故郷へ恩返し

故郷を離れて早40年。私は、故郷に何かの恩返しをしたい。

無くてもあっても困らぬもの

2019-10-22 11:44:35 | よもやま話

タイトルは、「そばを作る人」です。
自宅の屋根より高い山の斜面でそばを作っています。
今にも転げ落ちそうな畑です。
どうしてここで作っているのか。
いろんな理由が考えられます。
理由を考え、心を打たれ応援をする。そして、自らもやってみる。


カフェ開店までの15分間で書きましょう。
今日のタイトルは、「無くてもあっても困らぬもの」です。
具体的な物ではなさそうである。
時間はいかがでしょう。
無ければないように生活する。
あればあったでゆっくりする。

逆に、「あっても、無くても困るもの」とは何でしょう。
欲が思い浮かびます。
象徴的な物は、お金です。
あれば、減らないか心配です。もっと欲しい。
無ければ、貧困です。貧すれば鈍する。

元に戻りましょう。
「無くてもあっても困らぬもの」は、日常ではない空間や時のことです。
テレビを観なくても生活できる。
趣味が無くても生きていける。
こだわりのような事柄です。
なんか気持ちが悪い、歯の間に挟まった食べものかすとも違う。
向上心と言うか、出来れば上手になりたい程度のものから、目標を掲げ達成するまで努力する。
産まれてすぐに母親から愛情を注がれる。
親のこだわりを受け継ぐように生きていく。
果たして自分に合っているのか、疑問を持つようになる。
年頃になれば、自分と言うものを持つ。

日常ではない空間や時のよいことの一つに、幸せがある。
(2019年10月21日投稿、以下は翌日投稿)
なぜ、このようなことを書こうとしたのか、種明かしをします。
個人が、生きる上で大切にしていることは何なのか。
自分は、何者なのか。
こういう疑問を自ら持ち、考えてみました。

私は、エンジニアリングに関わるいろんなことを、結果的に学ぶことになりました。
設計から開発、プロジェクトエンジニアー、営業、教育担当と経験することができました。
生涯、管理職にはならず現役を続けることができました。転職したからです。
営業の時、エンディングストーリーを描けることがとても大事だと気づきました。
あらゆる技術会議に、各社の営業を参加させました。
良いこと(自社が得意とする分野)だけを売っていくことはできない。
それを知ってほしかった。
エンジニアリングは、チームが同じ方向を目指すキーワードの元やる仕事です。
売るものが、エンディングストーリーをイメージしなければならない。

西田幾多郎の「善の研究」という本がある。
人間は、何を目指して生きているのか。
生きることは、経験を積みより高みを目指す終わりのないものであり、
生きることそのものが善であるという。
善とは、先祖(父母)から受け継ぎ、自分が工夫努力をして積み上げていくものである。

職人には終わりがない。
人間の営みにも終わりがない。
こうだったら良いのにな。経験は、幸せだったり、不幸だったりします。
それでも、こうだったら良いのになと繰り返し挑戦する。
自らの名誉ではない。
社会全体が、良い方向に向かえばよいと考えている。
気づかないまでも、無意識に向かうエネルギーのことです。

「無くてもあっても困るもの」とは、よくわからない自分の目指すもののことです。
人生は、決して楽ではない。でもなぜか努力をする。
「こうだったら良いのにな」は、自分の中から湧き出るものです。
そしてやってみる。何度もやってみる。頭で考えていては、掴めぬものです。
身体も頭も汗をかく作業のことです。
自分自身でも気づかぬものだけど、やっているのです。

「無くてもあっても困るもの」を考えてみました。

仏像は 動かぬもので 話さない

2019年10月21日
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気づかぬ傷

2019-10-19 08:32:38 | よもやま話

タイトルは。「傷あればこそ熟す」です。
真偽のほどは置いといて、もうすぐ干し柿を作る季節になりました。
傷は勲章です。大事に付き合いましょうかね。


亡きお袋からたくさんの野菜が届いた。
良かれと想う母の気づかいでした。
半分は潰れて、半分は多すぎて食用になったのはわずかであった。

今日のタイトルは、「気づかぬ傷」です。
熟れたもの(美味しいもの)を食べさせたい。
家族が多い我が家を喜ばせたいと、大量の野菜でした。
何度も届いた宅急便の惨状を報せました。
我が家の冷蔵庫で順番に傷んでいく野菜を見て嘆きました。

結婚式の引き出物が、カタログ注文になっていった。
お返しの習慣が変わったのである。
かつては、お返しにいただいた皿やお盆で押し入れがいっぱいになった。

先輩が、後輩に自分の経験を話すのが飲み会の常識であった。
今では、セクハラやパワハラに気を付けながら話さなければならない。
社員旅行に行きたいという社員が減ってきたので、旅行そのものが取りやめになった。
先輩も会社も「良かれ」との思いから出る活動です。

今度は送る側になった。
中には、見たこともない食材も混じっている。
料理方法と保存方法も付け加えている。
食材の中には、筍やとうもろこしのように、採れたてから時間が経つごとに味が落ちていくものがある。
筍は、4時間以内に茹でたものを冷蔵で送る。
大量にいただき送るので、もらってくれる人も捌ける人を選ぶ。
渋柿を500個いただいた。100個ずつ都会の知人に送った。
ご主人も手伝って、干し柿にしたそうである。

良かれと思い言った言葉で、他人を傷つけることもある。
反対に、励まされてさらに落ち込むこともある。
励ましは、まことに難しいのである。
黙って聞いてあげるくらいでちょうど良い。
傷が癒えたら、その人はまた自力で歩き出します。

「気づかぬ傷」にどうすれば思い至るのか。
ある人は、相手を想う「愛」だという。
小説でも漫画でも作者がいる。
作中の人物は、書き手の思うようにはならない。
勝手にしゃべりだしたり動いたりする。
この主人公やったら、このくらいは言うなと代弁するように書き留める。
果物などが鳥につつかれる。その果物はさらに美味くなる。
木が風にあおられ枝が折れる。折れた個所はさらに強くなる。
植物は、傷を治そうと糖を送り再生するのである。
だから、美味しくなり丈夫になる。

「気づかぬ傷」は、人が生きていくうえでの試練のようなもの。
自分で気づかぬうちに、相手を傷つけたとしても心配はないのである。
相手も初めて気づいた傷である。気づかせてくれたことを暗に感謝するのである。
そして、さらに強くなろうとする。あなたに近づかなくなるのも防衛本能であろう。

腐りかけ 美味しんやで 三十路かな

2019年10月19日
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頼りにされた

2019-10-18 11:40:44 | よもやま話

タイトルは、「田植え後」です。
倒れた苗をおこし、抜けた個所に新たな苗を植える。
いただきますと手を合わせる。


隣りのおばあちゃんが、畑を鋤いてくれと依頼に来られた。
この地に来て4年目にして、初めて地域の方から頼まれたのです。
許可をいただいて、空き家の草刈も剪定も続けています。
しかし、直接依頼されたのは初めてのことです。
80歳を過ぎたおばあちゃんの畑(2反はあろうか)は草一本ありません。
家族が食べる量は知れているので、各畑に一筋だけ作物を植えられています。
ほとんどの作業が草取りです。朝から晩まで草取りをされている姿を見ています。
家族からは、身体が心配だからやめろと言われ続けています。
続けておられるから、背中もしゃんと伸び、里芋も引っこ抜かれます。

もう草がとれないと、草ごと鋤いてくれるよう頼まれました。
私は、喜んでカンリキ(耕運機)で鋤きました。時間にして一時間半でした。
私が望んでいたことが起こったのです。
私は、ここにきてずーっと「期待されない人」でした。
代金を払うと来られたおばあちゃんに、いただけませんと丁重に断りました。
単に鋤いただけですが、拝むようにお礼を言われました。

期待されないのも自由で喜ばしいことです。
たまに、頼まれることも同じように嬉しいことなのです。
こうして、地域の一員になっていくんだろうなと思います。
台風19号がもたらした被害は甚大です。
氾濫した水で浸水した家や畑は多い。道も寸断されています。
ここでは、近所の人総出で助け合っている姿を見ます。
被害にあわれた方も肩を落とす暇などないのです。
これが日本の底力なんでしょう。

寒い朝 おはよの声が 温かい

2019年10月18日
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高きから低きへ

2019-10-15 10:09:18 | プロジェクトエンジニアー

一時期、夕日の絵を描き続けたことがありました。
何か物悲しかったのでしょう。
そして、波や水辺に魅かれ何枚も描きました。
二度と起きぬ波頭を表現したかった。
無情ではない無常です。


台風19号がもたらした被害は甚大であった。
我が家の庭に山からの水が溢れた。
水が止まらないので、道路脇の排水溝まで庭に溝を掘った。
山からの水は、山際の倉庫の脇を通り湧きだしている。
山肌を滑り落ちた水は、倉庫にも浸み込むように侵入していた。
通過したのは、3日前の未明であった。
未だに、水は途切れない。

今日のタイトルは、「高きから低きへ」です。
倉庫の下には、栗石と真砂土が入っているはずだ。
水が通りやすい通路となった。
ブナなどと違い、雑木や竹の根は浅い。ダムの役割は果たせなかったようだ。
今後共、我が家の倉庫下は、雨がふるごとに通路となるであろう。
水が引いたら、山際に側溝を入れなければなるまい。

突然の展開であるが、富も当然のごとく「高きから低き」へ流れるはずである。
知恵もそうでなければならない。
どこかに、ダムができているのである。
ダムのオーバーフローだけが、時々流れてくる。
今回のようなことになると、消化(貯水)できないから氾濫となる。
自然の摂理である「高きから低き」へあらゆるものが流れるはずである。
どこかに貯めているのが、透けて見える。
少しずつでもよいから、抜ける水路のようなものを造らなければならぬのであろう。
教育であり、情報共有ではないだろうか。

感心するのは、田んぼの役割である。
ここでも、小さな小川が氾濫した。氾濫した水は、田んぼに一時的に貯水された。
貯水する機能がない地下駐車場は、水没した。電気が止まれば排水ポンプも動かない。
指をくわえて見るしかない残念な光景である。
東京には、大きな地下貯水場がある。降水100mm/Hrまでは、耐えると聞いた。
今回も大いに役に立ったことだろう。

田んぼの面積をあるいは宅地を確保するために、川を狭くしたと地域の方から聞いた。
その川が溢れたのである。誰が指揮を執ったのかは知らない。
「高きから低きへ」、温かい動脈や静脈のような、ましてや毛細血管のような通路は出来ぬものか。
持っているものは、持たぬ者へ技術や知恵を回すことを考えることで、
あらゆるものは循環するのである。
都市から地方へ、地方から都市へ私たちにはできることがたくさんある。
どのようにすれば、それが可能になるのか黙っていては進まない。
得になることばかりしていると、激辛の場面には対応できない。

私は、溝を掘ったりして学んでいる。

一筋の 光がやがて 温もりに

2019年10月15日
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暮らし

2019-10-13 10:35:57 | よもやま話

絵のタイトルは。「うふふ」です。
人生、うふふ。


今日のタイトルは、「暮らし」です。
今年になって書いている記事のなかに、「暮らし」というワードが増えている。

暮らしとは、
暮らすこと。一日一日を過ごしていくこと。
日々の生活。生計。
(goo 国語辞典より)

ブログを書くことも、ルーチンワークをこなすことも暮らしそのものです。
いつもの時間にできそうにない時は、どこかにスペースをとって補ってきました。
何とかするんだと、気迫が足りない。
この場合の「暮らし」とは、少し頑張る気配があります。

やらなければならないのだけど、楽な方に流れる。
ギャンブルで負けて、元を取り戻そうと焦ることもできない。
今やらないと、もう永久にできないような恐怖感です。

日々の暮らしは、目の前のゴミを拾うようなものです。
拾わなくても、差し当たっては困らない。
しかし、積もると掃除の時間を作らなければならない。
探したいものが見つからない。
だから、丁寧にベストを尽くしている。

何か違うんだよな。
楽しくないと、心が叫ぶ。

台風19号の爪痕は、過去経験したことがないものであった。
雨が降り続いた。前の山から溢れる水が絶えない。庭と畑の境の道路を流れ続ける。
台風一過、日が差してきて、森では鳥がさえずっている。
なんだか気持ちが晴れる。
「暮らし」を考えることをやめる。
楽しく暮らそうと思うから、あれこれ躓いて楽しくないんだ。
損得を考えない生き方が、「暮らし」なんだろうな。


蝶が舞う 台風一過 軒に湯気

2019年10月13日
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