犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

哲学の系譜と刑事法学の系譜

2007-05-17 19:05:11 | 国家・政治・刑罰
ヘーゲルを頂点とするドイツ観念論の没落は、自然科学と実証主義の台頭によるものであった。刑事法学においても、ヘーゲルから「人間を動物のように扱う理論だ」と批判されたフォイエルバッハが、罪刑法定主義を確立して近代刑法の父と呼ばれるようになる。ただ、その刑事法の内容は、ヘーゲルを乗り越えたとは言えない。自然法論は中世のトマス・アクィナス(Thomas Aquinas、1225頃-1274)に遡り、実体法はデカルト二元論を採用している。また、ロックの民主主義はモンテスキュー(Montesquieu・Charles-Louis de Secondat、1689-1755)、ベッカリーア(Cesare Bonesana Beccaria、1738-1794)からフォイエルバッハに引き継がれており、哲学の系譜からは離れている。

フォイエルバッハの罪刑法定主義は、ベンサム(Jeremy Bentham、1748-1832)の功利主義を取り入れたものであって、人間の内的倫理よりも、刑罰という害悪による威嚇を重視する。法と道徳の峻別は、信教の自由、思想良心の自由を保障する近代国家の原則と結びつくことになる。そこにおける人間像は、どこまでも打算的であって、倫理的でも道徳的でもない。10万円の罰金を科される危険があるならば、1万円の盗みは思いとどまるだろうという理屈である。これは「法は君子でなく小人をモデルとすべきであって、それ以上のものを要求すべきでない」という標語で示される。こうして見ると、近代刑法において犯罪被害者が見落とされた構造が明らかになってくる。

法と道徳とは峻別すべきであり、法の本質は強制にあるという考え方が最も明確に現れたのが、社会主義の思想である。マルクス(Karl Heinrich Marx、1818-1883)によれば、法律とは搾取階級と被搾取階級とが階級闘争を繰り返しているのを覆い隠すための手段にすぎない。労働者が資本家の財産を取り返そうとすると、警察や軍隊が出てきて労働者を弾圧し、刑法犯として罰することによって革命を弾圧するというものである。法律とは、資本家とその代表者である国家が都合のよいように発した命令であり、労働者はこの法律に従う必要がないという理論である。ソ連の崩壊に至るまで、このような思想が日本に与えた影響は非常に大きかった。このようなイデオロギーが強烈に残っている時代においては、犯罪被害者の存在が見落とされるのは必然的であった。

近代刑法は、国家権力を悪とする啓蒙思想、罪刑法定主義の流れの上に成立しているものに過ぎず、国家観を根本から問い直すことは可能である。犯罪被害者の問題は、コペルニクス的転回を必要とするものである。そうであるならば、実定法を追うのに忙しい刑事法学からは見向きもされないヘーゲルの『法哲学綱要』、ハートの『法の概念』なども、大いに参考になるものと思われる。犯罪被害者の問題は、政治問題として争うことによって解決に近づく種類のものではない。

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