超兵器磯辺2号

幻の超兵器2号。。。
磯辺氏の文才を惜しむ声に応えてコンパクトに再登場。
ウルトラな日々がまたここに綴られる。

囲まれる会に臨む

2017-06-29 20:20:46 | 職場
2X回目の結婚記念日にまさかのサプライズ発言から、前回書いたように息子甘辛はあと1ヶ月ほどで旅立つべく準備を進めている。一方時をほぼ同じくして私は一般とは少しく異なるがいわゆる一定時期に達した「退職」の時がやってきた。元々職域のものすごく広い会社で十数回あった異動の中で何回もほとんど「転職」に近いリセットスタートがあったからそれほどのビッグイベント感はないが、やはり「会社を去る」ことには違いない。ちょうど甘辛の留学について結論に至った時くらいに、今月末をもって退転職することが内々で知ることとなった。私はかなり鈍い方なのだが、この手の話にやたら耳が早いヤツがいて、早速これまで職場を共にした元同僚らにニュースが駆け抜けたらしい。ある日小番頭のコウちゃんが「ちょっと見てほしいと言われてるんですけど・・・」と小部屋に誘われた。見ると大型スクリーンに何やら新聞のようなものが写っている。「日本うるとら新聞 号外」と書かれた「磯辺氏引退か?!」

  

「なんだこりゃ?いつの間にこんなの作ったんだい?」2ページにぎっしり私が入社してからのラフな歴史が本人も思いつかないような面白い表現で綴られている。作成したのは研究所、グンマ時代と付き合いの長かったKYOちゃんだそうだ。号外用の写真などむろん提供していないから、某SNSや昔のスナップなどを組み合わせたようだった。「おー、懐かしい。我が社の採用HPを華々しく飾ったショットじゃないか」もうお蔵入りしていてもれないだろうと思っていたが、どこからか手に入れてきたらしい。「関係者全員に号外で配ってサプライズにしようとしたんですが、プライバシーもあるので一応確認してほしいそうなんです」コウちゃんは真顔でずっこけ紙面を眺めながら記事を紹介した。ははは。。。何とも気恥ずかしく懐かしいものだった。

まだ正式には公表されていないが、予定がかなりタイトなので、部署の有志が集まって「囲む会」なるものを開いてくれるという。社食だと思っていたら、ちゃんとしたパーティルームを貸し切りにして盛大に行うようだ。うーむ。。。これまで退職する上司を送る会などに経験したことがあるが、まさか自分にそういう番が回ってくるとは想像もしていなかった。一応、一つの単位組織を束ねる立場だからかもしれないが、他にも退職、異動する人もあろうのに、何か申し訳ないような気がして「ホント、身内だけでいいんだからね」しかしコウちゃんから見せてもらった「時間割表」は結婚披露宴ばりのがっつり盛り沢山イベントみたいだった。「当日、拡大会議を予定しているんで仙台、札幌からも参加してもらいます。」何かやる気満々のように意気込んでいて、こちらの方が何となく緊張してきた。しかしせっかく私の最初で最後の晴れ舞台を用意してくれるというのだ。グンマの時のようにこの職で辿った足跡をまとめてみるか・・・「ねえねえ、会場にDVD流す環境ってある?」さらに超小声で「内緒で着替えるスペースあるかな?」コウちゃんは一瞬怪訝な顔をしたが、目を光らせて「大丈夫です!用意できます!」

当日、皆と一緒に会場に向かうといきなり入口に「○○さんを囲む会」という大きなサイネージが。。。う、う、う・・・こういうの苦手だ。収容150人と書かれた会場は満員になっているように見え、めいめいグラスを持って「練習」していたのでいつもの通り輪の中で飲んでいた。(我が組織の半分近くが集まってくれたのか)「とびちゃん」(仮称)が撮影係らしく、始まる前から私から見え隠れしながらカメラを向けていた。(もしかして泣かせるシーンを逃さないつもりか?!)
司会のコウちゃんに「ちょっと、こっち来てください!」と急かされて、密かに私の後任に決まっていたドラくんの乾杯で時間通りに会は始まった。
札幌、仙台他各拠点で作成してくれたメッセージビデオや参加者のコメントが続いた。「ありがとう」「お世話になりました」「ウルトラファイト!」いかにも「やらせ」っぽい演出が失笑を呼んだが、(勤務時間中だよな)「いつの間にこんなの作ってくれたんだろ?」と心温まり胸が詰まるものがあった。

  

「ではほんとにしばしですけどご歓談を」というコウちゃんの言葉で私は壇上を駆け下りてビール瓶を両手に掴むと、手前のテーブルから駆けずり回る。忙しい中にこんなことまでして頂いたメンバに一杯くらいお注ぎしないと申し訳ないからである。おそらく次のプログラムまではいくらも時間がない。一言二言だけ交わすのみで、選挙の立候補者のように時には握手しながら、ようやく一番奥の若手が集うテーブルまで辿りついたところに司会のコウちゃんから再びお呼びがかかった。ご歓談」の暇もないほど盛り沢山で次から次に趣向を凝らしたプログラムが続くようだが、中には「すっ飛ばしてもいいんだけどな」というものもある。「職歴紹介」である。一応職場を去る時の恒例行事となっているようで何度もあったが、聞く立場にいる人を思うと今しか知らない「人の職歴」など興味があるはずもなくかなり退屈なものなのである。

「ドクさんが義理堅く真面目な彼らしく丁寧で長々とした職歴紹介の後、「ここでサプライズです!」とコウちゃんがスクリーンを指さした。セブンの息子「ウルトラマン・ゼロ」の大きなタペストリーが映し出された時、どこで撮影したものか一瞬で分かった。顔はお面で覆っているが紛れもなく息子甘辛の声である。と、すれば次に登場するのは・・・やはり乃木坂のポスターを掲げた妻からのメッセージだった。実はこれまでの職場ではKYOちゃんなど色んな付き合いで家族を知っている人が少なくないのだが、たまたま今の組織では(声だけだけど)初の登場で場内がどよめき、また「泣かせ用?」のBGMに隠れて、肝心のメッセージは甘辛の「今年もウルフェスに行きましょう」妻の「あなたの人生はこれから・・・」みたいなことしか聞こえなかった。

しばらくして再び若手からのメッセージと花束贈呈があった。これほど大きくて重たい花束は持ったこともない・・・壇上の花飾り用じゃないか?そして次なるサプライズが、女性マネージャーからかまされた。「母親からの手紙」である。「えっ?」と思ったが、スクリーンに映ったのは、ワープロで書かれた「お疲れ様、皆さまに感謝を・・・」みたいな手紙であった。ここで皆の期待は涙にくれる姿なのだろうが、毎週母を連れ回って最近のことなど詳しくしっている私は「ははあ、コメントだけして妻にタイプしてもらったな」と可愛くない想像をしていたのだ。しかしその後の「記念品贈呈」で危うく堪え切れないところだった。スクリーンに「いつか何かの記念に購入しよう」と思っていた、「超大型ウルトラホーク1号」が映し出されたのである。実は札幌出張の際に半分冗談で「この組織で退職して記念品をくれるんだったら、あのホーク1号がいいな」とつぶやいたのを覚えていてくれたのである。妻子や母のメッセージにも笑って頭を下げていた私がこのときはヤバかった。。。

さて最後のご歓談時間を終えるといよいよ私の出番である。通常、あらたまった懇親会の「締めの挨拶」などを頼まれると「フルパワーで飲めねえじゃんか」と逃げ回ってきたのだが、今回ばかりはそうもいかない。(ってこの時はさすがに、自分で杯を傾ける暇がほとんど無かった)私は舞台中央でマイクを片手に「型通り」の挨拶を始めた。実は用意してきた「たぶんかって無かった主役のサプライズ」が思い切り滑らないか、かなり緊張していたのである。頃合いを見て司会に合図すると大晦日に息子甘辛が「オレ、絶対泣ける」と興奮していた乃○坂の曲に乗ってVTRが流れ出した。これを製作するにあたっては正直かなり悩まされた。グンマの時は3年間で触れた土地の自然、食べ物、そして人々との思い出スナップが山ほどあり、素直に編集すればよかったのだが、今回の組織は1年間しかいなかった、しかもデスクワーク中心の集約センターである。綴る話題があまり多くない。

2X年間の勤務の集大成としてこれまでの多彩な話題をぜーんぶ編集して一大スペクタクルにしてしまうことも考えたが、「職歴紹介」と同様自分以外の人にはあまり興味を持たれるとは思えなかった。アイディアに詰まった私は社内HPにある「幹部(じゃない人も入っている)紹介」のコーナーにあるタイトルをパクッて改めた自己紹介風にして皆へのメッセージとした。甘辛が「名曲」と言ってはばからないイントロでは私が入社2年目で行った入社式司会のシーンを引っ張り出してきてオープニングにかましたのだった。自分の入社年次、生年月日、血液型星座などに続き、好きな言葉、好きなアイドルなどと続け、社内HPインタビューにある「休日は何をしている?」「健康のために取り組んでいることは?」「仕事の上でのモットーは?」「今、ハマっていること?」を写真解説付で編集した。「磯辺太郎とはこんなヤツだったことをたまには思い出してほしい」、というのと「こういうことがしたかった」というのを伝えるつもりでちょっとしんみりした曲に乗せた。

そして極秘のうちに主賓自らがウルトラサプライズをかましたのだが、それには曲のタイトルと同様隠れた深い意味があったのである。ということで、最終回と予告しながらものすごくカッコ悪いのだが、長くなり過ぎたので次回後編に続く・・・

【おまけ】ホントの土壇場でこのスタイルとしては最後になる人間ドックを懐かしきいつもの病院で受検してきた。腹部頸部エコー、そして上下消化器内視鏡では「もう今月で最後なので念入りに見てね」と言って苦笑された。10数年に渡ってずっこけ話題満載だったがこれでドック納めだ。昨年から施設がリニューアルされ、医療施設もシステムも最新式のものに生まれ変わった。1日に100名近くの受検者を扱うのに、事務員も医療技師も医師も皆、丁寧で親切、食事は美味しく温泉付という一度行ったらやめられない、素晴らしいプログラムが名残惜しかった。

          

「行かせてやろうじゃないか!」

2017-06-28 17:48:35 | 出来事
約2ヶ月ほど前に遡るが、皇族の内親王がご婚約された。私が最初にそのニュースを見たのは夜のジムのランニングマシンに取り付けられたテレビだったが、帰宅すると早速妻がその話題を振ってきた。「お相手は『江ノ島海の王子』だってね。やっぱ去年、甘辛は2次面接行けばよかったのに・・・」どうやら考えていたことは同じだった。「結婚したら皇室から離れるわな。黒田さんの時、支度金いくら出たっけかな?」「1億円は超えてたんじゃない・・・」どう考えても小市民の妄想丸出しの会話である。このサイトでも少し紹介したが、昨年息子甘辛が進学を決めた直後、コンテストに応募して書類審査を通過していたからである。実際は春休み暇そうにしているので、チラシをもらってきて「入学記念に応募してみたら」と言ったのだが、本人は本入部もしていないのに「部活が忙しいから」と興味なさそうだった。別にイケメンではないと思うが、背丈と生まれも育ちも完全地元民というくらいは目につくんじゃないかと思った。

私はせっかく申込み用紙をもらってきたので、とりあえず身長体重、スポーツ歴、学歴等とあらゆる美辞麗句の自己(じゃないけど)PRを書き込み、最近の本人一人写真がないので、卒業式に家族3人で写した記念写真の真ん中に丸を書いて「これです」と矢印を書いておいた。忘れていた頃にやってきた2次面接の案内通知を「オレが渾身の自己PR書いたんだから、これくらいは当然よね」と甘辛に渡したら、さすがに苦笑しながらも「しょうがねえな。。。」と満更でもなさそうだった。しかし残念ながら当日はサッカー部の新歓行事が重なっていたらしいのだ。「別に、スルーしちゃえばいいじゃんか。まだ正式部員にもなってないんだからさ」妻と二人して説得(普通は逆のような気がする)を試みたが、妙に義理堅い彼は辞退するという。とどめの言葉は「だってオレが面接に行ったら、ホントに受かっちゃうもんよ。さすがに王子の活動はできねえぜ」「(うーむ。。。そんなわけねえだろ。どこまでもお気楽なヤツ・・・)

しかし、書類選考を通過したことはしっかりチームメイトやクラスメイトに宣伝していたらしく、今回の婚約報道では多くの友人から「もったいなかった」とか「やったな甘辛」とか冷やかしがあったらしい。その甘辛だが、先々月「2X回目の記念日は割烹で」編で書いたとおり、彼のバイトする小料理屋で食事していたら妙なことを言い出したのである。「オレ、ヨーロッパかオーストラリアに留学したいんだけど」我々両親とも元々高校時代から「考えてみろ」とけしかけていたので、別に多少の驚きと歓迎ムードで話は聞いていた。ただかなり動機が勉学から離れていて、「留学にかこつけて海外でサッカー修行をしたい」らしいのである。昨今、大学には色々な留学制度があり、限定的な分野で就学したまま提携先大学で単位互換する交換プログラムもあれば、休学となるが自由に取得単位を互換するコース、休み期間に短期で語学留学するコースなどがある。

なるべく最短コースで卒業してほしいものだが、あいにく甘辛の学科は国内の特定プログラムをクリアしないと卒業できない仕組みになっており、海外に留学したとたんにいわゆる「留年」が決定してしまうようだった。またこのことを考え付いて、色々調べ始めたのが時既に遅く、ほとんど募集が終了してしまっているのだった。さすがに「海外でサッカーだけ」というつもりはないらしく、「海外で勉学とサッカーを両立させる」という課題を自己に課したらしい。大学や学校で語学その他勉学に勤しみつつ、日本に比べてはるかに多層構造となっているクラブチームやアカデミーで武者修行する作戦をたてたようだが、実際にそういうプログラムがサッカー強豪国にはたくさんあるらしい。「留学の際に海外サッカーも経験する」のではなくて、「サッカーの武者修行のおまけに語学でも勉強する」ようなスタイルに最初は正直かなり懐疑的で、「ま、学校のプログラム他、よくリサーチしてオレ達を納得させるんだな」と言っておいた。

ところが例の国内特定プログラムの申込み期限が迫っており、一両日に結論を出さなければならなくなって緊急家族会議が開催された。彼もそれまで色々と足で調べてきたらしく候補地やプログラムなど具体的な希望も用意していたようだった。私達は事前に話し合って、いくつか条件を設けることにした。
・語学留学した証に一定水準以上の公的資格を取得すること
・休学を認めるのは1年限り、他のカリキュラムを油断なく調整して必ず卒業すること
・卒業2年以内に定職に就くこと
ちなみにもう一つ「帰国したら江ノ島海の王子コンテストに応募すること」という条件も考えていたのだが、さすがに採用はしなかった。それらに同意した上で本人が最も希望していたのは「サッカー発祥の国」である。「サッカー留学」のエージェントとしては有名な大手で、渡航先での練習プログラムや所属チームも本人のスタイルに合わせて多彩であり、併設する語学留学プログラムも「英会話学校レベル」から「国際資格取得」まで色々と組み合わせがあるようだ。

ただ私は自身の社内派遣の経験から何となく知っていたが、費用はかなり多額なものになっていて、まず妻が見積書を見て目を見張った。「正直、こんなにかかるとは思わなかったんで・・・」学校の国内プログラムはほほ1年先の予定は色んな方面に協力を仰いで調整した結果実現するので、申し込んだ後のキャンセルはできない。色々と話し合っているうちに「どういう結論であろうと渡航する強い意思があり、単にサッカーをやりたいだけでなく、語学や経験を活かそうと考えているようなことが伝わってきた。「とりあえずキミには『行かない』という解はないんだろ?」その場でカウンセリングと見積もりを出してくれた担当に連絡を取らせ、数日後私を含めて3者で話ができるようにアポを取った。妻は仕事の関係でどうしても同席できなかったが「もう我々が子供にしてやることって、これくらいかもしれないから」成人間近の甘辛を前にして妻も感慨深げで、最後のボタン押しは私に任せてくれたようだった。

期間は色々と作戦を練った結果、8月から翌年5月、今年度の後半学期と来年度の前半学期分を休学する予定となる。下世話な話だが、これまで息子甘辛は高校大学共に「学費」という面に限ってみれば奇跡的ともいえる親孝行ロードを歩んでいた。これは全く妻も同じことを考えており、浪人して学費の嵩む学校に進学されたら、受験費用、予備校費用、入学費用そして学費を合わせると今回の留学費用くらいすぐに並んでしまうのである。「結局、お金はかかるものだけど、今しかできないチャレンジしたいというなら、させてやりたいよね」私は妻の言葉に「さよなら銀河鉄道999」のワンシーンを思い浮かべていた。鉄郎が再び999に乗車して地球を脱出するときに命を懸けて協力した老パルチザン(故・森山周一郎さん声)の台詞である。
「若いって、いいもんだ。どんな小さな希望にも自分の全てを賭ける事が出来るからな。みんな、わしらのセガレが行くと言うんだ、行かせてやろうじゃないか!」

          

          

数日後、甘辛と待合せて約束通り、事務所で甘辛のコンサルティングを行ってくれた担当と会って、具体的な話を詳しく聞いた。そしてさらに実際、現地のエージェントと話したほうが実感が沸くでしょう」と回線をつなげてくれたのである。主に甘辛との会話ではサッカー歴、ポジション、身長、プレースタイルなどを始め、この留学で何を得たいか?将来のビジョンはどのようなものか?中々切れ味鋭く質問してきたが、感心にも「語学勉強と両立」「将来はこうしたい」と明確に答えていた。(私がすぐ横にいたので空気を読んだのかもしれないが)そして最後に私が質問した。「本人も分かっていると思いますが、明らかにプロを志向するとかサッカーを生業とするような水準に至ってはいないが、『両立』とかキレイなことを言って武者修行に行くような人って多くいるんですか?」「むしろそういう人に来てもらいたいです。先も見てないのにプロになりたいと言われても困ります。今しかできない経験をしてサッカーに何か見出せればそれでもいいし、甘辛君の考える将来に必ず得るものはあると思います」

かなりサービストークも入っていたと思うが、ここでも999の名シーンを思い出し、横で完全にその気になっている甘辛を見ながら「(こりゃ、もう行かすしかないわな)」と感じたものだった。時期をほぼ同じくして、私の第一期会社員時代もそろそろ終焉というモードに入っていた。何度か書いているが人生100歳まで生きるとしてほぼ均等に起承転結にあてはめるといよいよ「転」の時期がやってきたのである。この前の「承」の期間は社会人になって仕事はそこそこ、家庭を作り家を建てバディや子供と過ごすという面振り返ると「これ以上は無理だったよな」とかなりの満足感がある。しかしさらに振り返り999の鉄郎が過ごした「起」の時期は「どんな小さな希望にも自分の全てを賭けて」起こす、と思い立つことすらなく、ただ走り切ってきた感がある。第1回家族会議の時は「父親がバタバタ落ち着かない時に全く世話の焼けるヤツ・・・」と思ったが、自分の同時代を振り返ると、海外で学びたいという息子と言い出した勇気と決断をとても羨ましく誇らしくも思った

    

そんな話があったのが1ヶ月前ほどである。「なーんか、もう一波乱ありそうな気がするんだけどねー」妙に勘のいい妻は首を傾げてもいたが、エージェントとのコンタクトは今風にLINEで行っており「オレもグループに入ったほうが話が早いんじゃないか?」と言ってみたが、「一人で何もできないと思われるのがいやだ」と言って、費用以外の基本は全部自分で手配しようとしているようだ。海外渡航の基本手続きや支援制度の利用、学校関係の書類など中々煩雑であり、最初に起きた高揚感ほどではないようだが、練習がオフでも自主練を欠かさずやったりオリエンテーションに行ったりと着々と準備は進めているようだ。もう少しで彼も成人となるから、最初の大いなる試練と挑戦として「どのように大きくなって帰ってくるか?」妻と楽しみに待っていようと思う。
「ワシらのせがれが行くと言うんだ。行かせてやろうじゃないか」という999そのまんまの話である。希望に満ちた若者と世に言う定年退転職を迎える中年のコントラストが光る。
そして前にも書いたメーテルの言葉で本サイト最終回につづく。

「若者はね、負ける事は、考えないものよ。一度や二度しくじっても、最後には勝つと信じてる。それが本当の若者よ。」

    

火の国のシンボル

2017-06-23 20:20:58 | 旅行お出かけ
火の国のシンボルと言えば大自然は「阿蘇」、食べ物は「馬刺し」、建造物なら「お城」であろう。ドライブコースや名所巡りなどは比較的私に任されていたが、食べ物についてはさすが女性である妻が知人やネット口コミなどで詳しくリサーチしていた。やはり我が家にとって所縁の深い国なようで、色んなお店や名物を紹介してくれる友人がたくさんいるのである。市内には2泊したのだが、初日は特に予約はせずに2日目だけ、誰に聞いても馬刺しで有名な老舗の「ホルモン」版を予約していた。初日はいくつかあった候補のうち、ホテルから近いお店に行ってみたのだが人気店らしく店の外に待ち行列ができてしまっていた。週末の夜だし、あちこちうろついても似たようなものだろうと大人しく椅子に並んで待っていたが、こういう時には実に頼りになる妻が別の店に電話し、カウンター席を確保したようで急いで向かったのである。ハニーさんお薦めのお店で「揚げたての辛しレンコン」が絶妙な居酒屋だそうである。

        

それなりに値段はするものの、馬刺しの盛り合わせはさすが本場、赤身や霜降り、タテガミなどどれをとってもトロけるような美味だった。コミック「クッキングパパ」で熊本料理が特集されていたのを見て名前だけは知っていたが、一文字(仮面ライダー好きは「いちもんじ」と読みたくなるが「ひともじ」と読むそう)ぐるぐるというワケギを酢味噌で食べるシンプルなメニューが野菜嫌いの私にも酒の友として合うようだった。また馬モツの煮込みというのもあったが、爽やかで飽きのこないものだ。やはりこの店のトップメニューはハニーさんお薦めの「揚げたての辛しレンコン」だろう。お土産やこの辺の居酒屋などで出る「辛しレンコン」は冷たいが、揚げたては香りと甘さが全然違う。特に熱々を頬張るとレンコンの甘みと中に詰められた辛子のつんとした風味がバランスよく同時に鼻から口に抜けていくような、衝撃的な美味だった。

    

カウンターの横には(初老と言ってもよい)おばさんが二人で渋く焼酎をちびちびやっており、大将から一品を出されるたびに「うんめえ!」と歓声を上げる我々に「どこから来たの?」と声をかけてきた。「へーえ、ずいぶん遠くから来てくれたんだねえ」お友達家族の故郷でもあり、子供が小さい時からご縁が深く、ぶっちゃけ応援のつもりで休暇を取ってやってきた話をすると、「そりゃー、嬉しいねえ!何か涙出てくるよ。ありがとねー楽しんでいって」かんらかんら笑って先に帰って行った。この旅行を通して感じたのだが、阿蘇神社のお友達といい、蛍丸のオヤジといい、高舞登山展望台を教えてくれたビジターセンターの係員、生タコを大釜で茹でる際にわざわざ傍らまで引っ張ってくれた海鮮丼屋のおばさん、そしてカウンターの二人など、何かこの国の人たちとの出会いは「当たって」いた。気さくで人懐っこくそして親切で明るいから、あれほどの被害にあっても何か「明るく応援したくなる」ものだ。

翌晩は馬刺しのホルモン版という有名店だったが、ただの焼肉にしてしまうのはもったいないような気がして、売り物のホルモン炒めだけに留めた。最後の夜だというので、さらに馬刺し7種盛りを頼んだらこれがやはり絶品、一文字ぐるぐるも品のよい、シャキシャキの歯ざわりだった。何よりも感激したのは希少な部位で時には品切れになってしまうという「レバー刺し」である。一口、味わったときに思わず妻と手を握り合ったほどの絶品だった。元々レバー刺しは妻の好物なのだが、牛のレバー刺しと比べると臭みが少なく、コリッ、プリッとした思った以上にはっきりしている食感が新鮮で、独特の甘味ととろけるような味である。若い男性店員が丁寧に教えてくれたが、馬肉の脂身は他の肉と比べ融点が低いので、舌の上にのせるととろけるそうだ。私はレバー刺しの他に「ふたえご」と呼ばれるアバラの三枚肉部分が大のお気に入りとなった。

          

最終日に訪れたのがもちろん最大のシンボル「熊本城」である。ご存知の通り昨年4月に発生した地震により、大きな被害を受けたのはニュースでも見た。現在、ほとんどのエリアに立ち入ることはできないが、二の丸広場や加藤神社、その周辺から、天守閣や櫓等が見られるという。我々はお土産や食事、観光案内などが集まる「桜の馬場城彩苑」に駐車するとまずは歴史文化体験施設の「湧々座」を目指した。内容はちょっと「子供だまし感」がある施設なのだが、「復興城主」申込み窓口があるからである。平成28年熊本地震により、熊本城は甚大な被害を受け、その復旧・復元には20年という長い年月と莫大な費用を要することが見込まれており、早期復旧を願う人々の支援金として「一口城主」という制度があったのだが、これを再開したものだそうだ。我々は前夜この「復興城主」となることを決めていたのである。その場で渡される仮の「復興手形」を見せると有料の「湧々座」に入れるようなので試しに入館してみた。

いきなり入り口に熊本城をバックにした「なりきり侍」セットがある。かなりの勇気がいるが、幸い午前中で開館直後ということもあり人通りがほとんど見られない。うずうずしていると妻が「はいはい、荷物持っててあげるから、さっさと着替えなさい」と私のスマホを取り出した。途中で脇差があるのに気付き、慌てて腰に差し込んだが隣にあった「ちょんまげ」の被り物は明らかに小さ過ぎて入らなそうだ。館内にはさらに「殿様」「大名駕籠」「乗馬」などの体験コーナー(この辺りが子供だまし)があるが、ちょうど外国人観光客がどばーっと入ってきて占領されてしまった。奥の方に昨年の地震直後、熊本城の深刻な被害をリポートした国土地理院のリポートVTRを視聴でき、ニュースなどでは見られない本丸二の丸内部の被害や周辺の石垣なども詳しく分かった。ドローン撮影だろうか、天守閣の瓦がほぼ全て落ちてしまっている姿はニュースで見たが、内部も想像以上にひどいことになっている。

      

        

あちこちで石垣などが部分的に崩れ、城としての敷地にはほぼ全域立ち入ることができない。二の丸広場から正面に本丸天守閣に巨大なクレーン設置され、3年後の復旧を目指しているそうだ。加藤神社には参拝することができ、本丸の他ぎりぎり倒壊を免れている宇土櫓を眺めることができる。テレビニュースなどでよく放映されたのは、特に危険な状態になっていた「飯田丸五階櫓」である。「ほんとかよ?!」という映像だったが、地震により土台となる石垣が崩れ、角の部分が辛うじて残った「一本石垣」で支えられ、ギリギリ倒壊を免れている状態だった。大きな木が邪魔して今現在の姿は一部しか見えなかったが、まずは倒壊を防ぐために櫓を支えるアーム状の巨大な鉄骨を組み上げ櫓を抱え込む位置まで油圧ジャッキで移動したものすごい工事風景だったそうだ。

      

被害拡大を防ぐための応急工事がほぼ終わったのは、この飯田丸五階櫓と南大手門の2か所だけだそうだ。何十箇所も崩れた石垣は緩んで不安定な場所も多く、安全に通行できるのはまだまだ先となるということだ。残念ながら多くの無残に崩れた現場は放置状態のようにも見える。何せ一つの石でも何百キロという重さでクレーンでなければ移動できないのだ。さらに重要な史跡ということで、石垣を形成していた石の一つ一つはバラバラに砕けていない限りは元にあった位置を記録管理し、原則「元の場所に戻す」のだそうだ。2の丸広場横の広大な空き地には既にナンバープレートらしきものを貼り付けた巨大な石が並べられていた。何万個もあると思われる石をどのように管理し、元に戻すのか?!想像を絶する苦労と年月がかかるだろう。完全普及の目安は2036年、つまり20年後である。我々は70歳を越えているが、元に戻った姿をぜひ見てみたいと思った。

今回の旅行は日本神話の舞台、自然対自然の闘い、海山が創り出す風景、そしてよくぞ踏ん張った建造物に触れたものだった。お友達家族や息子など、なぜか九州地方で御縁のあるこの国に「どこかにマイル」で選ばれたのも、それこそ深い御縁なのだろう。さらにはお友達夫婦がこのキャンペーンに興味を持ち、申しこんだところ何と「この国」になったそうなのだ!(何と言う共鳴か!)私達から少し遅れて火の国入りした彼らは高千穂峡で仲良くボートに乗っている画像を送ってくれた。地震の傷跡は大きく、まだまだ深刻なところがむろんあるが、全体的にかの国の明るく暖かいからして、我々も同様に応援できそうである。いずれ故郷をもつお友達、訪れたお友達と集まり、かの国について「語り合おう」ということになるだろう。

      


天草へロングドライブ

2017-06-16 22:38:40 | 旅行お出かけ
火の国応援ツアー(いつの間にそうなった?)3日目は熊本市内より天草方面へのロングドライブである。この行程を加えると、この地で何と500km以上運転していることになる。どこに行くにも詰め込み主義で一つでも多くの地を訪れる欲張りな我々にはレンタカーで空き放題移動するのが最も好むスタイルのようだ。確かにかの国を大きくとらえるといくつも訪れる観光ルートはあるが、初日(県外)を除けば阿蘇山方面と天草方面が大方メインとなるとドライブコースとなる。信号や渋滞だらけの都心ではとても実現しないが、道も広く交通量も比較的少ないこの地では、想像もできないロングドライブが楽しめるのである。約四半世紀前、デタラメ4人組で天草諸島を訪れた時は海を挟んで向こう側の「雲仙普賢岳」が噴煙を上げているのを横目に最先端の「牛深」という地まで辿り着いたが、さすがに日帰りであちこち寄るドライブではそこまではできない。熊本市内に知人に教わったお店を予約していたので、遅めの昼飯に海鮮丼で有名なお店まで往復するつもりでいた。

まず最初の目的地は「世界遺産」となった三角西港である。平成27年(2015)に「明治日本の産業革命遺産」の一つとして、世界文化遺産に登録されたそうで、石積みの埠頭や水路、そして明治の面影を残す建築物が点在している。熊本市内からは1時間くらいの行程で、美しい田舎の港湾施設が見えてくる。我々はハイカラな建物の並ぶエリアよりも少し手前の駐車エリアに停めて様子を見てみた。長い石積みの埠頭や水路、建造物などが目玉だそうだが、その石積みの護岸続きでのどかにも釣りをしている人が数人見えた。実は携帯フィッシングセットを持っていこうか迷っていた私は思わず近寄ってみると、海中に沈めている魚篭の中には黒い大きな魚が数匹泳いでいるではないか。「これって黒鯛じゃないかな・・・」他の人の釣果も偵察してみようと歩き出したら後ろで「よっし!」という声がしておじいさんが大きく釣竿をしならせている。駆け寄ってみると釣り番組で見るようなキャッチシーンが見られた。

            

「こ、ここってこんなに一杯釣れるんすか?」魚篭の中に4,5枚入っている大きな黒鯛を見て尋ねると、いかにも気さくにおじさんは「なーに、釣れる時は数上がるけど、釣れない時は1日いたってさっぱりよ。この辺の潮の流れはね・・・季節によっても・・・外海が荒れたりすると・・・」たぶん標準語だとそんな意味のことを丸出しの土地言葉で明るく仰っていた。車に戻り少し先の「世界遺産エリア」に駐車し直した。オランダ人が設計したという港湾施設には明治のハイカラな建物が立ち並び、一種別世界のような雰囲気となっているが、一番入り口にある「高田回漕店」は明治の純和風の家屋で自由に見学できて面白い。石堤の先ではのどかに釣り糸を垂らしている人もいるようで、私は途中の釣具屋でセットを買って、帰りにぜひ「世界遺産で釣りをする」経験をしてみたいと密かに画策していた。

      

次の目的地は有名な天草五橋の1号橋を渡って2号橋との真ん中あたりにある「天草四郎メモリアルホール」としてあった。映画「沈黙」で隠れキリシタンの歴史などを見てきた私達はわずか16歳で数万の軍勢を指揮したという謎の少年について色々と詳しく知りたいとは思っていたが、いざ現地に行ってみると多少「胡散臭そう」だ。観光客らしきオヤジ集団がいたが、何か閑散としている。入り口で見たら入場料は600円、元々この手の歴史にあまり興味のなさそうな妻は「等身大の織田信長像が出迎えるったってねえ」お隣の敷地に天草四郎公園があり、この小高い丘の部分に天草四郎の像と墓がある。墓といっても、実際には慰霊碑のようなものに見える。さらにこの同じ場所にはいくつかのキリシタン墓が移設して置かれている。いずれも江戸初期のものであるとされている。施設には結局入らずに天草2号橋に向かった。「何か天草四郎系って『やられる』ような気がするな」途中にあるビジターセンターで情報収集することにした。

      

海側の広い庭から中々美しい風景が見られるビジターセンターでは、ちょっとした展示物しかなかったが、係員の女性が「8分ほどのVTRがあるんで見ていきませんか?」というので、二人ポツンと椅子に座って大画面モニターの前に座った。ハクセンシオマネキという片方だけハサミの大きい白い蟹や干潟の自然などを紹介した映像だった。終了後、壁にかけられた天草諸島の風景写真を眺めていたら、さっきの女性が近寄ってきて親切に説明してくれた。「これは高舞登山展望台から撮った写真で、天草諸島と天草五橋を一度に見えるところなんですよ。ホントは夕日が綺麗なので有名なんですけどね。今日は天気がいいから遠くまで見通せてきれいだと思いますよ。」「こんな景色が見えるなら行ってみようか」中々ガイドには載っていないところのようだ。地図に従って車を進めると途中から狭く急な上り坂になり「ホントにこのまま車で行けんのか?」と心細くなるような道だった。さらに駐車スペースらしくところから上り坂をふうふう言いながら10分ほど上ると写真で見た素晴らしい風景が開けてきたのだった。「やっぱ来てよかったよねえ」

    

気をよくした我々はさらに一路、折り返し昼食地点に考えていた「山盛り海鮮丼」で有名なお店である。ただし展望台からは50km以上あり、「飯食うためだけにわざわざ行くか?」と躊躇してしまう距離でもある。しかし有料道路を使えることもあり、とりあえず車を走らせることにした。人気店ということだが時間的にはだいぶずれているので、到着したときには広大なフロアに数えるほどしか客は入っていなかった。巨大な釜でおばさんが生タコを丸ごと茹でるのをしきりに見せようとしていた。これにつられて注文したタコの唐揚げはシンプルだが柔らかくて風味が新鮮で美味、それに加え名物の「山盛り海鮮丼」はタコの足が丼からダイナミックにはみ出している写真とは異なり、何となく地味な盛りで、妻とは若干の「やられ感」にあいコンタクトで苦笑し合った。。。風が少し強くなってきたが、潮の干満がものすごく大きいという海岸に降り、ちょうど干潮で干潟となっているところを歩いてみたら至るところに小魚やカニが見られ、ちょっとした童気分に浸ることができたのである。

            

気が付いてみると熊本市内からは100km近く走ってきてしまった。しかもなぜか帰りは天草五橋の色々なところで渋滞が発生しノロノロ運転に悩まされた。それでも橋の袂など停車できるところでは絶景とも思える天草の小島を眺め渡して写真に収めた。来る時には気にもとめなかった(比較に写真撮っておけばよかった)が、有明海というのは干満の差が日本一だそうで、「何で海の上に電柱と電線が並んでるんだろう?」と不思議に横目に見ていた海原が干潟のようになり、砂地が滑らかに波打っていた。有名な御輿来海岸で、もう少し時間がたって夕日と重なると素晴らしい景色らしい。なるほどはるか沖の方まで電柱が続いている不思議な光景だ。天草五橋の1号橋まで戻ると、来る時のスイスイ道路を考えると「どこに
こんなに車がいたのか?」不思議なくらい渋滞が激しくなってきた。夕飯は「馬肉料理」で有名なお店を予約しており、妻も楽しみにしているから、残念ながら「世界遺産でフィッシング」はあきらめ、一路熊本市内を目指したのだった。

      

自然同士の戦いの傷跡

2017-06-07 23:22:51 | 旅行お出かけ
熊本応援の旅、最初に宿泊したのは阿蘇五山が正面に見えるホテルだった。会社の厚生制度をフルに活用しての利用だったが、やはり熊本地震の影響により、1階貸切風呂・7階嶽湯客賑の修繕工事を実施中で使用できない。さらに遡ること4年前の2012年7月12日、阿蘇市を襲った九州北部豪雨災害。内牧では黒川が氾濫し、ホテルのロビーや調理場など1階フロア全てのものが流されてしまったそうだ。阿蘇温泉観光旅館協同組合加盟22軒のうち15軒が被災する未曽有の被害だったという。従業員の毎日の努力と全国からの励まし、ボランティアの協力などによりその約4ヵ月後にリニューアルオープンできた。初日に訪れた高千穂からは阿蘇山を挟んで正反対側になってしまうのだが、そんな苦労話をHPで知り宿泊することにしたのである。部屋からは「涅槃像」と言われる仏様が仰向けになった姿の阿蘇五山が見え、朝、夕、晩とそれぞれの雰囲気をかもし出していた。屋上の展望風呂からもこの絶景を拝むことができ、朝早く一人で浸かった時はちょうど「おへそ」のあたりの中岳が噴煙を上げているのが見えた。

        

ホテルを出発し最初に向かったのが、阿蘇涅槃仏を拝む最も有名な展望場所「大観峰」である。写真で見る限り部屋からの眺望と似たような感じがしたが、結構遠かったのが阿蘇の雄大さをうかがえた。世界最大級と言われるカルデラの北側の外輪山にあたる広大な展望台である。鍋底の阿蘇市と向こう側の涅槃仏像が一望できるど迫力風景だ。何せ周辺の外輪山は緑の草原のようであり、阿蘇五岳までさえぎるものがない。こんな壮大な景色は国内では見たことがないような気がする。「ここにテントでも張って泊まってみたいねえ」アウトドア系にはあまり興味のなさそうな妻もつぶやくほどの絶景だ。たぶん夜空の美しさもすごいものがあるだろう。ただ吹きさらしで秋や冬の夜は相当な寒さになるだろうから、8月のペルセウス座流星群の時がいいんじゃないかと思った。

      

大観峰を後にし、一路阿蘇の中岳火口に向かう。残念ながら大地震の半年後くらいに噴火し、現在は噴火警戒レベルが1まで引き下げられているがまだ火口周辺の1km範囲内の立入は規制されてしまっている。4方向くらいから阿蘇山頂を目指せるコースがあるようだが、多くが地震や噴火の影響で道路が通行止めとなっており、最新のナビがなければ、どこをどう行ったらよいか分からない。ドライブコースとして定番の大観峰-米塚-中岳というルートを進んだ。自然の造詣とは思えない美しい緑のお椀を逆さにしたような米塚は、一見伊豆の大室山のような姿をしているが、何と大地震で山頂の火口跡付近に大きな亀裂ができてしまった。周囲とは異色な不思議な光景は途中道路から眺められたが、残念ながら麓までのルートは全面通行止めになってしまっている。途中の山肌もよく見ると無残に崩れて緑が削れており、さらに崩落してきそうな恐怖がある。

    

阿蘇山ロープウェイまでに通る草千里ヶ浜は烏帽子岳の北麓に広がる火口跡にある大草原と、雨水が溜まってできたといわれる池とが織りなす自然のコントラストが美しい場所だ。はるか向こうには少しだが白い煙を上げる中岳を背景に、乗馬体験などもできるようだ。その少し上がったところにある草千里ヶ浜展望所からはそれら一大パノラマが見られるが、施設は地震の影響で路肩や柵が大きく破損してしまっている。またロープウェイ駅には運休となっている代わりに「阿蘇スーパーリンク」という体験型の映像アトラクションがあり、阿蘇の全貌や迫力ある噴火の歴史などを最新の映像で楽しむことができる。山頂付近には火口からと思われる白い噴煙が少し見え、周辺箱根大涌谷のような硫黄の臭いがかなり漂っている。阿蘇山ロープウェイ限定という阿蘇山の灰でつくった「わが灰」というくまモンの人形を購入し、今だ半分倒壊したままになっている阿蘇山西巌殿寺(さいがんでんじ)にお参りした。

           

         

ミヤマキリシマという花が咲いている道路を我々は街中の阿蘇神社に向かった。肥後の国一之宮で楼門や拝殿が有名な神社だが、熊本地震で楼門や拝殿は倒壊してしまい今は特設の社殿になっている。楼門のあった場所は修復のために足場が組まれ中が見えなくなっているが、人の立ち入り口からは崩れ落ちた屋根の残骸のようなものも見え、倒壊直後の写真を見るといかにすごい被害だったかが分かり、臨時復興支援金を申し出ずにはいられなかった。10年がかりで修復する予定だそうだ。横産道を歩いたところに仲良しのお友達夫婦の幼馴染がお洒落なカフェを出していると聞いて足を運んでみた。和菓子系の老舗で付近にふんだんに湧き出る水で作る特製アイスコーヒーが自慢らしい。我々が店内を眺めていると、「○●さんのお友達ですか?」と声をかけてきた女性がその幼馴染だったのだ。午前中にそうかと思って声をかけたら人違いだったのでもう黙っていようと思ったらしいのだが、妻が見せの前で写真を撮りLINEをお友達に送ったら、彼女がそのままお店の人に転送したらしいのだ。

            

色々なお話を聞くことができたが、やはり大地震の記憶は1年たった今でも生生しかかった。阿蘇山へのルートはものすごい被害だったところを観光優先で、皆が気の遠くなるような苦労して道路(のひび割れ)を修復した後が見てとれたのだが、あの揺れを経験した地元の人にはしばらくあの山に近づく気にはならないということだ。楼門は一度目の震度7には耐えたが、2度目の本震で崩れてしまい、ものすごい音響と周辺に湧いた砂埃がひどかったそうだ。横参道は「水基めぐり」というのができるほどその界隈のいたるところで豊かな湧き水が見られるのだが、幸いこの水があったので水道が止まってしまっても水には困らなかったようだ。旅先でお友達つながりというのは嬉しいものだが、火の国にある女性の強さ、気丈さ、朗らかさを感じさせるような出会いだった。

実家や友達向けにたくさんの和菓子土産を買って記念写真を撮ってその店を後にし、門前町商店街を駐車場に向かって戻るとオリジナルの小物を扱う店があり、その中の「伝説の宝刀蛍丸」という幟が目に着いて入ってみた。いかにも話好きの店主がいそいそと現れ「ちょっと話すと長くなりますけどいいですか~」と言いながら延々と蛍丸にまつわる伝説を語り始めた。かいつまんで言うと「蛍が戦いの刃こぼれを直した」という伝説をもち、阿蘇氏の家宝として伝えられ阿蘇神社に宝刀として奉納されていたが、太平洋戦争後のGHQの刀狩り後行方不明となっている。処分されたかどこかに隠されているか諸説あるが、今でも所在不明だそうだ。岐阜県関市の刀剣職人が復元して阿蘇神社に奉納するためにクラウドファンディングによる復元計画をたてたら人気のゲーム「刀剣乱舞」によって蛍丸がレアな存在らしく出資者が多く現れたらしい。蛍丸の復活を、大きな被害を受けた阿蘇神社復興のシンボルにしようという動きのようだ。「世界一速く終わるスタンプラリーでしょ」と店主が笑う、「陣羽織を着て写真を撮ろう」を見て我慢できなくなり、パンフを持って残り2軒の店を走り回ったのだった。

    

阿蘇神社で結構時間を費やしたが、その日の目的地は熊本市内だった。「帰りにちょっと寄り道になるけど、ここだけは寄って行って」と底なしの気さくさで薦める店主にしたがい、「白川水郷」という湧水の名所を訪ねた。静岡の柿田川公園の湧水のようないかにも「清流」という感じでまだまだ時間をかけてゆっくり回りたいところも多かった。しかし熊本に通じる道路が阿蘇大橋が落ちてしまったことで大きな迂回ルートになってしまい、道路があまり大きくないので、週末などで観光客が集中するとかなりの渋滞になってしまうという。確かに観光バスやら我々と同じ「わ」ナンバーの車が多く行列をなしており、予定よりも1時間近くも市街に入るのに時間を要してしまい、1年たってこんなところにも地震の傷跡が残っているのかと感じた。阿蘇の雄大なカルデラに残った「傷跡」は言わば自然同士の戦いとも言える。山の形が変わってしまうほどの壮烈な戦いに人間はなすすべがあろうはずもなく、1日も早い阿蘇神社の修復を祈るばかりだが、あの地にいる人々の何とない「明るさ」を見て少し希望が湧くのを感じた。

    

神々の地を歩く

2017-06-01 21:09:38 | 旅行お出かけ
「どこかに」旅行計画編で書いたとおり、やはり我が家と御縁浅からぬ「火の国」である。週末休みに休暇を足して久々のリフレッシュ旅行で行き先や往復便まで航空会社が指定したのだが、出発便は朝一、到着便は夕刻と目一杯遊びに回れる日程だった。学生時代の企業訪問ツアー、家族やデタラメ4人組などと訪れたこと過去に5回、仕事の出張で訪れる福岡を除けば九州でダントツ御縁のある国である。(と言うか、これ以外の国に行ったことがない)最初は仕事や旅行で訪れたことのない地が当たってほしかったのだが、1年前の大地震で大きな被害にあったかの地を「応援するツアー」とすることにしたのだった。行き先は大体計画編で綴ったとおりだが、空港でレンタカーを借りっぱなしにし、総工程500km以上の壮大な(多少無謀な)ドライブとなっていた。まずはじめはいきなり県を通り越してしまうのだが、古事記や日本書紀に登場する日本神話で有名な高千穂である。

日本の創世記の様子を物語った神話には以前から興味があり、図書館などで色々と(マンガなども含めて)書物を読み漁っていたことがあった。有史以前の物語であり、記録や実物が残っているわけでもなく、結構「言ったモン勝ち」のようなところがあって、いくつか論争もあるようだが、「高千穂」というのは比較的世に認められている「神々の地」のようである。国の創生を著すような神話はギリシア神話などもそうだと思うが、えてしてかなり「下劣」とも言える。例えばよく知られている「日本を創った」とされるイザナギ・イザナミの神などがいきなりそうだ。何せ「国つくり=子つくり」であり、互いに自身の身体の特徴を「余計なモノがある」「足りないモノがある」と表現し、「挿入することによって国をつくろう」というのだから、劇画にしたら18禁もいいところである。しかもお互いへの言葉のかけ方の順番により、最初の子供は不完全だったなどという、男女差別や人権侵害と思えるようなくだりもある。

その後、両者は次々に日本の島や山、川を生み出すが、火の神「カグツチ」を産んだことで産道が焼けて死んでしまうイザナミや、これを悲しみ黄泉の国まで迎えに行ったイザナギが見た「イザナミの腐り果てた姿」、これを見て逃げ出すイザナギ、さらにそれを追いかけさせようとするイザナミや呪いの言葉など、かなりグロいし美しくない。「毎日、1000人を殺す」 と呪うイザナミにイザナギは 「では、毎日1500人の産屋を建てよう」 と答え、これで世界に「生と死」が生まれたという。さて黄泉の国から帰還したイザナギは穢れを落とす禊の儀式から神々が生まれ、最後に左目からアマテラス、右目からツキヨミ、鼻からスサノオが生まれ、この3柱の神を三貴神と呼び、世界と分割管理する特別な神とされた。ようやくこの高千穂の主役「天照大神」が登場し「天岩戸神話」へ発展するのである。

アマテラスに高天原を、ツクヨミに夜の世界を、スサノオに海を、それぞれ統治するよう命じられたが、スサノオは母イザナミに会いたいと駄々をこね追放されそうになるが、一旦潔白が証明される。ところがこれでずに乗ったスサノオは高天原で悪さばかりする。アマテラスはこれに我慢できなくなり、ついに「天岩戸」に閉じ籠もってしまうい、高天原も地上も照らす光がなくなって真っ暗になってしまう。色々の書物にはスサノオの「暴虐の限り」「大暴れ」などと表現しているが、「田んぼの畦道を壊し」たり、「神殿に糞を撒き散らす」「生きた馬の皮を剥いで機織り小屋に投げ込む」など、どう考えても子供のイタズラにしか思えず、アマテラスの引きこもる理由としてはいまいちインパクトが足りないように思える。太陽が消え夜だけになってしまい困った神々は天安河原に集い、作戦会議を行った。そこで知恵のあるオモヒカネの案により、天岩戸の前で大宴会を開いてアマテラスをおびき出すことになった。

「花の慶次」には「いつの世でも人の心を溶かすのは楽しそうな笑い声・・・」とあるが、神様の宴会はどうにも品がない。アマノウズメはおっ○い丸出しパ○ツずり落としで踊り狂い、これを見た神々は大喜びでどんちゃん騒ぎ・・・この明るさに「自分がいないので真っ暗闇のはずなのに、なぜこのように楽しそうなのか?」少しだけ天岩戸を開いてアマテラスが尋ねるとアメノウズメは 「あなたよりもっとスゴイ神様がいらっしゃるので、皆で歓喜の声を上げて踊っているのです」と答え、アメノコヤネとフトダマが作戦通り、イシコリドメ(伊斯許理度売命)に作らせた八咫鏡(やたのかがみ)という鏡を差し出してアマテラスに見せたところ、確かに鏡に神らしい姿が映っている。ますます怪しく思ったアマテラスはその神のことが気になり、もう少し良く見てみようと、天岩戸をもう少し開いて身体を乗り出したそのとき!天岩戸の陰に隠れていた力持ちのアメノタヂカラオが、アマテラスの腕をぐいっと掴んで引っ張り出した。間髪入れずにフトダマは、注連縄(しめなわ)を天岩戸の入口に張って再び戻れなくしたのである。子供の頃読んだ「川面に映った肉を銜えた自分の顔を見て、「それもよこせ、ワン!」と吠えたら肉を川に落としてしまった犬の話のようだ。作戦は大成功だったが、今時スーパー戦隊でもそんな稚拙な策を弄しない・・・たまにはいい話もあるのだが、古事記に登場する逸話というのは男女差別、人権侵害、暴虐行為、乱痴気騒ぎと「放送禁止」事項何でもありのようだが、男女感、生と死、社会不安など、著作された時代の背景、儀式などを物語る深いところもある。

さて長いあらすじになってしまったが、訪れた高千穂には有名な「天岩戸」と「天安河原」を祀られている神社がある。今回はこの地が第一の目的地だった。空港を出て約70km、一路県境を越えるとそれらしいベタなモニュメントが現れた。高千穂峡に向かって進んで行くと、小ぶりの蒸気機関車と赤い列車が展示されている「トンネルの駅」という施設が見えてきた。「鉄道路線の延長工事が予定されていたが、途中で出水があって掘削を断念したトンネル」だそうだ。一度も列車は通ることはなかったが、トンネル内の温度や湿度の条件が焼酎に適していることから、焼酎樽の貯蔵庫として利用されている。総延長は1115メートルもあり、1年を通じて気温17度、湿度70%で約1300本の樽を貯蔵している。見学は自由でトンネル内に入ったとたんに樽の隙間から蒸発したと思われる焼酎の独特な香りが充満していた。中々他ではできない不思議な体験だった。
次に訪れたのが高千穂神社である。メインの御神木は樹齢800年の秩父杉で、高千穂郷88社の総社である。荘厳で広い境内には重要文化財の本殿と鎌倉時代に源頼朝が奉納したという鉄造狛犬があり、本殿横の他でも割とよく見る「根のつながった夫婦杉」を言い伝え通り「手を繋いで3回、回って」家内安全と子孫繁栄を祈った。

            

        

そして神社から少し歩くと国の名勝・天然記念物になっている「高千穂峡」がある。太古の昔、阿蘇山の火山活動によって噴出した火砕流が冷え固まり侵食された断崖がそそり立つ峡谷で、高いところで100m、 平均80mの断崖が東西に約7キロに渡って続いている。写真家が愛してやまないスポットであるそうで、峡谷内にはパンフレットなどでよく見る名瀑「真名井の滝」があり、日本の滝百選に指定されているそうだ。20分ほどの遊歩道には神話の由縁のある「おのころ島」や「月形」「鬼八の力石」などが見られる美しい渓谷だ。もう一つ高千穂峡の遊歩道の撮影ポイントとなっている「高千穂三橋」は趣の違うアーチ橋が一望でき、 一つの峡谷の一か所に三本ものアーチ橋を見ることができるのは全国でもここだけだと言われているそうだ。「オノコロ池」には妙な姿の魚がいると思ったが、なんと「チョウザメ」だそうだ。有名な貸しボートだが、30分2000円と高額で時間も不足気味だったので残念ながら眺めるにとどめた。

            

  

最後がその日のメインイベント「天岩戸神社」である。西本宮と東本宮があり、それぞれ天照皇大神が御隠れになられた天岩戸(洞窟)を御神体として御祀りしている神社と、天照皇大神が天岩戸からお出ましになられた後、最初にお住まいになられた場所を御祀りしている神社である。神話にある天岩戸そのものが神殿であるために、通常の建物としての本殿がない。御神木は招霊(おがたま)の木といい、さすが天皇家のルーツということもあり、秩父宮殿下、秩父宮妃殿下、高松宮殿下、三笠宮殿下、朝香宮殿下、常陸宮(義宮)殿下を始め皇族、侍従の代参等、度々の御参拝記録があった。御神体が天岩戸の洞窟そのもので、西本宮から谷を挟んで反対の壁の中腹にあり、西本宮拝殿裏側の遥拝所は施錠されており、神職の案内により御祓いをした後に拝むことができる。ここは神域のために撮影は禁止で、天岩戸は度重なる浸食により扉の部分は落ちてしまっているそうだ。

また天岩戸に引き籠ってしまった天照大神を、外界へ引き出すためにやおろずの神が集まって作戦を練ったという、「天安河原」が神社から500メートルほど川上にある。間口、奥行ともに数十メートルある大きな洞窟で「天安河原宮」が祀られている。歴史的な建造物ではなく、「神話の地」というのは初めてだったが、正直あまりに古代過ぎて「言ったもの勝ち」っぽいところはあるが、確かに独特な雰囲気がありパワースポットであると思う。神話では舞台を出雲の国や大和の国、熊野などと移していく。このあたりになると神社や土地などに多くの人が訪れる「有形文化物」のようになるが、日本のルーツのルーツに触れられたことはありがたいことだった。ちょっと駆け足になったのだが、その日は150kmほどの走行距離で宿泊地である阿蘇内牧温泉に向かったのだった。