超兵器磯辺2号

幻の超兵器2号。。。
磯辺氏の文才を惜しむ声に応えてコンパクトに再登場。
ウルトラな日々がまたここに綴られる。

湘南からエールを

2011-08-29 05:08:26 | 出来事
仮面ライダーV3ではないが、ダブルタイフーン(11、12号)の影響かものすごくすごい波が押し寄せていた。それも面がガタガタな荒れ狂った波ではなく、きれいに一本線でブレイクする「撮影で使いたいような波」だ。
私は妻とそんな波を横目に鵠沼サーフビレッジに向かって歩きはじめた。。。
このサイトのコメントでスーパーお洒落マダム小夏さんが教えて(正しくは思い出させて)くれた、東日本大震災復興支援ライブである。

運転中、横Fで「TUBEの前田さんが加山雄三ら『湘南在住・ゆかり』のアーチストへ声をかけて復興支援ライブを実現する」というニュースを聞いたことがあった。
TUBEは昨年から我が街の観光大使を務めており、昨年は数万人を集めたライブをビーチビレッジで開催した。
TUBEは我々の世代ドンピシャ(サザンより少しだけ若いのよん)だったのでかなり興味があったが、残念ながら旅行の予定があり午前中、準備の様子を洋上から見るにとどまった。後から聞いたらチケットは一瞬で売り切れになったそうだ。

よほど「思い入れ」が無ければ、7000円もするチケットに「その価値があったかどうか」コストパフォーマンスを気にしてしまう。。。
今回も「まあムリだろな」と何となく諦めていたのだが、考えてみたら「復興支援」なので収益はすべて東北のために役立てるはずで、「義援金」と思えば内容をとやかく気にする必要はない。
小夏さんに指摘されて改めて気が付いたが、これを逃してはいけないんじゃないか?と考え、色々なサイトで調べてみたのだがそもそもそういう経験のあまり無い私には「誰と誰が出演予定でいつやる?」というニュースしか辿りつけず、肝心の「どうやれば帰るのか?チケットはあるのか?」という情報に行きつけなかった。。。

最後は妻にヘルプコールを送ることになる。市の広報等でとっくに情報を掴んでいた妻は「なーんだ。行く気あるんだー?」とあっという間に見事にチケットを手に入れて見せた。(すげーっ!)
ライブは開場が午前11時、前座のような催しがあって本編が1時から、終了は午後6時という長丁場だ。
その日は1日天気がおぼつかなく、降ったり止んだりの微妙な様子だ。会場はもともとビーチだから観客席もちゃんとできているわけではなく、雨天でも傘使用は禁止、駐車場・駐輪場はなし、色んなモノを持ち込んで無くなったりトラブルに合うのは嫌なので、ずばり「水着」にビーサンで「歩いて」向かった。。。(地元だから散歩気分だねー)   

   

途中「海岸5丁目」という地元では結構繁盛しているレストランで昼食を済ませ、サーフビレッジまでは約10分くらい、おーっ江ノ島をバックにしっかり会場は出来上がっているぞー。しかもいつも入る門は使用禁止・・・
入場券を受け付けで引き換えて海岸へ歩いて行くと、見慣れたビーチバレーコートが全部なくなっていてもう数万人の人が集まっていた。。。スケートボード練習場は簡易トイレになってしまっていた。

      

しかし「ものすごい光景」だ。洋上ではいつにない大波でプロ級のサーファが右に左に暴れ回っている。左を見れば江ノ島、右を見ればステージで我々の席ははるか後ろだがずーっと向こうに烏帽子岩が見える。。。
ステージの上は豆粒のような人しか見えないが、3か所あるオーロラビジョンで様子がよくわかる。
MCは赤坂康彦、サプライズで「今をときめく神奈川出身の国民的3人組グループが登場」とプログラムではなっているが誰なんだろか・・・?!
トップバッターは「RIP SLYME」というラップのグループだった。会場はいきなり盛り上がり、妻も知っていたが残念ながら全然わからん・・・
メンバーの多くが湘南在住、そのうちの一人は「我が家はそこの『レッドロブスター』を横に入ったところ」・・・おーっ、あの辺に家があるのか?!

   

次は「キマグレン」というグループ・・・名前は聞いたことがあるが歌まではあまり知らん。。。Cゾーンという我々のチケットのエリアは正面だが一番後ろで、始まってからずーっと立ちっ放しでなおかつステージの上は何も見えない・・・
何かの拍子でふっと私がサーフボードを置き、妻が日光浴をしている馴染みのスロープに入り込み、そこで座っていた。
3番目は「つるの剛士」。ウルトラマンダイナに変身した「アスカ」だが、今では「おバカタレント」そして「ミュージシャン」となっているようだ。何度か134号の歩道をお互いサーフスタイルですれ違ったことがある。

   

「いつもここの海岸にはお世話になっております。家からは2分!チャリでここまで来ましたぁ。今日はこの波ですからさっきまで海に入ってましたぁ・・・」

2曲目に世界遺産にしてもいいんじゃないかと思っている名曲、プリプリの「M」を熱唱して見せた。つるの剛士も歌など聞いたことなかったが、結構歌えるんだなー感じた。
「ポケモン言えるかな」を歌って子供達も盛り上がっていた。「お帰りに一人ひとつずつでもゴミを持って帰ってくださいねー」さすが地元のサーファだねー。

      

しかしその後、ちょっとした休憩の後TUBEが現れていきなり「ストップ・ザ・シーズン・イン・ザ・サン」で前田さんが歌い出したとき、その日3回あった鳥肌がたった・・・
RIPなんとかもキマグレン、つるの剛士もそれなりに「聴かせた」が、TUBEの前田さんは「全然次元が違う」。初めて聴いたが妻と二人で「やっぱ、前田ってすげー!」・・・
この辺から周りは総立ち!踊りに歌い出した・・・

   

正直もうちょっとTUBEの歌を聞きたかったのだが、ここでサプライズゲストが現れた。
「湘南ではない、『山間部の人達』なんですけどねー。神奈川出身で国民的人気を誇る後輩グループなんですよー」
私には全く思い当たりもなかったが、妻は知っていたらしい。「いきものがかり」である。
彼らは「厚木」出身であるらしい。それで「山間部」ね。。。
挨拶代わりに「笑ってたいんだ!」を披露し、「ありがとう」を前田さんとコラボしたときはその日2番目の「鳥肌」だった。前田って何でも歌えるんだなー。
「Joyful」で締めた後、いよいよ最後の大物を迎えることになる・・・

その時間くらいから空が暗くなり、雨がポツポツ降り出した。雨傘が禁止されているので、多くの人はカッパを着たり、大テントに避難したりだったが、我々はそもそも水着なので何の問題もない・・・
「大先輩をここでお呼びするには忍びないんですけどねー。でもオレが降らせたわけじゃないから・・・加山さん『光進丸』で向かってるんですかねえ」
この若者(意外と年配の人もいたが、何人が「光進丸」を知ってるだろか?・・・さすがに妻は「歌える」ようだが。。。
かなり強くなってきた雨の中で前田さんは最後の大物「加山雄三」を紹介した。

ブルーのアロハで現れた加山雄三さんは御年74、その存在感と若々しさで思わず周りの人たちも「カッコいい~」まさしくそうだ。
「この雨はねえ、これから前田君と歌うために降ってる雨なんだよ。『江ノ島が雨に泣いてる』ってね」
ん?まさか・・・二人が揃っていきなり熱唱したのは私の母校の卒業式で必ずかけてほしいNO.1「湘南 My Love」だったのだ!さわりを皆で合唱したとき、その日3度目の一番すごい鳥肌が立った。。。

加山さんはその後、今でも耳にする昔のグループサウンズを何曲か無造作に(これがまたカッコいい)歌い、「光進丸」で
Sail On!光進丸よ 俺の夢のせて 海へはばたけ
と決めた。
「大震災の後、被災地へ行ってさ、オレ正直海を恨んだよ。オレの歌「海」の曲多いじゃんか。もう歌えねえかなーってね。でも被災者の漁師さんが言ってくれたんだよ。『なに、海が悪いわけじゃねえよ。海からいっぱい幸せもらってきたからなー』それ聞いて涙が出てきた。。。やっぱりこれからも応援のために『海』の歌を歌い続けようって決めた」
そんな話をしんみりしながら歌ったのが「海・その愛」
加山雄三が歌っているその向こう側でサーフィンやっていて、その向こうに烏帽子岩なんてそうはないよな。。。

最後にアーチスト全員が再登場して「RESTART」を大熱唱し、周囲に感動の渦巻きを起こして復興支援ライブは終了した。
このロケーションでこのメンバーというのは中々すごい。RESTARTを歌いながらホントに真面目に東北の復興を祈った。このエールは必ず届くことだろう。。。
ぜひ次もやってほしい。そして前田さん、必ず来ますよ!でも今度は「江ノ島」をバックに歌ってねー。えっ、なぜですって?東北に向かってエール贈るなら方角はそっちですよ。。。

      

夏休みの宿題

2011-08-26 12:00:12 | 書籍
何度かここでも書いた記憶があるが、私は夏休みの宿題など大半は「夏休み前」に終わらせていた。「ご立派」と褒められそうに聞こえるかもしれないが、そう感心されるものでもない。海や山、プール、虫捕り、田舎へ旅行・・・「帰ったらあの『宿題』をやらなければ」という「邪念」があって遊びに集中できないのが「嫌い」だったのである。
夏休み前にテスト勉強さながらに詰め込んで「宿題」を消化して終業式を迎え、心ゆくまで夏休みを遊び過ごす、という信条だった。登校日もほとんど出たことがない・・・

さすがに宿題全部ではない。絵日記的なものは先に書いておくわけにもいかないし、ラジオ体操も「やり貯め」はできない。(実はこういう毎日のコツコツとしたヤツがそもそも性に合わない?!)
「ラジオ体操第一と第二を6回連続でやるからシールください」と言って怒られたこともある。
一番苦手だったのが、「自由研究・自由工作」である。工学部だからと言って「何かを作ることが得意」ということは決してない。
むしろ私は「言われた問題は解くが、自分で何かクリエイティブなものを生み出す力は乏しい」少年だった。
休み明け、皆の作品が自由工作展に並ぶとき、「マッチ箱でカニを作る」幼稚園レベルの私に対し、どうしたらこんなにスゴイヤツを作れるんだろう?と不思議に思っていた。
そのうちに「やるもやらぬも自由研究」とか勝手に解釈して提出もあまりしなくなった。。。

次に苦手だったのが、読書感想文である。当時私の読書は恐ろしく偏っていた。簡単に言うと「宇宙モノ」と「歴史モノ」と「刑事コロンボ」である。
それ以外の読み物には何の興味も持てなかった。だいたい教育委員会推薦の「課題図書」を読むなど苦痛以外の何物でもなかったのだ。
こればかりは8月の終わりくらいになると白紙の原稿用紙を前に頭を抱えていたものだ。
電車で1時間以上通学、通勤をするようになって私の読書力はだいぶ変わったと思う。特に最初は偏っていたものが、「勧められた本を無邪気に読む」ことができるようになってから、各段に広がった。
特に「読んだ本について語り合うと楽しい」という中学生でも知っている事実を体感するのに40年近くも回り道してきたのは恥ずかしいことだが、それなりに色々語れるようになってきたのは大きな進歩だと思う。

さて、夏休みの宿題と奮闘しているのは息子甘辛だが、どうやら私と同様「自由研究」と「読書感想文」を残してしまっているらしい。彼も「他の宿題などいつでも片付けられる派」のようだが、夏休みに入っても何も始めようとしなかった。。。妻にうるさく言われてしぶしぶやっていたが、さーっと終わらせたようだ。
やりかけでも「邪念」として残らず、全然気にならないところが私より「大らか」ということか?というよりズボラという感じだが。
自由研究について、奇抜なアイディアで何かを探求したり、毎日コツコツと観察したりするのが私と同様苦手で「何も考えていない」ような甘辛に「掟破り」なんだが、一瞬で解決する「神の言葉」を提供した。(ホントはいけないんだけど甘いねー)
「納豆作ればいいじゃんか」
そう、我が家には秘密兵器があったのである。震災直後に小夏さんサイトで知って即決で購入した納豆キットである。
1回やってみて見事に成功した。まだまだ気温の低い時期なので発酵処理期間の温度維持に苦労したが、今は夏なので40度くらいは軽く保持できる。(実は作製時は急に涼しくなって苦労したらしい)
私の作品を食した妻が「どうも圧力釜での『蒸し』が足りなかったようだ」と分析していたので長めに時間をとっていた。

自由研究テーマの選択にあたってのコメントはこんな感じを想定した。。。
「今年大震災発生後、スーパーの売り場から我が家の朝食には欠かせない納豆が消えていた。納豆は大豆から作製するので、納豆菌を入手し、インターネットで製造方法を調べて自分で作ってみようと考えた・・・・」
ホントは全部キットになって揃っているんだが、「虚偽」にならない範囲で道具も自分で調達すればよい。「これで今年の自由研究大賞(そんなのあるか?)はいただきだー!」と吠える私に妻は「あざといねー・・・」
そうです。その通りです。「一発勝負に弱い」私はこうやって地道に点数を稼ぎ重ね、今に至ったわけであります。。。

次の難関が読書感想文だ。中学生の課題図書は「聖夜」「スピリットベアにふれた島」「夢をつなぐ 山崎直子の4088日」別にこれ以外でもよいらしいが。。。
息子はブーブー言っていたが、「全部読め!」とランドマークプラザで買い込んで帰った。私が読む気になったのである。
当人優先とするためまだ「聖夜」しか読んでいないが、なかなか深みのある普通に読んでも楽しいものだった。

主人公一哉は高校3年生、ミッション系スクールのオルガン部部長である。父は牧師で、祖母と3人で教会に住んでいる。母はオルガン/ピアノの演奏者だったが、一哉が10歳のときにドイツ人と駆け落ちしてしまった。キリスト教、宗教音楽の環境に育ちそれなりの才能を持った彼だったが、母の「背徳」が心の大きな傷だった。
文化祭で各自楽曲を演奏することになったが、一哉が選んだのは母親がその昔弾いていた難曲「メシアン」だった。ところが同じ音楽ではあるが「ロック」を通じて近づいた友人と当日本番に失踪、深夜のバンドを見に行ってしまう。。。
父との話でこれまで目を背けてきた母の面影を少し知り、クリスマスでは同じ曲を演奏することに決める主人公・・・

時代設定は私達よりも少し前のようだから面白い。
母親への微妙な思いや恋愛、音楽への鬱屈した姿勢などに加え結構パイプオルガンやらバロック音楽やら専門的な話も多く興味を持てる。
演奏曲は「メシアン」の「主の降誕」から「神はわれらのうちに」というものだった。すぐに聞いてみようとレンタル屋CD屋に走ったがマイナー過ぎる?のか全然見当たらなかった。。。
今はよいが、私が中2の頃読んだらどんな感想文を書いただろうかなー。たぶん恐ろしく貧しいことしか書けなかったろう。少なくともメシアンを聞いてみよう、とい気にはならなかった。興味分野も人間の幅も狭かったからな。
息子甘辛は読んでみて「なぜタイトルが『聖夜』なのか分かった」と言っていた。結構いいことを書くかもしれない。30数年前にタイムスリップしたとして。。。

「聖夜」を読んで        
2年6組 磯辺太郎

一哉は文化祭で「メシアン」という専門家のコーチでも感心するような難曲に挑戦します。メシアンは自分が小さい頃母親が弾いていて、その難しさが自分を置いて出て行った母親への思いがそうさせたのだと思います。でも当日彼は逃げました。うまく弾く自信が無かったのか、弾けるけど納得ができなかったのか、母に対する気持ちの整理ができなかったのか、理由はよくわかりません。
恐らく全部だったのだろうと思います。
下級生の青木瑛子は一哉を好きになり告白しますが、彼は全然興味を持ちません。正直もったいないです。また1年生の天野真弓に対しては当人自身よりも「演奏」を好きになっています。
「音」や「演奏」を通じて人を見るというところに自分達にはない「才能」という分野を感じます。
私はクリスマスの演奏までに一哉は母親が自分宛てに出して父に保管されていたたくさんの手紙を読むべきだと思います。またそれがどんな内容だったのかを憶測するのもこの物語の面白いところだと思います。(終わり)

ブランド思考

2011-08-25 07:59:00 | 旅行お出かけ
いい歳をしてきたので、持ち歩くものは「いい物」であるほうがよいとは思う。また私は色々ある中で選ぶのが煩わしいので原則ひとつしか持たない。
通勤で使うリュックサックなどはウルフェスに行く時も釣りに行くときも持って歩くし、その中には財布はもちろん、社員証や保険証、緊急連絡網や名刺入れ、IXYやら読書中の本、薬に絆創膏など目的によっては全く関係ないものまで全て入っている。
基本的に私は機能重視でしかも使い方は「過酷」である。となれば、せめて「いい物」を持てばよいと思うのだが、どうやら私には「ごとき病(仮称)」というのがあるようだ。
「●●ごときに何万円も使うのは合理的でない・・・」(●●には日常持ち歩く物が入る)
唯一の例外が父親のこだわりを引き継いでいる「時計はオメガ」である。

衣服やネクタイなどはさすがにいつも同じというわけにいかないが、ネクタイは「ウルトラシリーズ」で月から金まで1ラウンドできた。スーツも何種類か持っているが、新調するときには例の「店員恐怖症」が間違いなく発症するので、ボロボロになるまで着込んでいた。
ジャケットなど腕の内側の布が破れ、手が出てこないほどになって、「いい加減新しいのを作るように」妻にうるさく言われていた。自慢の「ウルトラシリーズ」も痛みがひどくなってきた。会社内でも結構な(どういう?)場に平気でウルトラネクタイをしていく私に対し不安(不満?)になったのか、いつからか海外旅行に行くたびやたらとブランドもののネクタイを勧められるようになる。

ヴィトン、フェラガモ、ブルガリなど普段見向きもしない一流ブランドのネクタイを海外旅行の時だけ「田舎者買い」した結果、今ではウルトラネクタイを凌駕するまでの数に至ってしまった。しかもその種類にいかにも「好み」とか「思想」の統一感がなく、恥ずかしながら「ただブランドものであればよい」という感じだ。
今回のソウルプチ旅行でも一流と言われるブランドの財布を購入した私だが、基本的に「ブランド志向」ではない。(最近何となく持っていると高級な気分になることは覚えたが。。。)ソウルでは結構色々買い物し、偽モノが平気で出回っているのを見て、改めて一流ブランドの「不思議」を感じたので色々考えてみた。

かのアイテム群を持ち歩く、身に着けるときの気分的な高級感、昂揚感とはいったいどこからやってくるんだろか・・・?大枚を叩いて「無理して」購入したので、心理的になってしまうのか?では銀座のホステスやプレゼントされたものには感じないのか?!
肌触りや「作り」を見て「良い物」だというのは何となくわかる。がそれに対しあの金額を払うのか?と問われると話は別である。
例えば超高級ブランド「ハーメス」などはどう見ても布切れでできているバッグが数十万もする。時給数十万円の世界的なスーパーデザイナーの作品で同じくスーパー職人の手作りで世界にひとつしかない製品なら何となくわからなくもないが。。。

あの手のものは値段があってないようなところもあるので、「機能」の代表選手である時計で考えてみる。私が唯一「こだわり」を持つオメガは1000ドル以上した。
それだけでも十分「ちょっと待てよ!?」と言いたくなるところだが、金持ちの象徴のように見える「ロレックス」は10000ドルとかの値札が付いている!「時を正確に刻む」という時計の本来の機能ではたぶんセシウム原子時計はもちろん電波時計にも敵わない。原子時計も今や普通に売っているらしい。(「標準時」を刻むスゴいヤツはストロンチウム光格子時計のはずだ。)
「時計」として機能するための材料に素晴らしく「良い物」を使っている(例えば秒針にプラチナ、フレームにチタン合金、文字盤の上には高純度結晶化ガラスなど)のかもしれない。
値段を付けるためのビジネス的要素を考え付く限り挙げると「贅沢な材料費」の他に、「立膝モノで(そんなのいたっけ?)懇切丁寧に製品を説明・梱包してくれる店員の法外な人件費」「手厚いアフターサービスに必要な運用管理費」「豪華絨毯敷き店舗のテナント料」「絶対的に信頼できる外部環境(温度、湿度)を誇る運送、さらに万が一に備えての保険」・・・・
しかしそれらをどう見積もっても一つ10000ドルなんていうバカげた値段にはならないはずだ。

以前読んだものの本で「ものの価値」というは3つの種類がある。ここでも紹介したと思うが「使用価値(タワシが鍋を洗う機能)」「交換価値(同じ機能でも需要と供給度合によって異なる価値)」「象徴価値」だ。
ブランドというのは間違いなく「象徴価値」にあたるはずなのは分かるが、「一体何なのか」どうにもわからない。。。
ロレックスの時計を持っていると「わー、すげー」と言われると同時に時計に対してはそのようなバカげた(ごめんなさい!)買い物ができる背景(金の成る木を持っている?パトロンがいる?そもそも怖い人?・・・)を推量され畏怖される。(どうもあまりいいイメージを持っていないらしいなー。ロレックスファンの方、再びごめんなさい)その「畏怖」のために100万円を超す代金を支払うかというと・・・?!

ソウルではワゴンの上で雨ざらしになったバスタオルの「ハーメス」が泣いていた。。。バッグやポーチも売っていた。
今の技術をもってすれば明らかに粗悪な偽モノではなく、きちんとした皮を使って耐久性にすぐれた「機能」としては遜色ない製品が作れるはずだ。
その値段が本物の1/5だったとしたら私達は購入するだろうか?(少なくとも見破れはしないとして)
全く「モノが同じ」でも私達は買わないような気がする。かのグッズを購入するにはそれなりの「カタチ」がいるからである。ふかふかの絨毯に落ち着いた感じの照明、小ざっぱりした身なり(海外の日本人にはビーサンもいるが)で店内を歩きまわり、黒服の店員が丁寧だが「どこか上から目線」で対応する、というシチュエーションがいる。ワゴンの上で値札がプラプラしてるモノではダメなのである。
ロッテ百貨店免税フロアのルイ・ヴィトンでは入場制限されていて入口で行列ができていたのにはドン引きした。。。と、同時に列に並んでいる人が中国人でなく日本人ばかりなので若干ホッとした。
最近元気がないがまだまだ日本は頑張れるような気もした。

「こちら葛飾区亀有公園前派出所」に「わが自慢同好会」なる話が出てくる。何でもよいから自分の持ち物を自慢する会である。
そこで大原部長は息子がスイス旅行したときにお土産で買ってきてくれたオメガの「シーマスター」(45万円)を自慢する。するとライバルが現れ「私もオメガですよ ダイヤ入りの「シーハンター」」「200万円ほどしました!」と、いやらしく自慢して勝ち誇った。
こういうときにどちらが偉い?か判定する会長がおり、彼の裁定ではシーハンターは銀座で購入した品だったため、「金額よりわざわざ現地で購入した根性が偉い!」と大原部長が勝利した。。。
このあたりに「ブランドの謎」のヒントがあるような気がするなー。。。

プチソウル(文化・民族編)

2011-08-20 16:23:52 | 旅行お出かけ
ソウルへのプチ旅行は、息子甘辛の合宿予定に合わせて妻がコーディネートできる場所から選んだのだが、「世界遺産に触れられるところ」という命題に合致していた。
今まだ調査検討中だが、そのうちにここでも紹介しようと思っている。「死ぬまでに一つでも多くの世界遺産に触れる」ことをこれから30年の壮大なテーマとして掲げたのである。
とりあえず自分がこれまでどれだけ見てきたかも定かでないから、この話題はまた今度にするが、「地球の歩き方」にはソウルに二つの「世界文化遺産」がある。
むろんそれらを訪れるのも今回のプチ旅行の目的だ。プチソウル最後は「文化民族編」である。

私は自分の第一印象というのを結構大事にする傾向があるが、街中を歩き回って正直に思った感想は「びっくりするほど美人の女性が多い」(多少好みも入っているかもしれない)
「キムチを食べているから女性の肌が綺麗」というのは前から聞いていたが、そういうレベルではない。街中を「キム・ヨナ」が歩いているような感じだ。
しかし妻によると「この国は整形王国」だという。なるほど至るところに「前」「後」の看板がとデカデカと掛けられ、テレビでもバスの車体にも整形の宣伝が・・・
テレビに出ている人も広告のモデルも「言われるとなるほど」と思われる人が多い。一度そういう話を聞いてしまったら、街中の綺麗な人皆が「施されているんじゃないか?!」と思えるようになっちゃった。。。

   

女性はもちろんイケメン男性も一様に「白い」。夏休み海岸ばかり行っていた私達は「真っ黒焦げ」で明らかに地下鉄の中では「浮く」。店に入れば当たり前のように「日本の方ですよね」とにっこり近寄られる。。。
地下鉄の駅には日本では見ない巨大な「スマホ」があり、自由に場所を検索できる。これはすごい!テクノロジーで負けている。。。  

   

最初に訪れたのはこの国のカトリック総本山の明洞聖堂である。赤レンガが印象的だった。
我が家のヒット番組NHK教育の「世界ふれあい街歩き」で登場したそうだ。ちょうど反対側の下町風の坂道から場面が進んでいったんだって。
「儒教の国」でももちろんキリスト教はワールドワイドに栄えているんだな。

        

二日目はできるだけ観光のために歩き回る予定だったが、残念ながら雨が降ったり止んだりで思うようにはいかなかった。。。迷信以外のナニモノでもないのだが天候についてはミラクルパワーを持っているとも思える息子を思い「アイツ、自分が行けないからって降らせやがったな・・・」と妻と苦笑いしていた。
最初に訪れたのは1995年に世界遺産となった「宗廟」である。李氏朝鮮の王と王妃を祀る廟であるそうだ。
独特な造形が美しく、長大な正殿が迫力あった。1年に一度王の末裔にあたる一族や全国の李氏が集まり伝統衣装に身を包んで厳かな祭典が開かれるという。日本と異なり建物の内部は見学することはできない。

      

      

ソウルには大きな宮殿が4つある。景福宮、昌徳宮、昌慶宮に徳寿宮でそのうち、世界遺産に登録されているのが「昌徳宮」である。
これらの宮殿は秀吉の「文禄・慶長の役」で破壊されてしまったものもあり、昭和中期だけではない他国への侵略に気まずいものを感じた。
見事な風格のある宮殿である。ちょっと向こう側に見えるのがソウルタワー。我々(私は?)は中国の歴史は色々読み込んでいるが「朝鮮半島」の歴史というのはあまり知らない。
文禄・慶長の役by秀吉と日韓併合なんていう愚かしい歴史しか学んでいないというのはイマイチ考え直さなければいけないなー。。。

      

      

「朝鮮を象徴する」のが景福宮である。残念ながら宮殿そのものまで見学する時間がなかった。最近整備が完了したらしい広大なスポットだ。後ろに見える山なみがいかにも霊的な位置づけを感じるぞ。
ソウルは私が最近がぜん興味を持ち始めている「風水都市」で三方の山と漢江の位置づけからそれぞれの宮殿、宗廟に「気」の流れが集中するように設計されているという。。。
京都や江戸もそうだと聞くから、この方面の造詣を深めるともっと色々魅力ある都市なのかもしれない。普信閣という釣鐘を内部にもつ巨大な「門」もあった。

ソウル(「国」というまでは経験していない)という街は一言で言うと「混然一体」としたところだ。巨大なタワーを有するオフィスビル群のすぐ隣に場末のような「一杯飲み屋街」、そして世界文化遺産の宮殿などがいきなり出現する。石焼きビビンバ、ピンスの食い方にも国民性が現れているようにも思える。
諸説あろうが私の印象では色々な意味で「数十年前の我が国」という感じだ。世の中が右肩上がりで活気があり、多少「何でもあり」の若き先進国。
PICで勢力(というのは何とも変だが)を張っているのは昔日本人、今韓国人・・・

   

マナーはイマイチ。街中で歩きタバコしている人が結構多い。(ポイ捨てはないが)
地下鉄網が発達している割に階段がやたら多く(エレベーターもあるにはあるが)年寄りや不自由な人にやさしくない・・・
さらに超一流ブランドのニセモノが当たり前のように屋台で売られている。(ハーメスが泣くぜ・・・)日本以外の「店員」は世界中どこもそうだと思うが、よほどちゃんとしたところでないと「そっけない」。店内でモノを見て回っても全く知らん顔というのは恐怖症の私には実にありがたい。逆に「日本人相手」に商売をする高級店などでは過剰なほどに「ついてくる」。何か用がある素ぶりを見せるとすぐに声をかけられるようにするためか必ず「左斜め後ろ45度」に視界にいる。(これ、かなり煩わしい)

      

私の感想では息子が「海外で勉強したい」と言い出したら意外にこの国は「あり」だと思う。
日本は「老熟モード」に入っていて、弱者もフルメンバーとして「とりあえず安心して生きられる」社会システムなのは誇るべきところ(震災で問われてるかもなー)だが、「世界」を相手にするにはちょっとヌルい・・・
かの国は超「学歴社会」で受験王国、試験に遅れそうになった受験生をパトカーが送ってくれるという。。。ずーっとそんな「偏った」社会にいるわけでもないだろうから、一度揉まれるとよい。若者は一所懸命勉強するらしいし、その結果が就職のとき現れ、一流企業の入社する新人のTOEIC平均点は日本より数百点高い。

夕方訪れた光化門広場では巨大なステージでコンサートの準備に余念がない。かなり大きなイベントらしく、すごい数の警官が動員されていた。これだけいてくれれば旅行者にも治安は万全だな。
街中には至る所に国旗が掲揚されている。そう、8月15日はかの国にとって「独立記念日」なのである。私達の滞在は14日までなのだが複雑な気分なものの目を避けずに翌日どのような式典を行うのか見てきたかった。。。

    

私は戦争について多くを語れないが、たぶん戦争に「是」も「非」もない。愚かで不幸な事実だと思う。欧米と同じように他国を侵略し植民地としたのだから明らかに我が国は「分が悪い」が、この国ともっと仲良くすればずっと「いいこと」があると思われる。
国の規模や先進国としての発展の仕方も似通ったところがあるし。。。(アジアの一員として超大国中国とはずいぶん違う)
それにしても英語でも漢字でもない朝鮮文字が全く読めないのにはホントに難儀した。
単身期間に「何をモノにするか?」という命題の「学問編」では韓国語をエントリーしてみようと思うに至ったのである。
アンニョンハセヨ~

プチソウル(食べ物編)

2011-08-17 07:58:40 | 食べ物
重たい超兵器203号をわざわざ持って行ったのにうまく撮れてませんねー。

かの国で「食べ物」と言えば色々あるが有名なのはキムチだと思われる。しかし残念ながら私は幼い時から発酵「目」漬物「科」の食物が全て食べられないのである。
メインを注文すると大抵何種類も出てくる小皿料理もほとんどのものが食べられない。
かと言って「冷麺キムチ抜きで・・・」と注文するのはかの国では軍法会議モノのような気がしてとても勇気がない。。。
楽しみの半分を失った気分だがそれでも魅力ある「食べ物」はたくさんあった。(あんまり店内でパシパシ撮る習慣がないのだが、他の席(多分同胞)でもやっていたので少し残しておいた。

まずはギンポ空港から明洞の商店街に辿りついて遅めの昼食に入ったのが「ミョンドンギョウジャ」。「地球の歩き方」にも出ていたが結構ベタな店らしい。。。手打ちの韓国風うどんは「カルクッス」といい麺と水餃子、鶏ダシスープが混然としていい味を出していた。また韓国風餃子「マンドゥ」はショーロンポーに似ていてジューシーな感じがした。隣席の女性二人(日本人)も同様のメニューを注文していたが、ものすごい量で最後は苦戦した。全部食べたらもうその日は何も入らないくらいお腹いっぱいになってしまった。。。

    

その夜、アックジョンドンに移動し「ギャラリア」という百貨店で買い物を済ませた後、「それほどお腹は空いていないが何かツマもう」ということになった。
そのエリア韓国著名人が結構出没する高級焼肉店も並んでいたが、またの機会にして「活きタコをピリ辛ソースで炒めて出す」店を探した。
ホテルでもらったガイドの付録地図に書いてあったその店は「ペッコドン」という。どう考えても「この辺」なのだが、見当たらず彷徨うこと30分、諦めて帰りかけたときにようやく「地下にある小さな店」を発見した。

生きているタコは残念ながら売り切れで生のタコ炒めになったが、激辛コチュジャンと半分生のネギとの相性が抜群で「軽くツマむ」にはすごい量だが、何とも元気の出て酒の進む一品であった。
ただ習慣ではこの後、「余った辛味ソースにご飯を混ぜて焼いて食べる」という日本でいう鍋の後の雑炊のようなモノで締めるようだが、残念だがお腹に余裕がなかった。。。
妻曰く「この手の料理は美味しいが『逃げ場』がない」そうだ。確かにいくつかある箸休めなど無いも同然なくらいメインは強力な味が初めから終わりまでずーっと続く。。。
それからいかにも「伴or友」という感じのビールだが、意外にも焼酎をそのまま飲むほうが合う。やはりその国の人の飲み方が一番料理に合うものだなー。

   

翌日はホテルで軽く朝食を済ませた後、いくつかの名所を巡って小腹がすいたので屋台の「トッポッギ」という名物を二人で半分ずつ食べた。とにかく量が多いのと、激辛テンメンジャンに餅が山ほど入っているのである。これもまた「逃げ場なし」系の料理だが、実に美味かった。他にも餃子とか串に差した豚肉とか練り物、チヂミ、韓国風海苔巻き(キンパブ)など多彩にあっておもしろい。あちこちに出るが屋台によって少しずつ種類が異なり、ずらりと並ぶとホントにワクワクするなー。
ホントはロッテ百貨店本店の地下フードコートで昼食を食べるつもりだったのだが、なんと改装中・・・?!

       

どうも目当てのお店にあまり縁がないようなのだがめげずに、明洞の街中に戻りガイドブックに載っていた「お粥屋」に行ってみた。そう、「逃げ場の無い」料理が続き、少し「安らぎ」を求めていたのである。
私はアワビ、妻はズワイガニの五目粥を注文した。どちらも疲れた胃に優しい、ダシと胡麻油の利いた美味しい粥だったが、もう少し煮込み時間を少なくし、雑炊っぽくサラサラにしたらもっといい感じだなと思った。

      

一度くらい本格的なカルビなど焼肉を食おうと、光化門広場の近くにある「ピョンチャン・ハヌマウル」というお肉屋がやっている本格焼肉料理の店を訪ねて行ったのだが、苦心の末(電話番号で探し当てた)ようやく見つけたのに、焼肉は「辞めてしまった」らしい。
またまためげずに明洞の中心部に行ってずばり「高いが美味い」高級店に直行した。「ノビチプ」という鳩山元総理も好んで足を運んだというその店で、王カルビ、レバ刺し(日本ではもう出してないかもしれない)、牛タンを注文した。どれもすごい大盛りで二人で一人前丁度くらいだった。どれも素晴らしく美味で「ビールよりも間違いなく合う」と発見した我々は迷わず韓国焼酎を頼んだ。

      

そして最終日、最後の買い物をするためロッテ百貨店の開店を待っていると、その横に新宿でも「2時間待ち」で有名だった「クリスピークリームドーナツ」があった。
同輩がダースで職場にダースで買ってくれたが、皆「?」という顔をしていて・・・閉店間近に並んで買って帰宅したものの、家族には不評。。。正直、私も何でアレに何時間も並ぶのかその心理がよくわからなかった(ごめんなさい)。
ドーナツには興味無かったがかの国には「ピンス」なるかき氷があり、その店ではそれが売り出されていた。

   

生ストロベリーのシロップの下に練乳、そして最下部には小豆が入っている。正規な食べ方はなんとこれをごちゃごちゃに混ぜて食べるのだそうだ!つまり石焼きビビンバと同じ要領である。
この国に食べ物はとにかく何でもかんでも混ぜ合わせるモノが多いが、かき氷までそうだとは思わなかった。
いちごと練乳と小豆とは日本ではあまり見かけない組み合わせだが、練乳が「つなぎ」になって中々美味いモノだった。やはり量がものすごく二人一つで丁度よし。。。

    

最後に妻がお気に入りバッグを購入し「ここは行っておきたいんだけどねえ」という店に向かった。ソウルでは焼肉でも「部位肉」が人気だそうだ。
有名な骨付きカルビだけでなく、ホルモンが実に美味そうだったのでその専門店「良味屋」という店を選んだ。
注文したのはホルモン焼と大腸、特製ダレとマッチして実に美味い。ちょっと慌ただしかったがプチソウル(食べ物編)を締めくくるのにふさわしい極上メニューだった。

      

この国の食は焼き物であれ、鍋もの、ご飯もの、かき氷ですらすべて「ごちゃごちゃに混ぜ合わせる」文化のようだ。その国々の独特な文化があって面白いものだ。
確かに「逃げ場のない」ジャンク的辛さをもったものが多いが、ヘルシーなものもある。「韓国の女性はキムチを食べるから肌がキレイ」と聞いたこともある。
それから日本人が特別に小食なのだろうか、かの国の人々も身体がべらぼうに大きいという訳でもないのに、やたらめったら量が多い。。。
私にとっては「幅をあまり持てない」食ではあるが、ガイドブックの一人ご飯編にはまだまだ美味しそうなモノがたくさんある。
寒いときに訪れたときのテーマに残しておこう。。。

プチソウル(買い物編)

2011-08-16 06:16:29 | 旅行お出かけ
「えーっ?!オレがいない間にホントに行っちゃうんかよ~」
「その通り!キミに合わせていたらどこにも行けなくなるので、今年は踏み切ったんだよー。」
息子甘辛は夏休み、クラブチームの合宿が2度もあり、その他平日もオフはほとんどないスケジュールで家族揃って旅行など中々できない。小学校のAチームからこの状態が続いており毎年夏休みは「プチ海外」を習慣としていた我々は随分フラストレーションがたまっていた。
さすがに留守番は可哀想だが、合宿で不在のときに合わせてしまえばいいだろう、と今年は近場を狙っていたのだ。

合宿の集合・解散場所はどうしても自家用車で送ってやらねばならぬような場所だから、「朝6時、集合場所に送って、2日後の夜その場所に迎えに行く」という命題をクリアするミラクルな旅程をたてなければならない。。。
妻が苦心の末、羽田午前出発、夕刻帰国というウルトラなツアーをコーディネートしてみせた。お盆休み真っただ中、予算もかなり抑えて組み合わせたプチ旅行である。
行き先はソウル、10数年前に訪れたことのある隣国だ。
どちらかというと時間設定で決まってしまったようなものだが、それはそれで久々の海外だから楽しみだった。

まずは「お買い物編」である。
特段大きな観光リゾートでもないかの国での計画は主に「買い物」「食べ物」「名所巡り」ぐらいだ。
海外旅行などでDFSでの買い物など全く興味の無かった私だが、今回の旅行では何か一つ高級品(こんな言い方をするあたり我ながらいかにも低レベル)購入するつもりだった。
普段持ち歩いている少し「イイ物」は大抵私の身だしなみを少しは気にする妻が買ってくれたものだが、無頓着に使い続けた結果いかにももう寿命にな財ってしまっている布、肩掛けカバンなどがターゲットである。

その他、妻も輪ゴム止めで使っている財布を必須項目とし、オプションで「バッグ」購入を企てていた。ガイドブックを見るとソウルでは自分にピタリとあった「靴」「メガネ」「洋服」などをコーディネートするのとオーダーメイドのパワーストーンアクセサリーが流行っているらしい。
普段ではパーフェクトにスルーしてしまう私も縁起物と言うか「こういうきっかけ」では結構ノリがよく、「響く」物があったら買い求めるつもりでいた。

朝の5時に家を出発して甘辛を合宿集合場所へ送り、彼が生まれて史上初の「離れた夏旅行」に臨んだ。
(いずれ遠からず二人になってしまうんだし、「足慣らし」には丁度よい。。。)
10時のフライトだから少し早いが、一路「新しくできた」羽田空港国際線ターミナルを目指した。
駐車場から直結通路を歩いて数分でチェックインカウンターがあり実に便利だ。
ちょっとこじんまりしているが、新しいターミナルはこんな感じ。

      
 
2階にE・DO(江戸ではなくイードゥと読むらしい)というマーケットプラザがある。ちょっとベタだが「花のお江戸」をイメージしたレストラン街らしく、歌舞伎座のような飾りも見られる。(石原慎太郎都知事の趣味だろか・・・?)
待ち合わせスペースからはターミナルに直接乗り入れているモノレールが見える。
国内線はそれだけを目当てとするショッピングツアーがあるほどだが、国際線ターミナルはそれほど大きなモールでもない。

    

出国すると成田ほど大きく充実していないが、いつもの匂いの免税店が立ち並んでいる。
海外の超一流ブランド店に一応「目の保養」に足を運んで行く。円高なのかセール期間なのかどこもやたらに「値引き」しているようだった。
妻がいつも使っている「普通に買ったら片手ではきかない値段」の財布も随分安く感じる。
時間が十分あったからであろうか、いくつか見て回っていた私もネクタイを2本ほど(ウルトラ柄ばかりではないのよ)持っているイタリアの有名ブランド店(この言い方も田舎臭いねー)で、あろうことか「今日から3日間30%オフ」「バッファロー皮」という文句と持ったときの感触の良さに魅せられて紳士物の財布を購入してしまうのである。
このプチ旅行の買い物1号になってしまうとは思わなかった。

   

電車男のハーメスを初めとする「床が絨毯になっている」超一流ブランド、模様が2パターンくらいしかない女性なら誰もが一つは持っているカバンの店、どう見てもナイロン製のバッグに逆三角形のエンブレムをつけると何故か何万円にもなるファッション店など、隅々まで見て回った。
世の「オンナ」なら大抵はこういう「免税コーナー」に行くと、全然買う気はないのに「とりあえず入ってみる」ものだと思っている。目の保養なのか新製品、価格の確認なのかわからぬが・・・
初めから分かっていれば私は「Just Looking」活動には寛大である。むろん私は店内入り口付近で特定の製品ではなく、「店そのものに興味がある」ような顔をして後ろ手を組んでいる。。。

妻は自分だけ「高い買い物」をするのに気が引けるのか、主婦として高額製品購入には抵抗があるのか、これまでも中々最後の橋を渡らない。一方私は「見るだけ」活動には寛大だが、具体的目的があって訪れたのに「結果を出さない」ことに憤りを感じてしまうのである。よほど無理がある買い物でなければ「買う」ことよりも「買わずにいる」ことを許さない。「私の時間を無駄にした」と主張するのだが、この辺がたぶん夫婦でも噛みあわないところだろう。。。
今回は何故か私が結構な買い物で先陣を切ったのでだいぶ気が楽なんじゃないか・・・?!

さて羽田から飛び立って2時間弱、あっという間にギンポ空港に着陸した。アシアナ航空というあまり聞いたこともない会社だが韓国の航空会社らしい。。
ソウルは地下鉄網が発達しており、空港から都心までも簡単に行ける。
ただ東京と同じで乗り換えが多くホームと行き先方面がよくわからない。何せハングル文字はさっぱりだし。しかし地下鉄のチケット販売機に日本語版画面があるのには救われた。
やっとの思いでホテルまでの道筋を把握し、さあ「このホームからだねー」と改札を抜けたときに「キャスターバッグがない」ことに気が付いた。
なんと!さっき見ていた大きな地下鉄路線図の前に置き忘れてきてしまったのである。幸い改札内側からまだ持ち去られていないのは確認できた。ちょっと「ごめんなさい」して改札横の柵をひらりと飛び越し、あわててバッグを引きずってきた。。。

「アタシがこれやったら激しく怒るよね!」

「ハイ、すみません。大荒れに怒りますです。ハイ」なんか以前もこういう会話があったなー。。。

ホテルにチェックインして街の中心部明洞へ。若者?の街で東京で言うと原宿みたいなものか・・・?靴屋ばかりのエリア、コスメ店ばかりのエリアなど雑然とした感じだ。

      

妻は「たぶんものすごい歩くから」と運動靴を履いてきたが、私が見てもスタイルに合わないからまずZARAでサンダルを購入していた。
その後ロッテ百貨店の地下商店街へ。まずは最近流行っているというパワーストーンの店へ行った。(私もパワースポットとかスピリチュアルな経験には興味を持ってきたし)

        

どうも妻はオーダーメイドでブレスレットを作る考えらしい。水晶を筆頭に色々なお種類の石があり、もたらす効果も細かく日本語で紹介されていた。
私は先日祖師谷大蔵で買ったウルトラのハンコケースに合う「パワーのある印鑑」を作りたくて聞いたら、早速色々出してきて詳しく説明してくれた。(ちょっとくどいけど・・・)

「うーむ。どれも少し太すぎるんですよねえ。ハンコケースに入らないんですよ・・・」

強引に勧めまくっていたおばさん店員二人は声を揃えて「何でハンコケースに合わせなきゃいけないの!?石が大事でしょ!」

妻と目を合わせて苦笑いだ。。。それはおっしゃる通りだがねー・・・このおばさん達を納得させるための時間が勿体なさ過ぎる(そもそも無理かもしれない)
あんまり強引に勧められると引いてしいまうもので、おばさんのお勧めブレスレットには目もくれず、妻は表にいたアルバイトらしい学生風の店員に色々話を聞いていた。
結局、水晶を中心に誕生石、干支などに関係する石を散りばめ、ある程度「おまかせコース」で作ってもらうことにした。
出来上がりは翌日の午後だ、というから一度店を出たが、不思議に何故か私もその気になり、「なあ、オレのも作ってもらっていいかな・・・?」と再び店に舞い戻ったのである。

   

その店から歩くこと数分、地下商店街は一面がメガネ屋エリアになった。フレームを選んでぴったり合うメガネを10分くらいで作ってくれるという。確かに「地球の歩き方」にもそう書いてあった。
ここで「○ニアグラス」なるものを作ってもらうらしい。響きからして一定以上の年齢の人が身に付ける「お洒落メガネ」みたいなものかと思っていたが、どうも最近本などを読むときに焦点が合いにくくなったという。つまりは●眼鏡ということか・・・?!
細ーいフレームはかなり知的に見え、あっという間にレンズも決まってしまった。裸眼で両目1.2を誇る妻も近場で見えにくくなったか・・・こりゃホントに「共に白髪が増えるまで」になりつつあるなー。

     

その後アックジョンドンという日本で言うと銀座のような高級店の立ち並ぶセレブエリアでいよいよ目星をつけたメインアイテムの物色だ。昔からこの高級ブランドだけはお好みだったらしいのだが、同ブランドのずーっと使い続けてきた婦人用財布はもうガマ口がバカになって修理もできず、輪ゴムで縛って使っていた。
二つのうちどちらかで迷っていたが、羽田で予習してきた効果なのかズバリ決めて見せた。
土砂降りの雨の中を地下鉄の駅から20分くらい歩いて「結果を出さなかった」ら暴れるところだったが、気にいったのが購入できてホント良かった~。

初日に大物の目当てをほぼ完了した我々は(この辺が生き急ぎっぽい)翌日、最近少しお洒落っ気が出てきた息子甘辛の土産にデザインシャツを、私は部屋着とポロシャツ2着しか持って行かなかったが、ずぶ濡れ&焼肉臭で帰国日着るのが辛くなったためやむなくZARAでTシャツを購入した。
「その安っぽいカバン、何か新しいのに取り替えたらどうか?」と言う私の一言で最終日の午前中、ロッテ百貨店で走りまわった結果奇跡的にかなりお気に入りとなるバッグを格安で手に入れることになる。
実は私がどこへ行っても(仕事でも釣りでも、むろん海外旅行でも)持ち歩くリュックサックのファスナーが過酷な使用環境で半分壊れもっと深刻だった。
入国したときは気が付かなかったがギンポ空港は3フロアにもまたがる一大アウトレットモールがあったのだ。そこで「JUST DO IT」製のバッグを購入、中身を全部入れ替えて古いヤツは天寿を全うした。

最後に茅ヶ崎の母親向けにお土産のカーディガンを購入し、このプチ旅行の「買い物」は終了するのである。
空港で替えたウォンが残ることわずか数千(数百円)、いとしこいしには拍手がもらえるだろう。
「男は度胸、女は勘定。お手手出しても足出すな。グリコがっちり買いまショウ!!」
(その昔「オリエンタル」だったような気がする)

大山阿夫利神社

2011-08-12 04:03:54 | 旅行お出かけ
本年の誕生日をもって、茅ヶ崎の母親は運転免許を返納した。もっと高齢で運転している人もたくさんいるのだが、高齢者の事故が増え続けている昨今、「特に必要なければやめたほうがよい」と色々な人に言われたらしい。
もともとそう頻繁に運転することはなかったようだが、いざ返納するとなると一抹の寂しさはあったようだ。(まあ、必要とあれば私が近くにいるから足になれる)
母親が免許をとったのは50歳近かったように思う。私の実家には乗用車が無かったから、「車の移動」にはほとんど縁が無かった。学生になって私が免許を取り、続いて数年後に母が取った。(標準課程の2倍くらいかかっていた)

免許は返納したが、これまで乗っていた小さな軽自動車は残っている。知らないで税金を払ってしまったから「もったいない」とそのままにしてあり、私が一人海釣りに行くときとか、早朝竜泉寺に連れて行くときに使っていた。
今月末で保険が切れてしまうので、いよいよその車も引き取ってもらうことになった。
「この車ももう卒業だから、オレの休みのうちにどこかへ行こう」と母親には言っておいた。ここのところ猛暑日が続き中々出掛ける候補はなかったのだが・・・

そんな中で「大山に行こう」ということになった。かなり前に祖母を連れて行ったのを覚えていたらしい。
我が家は8年ほど前、父親が入院していた伊勢原の大学病院からドライブに訪れたところだ。
この地方では箱根、丹沢などと並び手軽に山登り気分を味わえる山として結構人気がある。
頂上には大山阿夫利神社(本社)があり、ケーブルカーの終点からは1時間余りの登山コースである。

私と母は登山はできないから、途中の阿夫利神社(下社)でお参りして「大山豆腐」でも食べてくるつもりでいた。
朝、早めに出て暑くならないうちに帰ってくるつもりでいたが、「竜泉寺」に寄ってから行きたいと言うので、朝ッ風呂を浴びてから車を走らせた。実家からは丁度コース上に竜泉寺温泉があるのだ。
一番奥の駐車場まで45分くらい、午前中と言っても結構気温は上がってきた。。。

       

ケーブルカー駅まではお土産店街を登ること15分くらい、結構階段があったから母にはキツいかと思ったが、幸い全然平気そうだった。
ケーブルカーはほぼ満員、時間的にこれから登山しようというグループばかりなのだろう。
車内には「ケーブルカーの秘密」なる私好みのテクノロジーが写真展示されていた。
「2台の車両が1本のケーブルでつながっていて、井戸の釣瓶と同じ原理で同時に動く」
この急勾配を登り降りするのだ。様々な秘密兵器が装備されている。
終点に着くと反対側はかなりの崖なことがわかる。実はロープウェイほどではないが、ケーブルカーってのもそれほど好きじゃないのだ。(高いところ嫌い)

       

阿夫利神社(下社)に着くと、日はかなり強くなっており汗が噴き出す気温になっていた。
お参りを済ませて、本殿の周りにある参拝ルートに入ってみる。この辺もパワースポットなのか不思議にひんやりした空気が漂っていた。
割とどこの神社にもあるお神水、国家「君が代」にも出てくる「さざれ石」というのも祀ってあった。
秋あたりになれば下社を見て、登山ハイキング、本社で参拝してお弁当なーんてコースは結構楽しそうだ。

      

土産店街にある「大山名物豆腐料理」はコースで2000円とかするから、参集殿で「豆腐」だけを注文してみた。
なーるほど。やたらめったら濃密味の豆腐はあまり好きじゃないのだが、普通にバランスよくうまい。。。
大山は「豆腐」「独楽」「きゃらぶき」「せんべい」「猪鍋」あたりが有名らしい。木製の大山独楽は子供の頃誰でも回していた。自家製「はたき」を皆持っていた。

      

ちょっと暑かったが、竜泉寺温泉と阿夫利神社めぐりの半日コースに母親も多少は満足したようだ。
夏休みに入ってから先日は息子甘辛、昨日は母親と単発でつきあっている。妻とは大体午後海岸へ行くのだが、プチ旅行を計画している。
その後は4人揃ってゴージャス墓参りコースを予定している。今日はとうとう我が家付近も35℃を超え猛暑日を記録した。海に近いこのあたりで猛暑日だから、普段勤務する北関東はとんでもない。。。県東部の暑さで熊谷と争う街は最高気温38.7度!お隣県の「ラーメンの街」と並んで列島の猛暑記録ワンツーフィニッシュだった。

車の引き取りまでにもう一度くらいどこかに行けそうだ。県内だとやはり山の方が涼しくていいだろう。
海ばかりで山ってあまり行かないからこの機会に色々偵察してみよう。年寄り連れだからパワースポットみたいなところがいいだろな。

ウルトラ日和

2011-08-10 21:31:36 | ホビー
我が家(私だけ?)の夏休みはこれがないと中々気分がでない・・・
サンシャインシティの「ウルトラマンフェスティバル2011」である。第1回目から数えること確か20回目、つまり甘辛が生まれる前、さらに結婚する前からデートで足を運んでいたことになる。(甘辛が生まれた年だけ行っていない)
今年で甘辛は中2になるから、「そろそろ卒業かなー」と思っていたら「オレ、夏休みで『ウルフェス』だけが楽しみなんだよ・・・」とはしゃいでいる。若干私に気を使ってもいるようだが、半分以上本気のようである。(結構寂しい青春か・・・?!)

彼もクラブチームでのサッカーで忙しいから、たまたまオフとなった昨日、意を決して二人で池袋に向かった。
昨年、開場時間と同時に行ったらものすごい列に並んだので、今年は30分ほどずらしてサンシャインシティへ。。。私も甘辛ももう「目を瞑っても行ける」ルートである。
はっきり言って今年のウルフェスは「飛ばして」いた。普段は団扇なのに入り口で配っていたのは「3Dメガネ」である。

今年はウルトラマン(初代)生誕45周年、いつもの「ウルトラ兄弟」のジオラマを過ぎると、ファンにとっては垂涎ものの「撮影で使ったアイテム展示」である。私は「しぇぶうーん」派なのだが、初代マンの主要ストーリーはほぼ頭に入っている。
ウルトラマンは1966年7月10日、赤い光球となって宇宙怪獣ベムラー(青い球)を追って地球に初めてやってきたのである。
「ミイラの叫び」で登場した「ミイラ人間」はあまりにリアルで「夢」に出てきそうだった。(泣きだす子供もいた・・・)
ザラブ星人の「ニセウルトラセブン」も特殊映像、しかし思わず理系の私を唸らせたセット1第一弾はダダの「人間標本作成光線」室。。。二人並んで「パシャッ」と光線を浴びると出口に並んでいる小瓶にミニチュアになって入ってしまう、という恐るべき仕掛けである。


       

    

セット第2弾は「なりきりムービー」だ。隊員服を着て「えいっ」とウルトラゼロアイを装着すると、自分が「ウルトラマンゼロ(セブンの息子)」に変身でき、物語の中で必殺光線を発射する、というシーンをDVDにしてくれるのである。(セブンだったら間違いなく自分でやっていた・・・)
1回3000円という額で「一度はやってみてえなー」と甘辛も言っていたが、たぶんもう我々が着られる隊員服のサイズはないよ・・・
昨年くらいからコラボを始めた「マーベラスアイスクリーム」で一息だ。。。

      

甘辛が幼い時に大好きだった「ウルトラP」。。。簡単に言うとウルトラ怪獣の人形劇である。
ウルトラ戦士もいるが、怪獣のキャラが可愛らしくて面白い。甘辛達の年頃はこういうのが「最もくだらなく見える」ものだが、彼は苦笑いしながらも結構楽しんでいる。。。
そう、「ふふん」と笑うのは簡単なのだが、「面白いところ」を見出すのも大事なことだよなー。
ウルトラライブステージは年々、本格的なものに進化している。数年前から入場時に「全席指定」の券を受け取るシステムになった。
開場30分(10:30)ほどして発券窓口に立った私達は「はーい、12:00上演でよろしいですねー」と笑顔で誘導するお姉さんを「『席』によります!」と一蹴!13:00上演のステージの3列目ど真ん中をGETした。

   

ステージに入場する際に3Dメガネを忘れないように注意された。ライブステージなのに3Dメガネ・・・?その理由がわかるまでそうはかからなかった。
物語の設定は1966年7月10日までタイムトラベルし「当時のウルトラマンの活躍を参考にする」というものだった。(うーむ。ど真ん中ストライクだったパパはたまらぬ・・・)
タイムトリップの時に前方スクリーンに映し出される光景は3Dメガネをかけると本物のワープのように見えるのだ。
そしてウルトラ戦士の放つ光線(スペシウム光線が代表的ね)も3Dメガネで立体的に見えるのである。素晴らしい!これがセット第3弾だ。

     

大満足でウルフェス会場を出た我が父子だったが、その日はもう一つウルトラ偵察をする予定を立てた。小田急線祖師谷大蔵駅周辺にある、「ウルトラマン商店街」である。
正直、半信半疑だったのだがいきなりホームに降り立つと「ウルトラな街」という文字が・・・
行きたい店が二つだけあった。「ウルトラのハンコケース」を販売する「印鑑店」とオリジナルグッズを売るカフェだ。
職場で今でもたまに使う印鑑は昔、妻と台湾を旅行したときに彫ってもらった翡翠のイカすヤツなんだが、ケースがないのでビニール袋に入れていた。
驚いたことにこのハンコ店は憧れの「ウルトラ警備隊仕様」のハンコケースを販売していたのである。

     

南北長く広がる商店街。。。幟が並びちょっとしたウルトラグッズがどこでも販売されている。
「父ちゃんよ、あの街灯『セブン』じゃねえか・・・?!ってアレはマン?」
甘辛が目聡く色々見つけ始めた。。。ホントだー。街灯がウルトラ戦士になってるぞ。
地図によると南北東方面に伸びた商店街の端っ子にウルトラ兄弟のアーチがあるという・・・
気温35度にもなりそうな通りをエネルギッシュに歩き、甘辛はまた何か発見した。
「父ちゃん!カラ―タイマーの中にウルトラシーンがあるどー!」
なるへそ。街灯の下に丸いタイマーのようなものがあり、中を覗くとウルトラシリーズの名シーンが現れる。
これだけでも我が父子は大喜びだ。ただ道路の両再度に街灯があるので、全部見ようとジグザグ道路を歩き、私も甘辛も何度も車に轢かれそうになった・・・

   

妻へのお土産は「ウルトラ商店街オリジナル」のエコトートバッグ、とウルトラ饅頭、私はたぶん2度とは手に入らない「セブンのTシャツ」をGETした。
正直言うと半分熱中症にかかりつつあって、「全てのウルトラアーチを見に行く」という甘辛に涙目になっていた私だった。
「おい甘辛よ。ここからマンのアーチまで『あと770m』とあるがどうすべー・・・?」
返事もせずに彼は前進をつづけた。まーそうだよなー。。。
へとへとになって総アーチを制覇し、駅のホームに立つと・・・電車が接近してきたときのメロディがいきなりセブン!向こう側のホームはマン。。。

     

駅で妻と待ち合わせ(もう晩御飯の時間になっちゃった・・・)お気に入りのイタリアンレストランで今日の「獲物」を披露した。
ウルフェスはともかく「ウルトラマン商店街」には妻もだいぶ興味を覚えたようだ。鎌倉でもそうだったが、女子って「商店街」歩くの好きなんだよなー。
そう遠くないうちに「祖師谷デート」もありになるだろう。。。今日の思い残しはウルトラデパートで見た「ハンコセット」・・・2万5千円!かっこいいウルトラ警備隊のケースとスチール製印鑑にオリジナルネーム彫。。。(ウルトラサインで彫るのもあり)
2回目に行くまでに妻との難しい交渉が続く・・・

          

ルーキーズ再び

2011-08-08 21:53:37 | 職場
今春大学を卒業した人のうち、就職した割合は6割ちょっとだとニュースされていた。我が社にめでたく来てくれたルーキーズたちは、2週間前くらいだろうか、これまでの経験をレポートにして発表した。
彼ら彼女らは採用の際に出身学部によって技術系、業務系という区分がある。簡単に言うと理系と文系なのだろう。今更流行らないような気がするが、人事育成系ってそう簡単に古い柵を打破できないものである。

以前も書いたように、彼らは震災の影響で入社式が5月連休明けになってしまい、それまで各セクションにとりあえずお手伝いのように仮に席を置いていた。
晴れて入社式終了後は数週間、本社研修センターで会社に関する基本的なことを学び、再び各地方へ分散配置される。
再び我が地方へやってきた人達は最初の数日(週?)間、退屈極まりない座学で各セクションの役割や仕事の流れを頭に入れる。(このあたりはどの地方も同じ構造である)

さらに一通りの座学が終わるとジョブローテーションと言って、いわゆる「実務」を持っている職場で実際の現場を経験することになる。
今回のレポート発表はこのジョブローテーション中に業務上気が付いたことをまとめ、改善提案するものだ。
毎年の営みなんだろうが彼らのレポート作成に対し、ベテラン社員やちょっと上の先輩社員は実に面倒見がよい。ほとんど代書なんじゃないかと思われるくらいに立派なプレゼンが出来上がるのだ。
発表会は2日間にわたり、各セクションの主だった幹部は全員列席して発表を聞いている。

実を言うと私自身はこの職場での仕事って広すぎてよくわかっていないことが多いので自分の勉強のためにも聞いていた。(むろん何でも分かっている顔だけはしている)
発表は各自持ち時間が15分、質疑応答が5分で行われ、初日が業務系社員の発表、2日目が技術系社員である。
遅くまで発表の練習をしたのか、みんな時間通りにピタリと終わってみせる。質疑応答タイムになるとささーっと何人かが手を挙げハキハキと質問する。(あれはもしかして「やらせ」かもしれない・・・)

前半の「業務系の部」は割とセールスに近い話だったから「なるほどねー」と聞いていられたが、後半「技術系の部」になると思ったより専門的でその場の幹部では私以外に誰もわからなそうな鋭い指摘もあったりして、結構冷や汗をかいた。最後に「PTAから何かアドバイスはございませんか?」とやられるからだ。
最後にトップが講評する予定になっていたが、「せっかく各タスク責任者が集まってるんだから、各々コメントしてください」なんて話になった。

営業、法人、企画などそれぞれの長が彼らのレポートやプレゼン、またこれからの心構えについて気の利いたことをスピーチしていた。
私は指導者としてではなく、割と無邪気に「仕事に使えるかどうか」だけ見ていたから何となく思い付きだけで別のことを口にした。
「今日聞いた提案は、この後皆さんが販売研修している2ヶ月の間に実践して見せるから、結果を見届けてください」
彼らは発表会が一段落した後、いよいよ「飛込み営業」という苦行を強いられるのである。。。

「ってな訳なので、8件中5件は実際にやってみる。1週間で具体的検討をしよう」
戻ってからミーティングで指令を出した。こういう時の新番頭グッチー他、我が職場のスタッフは恐ろしく手際がよく、ものの数日で検討結果をまとめて見せた。
「ふーっ、人の苦労もあんまり知らないでここまで書きやがって・・・」スティーブはブーブー言っていたが、実はこれをきっかけに周りが動き出すのも狙いにあったのだよ。。。
せっかくだから、その結果をルーキーズにも伝えてあげようと今や販売研修で飛び回っている彼らと「対話会」なるものを設けてもらった。

今まで、どこで何をしていたのかよく知らなかったが、あらためて集まったルーキーズ(私の管轄の技術系だけだけど)を見ると、就職率60%の氷河期をくぐり抜けてきただけのことはあるやはり「優秀オーラ」のようなものを感じた。
さすがに「何か聞きたいことはないか?」と言っても中々出てはこないものだ。初めて出社してきたときの印象ややってみたい仕事、心配ごとなどをグッチーがうまい具合に聞き出していく。(さすがだねー)
答えなど全然用意していないから、半分「口から出まかせ」みたいな思い付きだが、対話していて面白いことに気が付いた。その後の懇親会も含めて自分がほぼ同じことを言葉を変えて繰り返しているだけなのである。

ずばり言って重要なのは「物事から何かを見出すこと」である。
例えば「どんな仕事が面白そうか?」なんて議論があった。そんなこと考えてもいなかったが、思い付いたのは「面白い仕事などたぶんない。しかしつまらない仕事もない。そういうとらえ方はあんまり意味がない。でも『面白そうに仕事をしてる人』はいる。そういう人をモデルにするとよい」
「やりがいのある仕事をするのではなく、やっている仕事にやりがいを見出すほうが楽だし得である」
「いかにも勉強になりそうな事柄よりもどうでもよさそうなことから学ぶべるようにすること」
後から聞いたのだが、レポートの作成、発表そのものがゴールだと思っていた人は、「実際にやるからね」というコメントは結構意外だったらしい。少なからず関心も呼んだ模様だ。
中には「感激しました」なんて人もいたのでだんだんいい気になって「じゃあ、ついでにいくらくらいの効果をもたらしたかも、はじき出してやろうかね・・・」
このあたりからグッチーが涙目になっていくのを感じたが。。。

販売研修の様子を少し聞いたが、やはりかなり苦戦しているらしい。11件飛び込んで話を聞いてもらえたのがたったの1件とか・・・
新人の登竜門となって久しいらしいが、毎年「話すも聞くも涙」というのが結構あるらしい。
明日の我が社を担う彼らの活躍には無邪気に期待したい。この研修が終わると総仕上げにまたも「レポート発表」があるらしい。
「退屈な模範解答よりも『ハッとする』不正解」を期待してるよー。

こらから(たぶん来週?)彼らは社会人になって初めての「短い夏休み」に入あることだろう。
私は一足先に今日から社会人になってこれまた初の2week休暇(最後の2日は人間ドックだが)である。
懇親会で「ぜひ見てみたい」と持ち上げられて「いい気」になったので、期間限定で私のサーフライドを掲載しよう。
今日はダンパー波であっと言う間にトップが崩れてしまい、あまりカッコイイところはなかったんだが。
超兵器203号を初めて握った妻は一応私の姿を撮ってくれた。何十枚の中でまともっぽいのがわずか数枚・・・まあ、こんなものさ。。。

      

オジサマ

2011-08-05 10:36:37 | 出来事
子供のときから、孫のように可愛がってくれ方の訃報が先日届いた。享年92歳、大往生であろう。。。母方の遠い親戚筋にあたる。次週から夏休みに入る予定の私は、今週どうしても丸々1日空けることができず、葬儀などに列席できなかった。
火曜日だけ外出予定だったので、そのまま出抜けして一目だけでも顔を見ようとご遺体が安置される清瀬の自宅まで向かった。早めに出たので着いたのは7時くらいだった。

連れ合いを亡くした「オバサマ」は私の母親よりも10歳年上、娘もちょうど私より10歳年上であり、そのご家族には小さい頃にホントにお世話になった。
小学校に上がり、実家茅ヶ崎から初めて湘南電車に一人乗って遊びに行ったのがその家、両親の故郷富山と同様、夏休みになると一度は遊びに行った。都内の遊園地、プール、交通博物館などありとあらゆるところに連れて行ってもらった。家族以外と麻雀をやったのも彼らとだし、初めてゴルフ場でラウンドしたのもあのご夫婦だった。

夜になってしまったが、私駆け付けるとすごく喜んでくれた。残念ながら翌日も早朝から仕事があって、わずかな時間しかいられなかったが手を合わせられたので良かった。
家には娘夫婦と孫、そして故人の妹さんがおられたが、社会人になってさらに結婚してからはさすがに少し疎遠になってしまっているから、こういう時は小さい時の話を山ほど聞かされることになる。
お年寄りというものは私が全く覚えていない数十年前のことでも鮮明に記憶しているものだ。

幼いときにその家にあった非売品のコアラのぬいぐるみが欲しくてしきりにおねだりしたことがあった。実は私はなぜかペンギンが好きだったのだが、当時はペンギンのぬいぐるみなど「マンシングウェア」のマスコットくらいしか無かったのである。
そのコアラは当時でも結構レアものだったらしく、中々「うん」と言ってくれなかった。そして彼らが持ち出した条件が「これからずーっと、私達のことを『オジサマ』『オバサマ』と呼ぶこと」
まだ小学校にも上がっていなかった私は何の抵抗もなくその通りにした。そのときの約束が40年たった今でも続いている。
この二人は東京近辺にたくさんいる私の従兄弟連中にも人気があった。どういうわけか彼らもいつの間にか「オジサマ」「オバサマ」と呼ぶようになり、それが親戚中に広まってしまったのである。

「オバサマ」は私の母親の従姉妹にあたる。母上は昨年亡くなった私の祖母の姉にあたり、富山にあったその家にもずいぶん遊びに行った。
私の祖母も同様に言っていたが、幼い「太郎」はかなり極悪の坊主だったらしい。。。。
格子に張られている障子紙全部に北斗百烈拳よろしく手刀(おあたたたたー)で穴を開けたとか、好奇心から水槽の金魚を掃除機で吸い出そうとして本体を破壊したとか、お店で使っていた出っ張りボタンをボチボチっと押して「チーン」と引出しが飛び出てくるレジスターで遊んでいて、引っ掛かりを無視して無理やり押し込んだら、引出しが歪んで出てこなくなっちゃったとか・・・耳を覆いたくなるような悪行三昧である。(薄々覚えているのもある)

「太郎が遊びに来ると必ず何かを壊していく」と警戒宣言が出され、「オバサマ」の父上に至っては「また来るねー」と玄関で無邪気に手を振る幼い「太郎」に向かって「もう来んでいい・・」とのたまったそうだ。。。
中学くらいからさすがに悪行はなくなったが、警戒の目は緩めなかったようだ。その様子は東京の「オバサマ」の家でもそうは変わらなかった。
先日の大地震の際、どこか壊れたりしなかったか尋ねると・・・

「全然平気だったよ。壊れてるのはお前が壊していったとこだけ!」

オバサマよ、それは違うよ。床が抜けてるのは単に傷んでるからだろ・・・?ただし、あの家に私が遊びびに行くと、帰った後に数々の「仕掛け」があったそうだ。
そんな話を故人を前にしてしばらく懐かしんでした。オバサマは「今頃、お前のパパと向こうで麻雀でもしてるのかねえ」などとしんみり言っていた。
オジサマは元国鉄職員で、独特の麻雀ルールがあったらしいが、当時私の亡き父と結構熱いバトルを繰り広げていたようだ。
「ねえ、オジサマ。この何にも描いていないヤツはなーに?」と幼い太郎が後ろから覗き込み「凍りつかせた」ことがあると言う。。。

私がいたずらをすると必ずオバサマが与えた罰は「怖い話をすること」だった。私は当時から何よりも「お化け」が嫌いだったのだ。生半可な「怪談」などではなく、「ホントにあった」話ばかりされたから堪らなかった。。。。
遠い親類のおじいさんが亡くなったときに、初七日法要まで毎晩「お世話になりました」と親族みんなの枕元に現れたとか、知り合いの連れ合いが亡くなったときに、納骨を済ませるまで毎晩居室だった部屋で足音がしたとか・・・
「あれーっ?今、カズサのおばちゃんが庭にいたよねー」と兄弟で話していたら「息を引き取った」という電話が着たとか・・・(どうしてこんな話ばかり覚えているのか?)

「オジサマも『太郎』が来てくれたんで、喜んで今晩行くかもしれないよー。ワタシも『いよいよ』と言うときはそっちの様子見に行こうかねー」

いっ、いやー、よく知っている人は大丈夫なんすよ。でもできれば前もって連絡をもらったほうが・・・いきなり来られると心臓が止まるかもしれないので。
ずいぶんご無沙汰してしまっていたのだが、今年の冬にお見舞いに行ったとき私のことを分かってくれたのが結構救いだった。
別に怖がる必要は全然なかったのだが、その日は部屋中の電気を点けて寝た・・・

オジサマ、小さいときから可愛がっていただきありがとうございました。あの世でもお元気で、父の麻雀相手してやってください。