故郷を離れて早40年。私は、故郷に何かの恩返しをしたい。
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タイトルは、「そばを作る人」です。
自宅の屋根より高い山の斜面でそばを作っています。
今にも転げ落ちそうな畑です。
どうしてここで作っているのか。
いろんな理由が考えられます。
理由を考え、心を打たれ応援をする。そして、自らもやってみる。
カフェ開店までの15分間で書きましょう。
今日のタイトルは、「無くてもあっても困らぬもの」です。
具体的な物ではなさそうである。
時間はいかがでしょう。
無ければないように生活する。
あればあったでゆっくりする。
逆に、「あっても、無くても困るもの」とは何でしょう。
欲が思い浮かびます。
象徴的な物は、お金です。
あれば、減らないか心配です。もっと欲しい。
無ければ、貧困です。貧すれば鈍する。
元に戻りましょう。
「無くてもあっても困らぬもの」は、日常ではない空間や時のことです。
テレビを観なくても生活できる。
趣味が無くても生きていける。
こだわりのような事柄です。
なんか気持ちが悪い、歯の間に挟まった食べものかすとも違う。
向上心と言うか、出来れば上手になりたい程度のものから、目標を掲げ達成するまで努力する。
産まれてすぐに母親から愛情を注がれる。
親のこだわりを受け継ぐように生きていく。
果たして自分に合っているのか、疑問を持つようになる。
年頃になれば、自分と言うものを持つ。
日常ではない空間や時のよいことの一つに、幸せがある。
(2019年10月21日投稿、以下は翌日投稿)
なぜ、このようなことを書こうとしたのか、種明かしをします。
個人が、生きる上で大切にしていることは何なのか。
自分は、何者なのか。
こういう疑問を自ら持ち、考えてみました。
私は、エンジニアリングに関わるいろんなことを、結果的に学ぶことになりました。
設計から開発、プロジェクトエンジニアー、営業、教育担当と経験することができました。
生涯、管理職にはならず現役を続けることができました。転職したからです。
営業の時、エンディングストーリーを描けることがとても大事だと気づきました。
あらゆる技術会議に、各社の営業を参加させました。
良いこと(自社が得意とする分野)だけを売っていくことはできない。
それを知ってほしかった。
エンジニアリングは、チームが同じ方向を目指すキーワードの元やる仕事です。
売るものが、エンディングストーリーをイメージしなければならない。
西田幾多郎の「善の研究」という本がある。
人間は、何を目指して生きているのか。
生きることは、経験を積みより高みを目指す終わりのないものであり、
生きることそのものが善であるという。
善とは、先祖(父母)から受け継ぎ、自分が工夫努力をして積み上げていくものである。
職人には終わりがない。
人間の営みにも終わりがない。
こうだったら良いのにな。経験は、幸せだったり、不幸だったりします。
それでも、こうだったら良いのになと繰り返し挑戦する。
自らの名誉ではない。
社会全体が、良い方向に向かえばよいと考えている。
気づかないまでも、無意識に向かうエネルギーのことです。
「無くてもあっても困るもの」とは、よくわからない自分の目指すもののことです。
人生は、決して楽ではない。でもなぜか努力をする。
「こうだったら良いのにな」は、自分の中から湧き出るものです。
そしてやってみる。何度もやってみる。頭で考えていては、掴めぬものです。
身体も頭も汗をかく作業のことです。
自分自身でも気づかぬものだけど、やっているのです。
「無くてもあっても困るもの」を考えてみました。
仏像は 動かぬもので 話さない
2019年10月21日
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タイトルは。「傷あればこそ熟す」です。
真偽のほどは置いといて、もうすぐ干し柿を作る季節になりました。
傷は勲章です。大事に付き合いましょうかね。
亡きお袋からたくさんの野菜が届いた。
良かれと想う母の気づかいでした。
半分は潰れて、半分は多すぎて食用になったのはわずかであった。
今日のタイトルは、「気づかぬ傷」です。
熟れたもの(美味しいもの)を食べさせたい。
家族が多い我が家を喜ばせたいと、大量の野菜でした。
何度も届いた宅急便の惨状を報せました。
我が家の冷蔵庫で順番に傷んでいく野菜を見て嘆きました。
結婚式の引き出物が、カタログ注文になっていった。
お返しの習慣が変わったのである。
かつては、お返しにいただいた皿やお盆で押し入れがいっぱいになった。
先輩が、後輩に自分の経験を話すのが飲み会の常識であった。
今では、セクハラやパワハラに気を付けながら話さなければならない。
社員旅行に行きたいという社員が減ってきたので、旅行そのものが取りやめになった。
先輩も会社も「良かれ」との思いから出る活動です。
今度は送る側になった。
中には、見たこともない食材も混じっている。
料理方法と保存方法も付け加えている。
食材の中には、筍やとうもろこしのように、採れたてから時間が経つごとに味が落ちていくものがある。
筍は、4時間以内に茹でたものを冷蔵で送る。
大量にいただき送るので、もらってくれる人も捌ける人を選ぶ。
渋柿を500個いただいた。100個ずつ都会の知人に送った。
ご主人も手伝って、干し柿にしたそうである。
良かれと思い言った言葉で、他人を傷つけることもある。
反対に、励まされてさらに落ち込むこともある。
励ましは、まことに難しいのである。
黙って聞いてあげるくらいでちょうど良い。
傷が癒えたら、その人はまた自力で歩き出します。
「気づかぬ傷」にどうすれば思い至るのか。
ある人は、相手を想う「愛」だという。
小説でも漫画でも作者がいる。
作中の人物は、書き手の思うようにはならない。
勝手にしゃべりだしたり動いたりする。
この主人公やったら、このくらいは言うなと代弁するように書き留める。
果物などが鳥につつかれる。その果物はさらに美味くなる。
木が風にあおられ枝が折れる。折れた個所はさらに強くなる。
植物は、傷を治そうと糖を送り再生するのである。
だから、美味しくなり丈夫になる。
「気づかぬ傷」は、人が生きていくうえでの試練のようなもの。
自分で気づかぬうちに、相手を傷つけたとしても心配はないのである。
相手も初めて気づいた傷である。気づかせてくれたことを暗に感謝するのである。
そして、さらに強くなろうとする。あなたに近づかなくなるのも防衛本能であろう。
腐りかけ 美味しんやで 三十路かな
2019年10月19日
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タイトルは、「田植え後」です。
倒れた苗をおこし、抜けた個所に新たな苗を植える。
いただきますと手を合わせる。
隣りのおばあちゃんが、畑を鋤いてくれと依頼に来られた。
この地に来て4年目にして、初めて地域の方から頼まれたのです。
許可をいただいて、空き家の草刈も剪定も続けています。
しかし、直接依頼されたのは初めてのことです。
80歳を過ぎたおばあちゃんの畑(2反はあろうか)は草一本ありません。
家族が食べる量は知れているので、各畑に一筋だけ作物を植えられています。
ほとんどの作業が草取りです。朝から晩まで草取りをされている姿を見ています。
家族からは、身体が心配だからやめろと言われ続けています。
続けておられるから、背中もしゃんと伸び、里芋も引っこ抜かれます。
もう草がとれないと、草ごと鋤いてくれるよう頼まれました。
私は、喜んでカンリキ(耕運機)で鋤きました。時間にして一時間半でした。
私が望んでいたことが起こったのです。
私は、ここにきてずーっと「期待されない人」でした。
代金を払うと来られたおばあちゃんに、いただけませんと丁重に断りました。
単に鋤いただけですが、拝むようにお礼を言われました。
期待されないのも自由で喜ばしいことです。
たまに、頼まれることも同じように嬉しいことなのです。
こうして、地域の一員になっていくんだろうなと思います。
台風19号がもたらした被害は甚大です。
氾濫した水で浸水した家や畑は多い。道も寸断されています。
ここでは、近所の人総出で助け合っている姿を見ます。
被害にあわれた方も肩を落とす暇などないのです。
これが日本の底力なんでしょう。
寒い朝 おはよの声が 温かい
2019年10月18日
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/87/ddcd3944c68518899db20ee436801799.jpg)
一時期、夕日の絵を描き続けたことがありました。
何か物悲しかったのでしょう。
そして、波や水辺に魅かれ何枚も描きました。
二度と起きぬ波頭を表現したかった。
無情ではない無常です。
台風19号がもたらした被害は甚大であった。
我が家の庭に山からの水が溢れた。
水が止まらないので、道路脇の排水溝まで庭に溝を掘った。
山からの水は、山際の倉庫の脇を通り湧きだしている。
山肌を滑り落ちた水は、倉庫にも浸み込むように侵入していた。
通過したのは、3日前の未明であった。
未だに、水は途切れない。
今日のタイトルは、「高きから低きへ」です。
倉庫の下には、栗石と真砂土が入っているはずだ。
水が通りやすい通路となった。
ブナなどと違い、雑木や竹の根は浅い。ダムの役割は果たせなかったようだ。
今後共、我が家の倉庫下は、雨がふるごとに通路となるであろう。
水が引いたら、山際に側溝を入れなければなるまい。
突然の展開であるが、富も当然のごとく「高きから低き」へ流れるはずである。
知恵もそうでなければならない。
どこかに、ダムができているのである。
ダムのオーバーフローだけが、時々流れてくる。
今回のようなことになると、消化(貯水)できないから氾濫となる。
自然の摂理である「高きから低き」へあらゆるものが流れるはずである。
どこかに貯めているのが、透けて見える。
少しずつでもよいから、抜ける水路のようなものを造らなければならぬのであろう。
教育であり、情報共有ではないだろうか。
感心するのは、田んぼの役割である。
ここでも、小さな小川が氾濫した。氾濫した水は、田んぼに一時的に貯水された。
貯水する機能がない地下駐車場は、水没した。電気が止まれば排水ポンプも動かない。
指をくわえて見るしかない残念な光景である。
東京には、大きな地下貯水場がある。降水100mm/Hrまでは、耐えると聞いた。
今回も大いに役に立ったことだろう。
田んぼの面積をあるいは宅地を確保するために、川を狭くしたと地域の方から聞いた。
その川が溢れたのである。誰が指揮を執ったのかは知らない。
「高きから低きへ」、温かい動脈や静脈のような、ましてや毛細血管のような通路は出来ぬものか。
持っているものは、持たぬ者へ技術や知恵を回すことを考えることで、
あらゆるものは循環するのである。
都市から地方へ、地方から都市へ私たちにはできることがたくさんある。
どのようにすれば、それが可能になるのか黙っていては進まない。
得になることばかりしていると、激辛の場面には対応できない。
私は、溝を掘ったりして学んでいる。
一筋の 光がやがて 温もりに
2019年10月15日
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/0e/a420d25f2063404e3e9904e1be9e2392.jpg)
絵のタイトルは。「うふふ」です。
人生、うふふ。
今日のタイトルは、「暮らし」です。
今年になって書いている記事のなかに、「暮らし」というワードが増えている。
暮らしとは、
暮らすこと。一日一日を過ごしていくこと。
日々の生活。生計。
(goo 国語辞典より)
ブログを書くことも、ルーチンワークをこなすことも暮らしそのものです。
いつもの時間にできそうにない時は、どこかにスペースをとって補ってきました。
何とかするんだと、気迫が足りない。
この場合の「暮らし」とは、少し頑張る気配があります。
やらなければならないのだけど、楽な方に流れる。
ギャンブルで負けて、元を取り戻そうと焦ることもできない。
今やらないと、もう永久にできないような恐怖感です。
日々の暮らしは、目の前のゴミを拾うようなものです。
拾わなくても、差し当たっては困らない。
しかし、積もると掃除の時間を作らなければならない。
探したいものが見つからない。
だから、丁寧にベストを尽くしている。
何か違うんだよな。
楽しくないと、心が叫ぶ。
台風19号の爪痕は、過去経験したことがないものであった。
雨が降り続いた。前の山から溢れる水が絶えない。庭と畑の境の道路を流れ続ける。
台風一過、日が差してきて、森では鳥がさえずっている。
なんだか気持ちが晴れる。
「暮らし」を考えることをやめる。
楽しく暮らそうと思うから、あれこれ躓いて楽しくないんだ。
損得を考えない生き方が、「暮らし」なんだろうな。
蝶が舞う 台風一過 軒に湯気
2019年10月13日