いい歳をしてきたので、持ち歩くものは「いい物」であるほうがよいとは思う。また私は色々ある中で選ぶのが煩わしいので原則ひとつしか持たない。
通勤で使うリュックサックなどはウルフェスに行く時も釣りに行くときも持って歩くし、その中には財布はもちろん、社員証や保険証、緊急連絡網や名刺入れ、IXYやら読書中の本、薬に絆創膏など目的によっては全く関係ないものまで全て入っている。
基本的に私は機能重視でしかも使い方は「過酷」である。となれば、せめて「いい物」を持てばよいと思うのだが、どうやら私には「ごとき病(仮称)」というのがあるようだ。
「●●ごときに何万円も使うのは合理的でない・・・」(●●には日常持ち歩く物が入る)
唯一の例外が父親のこだわりを引き継いでいる「時計はオメガ」である。
衣服やネクタイなどはさすがにいつも同じというわけにいかないが、ネクタイは「ウルトラシリーズ」で月から金まで1ラウンドできた。スーツも何種類か持っているが、新調するときには例の「店員恐怖症」が間違いなく発症するので、ボロボロになるまで着込んでいた。
ジャケットなど腕の内側の布が破れ、手が出てこないほどになって、「いい加減新しいのを作るように」妻にうるさく言われていた。自慢の「ウルトラシリーズ」も痛みがひどくなってきた。会社内でも結構な(どういう?)場に平気でウルトラネクタイをしていく私に対し不安(不満?)になったのか、いつからか海外旅行に行くたびやたらとブランドもののネクタイを勧められるようになる。
ヴィトン、フェラガモ、ブルガリなど普段見向きもしない一流ブランドのネクタイを海外旅行の時だけ「田舎者買い」した結果、今ではウルトラネクタイを凌駕するまでの数に至ってしまった。しかもその種類にいかにも「好み」とか「思想」の統一感がなく、恥ずかしながら「ただブランドものであればよい」という感じだ。
今回のソウルプチ旅行でも一流と言われるブランドの財布を購入した私だが、基本的に「ブランド志向」ではない。(最近何となく持っていると高級な気分になることは覚えたが。。。)ソウルでは結構色々買い物し、偽モノが平気で出回っているのを見て、改めて一流ブランドの「不思議」を感じたので色々考えてみた。
かのアイテム群を持ち歩く、身に着けるときの気分的な高級感、昂揚感とはいったいどこからやってくるんだろか・・・?大枚を叩いて「無理して」購入したので、心理的になってしまうのか?では銀座のホステスやプレゼントされたものには感じないのか?!
肌触りや「作り」を見て「良い物」だというのは何となくわかる。がそれに対しあの金額を払うのか?と問われると話は別である。
例えば超高級ブランド「ハーメス」などはどう見ても布切れでできているバッグが数十万もする。時給数十万円の世界的なスーパーデザイナーの作品で同じくスーパー職人の手作りで世界にひとつしかない製品なら何となくわからなくもないが。。。
あの手のものは値段があってないようなところもあるので、「機能」の代表選手である時計で考えてみる。私が唯一「こだわり」を持つオメガは1000ドル以上した。
それだけでも十分「ちょっと待てよ!?」と言いたくなるところだが、金持ちの象徴のように見える「ロレックス」は10000ドルとかの値札が付いている!「時を正確に刻む」という時計の本来の機能ではたぶんセシウム原子時計はもちろん電波時計にも敵わない。原子時計も今や普通に売っているらしい。(「標準時」を刻むスゴいヤツはストロンチウム光格子時計のはずだ。)
「時計」として機能するための材料に素晴らしく「良い物」を使っている(例えば秒針にプラチナ、フレームにチタン合金、文字盤の上には高純度結晶化ガラスなど)のかもしれない。
値段を付けるためのビジネス的要素を考え付く限り挙げると「贅沢な材料費」の他に、「立膝モノで(そんなのいたっけ?)懇切丁寧に製品を説明・梱包してくれる店員の法外な人件費」「手厚いアフターサービスに必要な運用管理費」「豪華絨毯敷き店舗のテナント料」「絶対的に信頼できる外部環境(温度、湿度)を誇る運送、さらに万が一に備えての保険」・・・・
しかしそれらをどう見積もっても一つ10000ドルなんていうバカげた値段にはならないはずだ。
以前読んだものの本で「ものの価値」というは3つの種類がある。ここでも紹介したと思うが「使用価値(タワシが鍋を洗う機能)」「交換価値(同じ機能でも需要と供給度合によって異なる価値)」「象徴価値」だ。
ブランドというのは間違いなく「象徴価値」にあたるはずなのは分かるが、「一体何なのか」どうにもわからない。。。
ロレックスの時計を持っていると「わー、すげー」と言われると同時に時計に対してはそのようなバカげた(ごめんなさい!)買い物ができる背景(金の成る木を持っている?パトロンがいる?そもそも怖い人?・・・)を推量され畏怖される。(どうもあまりいいイメージを持っていないらしいなー。ロレックスファンの方、再びごめんなさい)その「畏怖」のために100万円を超す代金を支払うかというと・・・?!
ソウルではワゴンの上で雨ざらしになったバスタオルの「ハーメス」が泣いていた。。。バッグやポーチも売っていた。
今の技術をもってすれば明らかに粗悪な偽モノではなく、きちんとした皮を使って耐久性にすぐれた「機能」としては遜色ない製品が作れるはずだ。
その値段が本物の1/5だったとしたら私達は購入するだろうか?(少なくとも見破れはしないとして)
全く「モノが同じ」でも私達は買わないような気がする。かのグッズを購入するにはそれなりの「カタチ」がいるからである。ふかふかの絨毯に落ち着いた感じの照明、小ざっぱりした身なり(海外の日本人にはビーサンもいるが)で店内を歩きまわり、黒服の店員が丁寧だが「どこか上から目線」で対応する、というシチュエーションがいる。ワゴンの上で値札がプラプラしてるモノではダメなのである。
ロッテ百貨店免税フロアのルイ・ヴィトンでは入場制限されていて入口で行列ができていたのにはドン引きした。。。と、同時に列に並んでいる人が中国人でなく日本人ばかりなので若干ホッとした。
最近元気がないがまだまだ日本は頑張れるような気もした。
「こちら葛飾区亀有公園前派出所」に「わが自慢同好会」なる話が出てくる。何でもよいから自分の持ち物を自慢する会である。
そこで大原部長は息子がスイス旅行したときにお土産で買ってきてくれたオメガの「シーマスター」(45万円)を自慢する。するとライバルが現れ「私もオメガですよ ダイヤ入りの「シーハンター」」「200万円ほどしました!」と、いやらしく自慢して勝ち誇った。
こういうときにどちらが偉い?か判定する会長がおり、彼の裁定ではシーハンターは銀座で購入した品だったため、「金額よりわざわざ現地で購入した根性が偉い!」と大原部長が勝利した。。。
このあたりに「ブランドの謎」のヒントがあるような気がするなー。。。
通勤で使うリュックサックなどはウルフェスに行く時も釣りに行くときも持って歩くし、その中には財布はもちろん、社員証や保険証、緊急連絡網や名刺入れ、IXYやら読書中の本、薬に絆創膏など目的によっては全く関係ないものまで全て入っている。
基本的に私は機能重視でしかも使い方は「過酷」である。となれば、せめて「いい物」を持てばよいと思うのだが、どうやら私には「ごとき病(仮称)」というのがあるようだ。
「●●ごときに何万円も使うのは合理的でない・・・」(●●には日常持ち歩く物が入る)
唯一の例外が父親のこだわりを引き継いでいる「時計はオメガ」である。
衣服やネクタイなどはさすがにいつも同じというわけにいかないが、ネクタイは「ウルトラシリーズ」で月から金まで1ラウンドできた。スーツも何種類か持っているが、新調するときには例の「店員恐怖症」が間違いなく発症するので、ボロボロになるまで着込んでいた。
ジャケットなど腕の内側の布が破れ、手が出てこないほどになって、「いい加減新しいのを作るように」妻にうるさく言われていた。自慢の「ウルトラシリーズ」も痛みがひどくなってきた。会社内でも結構な(どういう?)場に平気でウルトラネクタイをしていく私に対し不安(不満?)になったのか、いつからか海外旅行に行くたびやたらとブランドもののネクタイを勧められるようになる。
ヴィトン、フェラガモ、ブルガリなど普段見向きもしない一流ブランドのネクタイを海外旅行の時だけ「田舎者買い」した結果、今ではウルトラネクタイを凌駕するまでの数に至ってしまった。しかもその種類にいかにも「好み」とか「思想」の統一感がなく、恥ずかしながら「ただブランドものであればよい」という感じだ。
今回のソウルプチ旅行でも一流と言われるブランドの財布を購入した私だが、基本的に「ブランド志向」ではない。(最近何となく持っていると高級な気分になることは覚えたが。。。)ソウルでは結構色々買い物し、偽モノが平気で出回っているのを見て、改めて一流ブランドの「不思議」を感じたので色々考えてみた。
かのアイテム群を持ち歩く、身に着けるときの気分的な高級感、昂揚感とはいったいどこからやってくるんだろか・・・?大枚を叩いて「無理して」購入したので、心理的になってしまうのか?では銀座のホステスやプレゼントされたものには感じないのか?!
肌触りや「作り」を見て「良い物」だというのは何となくわかる。がそれに対しあの金額を払うのか?と問われると話は別である。
例えば超高級ブランド「ハーメス」などはどう見ても布切れでできているバッグが数十万もする。時給数十万円の世界的なスーパーデザイナーの作品で同じくスーパー職人の手作りで世界にひとつしかない製品なら何となくわからなくもないが。。。
あの手のものは値段があってないようなところもあるので、「機能」の代表選手である時計で考えてみる。私が唯一「こだわり」を持つオメガは1000ドル以上した。
それだけでも十分「ちょっと待てよ!?」と言いたくなるところだが、金持ちの象徴のように見える「ロレックス」は10000ドルとかの値札が付いている!「時を正確に刻む」という時計の本来の機能ではたぶんセシウム原子時計はもちろん電波時計にも敵わない。原子時計も今や普通に売っているらしい。(「標準時」を刻むスゴいヤツはストロンチウム光格子時計のはずだ。)
「時計」として機能するための材料に素晴らしく「良い物」を使っている(例えば秒針にプラチナ、フレームにチタン合金、文字盤の上には高純度結晶化ガラスなど)のかもしれない。
値段を付けるためのビジネス的要素を考え付く限り挙げると「贅沢な材料費」の他に、「立膝モノで(そんなのいたっけ?)懇切丁寧に製品を説明・梱包してくれる店員の法外な人件費」「手厚いアフターサービスに必要な運用管理費」「豪華絨毯敷き店舗のテナント料」「絶対的に信頼できる外部環境(温度、湿度)を誇る運送、さらに万が一に備えての保険」・・・・
しかしそれらをどう見積もっても一つ10000ドルなんていうバカげた値段にはならないはずだ。
以前読んだものの本で「ものの価値」というは3つの種類がある。ここでも紹介したと思うが「使用価値(タワシが鍋を洗う機能)」「交換価値(同じ機能でも需要と供給度合によって異なる価値)」「象徴価値」だ。
ブランドというのは間違いなく「象徴価値」にあたるはずなのは分かるが、「一体何なのか」どうにもわからない。。。
ロレックスの時計を持っていると「わー、すげー」と言われると同時に時計に対してはそのようなバカげた(ごめんなさい!)買い物ができる背景(金の成る木を持っている?パトロンがいる?そもそも怖い人?・・・)を推量され畏怖される。(どうもあまりいいイメージを持っていないらしいなー。ロレックスファンの方、再びごめんなさい)その「畏怖」のために100万円を超す代金を支払うかというと・・・?!
ソウルではワゴンの上で雨ざらしになったバスタオルの「ハーメス」が泣いていた。。。バッグやポーチも売っていた。
今の技術をもってすれば明らかに粗悪な偽モノではなく、きちんとした皮を使って耐久性にすぐれた「機能」としては遜色ない製品が作れるはずだ。
その値段が本物の1/5だったとしたら私達は購入するだろうか?(少なくとも見破れはしないとして)
全く「モノが同じ」でも私達は買わないような気がする。かのグッズを購入するにはそれなりの「カタチ」がいるからである。ふかふかの絨毯に落ち着いた感じの照明、小ざっぱりした身なり(海外の日本人にはビーサンもいるが)で店内を歩きまわり、黒服の店員が丁寧だが「どこか上から目線」で対応する、というシチュエーションがいる。ワゴンの上で値札がプラプラしてるモノではダメなのである。
ロッテ百貨店免税フロアのルイ・ヴィトンでは入場制限されていて入口で行列ができていたのにはドン引きした。。。と、同時に列に並んでいる人が中国人でなく日本人ばかりなので若干ホッとした。
最近元気がないがまだまだ日本は頑張れるような気もした。
「こちら葛飾区亀有公園前派出所」に「わが自慢同好会」なる話が出てくる。何でもよいから自分の持ち物を自慢する会である。
そこで大原部長は息子がスイス旅行したときにお土産で買ってきてくれたオメガの「シーマスター」(45万円)を自慢する。するとライバルが現れ「私もオメガですよ ダイヤ入りの「シーハンター」」「200万円ほどしました!」と、いやらしく自慢して勝ち誇った。
こういうときにどちらが偉い?か判定する会長がおり、彼の裁定ではシーハンターは銀座で購入した品だったため、「金額よりわざわざ現地で購入した根性が偉い!」と大原部長が勝利した。。。
このあたりに「ブランドの謎」のヒントがあるような気がするなー。。。