神野町をゆく(34) 万才池の研究(5)・万才池ができた
村の人は苦労して万才池をつくり、田をつくり、そして、田をつくった後は、池から水を流してくる溝をつくりました。
・・・・いちばん下の田で使い終わった水は、川へ流してしまうのではなく、隣の村の用水路に流れ込むようにしたそうです。
万才池ができた後
「万才池ができてからは、水の心配はなくなったのですか」
「よくなったが、それでも水はたりなかった。
曇川は見てのとおり、小さな小川だ。秋から冬の間に水がいっぱいにならないことが、よくあったものだよ。
そういう時は、村の人たちはみんなが集まって、今年は五分植えにしようとか、三分植えにするかなどと相談するんだ。
五分植えというのは、いつもの年の半分しか田植えをしないことで・・・」
「今は、どうなんですか」
「135メートルもボーリングして、地下水を汲み上げているし、田んぼも少なくなったものだから、水不足はなくなったよ。
でも家や工場がふえて、用水路に汚れた水が流れ込むので、困っているんだよ」
*昭和55年発行の『小学校社会四年・上』(学校図書)で神野町の万才池が地域学習のモデルとして取り上げられ、全国に紹介されました。紙面の都合上一部省略しています。
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