犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

藤井誠二編著 『少年犯罪被害者遺族』 第3場

2007-04-17 18:48:01 | 読書感想文
第3場 本当の償いとは何ですか ― 村井玲子さんとの対話

刑法の主語は加害者であり、少年法の主語は加害少年である。このような法律の構造は、戦後50年間の国民が被害者を見落としていたことと連動している。法律がそのようになっているならば、世論はわざわざゼロから物事を疑ったりしない。村井さんは、このような日本社会の言語に丸め込まれそうになりながら、自分自身の力で状況を言語化してストーリーを作った。「その人生」における「その被害」は世界に1つであり、社会の常識に負けて言語化ができなければ、その「その被害」を語る言葉は永久に逃げてゆく。それを引き出した藤井氏の手腕には敬服するしかない。

村井さんが修復的司法に抱いた不信感は、欺瞞的な支援の大合唱に対する本能的な違和感によるものであろう。支援者が被害者遺族に共感するために最も有効な方法は、自分も同じ目に遭うことである。これは動かぬ真実である。「被害者遺族に共感したい」という意見を突き詰めるならば、それは「自分の家族が犯罪被害で死ぬことを望んでいること」に行き着いてしまう。これも論理の必然である。この絶望的な事実を直視した上で、自分も同じ目に遭わない限りは絶対にわかり合えないという残酷な大前提を受け入れることによって、初めて被害者遺族の支援の意味が見えてくる。

これに対して修復的司法のパラダイムは、この一番絶望的な部分を見ていないため、話が上滑りしている。自分を絶対的な安全地帯に置き、自分の家族が犯罪被害で死ぬことはないという根拠のない自信を前提として、被害者遺族に支援を与えようとする。これが最大の欺瞞である。犯罪被害は修復できるという結論の先取りは、欺瞞的な結論にすべてフタをする。もともと綺麗ごとでは済まされない話である以上、綺麗ごとのストーリーを描くことは、すべて偽善となる。第1段階から第4段階といった車の教習所のような技術は、「その人生」における「その被害」は世界に1つであるという哲学的な真実を隠蔽する。赦すことが正しいという空気に飲まれてしまえば、哲学的懐疑は永久に終わりである。

村井さんは、「私が知っている被害者遺族の人たちから、『それをやりたいんだよ』と言われて、私がやったことは間違っていなかったんだ、自分がやったことはそういうことだったんだと思いました。誰に教わったわけでもないし、むしろ誰も教えてくれなかった」と述べている。哲学なき社会では、自分の頭1つで哲学を始めるしかない。少年法の厳罰化に反対する立場は、村井さんに対して「厳罰派」とのレッテルを貼るだろうが、これは鈍感な態度である。自分自身の力で状況を言語化してストーリーを作る作業においては、いかなる派閥や団体も頼りにならない。「その人生」は世界に1つだからである。

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2 コメント

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本の紹介 (清高)
2011-06-23 17:18:45
ハワード・ゼア『修復的司法とは何か』、読了しました。

この本を読んだ限りでは、このエントリー、とんちんかんと断言しても差し支えないですね。被害者に対して強制はしないという考えであり、被害者のニーズを汲むのがベースになっているようですよ。

ただ、修復的司法の実践例は、軽微な財産的犯罪のようですが。
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清高様 (某Y.ike)
2011-07-03 21:25:01
遅くなりました。
ハワード・ゼア著『修復的司法とは何か』は、大学院のゼミの副読本でしたので、かなり前に読んだことがあります。詳しい内容は覚えていません。
「被害者に対して強制はしない」「修復的司法の実践例は軽微な財産的犯罪である」という点に関しては、哲学者・池田晶子氏の言葉を借りて言えば、「狂気の宿らない学問などクズに等しい」と思います。
学問することすなわち考えることと、現に自分がこのように生きていることが一致しているのであれば、仮に自分が実際に加害者側に置かれたとしても、もしくは被害者側に置かれたとしても、その理論の通りに生きるという確信と自負があるはずであり(これが狂気です)、「強制はしない」「軽微事件に限る」という中途半端な態度は採れないはずだからです。
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