犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

藤井誠二編著 『少年犯罪被害者遺族』 第2場

2007-04-15 19:27:05 | 読書感想文
第2場 人権は誰のためのものなのか ― 宮田幸久さんとの対話

現代は人間にとって生命の重さの感覚を持ちにくい時代である。これは、現代社会の生活の中から死が遠ざけられていることの影響が大きい。人間の生命が失われたならば二度と取り戻すことのできないという厳格さは、生活の中ではほとんど意識されていない。死が生活から遠ざけられれば、その反面である生も見えなくなるのは当然である。生と死は表裏一体だからである。人間が生きていられるのは、死んでいない限りにおいてである。人間は、死ぬまでは生きることができ、生きている間は絶対に死なない。

裁判においては、人間は法律の条文の中で生きたり死んだりするしかない。法律家は毎日このような言語体系を駆使して、次から次へと事件を処理している。そこでは近代刑法の罪刑法定主義と証拠裁判主義の貫徹が最優先とされ、それは人間の生命の重さよりも優先される。仮に加害者が実際に殺意を持っていても、本人が殺意を否認するなどして立証が困難であれば、法律的には殺人罪(刑法199条)ではなく軽い傷害致死罪(205条)が成立することになる。しかも、これは近代刑法の定義からは「誤判」のカテゴリーに含まれない。

宮田さんは次のように述べる。「考えてもみて下さい。生きているからこそ人権も保障されるのです。それを殺人が被害者の全ての人権を消滅させたのです。しかも、もはや回復することはできないのです」。全くもってその通りであり、当たり前のことである。しかしながら、法律学のパラダイムはすべてを政治的な文脈で捉えた結果として、人権と生命の地位を逆転させてしまった。二度と取り戻すことのできない生命という厳格さを直視するならば、修復的司法などそう簡単には実現できないことに気づくはずである。

人権意識や人権感覚は教育によって教えられるが、命を大切さや命の重さは簡単に教えられるものではない。これらは、最終的には自ら驚いて、自ら気がつくしかない性質のものである。そして、大人はそのためのきっかけを与えることができるのみである。宮田さんが行っている講演会は、このようなきっかけを与える役割を果たしている。

従来は「人権」といえば、厳罰化の反対や冤罪の救済という方向に決まりきっていたが、これも必然的な結びつきではない。二度と取り戻すことのできない生命という厳格さに気がついたならば、「人権」という概念も、命を大切さや命の重さとの関連で捉えられるしかないだろう。これは、人間存在においては論理の必然である。政治的な多数決で決める話ではない。

最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
命は同じ (imacoco)
2007-04-17 10:51:38
「死」は理屈ではないですよね。
愛する存在の死に真っ直ぐ向き合ったときにのみ、生の尊厳と生きる意味が開闢されると ボクは思います。
国家が「決める」問題ではないと思いますね。
返信する
その通りです。 (法哲学研究生)
2007-04-17 18:55:18
コメントありがとうございます。
脳死論議の迷走も、この基本がずれていたことが原因でしょう。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。