浅草、上野とお江戸の代表的な「時の鐘」を別ページで紹介しましたが、シリーズ第3弾として日本橋石町の鐘を探してきました。とは言ってもこの鐘は本来の場所である石町ではなく、現在の地名である日本橋小伝馬町の一角に置かれています。かつての石町は小伝馬町から2丁(約180m)ほどの離れた場所にあった地名です。
それでは簡単に石町の鐘の変遷をお教えいたしましょう。
実はお江戸の時の鐘の始まりは開幕初期に遡ります。お江戸の大普請が始まる頃(1603年以降)、時の鐘は城鐘としてなんと江戸城内に置かれていたのです。慶長から元和へと時代が移り、城内で鐘撞きがうるさいということで、第2代秀忠公の御世にこの城鐘を内郭の外の日本橋石町に移したと記録されています。その際に新たに鐘を鋳造し鐘楼を造ったのが、江戸で最初の「時の鐘」とされています。 そして幕末まで日本橋石町で江戸の町に時を知らせていたわけです。維新後は時の鐘は廃止され、昭和5年に石町から小伝馬町の十思公園内に移設されました。
さて現在の地下鉄日比谷線小伝馬町の駅は賑やかな江戸通りに面した大きな交差点角に位置しています。江戸時代には幕府の牢屋があった場所としてよく知られている場所なんですね。
地下鉄駅出口から秋葉原方面に50mほど進むと左手に「大安楽院」が現われてきます。この大安楽院が建っている場所が江戸時代の牢屋敷があった場所で、その牢屋敷の中でも斬首刑を行っていた最も忌まわしい場所なのです。
大安楽院
維新後、牢屋敷の跡地はその祟りを恐れて誰も住むことなく、荒れ果てていたと言います。そんな状況を知ってか明治の財界の大物であった大倉喜八郎と安田善次郎が明治15年に寄進したのが、この大安楽院なのです。
だからお二人の名前の頭をとって「大安楽院」となったとのことです。
大安楽院の境内はそれほど広くはありません。狭い境内を取り囲む塀に挟まれるように「江戸伝馬町処刑場跡」と赤い文字で刻まれた石柱がなんとも薄気味悪く立てられています。
「江戸伝馬町処刑場跡」の石柱
また境内の中にも「江戸伝馬町牢御�頂場跡」の石柱が寂しげに立てられています。そして「江戸伝馬町牢御�頂場跡」のすぐ脇に祀られている。
「江戸伝馬町牢御�頂場跡」の石柱
延命地蔵の台座には山岡鉄舟の筆になる「為囚死群霊離苦得脱」という文字が刻まれています。「刑死したものたちの霊よ、苦しみを離れ、解脱を得よ」との意味なのでしょうか。更には牢屋敷の石積みに使われていた石が境内の隅に寂しく置かれています。
牢屋敷の石積の石
この大安楽院の正面門の路地を隔てて比較的広い公園があります。十思公園(じっし)と呼ばれています。この場所もかつての牢屋敷の敷地の一部だったのですが、この公園の中央部に、近代的なコンクリートの棟があって、その棟の上に大きな鐘が吊されているんです。
この鐘がかつて石町にあった江戸時代の「時の鐘」なのです。棟の上には螺旋階段で登っていけるようになっているようなのですが、残念ながら階段の入口は施錠され登っていくことはできません。
こんな云われのある十思公園にはこんな方の記念碑が公園の奥の木々に囲まれた薄暗い場所に置かれています。時は幕末、あの安政の大獄で捕縛され、伝馬町の牢屋敷で斬首刑となった「吉田松陰」の終焉の地と刻まれた碑石がひっそりと佇んでいます。
吉田松蔭終焉の地の石碑
安政の大獄では吉田松蔭の他に橋本左内、頼三樹三郎を含め100人近い勤皇志士が伝馬町の牢屋敷で露と消えていったのです。
忌まわしい刑が行われたかつての牢屋敷の敷地であったこの場所に移設された「時の鐘」は無念の情を抱いて旅立った方々の魂を鎮魂するかのように静かな公園の中にその姿を残していました。
尚、江戸時代には市中9ヶ所に時の鐘が置かれていたといいます。すでにブログで紹介した浅草浅草寺、上野寛永寺の他に、赤坂円通寺、市ヶ谷八幡宮境内、目白不動尊境内、四谷天龍寺、芝切通し、本所横川町と日本橋石町です。そして現在まで残っている鐘は上野寛永寺、浅草浅草寺、日本橋石町と四谷天龍寺の4鐘です。
近い内に四谷天龍寺の時の鐘を取材する予定です。
お江戸の時を告げた「鐘」探し【その1・お江戸浅草時の鐘】
お江戸の時を告げた「鐘」探し【その2・お江戸上野の山・旧寛永寺境内】
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それでは簡単に石町の鐘の変遷をお教えいたしましょう。
実はお江戸の時の鐘の始まりは開幕初期に遡ります。お江戸の大普請が始まる頃(1603年以降)、時の鐘は城鐘としてなんと江戸城内に置かれていたのです。慶長から元和へと時代が移り、城内で鐘撞きがうるさいということで、第2代秀忠公の御世にこの城鐘を内郭の外の日本橋石町に移したと記録されています。その際に新たに鐘を鋳造し鐘楼を造ったのが、江戸で最初の「時の鐘」とされています。 そして幕末まで日本橋石町で江戸の町に時を知らせていたわけです。維新後は時の鐘は廃止され、昭和5年に石町から小伝馬町の十思公園内に移設されました。
さて現在の地下鉄日比谷線小伝馬町の駅は賑やかな江戸通りに面した大きな交差点角に位置しています。江戸時代には幕府の牢屋があった場所としてよく知られている場所なんですね。
地下鉄駅出口から秋葉原方面に50mほど進むと左手に「大安楽院」が現われてきます。この大安楽院が建っている場所が江戸時代の牢屋敷があった場所で、その牢屋敷の中でも斬首刑を行っていた最も忌まわしい場所なのです。
大安楽院
維新後、牢屋敷の跡地はその祟りを恐れて誰も住むことなく、荒れ果てていたと言います。そんな状況を知ってか明治の財界の大物であった大倉喜八郎と安田善次郎が明治15年に寄進したのが、この大安楽院なのです。
だからお二人の名前の頭をとって「大安楽院」となったとのことです。
大安楽院の境内はそれほど広くはありません。狭い境内を取り囲む塀に挟まれるように「江戸伝馬町処刑場跡」と赤い文字で刻まれた石柱がなんとも薄気味悪く立てられています。
「江戸伝馬町処刑場跡」の石柱
また境内の中にも「江戸伝馬町牢御�頂場跡」の石柱が寂しげに立てられています。そして「江戸伝馬町牢御�頂場跡」のすぐ脇に祀られている。
「江戸伝馬町牢御�頂場跡」の石柱
延命地蔵の台座には山岡鉄舟の筆になる「為囚死群霊離苦得脱」という文字が刻まれています。「刑死したものたちの霊よ、苦しみを離れ、解脱を得よ」との意味なのでしょうか。更には牢屋敷の石積みに使われていた石が境内の隅に寂しく置かれています。
牢屋敷の石積の石
この大安楽院の正面門の路地を隔てて比較的広い公園があります。十思公園(じっし)と呼ばれています。この場所もかつての牢屋敷の敷地の一部だったのですが、この公園の中央部に、近代的なコンクリートの棟があって、その棟の上に大きな鐘が吊されているんです。
この鐘がかつて石町にあった江戸時代の「時の鐘」なのです。棟の上には螺旋階段で登っていけるようになっているようなのですが、残念ながら階段の入口は施錠され登っていくことはできません。
こんな云われのある十思公園にはこんな方の記念碑が公園の奥の木々に囲まれた薄暗い場所に置かれています。時は幕末、あの安政の大獄で捕縛され、伝馬町の牢屋敷で斬首刑となった「吉田松陰」の終焉の地と刻まれた碑石がひっそりと佇んでいます。
吉田松蔭終焉の地の石碑
安政の大獄では吉田松蔭の他に橋本左内、頼三樹三郎を含め100人近い勤皇志士が伝馬町の牢屋敷で露と消えていったのです。
忌まわしい刑が行われたかつての牢屋敷の敷地であったこの場所に移設された「時の鐘」は無念の情を抱いて旅立った方々の魂を鎮魂するかのように静かな公園の中にその姿を残していました。
尚、江戸時代には市中9ヶ所に時の鐘が置かれていたといいます。すでにブログで紹介した浅草浅草寺、上野寛永寺の他に、赤坂円通寺、市ヶ谷八幡宮境内、目白不動尊境内、四谷天龍寺、芝切通し、本所横川町と日本橋石町です。そして現在まで残っている鐘は上野寛永寺、浅草浅草寺、日本橋石町と四谷天龍寺の4鐘です。
近い内に四谷天龍寺の時の鐘を取材する予定です。
お江戸の時を告げた「鐘」探し【その1・お江戸浅草時の鐘】
お江戸の時を告げた「鐘」探し【その2・お江戸上野の山・旧寛永寺境内】
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