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故郷へ恩返し

故郷を離れて早40年。私は、故郷に何かの恩返しをしたい。

6次産業化

2015-12-26 07:00:16 | プロジェクトエンジニアー

敢えて苦労の道を選ぶ。

ダイヤモンド・オンラインに投稿された池田陽子さんの記事について
私が感じたことを書きます。

養殖カキ日本一の生産地広島で147年間のセンチュリーカンパニーがありました。
敢えて餌の少ない清浄な海域で牡蠣を育てるのです。
早くから、6次産業化(生産、加工、販売)を取り入れているのです。
江田島市のかなわ水産という会社です。

生食牡蠣を専門に生産されている会社です。
「なま食用かき指定海域」(清浄地域)の中でも
透明度が高い海域で牡蠣を育てておられます。
生活排水がない分、安全なのです。しかし、餌が少ない分育ちにくいのです。

お客様のニーズにあったものを生産されているのです。
1個2ドルの生食かきを自社の直営店で販売をされています。

この言葉(6次産業化)は、地域おこしのキーワードになるでしょう。
過疎(生活排水がない)故の特徴です。過疎を逆手にとっているのです。

素晴らしいのは、毎日の努力を怠らないことです。
牡蠣の殻をむきやすいナイフまで自社生産なんてできることではないし、
安全な商品を生産するためHACCPを取り入れて、人の手が触れない生産体制を
とられているのです。すべて安全(ノロ対策)な商品を生産するためです。

「もう、できました」って放ったらかしたらダメ。こうしたらよくなる、って
ずっと毎日やっています。....それでないと先頭は走れないわね。
かなわ水産の社長さんの言葉です。

言ってみれば、我がブログも6次産業化のようなものです。
毎日、新鮮なネタをみつけ自分なりの切り口で加工しています。
手を抜いたらだめなのです。

さて、地域おこしのキーワードについて。
6次産業化について書きます。
販売をするのは、顧客のニーズを掘り起こすために早くて正確な方法です。
一方、顧客のおしかりも受けるのです。
なにしろ都会生活がしてみたい地域の若者の生活体験になります。
そして気づくでしょう。我が町がどんなに素晴らしい地域であることか。
生活しにくい街で暮らすのが嫌でたまらないのです。
都会の人はノー天気にそれが良いと、羨ましいとまで言われるのです。

買う(使う)人の気持ちを直に聞くことが、ものづくりに真剣に取り組む
動機となるのです。

加工をすることで、街に出られない地域内にいる働き手の雇用にもつながるのです。
流通が、ナショナルブランドが悪いとは言いません。それも必要なことです。

各地域には特徴があるのです。
ある時、発泡スチロールの容器に入った雪ダルマを
プレゼントしていただいたことがあります。
送り元は北海道、送り先は横浜でした。
雪を知らない我が家の子供達は、雪ダルマを手で触り大喜びでした。
やっかいものの雪が喜ばれるのです。

顧客が求めるものの先を行かなければならないのです。
その工夫が地域おこしです。
人が来るのは、そこに住みたいからなのです。
それには、生活が成り立って行かなければなりません。

池田陽子さん、良い記事を読ませていただきました。
ありがとうございました。

ふくふくと 気持ちが軽く 頑張ろう

2015年12月26日

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人のふり見て我がふり直せ

2015-12-25 09:00:40 | よもやま話
  
私は、人がズルしていると、よく気がつきます。
腹が立つほどです。

あ、あの人赤信号でも渡っている。
いやいや自分もよくやるのです。
パトカーが後ろにいることに気づかないで、車で信号を渡ったことがありました。
信号無視で即減点、罰金でした。
信号は黄色ではなく、オレンジ色くらいだったような気がします。
言い訳無用、それは赤なのです。

他所の家の戸の立て付けが悪いですね。と言ったことがありました。
人のことは、良く気がつくね。と嫌味を言われました。
そうなんです。
その人は、治したいのだが治せないでいるのです。

「人のふり見て我がふり直せ」
人の欠点には良く気がつくのが常です。
しかし、なんと自分に甘いことか。
恥ずかしい限りです。

古館一郎さんが、来年3月をもって、ニュースステーションの司会を降板するらしい。
古館さんは、自らを「偏っている」と言われています。
私もあの人の物の言い方は、気になっていました。
しかし、反権力と反暴力は貫いていらっしゃいました。
こういう方は、人のふりについて大いに語っていただきたいと思います。
大衆は、黙っています。だけど迎合はしていないのです。
選挙になれば、声なき声が反映されるのです。

人のことを言う前に、自らを正したいと思います。
なかなか出来ないのです。

自分を想うくらい、人に優しくせよと先人に教えていただきました。

あの人は 柳に風か ひょうひょうと

2015年12月25日

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面倒くさがり

2015-12-24 06:14:05 | よもやま話
恩師の奥様からいただいた寒あやめです。


八朔いる?
ううん。
キウイいる。
うん。

ほうれんそういる?
うん。
じゃあ、大根も蕪もいらないね。
うん。

私と末娘の会話です。
料理するのに面倒くさいかららしい。
起きたばかりで、会話するのも面倒な感じでした。

冒頭の絵手紙を恩師へのお礼の手紙にしようとしたのですが、
宛名書きに筆を使ったため、お礼の言葉を入れられませんでした。
親も同じです。

着替えるのが面倒くさいのか、一日中パジャマで過ごす人がいます。
宅急便が届きました。
化粧していないから、あなた出て。どこかの女性の言葉です。

使った道具を戻さない。
明日も、同じ仕事をするから片付ける手間と出してくる時間がもったいないらしい。
残念ながら、違う仕事が入りました。
そしてその翌日、探しているのです。
昨日の仕事で使った道具の下になっています。

いやあ、息をするのも面倒くさいこともありますから。
わからない話ではありません。

2015年12月24日


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生きる必然性

2015-12-23 09:29:39 | よもやま話
  
私達は生かされている。
だから、胸を張って生きていて良いんだと、和尚がよく言われる。
あそこが痛いし、金もないから生きていても楽しいない。
そう、思われるかもしれません。

あなたが生きているから、子供達が集まるのです。
例え死んだとしても、法事の度に皆さんが集まるのです。

法事があるのは、お寺さんのご商売のためと思っていました。
和尚は、法事のゲストであり大事な役目を果たす人であると
この頃解ってきました。

今日のテーマは、「生きる必然性」です。
恩師も読まれていると思うと、少々腰が引けますが、
気を取り直していつものように考えをまとめたいと思います。

生きるために何かをやる。
何かをやるために生きている。
どちらも正しいのです。

若い時は、生きるために何か(勉強や仕事)をやっていました。
そのうちに、家族のために、自分のために
何か(稼ぐこと)をやるに変わってきました。
今は、生きるために何かをやることに飽きてきました。

なにかをやりたいから生きている。
生きるために食事をしたり、環境と調和して生活しています。
何かをやりたいのです。
仕事であったり、技術伝承であったり、人助けであったりします。
これだけでは、どうもしっくりこないのです。
何かをやるために生きる本当の意味にはならないような気がします。

生きる必然性は、単に生きたいからとも考えます。
誰も生きたいのです。
かといって、自分が生きていても世の中は変わりはしません。
冒頭の和尚の話のように、生かされていると考える方が妥当かもしれません。
自分は生きていても良いのだと誰も教えてくれません。

「生き抜く」ことに価値があるのです。
誰しも困難を抱えています。
困難は、誰かに話して助けてもらえば良いのです。
その前に、「生きたい」という願望がなければなりません。

一昨日、妻と一緒に映画を観ました。
「杉原千畝」というタイトルでした。
第二次世界大戦のさなか、リトアニアで日本国の領事をしていた方の
伝記映画でした。どこにも逃げることができないユダヤ人を助ける話でした。
数千人がリトアニアから出国するためのビザ(日本への渡航許可)を
発給したのがその内容です。
逃げおおせた数千人のユダヤ人は世界に渡り、子孫の数は4万人と言われています。
日本国の了承がないままの独断のビザ発給でした。
出国できなければ、アウシュビッツ行きだったのです。

ユダヤ人は生きたいと思い、千畝は助けたのです。
映画の中で、日本領事館で働くポーランド人の台詞が印象に残りました。

「千畝、お前は最低の領事だった」
「だけど、お前は最高の友人だった」
ユーモアはこうでなけりゃと思いました。

生きたい馬鹿野郎に、助ける馬鹿野郎。
私は、両方の馬鹿野郎でいたい。

朝顔に つるべ取られし 仲間かす

2015年12月23日


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甘えは、自分のためならず

2015-12-22 08:36:40 | よもやま話
  
後ろに座っている人からメールが来ました。
私は、後ろにいますよ。
どうして、一言声がかけられないのでしょう。

こうして欲しいと書いています。
CC(参照者)の欄に偉い人の名前が入っています。
私は、貴方に依頼しましたよ。それは偉い人もご存知ですよ。

私は、口頭で後ろの同僚に「できない。理由はこうだ。」と回答します。
わかりました。と彼は言いました。
「どうしてできないのですか。出来なければ、できるようにしてください」と
すぐにメールで返事が返っていました。CCには偉い人の名前が。

私は、もう相手にしません。
数日して、またメールが来ていました。では、話そうと同僚にかけあいました。
数分でことは足りました。

携帯電話に、伝言が入っていました。
要介護2の義兄からです。
今度来る時で良いから、これこれを買って来てほしいとの依頼でした。
全部、自分で買いに行けるものでした。

おば捨て山の話を思い出しました。
帰りに、息子が迷ってはいけないと、母は残る力で枝を折り道標にしたのです。

介護を始めると、肉体は驚くほど改善します。
薬が、機械が肉体をサポートします。
わずかな負担で便利な生活を手に入れられます。
ヘルパーとて商売です。税金が湯水のごとく流れて行く瞬間です。

考える力の介護は、難しいようです。
歯を食いしばって、残されたわずかな力で
枝を折る母の息子を想う気持ちが痛々しいのです。

こうしてほしいとメールで準社員は言えないのです。
分ってくれない社員に、何度も口頭で話します。
社員とて、解ってくれない偉い人に一生懸命話すでしょう。

先人達の一生懸命が伝わりません。
それでも、元気をサポートすることが、
税金の負担を軽くすることに気づいてきました。

若い人も、歳をとった人も、
枠を決めないことです。
便利なことと、便利でないことの狭間を埋める努力をしなければならないのです。
どんなに辛いことも、わずかですけどできることになり、
楽しいことになるはずです。

残り歯で まだ肉食える 明日は豆

2015年12月22日

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