お寺さんぽ Ver.03

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米のような必需人「丹羽長秀」 <後編>

2006年05月25日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も”織田家の中核なのにあまり知られていない隠れた実力者”「丹羽長秀(にわながひで)」です。

にわにはにわながひで。
ということで長秀さまの後編です。
前回は、織田家中においては米のように欠くことのできない存在で、めだった戦績はないものの、柴田勝家に次ぐ二番家老の地位となっていました。
…という感じでした。


さて、この丹羽長秀さま。
前回、軍事はそれなりでした、と紹介しました。
それなりでいいんです。
なにしろ、長秀は軍事よりも政治的な面で重用されており、当人もそれを得意としていたようなのです。
目立つところでは、信長の居城となる「安土城」から、村上水軍を撃破した「燃えない船」までと、お城から鉄鋼船まで、幅広く作らされております。
(※もっとも、船製造のメインは水軍の「九鬼嘉隆」でしょうけどね)
京都の奉行みたいな仕事もやっています。
こんな風に適当に幅広く器用なところが、また地味目に写る理由なんですけどね。
河合奈保子みたいに。

当時訪れていた宣教師「ルイス・フロイス」によると、

「柴田・丹羽の両名は織田家の二本柱である」

というようなことを残しています。
第三者である外国人がそう言うのだから間違えありません。まあ、武の柴田に対し、文の丹羽という感じだったのではないでしょうか?

親子二代とも織田家と姻戚関係にあり、順調であった長秀の運命は信長の死後より、にわかに陰ります。
本能寺の変では信長の三男「神戸信孝」と共に四国攻めの準備中でした。(長秀は副将として参加)
中国毛利との陣から駆け戻ってきました秀吉に従い、共に山崎合戦にて「明智光秀」を討伐。その後も長秀は一貫して秀吉を支持し続け、結果五十万石の大身となります。
しかし、その後はすぅと歴史の表舞台から姿を隠し、そのまま死去してしまうのです。
それがね、病が原因で死去という説のほかに、主家を凌ぐ秀吉に憤慨して、割腹自殺をしたという説もあります。内蔵だかなんだかを送り付けたとか…。

そりゃ、織田家と親密であった長秀にしてみれば、
「織田家のために奴の味方についたが、俺はなにか間違えたかもしれない」
…という感じだったのでしょう。

これはちょうど関ヶ原合戦後の「福島正則」ら秀吉子飼の武将たちの心境と似ています。
「頼まれて味方をしたが、その後から家康はまるで天下をとったような振舞いになってきた。どこか間違ったかもしれん」
…そんな風に。そう思った時にはもうだいぶ手遅れなんですけどね。

信長にとって使い勝手のいいナンバーツーは、主がいるからこそ輝きを増すのであって、上が変われば同じようにはなりません。まして、新たな上司になった秀吉にしてみれば長秀は元の大先輩ですから、色々気を使うためやりづらいでしょう。
信長と同じようにはできっこないです。
このような点で、信長死後の「丹羽長秀」の運命は、ほぼ決していたのだと思います。

余談ですが…彼の嫡男「丹羽長重」は秀吉によって難癖をつけられ、改易。石高も十分の一程度に減らされ、体よくおっぱらわれております。
うふふふふふ…。

こんなんがあまり語られない、「豊臣秀吉」という人の暗黒面ですよ~。
こわい、こわい。



※と、いう訳で今回写真はちらりと裏の顔をのぞかせた「豊臣秀吉」です。
 だって、丹羽長秀の画像とか関連施設の写真ないんだもん。


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※残念ながらこちらも写真はないですが、今回内容にばっちり合致した書籍です。
 信長はともかく、秀吉には利用されちゃった感じですけどね。

丹羽長秀―信長と秀吉を補佐した「信義」の武将

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