超兵器磯辺2号

幻の超兵器2号。。。
磯辺氏の文才を惜しむ声に応えてコンパクトに再登場。
ウルトラな日々がまたここに綴られる。

一見に如かず

2011-03-31 11:19:10 | 職場
報道テレビで生放映されようが、人から語られようが「自分の目で見なければわからない」ことが意外とたくさんあるのは、仕事柄経験的に知っていた。
ボランティアによる瓦礫の片付け作業など手を動かす以外に、専門的な作業にはほとんど戦力外の私が現地に足を運ぶ気になったのもそのためだ。
災害対策用24時間ホットライン(先週に一旦終了)で色々と聞いていても現地も混乱しており、正しい状況ははっきり分らない状況で、復旧のための設計支援班を派遣することになる。今度の場合は修理班ではなく建設班に近いので、どんな状況なのかわからなければどのような技術者が何人必要なのか、派遣のしようがない。

どの世界でもそうかもしれないが、一般的にこういう緊急事態でもなければ私のような一地方圏を預かる者が他地方を調整なしに訪れるのは歓迎されないことが多い。
当人は全然、放っておいてほしいのだが、先方は何かと気を使ってくれたがり、結果余計な負担がかかるからだ。
今回はそんなことも言ってられないので、我々が派遣する設計メンバとともにいきなり現地入りすることにした。

私は午前中、朝一で昨年末入院した病院で最後の外来診察があり、東海道線と東北新幹線を乗り継いで那須塩原で社用車に拾ってもらう予定だった。
計画停電でスケジュールが狂ってしまうのが怖かったが、幸いにして全部中止となり、主治医の女医はこれから東北へ行く、という私に
「朝早くからお疲れ様。これで診療は終わりです。強いストレスや過剰な飲酒が続くと、再発することがないわけではないです。そのときは相談くださいね。気を付けて」
最後まで丁寧な先生だった。後顧の憂いを断ち、一路東北新幹線に乗り込んだのである。

那須塩原で合流したのは、例によってスティーブと初登場「泣き顔のアッキー」だ。スティーブは屋外施設の権威、アッキーは屋内施設の権威、それぞれ両巨頭を従えて現地に乗り込むことになる。
東北自動車道は再開通したばかりだが、「よく閉鎖解除したもんだ」と思うほど凸凹がひどい。。。
救援物資を輸送できないとどうにもならぬからだろうか、時速100キロを超すスピードで走るとときどきジャンプすることがある。また走行車線そのものではないが、側道にはあちこちに陥没があり、セーフティコーンが置かれている。
福島を過ぎると新幹線と並行するルートがあるが、何と高架橋上の架線を支える鉄柱が何本も折れ曲がってしまって、クレーンで修復している。こりゃー結構かかるな。(TVでは4月中と言っていた)

仙台近くになるとPAのスタンドには給油待ちの車両が長蛇の列を作っている。街中に入るとそれがどんどん甚だしくなり、ひどい渋滞となっている。
ところどころには建物が半壊してしまっていたり、壁が剥がれ落ちていたり、大地震の爪痕がしっかり残っていた。
市内中央部にある拠点オフィスには東日本から集結した設計支援班数十名と共に、数時間にわたって現状のレクチャーを受けた。
先方の責任者に一言声をかけて挨拶すると慌てて隣に席を設けようと調整してくれようとしたが、デッドボールにあった衣笠選手のように「いいよいいよ」とジェスチャーで表わして隅っこの空いてるイスへ。
活発な質問が飛び交ったが、聞いていてわかったことは「細部はよくわからない」ということ。

「こりゃー、いよいよ行かないとよくわからないな」我が方が受け持つ地域までは市街から距離にして数キロだ。国土交通省の被災マップと我々が持つ図面と測定結果、施設の写真を頼りに出たとこ勝負で現地入りするしかないようだ。
ほとんどのところは立入禁止だが、社用車のボンネットに「災害復旧支援」と貼ってあるので、恐らく現地調査と言えば入れてもらえるだろうとこのこと。
瓦礫が邪魔してどうしても進めないときは自衛隊に連絡して除去作業してもらうことになるそうだ。想像以上の苦戦が予想される。

翌日は早朝から宿を出発し、第3次支援隊でがんばっているドラえもん隊長のいる別のオフィスビルに立ち寄った。
最新式のインテリジェントビルのはずだが、地震後は故障修理拠点として1フロアまるまる空けてチームメンバーの居住空間としてある。毛布と寝袋、衣類などの荷物に囲まれた雑魚寝状態、ガスと上水道を使えない不便な生活である。
壁際にはかなりの種類の保存食、飲料水などが山と積まれていたが、さすがに飽きてしまって最近は減りが少ないんだそうだ。
「今日は3日ぶりに近所の温泉に入れるので3時で上がりね。あと半分だからがんばりますよ」
不精髭の迫力が出てきたドラえもん隊長は元気よく出動していった。。。

我々も地図を片手に凄まじい渋滞に悩まされて市内を彷徨いながら何とか目的地方面に向かって行った。
国土交通省の被災マップなどアバウトそのもので、5万分の一くらいの地図に手書きで囲みが書いてあり、その中に斜線が入っているだけだった。。。
途中何度か警察官の検問や誘導係の質問にあいながら、どうしても施設の場所がわからないので、同業と思われる作業員に伺ったら、「方角はこちらなんですが、あの橋は通行止めで通れません。一旦反対側に迂回し、インターから高速一区間だけ乗って回って行けば入れると思います。ただしまだ立入禁止かもしれません」

拠点ビルを出て数時間経過していたが「絶対に行ってこの目で見る」と車を走らせた。
途中、高速からも水田と思われる広大な地域に車両や防災林と思われる残骸が散乱しているのが見えた。
数百メートルも広がった瓦礫の平地で数十名の消防隊員がまだ捜索らしき活動もしていた。目指す地名表示が出てきたが、「一般車両通行できません」の看板が。。。
構わず車を進めると誘導員がいたが、二股にわかれた道路のどちらにも行かせてくれた。かなり先のおうでは工事用車両が瓦礫の撤去作業を行っていた。

河川敷と思われるところで車を降り立った私は慄然とした。。。TVで見た光景のつながりではあったが・・・
到るところで流された車両は放置され、瓦礫の撤去作業が行われていた。家屋はあっても津波の被害が過ぎ去ったあとで人影は見当たらない。
言葉が見つからないというのはこういうことを言うのだった。

瓦礫が撤去されて通過できる道路と通れない道路がまだある。「この辺なんだがなー」地図を片手に我が施設を探しに歩きだすが、車が行けないところもあるので、ヘルメットを被り半長靴を履こうとしていると・・・「あったー!」スティーブが思わず唸った。
幸いゲートまでの道路は瓦礫が除去され、敷地内には西日本から応援にやってきた非常用電源車で電源部の復旧作業を行っているところであった。
内部の装置の大半は浸水で使えなかったが、グリーンランプが点灯している装置もあり、必死の作業の上復活しているものもありそうだ。「うまくいけば、被災を免れたところは何とか使えるかもな。。。」

我々は室内の状況をカメラに収め、作業員に声をかけてひしゃげた鉄製ドアの外に出た。
改めて周囲を歩き回ったが、不思議な夢でも見ている気分だった。このエリアの人々が一人でも多く無事であったことを願う以外にはない。
津波に襲われたが、流されてはいない住居がたくさんあり、ついさっきまで人々が普通の生活をしていたと思われる痕跡なども見られて何ともやるせなかった。洗濯物が干されっぱなしのところもあったのだ。
自然の不条理にはかくも無力なものか。正直私は半分めげていた。。。

しかし高速道の向こう側は辛うじて災害を免れ、有人の住居があるという・・・電気が復旧しているかが勝負だが、まずはそこから応急的にも回復させるしかないか。。。
避難所や仮設住宅への対応も並行して進めている。まずはできるところからひとつずつやっていくしかないな。
私はIXYを手にしていたが、静かにバッグにしまった。「立入れないところに入った者」として記録を残す責任はあったが、網膜に焼き付けるだけにとどめたのである。

もっと色々なところを見なければならないと思ったが、その後スケジュールの都合から東北道を再び爆走して職場に戻らなければならない。
私の周囲は24時間体制も終結し、週末は自宅に帰れるまでに落ち着いてきた。
しかし被災中心の現地は「何からどう手をつけてよいかわからない」状態なのがよくわかった。。。
あの地区の復興には長い年月が必要だと感じざるを得ない。あの光景を忘れないように、職場に戻ってプラントマネジメントのプロである八兵衛には「設計チームの増員とローテーションの延長」を連絡したのであった。

気付き

2011-03-25 20:33:44 | 出来事
未曽有の大地震から2週間が過ぎ、被災地はまだまだ辛く厳しい状況だと思うが、我々の周囲は少しずつ落ち着いてきた。
最初の1週間は管内のあちこちでダウンしているシステムの手当や計画停電の対処と被災地支援が並行したが、あったり無かったりの計画停電にもだいぶ慣れ、やばいところは応急措置をして、我が方はほぼ事態が収拾できたから、いよいよ被災地の広域支援を本格化する。
そして被災地や原発から避難してきた方々を自治体が受け入れ始めたので、そちらの方面に新たな仕事が増えた。(まだまだ皿回しか・・・)

昨日早朝に第三次支援部隊を送り込んだ。高速道路が再開通したとは言え、現地の状況は厳しく、まだまだ食糧、水その他全ての物資は「持参」する。
20数名分が10日前後滞在するための食糧、水、布団に毛布などに加え先方で移動するための燃料を入れると、4トントラックが満杯となる。
嵩にすると人間ってずいぶん多くのものを消費するものだと改めて感じる。被災地で物資が不足するわけだ。。。
この取組での私の役割は「兵站」、いわゆるロジスティクスである。小説で読んだ山岡荘八の「太平洋戦争」で日本軍(特に陸軍)は徹底的にこの兵站を軽視した。

「項羽と劉邦」に出てくる「蕭何」を尊敬している私だが、こればかりは才能のようで、どうにも苦手だった。
長い旅行に行くときなども「夜逃げ」のように巨大な荷物で使わないモノだらけとなるか、何もかも現地調達しなければ何もできないか、のどちらかが多いのだ。
しかし中には「兵站のためにいる」ような貴重なスタッフがあり、今回もあっと言う間に人員数、物量をはじき出して手配を済ませてしまった。。。「余人をもって代えられぬ人」とは彼のような人だ。
こういうときに我が社の「兵站」スタイルで感心するのは「実に無理が通る」ということだ。

普段は何かと「面倒なこと」はやってくれないし、必ず文句の一つ二つ帰ってくるのだが、こういうときに限ってどの人もぴしーっと頼んだことを叶えてくれる。まるで自分に「豪腕」が備わったかのような錯覚に陥るくらいだ。
いつもこうだったら、我が社もかなり業績をあげられると思うんだがなー。いざ、というときだけ信じられぬスピードで「回転」する。。。
今回の第三次派遣隊でがんばればどうにか被災地の一時応急措置は一段落するようだ。

一方で県内に被災地から避難してきた方々が数千名規模であり、各自治体が用意した市民センターなどの施設が避難所として使われている。
それらの方々が「不便」を感じないようにお手伝いするのも仕事にひとつだ。
県内には至るところに温泉施設があり、多くが避難所にもなっており、八兵衛は「オレの行きつけの温泉、ことごとく避難所で閉鎖・・・」
と嘆いていたが「お疲れだろうから、背中でも流しに行こうか」と温泉巡りに余念がない。どう考えても避難されてきた方優先なのに懲りないヒト・・・

今回の広域被災地支援はある特定の被災した地域へ、ほとんど被災していないか被災したが措置が終了した地域から、カウンターパートとして派遣するスタイルになっている。神奈川から福島へ、新潟から岩手へというように。。。
我が方からも被災したシステムの応急修理などからインフラレベルの本格復旧を受持つ設計班を派遣することになった。
他県から派遣される者と混成チームを構成し1ヶ月程度で目途を立てる算段だ。緊急出動するフェーズから一定期間滞在して復興を目指すフェーズになると、もはやデスクで兵站ばかり預かっている場合ではなくなる。
私もいよいよ調査等のため現地入りすべき日が近付いている。

東北自動車道が再開通したので緊急指定車両で一気に突入するが、正直福島原発にはあまり近寄りたくない。
それにしても青菜に加えて水道水までも・・・次々と色々と起きる。
マルコム・グラッドウェルの「ティッピング・ポイント」だったろうか、日本人が一気呵成に押し寄せる習性には困ったものだ。
「思い込み」が強いというのか、古くは「放射能が含まれているので、雨にあたると頭が禿げる」、石油危機のときには「トイレットペーパーが店頭から消える」、先週帰宅したら藤沢・茅ヶ崎でも米はどこにも売っていなかったし、今はコンビニにすら水はない。。。

念の為乳児を除けば、今でも世界的に比類なき安全な野菜なのに福島や茨城のほうれんそうは誰も買わない。
政府もこうなることは分かっていたはずだが、隠すわけにもいかず苦渋の選択なのだろう。(枝野さん大丈夫かな)
私の見立て限りだが、10数億人の人口を抱える「彼の国」の生産物よりはよっぽど安全に見えるんだがなー。
急ぐところ(被災地の救援)は急ぎ、緩めるところ(一般消費生活)は緩める。原発事故にしろ停電騒ぎにしろ「スローダウンせよ」と言われているような気がしてならない。
今度の大震災を乗り越えて、日本人は色んなことに「気付く」と思う。

ついこの間まで私も24時間煌々と明かりの消えない街で、毎週数回トレーニングに行くくせに駅ではエスカレーターに乗り、すぐそこにコンビニにも自動車で買い物に行っていたので、その電力の大元である原発云々を言える立場にない。
この前、やっとのことで合格したエコ検定も原発は「エコな発電」として定義されているのである。
しかし正常なときは(市場原理的には)よいが、一旦事故がおきるととんでもない危険にさらされるリスクを背負って便利な生活を享受してきたことがよく分かった。
長ーい月日を重ねてあそこが修復できたとして、再び原発として使おうと言う人はいないんだろな。。。
ゴルゴ13きっての秀作(実は私詳しいよ)「2万5千年の荒野」を読んでいただきたい。

今はともかく、次週足を運ぶであろう被災地の人たちに少しでも安心を届けることに努めよう。

ヒーリング

2011-03-22 17:13:39 | スポーツ・健康
未曽有の大地震から10日。。。金曜日の夜半、自宅に向かったがさすがに疲れ果てていた。
湘南新宿ラインが終日運休のため(弱いなあ・・・)、新幹線と東海道線を乗り継いで我が家に着いたが、2週間ほど空けただけなのに妙に懐かしく感じたものだ。
翌日、夕方遠隔参加の会議が予定されていたが、それまで久しぶりにゆっくりできた。

その日どういう巡り合わせか、つぶやきさん家で例のサイキック長者、ヒーリングの先生とお会いする機会を得たのである。
妻もお友達もこの「ヒーリング」によって健康的な「気」(パワーともいう?)を注入いただき、ずいぶん具合がよくなったという。
普段私は遠く地方圏にいるし、もともとあまり興味がないのに加え、何よりもお化けの嫌いな私は「後ろにいるよ」なーんて言われると気絶しかねないので、今まで何回か機会はあったのだが正直避けていた。
しかし、あれほどの大地震の後、支援業務に奔走しまくっていささか心身も疲れていたのか、「時は今」と家族揃ってヒーリングいただく気になったのだ。
練習帰りの息子甘辛と合流して家族3人、一度だけ訪れたことのあるつぶやきさん家に向かった。

ホントに幼い頃のお譲さんは人見知りをしているようだったが、すっかり人懐っこく愛嬌が出てきて、息子と仲良く遊んでいた。
習字が好きなようで、「みず」とか「ごはん」とか中々即物的なものに筆をふるっていたらしい。
壁には今年の書き初めなのか3枚の半紙が掛けてあって・・・
しんさん:不惑(40になって。。。だったかな?「惑」の字そのものにだいぶ迷っていたらしい)
つぶやきさん:臥薪嘗胆(故事に詳しい私はどんな意味か一応尋ねたが「超がんばる」ということらしい・・・)
お嬢:すし(見事としか言いようのない主張である)
さて、初めてご挨拶した先生は「品の良いおばあさん」という感じだったが背筋がピンと伸び矍鑠とした女性だった。
なによりもすごかったのは、その眼光である。一目お会いして私は「この人は何でも見とおすだろうな」と感じたものだ。
少し血圧が高めでここ数週間どうも頭痛がする、と訴えた私をしばらく眺めていて先生はすべて悟ったようだった。
最近ひどくなってきたという、つぶやきさんの花粉症をピタリと直し、次に私がやっていただくことになった。
うつ伏せになって後頭部に手を当てられ、ヒーリングが始まる。

私は(愚かにも?)ひたすら無念無想に努めていた。頭に両手を当てられているということは、おそらく考えていることがすべてバレてしまうと思ったのである。(後からそういうことはしないと聞いた)
しかし我ながら煩悩のかたまりと思えることに、こういう時に限って次から次に邪念が浮かんでくるのだ。
「今晩、藤沢の『さくら水産』に飲みに行こうか」「いや、自分で揚げる串揚げの店がいいかなー」「夕方の会議サボれねーかな」「明後日の災対室で一段落ついたら冷蔵庫のビール飲んじゃおかな」。。。。
手当てされているところが「暖かくなる」と聞いていたが、あまりそういう気配はない。しかしその手が背中に移って行った時、何かが身体に入り込んでいくような不思議な感じがした。
約40分後「はい、おわり」とポンと叩かれて起き上がると、なるほど頭が不思議に軽くなっている。
先生の言葉を借りると「頭がかなり疲れている」ということだった。ここ1週間久々に回転したからねー。
「目一杯送り込んだから、また飲んでも大丈夫」だと。うーむ。。。やはり読まれている・・・?!
私の次にしてもらった最近股関節が痛いという息子甘辛はあまりに気持ち良かったのかヒーリング中に寝てしまった。
その後、先生から伺った話は実に興味深い話だった。修行を積み重ねられ人間的にも尊敬すべき長者だということがわかる。

元々、国語の教師だった彼女は引退後60歳になってからこの仕事(修行?)を始めたそうだ。さる高徳なお寺の住職から強くこの仕事を「勧められた」という。。。
その住職は「人の能力や使命」を見通せることではすごい眼力を持っているが、ご自身の能力は警察に剣道を教えに行って竹刀を振ったある瞬間に突然開花したそうだ。
「モノを見通したり」「気を送り込む」のは持って生まれた才能もあるが、訓練と集中力が大事だそうだ。
「先生自身の『気』は枯渇することはないんですか?」

最近、灯油が枯渇して部屋で寒い思いをしている私はまた愚かな質問を・・・自分自身の「気」は使わないのだそうだ。周囲のエネルギーを感じ取って一点に集中し注入するんだって。
「邪念を払うのに苦労しましたよ・・・」彼女はゲラゲラ笑いながら、「写真で拝見したよりもくだけた感じの人ですね」
めったに「悪いこと」は言わない、という先生の「磯辺太郎」評は・・・

「見た目よりも周りに気を使うので部下に慕われる」「臆病なところがある」「少し短気で、できるはずのことができないとイライラする」「将来好々爺になる」「およそ(彼女が)好きでない人間が持つ『小賢しい』ところが少しもない」
うーむ。。。あまり意味のわからないレッテルもあるが、大体想定通り・・・こんなもんだろ。。。しかし見事に読みとられているものだ。

「昼休み、眠くなったときには15分でも横になると気にしている血圧は無事に下がる」
「短い筋肉(速筋?)は素晴らしく鍛えてあるので、これから長い筋肉(遅筋?)を鍛えること」
「お風呂上がりにストレッチを入念に行い柔軟さを身に付けること」
「身体の柔軟性と心のそれは直結する。しなやかさを身に付ければ今よりさらに『いい男』になれる」
「歳を重ねてから『ああ、あのおばあさんが言っていたのはこのことか!』と必ず分るから。。。」
これまたうーむ。。。それぞれの御言葉は実に説得力のあるものだ。「いい男」にも「好々爺」にもならなくてよいが、我ながら「しなやかさ」は確かに必要と感じるな。

姿をイメージさえできれば、電話や空間を隔ててリモートでも「気」を送ることができるそうだ。ホントにひどくて辛くなったら留守電に入れておけば3回ほどに分けて送ってくださり、すぐではないが段々治ってくるんだって。「あのう、念のため伺っておきますが、『痛く』することもできるんですか?」

「あっはっは、そんなこと聞いた人はじめてよ。バチでも当たると思った?」
あういう仕事に就く人は「心と体を健全に保つ」ことが第一に重要なので、「悪く」したりすることを考えることすらないそうだ。(どうも邪念が多いなー)
テレビで見るスピリチュアルな人について色々尋ねた。「江原さんとかって、ホントに見えてるんでしょうかねえ」
妻はずーっと前からあの人は本物だ、と主張していたが・・・
先生曰く「あの人はあの仕事に就くために生まれたような人。。。」そして最も敬愛するのは「三輪明宏さん」だそうだ。
世間からは色々言われたりするkともあるが「人間を愛すること」について他に並ぶ者がいないそうだ。
この前、地方圏の赴任地に「江原啓之さん」が講演会を開いていた。5250円もとるので「ちょっと待ってよー」と思っていたが、惜しいことしたかなー。。。

とにかく先生はごく普通のやさしいおばあさんで(それこそ好々婆)話しも実に楽しかった。
そして色んな経験話などを聞きながら私はある考えに至ったのである。
霊感、透視、気功、予知、チャクラなどサイキックで中々説明しにくい事柄やヨーガ、太極拳、瞑想、座禅そしてヒーリングなど人間の「何か」を鍛えたり元気にさせたりする「作用」は、言葉やスタイル、方法などが異なるだけで、すべて同じものを扱っていているのではなかろうか?
とにかく言葉では説明も証明もできない、不思議なことは間違いなくあるものだ。何回か続けると「気」の通りがよくなり、より効果を体感できるようになると聞いたが、ずいぶん元気をもらったぞ。
まだまだ続く震災フォローだが、また翌日から東奔西走ができそうだ。

2011-03-19 10:44:28 | 出来事
「起き」てから長ーい1日が過ぎ・・・無事にサバイバルで職場に到達すると、緊急用の災害対策室が開設されていた。
静脈認証システムで入室すると「おおっー」というどよめきがたったものだ。
大混乱時期の真っただ中にいたが情報統括、システム復旧、対全国域など各班がそれぞれ県内にあるシステム網の故障状況や、社員の安否、顧客対応など刻々と情報が共有されて行く。

停電しているセクションも数十か所あるようだった。通常は病院や役場のように予備電源を持っており、バッテリーで給電したり発電機を持っているところもある。
必ずしも正常に切り替わらない部署もあるし、長く停電するとバッテリー放電が底を着いたり、発電機の燃料が枯渇して止まってしまうときもある。
これだけ大規模な災害となると、システムそのものが受けたダメージの診断と整備・点検、及び停電対策を並行して行うことになる。
あっちに手当をしている間にこっちがずっこける、というまさに「皿回し状態」だ。これらの措置が24時間耐久で続いた。

あちこち継ぎはぎだらけで、どうにか(JR風に言うと)運転再開した後は、各所の点検が待っている。
停電時の瞬断でスタックしてしまったコンピュータサーバもあるし、壁にひびが入っているところもある。
屋外施設が地震でひん曲がっているところもあるし、ケーブル断で通信そのものができない故障もある。
ブラックジャックに事故現場での手術で「次に揺れたら終わり」というシーンがあったが、まさしく薄氷を踏む思いでとりあえず正常運転となるのにさらに24時間。。。

ずーっとテレビを点けていたが、やはり被災地の状況が刻々と放映され思わず息を飲むほど恐ろしい光景だった。
地震そのものの被害はそれほど大きくなかったので、何とか土日で管轄エリア内のトラブルを区切りを付けた。
週明けそれを待っていたかのように、中央本社からの被災地支援要請だ。災害対策用特殊装置は発生日のうちに自衛隊駐屯地から先日訓練で搭乗したCh-47で仙台に飛び立っていた。
数時間後には私の携帯に「訓練ではトラブりましたが、今回本番はうまくイケました。。。」とホッとしたような連絡が入った。

被災地の様子もはっきりとは分らないが、水や食料、宿泊場所まで自己解決しなければならない厳しい状況だ。
各地から必要な物品と技術者を集結し、補給物資を山ほどかき集めていつか紹介した高所作業車をずらりと並べたのが24時間後。。。
「厳しい状況なのは承知の上だが、何万人も待っている。安全第一で『慌てず急いで正確に』」といつもの一言と安全唱和の後、緊急先導車を先頭に第一次支援隊が出動した。

そうこうしているうちに、原発がトラブルでかなり深刻なようだし、燃料が枯渇し始め、東電の計画停電に右往左往することに至ったのである。
管内のシステム網はあちこち継ぎはぎで運転しているから、「ドン!」と停電してしまうと何がおきるかわからない。一体どこのビルが何時から停電してしまうのか、正確に把握することが何よりも重要だった。
計画停電初日の未明にようやくその予定表と電源トラブル時の緊急出動態勢が整ったが結果は空振り・・・(まあ。。。正直「穴だらけ」なので無いにこしたことはなかった)

東北に派遣した一次支援隊は現地の状況がよくわからないため、安全を期して4日間の限定滞在とした。特殊作業者は置きっぱなしとし、2次隊はバスをチャーターして派遣することとなった。
福島原発のトラブルがあるので、新潟-山形ルートを使うため長時間走行となり、一次支援隊と引き継ぎを行う関係で、出発は未明の3時。。。
今回、深刻な問題だったのは燃料不足である。ガソリンスタンドで給油するのに何時間も並ばなければならないという。
給油の優先化は行政の協力を仰ぎ、社員の実家はじめあらゆるところからドラム缶を調達し、軽油を満載したトラックを用意したのだった。

1週間、それこそ不眠不休で走りまわってようやく少し落ち着いたところだ。私はマンションからチャリ通勤
だが、ここのオフィスは地方圏独特の「マイカー通勤」が多いため、燃料不足は本当に深刻なようだ。
元々感じていたのだが米国じゃあるまいし、ちょっとそこにゴミ捨てに行くのもマイカー。。。車乗り過ぎのあまりエコじゃない県民なんだ(自分で言っているくらいだから)
強力な参謀スティーブは「歩き」だから実に心強いが、もう一人の参謀エイトマン(改め八兵衛)はマイカーで50分通勤だ。
昨日はついにガソリンが枯渇し、近所のデカさんちの軽トラで来たんだって。
「余人をもって代えられぬ人はホテルに宿泊させよ。オレんちでもいいけど、灯油枯渇にエアコン不調で寒いぜー」

3連休はようやく一段落して体制縮小できそうだ。。。ようやく一旦家へ帰れる・・・(でもまだ1週間しかたってないんだよなー)
嵐のようだったがこの長―い7日間で・・・
1ヶ月分の仕事をした。(私は普段実質4時間くらいしか仕事しないから、約4倍の計算だ)
1ヶ月分のおにぎりを食った。(部屋詰めで朝昼版に2個ずつと夜食に1個、50個くらい食った勘定になる。(あー、さかな食いてえ)
1ヶ月分のコーヒーを飲んだ。(眠気を覚ますためにねー)

信じられないかもしれないが、この間に新しく会員となったフィットネスジムを2回訪れてヨーガプログラムとエアロビクスをこなした。全く運動しないと血液がよどむし、一人で風呂を沸かすには燃料や水が無駄だからだ。
災害対策室では24時間テレビを付けっ放しだ。枝野さんの活躍には頭が下がるが体調を崩さないか心配だ。
今はオールジャパンが一丸となって被災地を救済し復興を軌道に乗せる「承」のときで、行政も東電も懸命にやっているのは間違いないから、ひとまず彼らの至らなさをどうこう言わずに応援しよう。

被災地のTV映像や現地班からの画像を見たりすると、彼の地の人々にかける言葉は全く見つからなかった(というか、そんな余裕がなかった)。
とにかく「支援する側」にいる者として、否定的なことは口にせず前へ進めることが大事だろう。
明後日派遣できる班は明日へ、1000リットル送れる軽油を2000リットルへ、3セット設置できる避難所用システムを5セットへ。。。少しでも速く多く・・・

    

私たちの生活などもっと不便になってよい。
一昔の「昭和」の時代は遅くまで店などやっておらず夜は暗かった。1年中20度前後に保たれるオフィスなどなく、夏は暑く冬は寒かった。
車で移動していた場所でも当分は遠出せずにチャリか歩きで行けばよい。この辺の地域でも普段よりはるかに「助け合う」共同体が復活するかもしれない。

妻は息子甘辛に
『あと10年20年たっても語り継がれるような歴史が今起こっている。きちんと見ておくように』と、すっからかんのスーパーにも連れて行き、買いだめしない理由も話したらしい。
子供なりに何かを感じていることだろう。。。

「人は運命との出会いを意識することはほとんどない。真の運命との出会いに気づくことはない。後でそれが『運命』だと思いだすだけだ・・・」
― 銀河鉄道999 ―

「転」までは当分時間がかかると思われる。「結」となる日は遠い未来かもしれない。
私が奮闘している間に妻が買っておいてくれたMUSICMAN。。。
「あの」フレーズは今のためにできたのかもしれない。

「今は どんなに やるせなくても 明日は 今日より 素晴らしい」

2011-03-18 11:19:51 | 出来事
「起」きたのは1週間前、私は出張先から最寄の駅へ乗用車で送ってもらっているところだった。
バスで行くと30分くらいかかる、イマイチ不便な仕事先オフィスだったが、結構重要な話がいくつもあり、その分野の責任者とほぼ「直談判」に伺ったのだった。
14時過ぎに打合せが終了し、そのまま新宿にある本社へ直行という珍しくハードなスケジュールだ。(今、思うとその日のスケジュールは異常ともいえる分刻みモノだった)

運転してくれた先方のウッチー部長が「何か揺れてますねえ。一昨日も結構揺れたんですよ。。。」
っと、次の瞬間ジュラシック・パークで恐竜に襲われた車のように、後部座席が異様に揺れ出した。
ひどい凸凹道を徐行している感じだったが、フロントガラスの前を見ると電柱や電線がすごい振れ方をしているので、「これはやばい!」と感じ「そこの駐車場に入れて停めて!」と叫んだ。
付近で追突しているような車両は無かったが、すごい揺れでどの車も停車していた。後ろを走っていた赤い車の女性は泣きだしており、手招きで同じ駐車場に誘導してやったが、腰が抜けたのか抱え出してあげないと足が震えて車外に出られないようだった。

すげえ揺れだ。。。しかし立っていられないほどではないし、建物が倒壊したりビルの上からガラスが割れて振ってくるほどでもない。
ここの揺れが震源の近くなら何とかセーフだろうが、遠い場所だったら危機的にまずいかもしれない・・・小さな余震は続いたが、車外に出ていた人は車に戻り、渋滞となりながらも交通は元に戻った。
最寄駅には向かっていたが、間違いなくすべての路線はストップしているだろう。金曜日で自宅にそのまま帰る予定にしていたが、これでは無理っぽくそもそも我が家は大丈夫なんだろか?と心配していたら、着メロのウルトラセブンが鳴りだした。。。

「父ちゃんか?すんげえ揺れだったぜ!ティガとかタロウ(壁際に飾ってあったスーパーソフビフィギュア)がたくさん落ちてきちゃった。。。そっち大丈夫か?」

帰宅した息子甘辛の興奮した声であった。「おうっ、大丈夫だぜ。そっちも大丈夫か?」私は心の中で「でかした、甘辛!」と叫んでいた。
この規模の地震があると、すぐに安否の確認で携帯がつながらなくなるのだ。数分後だったが茅ヶ崎の母親とも連絡がとれ何もなかったことがわかった。
駅に行っても電車がストップして人が溢れ返っているはずだし、このままさっきの事務所に戻ってもらってもよいのだが、先ほど散々文句を言って暴れてきた他社なので、どうも気まずくてそのまま駅で降りた。

予想通り駅には行き場を失った人でごった返していた。よく見ると駅ビルデパートのガラスが割れ、天井から水がかなりの勢いで流れ落ちていた。
そうしているうちにまたかなり強い揺れが・・・周りの人にぶつかりながらコンコースから出口へ走る者も多かったが、駅そのものが倒壊してしまったという話はあまり聞かないから頭上に落下しそうな、ものがない位置でじっと立っていた。(女性はその多くが悲鳴を上げてしゃがんでいた)
電車は全線ストップ、タクシー待ち、バス待ちは長蛇の列でいつになったら乗れるのかも不明だ。
同行していた長野出身のダック部門長は何度も自宅と連絡をとろうとしていたが、周りの人全員が携帯片手に立ちすくんでいる状態で、もちろんかかるわけもなく・・・
何度か大きな余震がやってきたが、少し落ち着いたところで駅のコンコースにあった人だかりをかき分け、放映されていたテレビニュースを見て愕然とした。
よく見えなかったが、大きな黒い闇が田畑を覆い尽くそうとしており、また巨大な流れが自動車をミニカーのように押し流している。。。

何度かトライして職場とも連絡がついた。私は完全に出先でこの地震に遭遇したからかなり心配されたらしい。
社員の安否や作業現場などでの正常確認は終わったらしい。無事なのと居場所は伝えたがこれからどうしよう。。。
その場所は単身先と自宅の丁度中間地点にあたるところだった。距離にして約100km以上、体力の限界に挑戦じゃあるまいし、歩ける距離ではない。
「こりゃあ、帰宅難民ですかねえ」やっと家族と連絡がとれたダックくんは無事なのが分かってホッとしていたが、夕方も近くなり結構寒くなってきたコンコースで情けなさそうに呟いた。。。

「ひと駅歩くけど我が社の総合オペレーションセンターがありますよ。パンデミック対策してあるから手伝えば飯くらいは食わせてくれるさ。全然OK」

職種柄何度も訪れたことがある私は、最新式のインテリジェントビルに行けば何日でもどうにでもなることを知っていた。
セキュリティのため外部からは勝手に入れないが、Oちゃんに所長に連絡を取ってもらえればOK。
こんな時だからつかまらない心配もあるが、誰か一人でも連絡付けられれば中から明けてもらって入れる。
カードで入館しエレベーターが止まっていたので、階段でオペレーションルームまで登ると携帯が鳴って、「磯辺さんですか?ご無沙汰しております。以前、北浦和でご一緒した○井です。Oさんから連絡があってお待ちしていました。今、どちらにいますか?」「やあ、久しぶり。壁の向こうにいるよ」
無事に帰宅難民にならずに済んだ。非常事態用のジャケットを身に付けた所長は気さくに声をかけてくれた。

「やあ、これはこれは。。。先日はどうも。すごいことになってるんで心強いですよ」

「いやあ、ただの難民として収容してもらったんですよ。しばらく御厄介になります」

2フロアぶち抜きで作られたスクリーンを持つ、いつ見ても巨大なオペルームだったが猛烈に揺れたそうだ。
お洒落っぽい縦型の室内灯ががちゃんがちゃん揺れていつ落下してくるか分らず皆逃げ惑ったと聞く。
何がどうなっているのか、概要をつかむだけでも一晩は軽くかかりそうだ。職場と連絡を取りながらあれこれと手伝いをしていた。
上司にあたる経営トップから「本社にできた災害対策室に入るように」という指示があったそうだが、メールで

「やっとここまで歩いてきたんだい。そんなところ行けるか!」

ほぼ寝ずの一夜を明かし、朝のニュースを見ると全面ストップしていた首都圏の各線が少しずつ動き出した。
職場へ辿りつける路線運行再開のニュースから1時間待って、所長に御礼を言いダックくんと最寄りの駅に向かった。
しかし「運行再開に向けた安全確認」と言って1時間ほど待たされ、ようやくやってきた列車は隣の駅止まり・・・・(そりゃーないよ)

隣駅で乗り換えると、時速30km以下の徐行運転に加え、ひと駅ごとに「踏切の安全確認」とか言って15分ほど停車してしまう。職場に向かって半分ほど進むと「この列車は本日に限り当駅止まりです」という無情のアナウンス。。。
そんな悪戦苦闘を繰り返し(座っていただけだけど)何とか一旦マンションに帰着した。最も心配だったのは大事に飾っている「ウルトラホーク1号」がバラバラになってしまってることだったが、幸いにして「ヤマト」に多少の破損があるだけで無事。。。
冷蔵庫がかなり動いており、テレビは倒れ、掛け時計は床に落下、洗い終わった食器が包丁も含めフロアに散乱していたが全然問題なし。

部屋に来ているガスや電気、水道を点検し、手早く着替えて職場へ向かう。いつもならチャリなのだが、さすがにヘバッっていたので桜ポインター号を出動させた。
あれほどすごい地震は初めてだったが、息子がいち早く家族の無事(たぶん興味本位)を伝えてきたので余裕をもって流れてこれた。。。
長ーい1日だったが、これからさらに長ーーーーい1週間が始まったのである。(つづく)

さよならジャンボ

2011-03-11 08:16:02 | 出来事
先日、日航が先日のフライトで41年に及ぶジャンボ機の運行を終了する、というのをニュースで見て驚いた。
あのお馴染みの姿がもう見られなくなるのか・・・ずいぶん寂しくなるなー
私が初めて飛行機に乗ったのは結構遅く、ちょうど二十歳くらいに北海道旅行したときである。
あの離陸のときにぐぐーっ背中を押しつけられるのを初体験したのもボーイング747、その2年後に学部卒業旅行で友人と成田からオーストラリアに飛んだのも確かジャンボ機だった。
その後「お仕事」に遊びに、国内外とにかく747にはお世話になった。メジャーなところばかり訪れたからか・・・?
現役に就いて41年と言うから、私はボーイング747とともに育ったと言ってもよい。(ってそんなのばっか?!)
幼いときに持っていたブリキのおもちゃはボーイング727(セブントゥセブン)だった。水平尾翼が上部に付いている独特な美しい機体だった記憶がある。
ジャンボ機がデビューしたときは正直「あんまりカッコよくはないなー」と思ったものだ。すごく大きな機体のようだが、頭にコブがあって胴体も寸胴でおよそエレガントさを感じなかったのである。
パンナム機の超合金模型を持っていた。。。

いつしかあの広さに慣れ親しんでくると、たまに国内線とかでDC10とか777に乗るとものすごく狭く感じた。
真ん中に4列席がある旅客機なんてジャンボ機以外にはなかったもんな。エンジンが4基もあるのも747だけだろう。あれはひとつだけでも飛ぶことができるそうだ。
一度に大量の乗客を運べるようになって、航空運賃が下がり海外旅行者が多くなったというから偉大な立役者だな。

ハワイ便の元機長へのインタビューを見ていると、「当時は新婚旅行者がやたら多く、奥さんが途中で産気づいてしまって、『引き返すか、そのまま進むか、ミッドウェイへ緊急着陸か・・・』迷った」ことが少なからずあったと言う。
また日付変更線を越え2001年1月1日を迎えた際に「21世紀の挨拶」として流れた機長の機内アナウンスがカッコよかった。
最後のフライトは3152便(最後に)、歴代CAのコスチュームを使ってのファッションショーがあったそうだ。
最後に機長が客室に出てきて挨拶(操縦せんでいいのか?)、着陸後立ち並ぶCAたちの涙を見て、私も目頭が熱くなった。。。

初搭乗は遅かったが、さすがにこの歳になると経験したフライトは100回を超えると思う。息子甘辛が初めて乗ったのは沖縄便で1歳のとき、翌年にはグアム便で海外渡航を経験し、これまでにもう二桁回は乗っており、ほとんどがジャンボ機・・・
我々が海外好きというのもあるが、ずいぶん贅沢なものだ。。。これから彼も私と同様数えきれない回数、旅客機のお世話になるだろうがあの優雅な747に乗れなくなるのは気の毒なことだ。

今春U14のキャプテンに内定している彼は、「夏休みはサッカーに専念する」と宣言した。ちなみに春休みにどこかミニ旅行するか尋ねると、「飛行機で行く旅行がいい」と無邪気に答えたようだ。
まったく幼稚な発想だが、実は私も同感なのだ。ヘリには乗っても最近飛行機に乗ってないからな。
こんなことになると知っていたなら、最後にジャンボ機に乗っておくべきだった・・・
話は逸れるが、実は小さい頃からの夢のひとつに「コンコルドに乗る」というのがあったのだ。超音速旅客機・・・実にワクワクする響きだった。

初代ウルトラマンの飛行速度がマッハ3、ウルトラホーク1号の飛行速度がマッハ4、私がこよなく愛するウルトラセブンがマッハ7だったから、コンコルドの速度マッハ2.0というのは驚くには当たらなかったが、通常航空機の半分以下の時間で目的地に到着できる、と考えるとすごいことだ。
30年くらい前に東京サミットでフランス大統領(ジスカールデスタン?)が羽田にコンコルドでやってきたのが衝撃的だった。
日本の都市へは就航していなかったから、パリ-ニューヨーク便を狙っていたのだが、世界をまたにかけるビジネスマンというわけでもなし、実現せずに20数年がたち、コンコルド自体がなくなってしまった。。。
ロンドン帰りにヒースロー空港で見た1/2スケールのコンコルド模型を見て懐かしくも寂しく思ったものだ。
ケープタウンの「サンダーシティ」では戦闘機による超音速体験ができるそうだが、自衛隊の戦闘機に乗せてくれないかなー。
司令官に聞いてみようか、とも思ったが陸上自衛隊に超音速戦闘機はないだろ。。。

話を元に戻して・・・当たり前の話だが航空機というのは密室で、途中で自分だけ降りられないから、先の機長のように色んなエピソードがあるだろな。
私は飛行回数の割にはそのような逸話が少ない。。。よくドラマやアニメで見かけるCAが「お客様の中にお医者様はいらっしゃいませんか?」と言うシーンに出くわしたこともない。
皆さんはどんなフライトエピソードをお持ちですか・・・?

最後にジャンボ機へ   「大空の夢をありがとう。さようなら」

バラード

2011-03-09 10:18:44 | ホビー
「3月6日Eaglesが東京ドームで公演」というニュースを見た。「ホテル・カリフォルニア」が懐かしかった。
70年代後半から80年代にかけて洋楽にはバラードの名曲がたくさんあり、全盛だったアイドル同様、よく聴いていた。
「名曲」だと思っているものがいくつもあるが、さすがにテレビでも洋楽シリーズの懐かしモノを扱う番組がほとんどなく、「ようつべ」で見られるくらいだ。
深イイ曲だなーと思うのをざっと5つも挙げてみると・・・

●「愛と青春の旅立ち」(ジョ-・コッカー&ジェニファー・ウォーンズ)
小林克也の「ベストヒットUSA」で見た記憶がある。誰でも知っている名曲だと思う。リチャード・ギア主演の映画を見たことある人は共感してくれると思うのだが、の原題は「An Officer and a Gentleman」だ。どう考えても邦題のタイトルと合わないけど、考えたのは戸田奈津子さんだろか・・・?

●「Ever Since The World Began」(サバイバー)
サバイバーと言えば「ロッキー」で80年代に一世を風靡したものだ。先日、市民マラソンを一緒に走った「何事も形から入る」しんさんはAdidasが出している「ランニング時に気分を高揚させるCD」を使ったと聞いた。その中に「Eye Of The Tiger」があるらしい。この曲は高校同級の女子に洋楽バラード集を頼んだときに入っていたもので、ロッキーではないが今でも最高に気にいっている。

10数年前挙げた披露宴で、乾杯やケーキ入刀、再入場シーンなどところどころで自分の好きな曲をピアノで弾いてもらったり、会場にあるテープをかけてもらうことができた。登場時の「結婚行進曲」はともかくとしていくつかの名曲(どちらかというとありきたりだが)があった。私が選んだのは次の二つ、あまり「披露宴」という雰囲気を読まないで気に入った曲だけ選んでいた。

●「I Will Always Love You」(ホイットニー・ヒューストン)
●「We 're All Alone」(ボズ・スキャッグズ)

そして「退場」のシーンでどうしても流したくて、担当の人もすごい苦労して探してくれたのだが、残念ながら実現しなかったのが冒頭紹介したEaglesの「Desperado(ならず者)」である。
中高大と同門で今、母校の建築学科で助教授をしている麻雀の弱かったT本の推薦だった。
いつ聞いても心打たれる曲だ。。。今回の公演に入っていたのだろか。
改めて歌詞を見ると、披露宴では最も「空気を読まない」曲で、むしろ今語りかけるものがあるのだな。
結局、実際にかかったのは佐野元春の「SOME DAY」だった・・・

邦楽にも洋楽以上に「心を打ったバラード」がやまほどある。
ここで紹介すると(皆が知っている曲ばかりだし)キリがないので、昔よく聴いていたアーチストで「っと言いたいところだが、こっちが好きだった、というあまり知られてないマイナーソング」シリーズ。。。

岡村孝子   (「夢をあきらめないで」と言いたいところだが、「Believe」)
イルカ     (誰もが「なごり雪」と言うところだが「海岸通り」)
沢田聖子   (そもそも知っている人が少ないだろうが高校時代は大人気。「青春エピローグ」)
松任谷由美  (「卒業写真」が名曲中の名曲中だと思うが、敢えて「Destiny」ってこれバラードじゃない?!)
ZARD     (「負けないで」だと思うんだけど、なぜかトゥナイトのエンディングだった「眠れない夜を抱いて」が好きだった)

アリスと言えば「チャンピオン」だが、何と言っても、これまで自分の送別会の2次会にカラオケに行くと必ず歌っていたテーマソングが「遠くで汽笛を聞きながら」だ。最後のサビ「何も、いいことが、無かった『この街で』」という「この街」を●●と職場に言い変えて歌っていた。。。うーん、屈折だ・・・
逆に送りだす側になると歌うのが「ウルトラマンタロウ」だ。「タロウ」の部分を送りだす人の名前に言い変えて熱唱する。
誰でもお気に入りの名曲があるものだが、別に好きでなくても何故か覚えのある歌、というのもあるものだ。

先日、国道129号を海岸に向かっている途中で妻と入ったラーメン屋では(有線放送だろか)、懐かしのちょっとマイナーな曲ばかりずーっと流れていた。
山口百恵の「夏ひらく青春」、野口五郎の「甘い生活」、伊藤咲子の「木枯らしの二人」・・・
うーむ。ストライクゾーンから球一つ分外角に外れたボールのようだ。。。
そして、「じゃっじゃっじゃっじゃ・・・」と軍歌のような伴奏で重々しい曲が流れ始めた。どこかで聞いた曲なんだよなー。

「何だっけこれ?柔道一直線か・・・?!」私が首を傾げていると、しばらく考えていた妻が

「さらばハイセイコーだよ・・・」

増沢騎手か。。。ホントだー!「ありがとーう、とーもよー、さーらばー、ハイセイコー~」
我が妻ながら分かってしまうところがすごい。。。

大型輸送ヘリCh-47

2011-03-06 06:36:39 | 出来事
昨年の県総合防災訓練のときに選ばれし20人の住人を模擬被災地から搭乗させてきた自衛隊の大型輸送ヘリCh-47だが、またまたひょんなことから体験する機会を得た。
駐屯地の総合訓練に物資等提供者として少し協力することになり、輸送物資とともにCh-47に搭乗することになったのである。
積み下ろしやその後模擬被災地でのセッティング要員などを空輸するのだが、責任者として管理職をつけることになったのである。
訓練内容やらスケジュールを教えてくれにきた担当が搭乗するのは8名までだという。

「ふーん、で、オレの他7人は誰が乗るの?」私は無邪気に尋ねた。

「いっ、磯辺さん!お乗りになるおつもりなんで・・・?!」いかにも「止めたほうが・・・」という顔で驚かれた。

「なんで?当たり前だろ。こんなチャンス逃すのはアホだよ。写真撮っていいのかな」

私はもう空中散歩に出たような気分だった。むろん以前からそういうことがあるのは聞いていた。
恐ろしくうるさいし、猛烈な風により目にゴミがはいってしまうし、中は色々な突起物がむき出しで座るところも長椅子のようでとても快適なものではないと。。。
まあ乗客用じゃないから、そうなんだろな。しかし基地から出撃するだけでもすごいのに、そこから市内を飛行するなんて誘惑に耐えられるわけがない。

私も搭乗することになって、担当の人からいつもなら聞かない詳しいスケジュールなどを教えてもらった。
我々は物資を積み込んで駐屯地に駆け参じ、これをCh-47に積みこんで被災地へ飛行、これを積み下ろして必要な作業をする役割になっている。
実際はヘリ用飛行場から飛び立って、県周辺を巡りまた同じところに着陸して、下した荷物を敷地内の別会場へ運搬する。

その旅団は隣接3県を統括する各隊から編成されており、隣県からも我々と同じものを積み込んでCh-47がやってきた。
そして隣県からやってきて我々と同様に参加していた人たちは、偵察用ヘリに搭乗し上空から被災地を空撮する、という役割になっている。
どちらかというとそちらのほうが面白そうなのだが、一番近いのが我々なので重たい物資を輸送する役割になってしまうのだ。

自衛隊の朝は早く、7時にオフィスを出発した。先発隊は6時に出ており、後から向かったのは一緒にヘリに搭乗するスティーブとマッちゃんである。
スティーブは1回乗ったことがあるらしいが、実はあういうのは苦手らしく、駐屯地に向かう間じゅう車の中でこぼしていた。。。

「あの人たちね、後ろのドア閉めないで飛ぶんですよ!イスだってただのパイプイスだし・・・」

ゲートを通過するときには番兵の見事な敬礼を受け、集合場所に駐車した。そこで簡単な打合せを済ませ、いよいよ飛行ポートへ。
大型輸送ヘリCh-47は既に格納庫を開けて待機していた。さすがに威圧感あるなー。周り中を歩き回って写真を撮り続けた。飛行隊長はトップガンのようなヘルメットを付けた一尉であった。
今日は風も少ないし天気もよいので、比較的快適なフライトになると思われたが念のため安全教育を受けた。

      

「まず皆さんの想像を絶する風が吹きます。ホバリングしているときの最大風速は36メートル、半径50メートル以内の家屋は破壊してしまう危険もあります。被災地での着陸場所はアスファルトでないことが多いので、猛烈な埃が吹き上がりますので防塵ゴーグルをつけてください。また内部は騒音が大きく耳栓が必要です。また各種計器のケーブルや油圧パイプなどがむき出しになっていますので、バランスを崩して掴むようなことがないようにしてください。」

     

「ちょーっと時間がおしてるんで、飛行時間が短くなってしまうかもしれません。●●市と▽△市上空のどちらがいいですか?」

我がオフィスビルのある▽△とすかさず答えた。
訓練の総合責任者によると、ヘリの外部はいくらでも撮影OKだが、内部および飛行中の撮影はNGだそうだ。内部ったって、何もないんだけどなー。
物資を積み込んで、担架のような長椅子を下し、申しわけ程度のシートベルトを締めてしばらくすると、ローターが回り出して離陸場所までゆっくり進み始めた。ヘリなのに滑走路へ移動するんだ?
その間に隊員が内部の物を固定し終わり、親指を上に向けるとゆっくりと浮上し始めた。
確かにすごい音だが、まったく会話できないほどでもない。たしかに後ろの格納ドアは半ドアになていたが、上空まで行くと閉まった。

      

どんどん高度を上げるがそんなに揺れないし快適なフライトだ。おーっ、我々の乗るCh-47の影が地面に見えるぞ。
コックピットはすぐそこに見えるが、すぐ後ろのランプが赤から緑になったら、シートベルトを外して動き回っていいんだって。飛行機の「ベルトのサイン」と一緒だね。
隊長が機内放送で何か言ったが、全然聞こえなかった。横の隊員が緑のランプを指さし、シートベルトを外すしぐさをしている。
おーっ、上空から色んなものが見える。山を越し、川を越し、我がオフィスのシンボルが見えてきた。
私はすかさず携帯を取り出して「今、キミらの上空を飛んでるぞー」とかますつもりだったが、残念なから高度960メートルではつながらなかった。

    

新幹線がコウガイビルのように見えた。。。
わずか20分程度のフライトだったが、結局OKをもらって機内じゅうを撮影し、初の搭乗体験を終えたのだった。
着陸してから物資を下したから、ホバリング時よりもローターの回転は低いがものすごい風だった。
我々の乗ったCh-47の他、同種でタイヤがスキー板状になったもの、対戦車ヘリ「アパッチ」のようなヘリコプター、そして偵察用ヘリOH-6Dだ。

      

「偵察用ヘリいいなあ、県外まで飛ぶんだってさ。来年アレに乗せてくれねーかな」さらに無邪気につぶやくと明らかに高所恐怖症なのが露見したスティーブは

「あんなもの『アブ』ですよ。ラジコンと一緒で下が丸見えじゃないですか。恐ろしくて絶対ダメ・・・礒辺さん平気なんですか?」確かに偵察用だから操縦席他全部総ガラス張りだ。。。

「オレ、中途半端に高いところは全然ダメ。だからこの間のバケット車なんかアウト!でもあまりにも高すぎて感覚がないヤツならあきらめがつくからOKなんだ」

しばらくして偵察用ヘリは一気に飛び去って行った。
特設作業室に移動するとそこでは色々な人が作業を行っていた。何やら地図を指して説明する隊員、どこかと非常用通信回路で交信している隊員、撮影隊が送ってくる車載カメラの映像が次々とモニターに映し出される。
そのうちに隊員と同様の迷彩服とキャップを身に付けているが明らかに「相当偉い」人がやってきて、隊員が直立不動で説明していた。
その人との名刺交換を頼まれ、見てみるとその駐屯地の司令官、そして所属する旅団の副旅団長だった。
階級は一等陸佐、昔で言うと「大佐」というところか。。。

「今日はありがとうございます。自衛隊も先端技術ではだいぶ遅れちゃってましてねえ。民間の協力とか支援が必要なんですよ。また別途フライトプランを企画しますから足を運んでくださいね」なかなか気さくな人だ。

「じゃあ、次の訓練に参加させていただくときには、ぜひとも偵察ヘリに・・・」またまた無邪気にお願いしておいた。

成り行き上、部屋の中央で名刺交換し談笑していたものだから、隊員達が撮るカメラのフラッシュをあちこちから浴びることになった。何か首脳会談のような妙な雰囲気だった。
外でパラボラアンテナの操作を見ていたら、訓練の総指揮者がやってきて、「どうぞこちらへ。今、旅団長がきます」
いかにも「軍人」と見える大男がのしのし近づいてきた。カイゼル髭はなかったが、いかつい顔をしたその方こそ、この地方4県を統括する旅団長、階級は陸将補だった。
私は階級章を注意深く見ていたが、さっきの副旅団長(一佐)は小さい桜3つに二本線、旅団長は大きめの桜二つのシンプルなデザインだった。
肩からじゃらりと金紐をたらし、山のように勲章を付けているのかと思ったら結構地味だった。やはりデスラー総統とはだいぶ違う・・・?!

司令官とはまた「乗せて」もらう約束したもんね。「高すぎ」れば恐くはないんだ。広域の訓練とかだったら、私んちの上空とか飛行しないかな。偵察用ヘリなら上空から我が家の撮影のできる。
そのときは屋根に大きく「太郎」と描いておこう。。。

湘南藤沢市民マラソン

2011-03-04 22:45:54 | スポーツ・健康
昨年11月に単身先の県民マラソンに初参加して以来、「マラソン」という競技に少し興味を覚えていた。
ホントは1月23日の「湘南国際マラソン」に挑戦したかったのだが、退院直後の予定だったのでNG。なかなかうまく合わないものだなー、と思っていたらこのサイトにたまーに訪れてくれるお友達の「しんさん」から「エントリーしたよー」というコメントをもらった。
それが「湘南藤沢市民マラソン」であり、海風に吹かれながら地元を走ることになったのだ。
「日本中の若者が憧れる(とはあまり思えんが)道、とコメントされた国道134号を全面通行止めにして行う大胆なレースのようだ。

車のいないこの道のど真ん中を走るなんて、滅多にない機会だなー。(しんさんありがとう)
前日は家族で「無添くら寿司」で腹いっぱい食って(さすがにお酒は我慢した)エネルギーを充填しておいた。
朝早くしんさんが我が家に立ち寄り、二人でチャリに乗ってスタート地点である江ノ島県営駐車場に向かった。
ちょっと風があったが、天気はばっちりだ。東京マラソンと同日だったので、天気を心配していた人が多かった。(東京マラソンは雨ばっかりらしい。。。)

ヨットハーバーの奥からスタートし、弁天橋を渡って左折、新江ノ島水族館を通過して浜見山交番前交差点で折り返すコース。
湘南国際マラソンと違って、すんごい身近なコースだなー。我々は5.64マイルの部に参加する。
チャリで会場に向かっているとしんさんは派手めのおばさんに声をかけられていた。どうも彼女も出場するらしいぞ・・・
弁天橋に近づくとそれらしいスタイルをしたランナーが歩いていた。自転車を降りなければ通れないくらいの数だった。

   

着替えて荷物を預けたら準備運動だ。それにしても室内トレーニング用のシャツと短パンだったから「うーっ、寒いよー・・・」
我々は「1kmを6分」で走る集団のさらに後ろ「フリーゾーン」からのんびり出走した。
ゲストランナーはなんと先日県民マラソンで風のように走っていった「谷川真理」さん。。。スターターはチューブの前田亘輝さんだ。
6500人いたというから、すごい人だったが弁天橋あたりまでくるとそこそこジョギングくらいにはなった。かってこの橋にこれほど人が充満したことはないだろ。何せ車道だから・・・
先導車は湘南工科大学が開発したソーラーカー。この大会はエコをテーマにしているらしい。

     

前もそうだったが、走りだして10分くらいがどうにもキツい。。。新江ノ島水族館を過ぎたあたりでようやく呼吸が楽になってきた。
すぐ横をかぶり物のゴレンジャー部隊が走っている。マスクまでしているから相当苦しいはずなんだがなー。
ペンギンのぬいぐるみもいるぞ。結構コスプレまがいのランナーも多いんだな。江の島花火大会を見に行った引地川橋に妻が超兵器203号を構えて手を振っていた。江の島をバックに走る姿を写してくれようと陣取っていたらしい。。。
「鎌倉古道を世界遺産に」と鎌倉市長が鎧武者コスで走っていたそうだ。

   

浜見山交番交差点で折り返すと風の方向的には背中を押されることになりペースが速くなってしまった。203号撮影地点に戻る前にかなり息があがり、へろへろになってしまったが、カメラを前にしては余裕のポーズでにっこり笑って見せた。
なんか今回はペースが速かったのかやけにキツかった・・・しんさんの姿を左前におき一緒に走っているつもりだったのか、どういうわけか違う人についていたらしい。
「サンアロハ」を通過して弁天橋が見えてきた。あそこを曲がればゴールまで一気にスパートだぜいぜい言いながら残り少ない最後の力を出して走ったが、あれれっ?ランナー集団は右折せずに真っすぐ走ってるじゃないか・・・まだこの先走るんだっけ?

お馴染み「サイゼリヤ」の交差点まで大した距離ではなかったが、信じられないくらいに身体が重くなった。。。「ここで終わり」と思っていた苦行がさらに続くと知った精神的ダメージはでかい。
さらにようやく弁天橋に差し掛かったところ、猛烈な向かい風だ。うーっ足が上がらん・・・「心が折れる」とはこういうことなのか・・・?!
前回の10キロよりちょっとだけ距離が短いのに死にそうな顔して、ゴレンジャーも最後まで抜けずにゴール。いやあ、辛かった・・・
身体じゅうがバラバラになりそうになってよろよろとタイム測定チップを返却し、Tシャツを受け取って荷物預け場所に歩いて行くと、たまさんがお友達と立っていた。
「ゴール早かったんだねえ」と驚くとVサイン。。。。ずいぶん練習してたな。

      

チャリで帰宅途中も10マイルコースのランナーがまだまだR134号を走っていた。オレの前を走っていたペンギンたちは10マイル組だったのか。。。
スタートしたときよりも相当風が強くなってきた。最初からこうだったら完走できなかたかもしれん。
それにしてもいつも車の途切れることがないこの道路が完全通行止めになってランナーのみが走っているというのは不思議な光景だ。

     

帰宅して一休みし、合流するSちゃんパパたちを待って竜泉寺へ。Sちゃんパパは私と同様、遠く東北に単身赴任しているが、帰宅に際しマラソン打ち上げ会のために北海の幸を山のように差し入れてくれた。遠くて重いのにありがとうございました。
高濃度炭酸泉によって、がたがたになった身体もようやく少しは回復し、打ち上げ会場(我が家)に帰着した。
妻がつぶやきさん母子を駅まで迎えに行っている間にまずは完走の乾杯だ。うー、臓腑に沁みわたる。。。
つぶやき一家に伝授され、我が家でもよくやる「レタしゃぶ」をつつきだした。豚の薄ーいバラ肉(脂身が多いところがミソ)とレタス、しめじだけの超ドシンプルなしゃぶしゃぶだが実にうまい。

   

そのうちにお友達との完走会からはしごしてきた、たまさん、初めてU15公式戦で長時間出場でき、そこそこ活躍した(彼は自分に甘いから話は7割くらい)という試合帰りの息子甘辛と、外出先から直接駆け付けたSちゃんがそろってオールスターキャストだ。
北海の幸は舌もとろけるほど美味だった。ホタテというのは切り方によって歯応えと味が変わる、というのを初めて知った。
「田酒」という東北の銘酒のさらにレア物をあおりながら、ヒーリング(サイキック)の話で盛り上がり、気が付いたら男性軍は全員リビングで撃沈していた。
翌月曜日はいつもの通り4時半沖で赴任先まで直接出勤するんだが、珍しく忙しいのだ。
朝からいくつかの儀式を終えた後、社内で放映するVTRの収録、午後は長ったらしい会議の連続だ。
腫れぼったい顔で収録したくなかったが、このメンバーではしょうがないなー。   



みなさんお疲れ様でした。来年も湘南藤沢市民マラソン走りましょうね。

深イイ話

2011-03-01 16:44:15 | ヒーロー
「限定300名様。年会費6000円で入会するとワンコインでスポーツ施設で汗を流した後、併設する日帰り温泉でゆっくりリラックスできます」コースがお気に入りで、月~木の夕方暇さえあれば通っていたのだが、肝心のスポーツ施設が潰れてしまった・・・
隣の温泉施設の通常入館料は平日830円、土休日は980円とお高めなのでかなりのお得感があったんだけどなー。
私が行くのは夜7時くらいだが、広々したマシンエリアとスタジオを持ちながら、あまり人を見たことがなく、いつもポツネンとエアロバイクを漕いでいたのだ。
「こんなんでやっていけるのか?」と何度か思ったものだが、やはりそうなっちゃった。。。

幸いにして、半年ほど前に体験・見学に回ったスポーツクラブの一つが今入会金無料キャンペーンをやっており、ハガキを送ってきたのでさっそく電話してみた。
午後5時から8時半まで施設利用できる「アフター5」という、私のためのコースがHPに掲載されており、電話で申し込んだらあいにく定員がいっぱいになってしまったという。。。
交渉ベタな私も「通ってたクラブが潰れてしまってジプシーなんですよ・・・」
「そこを何とか!」攻撃で支配人と話をつけ、特別に追加会員を認めてもらったのだ。

結構リーズナブルな月会費だし、施設やプログラムそしてリラクゼーションアイテムも充実している。
プログラムは「あまりガンガン過激なヤツはないんですよ」と言われたが、試してみたかったアクアエアロもあるし、ヨーガもある。
今月から新しいスポーツライフを楽しもう。

ということで、しばらく単身マンションに帰っても何もやることがなかったから、普段あまり見ないテレビ番組を見た。
夕食時にはBGM代わりにつけてあるのだが、あまり面白いのがないのでよくは見ていない。
昨日は「人生が変わる1分間の深イイ話」というのを見た。紳助とバード羽鳥がやっているヤツだ。
そこで約30年間「サザエさん」で共演した波平さん役の声優が亡くなったカツオ君役の人に贈った弔辞が放送された。

「カツオ、親より先に逝くやつがあるか!」締めくくりは
「カツオ、桜が咲いたよ。散歩にいかんか?」

「うーん」にしたのは紳助だけだった。私も深イイかどうか、と聞かれると「?」なんだが、すごく衝撃的だった。。。
私は子供の頃からサザエさんとともに育った(と、言うアニメや特撮モノがやまほどある。)からだ。
そして何十年前のモノでも深イイ話は必ず鮮明に覚えているものだ。

●宇宙海賊キャプテンハーロック(アニメ版)
「地球の海が死滅した時人々は言った。『人類の終わりの時が来た』と。頭上に広がる無限の海に何故か目をつぶり、人類の行く末をひたすら嘆いた。人類の輝かしい未来を信じて新しい無限の海=宇宙へ乗り出していった僅かばかりの男たちのことを、この人々は指差し嘲笑った。『儚い夢を追う無法者』と。
これはそういう時代の物語である。時に西暦2977年。 」
(我が家にVTRがやってきて初めて収録したのがハーロックだった。その後の再々放送で全話収録して今でも見ることがある。これがハーロックのオープニングナレーションである)

●ドラえもん(コミック版)
「ボクだけの力でキミに勝たないと、ドラえもんが安心して帰れないんだ!」
(未来の時代に帰らなければならなくなったドラえもんのために、のび太がジャイアンに一人で挑戦するところ。この後、涙とともに一旦お別れするが、USO800というドラえもんが残して行った謎の液体を飲んで「ドラえもんは二度と帰らないんだから」と呟くとあっけなく帰ってきてしまう。
なぜならUSO800は言ったことの反対が実現する、という最終兵器だった)

●さよなら銀河鉄道999(劇場版)
「若者はね、負けることは考えないものよ。一度や二度しくじっても最後には勝つと信じてる。それが本当の若者よ」
(機会化人で充満する惑星に敢えて999号から降車し、調査しようとする鉄郎に「(生きて)帰れないわ」と声をかけるメタルメナに対しメーテルが放つ言葉)

●エースをねらえ!(コミック)
「この一球は絶対無二の一球なり」
(以前、このサイトでも紹介した?宗方コーチが選手生命を絶たれてから人生にも試合にも終わりはあることを知り、心底骨身にしみたという言葉。「エースをねらえ」はコミックでしか読んだことがないが名言の宝庫だなー)

●北斗の拳(コミック)
「我が生涯に一点の悔いなし!」
(北斗神拳の長兄ラオウがケンシロウと闘い、伝承者である弟の力を認めて天に還って行くときの言葉。キャラクターとしては南斗水鳥拳のレイが好きだったのだが、最も存在感があり言葉に重みがあったのがラオウだったなー。他に「退かぬ、媚びぬ、省みぬ!」なんてのもあった。。。)

●ブラックジャック(コミック)
「一生かかってもどんなことをしても払います!きっと払いますとも」「それを聞きたかった・・・」
(母親は幼い我が子が重病に罹り、法外な治療費に対し「一生かかっても・・・」と宣言して数十年支払続ける。最後の支払いが終わり、脳溢血で倒れた老母を見てブラックジャックは「90%生命の保証はないが、助かったら3000万円・・・」と成人した息子に聞く。そのときその息子は叫んだ。ブラックジャックもほぼ全巻持っていた。母の愛についてふれ、深い話が実に多かった)

インターネットサイトにはブラックジャックの名言ってやまほどあるんだなー。
何となくうろ覚えでいたが、父から息子への手紙は今でも好きだ。

「昭吾へ
人の生きかたにはいろいろある。
お前えも大きくなった。
自分の道をすすむのもいい。
だが小さいころ運同会で二人三きゃくで走ったろ。
あのときのことが おとうさんにはわすれられないのだよ。
昭吾、人生は一人じゃない。
二人三きゃくで走らねばならんこともある。 」

そして有名は名言。本間先生のひとことだった。

「どんな医学だって、生命の不思議さにはかなわん。
人間が生き物の生き死にを自由にしようなんて、 おこがましいとは思わんかね・・・」

やばやば・・・仕事中だった。こういうことを書いていると夢中になってしまうのが困ったことだ。。。