊直弼の後ろ盾により12歳で将軍になる。弱体化する幕府が図った起死回生の公武合体政策により、孝明天皇の妹君・和宮様を正室に迎えたが、21歳の若さで急死した。

皇女和宮(静寛院宮様)の宝塔/青銅製

そして発掘された静寛院宮様の遺骨の胸の辺りに一枚の写真が大事に抱かれていたそうです。その写真は太陽の光を浴びた瞬間にあっという間に消えてしまったといいます。いまとなってはその写真に誰が写っていたのかはわかりませんが、静寛院宮様が心からお慕いしていた「方」がきっと写っておられたのではないでしょうか。
こんな話が伝わっていることを知るにつけ、幕末の公武合体策として無理やり降嫁させられた静寛院宮様が静かに眠っている場所の近くに、今、自分がいることの不思議さを実感した瞬間でした。

第12代家慶公宝塔

11代将軍家斉公の次男。老中の相談にうなずくばかりだったので、「そうせい様」と呼ばれていた。

第7代家継公宝塔

6代将軍家宣公の四男で、なんと4歳で将軍となった。家継が将軍となって翌年の1714年に大奥最大のスキャンダル事件「絵島生島事件」が…。この事件は家継の生母・月光院と家宣公の正室・天英院との間のどろどろしい確執からでっち上げられたものとされています。尚、家継公は8歳という若さで病死。そして家継の死で徳川宗家の血筋は途絶えてしまうのです。

第9代家重公宝塔

8代将軍吉宗公の長男。病弱なうえ、酒色にふけり大奥に入りびたっていた将軍として有名。さらに言語不明瞭のなんともたよりない将軍。享年51歳





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お江戸下町天神様・スカイツリーを間近に仰ぐ亀戸天神社境内散策【お江戸亀戸梅屋敷】

2010年10月07日 17時12分57秒 | 江東区・歴史散策
本格的な秋の訪れが待ち遠しい10月の初旬、下町の天神様として有名な亀戸天神へ。
平日のこの日、境内には参詣に訪れる人はまばら。ちょうど10月の第4日曜日から始まる菊祭りの準備で本社殿の前の広場には菊の鉢植えを並べる展示台が準備されていました。

蔵前通りに面する天神社正面入口から、短い参道を進むと右側に「べっこう細工」の店が現われる。

べっこう細工のお店

べっこう細工の店の真向かいには、ここ亀戸ではもっとも有名な甘味の老舗「船橋屋」の出店があるが、平日のこの日は両店共に開店休業状態。
船橋屋の本店は天神社から蔵前通りを錦糸町方面に150mほど行った右側に古い佇まいを見せて店を開いている。見るからに江戸の情緒を醸し出している風情で、店の中も若干薄暗く、昔ながらの雰囲気で「あんみつ」や一押しの「くず餅」を楽しむことができる。天神社のお参りの後は、是非立ち寄っていただきたい店の一つです。

船橋屋本店店構え

赤い鳥居をくぐると、すぐに最初の太鼓橋が現われる。この太鼓橋を男橋と言う。真中が膨らんだ太鼓橋の一番高い所からは境内の心字池と藤棚が見渡せる。天神社の藤の花は江戸の時代から「亀戸の五尺藤」、「亀戸の藤浪」として広く親しまれ、平成の御世になっても東京の中でも藤の花の名所として知られている。

男橋

名物の藤棚

最初の太鼓橋を渡り、平らな平橋を少し歩くと次の太鼓橋が現われる。この太鼓橋を女橋と言う。
このように大鳥居からはいってくると社殿に至るまでの間に2つの太鼓橋とその太鼓橋を結ぶ平橋を歩くことになるのですが、これには次のような云われがあるんですね。
最初の太鼓橋は生きていた過去を現し、平橋は現在、そして3つめの太鼓橋は未来を現すといったもので、3つの橋を渡るごとに心が清められ、神殿前に進むようになっているとのことです。

女橋

女橋を渡りきると、左手に子どもの像がたっています。この像は当天神社が祀る道真公の5歳の頃のお姿で、公がその時に詠まれた歌が像の台座に刻まれています。
こんな詠だったと思います。「美しや 紅の色なる梅の花 あこが顔にも つけたくぞある」
子どもらしい歌といえば歌に思えるのですが…。

道真公五歳像

そして本殿に進むのですが、本殿の左脇に大きな牛の像が置かれているのがすぐに気が付きます。
「神牛(しんぎゅう)」です。天神様の神使(みつかわしめ)として牛が古くから崇められているのですが、やはりここ亀戸天神にもいらっしゃたのですね。
参拝の際に牛の体に触ることで病を治し、知恵を授けてくれるというありがたい御牛様です。

神牛像

これと同じような霊験あらたかな牛は、隅田川墨堤の牛嶋神社の境内にも置かれています。

「亀戸」だけに天神社の池は亀だらけ

そしていよいよ本社殿ですが、以前のブログの中でもご紹介したのですが、社殿の甍越しにあのスカイツリーが聳えているんですね。以前よりもさらに成長しています。今日も大好きなスカイツリーの姿を天神社境内で激写してきました。
ほんとうに間近に迫るように聳えています。社殿の甍とスカイツリーの組み合わせは、時の流れを超えて新旧の時代の変遷を感じさせてくれます。

本社殿とツリー 

男橋の欄干の宝珠とツリー 

大鳥居脇の石燈篭とツリー





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お江戸大川・永代橋東西詰歴史点描【お江戸深川・日本橋】

2010年10月06日 14時27分00秒 | 江東区・歴史散策
江戸城大手門から真っ直ぐに延びる永代通りは大川(隅田川)に至り、下総の国へとさらにつづいていく江戸の頃からの幹線道路。大川(隅田川)を超えると、深川の総鎮守として江戸時代から庶民から親しまれてきた富岡八幡宮が社殿を構えています。

その大川(隅田川)を跨いでご府内と深川を結ぶ橋が「永代橋」です。永代橋が最初に架橋されたのはお江戸の元禄11年(1698)の頃。上野寛永寺本堂の材木を使い第5代将軍綱吉公の50歳の祝い橋として架けられたと言います。
そして歴史の出来事の中でよく取り上げられるのが、架橋後4年の元禄15年(1703)師走の14日に起こったあの赤穂浪士の吉良邸討ち入りの後、この永代橋を渡ってご府内へと歩を進めた橋として知られているんです。橋の近くには赤穂義士休息地の碑も立っています。

また文化4年(1807)には12年ぶりに行われた富岡八幡宮の祭礼に訪れた多くの見物人の重さで橋の一部が落ち、多数の死者(記録によると1,500人の死者)がでたという大惨事があったこともこの橋を有名にしています。こんな大惨事をこんなふざけた狂歌で茶化した人もいたんですね。
永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼」(太田南畝作)

まあ、こんな橋なんですが現在の橋は関東大震災後の大正15年に震災復興事業の第一号として架橋されたものです。

江東区側東詰からみた永代橋

さてこの永代橋の東詰めの永代通りに面した歩道脇に幕末の兵学者・思想家として著名な「佐久間象山」の砲術塾跡の標識が立っています。へえ~、こんなところにあったんだ。という感じです。

佐久間象山砲術塾跡標識

ぺりーが浦賀に来航する前の嘉永3年(1850)7月から12月までここ深川小松町(永代1-14)の真田藩下屋敷で諸藩の藩士らに西洋砲術を教えた場所なのです。当時は諸外国に対しての防衛のため、軍事力の強化を図るうえで西洋流の砲術が急速に広まりつつある時代だったのです。
象山の門人には吉田松陰、坂本龍馬、橋本佐内、勝海舟をはじめ、幕末の歴史を彩った多くの人がいました。その後、深川から木挽町(中央区)に移り、再び砲術塾を開きました。

江東区側の東詰めからみる中央区側の景色は隅田川を境に、さすが都心と思わせるスカイラインが広がっています。中央区河岸で一番目立つ建物はIT産業の牙城「IBM」の本社でしょう。

隅田川右岸に建つIBM本社

橋上から眺める隅田川は上流には箱崎のジャンクションとその向こうにチラッと見える清洲橋の姿が印象的です。そして下流には二股に分かれる隅田川の広がりと石川島に架かる中央大橋のモダンなシルエットがまるで絵葉書のように浮き上がっています。

お江戸の時代、大川(隅田川)はここ永代橋をくぐったあたりで江戸湾に流れ込んでいました。いまでこそ東京湾は遥か南へと後退していますが、かつて江戸時代には永代橋付近も豊かな漁場で、すぐそばの石川島や佃島周辺で白魚が豊富に獲れたことで知られています。
よく言う「江戸前の海」はこの永代橋付近の場所を指していたのです。
そんな豊かな漁場である江戸前の海から獲れた魚は船で日本橋の魚河岸へと運ばれていったのですが、永代橋からみると、魚河岸への水路として利用されていた平川(日本橋川)の注ぎ口は永代橋とほぼ隣接している位置にあるんです。

日本橋川口から永代橋を臨む

江戸時代にはこの永代橋からさほど離れていない上流地域(現在の清洲橋西詰辺り)は三ツ又と呼ばれる砂洲があったことろで、きっと葦が生い茂る場所だったのではないでしょうか。

この三ツ又にはこんな悲しい話が残っています。
伊達騒動事件の元となった、高尾太夫のお話なのですが、仙台藩主伊達綱宗(つなむね、1711没)が、妓楼三浦屋の高尾太夫を7800両で身請けしたが、太夫は約束した好きな男、島田重三郎に操をたてて応じなかったのです。いやがる太夫を船に乗せて、隅田川を下り屋敷へと戻る途中、太夫の態度に怒った綱宗は隅田川三ツ股(永代橋上流)で太夫を裸にして、両足を舟の梁に縛り、首をはねる”逆さ吊り”にして切り捨ててしまったのです。しかし、一説によると高尾太夫は身請けされ、のちに仙台の仏眼寺(ぶつげんじ)に葬られたとも言われていますが…。

実は高尾太夫はお江戸東淺草の春慶院に静かに眠っています。寺院が多く集る東浅草の一角にあるあまり目立たないお寺です。門前には高尾太夫の墓があることすら表示されていません。本堂の右手奥に墓地が併設されているので、進んでいくと、墓地の入口の手前に高尾太夫の墓がぽつねんとした佇まいで置かれています。

春慶院

高尾太夫説明書

春慶院が妓楼の遊女たちの投込み寺であったとは聞いていませんが、俗に言う投込み寺では、いくら太夫の墓であっても他の墓とは隔絶したような場所に「ぽつん」と置かれている事が多いのです。これは生きても地獄、死しても遊女であったことでの差別を受けていたために、檀家としての扱いを受けられなかったのではないでしょうか。
そんな哀れな境遇を現しているかのように、寂しい雰囲気が伝わってきます。

仙台高尾墓

その遺体が数日後、当地大川端の北新堀河岸に漂着します。当時そこに庵を構えていた僧がその遺体を引き揚げて手厚く葬ったといわれる。高尾の可憐な末路に広く人々の同情が集まり、そこに社を建て彼女の神霊高尾大明神を祀り高尾稲荷社としたというのが当社の起縁なのですが、この祠がIBM本社からさほど離れていない民家の脇に置かれています。稲荷社としては全国でも非常に珍しく、実体の神霊(実物の頭骸骨)を祭神として社の中に安置してあります。

 

高尾稲荷

こんな隠れた稲荷社が永代橋西にあるのですが、機会があれば是非お参りに訪れてみてはいかがですか。





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目立たないけど、それなりに癒される御城の御門跡【お江戸日本橋・常磐橋御門】

2010年10月06日 12時13分08秒 | 中央区・歴史散策
お江戸日本橋の下を流れる日本橋川(旧平川)に沿って上流方向へ少し歩くと、日本銀行本店の重厚な建物が現われてきます。その日本銀行本店に沿った日本橋川に架かる眼鏡橋(アーチ型)が常磐橋なのですが、実は「ときわ橋」と名付けられた橋がつづけざまに3つ順番に並んでいるんです。

日本橋寄りにまず現われるのが最初の「常盤橋」。次に「常磐橋」。その次に「新常盤橋」という順なのですが、本日のお題の「御門跡」は2番目の「常磐橋」です。すでにお気付きかと思いますが、常磐(盤)の字が違っているんです。

日本橋川に架かる常磐橋

この2番目の常磐橋は江戸城大手門外郭の正面に当たる場所で、江戸初期には浅草門又は大手口と呼ばれ奥州街道に通じる重要な場所だったのです。その後、ここに御門が設けられ常盤橋御門と呼ばれるようになりました。
江戸時代は木造の橋だったのですが、維新後の明治10年に薩摩藩の石工たちの手により様式の石橋に作りかえられています。明治時代に架けられた石造アーチ橋で、今なお現存するものは常磐橋だけです。現在は車の通行ができない歩行専用の橋として使われています。



そして橋を渡ると重厚な石垣が左右に構えています。この石垣がかつての常磐橋御門の跡です。江戸城を囲む濠には江戸五口と呼ばれていた門があります。五口とはお江戸から延びる街道へ通ずる口という意味です。
ちなみに次の五口がありました。田安門(上州道)、神田橋門(柴崎口)、半蔵門(甲州道)、外桜田門(小田原口・旧東海道)と常磐橋御門です。

 



この門構えは典型的な枡形を形どり、かつては御門の入口に冠門が置かれ、その門を入ると石塁を跨ぐように渡櫓が架けられていました。現在、江戸城の枡形門をご覧になるのであれば、あの有名な外桜田門と大手門をお勧めします。

かつては堂々とした枡形門の姿があったこの場所ですが、今は人知れず静かな佇まいを見せています。というのも東京のど真ん中に位置し、大手町のビル群を間近に見るこの場所ですが、沢山の人で賑わっているわけではありません。都会の中の、忘れ去られた江戸の名残りといった雰囲気を漂わせる場所で、周囲の喧騒から遮断された「癒し」の場所になっている感がします。

尚、この常磐橋の下流に架けられているもう一つの「常盤橋」にまつわるこんな話があります。
大正12年の関東大震災後のお話です。震災によりこの日本橋周辺の建物も甚大な被害を受けています。そんな中で、当時の三井本館も相当な被害を受け、新たに立て直すことになったのですが、その際にアメリカで作らせた巨大な地下金庫の扉を新社屋に搬入することになりました。その金庫の扉なのですが、その重さがなんと50トンという代物。船で運ばれたこの巨大な扉は港から陸路で日本橋まで運ぶ予定だったのですが、その際に日本橋の上を通らざるを得なかったのです。しかし、あまりの重さのため日本橋の上を通ることが許可されませんでした。このため巨大な扉は船に乗せられ、常盤橋の袂まで運ばれ、陸揚げされたとのこと。
その後、コロの原理で三井本館へと運ばれていったとのことです。ちなみにここで言う「三井本館」は現在、三越の並びにたつ中央三井信託銀行と三井住友銀行の建物です。
尚、この巨大地下金庫扉は現在も中央三井信託銀行の地下に「ドン」と鎮座しています。





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懐かしい響き・大川端柳橋から大橋(両国橋)に江戸の風情を求めて【柳橋・両国広小路】

2010年10月05日 17時50分46秒 | 中央区・歴史散策
大川端から猪牙舟乗って、目指すは吉原桃源郷。
夜風に揺れる柳の枝に、今宵の遊女の首尾願う。

なんて戯れ言がつい口にでてきそうな柳橋界隈。
武蔵野の井の頭を水源とする神田川が長い旅を終え、大川(隅田川)に注ぎ込む手前に、花柳界で知れた「柳橋」がある。この柳橋の地は江戸時代の明暦の大火(1657年)の後に架けられた両国橋の西詰に造られた日除け地、すなわち広小路に隣接した場所。そしてこの両国広小路は当時、浅草に引けをとらないくらいの繁華街で江戸庶民の歓楽地として賑わいを見せていたのです。そんな場所に隣接しているわけで、当然花街として料亭が軒を連ね、色香漂う芸者衆が夜毎、お座敷を盛り上げていたんですね。

両国西広小路跡碑

江戸を代表する花町「柳橋」は幕末、明治そして大正と、浅草、向島と並ぶ一流芸者を抱える場所として多くの旦那衆に愛されていたのです。しかし昭和40年以降は再開発の波に押され、料亭が姿を消していきます。

今、私たちが見る柳橋界隈の景色は神田川に架かる緑色の「柳橋」と橋の袂に残る船宿そして神田川に係留されているたくさんの屋形船が下町の風情をわずかながら感じさせてくれます。

柳の木と柳橋

そんな柳橋の袂に橋の由来についての碑が建てられています。その碑面に正岡子規がよんだこんな句が彫りこまれています。
「春の夜や 女見返る 柳橋」
なんとも色っぽい雰囲気を漂わせる花街・柳橋にぴったりの句です。

柳橋の由来碑

そして柳橋の欄干にはこれまた花街らしいレリーフが施されているんです。よく見ると芸者さんの髷を飾る「かんざし」を形どったレリーフです。



橋の袂にある船宿兼佃煮屋さんである「小松屋さん」のご主人から少しお話を伺いました。
明治の中頃からこの場所で船宿を営んでいるとのこと。橋の袂にある可愛らしい佃煮屋さんですが、あさり、生あみ、しらすなどの佃煮と今でも江戸前の穴子を使った濃い目の味付けが自慢の佃煮などが店先に並んでいます。ちょうど築地から仕入れてきた穴子を店の厨房で煮込んでいるのを見せていただきました。厨房に入るや否や佃煮の甘い香りが漂い、その匂いをおかずにご飯が食べられるくらいな芳しさでした。
柳橋に寄ったら是非、自慢の佃煮をお買い求めください。

柳橋袂の佃煮屋「小松屋さん」

小松屋さんの店内

江戸前のあなごの佃煮調理中

さて、柳橋から両国橋は目と鼻の先。かつての両国西の広小路を横切るとそこは大川を跨ぐ大きな橋「両国橋」です。江戸時代の両国橋は100mほど下流に架けられていましたが、現在の橋は昭和7年に架橋されたものです。橋上に2ヶ所の膨らみを設けているのですが、この膨らみはちょうど相撲の土俵を形どっています。橋を渡るとそこは大相撲の聖地「両国の国技館」が待っています。

両国橋上の土俵

また橋の上の歩道と車道を区切る欄干には、両国の花火、行司の軍配、両国国技館をあしらったレリーフが施されているんです。機会があったらご覧になってください。

欄干に施された軍配のレリーフ

橋を渡りきって、河岸の堤防へ下りることができます。その堤防の壁に隅田川や両国橋界隈の季節の行事などを描いた江戸時代の浮世絵や錦絵が10枚ほど掲げられています。かなり大きなもので、当時の賑わいや風俗などが描かれたもので、見ているだけで十分に楽しめるものです。



両国橋をあとにすると、本所回向院はもう間近。こうなったら鼠小僧・次郎吉の墓参りでも…と行ってみました。墓石の前に「お前立ち」と呼ばれる石柱が立っていますが、この石を削って持っていると金運、勝負運に強くなると言われているんですね。都内にある一二を争うパワースポットで~す。

鼠小僧・次郎吉の墓





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姫様輿入れのための高貴な門、今じゃ誰もが羨む狭き門【東大本郷キャンパス・赤門余話】

2010年10月04日 16時40分38秒 | 文京区・歴史散策
本郷通りの銀杏並木は緑濃い葉が青々と繁っている。日曜日の昼下がり、人影がまばらな銀杏並木を本郷三丁目から東大のランドマークの一つ、赤門へと向かう。もう一つのランドマークはやはり「安田講堂」である。



まず最初に本郷の東大キャンパスといっても、とてつもなく広い。一般的に赤門があるキャンパスを本郷キャンパス、そして北側の弥生キャンパス、更に本郷キャンパスの東北に位置する浅野キャンパスと3つのエリアから構成され、その広さなんと16万坪の敷地を有し、延べ床面積90万㎡の建物群が配置されている。
9つの学部が本郷の各キャンパスに置かれ、学生と教職員合計で約2万人が暮らす「街」が形成されている。「街」の中にはコンビニが5店(その内ローソンが3店)、食堂・レストラン(コーヒーショップを含む)が21軒、生協購買部・書籍部などが6軒、そのほか旅行会社、理髪店、花屋、銀行ATM、郵便局などが配置され、キャンパス内での生活を支えている。

こんな東大キャンパスであるが、ご存知のようにお江戸の時代には加賀100万石の雄藩である前田家の上屋敷があった場所。歴史を紐解くと、元和元年(1615)に前田利常が幕府から拝領した土地なのです。
その後、慶応3年(1687)の大政奉還で幕府が崩壊する260年間に渡って、前田家がこの場所に屋敷を構えていたのです。
今でこそ都心の一等地なのですが、お江戸の時代にはこの場所は内郭の外にあり、かなり遠ざけられた場所だったのです。それもそのはず前田家は徳川にとっては外様扱い。そのため内郭から離れたこの場所に屋敷地を与えられたのです。ちなみに同じ外様の雄藩である薩摩の島津家も内郭から遠く離れた芝の増上寺に近い場所だったことを考えると、外様大名を信用していなかった徳川の腹の内が読めてきます。とは言っても、いくら外様であっても前田家に対しては一目を置いていたのは事実のようでございました。

そんな歴史を持つ東大本郷キャンパスにあたかも正門であるかのようにその姿を見せるのが「赤門」です。見ての通り、武家屋敷然とした門構えです。実はこの門、時は遡る事江戸時代の文政10年(1827)に造られています。ちょうど第11代将軍家斉公の御世です。



家斉公と言えば16人の妻妾を持ち、なんと男子26人、女子27人を儲けた将軍として有名なのですが、この中の21女である「溶姫様」が前田家の斉泰公に嫁ぐ際に造られたのがこの「赤門」でございます。門を朱色に塗る云われは、将軍家から夫人をお迎えする場合の習慣であったらしいのですが、このような喜ばしい催事で造られた御門で唯一現存しているのが、ここ東大の赤門だけと言います。当然、国の重要文化財に指定されています。国宝ではないので、門をくぐることもできれば、手で触ることもできます。
門の様式は三間薬医門というらしい。薬医門を調べてみると、主柱と控え柱の計4本の柱の上に冠木や梁などを組み合わせ その上に切妻屋根を組む形式のことを指すようです。左右に番所を配しています。


内側から見た赤門:薬医門の構造がよく分かる

世が世であれば、おいそれとくぐれない高貴な御門。時代が変わり、今は東大の御門。それはそれで誰もが羨む「狭き門」の象徴である。





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