犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

映画 『0(ゼロ)からの風』 続き

2007-05-21 17:27:49 | その他
刑事事件とその裁判の問題を扱った映画としては、周防正行監督が痴漢冤罪の問題を扱った『それでもボクはやってない』が大きな話題となった。この社会的反響と比べると、上映場所や上映期間を比較してみても、『0からの風』の反響はあまり大きくない。時期を同じくして、主演の杉浦太陽さんと辻希美さんとのできちゃった婚が発表されたが、その軽さと映画の重さとのギャップが大きく、あまりPRにはならなかったようである。

『それでもボクはやってない』においては、主人公は全くの無実で濡れ衣であるという正解が最初から与えられている。警察官も検察官も裁判官もすべて間違っているという答えが最初から与えられており、善悪二元論でわかりやすい。ストーリー性があって、感情移入しやすい。人間は、もしも自分が無実の罪で逮捕されてしまったら、犯罪者と疑われてしまったら、という想像をする。このような想像をすると、人間は本能的に血が騒ぐ。話が非常に単純でわかりやすいからである。無実であるにも関わらず有罪判決が下されたとき、そのストーリーは最高潮に達し、悲劇のヒーローが誕生する。

人間がこのようなストーリー性に感動したとき、そのような社会は改めるべきであるとの熱い主張が自動的に導かれる。我々は電車の中ではいつでも一方的に犯罪者に仕立て上げられる危険と直面しており、社会全体で問題としていかなければならないとの認識である。このような自らを正義の側に置く思想は、理想主義の青年に「われわれ意識」を生じさせ、団結を促すようになる。正解と不正解、善と悪の二項対立が明確だからである。

これに対して、もしも自分や自分の大切な人が被害に遭ってしまったら、という想像は楽しくない。そのような事態は縁起でもなく、本能的に考えたくない話である。血は全く騒がない。逆に血の気が失せ、血が凍る。被害者は悲劇のヒーローではない。ストーリー性がなく、感情移入しにくい。被害者の本当の悲しみは、被害に遭った者しかわからないからである。犯罪被害を経験したことのない人間にとっては、どうしても「われわれ意識」が生じにくく、理想主義の青年にとっては団結がしにくい。

我が国の裁判は、長きにわたって被害者を見落としてきた。その原因は、学問的な熟慮の結果としての選択よりも、このようなストーリー性の有無、感情移入のしやすさの差が大きい。人間は、血が凍る話よりも、血が騒ぐ話に流れやすい。そのほうが安易で気持ちいいからである。痴漢冤罪の問題については、その理不尽を解消する方法として、「無罪判決」という明らかなゴールを設定できる。これに対して、犯罪被害の問題については、「厳罰化」という明らかなゴールを設定することができない。もちろん、明確な解答がない問題のほうが、物事のより深い地点を捉えていることは当然である。それゆえに、伝わらない人にはなかなか伝わらない。

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