犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

佐伯啓思著 『自由とは何か』

2007-04-14 20:06:24 | 読書感想文
刑法の自由保障機能とは、恣意的な刑罰権の発動によって国民の自由が侵害されないようにするものであり、近代刑法の大原則である。刑法の教科書にはこのように書かれているが、どうにも世間の実感とは離れている。国民が安心して生活することができているのは、刑法の自由保障機能よりも、法益保護機能によるところが大きい。歴史はどうあれ、我々は18世紀のフランスに生きているわけではない。多くの国民にとって刑法の自由保障機能がピンとこないのであれば、それは紛れもない事実である。

法哲学においては専門的な「自由論」が盛り上がっているが、やはり世の中の関心とはかなりずれている。自分の生命・身体・財産に関して、他人に危害を及ぼさない限り、たとえその決定が当人にとって不利益なことでも、自己決定の権限をもつとする立場をリベラリズムという。このように「社会的公正」にある程度の価値を置くリベラリズムに対し、個人に他の自由を侵さない限りにおいて最大限の自由を認めるべきであるとし、自由に最大の価値を置く個人主義的な立場をリバタリアニズムという。これは机上の空論としては盛り上がるが、社会問題を解決するための理論としてはあまり役に立っていない。

リバタリアニズムからすれば、「人に迷惑をかけない限り何をしてもいい」という理屈は非の打ち所がない。生真面目に考えれば考えるほど、この理屈を否定できなくなる。社会科学が机上の空論になりがちなのは、物事を客観的に対象化して捉えるあまり、大上段な視点を構えてしまうことである。そこでは自分自身が現にこの世に生きて生活していることと、抽象的な理論が別物になってしまっている。法哲学者が「人に迷惑をかけない限り何をしてもいい」という理屈の中に入り込んで大真面目に考えているとき、無意識のうちに自分を高みに立たせており、自分の身内や友人を抜かして考えている。

自由は大切な価値である。それでは、人間に自由が保障されるとして、人間は自由に何をすればいいのか。自由に自由を求めるというのでは意味がない。しかしながら、自由を求める行為は、自由の獲得を自己目的化しがちである。これが反権力の自己目的化という変形ニヒリズムである。このような変形ニヒリズムは、人間は自分の生死からは絶対に自由になれないことを隠蔽しようとする心理から生じる。自由を自己目的化すれば、それは不自由の対概念である以上、自由を侵害する悪者に登場してもらうしかない。近代刑法が刑事被告人中心の理論であり、犯罪被害者が見落とされてきたのも、このような変形ニヒリズムの理論が主流であったことが大きい。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。