お寺さんぽ Ver.03

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イケてる三好軍団 (三好長慶とその一族)1

2009年04月02日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は畿内の覇者にして下剋上の代表「三好長慶(みよし・ちょうけい)」です。

大永三年(1523)、細川氏の有力な被官であった「三好元長」に待望の嫡男、今回主人公の「三好長慶(みよし・ちょうけい)」が誕生しました。
次男「三好義賢(実休)」、三男「安宅冬康(あたぎ・ふゆやす)」、四男「十河一存(そごう・かずまさ)」ら有能な弟たちを駆使し、中央から四国まで広範囲にわたる”三好政権”を築き上げたその手腕をご覧ください。


■おまけ: ややこしい三好家家系図 (※↓:子、-:兄弟、=:養子)

 小笠原長清
    ↓
   (略)
    ↓
   之長
    ↓
   長秀--------頼澄--------長則
    ↓              ↓             ↓
   元長-康長(笑岩)  政成-政康(三人衆)  長逸(三人衆)
    ↓
  長慶-----義腎(実休)---冬康(安宅)--一存(十河)
    ↓           ↓         ↓          ↓
   義興=義継   長治-存保(十河) 信康  義継(宗家へ)=存保


※兄弟内で子供のやりとりもあるため、ややこしいてです。
 よく分かんなくなったら、こちらをご確認下さい。


享禄四年(1531) 「大物崩れ」
先の合戦に敗れていた「細川高国(※写真)」は二万という兵力を動員。
抵抗しましたが、播磨「赤松政村」が三好勢に寝返ったことから戦況は一転。
元長は天王寺にて高国を大敗させ、さらに追撃して尼崎へ追い詰め、自害させたのでした。

なお、この頃から阿波国人衆と摂津国人衆の間で内部分裂・抗争が起こっていました。
管領となった「細川晴元」は一向一揆勢力を使って、解決を試みるのです。

河内飯盛城の「木沢長政」を河内守護「畠山義宣(はたけやま・よしのぶ)」、そして「三好元長」らが攻撃。
もともと飯盛城は畠山氏の居城でした。
しかし、「木沢長政」は主君を裏切って「細川晴元」に通じるなど、独自の行動を見せていたのです。

義宣は飯盛城奪回のため、その当時は晴元と対立するようになっていた「三好元長」に助力を依頼していたのでした。
戦況は畠山・三好連合軍が圧倒的に有利でしたが、長政の援軍要請を受けた晴元、「三好政長」らは石山本願寺「証如(本願寺光教)」に支援を依頼。
これによって証如が激を飛ばすと、付近の宗徒らが一斉決起し、なんと三万という大軍勢となって連合軍を背後から攻撃したのです。
たちまち畠山・三好らを敗走させてしまうのでした。

この戦いによって、総大将「畠山義宣」は自刃。
長慶の父「三好元長」は堺顕本寺へ逃げ込みますが、追撃を受けて討死
妻と子「千熊丸」こと長慶はこの時に阿波へと逃れています。
当時は十歳。

ちなみに、合戦で勝利した晴元勢ですが…。
この合戦によって大いに自信を深めた本願寺勢は各地で一向一揆を勃発させることとなり、やがて警戒を強めた晴元と対立していくのです。
また、討死した「三好元長」が法華宗であったため、一向宗との間で抗争が激化。
晴元はこの法華一揆をも利用して、一向宗の拠点であった山科本願寺を焼き打ち。
こうして比叡山をも巻き込む、一大宗教戦争「天文法華の乱」へと発展していくのですが…それはまた別の機会で。
(※一向宗が石山へ移動したのはこの事件がためなのです)

⇒ つづく。
  次回は「上洛する若き三好長慶」(2/10)

[関連記事] 【戦国時代・歴史その他】
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※ゲームをやっている方なら、一向宗の怖さをちょっぴり体験していることでしょう。
 晴元くんのせいなんですね。