大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

私本東海道五十三次道中記 第28回 第3日目 岡崎から知立手前の来迎寺公園へ

2015年09月07日 07時51分43秒 | 私本東海道五十三次道中記


岡崎城天守

さあ!第三日目が始まります。私たちは昨日の行程で岡崎城下(宿)の西のはずれの「松葉総門跡」を抜けて、お城からおよそ8丁の距離の八丁の里に味噌蔵を構える八丁味噌のカクキュウに到着しました。



本日の出立はここ八丁味噌の郷「カクキュウ」の駐車場です。私たちは駐車場からいったん国道1号線へ出て、カクキュウの敷地沿いに進んでいきます。

実はカクキュウの敷地裏手は「蔵造りの町並み」という細い路地になっており、白壁と黒塀の美しいコントラストを見せる蔵がつづく趣ある雰囲気を漂わす道筋です。
さあ!そんな道筋へと入っていきましょう。

蔵造りの町並み
蔵造りの町並み
蔵造りの町並み
蔵造りの町並み

160mほどの細い路地ですが、古い時代に戻ってしまったかのような雰囲気を醸し出しています。
蔵造りの町並みの道筋が終わるT字路の角に置かれているのが「NHK純情きらり」の記念碑が置かれています。



「蔵造りの町並み」はカクキュウの敷地が途切れるまでつづきます。途切れたところがT字路になっていますので、これを右折して矢作川が流れる方向へと進んでいきます。

そして小さな四つ角にさしかかると、その角に昭和61年に建てられた、「左江戸、右西京」と刻まれた道標が立っています。
東海道はここを右折して進んで行きます。そして国道1号線といったん合流します。私たちは国道1号の下をくぐる地下道を使って、反対側へ渡ることにします。反対側にでたら、そのまま「矢作橋」方面へと進んでいきましょう。
現在の矢作橋は平成23年(2011)に完成した16代目にあたります。橋の長さは300mです。

江戸時代の慶長6年(1601)頃に架けられた矢作橋は現在の場所から100mほど下流で、その長さは75間(約136m)の土橋でした。その後、三代将軍家光の時代の寛永11年(1634)に将軍上洛に際して、長さ208間(約347m)の板橋が架橋され、東海道随一の長さを誇りました。

この寛永11年(1634)の架橋を第1回とすると、江戸時代を通じて9回の架け替えと14回の修復工事が行われました。幕末の安政2年(1855)の大洪水で橋が流失してから明治10年(1877)までの22年間は橋が架けられず、舟渡しが行われました。このため明治元年(1868)の明治天皇の江戸(東京)への行幸の際は、舟橋を利用したとあります。それでは岡崎の市街を後方に眺めながら、橋を渡っていきましょう。

橋を渡りきると、橋の袂に「槍を持つ武士と子供の像」が置かれています。
鉄道唱歌に「見よや徳川家康の おこりし土地の岡崎を 矢矧の橋に残れるは 藤吉郎のものがたり」と謳われているように、矢矧川(矢矧橋)は日吉丸と蜂須賀小六が初めて出会った場所として知られています。そんな話が残る橋の袂に「槍を持つ武士と子供の像」が置かれています。当然、像のモデルは日吉丸(豊臣秀吉の幼名)と阿波蜂須賀小六です。この二人がこの橋(河岸)で運命の出会いをしたことから「出会いの像」と呼ばれています。

槍を持つ武士と子供の像

ただ史実から言うと、日吉丸と小六が出会った当時は橋は架けられていなかったと推察します。(もしかしたら船橋くらいはあったかも)



さあ旧矢作村に入りました。
右手に親鸞聖人の旧跡、とある勝蓮寺が山門を構えています。実はこの勝蓮寺門前にお江戸から数えて82番目の一里塚が置かれていたといいますが、それを示す標は置かれていません。左側には近江屋本舗というお菓子屋さんがあります。古い家並みはほとんどありませんが、雰囲気のある街道の様子です。

少し先の右側に誓願寺が山門を構え、街道に面して十王堂というお堂が置かれています。

案内によると寿永3年(1184)3月、矢作の源兼高長者の娘であった浄瑠璃姫源義経を慕うあまり、菅生(すごう)川に身を投げました。長者は姫の遺体を当寺に埋葬し十王堂を再建し、義経と浄瑠璃姫を弔う木像を作り、義経より姫に贈られた名笛「薄墨」と姫の「鏡」を安置しました。

浄瑠璃姫の生涯については数々の創作で伝承化され、そのため史実としては非常に曖昧なのですが、これまで東海道を歩いてきて浄瑠璃姫の話が出てきました。そして西三河の岡崎に入ると、やたら浄瑠璃姫ゆかりの寺院や史跡が数多く残っています。
それもそのはず岡崎(矢矧)こそ、浄瑠璃姫の生まれ故郷だからなのです。

矢作の郷の兼高長者夫婦はながく子宝に恵まれなかったことで、日ごろから信仰していた奥三河の鳳来寺の薬師瑠璃光如来に祈願して授かったのが浄瑠璃姫です。

承安4年(1174)の3月、義経は奥州平泉の秀衡を頼って旅をつづける途中、矢作の郷の兼高長者の屋敷に宿をとったのです。義経一行は長者の屋敷に11日ほど滞留していたのですが、ある日、屋敷の一室から美しい琴の音が聞こえてきました。義経はすかさず持っていた笛で吹きあわせたことがきっかけで、二人の間に愛が芽生えたのです。

しかし義経は奥州への旅を続けなければならず、義経は姫との別れに際して、形見として名笛「薄墨」を託し、矢作の郷を発ったのです。姫は笛を大切にしていたのですが、募る思いに義経の後を追いかけたのです。しかし女の足ではとうてい追いつかず、恋の悲しみのあまり乙川(菅生川)に身を投げてしまったのです。そして長者はその遺体を誓願寺に埋葬したのです。

実は駿河の国の蒲原宿にも浄瑠璃姫の伝説が残っているのを覚えているでしょうか?

奥州平泉を目指した義経は駿河までやってきたとき、あの清見関の通過を避けて、久能から舟に乗るのですが、運悪く嵐に巻き込まれ命からがら蒲原の吹き上げの浜に辿りつきます。

旅の疲れもあったのでしょうか、義経は蒲原で病床についてしまいます。そんなとき、よせばいいのに岡崎に残してきたあの浄瑠璃姫に文をしたためたのです。

文を受け取った姫はいたたまれず東海道を蒲原へと向かうのです。そして病床の義経とめでたく対面し、懸命の看病の結果、義経は元気を回復します。しかし、ここで二人はハッピーエンドとはいかないのです。

元気になればなんでもできる。義経は再び、奥州へ向けて旅立つのですが、一緒に旅をつづけられない姫は成就できない恋を悲しんで蒲原で短い生涯を閉じることになってしまったのです。そんな浄瑠璃姫を供養している寺が蒲原の光蓮寺です。
このように浄瑠璃姫の話はその土地、その土地で異なります。

旧街道はこの先で国道1号線に合流します。これから先2kmはこれといった立ち寄り個所もなく、ただ淡々と国道1号線に沿って歩くことになります。





鹿乗川に架かる鹿乗橋(かのりばし)を渡り宇頭町を過ぎると安城市に入ります。
鹿乗川とは面白い名前ですが、川名の由来は、一つには足利尊氏が矢作川の増水で立ち往生していたところ、突然現れた三頭の鹿の道案内で無事川を渡ることができたとか。

もう一つは、あの桶狭間の合戦で今川義元が討たれ、その時今川軍に属していた家康がその混乱に乗じて、生まれ故郷の岡崎に帰る際、矢作川の増水に阻まれました。そんな時に三頭の鹿が現れて、家康を導き無事に川を渡ることができたという故事によるものと2通りあります。

尾崎東信号交差点で道は二又に分かれます。右へと分岐する道筋には松並木が残っています。車の往来が激しい国道1号から分かれ、静かな道筋を進んで行きます。



尾崎東交差点で国道1号線と分岐すると、前方に松並木が続いています。それほど長い距離ではないのですが、この松並木は「尾崎松並木」と呼んでいます。
そして尾崎東交差点から800mほど行った右側にうっそうとした森が見えてきます。
熊野神社の鎮守の森で、その森の大きさから一見して境内が広いことが分かります。

熊野神社
熊野神社

この辺りは昭和19年に土浦海軍航空隊分遣隊として創設された第一岡崎海軍航空隊の跡地です。劣勢挽回のため、搭乗員養成を目的として創設されましたが、翌年終戦により解散してしまいました。
予科練は土浦だけだと思っていましたが、戦況が急で慌てて岡崎に追加したという訳です。鳥居の脇に予科練の碑が建てられています。

熊野神社の鳥居の前を通り過ぎたところに、お江戸から83番目(約326キロ)、京都三条から35番目(約178キロ)の尾崎一里塚跡の小さな石碑が置かれています。

尾崎一里塚跡碑



少し歩くと宇頭茶屋交差点にさしかかります。旧宇頭村は立場茶屋があったところです。 
大きな松がある妙教寺内外神明社を横目に街道を進んでいきましょう。

その先の右側に大浜茶屋の庄屋「柴田助太夫」の霊が祀られている永安寺が堂宇を構えています。柴田助太夫は村民の窮乏を見かねて、助郷の免除を願い出たのですが、領主の怒りに触れて刑死した人です。この事件以降、助郷役は免除されたといいます。

そんな柴田助太夫の功績を称えて村民が小さな草庵を結んだのが、永安寺の始まりといいます。 
寺の境内の右側に枝を左右に大きく伸ばしている立派な松がります。樹高4.5m、枝張り東西17m、南北24m、樹齢は300 年以上の老木県の天然記念物です。

永安寺の雲龍の松

幹が上に伸びず、地をはうように伸びていて、その形が雲を得てまさに天に昇ろうとする龍を思わせることから「雲龍の松」と言われています。尚、永安寺は無住の寺で、近在の方々が松の管理をしているようです。



浜屋バス停を過ぎると右手に松の木が見えてきます。明治川神社交差点を越えた右側に、明治用水の記念碑が幾つかあり、その中の一つに明治13年(1880)4月の新用水成業式(竣工式)に出席した松方正義が揮毫した「疎通千里,利澤万世 」と刻まれた石碑があります。

明治用水は江戸時代の末期に碧海郡和泉村(安城市和泉町)の豪農、都築弥厚(つづまやこう)が碧海(へきかい)台地に矢作川の水を引き、開墾を行うという計画で始まりました。 

幕府の許可は得られましたが弥厚が病死してしまいます。その後、岡本兵松(ひょうまつ)伊豫田与八郎(いよたよはちろう)等が遺志を継いで、新たな計画を立てましたが、一部の農民の反対もあり、苦労の末、明治13年に完成しました。 

その左側に明治川神社の石柱と鳥居があります。明治川神社は用水完成後設立が企画され、明治17年に創建されました。
明治用水の開発に功績のあった都築弥厚、岡本兵松、伊豫田与八郎等を祀っています。
そうして造られた明治用水は、現在は暗渠となっています。

明治用水記念碑を過ぎると、道筋の両側に松並木が現れます。本日の行程も残すところ2キロの地点にさしかかります。
この先はそれほどの見どころがなく、途切れながらつづく松並木を見ながら進んで行く道筋がつづきます。



里町4丁目の信号交差点を過ぎると、街道右脇に小さな青麻神社が鳥居を構えています。そして鳥居の左隣にどういうわけか「力士像」が置かれています。この像は江戸末期から明治初頭にかけて活躍した江戸力士で五代目・清見潟又市の石像です。

天保9年(1838)三河国碧海郡前浜新田(現 碧南市前浜町)に生まれ本名を榊原幸吉、20歳で江戸相撲に入門し47歳まで現役を続けました。最高位は前頭筆頭、立ち合い時に驚くほどの奇声をあげる名物力士だったようです。

松並木は里町4丁目西交差点の手前でいったん途切れてしまいます。
里町4丁目西交差点を過ぎると、本日の歩行距離も8キロに達します。本日の終着地点まで残すところ1.5キロです。



道筋はたんたんとしていますが、街道の左側に浅賀井という名前の事業所あたりから松並木が現れます。
単調だった道筋に街道らしい風情を醸し出してくれます。

街道は猿渡川にさしかかります。この川を渡ると安城市から知立市へと入ります。今回の旅では岡崎市から安城市そして知立市と辿ってきました。そして本日の終着地点の来迎寺公園に到着です。

尚、ここ來迎寺公園東交差点で終わる場合と、この先、東海道筋から大きく逸れて八橋(やつはし)無量寿寺までいくことがあります。八橋無量寿寺までは東海道筋から670mほど歩かなければなりません。



八橋無量寿寺へは次の来迎寺町交差点で右へ曲がり、そのまま直進して進みます。その曲がり角に「八橋業平作観音従是四丁半北有」そして脇に八橋無量寺と刻まれた古い道標が置かれています。 
この道標が在原業平ゆかりの八橋無量寿寺への道標です。

「ある男(業平であろう)が東下りの途中、道に迷いながらもこの地に辿りつきました。川が幾筋もまるで蜘蛛の手のように流れ、その流れに八つの橋が架けられていたので、「八橋」と呼ばれていました。
そしてその水の流れに「かきつばた(杜若)が美しい花をつけていたのを見つけ、男は「かきつばた」の五文字を句の上に置いて、歌を詠んでみようということになった。
そして詠まれたのが、「唐衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思う」

●無量寿寺境内にある「杜若姫供養塔」
杜若姫は京の小野の中将たかむらの娘と伝えられています。この娘は業平が東下りの旅に出発すると、業平を慕い後を追って、この先の逢妻川で追いついたといいます。しかし業平の心を得ることができず、八橋の池に身を投げて果てたと伝えられています。逢妻川は杜若姫が業平に追いついた場所であることから「妻に逢う=逢妻川」と名付けられたといいます。

今回の旅は知立宿の手前の來迎寺公園信号(9.4㎞)または東八橋無量寿寺(10.5㎞)が終着点となります。

次回はここ来迎寺公園から39番目の宿場「池鯉鮒(ちりゅう)」、40番目の鳴海宿、41番目の宮宿へと至ります。そして宮からは伊勢の桑名宿まで現代の渡し舟で海上七里の旅をお楽しみいただきます。

私本東海道五十三次道中記 第28回 第1日目 赤坂宿から本宿を経て藤川宿
私本東海道五十三次道中記 第28回 第2日目 藤川宿から城下町岡崎へ

東海道五十三次街道めぐり・第三ステージ目次へ





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ


最新の画像もっと見る

コメントを投稿