犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

小西聖子著 『犯罪被害者の心の傷』 後半

2007-04-12 18:49:28 | 読書感想文
性犯罪における最大の2次的被害は、法廷に証人として呼ばれて、被告人側の弁護士から反対尋問を受けることである。そこでは事件の内容について詳しく聞かれて、嫌でも事件について思い出すことを強制させられる。ここでは最初の心の傷を思い出す上に、さらなる心の傷を負う。

このような2次的被害の防止にとって最も好ましいことは、被害者が法廷に呼ばれないことである。これは論理的に疑いようがない。そして、そのためには、被告人がすべてを自白して反省し、被害者の捜査段階での供述調書を不同意にしないことが最も望ましい方法である。これも疑いようがない。被害者の2次的被害の防止という目的から考えれば、これが論理的に最高の選択肢である。

しかしながら、憲法は被告人に否認する権利を保障し、反対尋問権を保障している。これを綺麗ごとでなく論理的に突き詰めれば、憲法は被害者の心のケアを第一に考えていない。被告人の人権の前には、被害者の2次的被害の防止を劣後させているということである。ここでは、心理学の文脈は、完全に法律学の文脈にその主導権を譲っている。PTSDやトラウマの理論は、被告弁護側に供述調書への同意を強制することもできなければ、供述調書に証拠能力を認めさせることもできない。

もちろん現在では、ビデオリンクや遮へい板など様々な方策が用いられている。しかし、これらはあくまでも次善の策である。2次的被害の防止にとっては、被害者が裁判所に呼ばれることがなく、事件について質問されないことが最善策である。この単純な事実だけは、どうしても否定できない。現在のシステムにおいては、法律学が反対尋問権の存在を宗教的に押し付けており、心理学がその事後処理に走り回っている構図が固定している。このような心理学と法律学の力関係を前提とする限り、被害者の心のケアという文脈は、不可避的に被害者の人権の問題を精神的問題として矮小化してしまう一面がある。

犯罪被害者の2次的被害である心の傷が最高潮に達するのが、無罪判決が出てしまったときであろう。2次的被害を防ぐためには、裁判所が無罪判決を出さないことが望まれる。これも論理的に疑いがない。しかし、裁判所はそのような理由で有罪・無罪を決めるわけではない。これも綺麗ごとでは済まない事実である。

無罪の推定というイデオロギーは、被害者に対して、被告人を「条件的に」憎むという不自然な心理状態を強要する。そして、被害者は裁判が有罪になるのか無罪になるのか、不安定な状態の中で生活をしなければならなくなる。すべては裁判所に委ねられ、自分ではどうすることもできない。これが、心理学の文脈が法律学の文脈に主導権を譲っていることに基づく、被害者の2次的被害である。

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