お寺さんぽ Ver.03

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上洛する若き三好長慶 (三好長慶とその一族)2

2009年04月05日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は畿内の覇者にして下剋上の代表「三好長慶(みよし・ちょうけい)」です。

大永三年(1523)、細川氏の有力な被官であった「三好元長」に待望の嫡男、今回主人公の「三好長慶」が誕生しました。
次男「三好義賢(実休)」、三男「安宅冬康(あたぎ・ふゆやす)」、四男「十河一存(そごう・かずまさ)」ら有能な弟たちを駆使し、中央から四国まで広範囲にわたる”三好政権”を築き上げた、その手腕をご覧ください。
ちなみに、今回の写真が「三好長慶」です。

見事「細川晴元」を後継者・管領の座に据えた、長慶の父「三好元長」
しかし、両者はやがて対立することとなり、本願寺と結んだ管領「細川晴元」の策略によって、和泉堺で一向一揆に攻められ、敗死。
当時十歳だった長慶は、阿波へと逃れたのでした…。


長慶は阿波守護である細川一族「細川持隆」の元に身を寄せました。
彼の庇護のもと、天文元年(1532)に十一歳という若さで家督を相続しております。

天文二年(1533)
一大宗教戦争「天文法華の乱」によって、「細川晴元」は本願寺と対立していました。
自業自得ですね。
ここで長慶は両者の間に立ち、一向宗と「細川晴元」の仲介役として上洛。
晴元を支えて講和に成功し、若くしてその器量を見込まれることとなったのです。
(※もともと法華宗と繋がりの深かったことが大きかったようです)

その翌三年には「木沢長政」の斡旋により、晴元とも和した長慶。
一向宗との和睦功労者ということもあり、細川氏の家臣へと復帰したのです。
こうして父と同様にその被官として、幕府へ出仕するようになりました。
長慶は細川勢力の下、地道に実力を蓄えるのです。

なお、兄長慶が畿内へ進出した後、阿波に残って三好勢をよくまとめたのは弟「三好義賢」でした。
彼は兄に負けずかなりの器量人で、政治・軍事の中心に立って、三好勢を支えていくのです

天文八年(1539)
一方、細川政権にて着実に功を重ねていた長慶。
この年にはもともと父の遺領だった河内国の代官職を要求しています。
…それなりの自信があったのでしょう。

しかし、これが許されないと、二千五百という軍勢を率いて上洛
父の仇に対して反旗を翻したのです。
武力による威圧を恐れた将軍「足利義晴」は戦わずに逃走しているなど、この当時になるとかなりの勢力を回復していたようです。

管領「細川晴元」、「三好政長」らは出陣して長慶の軍勢と対峙しておりましたが、結局近江「六角定頼」らの斡旋によって講和。
摂津半国の守護代という地位を手に入れ、摂津・越水城主となったのです

⇒ つづく。
  次回は「畿内最大”舎利寺合戦”に挑む長慶」(3/10)

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※意外に本の少ない「三好長慶」さまなのでした。
 …まぁ、最後が気の毒なことになるしねぇ。