犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

宮崎哲弥編著 『人権を疑え!』

2007-04-09 18:10:46 | 読書感想文
法学部で初めて憲法の授業を受けた学生が混乱するのが、人権規定の私人間効力の問題である。憲法学の通説においては、憲法の人権規定は公権力と私人との間についてのみ適用されるものであり、私人間の争いには憲法の人権規定は直接に適用されず、民法の一般条項の適用においてその趣旨が考慮されるにとどまるとされる(間接適用説)。これは、三菱樹脂事件最高裁判例(昭和48年12月12日)で確立した判例法理である。私人は、人権規定の名宛人ではない。

しかしながら、現代の我が国における「人権問題」の文脈は、この枠を遥かに超えている。公共機関は私人である国民に対して人権啓発活動や人権教育を行い、「守ろう人権」「広げよう人権」といった標語が普通に使われ、人権週間には人権作文コンテストが行われる。「暮らしの中に憲法を」「憲法を生かす生活」といった政党のスローガンもある。法学部の学生が混乱するのは、我が国一般的な現状と、憲法学の間接適用説とのギャップである。

このような人権概念の混乱について、宮崎氏はこの本で7年も前に触れている。しかし、憲法学者は未だにほとんど触れたがらない。その理由は、宮崎氏も指摘するとおり、論理的要請よりもイデオロギー的要請を優先させていることに基づく。論理的に見れば、人権の対公権力性を前提とする限り、人権は単に相対的なルールとなり、絶対普遍の真理でも何でもなくなるはずである。公権力は人権を守らなければならないが、一般私人はその名宛人ではなく、人権など守る義務など全くないからである。しかし、反公権力のイデオロギーからは、「人間が生まれながらにして固有している権利」という人権の絶対性を捨てるわけにはいかない。私人は憲法の人権規定など関係がないとして無視するのではなく、公権力に対してともに戦い、権力の濫用を監視しなければならないからである。

かくして、我が国では人権概念がずっと混乱している。あたかも2つの人権概念が存在するかのようである。1つは狭義の人権であり、法律的意味の人権、憲法学における人権である。これは私人間に直接適用されない。もう1つは広義の人権であり、道徳的意味の人権、社会学における人権である。これは私人間にも直接適用される。人権概念のインフレ化と言われるが、これは国民に向かって人権の対公権力性を説明しようとしなかった憲法学者の責任も大きい。

犯罪被害者の人権をめぐる概念の混乱も、この延長線上にある。人権派と言われる人々は、「暮らしの中に憲法を」「憲法を生かす生活」といったスローガンを掲げ、あたかも私人間にも人権規定が直接適用されるように述べる。そこで、犯罪被害者がその人権を主張しようとすると、今度は人権の対公権力性の大原則に戻り、犯罪被害者の人権という概念はあり得ないと述べる。これが2つの人権概念の間で振り回されている被害者の苦しい状況である。

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