お寺さんぽ Ver.03

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史上最悪の市街戦「応仁の乱」 (3)管領家の混乱編

2006年05月16日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も史上最悪の市街戦、と名高い「応仁の乱」についてです。

この「応仁の乱」のややこしさは、前回説明しました将軍家の世継ぎ争いと共に、有力大名二家の家督争いが絡んでいることによります。
今回はその守護大名、斯波・畠山の管領家による混乱ぶりをご覧下さい。

どうにもややこしくて長いので、ちょこちょこと細かく切り分けております。
まぁ、ゆっくりどうぞ。


■三管領の二家、「斯波・畠山」両家の争いの経緯
まずは斯波家。
当主であった「斯波義敏」は罪によって将軍「義政」に追放されてしまいました。
家督は姻戚関係をもつ「山名宗全」の推挙によって「斯波義廉」が継承します。
ここで追放されていた「斯波義敏」は諦めず、将軍の執事「伊勢貞親」など幕府側近に近づき、その懐柔に成功します。

すっかり懐柔された「伊勢貞親」ほか側近らは将軍「義政」を動かし、自らの支持する「斯波義敏」に再び家督を与えることに成功しました。

でました、将軍「義政」のいい加減・適当・どうでもいーや、モード。
本当に自分の意思というものがありませんね。
この人やる気ゼロですよ。

この一件によって逆に追放されてしまった「斯波義廉」は義父「山名宗全」を再び頼ります。
これには「山名宗全」の娘婿「細川勝元」も同調。画策した執事「伊勢貞親」らが追放になる、政変となりました。

後ろ盾を失った「斯波義敏」は再び追放、再起をかけて潜伏するのでした。


次に畠山家。
「畠山持国」には子が無く、養子として迎えた「畠山政長」に後を継がせました。
しかし、その後に実子「畠山義就」誕生。
…どっかで聞いた話ですね(笑)

この時に「畠山持国」は三十九歳だったので、後継者宣言はやや早まった感があります。

何はともあれ、親としては「血の繋がった実子に後を継がせたい」と思うようになります。
そんな確執に乗じて、家臣団は真っ二つに分裂、お決まりの家督争いへと発展してしまうのです。

当時「畠山政長」は管領に就任していましたが、「畠山義就」を擁立した「山名宗全」らの運動により管領職を罷免されてしまいます。
それを不服として「畠山政長」は中央の有力者「細川勝元」を頼ります。

「細川勝元」や筒井氏らの支持を得た「畠山政長」一派は将軍「義政」を動かし、「畠山義就」の追放に成功しました。


…このように、当時の有力者「山名宗全」と娘婿「細川勝元」は同調した時期もありますが、どちらも様々な守護大名の家督相続など、利権に絡み、たいていの場面で対立することとなります。
その結果、両者の関係は時と共にどんどん悪化していくのでした。


[関連記事]
⇒ 室町時代
⇒ 関東公方と関東管領


[住所] 山名宗全邸 京都市上京区の堀川の西付近

   ※今回写真は「山名宗全邸」です。
    こちらが西軍の本陣となりました。


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※鎌倉~室町は分かりづらいですが、いかにして武士が台頭していったのか…。
 それを知るためにはこうした本が必須ですねぇ。

甦る日本史〈2〉中世・武家篇 源頼朝から応仁の乱まで

PHP研究所

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史上最悪の市街戦「応仁の乱」 (2)将軍家の暗雲編

2006年05月15日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も史上最悪の市街戦、と名高い「応仁の乱」についてです。
遂に本編に突入です。
まずは将軍家の怪しい雲行きと、おまけ知識をご覧下さい。
はっきり言って、ややこしくて長いですが…。
まぁ、どうぞ。


■将軍家の経緯
おみくじで六代将軍となった「義教」は意外にも辣腕を発揮し、一時的ではありますが幕府権威の復興を成しました。しかし、やや強引であったことが災いし「赤松満祐」に暗殺されてしまいます。(※嘉吉の乱という)
その後をわずか九歳で継いだ七代将軍「足利義勝」も一年ほどで急死。

宝徳元年(1449)
今回主役の一人「足利義政」はそんな不安定な政情の中で八歳にして八代将軍となるのでした。
彼がまだ幼いため、執事「伊勢貞親」や正妻「日野富子」の実家日野家などが当然ながら実権を握り、まさに傀儡となっていた義政は成長する中で政治に対する興味をなくしていき、もっぱら文化方面へと傾倒していくのでした。

寛正五年(1464)
そんな感じで十五年の歳月が流れます。
土一揆など、変わらず混乱する政情に嫌気がさした将軍「義政」は二十四歳にして隠居することを思いつきました。
正妻「日野富子」との間にも実子はなかった(←ほら、やっぱり仲わるいじゃーん)ため、出家していた弟「足利義視」に譲ろうと考えたのです。

ここで弟の「足利義視」(※この時は出家していて義尋(ぎじん)との名でした)は、まだ若い兄に跡継ぎが生まれる可能性を心配して要望を固辞し続けますが、兄のしつこさに結局折れて、還俗。
名を「足利義視」と改め、「細川勝元」の後見を得て次期将軍として兄の養子となるのでした。

寛正六年(1465)
ところがその翌年、将軍「義政」の正妻「日野富子」が懐妊! (←これが九代将軍「足利義尚」)
…っておーい、ほんとうに「義政」の子ですかぁ??
その嘘・本当はともかく、この一件が後の混乱を起こす布石となるのでした…。

⇒次回につづく。


■三管四職(おまけ知識)
室町幕府には「三管四職」という将軍補佐の役職につく、有力守護大名の家柄が七家ほどありました。
まずは管領三家。
「管領(かんれい)」とは、本来は単に将軍の秘書的役割でしたが、次第に政務を取り扱うようになりました。任命されるのが有力な三家であることから、三管領と呼ばれるようになります。
これには細川家、斯波家、畠山家が交代で任についておりましたが、「応仁の乱」後斯波・畠山が勢力を衰えさせると、細川家の独占状態となります。その細川家も三好家に取って代わられ、衰退。管領という役職に以後就くものがいなかったため、自然消滅するのでした。
次に四職。所司(しょし)または侍所司(さむらいどころのつかさ)と呼ばれる、軍事・警察権を司る役職で、こちらも主に有力守護大名の四家が交代で任命されたことから、「四職」と呼ばれるようになりました。
任命されるのは赤松・一色・京極・山名、の四家です。
こちらも四家全てが衰退して空席となると、自然消滅するのでした。


[関連記事]
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[住所] 地蔵院(竹の寺) 京都市西京区山田北ノ23

   ※今回写真は「地蔵院」にある細川頼之の墓所です。
    細川勝元からするとひいひいおじいちゃん。二代目の管領。
    明徳の乱で幕府方として山名氏清と戦っています。
    山名・細川の争いはここにもあったんですね。

 
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※ひでるさんは「北条政子」ファンです 
 いいよねー、政子さま。
 「いざ鎌倉!」の時はひでるさんも駆けつけますよ!

女人政治の中世―北条政子と日野富子

講談社

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史上最悪の市街戦「応仁の乱」 (1)登場人物編

2006年05月14日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は史上最悪の市街戦と名高い「応仁の乱」についてです。
はっきり言って、ややこしくて長いです。
まとめるひでるさんも極楽浄土が見えかかったような気がします。
…嘘ですが。

さて、今回一回目は「応仁の乱」に登場する主な人物を集めてみました。
小説書く前のキャラクター設定みたいなもんです。
今後の記事で訳分からなくなったら、ここまでさかのぼってもらえればと思います。
まぁ、どうぞ。


■細川 勝元(ほそかわ かつもと)
今回主人公の一人にして応仁の乱では東軍の総大将。十三歳で家督を相続。その三年後に管領となると、以後二十三年間で三度管領に任命されるなど、人生を政争に明け暮れた時代の申し子というべき人。禅宗を信仰し、絵心や和歌もたしなむ風流人でした。料理がうまかったらしいというお茶目なデータもあります。正妻「春林寺殿」は下に書いた宗全の養子です。
ちなみに戦国初期に活躍した「細川晴元」は勝元の曾孫(※孫からは養子)です。

■山名 宗全(やまな そうぜん)
今回主人公の一人にして応仁の乱では西軍の総大将。入道するまでは「持豊」という名前でした。二十八歳で家督を相続。上の勝元とはなんと娘婿という間柄。赤松氏の反乱には討伐軍の主力を率いて活躍。衰退しかかっていた山名家を一代で八カ国の守護にまで復興させた、根っからの武闘派。赤ら顔で「赤入道」とも呼ばれており、態度もでかい豪快な方であったようです。

□足利 義政(あしかが よしまさ)
応仁の乱当時の八代将軍。八歳で将軍となりますが、政治よりも文化的なことに傾倒。いい加減で優柔不断な性格が政治・軍事の混乱を招くなどいいとこなしですが、慈照寺(銀閣寺)など、わび、さびの「東山文化」を残したことが唯一の功績。
正室は下に紹介する「日野富子」です。トミコ、ですよ(笑)

□日野 富子(ひの とみこ)
将軍義政の正室にして史上何人目だかの悪妻。京都七つ口に関所を設け、さらにあちこちから賄賂を受け取るなど、巨万の富を築いた悪徳おばはん。常に金と権力を求め、政治・軍事をより混乱させた原因の一人。ひでるさんの個人的考えですが、おそらく旦那のこと大嫌いだったのではないか、と思います。ちなみに実家の日野家は将軍家とちょこちょこ縁戚関係を持っていた、やらしい家柄。
九代将軍「足利義尚」の母。

□足利 義視(あしかが よしみ)
七代将軍義勝、上に紹介した八代義政の同母弟。出家して「義尋(ぎじん)」と名乗っていましたが、兄のわがままで還俗。以後は時代に大いに振り回され続けた、不幸な弟。結果的に将軍にはなれませんでしたが、息子は十代将軍(義稙)となりました。
ちなみに正室は「日野富子」の妹。こちらは普通の方であったようです。特に歴史上名前も出ていないようですし。



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⇒ 室町時代
⇒ 関東公方と関東管領


[住所] 真正極楽寺  京都府京都市左京区浄土寺真如町82

   ※今回写真は真正極楽寺の真如堂です。
    足利義政が建立しました。
    明日から本編でーす。

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※こーんな無責任男がこうして↓評価されるという…。

足利義政―日本美の発見

中央公論新社

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お寺と亀 (川崎大師・平間寺)

2006年05月13日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は「お寺と亀」をテーマにその関連性について…書こうかとも思いましたが、ここにオモロイ写真がひとつありますので、おちゃらけ企画にしました。
タイトルで期待した方(いないか)ごめんなさい。
たまにどかーっと遊んでみたくなるんですよ。  (…たま?)

  
えっと、いきなり脱線しますが、なんだか映画で「ガメラ」をまたやるらしいですね。
ちょっと前にやっていたのは原点回帰を狙ったのか、おっかないガメラでしたが……今回はなんなんですか?
テレビCMで見る限りでは子供との交流を描いた感動モノですか?!
イヤー!!

あのねぇ、どうでもいいんですが、求めているガメラはそんなんじゃないんですよ。
知っている人はひでるさんが何を言いたいのか分かると思いますが、ガメラと言えば日本人と外人の子供が出てきてですね…
「あ!ガメラだ!!」
「Oh!Gamera!」
というお約束がなければ駄目なんですよぉ。
マッハ文朱が出てきたり、何故か子供の味方だったりして、ジグラとかジャイガーとかギャオスとかと戦うのがいいんです。
それを感動巨編なんぞにしてどうする??

……まぁ、どちらにしろ見ないと思いますが。(←好きな人すみません。おちゃめな冗談です)
さて、今回はそんなガメラ…でなくて亀に関する一発ネタを少々。
もう見ているとは思いますが、写真をよくご確認下さい。
手前から向こうまでよく、ね。ウォーリー探すみたいに。
 ・
 ・
 ・
ね、びっくりしたでしょ!?
気持ち悪いでしょ!?

鶴は千年、亀は万年とはいいますが、今後この池は今後どうなっていくのでしょうか?
お寺には亀とか鯉がつきもので、毎回ひでるさんは見かけるたびになんとなく写真撮ったりするんですが、さすがにこんなの初めてでした。
よほど住みやすいのが、栄養いいのか…。

やっぱりさすが、川崎大師!
儲かってるんですかねぇ。



[住所] 川崎大師・平間寺 川崎市川崎区大師町4-48

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※これこれ、こんなのですよ。
 そういえば最近はDVDのせいかTVでやらなくなりましたねー。

大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス

徳間ジャパンコミュニケーションズ

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正伝寺 (京都)

2006年05月12日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は洛北西賀茂の「正伝寺」です。

どーでもいいことですが、ひでるさんここへ来たとき、犬に出迎えられました。実はしっかりその写真もあるんですけど…まぁ、普通に名物の庭園としました。
動物さんぽ、ではないですから。

ちなみに、こないだは近づいてきた猫に、持っていたカバンの上へ乗っかられたりしましたよ。(本当)
寺へ行くとなぜだか動物に絡まれる(?)、ムツゴロウひでるです。
好かれている、というより、玩ばれているようですけど…。
(※実家の犬には”いいおもちゃ”に見えているようです。袖とかぐいぐい引っ張られますよ)



 末の世のすへの末まで我国は
                    よろずの国にすぐれたる国



文永七、八年。
元寇の国難に際し、「東巌慧安禅師(※)」は自ら八幡大菩薩に至心をこめた祈願文を捧げました。
その時の願文の末尾に書かれたのが↑上の和歌でした。

これは重文「蒙古降伏祈願文」として、京都国立博物館に寄託出品されているそうです。
このお寺では見れないので注意。

この「正伝寺」、正しくは「正伝護国禅寺」といいます。
さきほど登場しました「東巌慧安禅師」が創立、弘安五年には「森経久」が荘園を寄付、諸堂伽藍を造営。
また、「爾来皇室家」の信仰厚く、五穀豊穣国家安泰を祈願する道場とされ、今日まで続いているようです。

ほぼそのまま説明文を拝借しましたが、漢文のようですね。それ↑ああ、ややこしい。
まぁ、お寺によくある毎度のパターンで、有力者・権力者の庇護を受けていたということなのでしょう。

以前紹介しました「養源院」の時に、関ヶ原合戦で西軍の攻撃を受け落城した伏見城の廊下を使った…と書きましたが、なんとここにも使われていました。

ついた名がやっぱり ”血天井

うぉ、すごい!でた!
ちなみにパンフレットによれば、ここは付着しているシミについて、ちゃんと科学的調査をしたそうです。
誰か「んなの信じらんねーよ」とか言ったんでしょうか?

ともかく、その結果として「三百六十八年以前の人間の血液である」と証明されたそうです。
うわわ、間違いなくホンマもんですよ、これは。

徳川に殉じて戦死した志みたいなのは分かりますが、なんでまたそんな気味悪いもんをあちこちで使うんでしょうか?
おっかなー。

ひでるさん、このお寺には住めないですよー。(←いや、一生住むことはないですが)


とまぁ、そんな感じのお寺です。
ひでるさんが行ったのが夕方近くだったためか人も少なく、実に静かで落ち着いた、雰囲気あるいいお寺でした。

今回写真の庭園は「獅子の児渡し」というそうです。白砂敷きで、つつじの刈り込みにより七五三調を表現した枯山水で、はるかに比叡の霊峰を取り入れた借景式の庭園とかなんとか。
うわぁ。わけわからん。
七五三調ってちとせ飴ですかね? (ちがう)

やっぱり庭は難しいです。
心の静けさ…みたいなのを味わえることは間違いないんですが。


(※)東巌慧安禅師(とうがんゑあんぜんし)
  鎌倉時代の人。しっかし、ややこしい名前ですね。


[住所] 正伝寺 京都市北区西賀茂北鎮守庵町72

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平安時代の天才「弘法大師・空海」  <後編>

2006年05月11日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も平安時代の天才、「弘法大師」こと「空海」さまについてです。
色々エピソードはありますが、とりあえず今回が最終回です。


前回のあらすじぃ。
遣唐使の留学僧に何故だか抜擢された空海くんは運をも味方につけ、無事入唐。ここで密教、その他をものすごい勢いで次々に吸収すると、なんと早々に帰国してしまうのでした。
日本に戻った空海くんを待ち受けるものは何か!?
うん、だいたいこんなんですわ。
ちょっとドキドキしながら↓次の本編へ。


大同元年(806)空海帰国。

ちなみに、二十年の留学予定を勝手に二年で切り上げたことは当時でも問題になったらしく(そりゃそうだ)、謹慎処分みたいになってます。
しかし、図々しい空海はこれをいい機会だと、旅の疲れを癒すと共に学んだことの整理をしていました。逆にほくほくしていたようです。
懲りてません。反省しなさいよ。

大同四年(810)になるとようやく入京を許され、空海は京都・高尾山寺(今の神護寺)へ入り、ここで日本初の真言密教を開きます。
帰国の際に朝廷へ献上していた「請来目録」にて、密教がいかに優れているかを説いていたようですが、それを天台宗の開祖「最澄」が大いに評価していました。
最澄は陰ながら、彼の入京の支援をしたようです。
(※ちなみに最澄は密教に関して空海の知識に感服し、弟子として交流しますが思想の違いで後に決別ぅ…)

その六年後である弘仁七年(816)には、希望していた念願の高野山をもらい、ここに密教道場の建立を開始。さらにその七年後には東寺をもらい受け、真言密教の根本道場として整備を任されました。
(※彼は唐にて土木・薬学など様々な勉強もしていたのです)
空海三十九歳にして、ついに歴史の表舞台へと登場してきました。
大活躍ですよ!

天長九年(832)だから…十六年間ですね。あちこち東奔西走した空海はついに隠居します。
彼は自ら開いた真言密教存続に最後の力を尽くし、ついに入定(にゅうじょう)しました。六十二歳のことです。

ちなみに、二十年留学していた場合だと、日本へ戻ってきて八年で亡くなる計算でした。
やっぱり二十年はきついですね。あれは切り上げて正解だったかもしれません。


現代でも有名な「弘法大師」の名が醍醐天皇より贈られるのは、それから九年後の延喜二十一年(921)のことでした。

真言宗では、「高野山奥ノ院」にて現在も空海は禅定(瞑想)を続けている、とする「入定留身信仰(にゅうじょうるしんしんこう)」が起こり、今日まで続いているのでした。
なにしろお世話をする僧がおり、衣服と食事を給仕している(※)そうですから……生きてるんですよ!!
あ、ここは笑う場面でないですよ!
メチャ真剣ですよ!
うふふふふ………… 怒らないでね
他にも色々爆笑エピソード、じゃない「素敵な逸話」がありますが、それはまた別の機会にでも。



(※)衣服と食事を給仕
 真言宗では固くそう信じられています。朝昼の二回、ご供物を出しているんだって。
 ちなみに、五十六億七千年の後に「弥勒菩薩」と共に戻ってくるそうです。
 ああああああ、ひでるさんはやっぱり救ってくれないんですね!


[住所] 神護寺 京都市右京区梅ヶ畑 高雄町5

   ※今回写真は文中でも登場した「神護寺」その階段です。
    どうですかーまさしく心臓破りでしたよ。

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※この本で憧れの「真言密教」を学びましょう!
 ちなみにひでるさん持っているのは 学研「密教の本」 でした。
 これ↓と似てるけど違いましたね。

真言密教の本―空海伝説の謎と即身成仏の秘密

学研

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平安時代の天才「弘法大師・空海」  <中編>

2006年05月10日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も平安時代の天才、「弘法大師」こと「空海」さまについてです。

前回のあらすじー。
金持ちで天才な空海くんは親の財力を背景に大学入りしますが、「こんなのくだんねぇ」と反発した反抗期な空海くんは山岳修行の末仏教に傾倒していくのでした。
うん、だいたいこんな感じ。

延暦二十三年(804)空海くんは遣唐使の留学僧としてついに唐へと渡ります。
その留学期間はなんと二十年の予定でした。
メチャ長いです。
当時二十歳過ぎくらいの年齢ですから、おそらく帰ってきたら誰が誰やらわかんなくなるくらいの期間だと思います。…というか、寿命的にもぎりぎりなのではないでしょうか?浦島太郎みたいになっちゃいますよ。

また、なぜこの時空海くんが留学僧に選ばれたのか?
この時の空海は単なる僧の一人に過ぎず、候補となった理由は諸説あり、はっきりしていないそうです。
…親は地方豪族だって言うし…金?  (←ひでるさん説)
あるいは生意気で目立ってただけだったりして…。

さて、唐へと渡った船四隻のうち、二隻は途中で遭難。たどりついたのは半分だけでした。
空海の乗り込んだ一番船は航路が逸れたりとトラブルはあったものの、見事たどり着いています。
さすが偉人。運もいいですよ。

入唐した空海は寺院あちこちに師事し、密教を徹底的に学びます。ここで胎蔵界・金剛界・伝法阿闍梨位(でんぽうあじゃりい)の灌頂(かんじょう)を受けました。
なんだかややこしいですね。…要は「色んなことで正当な後継者として認められた」という雰囲気ですよ。
また、その際に「遍照金剛(へんじょうこんごう)」の名も与えられます。これならなんとなく聞き覚えありますよね?
この「遍照金剛」とは、「この世の一切をあまねく照らす最上の者」という意味だそうです。
さすが天才、国境なんてモノともしません!

大同元年(806)空海くんは数多くの経論、曼荼羅、密教法具などを持って無事帰国。
……あれ?
えっと、あの~、まだ二年しか経ってないんですが、十分の一でもう帰国ですかい?!
いちいちやることが規格外ですね。
なんか感じわるぅ。
おそらく、同じクラスとかになったら…間違いなくやなヤツですよ。
素行不良なのにやったら勉強できたりする、先生も怒れないタイプなの。
(無論冗談ですよ。うふふ…)


⇒後編につづく

[住所] 仁和寺 成就山御室八十八ヶ所巡り 京都市右京区御室大内33

   ※今回写真は「成就山御室八十八ヶ所巡り」に立っておりました空海さま。


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※DVDでもやっぱり空海さまです。

空海への道 一 同行二人~四国遍路 今に生きる空海~

ビデオメーカー

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平安時代の天才「弘法大師・空海」  <前編>

2006年05月09日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は平安時代の天才、「弘法大師」こと「空海」さまについてです。
なにせ時代が古くてややこしい単語も多いんですが、なるったけ簡単に書くつもりですんで、どうか挫けず読んでいただければと思います。
もしかしたら結構面白い発見もあるかと思いますんで。


さて、とりあえず掴みとしてびっくり情報をひとつ。
空海は実はまだ生きているんですよ!!
これは本当です、マジです!
ヒデルサン・ウソ・ツカナイ!

…ってこれ自体が嘘ですが(笑)
まぁ、よく知られている話なので、知ってる方は「ああ、それね」と軽く流して頂いて。
知らない方は、とりあえびっくりしたまま次へ。
なんちゃって日本偉人伝「空海」編をどうぞ。


空海は日本真言宗の開祖です。
宝亀五年(774)空海は讃岐の国、というから今の香川県に生まれました。
地方の豪族「佐伯直田公(さえきあたいたぎみ)」という舌噛みそうな名前の方の子供です。やっぱり釈迦さまやムハンマドさまなどと同じで、結構いいとこの生まれでした。
うーん、日を生きるのがぎりぎりの貧乏人では悟りとかなんとかは啓けないようですね。
ひでるさんも悟りは啓けなさそうです。

えっと、十五歳で上京した空海は三年後の十八歳で「大学」に入りました。
英才教育ですね。そんだけの財力がある、ということです。  (←しつこい)
というか、当時から「大学」なんてもんがあったんですねー。
ちなみに、組織的には現在の大学とほぼ同じで、儒教とか算術、中国語などを教えていたそうな。式部省(しきぶしょう)という総務人事課みたいな所の管轄だったんだって。
へー…、すごい・すごいー。

さて、話戻して空海くん。
大学の勉強にもの足りなさを感じていた空海はしだいに仏教を志すようになり、二十歳を過ぎたあたりで大学そのまま、突然山へ修行に入ってしまいました。四国や南郡の寺で色々学んだ彼は延暦十六年(797)、要は生まれてから二十三年で「三教指帰(さんごうしいき)」を執筆します。

この「三教指帰」ってのは儒教、道教、仏教の三つのうちで仏教が最も優れているんだよー、という書物だそうです。今で言う批評本みたいなもんですよ。
まったく、生意気なお兄ちゃんです。
さて、そんなこんなで延暦二十三年(804)
空海は後の人生を大きく左右する遣唐使の留学僧として、ついに唐へと渡ることとなるのでした…。


⇒中編につづく


[住所] 東寺 京都府京都市南区九条町1

※書き忘れてましたが、写真は東寺におわす空海さまです。

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奈良で人気「大仏プリン」 (お寺さんぽニュース)

2006年05月08日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
ひでるさんが時事ネタを取り上げるとロクなことにならない。…そんな認識でしたが、以前やりました「お寺さんぽニュース」は何故か意外にも好評でしたので、しつこくまたやりますね。
というか、せっかく見つけた記事を持ったままほっておくと、どんどんニュースが風化してしまうんで…。

と、いう訳で。
こんにちは「お寺さんぽニュース」の時間です。

そういえば天台宗展は終わっちゃいましたねー。本当はもう一度くらい行きたかったんですが、残念です。
他の方のブログでもこのレポート記事をいくつか見つけましたが、皆さまお腹いっぱいという雰囲気でした。やっぱり一度にあれだけの国宝・重文を見ると、圧倒されるんですよ。
実によかったです。
ちなみに今年の十月には「特別展 仏像 ~一木にこめられた祈り~」なんてのをまたやるそうなんで、それを期待します。このブログがもし、万が一、その時期まで続いていたなら、またレポートしてきますんで。


●奈良で人気「大仏プリン」 おいしさも、でっかい? [gooニュース] 2006年 4月22日
奈良市鍋屋町のレストラン「Season」(0742・23・7515)で、大仏の縮れ毛「螺髪(らほつ)」をイメージした「大仏プリン」(700円)が人気だ。螺髪に形を似せたガラス容器入り。味はカスタードと県内産の大和茶の2種類あり、調理に時間がかかるため1日6個の限定販売だ。
容器を逆さにするとカラメルが上になり、大仏さんの頭らしくなる。つぶれない硬さにするのが腕の見せどころで、卵や牛乳などの配合具合がみそ。

●空海の生誕地、善通寺で「讃岐うどん法要」 [gooニュース] 2006年 5月 7日
弘法大師空海の生誕地、香川県善通寺市の善通寺が、創建1200年の記念行事の一つとして、6月10日に「讃岐うどん法要」を営む。
うどんは空海が留学先の唐から持ち帰ったとされる。今や地元では一日一玉は欠かせない特産品。空海とうどんに感謝し、めん棒を焚いて2千食分を振る舞う。
アイデアを持ち込んだのは県観光協会。一時の讃岐うどん人気もやや下火といわれるだけに、「お大師さんの御利益で長くてコシが強いブームにしてもらいたい」。
---------------------------------- 。。。

ひでるさんも大好き、食べ物ネタを二つほど。
しかし「うどん」ってのは平安期からあったんですねー。今度当ブログで「空海」さまをやりますが、大幅に切り上げた留学でこんなもんまで持ち帰っていたんですか。はー。
なんだか観光旅行みたいですね。地元のおみやげですか??
「コシが強いブーム」というシメもなんだか、いかにもありげな感じでした。うふふ…。
もう一つ「大仏プリン」
まぁ、だいたい名物がある周辺ではその名がつけばなんでもアリなんだと思うんですが、こちらは単純に食べてみたいですよ。
せっかくなんで「大和茶」味ですかね。
そういえば、先日鎌倉大仏見をに行った時に「大仏グミ」なら見かけました。それ↓
あーそう、売っているそのままの写真です。買いませんでしたよ。ええ。
鎌倉新名物の道はどうやらえらく遠いようです(笑)


※これが噂(でもない)の大仏グミ[鎌倉] うわぁ、安易!



●山科本願寺跡 中国製堆黒片など多数出土 [読売新聞] 2006年4月21日
本願寺中興の祖とされる蓮如が創建した山科本願寺跡(山科区)から、中国製の漆製品「堆黒(ついこく)」の破片が多数見つかり、京都市埋蔵文化財研究所が20日、発表した。同研究所は「当時の高級品で、寺の勢力の大きさを示している」としている。
昨年11月から12月にかけて南北3メートル、東西1・5メートル、深さ0・7メートルの土壙(どこう)を調査し、土をふるいにかけ、水洗いして発見した。
堆黒は木に漆を何層も塗り重ね、彫刻を施した製品。破片は5~20ミリほどの大きさで、100点以上が出土。13~14世紀ごろの中国製で、寺の装飾品として使用されていたと見られる。
土壙からは蒔絵や陶磁器の破片も出土。陶磁器の破片は青磁や白磁、染め付けなど約1200点があり、堆黒と同様に輸入品とみられる。
寺は1478年の創建で1532年に六角定頼らに焼き打ちされた。土壙は焼き打ち後に作られたらしい。
出土品は27日~5月7日、上京区の京都市考古資料館で展示される。月曜休館。
---------------------------------- 。。。

「堆黒」ってのは中国で「剔犀(てきさい)」という彫漆品の日本名での呼び名でして、木胎に黒うるしと朱うるしの層 を何層にも塗り重ね、表面をまた黒うるし塗りし、彫刻したものなんだって。
伊達に高級品ではありません、手間かかってます。
ほら、薄い肉重ねてとんかつにしたという、話題の「キムカツ」みたいなもんですよ、きっと(ちがう)

ここで気になる点が「当時の高級品で、寺の勢力の大きさを示している」という箇所。
蓮如さんってのは室町時代の人で、大坂石山の地に石山御坊(後の石山本願寺)を建立した方です。
ゲーム「信長の野望」に出てくる「本願寺光佐」こと顕如さんからすると、ひいじいさまですね。
延暦寺などの弾圧でヒーヒー言っていた浄土真宗をわずか一代にして急激に拡大させたモノすごい人なんですよ!なにしろ加賀の守護大名富樫氏を倒して後に「百姓の持つ国」を作ってしまうんですから、大勢力となっていく訳です。
そりゃねー、金だって持ってたんですよ。
いいなぁ。


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奥州の覇者…その礎「伊達輝宗」  <後編>

2006年05月07日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は独眼竜として有名な「伊達政宗」、その父輝宗さまについて。
大河ドラマだと北大路欣也ですよ。
このキャスト似合っているかな、どうかな?


さて、後編です。
若いうちから人生の明暗を味わいつつ成長した政宗は立派な青年となっていました。
すると、輝宗は周囲の諌止も聞かず当主の座をあっさり政宗に譲ると、自身はとっとと隠居してしまいました。当然、多少のにらみはきかせていたようですが、全権を政宗に託してしまうのです。

天正十二年(1584)
政宗は十九歳で家督を相続。 伊達家十七代当主となりました。
ちなみに父輝宗はこの時四十歳。人間五十年…っていう時代ですが、やや早い隠居です。
(おまけ:毛利元就は色々な事情もありますが、死ぬ七十五歳まで当主のままでした。大変ですね。うふふ…)

さて、当主となった政宗は各地に転戦し、「撫で斬り」とまで称された勢いにて領土を拡大します。器量は自分以上、と見立てた輝宗のそれは的中しました。
そんな政宗の威に服する大名も多く、降伏してきた大名の中に二本松城主の「畠山義継」がおりました。

天正十三年(1585)なのでわずか一年後のこと。
降伏してきた義継に突きつけられた処置はかなり苛烈なもので、政宗を恨んでいたと言われています。
義継は間に立ってくれた輝宗へお礼を述べるため、彼を訪問します。
もともとそのつもりだったのか、否か。
一瞬の隙をついた義継は不意に輝宗に刀を突き立て、人質として確保。自領へと逃走しました。

「伊達輝宗」拉致!

鷹狩りに出ていた政宗はその報に接し、現場に駆けつけます。ですが、どうにもできません。
国境付近まで対峙しながら追尾する政宗以下伊達勢はそのぎりぎりで攻撃を開始。父輝宗もろとも、その場で討ち取ってしまうのでした。

江戸時代の儒教思想(※幕府により封建支配のための思想として採用されていた)に合わない、ということで書物によっては「政宗は現場に間に合わず」というものもあるようです。
しかし、おそらく…政宗はいたのではないでしょうか。
ここで父親を人質に取られる訳にはいきません。輝宗もこのまま他国へ連れ去られることを潔しとはしなかったでしょう。
政宗は自ら苦渋の選択をしたのです。

いつ、いかなる時でも自分を評価し、愛してくれた実の父を攻撃しなければならない彼の心情はまたこれも察して余りあります。
伊達家のこの事件はなんというか…悲劇ですよね。
輝宗はその後より飛躍する息子を見れぬまま、この世を去りました。
享年四十一歳。

ひでるさんはこの伊達家とまるで縁もゆかりもない(あったら怖いですが)ですし、その現場にいた訳でもありませんが、この話聞くと我が事のように泣けてきます。なんだか年とって涙もろくなったのか、最近はなんらかの単語だけでも泣けるようになりました。
…ちょっと頭おかしいですね。徳光和夫と呼んで下さい。


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※どうせなら完全版で。忙しい方は総集編を。
 こっちほしかったんですがねぇ…総集編持っていると、さすがに買う気にはなりません。

NHK大河ドラマ 独眼竜政宗 完全版 第壱集 第1回 ~第27回収録

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奥州の覇者…その礎「伊達輝宗」  <前編>

2006年05月06日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は独眼竜として渡辺謙でも有名な「伊達政宗」、その父輝宗さまについて。
真田の時もそうでしたが、ここで政宗にしないあたりがひでるさんらしいでしょ?(←んなのしらんか)


まず、基本知識として伊達家の代々内紛について。
政宗からすればおじいさんの晴宗とその父稙宗(たねむね)、そして父輝宗と晴宗。実際に血のつながった親子なんですが、それぞれ家督争いにて親子で争っています。後で書きますが、政宗に引き継ぐ際にもちょっと揉めてますね。
なかなか珍しいことです。

さて、政宗が生まれたのはちょうど「織田信長」が最後の将軍「足利義昭」を奉じて京都へ上洛した頃でした。
…遅いよねぇ。
家督を継いでいた「伊達輝宗」はどちらかというと温厚誠実な人柄で、領土を次々と拡大していく覇気にはやや乏しい人でした。
どうやら本人も自らそう考えていたようです。
さて、生まれた政宗は幼少期より才気煥発な子供でした。その政宗に自分以上の才を見た輝宗は遠く美濃より虎哉宗乙(※)などをわざわざ呼び寄せ、英才教育を施します。
また、守り役として「片倉小十郎景綱」など、家中から若く優秀な人材を側近としてつけました。

と、それまで順調に育っていた政宗は突然疱瘡(天然痘)にかかります。
どうにか一命は取り留めたものの、片目を失いました。また、どうやら顔はその影響で腫れ物などが多くでき、容貌もだいぶ変化してしまったようです。幼い政宗はこれが原因で引っ込み思案な、弱気な性格となってしまいました。
なにしろ治療もままならない頃の大病ですから、本人の心情は察して余り有ります。
政宗はこれがコンプレックスで、「自分の肖像画などを作る際には必ず両目にしてほしい」と遺言しています。ちなみに仙台の銅像もちゃんと両目ありますよー。(なんだか木像だかなんだかに片目のものがあったような気が…)

弟の小次郎が生まれたことで母にも避けられるようになり、弱気になった嫡男に家臣団も不安を覚え、政宗は家中で孤立するようになってしまいました。色々状況はやや違いますが、こんなところは織田信長とよく似ていると思います。兄弟で争ったり。

実際に「政宗廃嫡」という動きもあったようですが、そんな中でも輝宗は「次期当主は政宗である」という態度を守り続けました。
代々交替期に内紛のあった伊達家で、望まない親子の確執を輝宗も経験しています。これは単なる推測ですが、そんな内紛は何があっても避けたい、という気持ちだったと思います。

輝宗は反対派が大きくなる前に先手を打ちました。
天正五年(1577)に元服。名を梵天丸から「政宗」に改めます。ちなみに、この政宗のほかに伊達家にはもう一人、同姓同名の「政宗」がいます。九代伊達家当主の政宗は、中興の祖として知られる人物なんですね。この件だけでも輝宗がいかに彼に期待をしていたか伺えるでしょう。
その後、続けて正室愛姫(めごひめ)をあわせ、四年後の天正九年(1581)には相馬氏との争いで初陣に勝利するのでした。

若き政宗にとって幸運だったのは、母はともかく、父の愛情がまったく変わらなかったことに加え、守り役の片倉小十郎も政宗を見捨てる事なく、厳しく優しく、叱咤激励して接し続けたことでしょう。
こういう人たちが身近にいるってのは幸せなことですよね。


⇒ 後編につづく

(※)虎哉宗乙(こさいそういつ)
臨済宗の僧。塩山恵林寺の僧「快川紹喜(かいせん じょうき)」の弟子にして政宗の教育者。
ちなみに快川紹喜は信長の焼討ちで「心頭滅却すれば火も自ら涼し」と言った人ですよ。


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※ひでるさんも持っている総集編。この後に完全版が発売されんのよ。やられたーという感じ。
 でも、秀吉(勝新太郎)との対面はそのまま収録されています。
 新旧役者よる緊張感がそのまま戦国時代の二人の対面を想像させるという、屈指の名場面になってます。

独眼竜政宗 (3巻セット)

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松月院 (伊東)

2006年05月05日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は温泉地として有名な伊東のお寺「松月院」です。
いつも京都・奈良ばかりではつまんないでしょ?
だもんで、今日は伊東のお寺を。

まずは地名から。
地名は伊豆の東だから「伊東」となったそうです。
うっはー、そんな安易な理由だったんですね!

その伊東にもやっぱりというか案の定というか、あちこちで頻繁に見かける「七福神めぐり」があり、温泉目的で伊東までやってきたひでるさんもとりあえずタクシー呼びつけてめぐることとしました。
ちなみに、これを巡れば「七つの災害」がのぞかれ、「生命財産」が守られ、さらには「七つの幸福」が授かると言われているそうです。
……えっと、めぐるだけでずいぶん贅沢なご利益ですね。
「何じゃろ?」でお馴染みJAROにでも連絡しておきましょうか?
まぁ、冗談はそのくらいで。

ここ「松月院」は伊東七福神では皆さん憧れの女神「弁天様」がおわす注目スポットです。
寿永二年(1134)世はちょうど源平合戦の真っ只中という頃、「松月院」は銀秀というお坊さんによって建立されました。(※)
その時にはお寺は真言宗でしたが、慶長十二年(1607)…というから、ちょうど江戸幕府が始まったくらいの時に曹洞宗へ鞍替えをしています。
うふふ、何かあったんでしょうね。おそらく。

その後洪水などに遭いますが、「鶴峰亀丹」により現在の地へ移転・再興されました。
めでたし、めでたし…って、ここで疑問が一つ。

「鶴峰亀丹」ってオモロイ芸名みたいな人は誰ですか!?
なにしろ伊東の出身でもなく、資料もえらく少ないのでひでるさんも手がかりがパンフくらいしかありません。書いてあることを鵜呑みにすることしかできません。
あのねー、ここさらっと流さずになんか注釈つけて下さいよー、伊東観光協会さま。
だいたい読み方すらわかりませんよ。
つるみねかめたん、ですか??

ちなみに、おられる弁天様についても「天神畠」というところを掘り返していたら金色の弁天像が発掘されたので、こちらにお堂を建てて祀ったんだとか。あー、発掘されたのが「蔵王権現」とか微妙な神さまだったら面白いのに。
中途半端に六人だけ揃うという(笑)

さて「松月院」という名前にもあるように、こちらは立派な松でも有名でして、秋には月見の名所としても知られているそうです。
また眺望も良く、伊東温泉を一望できる素敵なお寺でした。
伊東へ湯治に行った際には是非立ち寄ってみて下さい。
「七つの幸福」が授かりますよっ!!



(※)ちなみにその一年後(寿永三年)が宇治川合戦です。
   木曾義仲が源範頼・義経率いる軍に敗れた戦い。


[住所] 松月院 伊東市湯川377

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金剛夜叉明王 (仏像・明王)

2006年05月04日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は五大明王の一人、「金剛夜叉明王」です。

以前「仏像講座」で取り上げました金剛夜叉さま。
先に紹介しました「降三世明王」と同じで、やはり単独神としての信仰は(おそらく)なく、たぶん見られるのは五人そろってのみの場合になるでしょう。
そんな点からも、ぜひ見分けれるようになっておきたいですよね。
ただ、下手をするとこの方その五名から外されてしまう可能性もあるという、みそっかすみたいに不幸な方でもあります。
ちなみに、代わりに登場する可能性があるのはお手洗いでお馴染みの「鳥枢沙摩明王(うすさまみょうおう)」です。…知ってるかな?おそらく、京都・奈良で育った方にはよくご存じかと思うんですが。
まあ、この方もいずれ紹介しますんでー。

さて、金剛夜叉さまです。
夜叉、という名前だと聞き覚えあるでしょう……てな具合に、前回「夜叉」について予めやっておきました。実はこの人を紹介する目的だったんですね。ただ、単に名前が似ている程度で、特にかかわりはないようですが。

金剛夜叉明王は過去・現在・未来の邪と欲望を取り除いてくれる神様です。
皆様お待ちかねの真言は「おん、ばざらやきしゃ、うん」です。これであちこちの邪を取り払ってもらいましょう。とりあえずは永田町あたりで唱える、それどころか大合唱してみたいですね(笑)
…誰もいなくなったりして。

梵名は「ヴァジュラヤクシャ」です。うわ、なんだか知らんけど、やたらかっこいーですね!どこぞのヒーローみたい(そうか?)
これで「金剛杵の威力を持つ夜叉」という意味になります。
ところで金剛杵(こんごうしょ)ってなんでしょう?

「杵(きね)」だと、みなさまお馴染み(でもないか)餅つく道具ですね。しかし「金剛杵」となると…金剛力士像がもっている短槍みたいなものを言います。インドではこれをヴァジュラといい、雷を放つ武器だそうですよ。
手がいっぱいある方(多臂像)などは持っているかもしれないので、よく見てみて下さい。わかんないけど。

と、そんな(↑)名前の意味にもなっている割に、持っているのは五鈷杵(ごこしょ)と金剛鈴(こんごうれい)なんですね。簡潔に書くと、五又の武器と鐘です。ちなみに像は三面六臂で中央は五眼となってます。簡単に書くと、顔が三つで手が六本。真ん中の顔は目が五つ、となってます。
これだけ聞くと昆虫か、はたまたどこぞの魔獣のような雰囲気ですね(笑)

で、見分け方はそのまま、目立つ左右の手が先に紹介しました武器と鐘をお持ちの方です。
お姿は胸前で両手を交互にぐるぐる回すような雰囲気ですね。例えるなら、とんねるず木梨さんの仮面ノリダーで、技を出す際の「ノリだぁ…」みたいなポーズです。
余計ややこしいですか。まぁ、詳しくは写真見て下さい。
足元は普通に蓮華座になります。もし五名が横並びであれば、たいていは右端にいるはず、です。方位で言えば北方に位置してます。
あれ、結構いいポジションですよね。

…と、まあそんな感じの方でした。
名前がこれだけかっちょえー方なんですが、像となるとなんだか一番いけてない金剛夜叉さま。あのね、像はどうにも中途半端な感じでして…。
これから作る方はぜひ「醍醐寺・宝物館」の金剛夜叉様を参考にして下さい。大きさはあまりありませんが、流れるようなポーズが歌舞伎ちっくで実にかっこいい像ですよん。



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※これに掲載しているのは東寺の金剛夜叉明王でした。でも説明がちょっとだけ。

日本100の仏像

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夜叉 (京都・東寺)

2006年05月03日 | 仏像
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本日は東寺とか六波羅蜜寺で見られる「夜叉」です。

なんでいきなりこんな方(…失礼な!)を紹介するかというと、単に明日のネタに備えてのことなんですね。当初は同時に書いていたんですが、えらく長くなってしまうので分割してお届けしております。

とりあえず「夜叉」という単語はなんとなく聞き覚えのある方多いでしょう。
ひでるさんと同時期にPCをやっていた方なら、ウルフチームの和風アクションゲーム「YAKSA (ヤシャ)」を思い出すことでしょう。おそらく。
違う?知らない?
最近の漫画好きなヤングだと荻野真センセの「夜叉鴉」ですか?
…ああ、貫一・お宮で蹴っ飛ばすシーンがメチャ有名な「金色夜叉」ですか。なるほど、今あげた三点ではこれが一番有名ですかね。
えっと、高峰三枝子?山本富士子?あんまりよく知らないですが。

本当の「夜叉」っていうのは、古代インドで悪鬼の一種でした。しかし、例によって仏教に取り込まれると心洗われ、なんと神様になりました。
「異形をもって世のために畏をなす」
…って、この方は明王と似たようなことを言ってます。
力ずくで人の考えを「仏様サイコー!仏教万歳!」にしてしまう、八九三ちっくなのが明王ですが、この方は世の中のために敢えて悪人なふりをしているようです。そうですね、キラーカーンみたいな感じでしょう。(←ちがうか)

梵名は「ヤクシャ」です。芝居やらせたら竹内力みたいに大成しそうですが、これで薬叉(やくしゃ)、あるいは夜叉と音号するそうです。
基本的には四天王でお馴染みの毘沙門天(多門天)の眷属なんですが、ほかに八部衆の一人としてひょっこりいたり、薬師さまの眷属として十二夜叉大将を構成したり、大般若教を守護する十六善神となったり…と大忙しで、実に引っ張りだこな方なんです。使いっ走りです。芝居なんてやってる暇はありません(笑)

忙しい下っ端らしく、過去に東寺では南大門の左右に安置されていたようですが、これが旅人にいたずらするので中門へ移動したそうな。(東寺「東宝記」より)
えっと門番という仕事が気に入らなかったんでしょうか?
見事配置換えを勝ち取った夜叉さまですが、嫌な役目だからって他人にあたるのはやめてほしいですね。
…って、本当に改心したのか!?

冗談はおいといて、上の例にもあるように基本的には寺院を守護する伽藍神(※)としての役割だったようです。
見分け方は…それっぽい像、ということで。固有の形態はたぶんないと思いますが、ひでるさん見たイメージでは髪の毛逆立ってる方ですかね。手も目も普通の数でここにも特徴はない…と思います。
先にあげた各チームの一人として存在するほか、単独での信仰もあり、東寺や清水寺、六波羅蜜寺などで見られますよん。


(※)伽藍神(がらんしん)寺院の主な建物の守護神。みたいな感じ。
   ちなみに、今回写真は京都の教王護国寺こと東寺です。

[住所] 東寺 京都府京都市南区九条町1


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※と、いう訳でこれは「金色夜叉」

金色夜叉

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金閣寺 (京都)

2006年05月02日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は京都の代名詞とも言える世界遺産「金閣寺」です。


えっと、ブログのタイトルも↑あんなんなので、そろそろ有名どころを押さえようと思いました。
気づいたら「銀閣寺」な~んてがっかりする方を先にやっていて、こちらは触れてもいませんでしたから。
…あれ、この発言は大丈夫ですかね。やばい?


さて、冗談はこれくらいにして「金閣寺」です。
まず、実際の名前は金閣寺でなく「鹿苑寺」と言います。読み方は「ろくおんじ」です。
このままの名前だと人気でなそうですね(笑)

ひでるさん京都に住んでいた時には二、三度ほど行く機会がありましたが、まー…観光客の多いこと、多いこと…。
ビジュアル的にも外人さん受けするためか、あちこち海外からの観光客の姿もよく見かけました。凄さが単純に分かりやすいので、本来退屈な修学旅行中でもここだけは唯一印象に残っている、という方も多いのではないでしょうか?


参道を進むと、木々の合間からふと見える池に浮かんだ金色の建物。
それは日の光を浴びて輝きを増し、はっと息をのむほどに壮麗な、豪華絢爛な建造物でした。


……あのね、つまんない、どうでもいい話なんですが、今映画でもやっているZガンダムに出てくる「百式」というモビルスーツは同様に本体色が金色なんですが、おそらくこんな感じなんだろうなぁ、とか思ったりして。
ちょっと古ければゴールドライタンでも思い出して下さい。


まぁ、そういう視点でも楽しめると思いますよ、寺に興味ない皆さん。
えーすみませんでした、話戻します。

本来は朝廷と鎌倉幕府の連絡役をしていました公家「西園寺家」が建立。
もともとはその別荘(!)でしたが、鎌倉幕府崩壊後の混乱で西園寺家も共に没落し、所領は没収されてしまいます。
そんな流れで一時期は手付かずで放置されておりましたが、室町幕府の三代将軍「足利義満」が大変気に入り、ここを譲り受け、改築・新築で一新。
山荘「北山殿」を造ります。

この世に極楽浄土を作ろう!
…という場合によっては迷惑千万なスローガンのもと、金箔を貼った三層の建物と立派な庭園が完成しました。
ちなみに、金箔は二、三層のみです。んで、それぞれの層が異なる様式で建築してあるという、凝った造りです。…マニアですね。

義満はここを邸宅として使用しますが、同時に政務の一切も行い、一時期はまさに国の中心というべきところでした。

その義満の死後、彼の遺言そのまま、あの有名な「夢想国師(むそうこくし)」を開山として禅寺「鹿苑寺」と生まれ変わりました。
ちなみに「鹿苑寺」は足利義満の法号「鹿苑院殿」からとったそうですよ。

さて、現在の建物は昭和三十年に昔のイメージそのまま再建されたものです。
案外古いものではないんですね。
それ以前では、まず当ブログでお馴染み「応仁の乱」でこともあろうに西軍の陣となってしまい、建物の大半が焼失。いちいち余計なことしてくれますね。その後、昭和にも放火で一度焼失しているようです。
なんと、その時には国宝「足利義満像」も同時に焼失してしまったそうです。
あー、なんということを……。



[住所] 金閣寺(鹿苑寺) 京都市北区金閣寺町1
   ※今回撮影もひでるさんなんですが…どうすか?よく撮れてるでしょう?!


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◎東京国立博物館 「最澄と天台の国宝」展 開催中◎ ⇒ ひでるさん行ってきました。

※二度目の焼失についてのお話です。ショック!!

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