尾上町をゆく(29) 今福(18) フケの川・1(五ヶ井用水)
『日本書紀(にほんしょき)に、次のような話があります。
・・・
(今から1300年以上も前のことです)聖徳太子は、叔母君の33代・推古天皇(すいこてんのう)のために法華経(ほけきょう)の講義をしました。
これを聞かれた推古天皇は、大いに感動され、その労をねぎらうために、播磨の国の良田、500町歩を聖徳太子に与えました。
太子はこれをありがたくお受けして、斑鳩寺(揖保郡太子町)と鶴林寺に分け、それぞれ361町、139町を分け与え荘園としました。
・・・・
そして、鶴林寺の田畑を潤すために造られたのが「五ヶ井用水」だというのです。
しかし、加古川の本流に堰(せき)を築き、洪水の時にも崩れない、しっかりとした堤と水門をつくり加古川から取水するためには、それだけの技術の進歩が必要となります。
聖徳太子の時代には、まだそれだけの技術の発達はありません。
それに、何よりもひろい地域を一体的に支配する権力者が出現し、村々の代表の結びつきができなければ、ひろい地域の灌漑施設できません。
それ以前の水路は、加古川の古い流路を利用していたと考えられます。
このようなことから考えて、『加古川市史』は、「・・・五ヶ井用水は、戦国時代以降とみてよい」と記しています。
少しだけ付け加えておきます。加古川地方は奈良の西大寺と影響下にありました。西大寺の技術集団は高度な土木を持った技術集団でした。
ですから、五ヶ井用水は鎌倉時代までさかのぼれるかもしれません。
なぜ「五ヶ井用水」
五ヶ井用水の名称は、昔の①北条郷(大野・美乃利・平野・中津・寺家町・篠原・溝口)、②岸南庄(加古川‐現在の本町・木村・友沢)、③長田庄(長田・安田・新野辺・口里・北在家)、④加古庄(粟津・備後・植田)それに⑤今福庄の五つの地域と集落に水路が引かれているところからつけられた名称です。
五ヶ井用水は、幾筋にも分かれていますが、今福を通る五ヶ井は、神鋼々線のグランドに沿って流れる用水です。
中谷理髪店のところを西にカーブし、新幹線とまじわり流れる養田川がそれです。
昔はホタルが飛び交い、水遊びの子どもの歓声があったといいます。
*写真:五ヶ井用水の支流(今福を流れるフケの川)