犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

永井均・小泉義之著 『なぜ人を殺してはいけないのか?』 第1章・第3章

2007-04-07 20:16:21 | 読書感想文
なぜ人を殺してはいけないのか。この問いは語るに落ちている。それは、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いには意味があるが、「なぜ人を殺してよいのか」という問いには意味がないからである。なぜ人を殺してはいけないのかという問いは、人を殺してはならないという答えを先取りしており、その問い自体が答えである。

このような哲学的な問いを考える多くの人間は、実際には殺人事件など起こしていない。このような問いは、机上の空論である。これに対して、実際に殺人事件を犯した人間は、その事実関係や量刑を争うことに夢中であり、このような哲学的な問いには直面しない。留置場で自問自答することもないし、ましてや法廷で裁判官に質問する人間などいない。これは、「語らない」に落ちている。殺人行為を否認するのは、人を殺すことは悪いことだという大前提を受け入れている証拠である。

法律の条文は、人間の行動を法律要件と法律効果という人為的な言語の中に押し込める。刑法199条においては、人を殺すことが法律要件であり、死刑・無期懲役・5年以上の有期懲役が法律効果である。ここには、人を殺すことが悪いとは書いていない。これ以上のものを読み込むことは、法律の条文を超える。刑法199条が存在することは、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いの答えにはなっていない。刑法199条は、最初に条文を並べたときに、たまたま199番目に来たものにすぎない。ちなみに1つ前の198条は贈賄罪であり、哲学的な問題とは無縁の金融犯罪である。

殺人行為とは、法律的に述べれば、「生体を死体にすること」である。それ以上でもそれ以下でもない。しかし、哲学的に述べれば、「人間の人格・人生を消去すること」である。被害者遺族が裁判所に傍聴に行くと、その無味乾燥で機械的な手続きの流れを目の当たりにして、さらに悲しみを深くすることがある。これは、裁判で扱えるのは法律的な意味での殺人のみであり、哲学的な意味での殺人は扱えないことによる。

裁判においては、常識的には加害者に殺意があったとみられる事件でも、その証拠が弱いことから、軽い傷害致死罪(刑法205条)で起訴されることも多い。これは、法権力の無能を隠蔽するための法的命名の作用である。実際に加害者に殺意があったならば、傷害致死罪による判決は誤判となるはずである。しかし、法律学における「誤判」という言葉は、実際には加害者に殺意がなかったにもかかわらず重い殺人罪に問われた場合にしか使用しないことになっている。「誤判」という法的命名は、検察官に殺人罪での起訴を躊躇させる方向で作用している。危険運転致死傷罪(刑法208条の2)の適用が難しいのも、法権力の無能を隠蔽するための法的命名の作用によるものである。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。