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大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

私本東海道五十三次道中記~保土ヶ谷宿から戸塚宿~(其の三)

2012年09月05日 14時36分49秒 | 私本東海道五十三次道中記
本日の歩行距離である9.8kmのまだ半分にも至らない場所である境木からはだらだらとした下り坂がしばらく続きます。

境木地蔵尊前交差点の左角に立つ大きな石柱には「右 環状二号線」、左手の道は「左 旧東海道」の文字が刻まれています。そして左手に進む下り坂が旧東海道筋の「焼餅坂」です。

境木地蔵尊前交差点の道標
焼餅坂

焼餅坂を下り、品平橋を渡ると道はそれほどの急坂ではありませんが再び登り坂に変わります。この坂が次の「品濃坂」です。坂を登り切った所の右手にこんもりとした森があり、その脇には「品濃一里塚」と題した解説板が置かれています。

品濃一里塚
一里塚裏手の様子

ここ品濃の一里塚は日本橋から九番目の一里塚で、保土ヶ谷宿と戸塚宿の間に位置しています。旧東海道をはさんでほぼ東西に二つの塚があり、地元では一里山と呼ばれています。東の塚は平戸村内に、西の塚は品濃村内に位置し、西の塚にはエノキが植えられていたようです。このように、今でも道の両側の塚がともにほぼ当時の形で残っている所は、神奈川県内でもこの一里塚だけです。

見上げるような造りの一里塚なのですが、かつては東海道と一里塚はほぼ同じ高さだったのですが、後世になって東海道を掘り下げたため、一里塚が山のようになりまるで切通しのようになってしまいました。

反対側の一里塚

せっかくなので進行方向右手の一里塚の裏手から登ってみることにしました。たしかに盛り土をしたような形をしており、根っこが地表にあらわになるくらいな大きな木が植えられていました。

一里塚を過ぎ、住宅街がつづく地区へと入ります。一里塚から約260mほどで福寿観音堂に到着です。このあたりがおよそ4km地点にあたります。観音堂から右へ進むとJR東戸塚駅です。この辺りでトイレ休憩です。

休憩の後、再び旧東海道を戸塚宿へと進んでいきます。道に沿って右側が住宅街そしてまもなくすると左手には果樹園が広がってきます。こんなところに果樹園が…。路傍に置かれた果樹園の案内板をみると8軒の農園がこの付近一帯に点在しています。

果樹園の直販所

そんな果樹栽培の直販所が街道脇に店を構えています。果物は「梨」が盛りのようで、この辺りは「豊水」という銘柄の梨が栽培されているようです。

この果樹園を見ながら進んで行くと、旧東海道筋は極端に狭くなり、狭い石段と姿を変えていきます。その石段を下ると、環状2号線に架かる品濃坂歩道橋です。旧東海道はここでいったん寸断され、歩道橋の向こう側へとつづいていきます。

環状2号線に架かる品濃坂歩道橋

歩道橋を渡ると、比較的急な坂がつづく、しばらくすると平坦な道へと変わっていきます。バイパス下の坂下バス停を過ぎ、住宅街を抜けていくと柏尾川の流れが目に飛び込んできます。

柏尾川に沿って国道1号線と交わる東戸塚駅入口信号までは閑静な住宅街がつづきます。
信号を渡り、国道1号線を横切り、旧街道を進んで行きましょう。旧街道は赤関橋信号で再び国道一号線と合流したのち、ほんのわずかな距離でまた分岐します。

上柏尾歩道橋を過ぎると国道一号線の右側に「山崎パン工場」が見えてきます。柏尾小入口信号を過ぎると今度は「森紙業」の工場が右手に現れます。この辺りが歩き始めてほぼ6.5キロの地点です。そして次に右手には「ポーラ化粧品」の工場です。左手には王子神社の境内が広がります。

王子神社を過ぎて前方のファミリーマートの先に街道の風情を醸し出すような白壁の蔵が現れます。

蔵を過ぎてすぐ国道一号線の右側には「大山道道標」が現れます。「柏尾の大山道入口 ここを入る」の看板が立っていて、右手に分かれていく道を指しています。

※大山は江戸時代から広く関東一円の人びとのあいだに信仰されていました。大山道はこうした参詣者の道で、旧東海道から大山への入口が柏尾です。

王子神社を過ぎて先へ進んで行くと、国道一号線の傍らに大きな「モチノキ」が現れます。高さはなんと19mもあり、神奈川県下で最大の大きさです。

モチノキの銘板

《かながわの名木100選・ 益田家のモチノキ》
樹形が整い樹勢も旺盛な県下最大のモチノキの巨木である。古くから「相模モチ」の愛称で親しまれている。県の天然記念物に指定されている。
樹高19メートル、胸高周囲2.4メートル、樹齢約300年(推定)

益田家のモチノキ

モチノキを過ぎるとすぐに「不動坂交差点」です。
この交差点から国道一号は二手に分岐します。
右へと向かう国道一号はバイパスで、まっすぐ伸び国道1号は戸塚駅へと向かいます。

私たちは一番左側の旧東海道へと進むことにします。なだらかな勾配を上ると、道はゆるやかな下りへと変わります。そんな坂の名前が「不動坂」です。

この道筋を進んで行くと、右手に比較的大きな煉瓦造りの建物が見えてきます。じつはこの建物はあの有名な「鎌倉ハム」を手掛けている斉藤肉店所有のもので、以前はハムを貯蔵するために使われていました。現在はハムの貯蔵庫ではなく、どこぞのペンキ屋さんが倉庫として使用しているそうです。

煉瓦造りの倉庫

この煉瓦造りの建物に隣接して、歴史を感じる蔵造りの家が建っています。この建物こそ鎌倉ハムの創業者である斉藤家の建物です。そしてこの蔵造りの建物の隣に「サイトウミート」の看板を掲げる肉屋さんがあるのですが、実は鎌倉ハムの斉藤家ではなく、偶然に同じ名前の斉藤さんが肉屋を経営しているとのことです。

蔵造りの家

道は舞岡川に架かる舞岡橋へとでてきます。このあと国道1号線に合流すると、本日の戸塚駅までは国道1号線に沿って歩くことになります。今日の行程では目まぐるしく景色がかわる楽しみを味わうことができるのですが、戸塚付近の国道1号線に沿った景色は昔ながらの雰囲気を漂わせ、大都市に近い戸塚の街とは思えないほど田舎じみています。

舞岡川に架かる五太夫橋を渡ると右手にブリジストンの工場が現れます。そしてダイエーの隣のファミリーレストラン「フォルクス」の店の前に「江戸方見付跡」と刻まれた石碑が置かれています。

江戸方見付跡の石碑

ここが戸塚宿の江戸側の入口にあたる江戸方見附があった場所になります。ここから吉田町・矢部町・戸塚町の三町にまたがる街並みが東海道の宿場町として整備されたのは慶長9年(1604)で、隣の保土ヶ谷宿よりも3年ほど遅れて成立したようです。

戸塚江戸見附跡を過ぎると、保土ヶ谷宿を出発してからおよそ7.5キロの地点にさしかかります。

国道一号線の左側のセブンイレブンを通り過ぎると「戸塚一里塚跡」の標識が立っています。
江戸日本橋から10番目の一里塚ですが、今ではその遺構などは残っておらず、標識が立っているだけです。

一里塚跡を過ぎると柏尾川に架かる「吉田大橋」に到着です。橋の欄干にはただ「大橋」と記されています。吉田大橋交差点から左手へと柏尾川沿いに分かれていくのは鎌倉道で、旧東海道はこの吉田大橋を渡っていきます。橋の袂には広重が描いた戸塚の景が掲げられています。

吉田大橋

吉田橋を渡ると600mほどでJR戸塚駅に到着です。その道筋にレトロ感漂う建物が一軒建っています。伊東医院と看板がでていることからお医者さんの建物のようです。門を入ると簡単な説明書きがあり、その説明によると大正時代に建てられたものと記されています。どうりでロマンを感じさせるような雰囲気を漂わせていると思いました。

大正ロマンを感じる建物

保土ヶ谷駅から戸塚駅までの9.8kmを踏破したのですが、暑さの中での山越えで足は棒のようになり、汗まみれの体は疲労困憊。駅前のコーヒーショップでガムシロップをたっぷり入れたアイスコーヒーが疲れ切った体に浸み込んでいきました。

私本東海道五十三次道中記~保土ヶ谷宿から戸塚宿~(其の一)
私本東海道五十三次道中記~保土ヶ谷宿から戸塚宿~(其の二)





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私本東海道五十三次道中記~保土ヶ谷宿から戸塚宿~(其の二)

2012年09月05日 13時34分47秒 | 私本東海道五十三次道中記
樹源寺を後に旧東海道の旅を続けていきましょう。元町橋バス停を過ぎていくとT字路に突き当たります。その脇には「歴史の道」の道標が立っていて、左手の道は「権太坂」、今来た道は「上方見附1km・一里塚1km・本陣跡1.5km」となっています。T字路を左折して元町橋を渡っていくと、正面に歩道橋が見えてきます。その手前から右手へと延びる道が権太坂へとつづいていきます。この右手の坂道を辿ると、江戸から上方へ向かう東海道で最初に出会う難所の「権太坂」です。

旧街道の権太坂入口

戸塚宿までの行程ではこの権太坂の一番坂、二番坂をはいじめ焼餅坂、品濃坂と起伏の多い地形が続きます。年始に行われる「箱根駅伝」では旧東海道の権太坂は通りませんが、国道1号線の坂を権太坂と呼び、往路2区の難所として知られています。旧街道の権太坂の頂点付近まで約1.5km、標高差60mの結構きつい坂道です。

それまで平坦であった旧東海道は権太坂入口から突如として急勾配の坂道へと変貌します。登り始めてから1分ほどで赤い鳥居が現れます。この鳥居の奥に「権太坂改修記念碑」が置かれています。この辺りが最初のきつい坂です。

権太坂改修記念碑

いっきに登りつめるような急な坂道がしばらくつづき、保土ヶ谷バイパスに架かる権太坂陸橋が見えてきます。このあたりもまだ坂がつづきます。陸橋をすぎるとやや勾配は緩やかになるのですが、これまでの急坂でかなりエネルギーを消耗してしまった体には、緩やかな勾配であっても体に負担がかかります。

いわゆる一番坂と呼ばれる坂が終わるころ、路傍に「権太坂」と刻まれた石柱が置かれています。その脇に案内板が置かれ、権太坂の名の由来が記されています。

権太坂の石柱

その由来とは、「あるとき、旅人がこの坂の近くにいた老人に坂の名前を尋ねたところ、耳の遠い老人が自分の名前を聞かれたと思い込み、「ごんたでございます」と答え、それから権太坂と呼ばれるようになった。と記されていました。

権太坂の石柱を過ぎて緩やかになった道を進むと、右手に保土ヶ谷の進学校として有名な光陵高等学校の校門が現れます。そしてこの校門を過ぎると、再び登りの傾斜が増してきます。
これが権太坂の二番坂です。

権太坂の二番坂

この二番坂を登りきると、ほぼ権太坂の頂上地点に到着です。標高差が約60m~70mの権太坂はかつてはかなりの難所で多くの旅人や牛馬もそのきつさに「行倒れ」になってしまったと言われています。そんな哀れにも行倒れになった人たちや牛馬を埋葬した場所が「投げ込み塚」の名で旧街道からちょっと逸れた場所に残っています。

投げ込み塚

「往時旅人の行倒れせし者多く、之を埋葬せる処也。」ということで塚がここに建てられています。「偶々当地区開発に当り多数の白骨を発掘、現在平戸町東福寺境内にて再埋葬供養碑を建て、之が菩提を弔ひ在者也。 昭和三十九年四月建之」の文字が刻まれています。

投げ込み塚から再び旧街道に戻ると、境木(さかいぎ)という地名に変わります。そんな境木には江戸時代に権太坂を登ってきた旅人や、はたまた反対側の品濃坂や焼餅坂を登ってきた旅人のための「立場茶屋」があったところで、多くの旅人が疲れた体を休めた場所でもあります。江戸時代には「牡丹餅」が名物でかなり評判になっていたようです。

そして現代版の茶店ではありませんが、ここ境木には現代の旅人の疲れを癒す「おじぞうさん最中」なる和菓子を売る店があります。こんな下見をしていて楽しみなのはその土地土地の名物を食してみるということもたいへん重要なことなのです。

おじぞうさん最中の店

さっそくメンバー共々、店に入り名物の「おじぞうさん最中(1個190円)」を購入して食べることにしました。私は「つぶ餡」を食べたのですが、疲れ切った体に、餡の甘味が一気に染み渡っていったように感じました。「おじぞうさん最中」はこのつぶ餡とこし餡の2種類がありますが、どちらの最中もたいへん美味しいです。

おじぞうさん最中

また最中以外に「権太坂むしどら焼き」もあり、これもふわふわ生地の中につぶ餡が入っていてたいそう美味しく感じました。

権太坂むしどら焼き
権太坂むしどら焼き

ちょっと寄り道をして、エネルギーを補充した後、境木立場跡へと向かうことにします。立場とは宿場町と宿場町との間に設けられたもので、そこには旅人が体を休めるための「茶屋」が置かれていました。その境木の茶屋の一つであった「若林家」の門が旧街道に面して今でも残っています。この若林家は明治の中ごろまで黒塗りの馬乗門や本陣さながらの構えの建物だったと伝えられ、なんと参勤交代の大名までもが利用していたと伝えられています。

境木の立場跡
若林家の門

さて、境木という地名の由来ですが武相(武蔵と相模)の国境があったところです。江戸時代にはその標(傍示杭(ぼうじぐい)あるいは境杭(さかいぐい)と呼ばれる木柱)が建てられていて、境木の地名はそれからきたといわれています。

そして境木を有名にした言い伝えが残っています。『いつの頃か相模国鎌倉腰越の海辺に漂着した地蔵が土地の漁師の夢枕にたち、「俺は江戸の方へ行きたい。運んでくれたらこの海を守ろう」と告げたので、漁師達が江戸へ運ぶ途中、この境木で動かなくなった為、村人達は地蔵を引き取りお堂を建てて安置したところ、それからは村が繁昌したということです。』

境木地蔵尊
境木地蔵の祠
祠の中のお地蔵さん

そんな噂を聞きつけた江戸の人たちもたくさんここを訪れ、境内には寄付された燈籠が残っています。

境木地蔵尊前の広場には「武相国境之木」と記された記念碑が建っています。私たちの東海道の旅もいよいよ武蔵野国から相模の国へと進んでいきます。

武相国境之木の記念碑

其の参へつづく

私本東海道五十三次道中記~保土ヶ谷宿から戸塚宿~(其の一)
私本東海道五十三次道中記~保土ヶ谷宿から戸塚宿~(其の三)





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私本東海道五十三次道中記~保土ヶ谷宿から戸塚宿~(其の一)

2012年09月05日 12時35分13秒 | 私本東海道五十三次道中記
9月に入りいくぶん暑さも和らいだかな?と思われた9月4日(火)に某旅行会社主催の東海道五十三次街道巡りの「保土ヶ谷宿から戸塚宿(約9.8km)」間の下見に出かけてきました。

保土ヶ谷宿の出立時間を正午に設定していたため、9月初めとはいえ真夏を思わせる陽射しが真上から降りそそぐ時間帯です。出立場所は保土ヶ谷の江戸方見附から1kmほど先のJR保土ヶ谷駅なので全長2kmの保土ヶ谷宿内のうちほぼ半分の区間は割愛させていただきます。

さあ!いよいよ江戸から数えて4番目の宿場町である「保土ヶ谷宿」の中心部分へと進んでいきましょう。JR保土ヶ谷駅の北口のローターリーを抜けると、旧東海道の道筋にあたる「さつき通り商店街」の入口にさしかかります。活気のある商店街とは言えない佇まいがつづきます。これまで歩いてきた各宿場町の商店街で見るような「街道らしさ」をそれほど感じない街並みです。

さつき通り商店街

ときおり現れるかつての助郷会所跡にいたっては、標柱はあるものの自動販売機の脇に置かれた「ビン缶・ペットボトル入れ」に赤字で「助郷会所跡」と記され、ご丁寧にも自動販売機とボトル入れの下部には「海鼠塀」らしき模様まで描かれています。それなりの努力は認めつつも、ほんのちょっと街道の雰囲気を考えた意匠にしてもらったほうがいいのではないでしょう
か?

助郷会所跡の自動販売機

そんな「さつき通り商店街」を進んで行くと、金沢横町の小さな四つ角にさしかかります。進行方向左手の角に街道らしさを感じさせてくれる4基の道標が往時を偲ぶようにひっそりと佇んでいます。

4基の道標

右から
①円海山之道〔天明三年(1783)建立〕
②かなさわ、かまくら道〔天和二年(1682)建立〕
③杉田道〔文化十一年(1814)建立〕
④富岡芋大明神社の道〔弘化二年(1845)建立〕

この道標の左わきに番所風のお休み処が置かれています。ここでは保土ヶ谷宿に関するパンフレットを無料で入手することができます。

保土ヶ谷宿お休み処

金沢横町を過ぎるとまもなくJR線の踏切にさしかかります。踏切を渡ると旧街道は国道1号線に突き当ります。この合流地点には保土ヶ谷宿の本陣跡があります。ここで旧東海道は大きく右へ折れ、難所と言われる「権太坂」方向へと進んでいきます。

苅部本陣の門

保土ヶ谷本陣は苅部本陣(かるべほんじん)と呼ばれていたもので、現在は通用門だけが残っていますが、往時建坪が270坪もあり部屋数18、畳数140は東海道の本陣の中でも十指に入るほどの規模でした。通用門前の塀が崩れ、修復中なのですが、実は昨年の東日本大震災で塀が壊れてしまったそうです。

国道1号線を進行方向に向かって左側の歩道を歩いていくと、次に脇本陣の藤屋跡、そして脇本陣の水屋跡、更に旅籠屋の本金子屋跡とつづきます。

本金子屋跡

宿場時代の唯一の建築物である本金子屋が今でも残っています。ただし、江戸時代のものではなく明治になって新築されたものです。江戸時代には先の本陣から本金子屋までの区間に14軒ほどの旅籠、水屋が軒を連ねていたようです。そんな時代があったことなど忘れ去られたように、現在ではマンションが連なっています。

本金子屋を過ぎてしばらく歩くと左手に金色の擬宝珠を備えた今井川に架かる仙人橋が見えてきます。その仙人橋の袂には「歴史の道 一里塚跡・上方見附跡」の解説板が置かれ、その脇には「東海道保土ヶ谷宿の松並木と一里塚」と題した解説板もあります。

復元なった保土ヶ谷一里塚
東海道保土ヶ谷宿の松並木と一里塚
東海道保土ヶ谷宿の松並木と一里塚
東海道保土ヶ谷宿の松並木と一里塚

この辺りが保土ヶ谷宿の京都側の出入口にあたる上方見附だった所のようで、小振りの一里塚も復元されています。保土谷宿の一里塚は江戸から8番目にあたり、かつては五間(9m)四方の塚が築かれ、塚の上には榎が植えられ旅人の休憩場所としても利用されていました。

仙人橋の擬宝珠

そして今井川に架かる仙人橋を渡り、なだらかな傾斜の向こうに佇むのが「外川神社」の社です。外川神社は、保土ヶ谷宿内の羽州湯殿山の講中の先達であった清宮興一が、湯殿・月山・羽黒の三山の霊場を参拝し、明治2年、この地に羽黒山麓の外川仙人大権現の分霊を勧請したもので、以来、小児の虫封じ、航海安全に利益があるとされていました。明治初年、神仏分離令の発布によって祭神を日本武尊とし、外川神社と改称しました。

外川神社
外川神社石標

外川神社から再び旧東海道筋へ戻り、進むと岩崎ガード交差点に保土ヶ谷歩道橋が架かっています。

一里塚から見た松並木

歩道橋を渡って、国道1号を更にその先へ進んでいきます。反対側の保土ヶ谷町2丁目バス停を過ぎた所で道が二手に分かれている保土ヶ谷2丁目交差点があります。角には「歴史の道」の道標が立っています。

樹源寺山門
樹源寺境内
樹源寺境内

国道一号線からいったん分岐して旧東海道を進むと樹源寺バス停が見えてきます。このバス停の先の右手に折れる石段を上って行くと樹源寺です。鎌倉時代に建てられた医王寺が焼失した後、江戸時代初期の1628年に、あの本陣を経営していた苅部家により身延山久遠寺の末寺として開山したようです。

其の弐へつづく

私本東海道五十三次道中記~保土ヶ谷宿から戸塚宿~(其の二)
私本東海道五十三次道中記~保土ヶ谷宿から戸塚宿~(其の三)





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私本東海道五十三次道中記~お江戸日本橋から品川宿~(其の二)

2012年03月13日 11時31分12秒 | 私本東海道五十三次道中記
銀座8丁目の交差点は首都高速の高架が頭上を覆っています。いわゆる銀座通りはここで終わりを告げ、いよいよ新橋界隈へと入っていきます。次の交差点は「新橋」ですが、右方向へつづくのが外堀通り、そして左方向へは昭和通りと名前を変えます。そして直進してまもなくすると前方に巨大な歩道橋が見えてきます。これが「ゆりかもめ」の新橋駅ターミナルです。

ゆりかもめの新橋駅ターミナルをくぐると、東海道中は初めてJRのガードをくぐります。ガードをくぐると左手に日比谷神社のお社が見えてきます。そして次の新橋5丁目の信号をわたり、東新橋歩道橋に到達すると日本橋からちょうど3キロ地点となります。

ここから東海道は大門、金杉橋そして田町へと向かうのですが、実はこの間には道中沿いにさほど見るべきものがありません。そのため若干、道中からは逸れるのですが、至近にある名刹、古社に立ち寄りながら江戸の風情を味うことにしました。

芝大神宮社殿

その第一の目的地が「芝大神宮」なのです。御鎮座千年という江戸において由緒ある古社の一つです。古くは源頼朝の庇護を受け、江戸時代は徳川将軍家から保護を受けていました。大江戸の産土上(うぶすなかみ)として庶民から信仰を集めてきました。と同時に当社は歌舞伎の演目ともなっている「め組の喧嘩」の舞台として知られています。境内の狛犬の台座には「め組」と刻まれています。まあ、火事と喧嘩は江戸の華と申します。火事場の粋を貫く火消しが喧嘩沙汰を起こすという、まるで絵に描いたような一件なのですが、この喧嘩の相手が相撲取りだったのでたちが悪かった。

芝大神宮

お互い血の気が多い輩同士、ことはすんなり納まらず相撲部屋総出で繰り出し、火消し衆は火事場支度で応戦し、やめればいいのに火の見櫓の鐘まで鳴らし仲間に動員をかけた始末。そんなこんなで騒動は拡大し、火消し衆は町奉行に、相撲側は寺社奉行に訴えでて事態の収拾を図るが収まらず、結局は火消しと力士合計で36人が捕縛されてしまったという顛末。

それじゃ喧嘩の原因はというと、芝大神宮境内で行われた相撲興行を無銭見物しようとした「め組み」側がたまたま通りかかった力士に諌められたというたわいもないことだったのです。まあ、粋なのか、イナセなのか、はたまた「べらんめい」気質なのか、江戸っ子らしいといえばそれまでなのですが、江戸っ子そのものを地でいった喧嘩沙汰のような気がします。

芝大門

そんな出来事の発端が起こった芝大神宮からほんのわずかな距離にあるのが将軍家の菩提寺であった「増上寺」の表門である「大門(だいもん)」があります。今でこそ「大門」は周囲のビルの谷間に埋もれてしまっていますが、かつて江戸時代には東海道中の道筋からその姿をはっきりと見ることができたのではないでしょうか。

増上寺・解脱門

そして大門の向こうには増上寺の山門である「解脱門」が聳え、更にその奥に本殿の甍が見えたのではないでしょうか。大門をくぐるとその直線上に堂々とした姿の「解脱門(げだつもん)」が徐々に迫ってきます。江戸時代には上野寛永寺と並ぶ将軍家の菩提寺としてその権勢を振るった増上寺の山門は、数百年の間、幾多の災いを乗り越え、いまだその権威を誇示するかのように堂々と聳えたっています。

解脱門の前を走る日比谷通りを渡り、解脱門をくぐり広い境内へと進んでいきましょう。その正面に建つのが増上寺のご本堂である「大殿」です。その大殿の右側には黒本尊を祀る「安国殿」が改築なった新たな装いで私たちを迎えてくれます。

かつては現在の芝プリンスのある北側一帯と大殿を囲む広い地域にに歴代将軍六人と二代将軍秀忠公の御台様であった崇厳院(お江)をはじめとする正室、側室の荘厳華麗な霊廟が並んでいたのですが、大戦末期の米軍の空襲によってそのほとんどが灰燼に帰し、貴重な文化財が失われてしまいました。現在、その名残は「安国殿」の裏手にひっそりと佇む「徳川家墓所」にほんのわずか残っているだけです。

今でこそ、高層ビルに阻まれて解脱門や大殿の姿は見えにくくなってしまいましたが、かつては道中を往来する人々は増上寺の甍を見るたびに、将軍家の権威にうやうやしく身を屈めながら門前を行過ぎて行ったのではないでしょうか。

増上寺をあとに日比谷通りに沿って東海道中との合流点へと進んでいきましょう。増上寺の敷地が途切れるあたり、すなわち築地塀が終わる頃、右手に旧台徳院惣門が現れます。

旧台徳院惣門

台徳院は第二代将軍秀忠公の院号なのですが、この門はかつてこの地に広がっていた秀忠公の霊廟に通ずる参道に構えていた門の一つです。ことごとく失われた霊廟群の中で焼け残った建築物の一つです。

惣門を過ぎると右手には芝公園とこんもりとした丸山古墳、そしてその麓に社を構える「芝東照宮」の社殿が見えてきます。もともとこの場所には、江戸時代の頃「安国殿」が置かれ、黒本尊と家康公の寿像が納められていました。ということは家康公歿後はむしろ「東照宮」的な役割を担ったのが安国殿だったのです。維新後、明治政府の神仏分離政策により仏式であった安国殿から神として崇められていた「神君家康公」を分離し、ここに東照宮を勧請したのです。

東照宮社殿前の梅の花
東照宮社殿前の梅の花

すでに3月中旬なのですが、境内の梅の木には今を盛りに美しい花が咲き競っています。

東照宮からさほど離れていない場所に、もう一つ歴史の舞台が残っています。芝園橋が架かる古川を渡るとそこはかつて外様雄藩として幕末にその影響力を行使した薩摩藩の上屋敷跡があります。その場所は現在のNEC本社ビルが建つ地域全体を指すのですが、なんと当時の上屋敷は東西800m、南北300mの広大な敷地を持っていました。

さつまの道モニュメント

あの篤姫様も滞在した芝の薩摩藩上屋敷のほぼ中心にあたる場所に、現在は「さつまの道」と名付けられたモニュメントが置かれています。そしてNEC本社ビル脇の道には「薩摩屋敷跡」の石碑も置かれています。

薩摩屋敷跡碑

NEC本社ビル前を過ぎると、日比谷通りは東海道中と合流する芝5丁目交差点にさしかかります。そしてこの交差点を横切ると歩道脇に幕末最大の出来事として誰もが知る「西郷・勝の会談」の記念碑が置かれています。

西郷・勝会見之地碑
西郷・勝の会談レリーフ
西郷・勝会見之地碑

時は幕末の慶応4年(1868)、朝敵となった徳川家を追討する官軍の主力はいよいよ品川に迫り、江戸総攻撃の準備を着々と進めています。総攻撃が2日後に迫ったその年の3月13日に官軍の西郷隆盛と幕府総裁、勝海舟は第一回の会談を薩摩藩の高輪中屋敷で行います。しかし、この会談は双方の腹の探り合いのまま終了し、翌14日に持ち越されます。この第2回会談が行われたのが薩摩藩の蔵屋敷なのです。すでに総攻撃の期日は翌日15日に迫っている中、双方の真剣な会議の結果、ギリギリで江戸総攻撃が回避された記念すべき場所なのです。

江戸時代の旧東海道は現在のJR田町駅あたりから江戸湾の波打ち際を眺められる場所にでてきます。ということは現在のJRの線路があるところはかつては海の底だったのです。

JR田町駅にさしかかるあたりが日本橋からほぼ5キロにあたります。品川への旅はあと2キロ強に迫ってきました。田町駅から500m弱のところの「札の辻」を過ぎ、そして更に500mほど歩くと第一京浜の左側に現れるのが「高輪大木戸跡」です。

高輪大木戸跡
高輪大木戸跡

江戸の南の入口として旧東海道の両側に石垣を築き、治安の維持と交通規制の役割を担っていた重要な木戸だったのです。江戸府内への出入り口として、東海道を行き来する人々の見送り、出迎えの場所としてたいそう賑わっていた場所だったのです。

高輪大木戸跡をすぎると、日本人なら誰でも知っている赤穂浪士縁の「泉岳寺」山門への入口が見えてきます。品川はもう目と鼻の先の距離にあるのですが、東海道沿いの名刹、古刹として知られている「泉岳寺」は是非立ち寄ってみたい場所です。

泉岳寺中門
泉岳寺山門
山門天井の竜

開基は古く慶長17年(1612)といいますから、今からちょうど400年前に遡ります。境内には吉良邸討ち入りで主君の仇を晴らした赤穂義士の墓が置かれています。

泉岳寺本堂
境内の梅

泉岳寺を後に品川へと進みますが、本来の品川宿の江戸見附は現在の品川駅からさらに800mほど歩いた所に位置しています。今回は終着点を品川駅にしましたので、品川宿については第二区間の品川から川崎の巻で紹介いたします。

私本東海道五十三次道中記~お江戸日本橋から品川宿~(其の一)





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私本東海道五十三次道中記~お江戸日本橋から品川宿~(其の一)

2012年03月09日 17時09分57秒 | 私本東海道五十三次道中記
私の東海道五十三次の街道めぐりはまだ始まったばかりです。道中に点在する五十三の宿駅を順を追って巡るのが筋なのですが、自らの勝手な都合で巡る行程がバラバラになってしまう不都合さはお許しいただきたいのです。

お江戸に住む私にとって、江戸から地方へ向かう感覚はどうも「下る」というイメージが強いのですが、古の昔から江戸(坂東)から帝が住まう京の都への旅路は「上洛」という言葉があるように「上る」という意識が常識だったようです。ご維新後、帝が江戸(東京)にお住まいを移された時から地方から東京にくることを「上京」と呼ぶようになったと聞き及びます。

さてお江戸の時代の江戸から京へ「上る」起点である場所こそ「日本橋」なのですが、「燈台下暗し」のごとく日本橋から第壱宿である品川宿を通しで歩いていませんでした。もちろんこの区間は断片的ではあるのですが、数え切れないほど歩いています。

そんなことで心機一転、双六のように東海道中の起点である日本橋から品川宿までを歩くことにしました。日本人であれば誰もが知るここお江戸日本橋が最初に架橋されたのがなんと今から410年前の慶長8年(1603)のことです。

日本橋元標広場

慶長6年(1601)年には家康公の肝いりで東海道中の整備が始まり、街道筋の伝馬宿駅制度の確立と共に江戸から京への大動脈の建設は着々と進んでいました。東海道中が完成をみるのは時代が下り、家康公歿後の寛永元年(1624)まで待たなければなりません。

東海道中の完成後、日光道中(1636年完成)、奥州道中(1646年完成)、甲州街道(1772年完成)そして中山道(1694年完成)を迎え、江戸五街道が整備され、これらすべての街道の起点がお江戸日本橋に定められたのです。

その起点となる元標は橋の真ん中に埋め込まれているのですが、そのレプリカが橋の袂の元標広場に展示されています。

元標のレプリカ

慶長8年(1603)架橋の日本橋は明暦の大火(1657)の翌年に火災で焼失し、その翌年に新たに架橋されました。そのとき初めて欄干に擬宝珠(ぎぼし)が施されたといいます。橋に擬宝珠を付けることは、日本橋にかぎらず幕府がその建設費用を賄った橋は官製の「公儀橋」であることを表すためのものだったのです。

江戸時代を通じて、ほとんどの橋は木造であったため、幾度となく火災に遭い焼け落ちています。現在の石造りの橋になるまでになんと19回も架け替えや修復を行ったと言われています。ちなみに現在の橋は明治44年に完成したもので平成11年5月に国の重要文化財に指定されています。

広重「日本橋朝之景」

広重が描いた「日本橋朝之景」には朝七つ時、朝焼けの中を二人の先箱持ちを先頭に橋を渡ってくる参勤交代の行列の前を棒手振りの魚屋の一団、そして橋の袂の高札場などが描かれています。広重の描く早朝の日本橋はそれほどの賑やかさは感じませんが、太平の世がつづく江戸時代を通じて日本橋は当時の日本の中で商業、金融、文化の中心だったのです。なんと一日に千両もの金が落ちるといわれるほどの繁栄振りだったといいます。その繁栄を支えたのが日本橋本町界隈の大店もさることながら、当時ここ日本橋にあった「魚河岸」での取引だったのです。

魚河岸発祥之碑と乙姫像

江戸時代は日本橋川を下るとすぐに江戸湾に流れ込む隅田川の河口に出られたといいます。そして江戸前の海から取れる豊富な魚介類が船に乗せられ、ここ日本橋の河岸で荷揚げされ取引が行われていたのです。今でこそそんな面影はまったくありませんが、その名残を伝えるように橋の袂には「日本橋魚河岸発祥之碑」が立ち、その傍らに「竜宮の乙姫」の像が置かれています。日本橋にあった魚河岸は大正12年の関東大震災で壊滅し、その後現在の築地へと移転しています。

乙姫像

明治44年に架け替えられた現在の橋には明治期の優れた彫刻を見ることができます。一つは橋の中央部分にある「麒麟像」です。これは当時の東京市の繁栄を表現したものです。そして橋の四隅には「獅子像」が置かれていますが、これは東京市を守護することを表したものです。

麒麟像
獅子像

それでは日本橋を出発して道中巡りへ駒を進めてまいりましょう。賑やかな中央通りを南下するとすぐ左手に見えてくる近代的な高層ビルは「日本橋コレド」です。かつてはこの場所に白木屋があった場所です。

永代通りを渡り進むと、左手にひときわレトロ感を漂わす建物が見えてきます。日本を代表するデパートの一つ「高島屋」です。この建物はデパートでは初めて国の重要文化財に指定されています。日本橋から高島屋まではおよそ430mほどの距離です。

高島屋からおよそ170mで八重洲通り、そして八重洲通りからおよそ530mでかつて京橋と呼ばれた橋があった高速道路下に到着します。尚、日本橋から1キロにあたる場所は明治屋を過ぎたあたりです。

中央通りを跨ぐように高速道路の高架が走っています。かつてはここに京橋川が流れ、その流れに橋が架かっていました。その橋の名が京橋といい、日本橋から数えて最初の橋だったのです。そしてこの京橋川の河岸には日本橋に「魚河岸」があったように、京橋の袂には「青物市場」があり、特に大根を中心に取引がされていたため「京橋大根河岸」と呼ばれていました。ここ京橋の青物市場も関東大震災までつづいていたのですが、その後、昭和10年に築地市場に移転しています。そんな青物市場を記念して高架下の広場に「市場跡碑」が立てられています。

京橋の親柱
江戸歌舞伎発祥之地碑

その市場跡碑に隣接するように立つのが「江戸歌舞伎発祥之地碑」です。時は寛永元年(1624)、江戸市中に猿若勘三郎が猿若座(後の中村座)の櫓を立てたのが江戸歌舞伎の始まりです。しかし歌舞伎はその後、公儀の風俗取締りの対象となり、厳しいお沙汰を受けたびたび芝居小屋の移転が余儀なくされます。いわゆる吉原の遊里に並ぶ「悪所」として歌舞伎そのものを規制したきらいがあります。

京橋の猿若座はその後、日本橋の禰宜町、上堺町(現在の人形町辺り)へと移り、天保の改革時期には江戸市中から遠く離れた浅草裏手の猿若町へ追いやられてしまうのです。歌舞伎の芝居小屋が市中へと戻ってくるのは明治になってからで、現在の歌舞伎座が開場したのは明治22年(1889)のことです。

高速道路の高架をくぐると、もう銀座1丁目にはいってきます。日本そして世界を代表する繁華街(通り)である銀座中央通りを進むと、両側には名だたるブランド店や日本を代表するデパートが次から次へと現れてきます。銀座6丁目を越え、海外ブランドのH&Mがあるあたりが、日本橋からちょうど2キロにあたる場所です。かつて江戸時代は現在の銀座通りを挟む両側は広く町家が軒を並べていた場所です。ちょうど開幕当初は江戸前島という岬があったところで、現在の銀座通りはその岬の中央部分を貫いています。そしてその岬の先端は現在の銀座8丁目にあたるところです。

幕府の都市計画からなのか、自然発生からなのかは定かではありませんが、江戸の古地図を見ると銀座8丁目にあたるかつての芝口橋をこえても東海道中に沿って両側は町家がつづいています。そしてその町家を挟むように武家地と寺社地が配置されている様子を見ると、街道沿いには道行く人々やそこに住む人々のための何らかの店がたくさん並んでいたのではないかと考えます。

江戸時代の生産活動を支えていたのは農民、漁民そして商人たちでした。一方、武家社会はいっさい生産活動を行わない消費を生業とする階級だったのです。そんな時代をしたたかに生きた農工商そして町人たちは猫の額ほどの町家地の中で生産活動に勤しみ、宵越しの金をもたない慎ましやかな生活を営んでいた様子が江戸の古地図を見ると浮かびあがってくるのです。

銀座8丁目を過ぎると新橋へと入ってきます。このつづきは其の弐へ。

私本東海道五十三次道中記~お江戸日本橋から品川宿~(其の二)





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私本東海道五十三次道中記~神奈川宿~

2012年01月12日 12時16分27秒 | 私本東海道五十三次道中記
広重「神奈川台の景」

生麦事件碑を過ぎると旧東海道は国道15号と合流します。合流地点から15号に沿って京浜急行の新子安駅、子安駅を過ぎ神奈川新町駅を目指します。この区間は旧東海道らしさがまったく感じられない道のりです。神奈川新町駅に近づく頃、15号に面して建つセブンイレブン横浜浦島町店の角を入り、最初の角を左折して2ブロック目に小さな公園が現れます。ちょうどこのあたりが東海道三番宿「神奈川宿」の江戸方見附(宿の東側の起点)があったところで、江戸時代には街道の両側に土塁が築かれていたようです。現在、小さな公園(神奈川通東公園)になっている場所にはかつては「長延寺」という寺があったのです。ここ神奈川宿は江戸から7里の位置にあり、神奈川湊をもつ宿場として発展してきました。尚、現在では横浜(港)のほうがはるかに発展していますが、開港当時の横浜は神奈川宿の南にある戸数100余りの漁村だったのです。

幕末の安政元年(1854)の和親条約調印後、各国はここ神奈川宿に公館を構えていましたが、長延寺は横浜に外国人居留地が整備されるまでのわずかな期間、オランダ領事館に充てられていました。その時から140年余り経った現在、見附も長延寺もなく、ただ案内板だけが一つ置かれているだけです。

長延寺跡をあとにして再び国道15号沿いの歩道を進むと、右手に立派な山門が現れてきます。門柱には「良泉寺」とあります。

良泉寺山門
良泉寺境内とご本堂

開港当時、諸外国の領事館に充てられることを快よしとしないこの寺の住職は、本堂の屋根をはがし、修理中であるとの理由を口実にして、幕府の命令を断ったといわれる寺だそうです。幕府の権威が失墜していた幕末であっても、幕府にたて突くとは気骨溢れるご住職だったようです。

そして良泉寺西側の塀に沿って路地を入り、そのまま直進し京急のガードをくぐると正面に現れるのが、「笠脱(かさぬぎ)稲荷大明神」です。この名の由来は旅人がこの社の前を通りかかると不思議にかぶっていた笠が脱げ落ちるということからこう呼ばれるようになったとのこと。

笠脱稲荷大明神
笠脱稲荷大明神ご本殿

建立の歴史は古く平安時代の天慶年間(938~947)で京都の伏見稲荷の分霊を勧請したものだそうです。境内には木々が茂り、京急の線路脇にもかかわらずこんもりとした林を形成しています。その境内の一角に二本の銀杏の木が寄り添っているかのような「御神木」を見つけました。その木の傍らに「夫婦和合・大銀杏」と架かれた木札が置かれています。

夫婦和合・大銀杏

再び京急のガードをくぐり元の道へと戻り、最初の角を左折すると右側に能満寺が現れます。成安元年(1299)、この地の漁師が海中から霊像を拾い上げたところ、霊像の宣託にしたがって建てたのがこの寺であるとの伝承があります。本尊は高さ五寸(15㎝)木造坐像の虚空蔵菩薩で海中より出現したと伝えられています。以前は道を挟んで隣に鎮座する「神名宮」の別当寺で同一境内に同社もあったのですが、明治時代の神仏分離令で別れ現在に至っています。

能満寺山門
能満寺ご本堂

能満寺から京急仲木戸駅まではわずかな距離です。仲木戸駅はJR東神奈川駅に隣接しています。二股に分かれている駅前通りを渡り、セブンイレブンの横の路地を進んでいきましょう。

路地に入ると、にわかに街道らしい風景が目に飛び込んできます。細い路地の両脇に松の並木が連なり、旧街道の風情が感じられる味わい深い通りになっています。綺麗に整備されかつての神奈川宿の道筋を歩いているかのような錯覚に陥ります。

金蔵院山門
金蔵院境内

そんな松並木通りに面して建っているのが立派な門構えの寺、「金蔵院」です。開基は平安末期という古刹ですが、江戸時代には神君家康公から十石の朱印地を賜っています。かつて本堂前には家康公の「御手折梅」が植えられていたとのこと。そして毎年1月の江戸城登城の折にはこの梅の枝を携えるのが慣わしであったといわれています。

熊野神社ご本殿

松並木通りを挟んで金蔵院と相対するように建つのが神奈川郷の総鎮守として信仰を集めてきた熊野神社です。江戸時代には金蔵院境内に置かれていましたが、明治の神仏分離令で別々の敷地に分かれています。

神奈川宿高札場

旧街道の面影を残す松並木通りを進むと左手に復元された「高札場」が現れます。ほぼ忠実に復元されたもので横5.7m×奥行1.7m×高さ 3.5mほどの大きなものです。この高札場は神奈川地区センターの前に置かれていますが、トイレを借りるにはここセンターを利用することをお勧めいたします。

成佛寺門前
外国人宣教師宿舎碑
成佛寺ご本堂

この地区センターを過ぎるとすぐ右手に現れるのが「成佛寺」です。鎌倉時代に開基した古刹ですが、徳川三代将軍家光の上洛に際し、宿泊所の神奈川御殿造営のため寺地が現在地に移された歴史をもっています。安政六年(1859)の開港当初はアメリカ人宣教師の宿舎に使われていましたが、その宣教師の中でもヘボン式ローマ字で有名なヘボンは本堂に住み、日本最初の和英辞典を完成したブラウンは庫裏に住んでいたといいます。尚、ここ神奈川宿にはヘボン博士の施療所として使われていた宗興寺があります。またヘボン博士は明治学院を創設した教育者でもあります。

余談ですが、ヘボンを英語で綴ると「Hepburn」なのですが、実はあのローマの休日で主役を演じたオードリー・ヘップバーンと同じなのです。 日本では英語読みの「ヘボン」では彼女の優雅さが表現できないという理由からなのか、聞こえのいい「ヘップバーン」と表記したようです。

慶雲寺門前

成佛寺を退去し、左へと進むと道は行き止まります。T字路を右へ進み京急のガードをくぐるとすぐ右手に現れるのが浦島寺と呼ばれている慶雲寺が現れます。横浜開港当初はフランス領事館に充てられていた歴史を持っています。

フランス領事館記念碑

室町時代に開基された古刹である慶雲寺には浦島太郎が竜宮城より持ち帰ったという観音像など浦島伝説にちなむ遺品が伝わっています。境内には浦島父子の墓もあります。浦島伝説なるものは日本のいたるところで伝わっていますが、ここ神奈川の浦島伝説も私たちが知る物語とほぼ同じ内容
です。

慶雲寺

浦島太郎が竜宮城で過ごした3年は300年に相当し、久しぶりに帰ってきた故郷には太郎の知る人は誰もいなかったことで物語りは終わるのですが、実は慶運寺の解説板には、この事実を知った浦島太郎は神奈川の浜から亀に乗って竜宮に戻り、再び故郷には戻ることがなかったと記されています。まあ伝説ですからその真意は定かではありませんが、ここ慶運寺に浦島親子の墓があるということはやはりここ神奈川の地で亡くなったことも異説として伝わっていたのでしょう。

浦島親子の墓

ただし慶運寺が浦島寺と呼ばれるようになったのは明治6年(1873)のことなのです。というのも浦島太郎が竜宮から戻って庵を結んだ場所が「帰国山浦島院観福寿寺」であったらしいのです。しかしこの観福寿寺は慶応4年(1868)の大火で焼失し、その後廃寺となってしまいます。そして明治6年にここ慶運寺が観福寿寺を併合し浦島伝説を継承したのです。

慶雲寺から再びもと来た道へ引き返し、国道15号まで進みましょう。ちょうど15号に出たあたりに神奈川町本陣跡の案内板が置かれています。かつて本陣があった場所はいまやビルが立ち並び、神奈川宿の中心であった名残りはまったく感じられません。

それではほんの少しの間15号に沿って歩き、再び旧街道へと戻ることにしましょう。旧街道へ入る前にヘボン博士の施療所があった宗興寺に立ち寄ってみましょう。神奈川町本陣跡から滝の川に架かる「滝の橋」を渡り2本目の角を右に折れると宗興寺です。現代的な建物に変身した宗興寺の山門を入ると、奥に施療所を記念する石碑が置かれています。

宗興寺のヘボン博士施療所記念碑

宗興寺を後に再び15号へ戻ると前方に宮前商店街のゲートが見えてきます。この商店街通りが旧街道なのですが、まったく商店らしきものがないのに商店街とはこれいかに?

洲崎神社鳥居

通りに入るとすぐ右手に洲崎神社の鳥居が現れます。洲崎と名が付いていることから、かつては水辺が近かったことを意味しています。石段を登り境内に入ると、前方に立派な社殿が現れます。実は現在の宮前商店街通りと15号が突き当たる辺りがかつて船着場があった場所なのです。そして横浜が開港されると、この船着場は開港場と神奈川宿とを結ぶ渡船場となり宮ノ下河岸渡船場と呼ばれていたようです。

洲崎神社弐の鳥居
洲崎神社社殿

そしてさらに宮前商店街通りを進み、通りが終わる辺りに建つのが「甚行寺」です。この寺も幕末にはフランス公使館が置かれていました。

甚行寺フランス公使館記念碑

こう考えると神奈川宿は幕末の一時期はは多くの異人さんが行き交う、国際色豊かな町だったことが伺われます。住み慣れた母国を離れ、極東の宿場町に住んだ異人さんたちは木と紙でできた寺に住み、冬ともなれば隙間風に身を凍らせ、さぞ不安げな日々を過ごしていたのではと歩きながら考えた次第です。

旧街道は京急の神奈川駅の脇を通り、JRの線路を跨ぐ陸橋へとさしかかります。陸橋の上から右手の高台を見上げると寺院らしきものが目に飛び込んできます。これが有名な本覚寺です。何が有名かというと、横浜開港当時、米国の初代領事であるハリスは神奈川宿から横浜への渡船場に近く、横浜を眼下に望み、湾内を一望できる高台に位置する当本覚寺をアメリカ領事館に決めたのです。領事館時代には当寺の山門はアメリカ人好みの白ペンキで塗られていたようです。

本覚寺門前のアメリカ領事館記念碑
本覚寺山門
本覚寺ご本堂

本覚寺の高台からは横浜駅周辺のビル群が一望でき、かつてはここから横浜の海を眺めることができたのかと思うと、時代の変遷をつくづくと感じざるを得ません。

神奈川宿は江戸寄りの見附から4キロほどの距離につらなる大きな宿場町だったようです。旧街道はJR線路を横切り、更に西へと向かいます。いったん谷あいに下った街道は徐々に上り坂へと姿を変えていきます。その上り坂が「台町」と呼ばれる旧神奈川宿の袖ヶ浦地区なのです。

大綱金毘羅神社の鳥居
大綱金毘羅神社社殿

その台町へとさしかかる入口に鎮座するのが大綱金毘羅神社です。旧街道に面して朱色の鳥居が立ち、石段が境内へとつづいています。平安末期の創建と古い神社で、神奈川湊に出入りする船乗りたちから崇められ、また大天狗の伝説が伝わっています。社殿横には大きな天狗様の面と天狗様の団扇が構えています。また、江戸時代には当神社前には江戸から数えて7つ目の一里塚が置かれていたとのことです。

大綱金毘羅神社を過ぎると、いよいよ台町の上り坂へとさしかかります。広重の「神奈川宿」はちょうどこの付近を描いたものと言われています。江戸時代には台町の坂の片側には数多くの茶屋が軒を連ね、その造りは座敷二階造、欄干つきの廊下、桟をわたして波打ち際の景色を眺めることができたといいます。

田中家
田中家全景

坂道の両側はマンションの建物が立ち、かつての面影はまったく感じられませんが、坂の途中にある文久3年(1863)創業の割烹料理屋「田中家」が昔の風情をなんとか醸し出しています。この田中家の前身はあの広重の「神奈川台の景」の中に描いた「さくらや」という腰掛茶屋だったのです。実際に広重の描いた絵と比べてみても、確かにこの場所は坂道の途中に位置し、かつては波打ち際の景色を見渡せたと思われるような立地になっています。余談ですが、この田中家になんと坂本竜馬の妻であった「おりょうさん」が仲居として働いていたという話が伝わっているのです。おりょうさんはその後、田中家に客としてやってきた横須賀の西村松兵衛と結婚し所帯を持つことになり、名も西村ツルと変えています。ですからおりょうさんの墓が横須賀市大津の浄土宗「信楽寺」にあることになるんですね。

神奈川台の関門跡

心臓破りの台の坂を登りきったあたりに一つの石碑が置かれています。石碑には「神奈川台の関門跡」の文字が刻まれています。この関門とはいわゆる関所の役割を担っていたもので、実は横浜開港直後には外国人の殺傷事件が相次ぎ、幕府はその対策のために横浜周辺各所に関門を設けたのですが、このうち一つとして神奈川宿の西側置かれた関門があった場所がこのあたりだったのです。

関門を過ぎると旧街道は緩やかな下りへと変わり、坂を下りきると上台橋に至ります。この辺りが神奈川宿の西の端にあたり、東海道は次の宿場である「保土ヶ谷」へと続いていきます。





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私本東海道五十三次道中記~川崎宿から神奈川宿~

2011年12月12日 16時07分07秒 | 私本東海道五十三次道中記
道としての東海道は古くは律令時代には早くも整備されていたのですが、本格的な街道として東海道が誕生するのは慶長6年(1601)の家康公の「五街道整備」によって、お江戸日本橋から京の三条大橋にいたる間に五十三箇所の宿駅を設けたことに始まります。そしてこの間126里6丁1間(492km)の間に置かれた五十三の宿駅がいわゆる東海道五十三次なのです。

六郷渡舟

大江戸散策徒然噺では花のお江戸の風土記と併せ、「私本東海道中膝栗毛」と題しお江戸日本橋から十一宿の三島宿まで気ままに旅をつづけてまいりたいと考えています。まず旅の始まりの道中区間は弐番宿の川崎から参番宿の神奈川宿までの約9.8km。雲ひとつない初冬の空の下、賑やかな川崎駅南口から市役所通りを南下し旧街道との交差点である「小土呂」を目指します。

小土呂交差点を左折すると道は旧街道を偲ばせるように急に細くなります。とは言っても、今は歴史街道の風情を感じさせるような建造物はまったく見当たりません。かつての川崎宿は久根崎(くねざき)、新宿(しんしゅく)、砂子、小土呂(こどろ)の4村で構成され、本陣2軒、脇本陣0軒、旅籠72軒を構えていました。尚、川崎宿の成立は東海道の中では最も遅く1623年の頃です。

歩き始めた小土呂は本来の川崎宿の西に位置し、すぐに京都側の入口である「京口」を過ぎてしまいます。その昔は京口をでるとそこは街道の両側に田畑が広がり景色へと変わります。そんな景色をいつしか「八丁畷(はっちょうなわて)」と呼ぶようになりました。畷(なわて)とは田の間の道という意味なのですが、川崎宿を抜けた東海道は広々とした田畑の間を八丁の長さ(約870m)の道が真っ直ぐに延びていたのでしょう。

芭蕉句碑
芭蕉句碑

お江戸の響きを残す八丁畷は現在も京急線の駅名としてそのまま使われています。この八丁畷駅の50mほど手前の街道脇に置かれているのが「芭蕉の句碑」です。

元禄7年(1694)五月、芭蕉は江戸深川の芭蕉庵を立って、郷里の伊賀へと旅立ちます。体力的にも衰えが目立つ芭蕉を慮って、多くの弟子たちは六郷川(現在の多摩川)を越え、川崎宿を通り抜けたここ八丁畷まで来てしまいました。そしてここにあった腰掛茶屋で別れを惜しみつつ、句を詠みあったのです。

その時、芭蕉が弟子たちに返した句が「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」という惜別の句なのです。前述のように当寺はこのあたり一帯は麦畑に覆われ、初夏五月の風にそよぐ麦の穂に寄せて、いつまた再会できるかという別れに堪える気持ちを表現したものです。

芭蕉を見送りにきていた弟子「曽良(そら)」は頼りなげな芭蕉を気遣い、さらに二泊して箱根の関所まで送ったのです。芭蕉が関所を越え、その姿が見えなくなるまで見送ってから曽良は一人江戸へ戻るのですが、その時に詠った句が「ふつと来て関より帰る五月雨」。本来であれば六郷手前で別れるはずが、曽良はあしかけ三日もかけて箱根の関所までやってきてしまったのです。

尚、芭蕉はこの年元禄7年の十月に「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」の句を残して五十一歳の生涯を閉じています。ここ八丁畷の句碑は1830年に俳人の一種によって京口付近に建てられたのですが、、その後何度か移動し現在の場所に落ち着いています。

京急線の八丁畷駅の踏み切りを渡ってすぐ左手に置かれているのが「無縁塚」です。江戸時代に川崎宿で震災、大火、飢餓、疫病などで身元不明の死者が出たとき、この場所にまとめて埋葬したらしく、たくさんの人骨が出てきたといいます。その方々を弔うために慰霊塔が建てられています。

無縁塚

この慰霊塔を過ぎると川崎市から横浜市鶴見区へと地名は変わり、町名が「市場」となります。「市場」の名の由来は江戸開幕のはるか以前の天文年間頃(1532~1554)にこの辺りで海産物の市が開かれていたことによります。そして江戸時代には米の粉で餡(あんこ)を包んだ「米饅頭(よねまんじゅう)が名物となり、ここ市場村には米饅頭屋が40軒ほどあったといいます。小腹を減らした旅人がここらあたりで休憩がてらに饅頭をほおばっていた光景が目に浮かんできます。

そんな市場町に沿って歩いていると右手に現れるのが「熊野神社」です。街道沿いに立つ鳥居から見るとまるで丸裸にされてしまったかのように木々がまったくない境内の奥に社殿がぽつねんと置かれています。かつてはおそらく鎮守の森に覆われていたのではないでしょうか?

熊野神社
熊野神社鳥居と社殿

そんな熊野神社はその昔、小田原北条氏を攻め滅ぼし、家康公が関八州を秀吉から賜り江戸に初入府する際に当社に立ち寄り武運を祈ったと言われています。ですから、それなりに由緒ある神社なのですが、境内の佇まいからは趣がまったく感じられません。

そして市場町の西のはずれにあたる場所にお江戸日本橋から数えて五番目の「一里塚」が残っています。この一つ手前の4番目の一里塚は六郷、一つ先は東子安の一里塚になるのですが、ここ市場一里塚は京浜間で唯一残っているものです。

市場一里塚

一里塚をすぎるとまもなく鶴見川に架かる鶴見橋を渡ります。鶴見橋の上から右手を望むと、曹洞宗の本山である総持寺の甍とその遥か後方に白く雪をいただいた富士の嶺が初冬の青空にくっきりと映えていました。橋の西詰めには「鶴見橋関門跡」の碑が置かれています。

鶴見橋関門跡

この関門はあの安政の大獄(1858)によって浪士による外国人殺傷事件が頻繁に発生したことで、浪士取締りのために設けた7つの関門の一つです。ここ鶴見橋関門は井伊直弼が暗殺された桜田門外の変が起こった年である万延元年(1860)の四月に設置されましたが、なんとこの2年後の文久2年(1862)には生麦事件が起こってしまいます。生麦事件を受けて、幕府は川崎から保土ヶ谷までの間に警備強化のため見張り番所が二十ヶ所も設置されています。

鶴見橋を渡るとそれまで歩道がなかった街道はきれいに整備され、電信柱もないすっきりとした道筋に姿を変えます。そんな歩道の脇に見つけたのが石造りの「寺尾稲荷道標」です。この場所がちょうど東海道と小杉道、寺尾道の分岐点にあたります。

寺尾稲荷道標

旧東海道はこの先で国道15号線と交差し、いよいよ「生麦」へとさしかかってきます。生麦の名の由来は二代将軍秀忠公の頃、将軍の行列の際、ぬかるんでいた道に生麦を刈り取って敷いたことから付けられたと言われています。その後、この生麦の地は漁業を営む権利を幕府より与えられ幕府に魚を献上する「御菜八ヶ村」の一つとして、また間の宿としてたいそう賑わっていました。街道の海側の家の裏手はすぐ海で、漁師たちが捕れた魚、蛤、タコ、イカなどを売っていました。

現在でもここ生麦の旧街道沿いには魚介を扱う仲買人の店(80軒)が連なり、生麦魚河岸通りと呼ばれ、往時を彷彿とさせるような賑わいを見せています。

魚河岸通りを進んでいくと右手に現れるのが「道念稲荷」です。円形の大きな石標に「道念稲荷」と刻まれ、その石標の脇から稲荷祠にまっすぐに参道が延びています。その参道には氏子が寄進した朱色の鳥居が並んでいます。

道念稲荷石標

ここ道念稲荷では三百年に渡って伝わる「蛇も蚊も祭り(じゃもかもまつり)」が行われています。この祭りは悪疫が流行したとき、萱(かや)で作った蛇体に悪霊を封じ海に流したことに始まります。また生麦が農漁村であったことから、豊作・豊漁を祈るお祭りでもあったのです。

道念稲荷鳥居
氏子寄進の鳥居
道念稲荷祠

さて生麦といえば、あの幕末に薩摩藩島津久光公の行列の行く手を邪魔をしたとして起こった英国人殺傷事件がまず頭に思い浮かびます。時の幕府が朝廷に約束した「攘夷」を薩摩がいち早く決行したとして攘夷派を喜ばせた事件だったのですが、あにはからんや、薩摩を攘夷から開国へと大きく転換させた「薩英戦争」のきっかけともなった歴史のターニングポイントだったのです。

その事件が起こった場所がいつ目の前に現れるのか心待ちにして歩いていたのですが、なんとその場所は街道筋の民家の塀に説明版が一枚貼ってあるだけの寂しいものだったのです。あの大事件の発生場所にもかかわらずこの程度か。と思わせるような扱いだったことに驚き、期待はずれの感。

生麦事件石碑
生麦事件石碑

とおもいきや、旧街道はキリンビールの工場の敷地脇へと入ってきます。すると期待通りの石碑がきちんと置かれているではありませんか。もともとは現在の場所とは違う所に置かれていたのですが、道路工事のため移転してきたとあります。綺麗に整備された敷地に建つ真新しい木造の祠の中に石碑が置かれています。

石碑が置かれている旧東海道は左手にキリンビールの工場の広大な敷地に沿ってつづき、ちょうどキリンビアビレッジの入口辺りで国道15号線と合流します。次の神奈川宿入口まではさしたる見どころがなく、しばらく国道15号線に沿って歩くことになります。次回は神奈川宿から保土ヶ谷宿を踏破します。





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私本東海道五十三次道中記~品川宿」の名刹・古刹巡り~大きな地蔵が門前に鎮座する品川寺~(その五)

2011年06月21日 08時42分50秒 | 私本東海道五十三次道中記
旧東海道はまもなく京浜急行の「青物横丁駅」へ通ずるプラタナスの並木(ジュネーブ平和通り)へとさしかかります。なぜジュネーブ平和通りかと言うのは、品川寺とスイス・ジュネーブ市がある理由で深い関係があることからなのですが、この理由は後ほど述べる事として品川寺へと歩を進めていきましょう。

お地藏様と山門

この品川寺ですが読み方として品川にあるので、つい「しながわでら」と読んでしまいがちなのですが、実は「ほんせんじ」と読むのが正解なのです。

旧東海道の道筋に面して品川寺の入口が構えています。この品川寺には大きな青銅の地蔵菩薩座像が鎮座しているのですが、実はこの地蔵は「江戸六地蔵」に一つに数えられています。江戸に出入りする六つの街道の入口にれぞれ一体ずつ安置され、品川寺にはその第一番東海道の尊像として、「天下安全、仏法繁栄(ぶっぽうはんえい)、衆人快楽(しゅうじんけらく)」の祈願のもと奉安されています。このお地蔵さまが当寺に寄進されたのは開幕からおよそ100年余り経った宝永5年(1708)のこと。その後、現在まで300余年に渡って街道を行き来する人たちの旅の安全を見守ってくれていたんですね。

お地蔵さま

実は私自身、江戸六地蔵と呼ばれ、現存している5体の地蔵さまの内、4体のお地蔵様にすでにお参りしていました。そして5体目にあたる品川寺のお地蔵様にやっと巡り合うことができました。
お地蔵様は旧街道からほんの少し奥まった場所に鎮座していました。江戸名所図絵を見ると、ほぼ現在の位置と変わらない場所に鎮座しており、お江戸の時代からその位置が変わっていないことがわかります。

柔和なお顔立ちのお地蔵様としばし対面した後、街道から奥まったところに構える山門へとすすんで行きます。境内は新緑の葉に覆われた木々がうっそうと繁り、梅雨の晴れ間の陽射しも遮られ、ひやっとした感覚が肌に伝わってきます。

山門

境内はそれほど広く感じないのですが、訪れる人もなく静かな空気が境内を包んでいます。その境内に梵鐘を吊り下げた鐘楼が立っています。この梵鐘こそが冒頭に記した「スイス・ジュネーブ」と深い関係があるのです。

鐘楼

実はこの鐘は幕末の慶応3年(1867)にパリ万国博覧会に出品されたのですが、日本に返される途中になんと行方不明となってしまうのです。その後、大正8年にこの鐘がスイスのジュネーブにあるアリアナ美術館に保管されていることがわかり、昭和5年(1930)にここ品川寺にめでたく返還されたという嘘のような本当の話が伝わっています。このような話からこの鐘は「洋行帰りの鐘」と呼ばれています。
これをきっかけに品川区とジュネーブ市は平成3年に友好都市提携を結びました。だからジュネーブ平和通り、と名付けたり、この通りには「しながわ・ジュネーブ友好の花時計」が置かれています。

またこの梵鐘はあの振袖火事が起こった明暦3年(1657)に徳川三代の将軍、家康公・秀忠公・家光公の供養のために鋳造されたもので、徳川三代の将軍のそれぞれの号、東照宮、台徳院殿、大猷院殿と6体の観音像が浮き彫りにされ、さらに観音経一巻が陰刻されており、江戸の時代には「世にもまれなる梵鐘」と呼ばれていました。

残念ながら梵鐘の側にまで行く事ができないため、遠目から眺めるしかありません。境内にはもう一つ目をみはるような大きな銀杏の木が聳え立っています。なんと樹齢400年を数えるというほどの大銀杏です。

ご本堂
大銀杏
山門

当寺、品川寺は幕末の頃は荒れるがままに荒廃していたといいます。品川寺の復興は大正初期まで待たなければなりませんでした。現在ある堂宇はすべて大正以降に建立されたものです。ただ門前のお地蔵さまと大銀杏だけが物言わぬ証人として、品川寺の歴史を語ってくれているような気がします。

私本東海道五十三次道中記~品川宿」の名刹・古刹巡り(その一)
私本東海道五十三次道中記~品川宿」の名刹・古刹巡り~荏原神社~(その二)
私本東海道五十三次道中記~品川宿」の名刹・古刹巡り~東海禅寺と沢庵和尚の墓~(その三)
私本東海道五十三次道中記~品川宿」の名刹・古刹巡り~北の天王さん・品川神社と板垣退助の墓~(その四)





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私本東海道五十三次道中記~品川宿」の名刹・古刹巡り~北の天王さん・品川神社と板垣退助の墓~(その四)

2011年06月17日 13時00分53秒 | 私本東海道五十三次道中記
当ブログの品川宿の名刹・古刹巡りの(その二)でご紹介した荏原神社と対をなす品川神社は南に位置する荏原神社を「南の天王さん」に呼応して北の天王さんと呼ばれ親しまれています。

その縁起は古く、12世紀後半の文治3年(1187)に安房国(千葉県館山)洲崎明神の天比理乃�起命を勧請して祀ったのがはじまりといわれています。
また家康公とは関わりが深く、関ケ原の戦いに出陣する祭に家康公は当社に詣で神前で太々神楽(だいだいかぐら)を奏でたそうです。そのご利益があってか関ケ原の戦いで勝利した後、家康公は御輿と仮面を当社に奉納されています。

第一京浜に沿って走る京浜急行の「新馬場駅」から至近に位置する品川神社はかつては風向明媚な江戸湾の海原を一望できる高台に鎮座しています。第一京浜の賑やかな通りに面して立派な鳥居が立っています。他の神社にはあまり見られないような、鳥居の両柱には龍が巻き付いているレリーフが施されています。

品川神社石柱
品川神社鳥居
龍のレリーフ(左)
龍のレリーフ(右)

鳥居の脇には「新東京百景」と刻まれた石柱が立っています。実は当社は昭和7年(1932)に新束京八名勝の第三位に選出されたらしいのです。その時の一位が池上本門寺、二位が西新井大師だったそうです。

新東京百景の石柱

鳥居をくぐると見上げるような急峻な石段が天空へとのびています。所謂、これが俗に言う「男坂」なるものと勝手に判断しながら、老骨に鞭打ちゆっくりと登りました。膝がケタケタ笑いそうな位にしんどい石段です。石段を登りきり振り返ると、遥か彼方に天王洲のビル群が目に飛び込んできます。江戸時代には東海道の脇まで江戸湾の波が打ち寄せ、その波打ち際には洲崎の砂洲が広がっていたのではないでしょうか。そしてその砂州にはあの利田神社の祠を遠望できたのではないでしょうか。

石段
石段を見下ろす

石段を登りきると、もう一つの鳥居が迎えてくれます。境内の右手には神楽殿、そして一番奥に拝殿が控えています。境内には梅雨どきの代表花である「あじさい」が彩りを添えていました。

品川神社本社殿
本社殿とあじさい

実は品川神社を訪れた別の理由として、板垣退助の墓を一度詣でたいと常々考えていたことを実現したかったからです。神社にどうして板垣退助の墓が?と疑問に思っていたのですが、板垣退助の墓はかつて当神社に隣接していた東海禅寺の塔中の「高源院」の墓地にあったものなのです。しかし現在、高源院はなく板垣退助の遺言に従って墓だけを残したと言われています。尚、高源院は昭和14年に世田谷の烏山へ移っています。

品川神社の本社殿の裏側へ通じる細い道を進んでいくと突然視界が広がります。ちょうど高台にしつらえられたテラスのような場所なのですが、この一角全体が板垣家の墓域になっているようです。もう少し整備してもいいのではないかな、と思うような佇まいです。

板垣家の墓域
板垣退助の墓
右:板垣退助 左:奥様
板垣死すとも…の石碑

この一角の一番奥におそらく板垣退助と奥様の墓が並んで置かれているようです。確かに立派な墓石が2基立っています。そしてその傍らに「板垣死すとも、自由は死なず」と刻まれた大きな自然石で造られた石碑が置かれています。憲政史に残る偉大な政治家である板垣退助が眠る墓前で、昨今のあきれた政治に愚痴をこぼしてきた次第です。

私本東海道五十三次道中記~品川宿の名刹・古刹巡り(その一)
私本東海道五十三次道中記~品川宿の名刹・古刹巡り~荏原神社~(その二)
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私本東海道五十三次道中記~品川宿」の名刹・古刹巡り~東海禅寺と沢庵和尚の墓~(その三)

2011年06月17日 10時54分32秒 | 私本東海道五十三次道中記
荏原神社の参詣を終え、いったん旧街道から大きくそれて第一京浜の北側にある品川神社とあの問答河岸で有名な東海禅寺を目指すことにします。

三代将軍家光公が当河岸の波止場から東海禅寺に入る時に沢庵和尚が迎え出て問答をした故事に因んでいます。
その問答とは
将軍「海近くして東(遠)海寺とはこれ如何に」
和尚「大軍を率いても将(小)軍と言うが如し」

また沢庵和尚は家光公に自らが作った「たくわえ漬」を供したところ、家光公はその美味しさに「たくわけ漬」でなく「たくわん漬」と名付けたという逸話が残っています。

目黒川左岸を北上すると前方に京浜急行の新しい駅「新馬場」の高架が見えてきます。ちょうど目黒川を跨ぐように造られた駅です。この駅に沿って走るのが第一京浜です。そして第一京浜が目黒川を跨ぐ橋が東海寺に因んで名付けられた「東海橋」です。まずは山手通りに沿って「東海禅寺」の山門へと進んで行きます。

東海禅寺の石柱

この東海禅寺は臨済宗大徳寺派の寺院で創建は寛永16年(1639)。開基はなんと三代将軍家光公なのです。そして家光自身が沢庵宗彭(たくわんそうほう)を招聘して住職としたほどの権威ある寺院だったのです。

東海禅寺山門

現在の東海禅寺は山手通りからつづく参道の先に山門を構え、境内は目黒川沿いにまで広がっています。ただ将軍家光公開基の寺にしては規模といい、伽藍の構成において見劣りしてしまうほど縮小されています。これは維新後、新政府により寺領が接収され一時期、衰退し荒れ果ててしまったことを物語っています。
かつて寺勢が最も強かった頃の寺領は現在のJRの線路を越えた高台から、品川神社の境内を含んだ広大な範囲の中に10以上の塔中、子院が点在していたのです。尚、品川神社は東海禅寺の鎮守として創建されたものです。

鐘楼

山門をくぐると右手に見事な梵鐘を吊り下げた鐘楼が目に飛び込んできます。この本鐘は元禄5年(1692)に幕府の御用鋳物師である名工椎名伊予守良寛によって造られたもので総高187cm、口径106cmの巨大な鐘です。

世尊殿
世尊殿前の蓮花

この鐘楼に隣接して東海禅寺の仏殿である「世尊殿」が堂々とした姿で置かれています。それほど古くはなく、昭和5年(1930)に建築されたものです。仏殿には本尊の釈迦三尊像をはじめ、閻魔王・帝釈天・達磨大師・地蔵菩薩・十六羅漢などの仏像が安置されているとのことです。

そして最も訪れて見たかった沢庵和尚の墓はどこにあるのか、と境内を探したのですが見つかりません。いたしかたなく山門をでて参道を進んだところに、墓域は別の場所にある旨の掲示板がありました。前述のようにかつて広大な寺領を有していたことを裏付けるように、JRの線路の向こう側の高台に沢庵和尚の墓があるのです。

山手通りに沿ってなだらかな坂を登ること5分ほどでJRの高架下に到着します。高架をくぐるとすぐ右に細い道が線路づたいに続いています。この道の入口脇に「官営品川硝子製造所跡」の碑が置かれています。この官営品川硝子製造所は明治に入って、かつての東海禅寺の境内に建てられたものです。

官営品川硝子製造所跡碑

線路沿いの細い道を進むと沢庵和尚の墓を示す石柱とその石柱の脇に墓地へとつづく石段が目に飛び込んできます。木々に覆われた石段は昼でもなにやら薄気味悪い雰囲気を漂わせています。意を決して石段を登って行くと木々に覆われ陽射しを遮られた墓域は静寂の空気に包まれています。

沢庵和尚墓の石柱
墓域へつづく石段

和尚の墓はすぐにわかります。墓域は木製の門と竹の囲いで囲まれています。その墓域の一番奥に直径1m高さ0.5mのやや扁平な自然石を台座の上に載せているだけの質素な墓が置かれています。一般的に開山僧の墓は丸みをおびた卵型の塔身が置かれた「無縫塔」と思っていたのですが、沢庵和尚の人となりを表したような天衣無縫な墓であったことに感動しました。実はこの墓の設計者は造園の名手であった小堀遠州と伝えられています。

沢庵和尚の墓の門
沢庵和尚墓域
沢庵和尚の墓石

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