樹源寺を後に旧東海道の旅を続けていきましょう。元町橋バス停を過ぎていくとT字路に突き当たります。その脇には「歴史の道」の道標が立っていて、左手の道は「権太坂」、今来た道は「上方見附1km・一里塚1km・本陣跡1.5km」となっています。T字路を左折して元町橋を渡っていくと、正面に歩道橋が見えてきます。その手前から右手へと延びる道が権太坂へとつづいていきます。この右手の坂道を辿ると、江戸から上方へ向かう東海道で最初に出会う難所の「権太坂」です。
旧街道の権太坂入口
戸塚宿までの行程ではこの権太坂の一番坂、二番坂をはいじめ焼餅坂、品濃坂と起伏の多い地形が続きます。年始に行われる「箱根駅伝」では旧東海道の権太坂は通りませんが、国道1号線の坂を権太坂と呼び、往路2区の難所として知られています。旧街道の権太坂の頂点付近まで約1.5km、標高差60mの結構きつい坂道です。
それまで平坦であった旧東海道は権太坂入口から突如として急勾配の坂道へと変貌します。登り始めてから1分ほどで赤い鳥居が現れます。この鳥居の奥に「権太坂改修記念碑」が置かれています。この辺りが最初のきつい坂です。
権太坂改修記念碑
いっきに登りつめるような急な坂道がしばらくつづき、保土ヶ谷バイパスに架かる権太坂陸橋が見えてきます。このあたりもまだ坂がつづきます。陸橋をすぎるとやや勾配は緩やかになるのですが、これまでの急坂でかなりエネルギーを消耗してしまった体には、緩やかな勾配であっても体に負担がかかります。
いわゆる一番坂と呼ばれる坂が終わるころ、路傍に「権太坂」と刻まれた石柱が置かれています。その脇に案内板が置かれ、権太坂の名の由来が記されています。
権太坂の石柱
その由来とは、「あるとき、旅人がこの坂の近くにいた老人に坂の名前を尋ねたところ、耳の遠い老人が自分の名前を聞かれたと思い込み、「ごんたでございます」と答え、それから権太坂と呼ばれるようになった。と記されていました。
権太坂の石柱を過ぎて緩やかになった道を進むと、右手に保土ヶ谷の進学校として有名な光陵高等学校の校門が現れます。そしてこの校門を過ぎると、再び登りの傾斜が増してきます。
これが権太坂の二番坂です。
権太坂の二番坂
この二番坂を登りきると、ほぼ権太坂の頂上地点に到着です。標高差が約60m~70mの権太坂はかつてはかなりの難所で多くの旅人や牛馬もそのきつさに「行倒れ」になってしまったと言われています。そんな哀れにも行倒れになった人たちや牛馬を埋葬した場所が「投げ込み塚」の名で旧街道からちょっと逸れた場所に残っています。
投げ込み塚
「往時旅人の行倒れせし者多く、之を埋葬せる処也。」ということで塚がここに建てられています。「偶々当地区開発に当り多数の白骨を発掘、現在平戸町東福寺境内にて再埋葬供養碑を建て、之が菩提を弔ひ在者也。 昭和三十九年四月建之」の文字が刻まれています。
投げ込み塚から再び旧街道に戻ると、境木(さかいぎ)という地名に変わります。そんな境木には江戸時代に権太坂を登ってきた旅人や、はたまた反対側の品濃坂や焼餅坂を登ってきた旅人のための「立場茶屋」があったところで、多くの旅人が疲れた体を休めた場所でもあります。江戸時代には「牡丹餅」が名物でかなり評判になっていたようです。
そして現代版の茶店ではありませんが、ここ境木には現代の旅人の疲れを癒す「おじぞうさん最中」なる和菓子を売る店があります。こんな下見をしていて楽しみなのはその土地土地の名物を食してみるということもたいへん重要なことなのです。
おじぞうさん最中の店
さっそくメンバー共々、店に入り名物の「おじぞうさん最中(1個190円)」を購入して食べることにしました。私は「つぶ餡」を食べたのですが、疲れ切った体に、餡の甘味が一気に染み渡っていったように感じました。「おじぞうさん最中」はこのつぶ餡とこし餡の2種類がありますが、どちらの最中もたいへん美味しいです。
おじぞうさん最中
また最中以外に「権太坂むしどら焼き」もあり、これもふわふわ生地の中につぶ餡が入っていてたいそう美味しく感じました。
権太坂むしどら焼き
権太坂むしどら焼き
ちょっと寄り道をして、エネルギーを補充した後、境木立場跡へと向かうことにします。立場とは宿場町と宿場町との間に設けられたもので、そこには旅人が体を休めるための「茶屋」が置かれていました。その境木の茶屋の一つであった「若林家」の門が旧街道に面して今でも残っています。この若林家は明治の中ごろまで黒塗りの馬乗門や本陣さながらの構えの建物だったと伝えられ、なんと参勤交代の大名までもが利用していたと伝えられています。
境木の立場跡
若林家の門
さて、境木という地名の由来ですが武相(武蔵と相模)の国境があったところです。江戸時代にはその標(傍示杭(ぼうじぐい)あるいは境杭(さかいぐい)と呼ばれる木柱)が建てられていて、境木の地名はそれからきたといわれています。
そして境木を有名にした言い伝えが残っています。『いつの頃か相模国鎌倉腰越の海辺に漂着した地蔵が土地の漁師の夢枕にたち、「俺は江戸の方へ行きたい。運んでくれたらこの海を守ろう」と告げたので、漁師達が江戸へ運ぶ途中、この境木で動かなくなった為、村人達は地蔵を引き取りお堂を建てて安置したところ、それからは村が繁昌したということです。』
境木地蔵尊
境木地蔵の祠
祠の中のお地蔵さん
そんな噂を聞きつけた江戸の人たちもたくさんここを訪れ、境内には寄付された燈籠が残っています。
境木地蔵尊前の広場には「武相国境之木」と記された記念碑が建っています。私たちの東海道の旅もいよいよ武蔵野国から相模の国へと進んでいきます。
武相国境之木の記念碑
其の参へつづく
私本東海道五十三次道中記~保土ヶ谷宿から戸塚宿~(其の一)
私本東海道五十三次道中記~保土ヶ谷宿から戸塚宿~(其の三)
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旧街道の権太坂入口
戸塚宿までの行程ではこの権太坂の一番坂、二番坂をはいじめ焼餅坂、品濃坂と起伏の多い地形が続きます。年始に行われる「箱根駅伝」では旧東海道の権太坂は通りませんが、国道1号線の坂を権太坂と呼び、往路2区の難所として知られています。旧街道の権太坂の頂点付近まで約1.5km、標高差60mの結構きつい坂道です。
それまで平坦であった旧東海道は権太坂入口から突如として急勾配の坂道へと変貌します。登り始めてから1分ほどで赤い鳥居が現れます。この鳥居の奥に「権太坂改修記念碑」が置かれています。この辺りが最初のきつい坂です。
権太坂改修記念碑
いっきに登りつめるような急な坂道がしばらくつづき、保土ヶ谷バイパスに架かる権太坂陸橋が見えてきます。このあたりもまだ坂がつづきます。陸橋をすぎるとやや勾配は緩やかになるのですが、これまでの急坂でかなりエネルギーを消耗してしまった体には、緩やかな勾配であっても体に負担がかかります。
いわゆる一番坂と呼ばれる坂が終わるころ、路傍に「権太坂」と刻まれた石柱が置かれています。その脇に案内板が置かれ、権太坂の名の由来が記されています。
権太坂の石柱
その由来とは、「あるとき、旅人がこの坂の近くにいた老人に坂の名前を尋ねたところ、耳の遠い老人が自分の名前を聞かれたと思い込み、「ごんたでございます」と答え、それから権太坂と呼ばれるようになった。と記されていました。
権太坂の石柱を過ぎて緩やかになった道を進むと、右手に保土ヶ谷の進学校として有名な光陵高等学校の校門が現れます。そしてこの校門を過ぎると、再び登りの傾斜が増してきます。
これが権太坂の二番坂です。
権太坂の二番坂
この二番坂を登りきると、ほぼ権太坂の頂上地点に到着です。標高差が約60m~70mの権太坂はかつてはかなりの難所で多くの旅人や牛馬もそのきつさに「行倒れ」になってしまったと言われています。そんな哀れにも行倒れになった人たちや牛馬を埋葬した場所が「投げ込み塚」の名で旧街道からちょっと逸れた場所に残っています。
投げ込み塚
「往時旅人の行倒れせし者多く、之を埋葬せる処也。」ということで塚がここに建てられています。「偶々当地区開発に当り多数の白骨を発掘、現在平戸町東福寺境内にて再埋葬供養碑を建て、之が菩提を弔ひ在者也。 昭和三十九年四月建之」の文字が刻まれています。
投げ込み塚から再び旧街道に戻ると、境木(さかいぎ)という地名に変わります。そんな境木には江戸時代に権太坂を登ってきた旅人や、はたまた反対側の品濃坂や焼餅坂を登ってきた旅人のための「立場茶屋」があったところで、多くの旅人が疲れた体を休めた場所でもあります。江戸時代には「牡丹餅」が名物でかなり評判になっていたようです。
そして現代版の茶店ではありませんが、ここ境木には現代の旅人の疲れを癒す「おじぞうさん最中」なる和菓子を売る店があります。こんな下見をしていて楽しみなのはその土地土地の名物を食してみるということもたいへん重要なことなのです。
おじぞうさん最中の店
さっそくメンバー共々、店に入り名物の「おじぞうさん最中(1個190円)」を購入して食べることにしました。私は「つぶ餡」を食べたのですが、疲れ切った体に、餡の甘味が一気に染み渡っていったように感じました。「おじぞうさん最中」はこのつぶ餡とこし餡の2種類がありますが、どちらの最中もたいへん美味しいです。
おじぞうさん最中
また最中以外に「権太坂むしどら焼き」もあり、これもふわふわ生地の中につぶ餡が入っていてたいそう美味しく感じました。
権太坂むしどら焼き
権太坂むしどら焼き
ちょっと寄り道をして、エネルギーを補充した後、境木立場跡へと向かうことにします。立場とは宿場町と宿場町との間に設けられたもので、そこには旅人が体を休めるための「茶屋」が置かれていました。その境木の茶屋の一つであった「若林家」の門が旧街道に面して今でも残っています。この若林家は明治の中ごろまで黒塗りの馬乗門や本陣さながらの構えの建物だったと伝えられ、なんと参勤交代の大名までもが利用していたと伝えられています。
境木の立場跡
若林家の門
さて、境木という地名の由来ですが武相(武蔵と相模)の国境があったところです。江戸時代にはその標(傍示杭(ぼうじぐい)あるいは境杭(さかいぐい)と呼ばれる木柱)が建てられていて、境木の地名はそれからきたといわれています。
そして境木を有名にした言い伝えが残っています。『いつの頃か相模国鎌倉腰越の海辺に漂着した地蔵が土地の漁師の夢枕にたち、「俺は江戸の方へ行きたい。運んでくれたらこの海を守ろう」と告げたので、漁師達が江戸へ運ぶ途中、この境木で動かなくなった為、村人達は地蔵を引き取りお堂を建てて安置したところ、それからは村が繁昌したということです。』
境木地蔵尊
境木地蔵の祠
祠の中のお地蔵さん
そんな噂を聞きつけた江戸の人たちもたくさんここを訪れ、境内には寄付された燈籠が残っています。
境木地蔵尊前の広場には「武相国境之木」と記された記念碑が建っています。私たちの東海道の旅もいよいよ武蔵野国から相模の国へと進んでいきます。
武相国境之木の記念碑
其の参へつづく
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