西神吉町をゆく(27) 富木、南宗寺の観音さん
昭和54年度の地区役員の田中由美さんは南宗手の観音さんについて、次のように話されています。
南宗寺の観音さん
南宗寺は、数百年前大和の国の露岡寺(つゆおかてら)の観音さんを受けてきて祭ったものです。
しかし、いっの頃かその観音さんは盗まれてしまって、今祭っている観音さんは当特のものではありません。
この観音さん「はめ(まむし)」をよける利益があると言い伝えられており、毎年夏祭りの初めに川の砂をとってきてきて・観音堂の下にある石囲いの壷の中にいっぱいれ、その砂を身つけていると「はめ」にかまれないといって、他の村からもらいにくる人があったほどでした。
このお蔭でこの村では、はめで被害を受けたという人はありませんでした。
富木の南宗寺の今から五代前の院主さんは、絵の上手な人で、号を露岡寺からとって露岡がとされ、多くの作品を残されています。
百年ほど前、大干ばつがあった時、田も池も干があっがてしまいました。
そこで雨乞いすることになり・姫路の寺から火をもらい、その先を木の先に藁をくくりつけ、それに火をつけて池の回りをまわりました。
その時、干上あがった鷭みず池(ばんずいけ)の中から石の地蔵さんが掘り出されました。
それをきれいに洗って、観音堂の中に祭ったら大雨が降り、それ以後は雨乞いの地蔵として、あらたかと言い伝えられています。
観音堂のまわありには大人の両手にもまわらないくらいの松が十一本。その中でも一番大きな松は大人三人でもかかえきれぬ程大きなもので、ふくろうがすんでいました。
それを太平洋戦争鞍争の末期、供出として切り倒し、根を掘りおこして、飛行機の燃料として供出しました。
その他、大きな杉の木やむくの木があり、子供達はそれらの木に登って遊んだものでした。戦時中、出征兵士を晃送る時は、観音堂に集まって出征しました。
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