日はまた昇る(The sun also rises.)
旧約聖書の伝導の書から引用されたこの一文は
アーネスト・へミングウイが、最初に出版した
長編小説の題名です。
聖書を引用すると、
----世は去り 世は来る 地は永久なり
日は出で日は入り またその出でし所に
喘(あえ)ぎ行くなり 風は南に行き
またまわりて 北に向かい
めぐりに巡(めぐ)りて行き 風まためぐる所に帰る
河はみな海に流れ入る 流れいる海は盈(みつる)こと無し
河はいできたれる処に 復(また)帰り行くなり----とある。
世の中は巡り巡っていくけれど、大地は永久に変わらない。
太陽は毎日同じように昇り、同じように沈み、
また同じ処から昇る。
風は吹いている方向にぐるぐる回りとまる所が無い。
河の水はみな海に流れ蒸発して また河へもどる。
人の世は生まれ死に、生まれ死にして人は替われど、
また、同じことが繰り返される。
この現象は変わらない。
----行く川の流れは絶えずして しかももとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたはかつ消え かつ結びて----
の方丈記の冒頭と同じように、
人の世は無常で 何をどんなに 一所懸命やっても
無意味ではないのか。といっているようです。
ヘミングウエイの「日はまた昇る」や「老人と海」に見るように、
へミングウエイのこの虚無思想が 彼をして
「自殺」なのか「事故」なのか
解らない「死」の結末に追いやったようです.
もともと、文学は、人生哲学を志すものであります。
だから、谷崎にしても、志賀直哉、「金閣寺」の三島にしても
人生の終着点はわかった上での最後であったと思われます。
しかし何時の時代でも、過去の歴史が
人生の終着点を教えているのに
その終着点を絶えず意識して生活を送る人の
少ないことに驚きさえ感じます。
「老人と海」は、最も典型的に、人生の「無常」「虚無」
「空しさ」を表しています。
一人の老人が長い不漁の果てに、努力して努力して
釣り上げたカジキを、
苦労して苦労して 港へ運ぶ途中 さめの大群に遭遇し
獲物を全て食べられてしまう。
岸にたどり着いた時、獲物は骨だけが残っていた。
ヘミングウエイは語る….どんなに努力をしても何も残らない。
残るのは空しさだけである。
人が 生まれ 死んでいく、その間にどんなことがあっても、
それは 単に生きている間だけのこと でしかない。
何をしても 全く無意味なのです。
そして、死は 「何時来るか解らない」明日なのか、
今日の午後なのか、あるいは、次の一時間以内なのか、
そんなことは誰にもわからない。
だからこそ、(これこそが 私の人生哲学なのですが)
人は、今現在 この瞬間に 本当にやらなければならないことに、
全神経を集中してやることをやらなければならない。
そして、次の瞬間に死んでも「悔い」が残らないほど….と
ヘミング・ウエイは 言いたかったに違いない と解釈したい。
(事故なのか、自殺なのか、解らない死に方をして、
本当の所はどうも人生を捨てたとしか思えないが)
しかし得てして人はああなるのではないか、
こうなるのではないか先のことを考えて、
しかも悪いほうへ、悪いほうへと考えを巡らせて行く。
そこが又人間なのだが・・・
現実は良いほうへ、良いほうへ 展開していくかもしれないのに。
明日のことは、誰にもわかりません。
だから神は言う
「明日を思い悩むはおろかなり明日は明日のみが知ればなり。」と。
だから 今を悔いの無いように、この瞬間に本当になさねばならぬことをしたいものです。
このように、自分に言い聞かせ、心の整理をつけましたが、
まだすっきりしません。
時間が迫り 病院へ帰らねばならぬ時間がきました。
もしかすると 生きて この家には帰れないかもしれません。
部屋の隅においてあるゴルフバッグも、
もう使うことが無いかもしれません。
この部屋でカミさんと会うことも無いかもしれません。
しかし、色んな後ろ髪を引かれるものを、
家に置いたまま出発することにしました。
生きようとする意欲が充実していればいるほど、
この家に帰れる公算が強いからです。
「じゃあ 行くよ!」そう言って、後ろも見ないで家を出ました。
カミさんは息を呑んで一言も話すことが出来ません。
家を出て数十歩、外から振り返ってみました。
家の見納めかもしれません。
カミさんが窓越しにそっと見送っていました。
そうだ!
今日も、明日も、明後日も、日はまた昇る!
もっと先まで、太陽が昇るのをボクは見続けよう!
それでこそ、ボクが在り、そこにこそカミさんの
喜びがあるに違いない。
そう思って病院へ向かいました。
旧約聖書の伝導の書から引用されたこの一文は
アーネスト・へミングウイが、最初に出版した
長編小説の題名です。
聖書を引用すると、
----世は去り 世は来る 地は永久なり
日は出で日は入り またその出でし所に
喘(あえ)ぎ行くなり 風は南に行き
またまわりて 北に向かい
めぐりに巡(めぐ)りて行き 風まためぐる所に帰る
河はみな海に流れ入る 流れいる海は盈(みつる)こと無し
河はいできたれる処に 復(また)帰り行くなり----とある。
世の中は巡り巡っていくけれど、大地は永久に変わらない。
太陽は毎日同じように昇り、同じように沈み、
また同じ処から昇る。
風は吹いている方向にぐるぐる回りとまる所が無い。
河の水はみな海に流れ蒸発して また河へもどる。
人の世は生まれ死に、生まれ死にして人は替われど、
また、同じことが繰り返される。
この現象は変わらない。
----行く川の流れは絶えずして しかももとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたはかつ消え かつ結びて----
の方丈記の冒頭と同じように、
人の世は無常で 何をどんなに 一所懸命やっても
無意味ではないのか。といっているようです。
ヘミングウエイの「日はまた昇る」や「老人と海」に見るように、
へミングウエイのこの虚無思想が 彼をして
「自殺」なのか「事故」なのか
解らない「死」の結末に追いやったようです.
もともと、文学は、人生哲学を志すものであります。
だから、谷崎にしても、志賀直哉、「金閣寺」の三島にしても
人生の終着点はわかった上での最後であったと思われます。
しかし何時の時代でも、過去の歴史が
人生の終着点を教えているのに
その終着点を絶えず意識して生活を送る人の
少ないことに驚きさえ感じます。
「老人と海」は、最も典型的に、人生の「無常」「虚無」
「空しさ」を表しています。
一人の老人が長い不漁の果てに、努力して努力して
釣り上げたカジキを、
苦労して苦労して 港へ運ぶ途中 さめの大群に遭遇し
獲物を全て食べられてしまう。
岸にたどり着いた時、獲物は骨だけが残っていた。
ヘミングウエイは語る….どんなに努力をしても何も残らない。
残るのは空しさだけである。
人が 生まれ 死んでいく、その間にどんなことがあっても、
それは 単に生きている間だけのこと でしかない。
何をしても 全く無意味なのです。
そして、死は 「何時来るか解らない」明日なのか、
今日の午後なのか、あるいは、次の一時間以内なのか、
そんなことは誰にもわからない。
だからこそ、(これこそが 私の人生哲学なのですが)
人は、今現在 この瞬間に 本当にやらなければならないことに、
全神経を集中してやることをやらなければならない。
そして、次の瞬間に死んでも「悔い」が残らないほど….と
ヘミング・ウエイは 言いたかったに違いない と解釈したい。
(事故なのか、自殺なのか、解らない死に方をして、
本当の所はどうも人生を捨てたとしか思えないが)
しかし得てして人はああなるのではないか、
こうなるのではないか先のことを考えて、
しかも悪いほうへ、悪いほうへと考えを巡らせて行く。
そこが又人間なのだが・・・
現実は良いほうへ、良いほうへ 展開していくかもしれないのに。
明日のことは、誰にもわかりません。
だから神は言う
「明日を思い悩むはおろかなり明日は明日のみが知ればなり。」と。
だから 今を悔いの無いように、この瞬間に本当になさねばならぬことをしたいものです。
このように、自分に言い聞かせ、心の整理をつけましたが、
まだすっきりしません。
時間が迫り 病院へ帰らねばならぬ時間がきました。
もしかすると 生きて この家には帰れないかもしれません。
部屋の隅においてあるゴルフバッグも、
もう使うことが無いかもしれません。
この部屋でカミさんと会うことも無いかもしれません。
しかし、色んな後ろ髪を引かれるものを、
家に置いたまま出発することにしました。
生きようとする意欲が充実していればいるほど、
この家に帰れる公算が強いからです。
「じゃあ 行くよ!」そう言って、後ろも見ないで家を出ました。
カミさんは息を呑んで一言も話すことが出来ません。
家を出て数十歩、外から振り返ってみました。
家の見納めかもしれません。
カミさんが窓越しにそっと見送っていました。
そうだ!
今日も、明日も、明後日も、日はまた昇る!
もっと先まで、太陽が昇るのをボクは見続けよう!
それでこそ、ボクが在り、そこにこそカミさんの
喜びがあるに違いない。
そう思って病院へ向かいました。
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