超兵器磯辺2号

幻の超兵器2号。。。
磯辺氏の文才を惜しむ声に応えてコンパクトに再登場。
ウルトラな日々がまたここに綴られる。

鎌倉花火の穴場

2013-07-31 21:47:42 | 出来事
新しい職場は東日本エリアで4か所ある拠点をくまなく歩き回るのが仕事のようだが週に一度、どの会社にもありがちな「集合会議」というのが本社で開催される。我が家からはイマイチ方角的に便利でない場所で、午前と午後に違う定例会議があるのだが、中途半端な時間に終了することが多い。自分のデスクまで戻るには移動時間がもったいないし、幸いデスクと同じことのできるオフィス環境があるので、まるでジプシーのように大体終業時間までそこで仕事をして帰る。ただ終業時刻にありがちな「ちょっといいですかぁ?」と引き留められることがないので助かることもある。先日は終業のチャイムと同時にダッシュで駅に向かい、最寄駅からこれ以上早いのには乗れない、という列車に飛び乗った。息子甘辛が合宿でいないので、何年ぶりだろうか「鎌倉花火大会」を見に行くためである。

この花火大会、昔は「水上(中?)花火大会」と言ったように思う。江の島や茅ケ崎のように普通の花火大会は海岸付近から打ち上げて上空で炸裂するのだが、鎌倉の花火は水中で炸裂し見事な半球を描くのである。これとは別に普通にスターマインや打ち上げ花火などがあるのだが、水中花火のつなぎ的な意味合いが強いような気がする。時間は1時間足らず、確か全部で2500発くらいだからそんなにすごい大会ではないのだが、どういうわけかここでしか見られない(少なくとも私は他を知らない)「水中花火」を海岸から間近で見るために毎年10万人以上の見物客が訪れるのである。浜辺でベストポジションを取るには早朝から出動しなければならないそうだ。まあ、平日なんだが早朝から場所取りして、そのまま海水浴してればよいから十分観光にはなるだろうが。。。

もう今年で65回を数える鎌倉花火大会だが、私が初めて見物したのは学生の時だったと思う。バブルに近い時だったので年々派手になる花火大会に怒涛の人混みにもめげずにひと夏で何か所も足を運んだ。横浜港、神奈川新聞、厚木鮎まつり、二子玉川園、東京湾など県内や都心まで範囲を広げた。むしろ江の島や茅ケ崎、平塚、大磯、逗子など地元の花火大会はしょぼく感じてあまり行かなくなった。いつだったか同じ日に相模湾の主要な花火大会が同時に開催されてしまい、東は江の島の向こうに小さな花火(たぶん逗子)、西は茅ケ崎の向こうに小さな小田原、更にその向こうに豆粒のような花火(たぶん真鶴)が見えたことがあった。歩いて見に行く地元はともかく私は夏も冬も開催される熱海海上花火大会が好きだった。これまた大きな規模ではないが、小さな湾内で炸裂する花火の音が海岸近く迫った山々に反響し、フィナーレは空が真っ白になるほどの迫力なのである。特に冬場の空気が澄んでいる時が素晴らしい。

また「つくば学園都市」の研究所に勤務していた学生時代の先輩に教わって訪れた「全国土浦花火競技大会」には度肝を抜かれた。国内にはこのような「競技大会」という催しがいくつかあるそうだが、この辺りでは土浦が一番すごいのではないかと思う。初めて聞いた時に(そんな田舎っぽい場所の花火なんて)と思った私はどんなモノなのか先輩に訪ねると「大きな花火大会のフィナーレは大きなスターマインだろ?あれが最初から最後まで続くようなものさ」
季節もちょっと変わっっていて、少し肌寒くなった10月の第一土曜日に開催され、プログラムで見ると時間はなんと2時間半!スターマインと10号玉、創作花火の部に分かれ、まさしく競技大会として花火師がしのぎを削るのである。確かに初めチョロチョロで回数を経ることにだんだんと規模が大きくなる普通のスターマインと違って、いきなり初っ端から鳥肌もののフルパワーマインである。何せ花火の燃えカスが風に乗って頭に降って来て火薬臭くなるほどだ。

さて鎌倉花火大会の話に戻るが、初めて訪れた時は仲良しグループで夕方待ち合わせ、横須賀選で鎌倉駅から会場に向かったが、開会の1時間前に着いたのにとんでもない人混みだった。実は全然甘かったのだ。駅から海岸までは長い行列、警官が車道に溢れないように制限しなければ道路を埋め尽くす数だろう。「いくらなんでもあの広い由比ヶ浜が埋め尽くされることはないだろう」と思っていたら、それどころか足の踏み場もない・・・何せ同じ場所に立っているだけでやっとなのである。初めて見る水中花火はそれは見事なものだと思ったが、慣れない私たちは想像を絶する振動に悩まされた。「ずどぅうぉーーーーんんん!!!」何せ水中の音速は空気の5倍近くある。上空で炸裂する10号玉の「どばんっ!」という乾いた振動とは異なり、地面から腹の中心まで全身に響き渡る、まるで身体を内部から破壊する北斗神拳のような攻撃に、たまたまお腹の調子がおもわしくなかった悪友の一人は水中に花が開くたびに腹を押さえてうずくまっていた。。。

1時間足らずで花火は終わってしまい、帰りは再び横須賀線に乗るまでは2時間近くかかった。来る時はどんどん降りるだけだが、帰りは電車が来なければ人が減らないから混み合うのはあたりまえだ。そんなこともあって、職場にいた地元の人が朝から場所を確保してくれる時まで我々はここを訪れることはなかった。そして10年後、初めての試みだったが我々は家からチャリで見に行くことにしたのである。意外なことに我が家には私用のサイクリング自転車がない。サーフボードを海まで運ぶためのクルーザー号はあるが、海岸での放置のため錆びに錆びて漕ぐだけでもえらく重く、とても何十分も走るのは無理な「大リーグボール養成自転車」になってしまっている。家族で近所のレストランに食事に行く時は私だけスケートボードである。(ただし酒を飲んだ後は危険なので、大概帰りは甘辛に代わってもらう)今回は甘辛がいないので2台調達できたのである。

何せ約30分のこのコースはこれまで昼間何度もサイクリングしている海岸通り一直線である。私が帰宅したのが開始45分前くらいのギリギリだったが、夕食のおにぎりとつまみ、ビールを搭載し我々は一路東へ向かった。江の島、腰越港を通過し、七里ガ浜のbills、稲村ケ崎を横目に由比ヶ浜と材木座海岸が見られる小さな湾のヘリまで自転車を走らせた。海岸が大きくカーブしていて消波ブロックが並んでいる公園。そう、親愛なる小夏師匠が以前いらしたという名門ホテルの少し手前である。ここからだとどの方角に打ち上げられどんな風に見えるのか分らなかったが、集まった人たちの眺める角度とその人数から中々の穴場であることは感じられた。駐車場はないし車は大渋滞、江ノ電の最寄駅からもとても歩いて来れるところではないので、チャリで来れる人に限定されるようなのだ。もともと1時間足らずだし、立ち見のつもりで海岸を前にちょっと飲み物の置ける手すりに寄りかかって「どこに上がるんだろうねえ」と材木座の方を眺めていたら、いきなりほぼ正面の逗子の方から「ドカーン!」と打ち上げ花火が鳴り響いた。「おーっ、知らなかったけど、ここって結構いい場所じゃんか!」

       

最初は打ち上げ花火と水中花火が交互に炸裂するような構成だったが、そのうちにリズムに乗るかのようにコラボレーションするようになった。水中花火も以前のようにもったいぶらずに気前よく連発してるようで見応えがあった。前は水中花火用の小舟が花火をポイポイ放り投げて行ったと思ったが、今回は同じところから炸裂しているように見えた。「仕掛け花火みたいになったのかな」と見ていたら大きな水中花火が連続して輝くと小さなシルエットが浮かび上がった。「やっぱ、小舟からまいてるようだよ」
浜辺から見ていると直線的に花火を放り落しているように見えたが、どうも円運動でまいているらしい。 ふと見ると車道では我々のすぐそばにいた車を先頭にはるか後ろまで渋滞(というか停滞)が連なっていた。「馬鹿野郎っ!」というクラクションが無かったところを見ると皆、花火を眺めているようだ・・・

        

周囲の人にはまことに申し訳ないのだが、私は花火や花見の場所取りが恐ろしく下手だ。絶好の場所だと思って縄張りをして待っていると障害物が邪魔で全然見えないところだったり、よーく見えるのにトイレの真横だったり・・・・肉屋のウィンドーショッピングが苦手なのも通じるモノがあるが、「ここ場所取ってあるんです」という一言が中々言えずに、弱体化した中国古代国家のようにいいように領土を削り取られてしまうのである。しかし今回はあまり気合を入れて場所取りしているグループもなく、手軽な穴場だと思われた。この角度と眺めから行くと、小夏師匠ゆかりのホテルからの眺めは素晴らしいものだろう。時間にして約1時間、水中花火とスターマインとのコラボを十分堪能して我々は再びチャリで帰路についた。花火などどうでもよい「恋人」などでなければ電車では行く気になれないイベントだが、ここは地の利が十分に生きることが分かった。あの凄まじい人の洪水の飲まれるのがいやであれば、江の島あたりで自転車をレンタルしサイクリング気分で見物に行くのがお勧めだ。帰りにちょっと足を延ばせば我が家で宴会もできるし・・・来年からちょっと企画してみるかなー。

          

合宿の合間プチ旅行

2013-07-29 22:42:42 | 旅行お出かけ
息子甘辛のサッカー部は一学期終業後、夏休みになるといきなり一週間の「夏合宿」に入る。学生サークルの「合宿」は大抵、避暑地で女子と一緒にテニスやゴルフをやったりお楽しみモード(サッカーも真面目にやったが、何せバブル期だったから・・・)だが、部活の合宿など「恐怖のイベント」だった。以前にも書いたような気がするが早朝から泥のように眠りこけるまで、サッカー以外の何を考えることもなく一週間過ごすのである。私の通った高校には学生食堂の上の階が「合宿所」となっており、よほど気の利いた時(全国大会に出るとか)でない限り、地方で合宿するなんてことはなかった。先週は野球部、今週はサッカー部、来週は山岳部というような感じである。冷房なんてものはなく、蚊取り線香の匂いが滲みついたような木製の2段ベッドでの寝泊りだったが、披露のため皆死んだように眠っていた。ちなみに3年生には大学受験のため明かりを点けて勉強している先輩がおり、「大変だなあ」と人ごとのように眺めていたものだ。

細かい時間は忘れたが、早朝に起床するとどういうわけか近所を散歩する。一分でも長く寝ていたいのだが、朝起きていきなり過激な運動すると怪我をするから、ウォームアップ代わりだったようだ。6時頃帰ってきて素早く着替え朝連へ。何せ校庭なのでグランドまでは2分である。大体、通常期の朝連のように紅白戦を行うことが多かったが、実は1年生はここがアピールポイントで2、3年メンバ全員の入り混じったゲームでいい働きを見せるとAチームに上がれることがある。朝連を終えて慌ただしく朝食を摂り、午前中は休憩をはさみながら3時間くらい練習を行う。朝食後1時間以上空くのだが、1年生はグランド整備やゴールの整備、ボールの空気入れなど準備があるので休む時間はあまりない。午前の練習が終わると、昼食を摂り少しだけ長い昼休みになる。何かできるとしたらこの時間なのだが、午後の練習に備え昼寝をしている選手が多い。

午後の練習は大体18時くらいまで、ナイター設備は一応あったが切り上げて夕食をとる。一休みすると1年は体育館で基礎体力トレーニングなどを行うのである。これまで何度も言及してきたように、この一連のサッカー漬けの1日の間(特に練習中)、水を飲んではいけないことになっている。合宿の便りには「バテるから練習中の水分摂り過ぎは禁物!」と書いてあった。実際にそんなことをしたら大変なことになってしまうが、当時が強かったのではなく水道などで顔を洗う際に「隠れて」飲んでいたのである。そして確かこれしかやってもらった記憶がないのだが、マネージャーの用意してくれた「レモンの輪切り蜂蜜漬け」が唯一の救いとなった。当時はその言葉が無かったが今思うと明らかに「熱中症」で危険な状態だった選手が後半は何人も部室のある棟の日陰で横たわっていた。夜連が終わると21時頃になるが先輩達は先に帰って来ていてくつろいでいるし、3年生は勉強している。我々は遅ればせながら、みんなで近所の銭湯に行く。その帰り、セブンイレブンに寄って以前話題になった「スラーピー」を口に入れる時が24時間中わずか数分しかない至福の時である。

合宿中は各パートの練習の最後に行うダッシュ本数が通常の倍のメニューになるほど厳しいが、もう一つ厄介なモノがある。「OBのお手伝い」である。今思えば、純粋に母校現役を思って色々と協力にやってきてくれたのだとう。しかし「手伝い」というよりは懐かしさゆえの「遊びに」そして中には「現役に喝を入れ」にくる人が多く、ありがた迷惑なこと極まりない。年に1回のOB総会もそうだが、我々の合宿を機会にサッカー部同窓会のように集まる輩もいて・・・顔を知っている人ならともかく1年生など卒業した先輩など誰も知らないので「(他にやることねえんかよ!)」と内心毒づいていたものだ。Aチームに呼ばれると2,3年生と一緒にグランドで練習するが、1年生(だけではないのだけれど)は大半がグランドの隅で基礎練習だからこの「俄かコーチ」が威張りくさることになるのだ。「(こんなやなヤツがよく、あんな名にし負う大学に行けたものだ)」とも思ったが、大学合否は人柄ではないからな・・・

さて甘辛の学校のサッカー部は新幹線でスキー場のある地方まで行って合宿を行う。「避暑地」で泣くほどしごかれるパターンらしい。以前のようなスパルタ式ではないらしいが、恐ろしく厳しい練習らしく、ここ数年で「合宿後、同年生が半分辞めた」という事象まで発生しているそうだ。精神的に折れそうになるのが(実はそれが鍛えどころなようだが)、「精一杯頑張ったのだが結果が出せず(例えば試合に負ける)、ペナルティで更に厳しいトレーニングを課せられる」のは昔も今も変わらないようだ。このサッカー部のトレーニングは以前から「走った距離や走っている時間の分るセンサー付きスパイク」を使用した独特な科学的方法を用いていたのが興味深かったが、なんと今回の合宿ではドイツの専任コーチがやってきて選手にGPSを取り付け一人ひとりのポジショニングと動きをモニタリングするという理系の私には垂涎ものの科学トレーニングを行ったそうだ。(どんな結果が出たのだろう・・・?)

以前のクラブチーム合宿はお盆休み前後でサマーカップ形式が多かったので、それに合わせて私も夏休みを取って見学に行ったり妻と旅行に行ったりしていたが、7月下旬となると中々夏季休暇というのは取りにくい。この7月に新しい職場に転勤したばかりで仕事の流れや忙しさ(実は大したことないのは分っているが)、要領などがわからないうちに2週間も席を空けるのは念のため避けたかったのである。そこで「最近背骨や腰が痛い」と言いだして「高齢化の影響で背骨や腰の軟骨が劣化して神経を触っている」と診断され母にも声をかけ、一泊二日で箱根の保養所に行くことにした。「出没!アド街ック天国」でも紹介された高級感あふれる宿泊施設を訪れるのは1年ちょっとぶりである。確か金環食の日にわざわざ空気のきれいな強羅まで行ったのに雨に降られた時だった・・・これからこういうスタイルが増えていくだろうが、息子甘辛抜きの3人で出掛けるのはこれが初めてである。

          

ホントは色々行きたいところがあったのだが、あまり歩き過ぎて母の腰が痛くなってはいけないから、ゆっくり目に出発し以前教えて頂いた大磯の「松濤庵」で昼食を摂って、一路箱根へ向かった。到着するなり少し熱くてうめながら入る温泉に入浴し、マッサージチェアに横たわりながらちびちびとビールを飲んでいた。この施設夕食としてかなり高級っぽいコース料理を出す。明かりの関係で今回は妻が初めてカメラを構えた。さすが料理自体に興味があるのか、私が撮るよりもだいぶ接近して撮影しているようだ。メニューがあったから今回は写真と名前だけ掲載することにしよう。最初の蛸は明らかにスプーンにピントがあっちゃったな。

蛸のグリエと冬瓜のブイヨンスープあおさ海苔仕立て
前菜盛合せ(イタリア産タレッジオ、神奈川産新れんこん赤ワインビネガー香り、78℃で2時間低温真空調理のコールドポーク、(読めない字の)草とゴルゴンゾーラチーズのソース、ずわい蟹のテリーヌ、鱧の湯引きベーコン入り梅肉ドレッシング)
箱根西麓野菜のバーニャカウダ
相模湾産金目鯛のソテーバルサミコ酢ソースサラダ仕立て
黒毛和牛ロース肉のグリエフォアグラ乗せハーブ塩を友に
ローズマリー入りフォッカッチャ
ブルーベリーとクリームチーズのケーキ 岡山産清水白桃ゼリー マンゴープリンと青リンゴのシャーベット
エスプレッソ又はローズヒップティー
細かくレポートするセンスがないのでかいつまんで言うと、どれも美味かった。(かいつまみ過ぎだろ!!!)

              

皿に盛り付けされた料理はまるで絵画のように美しかったが、上の書いたメニューを見るととりあえず使ってる食材全部とその調理法まで何となくわかるような表現になっている。年寄りの癖なのか、普段若い我々と一緒に食事をしてもついつい少しだけ食べて後は任せる母もこうしたスタイルだと何となく全部食べてしまうものだ。母は食事が終えて一休みするとまた風呂へ行った。朝方我々が寝ている間に忍び足で朝風呂に入った後、洋食スタイルの朝食を摂った後にチェックアウトまでにとどめの入浴・・・実に一晩で4回湯治したことになる。宿を出ると一か所だけ、パワースポットとして有名な箱根神社に足を運んだ。母は何百段もありそうな石段は今、上れないから「下で待っている」と言っていたが、妻が社務所に話すと関係者用の専用道路で本堂の真横まで車で入ることができた。実は大雄山の道了尊も長い石段があるが、足腰の弱い年寄りのために隠れたところに小さな箱のようなケーブルカーがあるのだ。高齢化社会だからエレベーターなど電化しにくい神社仏閣でも話して見るとそういうところはあるものだ。

          

昼食には「話のタネ」に以前、テレビで紹介されていた「田村銀かつ亭」の豆腐カツ煮定食を食べてみることにした。箱根強羅温泉の銀豆腐を使って柔らかくカツの代わりに挽肉を使用している。上品でヘルシーな味は女性や年寄りに人気なのはわかるが、ゲテモノ系カツ丼大好きの私には少し物足りないかなー。箱根富士屋ホテルのパン屋で食パンなどを購入し、私は会社に向かうため平塚駅から東海道線に乗ったのである。気分のせいだと思うが、前の週は立って歩くのも辛かったという母も温泉効果でだいぶ楽になったようだ。時代の流れなのか保養所の統廃合が進みこの地方ではここだけになってしまった。だいぶ趣向を凝らしていて高級感溢れる施設になっているから、また季節の変わり目あたりに訪れることにしよう。

      

送別の週

2013-07-15 09:52:07 | 職場
異動が「噂」から「正式」なものとなると、あちこちで送別会を企画してくれた。10年後にはぜひ私の席に座ってほしい我が社では希少な女性敏腕マネージャーのベッティが代表なのかやって来て、
「記念品を差し上げようということになったんですが、『バッグ』と伺ったので今日の送別会の前に買いに行きませんか?」
「ええーっ?きっ、今日?いいよいいよ。皆さんの気持ちだけで何でもありがたく頂戴しますよ・・・・」
「でも、せっかくお使いになってもらうなら、気に入ったもののほうが・・・5時になったら声をかけますのでね。。。」
うーむ。。。普段は割と控えめなものの最近イマイチ「行動が予測できない」と感じていた彼女だが、驚きの強引さで連行されることになった。

確かにトミーに「記念品には何がいいか?」と問われて最近傷みの激しくなったバッグと答えた。しかし機能と頑丈さにうるさい私はこれまでも妻と何度か見に行って購入は至っていないほど難しいのだ。困ったなー。ただでさえ店員恐怖症の私が、あろうことかベッティと一緒に自分の買い物とは。。。1分でも早くそのシチュエーションから脱出したいのだが、適当に決めてしまっては彼らの気持ちを「無」にすることになる。しかも送別会は6時からの予定なので終業後ただちに「バラの包の百貨店」に向かったとしてもあれこれ選ぶ時間はほとんどないぞ・・・(ところで今日の会費払えるだけ財布にあったかなー)私はバッグから密かに財布を取り出そうとして電撃のように閃いた。(この財布もボロボロじゃないか。どちらかというとこっちの方が「記念」に頂くには相応しいし、「びしーっ」と選べるような気がする・・・・)1階の「革製品売り場」を通過するときに
「あのーぅ、ベッティさん、実は財布もずいぶん傷みがひどくて・・・こっちも見ていいかねえ。バッグは正直選び出すのが難しいかも・・・」恐る恐る聞くと、彼女はにっこり笑って「おーっ、そうですか。見ましょう見ましょう。この辺がたくさん種類ありますよ」

二人であれこれ手に持ってウォレットを見ていると、にこやかに店員が接近してきた。(わーっ、やっぱ寄ってきちゃったー)傍から見ると年齢差1●歳以上あるカップルである。まさか不倫とかに見られたりはしてないだろーな。「何かお探し物ですか?」という店員に対しベッティは全く動じずに「上司が栄転されるのでプレゼントをですね・・・」「さようでございますか」(だから隣に当人がいるってのに、この人気付いてないな)
似たようなデザインの中で(やっぱこりゃー、難航するかなー)と密かに焦りを感じていたが、ベッティも一緒に探していくつかよさそうなのが見つけた。「これ、候補にしとこう」「では、こっちも候補にしておきましょうね」そうこうしていくうちに、奇跡的にも「これだっ!」と閃く品があった。手触りがよくて柔らかく、カードホルダーが取り外せて小銭入れ部分が機能的で出し入れしやすい。
「あーっ、これいいじゃないですか。使いやすそうだし、手触りいいですよ。」「うん、これいいな。最有力候補だなー」とつぶやきながら、ほぼ瞬時に心の中では決めていた。

(これなら満足行くし、送別会場にも間に合うし中々ツイてるなー)と思っていたらベッティは「じゃあ、これは置いといて4Fかばん売り場にも行ってみましょう」「そ、そうだねえ、一応最初に言ったことだもんな」(えーっ、かばんも見るの?) 「自分で言うのもなんだけど、オレのかばんは難しいんだぜ。とにかく酷使するからチャックが丈夫じゃなきゃいけないし、財布や携帯、鍵などの入れる場所が全部固定的に決めるので、いい感じに収納場所がなきゃいけないしなー」ぶつぶつ言っていたが、最近はリュックサック型のかばんはスポーツ売り場や旅行かばん売り場などに分散していまっていて、ビジネスバッグ売り場には検討対象となるような品物がたまたまほとんど無かった。「やっぱさっきの財布がいいかなー。。。」「そうですねー。そうしましょう!」ベッティは元気よく1Fの売り場に戻って店員を呼び「色はやっぱり黒ですねー」とか言ってどんどん決めていく。「リボンは赤でいいですねー」(中身からラッピングまでぜーんぶ知ってるってのもなんだよな)
有志で真っ先に開いてくれた最初の送別会半ばで、これまでの挨拶とともにベッティが恭しくプレゼントを贈呈してくれた。(さっきまで二人で見てたヤツなんだけどね)笑いながら箱を開けると輝く財布が・・・(やっぱ、これにしてホントに良かった~)

      

幹部の送別会やら関連会社の送別会など色々経て、掛け持ちする二つのセクションをあげての大送別会が開催された。むろん私だけではないが、今回はかなりダイナミックな異動で「レッツゴー3匹」(そもそも知ってる人少ない?!)を自称する悪ノリ3人組(私とグッチー、KYOちゃん)がそろってAKB風に言うと卒業してしまうのである。予想はしていたが、転勤にあたっての仕事上の挨拶回り、送別会などの最後となるスピーチで私が心がけたのは「一つとして同じことを繰り返し話さない」ことである。何せ結構な人数がダブっており、その人達は私達のために安くない会費を払って参加してくれるのである。同じネタの使いまわしでは失礼だし、「アイツまた同じこと言ってやがる」と思われるのも愉快でない。私は3年間の記憶をフルパワーで引っ張りだし、あらん限りのネタを駆使して挨拶しまくった。この3週間ほどOJTで勉強しに来ている事務系新人の「なっちゃん」を連れ、トミーと8か所連続で挨拶回りし、一度として同じことは言わなかった。3年もいればどこの職場にもそれなりの思い出やら話題があるもので、あまり考えなくても結構いけるものである。帰りに日本3大焼きそばの一つでさらに名物と言われる「まっ黒け」の焼きそば大盛を「最後のゲテモノ」としてチャレンジした。(ここのところ送別会続きで胃が疲れていたからものすごく手強かった・・・)
 
  

さていよいよ大送別会では、先に渾身の力で製作した例の集大成VTRが放映され、いよいよ私がトリとして最後の挨拶である。
「みなさん、こんばんは。というのもこれで最後になるわけですが、今までホントにお世話になりました。色んなところで思い付くままにご挨拶してきましたが、ここで何を話そうかだけは前から考えてたんです。私のとってのこの地を何に例えようかとね。DVDにもあったようにここは自然が豊かですから「流れる川」とか「雄大な山」とか・・・また住む人の温かみを思えば「家」とか、しかし中々ぴったりするものが見つからなかったんですが、あえて言うなら出した答えはちょっと月並みですけど「学校」です。この土地が学校、私が生徒で皆さんが教師側かなー。生徒は3年もすれば色々学んで卒業し、次の生徒がやってくる。教師はまた次の生徒に色々なことを教えるという悠久の流れの中で学校は静かにこれらを包む。実は先程流れたAKB48「Give Me Five」は英語では「ハイタッチしよう」という意味なんですが、生徒として「5をください」という意味をかけてあるんですね。でも、今改めて見ているとあんまり仕事してませんねえ、せいぜい3.4ってところでしょうか。。。そして生徒というのは在校しているうちはあまり母校に親しみを感じないものです。卒業してからしんみり懐かしむところも何か共通なスタイルがあります。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そして皆さんには最後のお願いになるかなー。これまで私が発動してきたルールや方針、示してきたものの考え方や行動、仕事のスタイルなど、少なからず色々と影響があったと思いますが、これらが有効なのは私がこの地にいる時限りです。この先はどうか一旦リセットして『無かったもの』としてほしいと思います。全部は無理かもしれませんけど。別に変ない意味や特別な思いがあってこうお願いしてるんじゃありませんよ。前にいた人の影響があんまり強く残ると次の人がものすごくやりにくいんです。後任は私から見ても立派な間違いのない人物ですから、どうか彼を中心に新しいこの地を築いて下さい。3年前、この地に着任した日から三日三晩、雷が鳴り響きましたねー。昨年は少なかったが、今年は『来る』と思うんですよねえ。皆さんの健闘を台場から祈っています。最後の最後までまとまりのない与太話になってしまいましたが、これまで私のメッセージに耳を傾け続けてくれてありがとうございます。皆さんのご多幸とこの地の発展を心からお祈り申し上げます」

我が社は男ばかり(それもベテラン揃い)の職場なのに、「大送別会では皆両手で出口までの長いアーチを作って送別者を送る」というお茶目な習慣がある。私は抱えきれないほどの記念品と花束を持って両手で「ハイタッチ」しながら進んだが、意外なものを目にした。KYOちゃんの号泣である。彼とは研究所勤務のときから通算すると7年の付き合いになるが、少年のような朴なところはあるが「会社の上役が出る自分の送別会など出ない」ような若者だった。私が呼び込んだようなものだが、この地で勤務したのは2年間・・・「歳とって涙脆くなっちゃって。。。」と言いながらハンカチで顔を抑える彼を見て実に「いい男だなー」と思った。KYOちゃんがこんなに涙もろいのも、グッチーが実は「モノマネ大得意」の芸達者(持ちネタはミスター、KYOちゃん、いっけい、ジュンちゃん、そしてオレ?!)であることも、ベッティがいつもは「ほわーっ」としてるようで、時に人の言を聞かずに暴走すること、最後になってこれまで知らなかったことがたくさん出てくるから不思議なものだ。こういう時「何か一言」というのが実に多い職場で終業のチャイムが鳴る前に卒業生は並び最後に挨拶した。私はトップバッターで挨拶回りしていた時に「なっちゃん」から車内で聞いたエピソードを元に「社外から我々がどう見えるか考えて参考にすることと言い残し、」一緒に着任した時「この地を第二の故郷としたい」と自己紹介したグッチーも声を詰まらせ、それを聞いていたKYOちゃんは自分の出番の前に大泣き始めた。それが連鎖して後の人も何かぐっと詰まるものがあった。

ベッティは最終日にメタボ健診でお世話になったナエさんと昼食会、そして最後の最後に終業後我が部門のチーフを集めてお別れ会を開いてくれた。(もう大活躍である)本社系の職場が多かった彼女は感激したように(別に本社が冷たいという訳じゃないけど)「送別の挨拶であんなに皆が感極まる職場を初めてみました・・・・」オレはそういうことが無かったけど確かにそうだなー。「ものすごく大きな経験になる」という予言もその通りだったと思う。この地では自然、食、人と直接触れ合うことが多かったからではないか。ぶっちゃけこの職場で仕事をすることも新幹線通勤することもあるまい。大きな経験だったが、これもやはり私にとっては「学校」に例えられる通過点である。転勤先は仕事内容もスタッフの構成、人数、そしてデスクからの眺めも何もかも全く違うところである。入社して10回以上も異動してきたが、今だに前職とは何の脈絡もない転勤が多いはため息ものだが、展開が読めない分楽しみもあろう。もうそんなにこの会社人である生活は長くないから、次の職場も願わくば「大きな経験」になって欲しいものである。

  

北関東の集大成

2013-07-13 10:16:14 | 職場
3週間以上、更新を滞らせてしまった。3年前初めての北関東勤務に単身赴くことになったとき、スピリチュアルヒーリングの先生(刻々と変わるがある程度未来が見通せるらしい)が「ものすごく大きな経験になる。あの人は変わる」と予見したそうだ。変われたかどうかは分らぬが私にとっては、これまでのどの職場よりもエキサイティングで色々な経験をした「忘れられない場所」になるだろう。今まで、私のデスクの正面と言えば応接室の白い壁で、「新しい年度のキックオフに」と皆で変身ポーズをとった写真が貼ってあるだけの「窓際族」だったのが、お台場のとある巨大なビルの高層階となり、レインボーブリッジと東京タワーが一直線に見える景観のオフィスに転勤となったのである。着任早々、半個室のデスクからの眺めに思わず「窓の外を背景にオレの写真撮ってくんね?」と言いたかったが、肉屋のウインドーショッピングのできないい気弱な私は忙しそうにしているスタッフに言いだすことができず、景色を撮るだけにとどまった。。。

異動の話が概ね明らかになった時、最初に手掛けたのは「業務引継ぎ」の準備や当面のやりかけ仕事の決着、又は課題事項の整理と指示・・・なんてことのあろうはずはない。これまであの地で「林家ぺー」さんのように何かにつけて撮りまくった写真の整理である。毎年ルーキーズ達のうち一人は別の会社から研修に来ており、半年同期と同じ職場を経験した後に本来の別会社へ配属される。他のルーキーズ達はその一人の送別会にわずか半年だが皆ですごしたその地の思い出をDVDにして放映するのを見た。皆jからのメッセージ入りの映像が素晴らしく感動的で、自分がこの地を去る時は(誰が作成してくれる訳でもなかろうし、頼むのも変だから)自分で作成して置いて行こうと決めていた。この手のタイトル制作などむろん手掛けたことはないが、材料だけは十分と言えるほどストックしてある。この思惑があったため、異動が明らかになる1カ月くらい前からは「思い出」作りのようになったのである。息子甘辛のサッカー卒団の時に妻が写真集(DVD)を作っていたようだから教われば何とかなるだろう。

あんまり凝った構成にできるはずもないので、いくつかジャンルを決めてコメントを加えながら流していくようにした。まずはこの地の「自然」。。。職務柄、外出することが多かった私は管轄する施設のある限り、県境に至るまでそれこそ県内の隅々まで走り尽くした。そのついでに山々の景色や豊かな水に触れる機会が多く、どこかに赴くたびにその足跡に写真を撮っておいたのだ。何と言ってもこのジャンルは引退していった八兵衛とスティーブの存在が大きい。八兵衛はトランプができるほど(というのは大げさか?!)温泉施設のスタンプカードを持ち歩いており、遠出して帰りが勤務時間外になったり、昼休みに現場のすぐそばによい温泉があったりすると専用車に備え付けたタオルと石鹸を持って無数ともいえる温泉を巡った。このお出かけ癖はミスターにも引き継がれ、私の異動直前などまるで思い出作りの「温泉目当てのお出かけ?」とも言えそうな外出もあった。またスティーブとは例の「滝めぐり」によってだいぶ県内の色々な名滝に足を運んだものである。改めて集めた写真を整理していくとホントに水の豊かな国なんだと感じる。

            

次は「食」についてである。 「挑戦的」とも言えるボリューム、原色感まるだしの濃い味、単品では気が済まない気質・・・ひとことで言って「ゲテモノ」である。丼から大きくはみ出た圧巻のトンカツや天ぷらに、何かにつけてミニうどんやら半ラーメンなどがついてくる。それがどうみても「ミニ」や「半」ではないくて「全」に近いパワフルさなのである。各方面のスタッフが県内のありとあらゆる「ゲテモノ」を食わせに私を連れ回してくれた。タルタルソースカツ丼にサンラートマトラーメン、メタボ丼に満腹ジャンボギョーザ・・・なるべく写真に収めていたが、その数は80品にも届く勢いだった。中には「どこの店の何なのか?」さっぱり分らない謎のメニューもあった。トータルで推定10万キロカロリー・・・昼飯だけで体重換算14kg以上である。これじゃー、どんなに運動しても痩せないわけだ。。。この3年間で明らかに大食濃い味好みになってしまった。鎌倉あたりの洒落たイタリアンで「青のりパスタ」など口にしても「味がねえぞ・・・」と感じてしまうのである。この編ではこれを48品に厳選して「GTM(ゲテモノ)48」とタイトルを打った。

          

スライドショーを流すバックの楽曲はAKB48の「Give Me Five」と決めていた。単身マンション住まいだった頃、一人通ったスポーツジムに「Jポップダンス」というプログラムがあり、そこで踊った時に何かこの曲の響きや詩がすごく気に入ったのだった。「しんみりメソメソせずに爽やかにハイタッチして分れる」という「卒業」をテーマにした「Give Me Five」に乗ってこの職場を去るとあらかじめ予定していたのだった。「自然」で一番、「食」で二番・・・かなり速く流しても結構時間を費やしてしまう。。。このままでは明らかに「遊んでばかりいた」ように見えてしまうから、申し訳程度に「仕事もしたのよ」とこの方面の数少ない記録を編集した。
「ボクの仕事は『変えること』・・・(試しにやってみる。ついでにやってみる。せっかくだからやってみる。・・・・・)」
仕事中に写真を撮ってもらうなんてことはそもそもほとんどないのだが、「思い出作り」用に撮ったモノがここでは役に立った。自衛隊ヘリで親愛なるKICK師匠の故郷上空を偵察、元首相との記念撮影、災害支援出動、非常対策指揮支援車両・・・色々やったが、やはり最後は神頼みである。有名なパワースポットにも足を運んだものだ。間奏の間だけ「ぱぱぱーっ」と流し、最後は皆と共にはしゃいだ祭り、忘年会、セレモニー、そしてレクリエーションの数々を「これでもか」という怒涛の連続写真でぶちかまし、もはやあまり憶えている人は少ないであろう、これまでの名(迷)言をテロップで流してエンディングはむろんサーフボードを抱えて海へ帰る後ろ姿・・・・編集していて思ったが、奇蹟とも言えるほど仲間に恵まれていることがわかる。

    

Windows LiveムービーメーカーというPCについていたソフトを妻が教えてくれ、乱暴に画像ファイルを並べてキャプションをつけて試作品を作って、最初から通しで眺めてみたら、こっこれは・・・?!結構いいじゃないか。。。ジーンときたぞ。送別会で自分の制作した画像を見て涙するのもあまり格好よくないなー。このソフトウェアは楽曲の流れに合わせてスライドショーの動きを色々加工したり、視覚効果を出したり多種多様な演出機能を持っているのだが、それだけ微妙な調整が必要で、「ここをもっと合わせよう」とか「ここは少し長く映し出そう」、「このキャプションはこの位置で」などと自己満足欲がでてきたり、気になりだすときりがない・・・結局10回以上も通しで見ているうちに、頭にこびり付いて離れなくなってしまい、しまいには夢にまで回想シーンが現れる始末だった。。。そして最初に放映しようかと思っていた「やる気DAS教室」の前々日・・・1枚の写真を途中に挿入したら、一応BGMとあっていたスライド構成とキャプションが全部狂ってしまった・・・!私は半泣きしながら妻に「これ、うまく合わせておいてくれない?」と頼んでおいたのだ。妻はそんな私を哀れに思ったのか、私の作った一番できのよい作品よりも高レベルのものを完成させてくれた。まったくもって「感謝」である。

「やる気DAS懇親会」で流れたこの「自信作」はかなりな反響で大きな拍手が鳴り響いた。せっかく妻が苦労して完成させてくれたのだから、少し悪乗りしてDVDをたくさん複製し、異動の挨拶の時にこの映像を見る機会がないかもしれない人々に配って歩いたものだ。実はルーキーズ達が私のために用意してくれていた画像もあって、色んな人からのメッセージが入っており、これには感動した。私は自分の趣味や好みだけで行動することが多いのだが、意外にも「人の意見を取り入れる」と捉えられていたのがちょっと苦笑いものだったが。
こうして私の北関東3年間の集大成は出来上がっていったのである。