犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

言葉が対象を生み出す

2007-05-04 19:35:15 | 言語・論理・構造
「なぜ被告人は殺人を犯したのか」。刑事事件に関する従来の問いは、これに尽きていた。このような観点に固まってしまえば、あとは被告人の動機や生い立ちを細かく分析して、更生と再犯防止の対策を考える方向しか見えなくなる。今でも多くの法律家は、この観点から抜けられていない。

観点を変えてみることとは、主語を変えてみることである。「なぜ被害者は殺されたのか」。もう一歩進んで、「なぜ被害者は殺されなければならなかったのか」。物理的に見れば全く同じ1つの殺人事件が、問い方によって違ったものに見えてくる。「ものは言いよう」という格言は、この上なく正しい。言語化されないものは、人間にとっては端的に存在しない。これは、人間が言語を所有する動物であることの必然である。物理的な物体も、言語によって把握されない限り、その存在には気付かれない。犯罪被害者が戦後長きにわたって刑事裁判の場から見落とされてきたことも、この言語の性質によるものである。

人間以外の動物は言葉を持たない。動物にとっては、人間の話し声は「音」であり、人間が書く文字は「絵」である。これは、動物が絶対音感と絶対視感を有するということである。これに対して人間は、話し声や文字から意味を読み取ることができる。これは相対音感と相対視感である。人間の言語活動とはこのようなものであり、法律もこのような人間の言語生活における一部分の現象にすぎない。相対音感と相対視感を有する人間においては、言語化されていないものは、端的にこの世に存在していない。

ウィトゲンシュタインに始まる日常言語学派は、専門用語を軽蔑し、日常用語で語れることこそが世界を構成していることを解明した。これに対して、法律の専門用語ばかりが飛び交う裁判の法廷は、日常用語を不明確なものとして見下そうとする。そして、「なぜ被告人は殺人を犯したのか」という問いは許容するが、「なぜ被害者は殺されなければならなかったのか」という問いは許容しない。さらには、法律用語によって処理できない問いには、法廷の秩序を乱す言いがかりであるとのレッテルが貼られることになる。

専門用語の存在は、日常用語に依存している。それは、論理的な順序である以上に、法律家も普段は日常用語を話さなければ生活できないという事実において明らかである。その意味で、専門用語は虚構である。ゆえに専門用語の体系は、「なぜ被害者は殺されなければならなかったのか」という問いを恐れる。これは、言葉が対象を生み出すことの端的な証左であり、専門用語による言語化がいかに人為的なものであるかを暴くものである。

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