お寺さんぽ Ver.03

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久米の乱に挑む三好義賢 (三好長慶とその一族)6

2009年04月30日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も畿内の覇者にして下剋上の代表「三好長慶(みよし・ちょうけい)」です。

大永三年(1523)、細川氏の有力な被官であった「三好元長」に待望の嫡男、今回主人公の「三好長慶(みよし・ちょうけい)」が誕生しました。
次男「三好義賢(実休)」、三男「安宅冬康(あたぎ・ふゆやす)」、四男「十河一存(そごう・かずまさ)」ら有能な弟たちを駆使し、中央から四国まで広範囲にわたる”三好政権”を築き上げた、その手腕をご覧ください。


各地の合戦にて名声を天下に轟かせた長慶。
父の仇である「三好政長」を「江口合戦」にて撃滅、主君「細川晴元」を追放して、ついに実権を握ったのです。
しかし、擁立した将軍「足利義輝(※写真)」は復権に燃える、なかなかの逸材だったのでした…。


天文二十二年(1553) 「久米の乱」・「霊山合戦」
三好家では恩人であり、主筋というべき“勝瑞屋形”こと阿波守護「細川持隆」と対立しています。

中央での混乱を見た持隆は、長きに渡って不遇をかこっていた、阿波公方「足利義冬」をを迎えました。
さらに、阿波の国人衆を味方として上洛に備えるなど、長慶に対して敵対行動を見せたのです
続いて、阿波に居座っていた「三好義賢」の暗殺を試みるも失敗。

…これは、暗殺計画を事前に密告した持隆の配下がいたらしく、逆に義賢は罠をかけます。
戦国ちっく、というのもそうですが、なにげに義賢の人望の高さが伺えますね。
(※なお、三好の姉妹らは阿波の有力国人衆らに嫁いでおり、しっかり勢力を確立・伸長させていました)
弟「十河一存」と謀った義賢は、見性寺にて持隆を暗殺
阿波・勝瑞城を確保しております。

さらに、三好勢に反対する阿波・芝原城の「久米義弘」ほか、「野田」、「佐野」、「小倉」ら国人衆は一斉蜂起して一宮へ夜襲を仕掛けましたが、これも逆に討ち破ったのでした。

この「久米の乱」に勝利した義賢は、その子で若年の「細川真之(ほそかわ・さねゆき)」を守護として擁立しました。
いわゆる傀儡として仕立て上げたかったんですが、彼も後に反対勢力をまとめて長宗我部氏と結び、再び三好氏を攻めることとなるのです。


一方、この頃の畿内では「細川晴元」と結んだ「足利義輝」ら反三好勢が懲りずに蜂起しておりました。
しっかり優位に立っていた三好勢は彼らを圧倒し続け、「足利義輝」方の籠る拠点霊山城、西院両城らを次々と攻略。
義輝らは近江朽木まで逃亡したのです。

後に、近江「六角義賢」の斡旋によって、長慶は義輝・晴元らと和睦。
晴元は隠居して、「細川氏綱」に家督を譲っております。

こちらの京都「霊山合戦」の勝利によって長慶は幕府御供衆となり、幕政だけでなく摂津・山城の実権をも掌握することとなったのでした。
彼は摂津芥川城(大阪府高槻市)を本拠として、畿内を支配するのです。

⇒ つづく。
  次回は「危険な重臣、松永久秀」(7/10)


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三芳野の花―三好長慶の生涯
諏訪 雅信
近代文芸社

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※下手をすると、複数掲載された本からも外されてしまう長慶さま。
 うーん、凄い人ではあるんですけどねぇ。