尾上町をゆく(21) 今福(10) 泉福寺の五輪塔
現在では、路傍の石仏や五輪塔の多くは、誰が造ったのかわかりません。
五輪塔(ごりんとう)
平安時代以前、仏教は主に貴族や豪族のためのもので、庶民にはまだ縁遠いものでした。
しかし、鎌倉時代に親鸞(しんらん)や日蓮(にちれん)等が新しい仏教をはじめ、またたくまに庶民の間に広まりました。
それまでは、金属や木で見事な仏像がつくられ、それを安置する立派な寺院も多く造られました。
鎌倉時代には、これらに代わって石の仏像や五輪塔が多く造られるようになりました。
石の方が雨ざらしでおけるし、場所をとらず、何よりも安くつくることができたからです。
五輪塔は、鎌倉時代や南北朝時代までは死者の冥福(めいふく)を祈る供養塔であっても、多くの場合、まだ個人のためのものではなかったのです。
これが、個人の墓塔に使われだすのは、次の室町時代を待たねばなりません。
生活に余裕のなかった当時の庶民は、数人で、また村全体で自分の祖先の魂(霊)を供養するために五輪塔を造りました。
ですから時代が新しくなるほど、一般的には五輪塔は小さく、また簡素なものが多くなります。
仏教では「私たちの住む世界の全ての物質と現象は、五つの元素(空気・風・火・水・土=地)の組み合わせにより成り立っている」としています。
五輪塔は、これら五つの元素を形にしたもので、それぞれ上から空輪・風輪・火輪・水輪・地輪と名前がついています。
一結衆
泉福寺の五輪塔は、火輪の一部が破損していており、幅に対して高さがあり、やや不安定な形になっています。
竜山石製 1.82メートル
銘文 文和二年二月二五日
一結衆
*文和二年・・・1353年
銘文の一結衆(いっけつしゅう)に注目ください。
五輪塔の造立者は一人で造立するには負担が多すぎたのでしょう。同じ信仰で結ばれた講をつくり、多数の願いで造っています。
泉福寺の五輪塔も、同じ信仰を持つ講衆、つまり今福村全体で造立したと考えられます。
この五輪塔について『加古川市史(第七巻)』は「・・・もともとこの場所にあったのではなく、現在の公会堂のあるところに泉福寺の支配下の薬師堂・延命寺(えんめいじ)があり、そこに置かれていました。それが昭和47年7月、現在の場所に移されました・・・」と書かれています。
若干間違いがありそうです。『加古川市史(第七巻)』の説明について、次号で訂正します。