報道テレビで生放映されようが、人から語られようが「自分の目で見なければわからない」ことが意外とたくさんあるのは、仕事柄経験的に知っていた。
ボランティアによる瓦礫の片付け作業など手を動かす以外に、専門的な作業にはほとんど戦力外の私が現地に足を運ぶ気になったのもそのためだ。
災害対策用24時間ホットライン(先週に一旦終了)で色々と聞いていても現地も混乱しており、正しい状況ははっきり分らない状況で、復旧のための設計支援班を派遣することになる。今度の場合は修理班ではなく建設班に近いので、どんな状況なのかわからなければどのような技術者が何人必要なのか、派遣のしようがない。
どの世界でもそうかもしれないが、一般的にこういう緊急事態でもなければ私のような一地方圏を預かる者が他地方を調整なしに訪れるのは歓迎されないことが多い。
当人は全然、放っておいてほしいのだが、先方は何かと気を使ってくれたがり、結果余計な負担がかかるからだ。
今回はそんなことも言ってられないので、我々が派遣する設計メンバとともにいきなり現地入りすることにした。
私は午前中、朝一で昨年末入院した病院で最後の外来診察があり、東海道線と東北新幹線を乗り継いで那須塩原で社用車に拾ってもらう予定だった。
計画停電でスケジュールが狂ってしまうのが怖かったが、幸いにして全部中止となり、主治医の女医はこれから東北へ行く、という私に
「朝早くからお疲れ様。これで診療は終わりです。強いストレスや過剰な飲酒が続くと、再発することがないわけではないです。そのときは相談くださいね。気を付けて」
最後まで丁寧な先生だった。後顧の憂いを断ち、一路東北新幹線に乗り込んだのである。
那須塩原で合流したのは、例によってスティーブと初登場「泣き顔のアッキー」だ。スティーブは屋外施設の権威、アッキーは屋内施設の権威、それぞれ両巨頭を従えて現地に乗り込むことになる。
東北自動車道は再開通したばかりだが、「よく閉鎖解除したもんだ」と思うほど凸凹がひどい。。。
救援物資を輸送できないとどうにもならぬからだろうか、時速100キロを超すスピードで走るとときどきジャンプすることがある。また走行車線そのものではないが、側道にはあちこちに陥没があり、セーフティコーンが置かれている。
福島を過ぎると新幹線と並行するルートがあるが、何と高架橋上の架線を支える鉄柱が何本も折れ曲がってしまって、クレーンで修復している。こりゃー結構かかるな。(TVでは4月中と言っていた)
仙台近くになるとPAのスタンドには給油待ちの車両が長蛇の列を作っている。街中に入るとそれがどんどん甚だしくなり、ひどい渋滞となっている。
ところどころには建物が半壊してしまっていたり、壁が剥がれ落ちていたり、大地震の爪痕がしっかり残っていた。
市内中央部にある拠点オフィスには東日本から集結した設計支援班数十名と共に、数時間にわたって現状のレクチャーを受けた。
先方の責任者に一言声をかけて挨拶すると慌てて隣に席を設けようと調整してくれようとしたが、デッドボールにあった衣笠選手のように「いいよいいよ」とジェスチャーで表わして隅っこの空いてるイスへ。
活発な質問が飛び交ったが、聞いていてわかったことは「細部はよくわからない」ということ。
「こりゃー、いよいよ行かないとよくわからないな」我が方が受け持つ地域までは市街から距離にして数キロだ。国土交通省の被災マップと我々が持つ図面と測定結果、施設の写真を頼りに出たとこ勝負で現地入りするしかないようだ。
ほとんどのところは立入禁止だが、社用車のボンネットに「災害復旧支援」と貼ってあるので、恐らく現地調査と言えば入れてもらえるだろうとこのこと。
瓦礫が邪魔してどうしても進めないときは自衛隊に連絡して除去作業してもらうことになるそうだ。想像以上の苦戦が予想される。
翌日は早朝から宿を出発し、第3次支援隊でがんばっているドラえもん隊長のいる別のオフィスビルに立ち寄った。
最新式のインテリジェントビルのはずだが、地震後は故障修理拠点として1フロアまるまる空けてチームメンバーの居住空間としてある。毛布と寝袋、衣類などの荷物に囲まれた雑魚寝状態、ガスと上水道を使えない不便な生活である。
壁際にはかなりの種類の保存食、飲料水などが山と積まれていたが、さすがに飽きてしまって最近は減りが少ないんだそうだ。
「今日は3日ぶりに近所の温泉に入れるので3時で上がりね。あと半分だからがんばりますよ」
不精髭の迫力が出てきたドラえもん隊長は元気よく出動していった。。。
我々も地図を片手に凄まじい渋滞に悩まされて市内を彷徨いながら何とか目的地方面に向かって行った。
国土交通省の被災マップなどアバウトそのもので、5万分の一くらいの地図に手書きで囲みが書いてあり、その中に斜線が入っているだけだった。。。
途中何度か警察官の検問や誘導係の質問にあいながら、どうしても施設の場所がわからないので、同業と思われる作業員に伺ったら、「方角はこちらなんですが、あの橋は通行止めで通れません。一旦反対側に迂回し、インターから高速一区間だけ乗って回って行けば入れると思います。ただしまだ立入禁止かもしれません」
拠点ビルを出て数時間経過していたが「絶対に行ってこの目で見る」と車を走らせた。
途中、高速からも水田と思われる広大な地域に車両や防災林と思われる残骸が散乱しているのが見えた。
数百メートルも広がった瓦礫の平地で数十名の消防隊員がまだ捜索らしき活動もしていた。目指す地名表示が出てきたが、「一般車両通行できません」の看板が。。。
構わず車を進めると誘導員がいたが、二股にわかれた道路のどちらにも行かせてくれた。かなり先のおうでは工事用車両が瓦礫の撤去作業を行っていた。
河川敷と思われるところで車を降り立った私は慄然とした。。。TVで見た光景のつながりではあったが・・・
到るところで流された車両は放置され、瓦礫の撤去作業が行われていた。家屋はあっても津波の被害が過ぎ去ったあとで人影は見当たらない。
言葉が見つからないというのはこういうことを言うのだった。
瓦礫が撤去されて通過できる道路と通れない道路がまだある。「この辺なんだがなー」地図を片手に我が施設を探しに歩きだすが、車が行けないところもあるので、ヘルメットを被り半長靴を履こうとしていると・・・「あったー!」スティーブが思わず唸った。
幸いゲートまでの道路は瓦礫が除去され、敷地内には西日本から応援にやってきた非常用電源車で電源部の復旧作業を行っているところであった。
内部の装置の大半は浸水で使えなかったが、グリーンランプが点灯している装置もあり、必死の作業の上復活しているものもありそうだ。「うまくいけば、被災を免れたところは何とか使えるかもな。。。」
我々は室内の状況をカメラに収め、作業員に声をかけてひしゃげた鉄製ドアの外に出た。
改めて周囲を歩き回ったが、不思議な夢でも見ている気分だった。このエリアの人々が一人でも多く無事であったことを願う以外にはない。
津波に襲われたが、流されてはいない住居がたくさんあり、ついさっきまで人々が普通の生活をしていたと思われる痕跡なども見られて何ともやるせなかった。洗濯物が干されっぱなしのところもあったのだ。
自然の不条理にはかくも無力なものか。正直私は半分めげていた。。。
しかし高速道の向こう側は辛うじて災害を免れ、有人の住居があるという・・・電気が復旧しているかが勝負だが、まずはそこから応急的にも回復させるしかないか。。。
避難所や仮設住宅への対応も並行して進めている。まずはできるところからひとつずつやっていくしかないな。
私はIXYを手にしていたが、静かにバッグにしまった。「立入れないところに入った者」として記録を残す責任はあったが、網膜に焼き付けるだけにとどめたのである。
もっと色々なところを見なければならないと思ったが、その後スケジュールの都合から東北道を再び爆走して職場に戻らなければならない。
私の周囲は24時間体制も終結し、週末は自宅に帰れるまでに落ち着いてきた。
しかし被災中心の現地は「何からどう手をつけてよいかわからない」状態なのがよくわかった。。。
あの地区の復興には長い年月が必要だと感じざるを得ない。あの光景を忘れないように、職場に戻ってプラントマネジメントのプロである八兵衛には「設計チームの増員とローテーションの延長」を連絡したのであった。
ボランティアによる瓦礫の片付け作業など手を動かす以外に、専門的な作業にはほとんど戦力外の私が現地に足を運ぶ気になったのもそのためだ。
災害対策用24時間ホットライン(先週に一旦終了)で色々と聞いていても現地も混乱しており、正しい状況ははっきり分らない状況で、復旧のための設計支援班を派遣することになる。今度の場合は修理班ではなく建設班に近いので、どんな状況なのかわからなければどのような技術者が何人必要なのか、派遣のしようがない。
どの世界でもそうかもしれないが、一般的にこういう緊急事態でもなければ私のような一地方圏を預かる者が他地方を調整なしに訪れるのは歓迎されないことが多い。
当人は全然、放っておいてほしいのだが、先方は何かと気を使ってくれたがり、結果余計な負担がかかるからだ。
今回はそんなことも言ってられないので、我々が派遣する設計メンバとともにいきなり現地入りすることにした。
私は午前中、朝一で昨年末入院した病院で最後の外来診察があり、東海道線と東北新幹線を乗り継いで那須塩原で社用車に拾ってもらう予定だった。
計画停電でスケジュールが狂ってしまうのが怖かったが、幸いにして全部中止となり、主治医の女医はこれから東北へ行く、という私に
「朝早くからお疲れ様。これで診療は終わりです。強いストレスや過剰な飲酒が続くと、再発することがないわけではないです。そのときは相談くださいね。気を付けて」
最後まで丁寧な先生だった。後顧の憂いを断ち、一路東北新幹線に乗り込んだのである。
那須塩原で合流したのは、例によってスティーブと初登場「泣き顔のアッキー」だ。スティーブは屋外施設の権威、アッキーは屋内施設の権威、それぞれ両巨頭を従えて現地に乗り込むことになる。
東北自動車道は再開通したばかりだが、「よく閉鎖解除したもんだ」と思うほど凸凹がひどい。。。
救援物資を輸送できないとどうにもならぬからだろうか、時速100キロを超すスピードで走るとときどきジャンプすることがある。また走行車線そのものではないが、側道にはあちこちに陥没があり、セーフティコーンが置かれている。
福島を過ぎると新幹線と並行するルートがあるが、何と高架橋上の架線を支える鉄柱が何本も折れ曲がってしまって、クレーンで修復している。こりゃー結構かかるな。(TVでは4月中と言っていた)
仙台近くになるとPAのスタンドには給油待ちの車両が長蛇の列を作っている。街中に入るとそれがどんどん甚だしくなり、ひどい渋滞となっている。
ところどころには建物が半壊してしまっていたり、壁が剥がれ落ちていたり、大地震の爪痕がしっかり残っていた。
市内中央部にある拠点オフィスには東日本から集結した設計支援班数十名と共に、数時間にわたって現状のレクチャーを受けた。
先方の責任者に一言声をかけて挨拶すると慌てて隣に席を設けようと調整してくれようとしたが、デッドボールにあった衣笠選手のように「いいよいいよ」とジェスチャーで表わして隅っこの空いてるイスへ。
活発な質問が飛び交ったが、聞いていてわかったことは「細部はよくわからない」ということ。
「こりゃー、いよいよ行かないとよくわからないな」我が方が受け持つ地域までは市街から距離にして数キロだ。国土交通省の被災マップと我々が持つ図面と測定結果、施設の写真を頼りに出たとこ勝負で現地入りするしかないようだ。
ほとんどのところは立入禁止だが、社用車のボンネットに「災害復旧支援」と貼ってあるので、恐らく現地調査と言えば入れてもらえるだろうとこのこと。
瓦礫が邪魔してどうしても進めないときは自衛隊に連絡して除去作業してもらうことになるそうだ。想像以上の苦戦が予想される。
翌日は早朝から宿を出発し、第3次支援隊でがんばっているドラえもん隊長のいる別のオフィスビルに立ち寄った。
最新式のインテリジェントビルのはずだが、地震後は故障修理拠点として1フロアまるまる空けてチームメンバーの居住空間としてある。毛布と寝袋、衣類などの荷物に囲まれた雑魚寝状態、ガスと上水道を使えない不便な生活である。
壁際にはかなりの種類の保存食、飲料水などが山と積まれていたが、さすがに飽きてしまって最近は減りが少ないんだそうだ。
「今日は3日ぶりに近所の温泉に入れるので3時で上がりね。あと半分だからがんばりますよ」
不精髭の迫力が出てきたドラえもん隊長は元気よく出動していった。。。
我々も地図を片手に凄まじい渋滞に悩まされて市内を彷徨いながら何とか目的地方面に向かって行った。
国土交通省の被災マップなどアバウトそのもので、5万分の一くらいの地図に手書きで囲みが書いてあり、その中に斜線が入っているだけだった。。。
途中何度か警察官の検問や誘導係の質問にあいながら、どうしても施設の場所がわからないので、同業と思われる作業員に伺ったら、「方角はこちらなんですが、あの橋は通行止めで通れません。一旦反対側に迂回し、インターから高速一区間だけ乗って回って行けば入れると思います。ただしまだ立入禁止かもしれません」
拠点ビルを出て数時間経過していたが「絶対に行ってこの目で見る」と車を走らせた。
途中、高速からも水田と思われる広大な地域に車両や防災林と思われる残骸が散乱しているのが見えた。
数百メートルも広がった瓦礫の平地で数十名の消防隊員がまだ捜索らしき活動もしていた。目指す地名表示が出てきたが、「一般車両通行できません」の看板が。。。
構わず車を進めると誘導員がいたが、二股にわかれた道路のどちらにも行かせてくれた。かなり先のおうでは工事用車両が瓦礫の撤去作業を行っていた。
河川敷と思われるところで車を降り立った私は慄然とした。。。TVで見た光景のつながりではあったが・・・
到るところで流された車両は放置され、瓦礫の撤去作業が行われていた。家屋はあっても津波の被害が過ぎ去ったあとで人影は見当たらない。
言葉が見つからないというのはこういうことを言うのだった。
瓦礫が撤去されて通過できる道路と通れない道路がまだある。「この辺なんだがなー」地図を片手に我が施設を探しに歩きだすが、車が行けないところもあるので、ヘルメットを被り半長靴を履こうとしていると・・・「あったー!」スティーブが思わず唸った。
幸いゲートまでの道路は瓦礫が除去され、敷地内には西日本から応援にやってきた非常用電源車で電源部の復旧作業を行っているところであった。
内部の装置の大半は浸水で使えなかったが、グリーンランプが点灯している装置もあり、必死の作業の上復活しているものもありそうだ。「うまくいけば、被災を免れたところは何とか使えるかもな。。。」
我々は室内の状況をカメラに収め、作業員に声をかけてひしゃげた鉄製ドアの外に出た。
改めて周囲を歩き回ったが、不思議な夢でも見ている気分だった。このエリアの人々が一人でも多く無事であったことを願う以外にはない。
津波に襲われたが、流されてはいない住居がたくさんあり、ついさっきまで人々が普通の生活をしていたと思われる痕跡なども見られて何ともやるせなかった。洗濯物が干されっぱなしのところもあったのだ。
自然の不条理にはかくも無力なものか。正直私は半分めげていた。。。
しかし高速道の向こう側は辛うじて災害を免れ、有人の住居があるという・・・電気が復旧しているかが勝負だが、まずはそこから応急的にも回復させるしかないか。。。
避難所や仮設住宅への対応も並行して進めている。まずはできるところからひとつずつやっていくしかないな。
私はIXYを手にしていたが、静かにバッグにしまった。「立入れないところに入った者」として記録を残す責任はあったが、網膜に焼き付けるだけにとどめたのである。
もっと色々なところを見なければならないと思ったが、その後スケジュールの都合から東北道を再び爆走して職場に戻らなければならない。
私の周囲は24時間体制も終結し、週末は自宅に帰れるまでに落ち着いてきた。
しかし被災中心の現地は「何からどう手をつけてよいかわからない」状態なのがよくわかった。。。
あの地区の復興には長い年月が必要だと感じざるを得ない。あの光景を忘れないように、職場に戻ってプラントマネジメントのプロである八兵衛には「設計チームの増員とローテーションの延長」を連絡したのであった。