大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

私本東海道五十三次道中記~品川宿の名刹・古刹巡り~荏原神社~(その二)

2011年06月16日 15時47分01秒 | 私本東海道五十三次道中記
再び、旧東海道へ戻り旅をつづけます。

これまで地方に残る東海道筋を巡っていますが、大きな都市の中を走る旧東海道はどこも様変わりし、古さはまったく感じられませんでした。もちろん大都市・東京のお膝元にある品川宿もかつての古さや趣を感じる場所がほとんど残っていませんが、わずかな距離の中にこれほどまでに神社・仏閣が次ぎから次へと現れてくることに驚かされます。

旧街道を下りながら、山側すなわち街道右側のちょっと奥まった場所に大小のお寺が密集しているのです。
すべてのお寺に立ち寄りながら、所縁や縁起などに触れるのもいいのですが、あまりに多いため今回は代表的な神社・仏閣に焦点をあてながら散策を愉しみました。

こんなに多い神社・仏閣を巡る場合はやはり地図が必要です。事前に「旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会」のホームページから「まち歩きマップ」を印刷するか、旧街道にある「品川宿交流館」で「まち歩きマップ」を購入(一部50円)することをお薦めします。散策には結構どころか、かなり役立つ優れものです。

そんな神社・仏閣の中で次に訪れたのが由緒ある荏原神社です。旧街道が目黒川にさしかかるところに架かるのが「品川橋」です。この橋上から上流を眺めると朱色に塗られ、宝珠を備える欄干が目に飛び込んできます。
「鎮守橋」と呼ばれる橋で荏原神社の鳥居へと繋がる参道をなしています。

荏原神社鎮守橋
鎮守橋から大鳥居へ

目黒川の左岸にこんもりとした鎮守の森の中に荏原神社の社殿が鎮座しています。目黒川に沿って河岸を歩いていくと大鳥居が現れ、鳥居の奥に木々に囲まれた社殿が静かに佇んでいます。梅雨の晴れ間の暑い陽射しが木々の葉で遮られ、いっときの涼を愉しむことができました。

荏原神社名石柱
荏原神社大鳥居
荏原神社社殿

当社の由緒によると古くは「源氏」との関係まで遡ります。後冷泉天皇の御代、康平5年(1062年)、朝廷の命を受けた源頼義・義家両朝臣が陸奥の安部貞任・宗任を討伐することとなりました。前九年、後三年の役のことで両人は当社に戦勝祈願奉幣され、戦勝後も再び奉幣されたと言われています。まあ、この二人はいたる所で戦勝祈願や凱旋報告をし、その都度なんらかの物を奉納しているのですが、当社にはその所縁のものはないようです。

そして徳川将軍家との関わりとしては、天正18年(1589年)、家康公の東海道御通行の際、御愛蔵の左文字壱振りを当社に奉納され、天正19年11月には、御自身の武運長久を祈られて、神領五石の朱印を寄進されました。天正19年(1590)には家康公は豊臣勢に加わり、小田原北条氏を攻め滅亡させています。
その後幕末まで歴代将軍より朱印を寄進されるなど、幕府の崇敬も篤く関ヶ原の戦い、大阪冬の陣には、二代将軍秀忠公の戦勝祈願の参詣も受けています。

更には皇室との繋がりも深く、明治元年10月12日、東京遷都の際をはじめとして同年12月8日・翌2年3月27日の明治天皇京都・東京行幸の際に当社に行幸され、内侍所とされました。(内侍所とは宮中賢所にあたります。)また明治2年、英照皇太后東京行幸の際にも当社にお立ち寄りになられました。
たしかに旧東海道のすぐ脇に社殿を構える当社は、神道を奉ずる天皇家にとって御休憩所としては願ったりかなったりの立地だったと思われます。

またこの荏原神社は江戸時代には大江戸夏祭りの花形であった「南の天王祭」が執り行われることで知られています。この天王祭とは宝治元年六月、京都八坂神社より牛頭天王が当社に勧請されたことに始まります。都内で唯一、御神面を神輿につけての海中渡御が行われており、荏原天王祭「かっぱ祭り」として、全国に知られています。尚、今年は震災の影響により天王祭は中止となりました。

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