大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

お江戸大川・永代橋東西詰歴史点描【お江戸深川・日本橋】

2010年10月06日 14時27分00秒 | 江東区・歴史散策
江戸城大手門から真っ直ぐに延びる永代通りは大川(隅田川)に至り、下総の国へとさらにつづいていく江戸の頃からの幹線道路。大川(隅田川)を超えると、深川の総鎮守として江戸時代から庶民から親しまれてきた富岡八幡宮が社殿を構えています。

その大川(隅田川)を跨いでご府内と深川を結ぶ橋が「永代橋」です。永代橋が最初に架橋されたのはお江戸の元禄11年(1698)の頃。上野寛永寺本堂の材木を使い第5代将軍綱吉公の50歳の祝い橋として架けられたと言います。
そして歴史の出来事の中でよく取り上げられるのが、架橋後4年の元禄15年(1703)師走の14日に起こったあの赤穂浪士の吉良邸討ち入りの後、この永代橋を渡ってご府内へと歩を進めた橋として知られているんです。橋の近くには赤穂義士休息地の碑も立っています。

また文化4年(1807)には12年ぶりに行われた富岡八幡宮の祭礼に訪れた多くの見物人の重さで橋の一部が落ち、多数の死者(記録によると1,500人の死者)がでたという大惨事があったこともこの橋を有名にしています。こんな大惨事をこんなふざけた狂歌で茶化した人もいたんですね。
永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼」(太田南畝作)

まあ、こんな橋なんですが現在の橋は関東大震災後の大正15年に震災復興事業の第一号として架橋されたものです。

江東区側東詰からみた永代橋

さてこの永代橋の東詰めの永代通りに面した歩道脇に幕末の兵学者・思想家として著名な「佐久間象山」の砲術塾跡の標識が立っています。へえ~、こんなところにあったんだ。という感じです。

佐久間象山砲術塾跡標識

ぺりーが浦賀に来航する前の嘉永3年(1850)7月から12月までここ深川小松町(永代1-14)の真田藩下屋敷で諸藩の藩士らに西洋砲術を教えた場所なのです。当時は諸外国に対しての防衛のため、軍事力の強化を図るうえで西洋流の砲術が急速に広まりつつある時代だったのです。
象山の門人には吉田松陰、坂本龍馬、橋本佐内、勝海舟をはじめ、幕末の歴史を彩った多くの人がいました。その後、深川から木挽町(中央区)に移り、再び砲術塾を開きました。

江東区側の東詰めからみる中央区側の景色は隅田川を境に、さすが都心と思わせるスカイラインが広がっています。中央区河岸で一番目立つ建物はIT産業の牙城「IBM」の本社でしょう。

隅田川右岸に建つIBM本社

橋上から眺める隅田川は上流には箱崎のジャンクションとその向こうにチラッと見える清洲橋の姿が印象的です。そして下流には二股に分かれる隅田川の広がりと石川島に架かる中央大橋のモダンなシルエットがまるで絵葉書のように浮き上がっています。

お江戸の時代、大川(隅田川)はここ永代橋をくぐったあたりで江戸湾に流れ込んでいました。いまでこそ東京湾は遥か南へと後退していますが、かつて江戸時代には永代橋付近も豊かな漁場で、すぐそばの石川島や佃島周辺で白魚が豊富に獲れたことで知られています。
よく言う「江戸前の海」はこの永代橋付近の場所を指していたのです。
そんな豊かな漁場である江戸前の海から獲れた魚は船で日本橋の魚河岸へと運ばれていったのですが、永代橋からみると、魚河岸への水路として利用されていた平川(日本橋川)の注ぎ口は永代橋とほぼ隣接している位置にあるんです。

日本橋川口から永代橋を臨む

江戸時代にはこの永代橋からさほど離れていない上流地域(現在の清洲橋西詰辺り)は三ツ又と呼ばれる砂洲があったことろで、きっと葦が生い茂る場所だったのではないでしょうか。

この三ツ又にはこんな悲しい話が残っています。
伊達騒動事件の元となった、高尾太夫のお話なのですが、仙台藩主伊達綱宗(つなむね、1711没)が、妓楼三浦屋の高尾太夫を7800両で身請けしたが、太夫は約束した好きな男、島田重三郎に操をたてて応じなかったのです。いやがる太夫を船に乗せて、隅田川を下り屋敷へと戻る途中、太夫の態度に怒った綱宗は隅田川三ツ股(永代橋上流)で太夫を裸にして、両足を舟の梁に縛り、首をはねる”逆さ吊り”にして切り捨ててしまったのです。しかし、一説によると高尾太夫は身請けされ、のちに仙台の仏眼寺(ぶつげんじ)に葬られたとも言われていますが…。

実は高尾太夫はお江戸東淺草の春慶院に静かに眠っています。寺院が多く集る東浅草の一角にあるあまり目立たないお寺です。門前には高尾太夫の墓があることすら表示されていません。本堂の右手奥に墓地が併設されているので、進んでいくと、墓地の入口の手前に高尾太夫の墓がぽつねんとした佇まいで置かれています。

春慶院

高尾太夫説明書

春慶院が妓楼の遊女たちの投込み寺であったとは聞いていませんが、俗に言う投込み寺では、いくら太夫の墓であっても他の墓とは隔絶したような場所に「ぽつん」と置かれている事が多いのです。これは生きても地獄、死しても遊女であったことでの差別を受けていたために、檀家としての扱いを受けられなかったのではないでしょうか。
そんな哀れな境遇を現しているかのように、寂しい雰囲気が伝わってきます。

仙台高尾墓

その遺体が数日後、当地大川端の北新堀河岸に漂着します。当時そこに庵を構えていた僧がその遺体を引き揚げて手厚く葬ったといわれる。高尾の可憐な末路に広く人々の同情が集まり、そこに社を建て彼女の神霊高尾大明神を祀り高尾稲荷社としたというのが当社の起縁なのですが、この祠がIBM本社からさほど離れていない民家の脇に置かれています。稲荷社としては全国でも非常に珍しく、実体の神霊(実物の頭骸骨)を祭神として社の中に安置してあります。

 

高尾稲荷

こんな隠れた稲荷社が永代橋西にあるのですが、機会があれば是非お参りに訪れてみてはいかがですか。





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目立たないけど、それなりに癒される御城の御門跡【お江戸日本橋・常磐橋御門】

2010年10月06日 12時13分08秒 | 中央区・歴史散策
お江戸日本橋の下を流れる日本橋川(旧平川)に沿って上流方向へ少し歩くと、日本銀行本店の重厚な建物が現われてきます。その日本銀行本店に沿った日本橋川に架かる眼鏡橋(アーチ型)が常磐橋なのですが、実は「ときわ橋」と名付けられた橋がつづけざまに3つ順番に並んでいるんです。

日本橋寄りにまず現われるのが最初の「常盤橋」。次に「常磐橋」。その次に「新常盤橋」という順なのですが、本日のお題の「御門跡」は2番目の「常磐橋」です。すでにお気付きかと思いますが、常磐(盤)の字が違っているんです。

日本橋川に架かる常磐橋

この2番目の常磐橋は江戸城大手門外郭の正面に当たる場所で、江戸初期には浅草門又は大手口と呼ばれ奥州街道に通じる重要な場所だったのです。その後、ここに御門が設けられ常盤橋御門と呼ばれるようになりました。
江戸時代は木造の橋だったのですが、維新後の明治10年に薩摩藩の石工たちの手により様式の石橋に作りかえられています。明治時代に架けられた石造アーチ橋で、今なお現存するものは常磐橋だけです。現在は車の通行ができない歩行専用の橋として使われています。



そして橋を渡ると重厚な石垣が左右に構えています。この石垣がかつての常磐橋御門の跡です。江戸城を囲む濠には江戸五口と呼ばれていた門があります。五口とはお江戸から延びる街道へ通ずる口という意味です。
ちなみに次の五口がありました。田安門(上州道)、神田橋門(柴崎口)、半蔵門(甲州道)、外桜田門(小田原口・旧東海道)と常磐橋御門です。

 



この門構えは典型的な枡形を形どり、かつては御門の入口に冠門が置かれ、その門を入ると石塁を跨ぐように渡櫓が架けられていました。現在、江戸城の枡形門をご覧になるのであれば、あの有名な外桜田門と大手門をお勧めします。

かつては堂々とした枡形門の姿があったこの場所ですが、今は人知れず静かな佇まいを見せています。というのも東京のど真ん中に位置し、大手町のビル群を間近に見るこの場所ですが、沢山の人で賑わっているわけではありません。都会の中の、忘れ去られた江戸の名残りといった雰囲気を漂わせる場所で、周囲の喧騒から遮断された「癒し」の場所になっている感がします。

尚、この常磐橋の下流に架けられているもう一つの「常盤橋」にまつわるこんな話があります。
大正12年の関東大震災後のお話です。震災によりこの日本橋周辺の建物も甚大な被害を受けています。そんな中で、当時の三井本館も相当な被害を受け、新たに立て直すことになったのですが、その際にアメリカで作らせた巨大な地下金庫の扉を新社屋に搬入することになりました。その金庫の扉なのですが、その重さがなんと50トンという代物。船で運ばれたこの巨大な扉は港から陸路で日本橋まで運ぶ予定だったのですが、その際に日本橋の上を通らざるを得なかったのです。しかし、あまりの重さのため日本橋の上を通ることが許可されませんでした。このため巨大な扉は船に乗せられ、常盤橋の袂まで運ばれ、陸揚げされたとのこと。
その後、コロの原理で三井本館へと運ばれていったとのことです。ちなみにここで言う「三井本館」は現在、三越の並びにたつ中央三井信託銀行と三井住友銀行の建物です。
尚、この巨大地下金庫扉は現在も中央三井信託銀行の地下に「ドン」と鎮座しています。





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