のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は三尾の名刹の一つとして知られる槇尾山は「西明寺」です。
へーそうなんだ。
…って、これはパンフそのままで、毎度のことながらひでるさんの知識ではありません。
さて、「西明寺」です。
そうですね、思い出すことと言えば、山奥で遠かったことでしょうか。
ひでるさんここには真夏に自転車で行きましたが(※ひやしあめの回参照)……実に暑くてしんどかったです。
自転車で行こうと思う人はそうそういないと思いますが、車をオススメしますよ。
紅葉の名所として知られているので、いい季節は秋ですか。
もし、「ひやしあめ」を美味しく飲みたいと思うなら、ひでるさんのように真夏にどうぞ。
止めませんよ。
うふふ。
天長元年(824)…そのあたりの頃。
前に紹介しました弘法大師さまの高弟「智泉大徳(ちせんだいとく)」が神護寺の別院としてここを建立しました。
という訳で、当然ながら「真言宗」のお寺です。
智泉大徳はその弘法大師より「密教の事は智泉に任す」と言われたほどの人です。
すごいんですよ~。
この人は亡くなったのが天長二年だそうなんで、なんとぎりぎり完成なんですね!
その後、平安末期頃には神護寺と共に荒廃してしまいますが、「我宝自性上人」が中興。この時に本堂やら宝塔やらが色々豪華絢爛に建てられたようです。
この方、一応パンフに説明がさらりと書いてあるんですが……その読み方から、なんでそれだけ資金があったのか、よく分かりません。げしょしょ。
さらに正応三年(1290)時は鎌倉時代。
「平等心王院」の名を後宇多天皇(ごうだてんのう)より賜り、神護寺から独立。
それからそれから時代は進んで戦国期になると、永禄年間(1558~1570)の間に兵火で焼失してしまいます。
ここも軽く調べてみましたが、よくわかりませんでした。
ちなみに「桶狭間合戦」が永禄三年(1560)、武田信玄が小田原城を囲んだのが永禄十二年(1569)、同じときに信長が京都へ上洛でした。要はそのくらいの時期ってことらしい。
もしかして…焼いたのは信長とか三好とか、そのへんの方でしょうか?
そんな風に度々荒廃・焼失を繰り返した「西明寺」
慶弔七年(1602)
…というから、これは「関ヶ原合戦」の次の次の年。
明忍律師(みょうにんりつし)というお坊さんによって、めでたく再興されました。
ちなみに、再興後に徳川綱吉の母「桂昌院」さまの寄進で本堂が建てられたということなので、徳川将軍家もバックアップしたこととなります。それで考えると、明忍さまが再興した時も、おそらくそのあたりがスポンサーではないのかなー、とか思います。
こうして、復活した「西明寺」は兵火をどうにか免れた平安・鎌倉の仏像(釈迦と千手は重文ですよっ!)と共に現代まで残ったのでした。
ああ、よかった・よかった、ということでおしまい。
えー、最後にここのお寺のパンフレットについて一言。
掲載された四季の風景写真が実に綺麗で、由来・仏像・建造物から、関係した人物の説明までさらりと書いてありまして、それは非常にいいんです。カラーでいい紙質ですし。金かけてんなーという感じでした。
ただね、このパンフレットにはルビがほとんど存在しないんですよ。
ジャミラが水で衰弱するが如く、漢字が弱点のひでるさん…。 (※ちなみに、それ以外にも弱点や天敵がたくさんおります)
はっきり言って読めませんよ!!
上の説明文↑がいつもよりパッとしないのは、それが原因であります。たぶん。 (←いや、そう変わらんと思う)
誰もが詳しい訳ではありませんし、専門家ばかりが訪れるとも限りません。
あれはパンフレットとして不親切だと思いますよ。ええ。
なーんとかしてぇー。
[関連記事]
⇒ 弘法大師 (1 ・ 2 ・ 3)
※ちなみに写真は「西明寺・表門」です。
本堂と同じ元禄十三年モノで京都市指定有形文化財です。
[住所] 西明寺 京都市右京区梅ヶ畑槙尾町1
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※たまには漫画でなく、こんなんで心穏やかにしてみては如何でしょうか?
「そうだ、京都行こう」
…って感じになると思いますよん。
本日は三尾の名刹の一つとして知られる槇尾山は「西明寺」です。
へーそうなんだ。
…って、これはパンフそのままで、毎度のことながらひでるさんの知識ではありません。
さて、「西明寺」です。
そうですね、思い出すことと言えば、山奥で遠かったことでしょうか。
ひでるさんここには真夏に自転車で行きましたが(※ひやしあめの回参照)……実に暑くてしんどかったです。
自転車で行こうと思う人はそうそういないと思いますが、車をオススメしますよ。
紅葉の名所として知られているので、いい季節は秋ですか。
もし、「ひやしあめ」を美味しく飲みたいと思うなら、ひでるさんのように真夏にどうぞ。
止めませんよ。
うふふ。
天長元年(824)…そのあたりの頃。
前に紹介しました弘法大師さまの高弟「智泉大徳(ちせんだいとく)」が神護寺の別院としてここを建立しました。
という訳で、当然ながら「真言宗」のお寺です。
智泉大徳はその弘法大師より「密教の事は智泉に任す」と言われたほどの人です。
すごいんですよ~。
この人は亡くなったのが天長二年だそうなんで、なんとぎりぎり完成なんですね!
その後、平安末期頃には神護寺と共に荒廃してしまいますが、「我宝自性上人」が中興。この時に本堂やら宝塔やらが色々豪華絢爛に建てられたようです。
この方、一応パンフに説明がさらりと書いてあるんですが……その読み方から、なんでそれだけ資金があったのか、よく分かりません。げしょしょ。
さらに正応三年(1290)時は鎌倉時代。
「平等心王院」の名を後宇多天皇(ごうだてんのう)より賜り、神護寺から独立。
それからそれから時代は進んで戦国期になると、永禄年間(1558~1570)の間に兵火で焼失してしまいます。
ここも軽く調べてみましたが、よくわかりませんでした。
ちなみに「桶狭間合戦」が永禄三年(1560)、武田信玄が小田原城を囲んだのが永禄十二年(1569)、同じときに信長が京都へ上洛でした。要はそのくらいの時期ってことらしい。
もしかして…焼いたのは信長とか三好とか、そのへんの方でしょうか?
そんな風に度々荒廃・焼失を繰り返した「西明寺」
慶弔七年(1602)
…というから、これは「関ヶ原合戦」の次の次の年。
明忍律師(みょうにんりつし)というお坊さんによって、めでたく再興されました。
ちなみに、再興後に徳川綱吉の母「桂昌院」さまの寄進で本堂が建てられたということなので、徳川将軍家もバックアップしたこととなります。それで考えると、明忍さまが再興した時も、おそらくそのあたりがスポンサーではないのかなー、とか思います。
こうして、復活した「西明寺」は兵火をどうにか免れた平安・鎌倉の仏像(釈迦と千手は重文ですよっ!)と共に現代まで残ったのでした。
ああ、よかった・よかった、ということでおしまい。
えー、最後にここのお寺のパンフレットについて一言。
掲載された四季の風景写真が実に綺麗で、由来・仏像・建造物から、関係した人物の説明までさらりと書いてありまして、それは非常にいいんです。カラーでいい紙質ですし。金かけてんなーという感じでした。
ただね、このパンフレットにはルビがほとんど存在しないんですよ。
ジャミラが水で衰弱するが如く、漢字が弱点のひでるさん…。 (※ちなみに、それ以外にも弱点や天敵がたくさんおります)
はっきり言って読めませんよ!!
上の説明文↑がいつもよりパッとしないのは、それが原因であります。たぶん。 (←いや、そう変わらんと思う)
誰もが詳しい訳ではありませんし、専門家ばかりが訪れるとも限りません。
あれはパンフレットとして不親切だと思いますよ。ええ。
なーんとかしてぇー。
[関連記事]
⇒ 弘法大師 (1 ・ 2 ・ 3)
※ちなみに写真は「西明寺・表門」です。
本堂と同じ元禄十三年モノで京都市指定有形文化財です。
[住所] 西明寺 京都市右京区梅ヶ畑槙尾町1
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※たまには漫画でなく、こんなんで心穏やかにしてみては如何でしょうか?
「そうだ、京都行こう」
…って感じになると思いますよん。
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