超兵器磯辺2号

幻の超兵器2号。。。
磯辺氏の文才を惜しむ声に応えてコンパクトに再登場。
ウルトラな日々がまたここに綴られる。

さらばスティーブ

2013-03-30 08:24:56 | 職場
八兵衛のときは何と言ったかなー。3月31日をもってこのサイトに何度も登場した巨匠スティーブが退職する。38年の勤続だそうである。我々の預かる仕事では間違いなく第一人者で、業界に目を向ければ引く手あまたでかなり前から色々なところから声が掛かっていたようだ。「スター誕生」の決戦大会で言えば、すべてのプロダクションからプラカードが上がるようなものだ。結果的に我が社とはかなり近しい協力会社の幹部として待遇されることになっている。俗に言う「天下り」などではもちろんない(そもそも天ではないからな)。4月からは別会社になるが違うユニフォームを着て似たような仕事をするだけである。

「何でも屋」のようなやんちゃ八兵衛とは対照的に、趣味はゴルフに鮎釣りという年相応の親分肌なのがスティーブだが、無類の酒好きで新入社員を歓迎して飲み会に行ったときなど「俺ぁ、1年で400日飲むかんねー」などと上機嫌で笑っているが、彼らに昔堅気の「オヤジ」の鬱陶しさを全く感じさせないのがさすがだ。むろん部下にも絶大な信頼をもたれている。彼は施設の保全責任者なので工事中の安全パトロールや点検などに私と一緒に出かけることも多く、一見仕事一本槍に見えるが出かけた時は必ず「おさえるところはおさえる」スタイルだった。(温泉にはあまり行かなかったが・・・)

外食するとやたらゲテ物が多いこの地方だが、スティーブのご推薦は意外と上品で「観音様の山から市内を一望できる蕎麦屋」とか「竹薮に囲まれて入り口がわからない骨董品で固めた和食店」とか「住宅街にポツンとある独特な風味のうどんを出す店」など「隠れ名店」が多かった。県の最東部へ行く用時があると「●野ラーメン食いに行きましょう!」と先達が作成したという「幻のY山ノート」というのを入手し、いきなり上位五指に入る名店を訪れたこともあった。無骨なうどんばかりが好みかと思っていたらラーメンやパスタにもうるさいところが結構あったなー。

この1年、一緒に出かけついでに巡ったのが県内の「名滝」である。水の豊富なこの地方はたくさんの有名な滝があるのだが、仕事の帰りにちょっと車を停めて見物というところが中々なく、駐車場から何十分も歩くところばかりだったためか、結局10箇所行けたかどうかくらいだった。中々高尚な趣味だと思ったし、どれも味のある見事な光景だったのは言うまでもない。30分以上道無き道を歩き、途中で大きな蛇が腹ばっていて、「ぎょえーっ」と逃げ回る蛇の大嫌いな一面を見せた。そう言えば別のメンバーで夏場に日本に一つしかないスネークセンターに言ったが、スティーブとは何度もすぐ近くを通り過ぎたのに一度も「寄って行こう」ということにはならなかった。実は知らなかったが「立入禁止」だったところもあり、「我々二人が見物してるとことなんて見られたらやばかったですよねー」なんてところもあった。 

           

ゴルフ好きのスティーブは(腕は相当なものだ)、20年ぶりに「ゴルフでもやってみようかな」と言った私の「つぶやき」をマッハの速度で拾い上げた。その週にクラブを買わされ翌週には練習場、その翌週にはコースへ連れて行ってくれた。グッチーの師匠らしいが「教え上手」として定評があり、小難しいことは抜きに3つ4つ簡単なことを教えてくれるだけである。「からだが横にスウェーしないように固定して、へそを前に向けるように腰で振る」みたいな漢字である。グッチーはこのシンプルアドバイスでかなり上達したようだが、私も彼もそもそも小難しいレベルまで達していないような気もする。。。

3月をもっていよいよスティーブが去ることになり、グッチーやKYOちゃんは送別旅行を企画してくれた。一泊二日の初日はゴルフ大会でその後はこの地方で最も気に入っている温泉に泊まり大宴会コースである。本格コース再デビュー戦となる私はいつかの県民マラソン前のように「腰が痛くなる」ほど入念に練習場で打ち込んだ。人生初の「始球式」もさせてもらえる予定でホントに楽しみにしていたのだが、何が呪われたのか未曾有の大トラブルに襲われ早朝駅で拾ってもらう予定はそのまま職場へ直行・・・「大きな災害や事故が発生した時に関係者が詰める司令室」に籠もる羽目になった。(うううっ、無念だー)いつもならスティーブも陣頭指揮をとるとおろなのだが、今回は主賓なので構わず大会に参加してもらった。「いやー、磯辺さんたちが気になってプレーにならなくてね・・・」(なーんて言いながらしっかりグロストップじゃんかよ!)

スティーブほどの人望と人脈だ。今月中旬以降は、ほぼ休みなく「送別会」続きだったようだ。何かあると何時であっても私に連絡をくれるのだが、大体電話の向こう側の彼は「らりって」いた。昨晩は主に全管理者が集う大送別会だった。例のごとく「締めはオレにやらすな!最初にして」とお願いしていたのだが、我が職場特有の開式前の「練習」で飛ばしすぎ、何か半分くらい分からなくなっていた。。。


「昨年の丁度今頃、頼りになる先輩のご勇退の際しての挨拶というのを初めて経験したのですが、それからホントにあっと言う間に1年たった感じがします。2年9ヶ月前に着任し初めてのこの地で何一つ分からない「ストレンジャー」だった時、前任から「一番頼りになるリーダーだよ」と紹介されて以来、文字通り頼りにするどころかほとんどぶら下がり健康器状態にさせてもらったのがスティーブでした。3年近くたってこの会に臨み色々な方からご勇退される方々の功績を讃える挨拶はあるかと思いますが、私の率直な感想だけ申し上げると「我が社というのは結構素晴らしいな」ということです。スティーブを初めとして、我々の預かる施設に関して「いつの時代にもどの国にも『でん』と構える、その領域の『父』とも言える人が必ず存在し、柱石となって支えてくれているからです。
私はここで「主(ヌシ)」とは言わずに「父」と言ったのは何故か?父には広い意味で次の世代の子供に色々なことを教えて育てる義務があります。会社ではご当人はあまり「人に教えている。人を育てている」というのを意識しないものですが、それこそ昔の職人に言われたように、ある者はその仕事っぷりを盗み、ある者は直接教えを請い、色々なスタイルで「育成」されていると思います。ここにいらっしゃる皆さんも彼らに「背中で指導された経験」がある人がたくさんいると思います。

いつも色々なところでお話ししていますが、「企業にとって一番大切なのは『存続』すること」だと思っています。そのために必要なことは色々ありますが、第一級に属するのが「次の世代に我が企業文化をつなげること」だと思います。株式会社の平均寿命って知ってますか?全部対象にしてしまうと日本で7年、アメリカで5年です。上場企業に限ると色々難しいですが、「そこそこ繁栄している」期間は長くて30年くらいです。我々は時代の背景もあり必ずしも自助努力で生き長らえたわけではないところもありますが、一人が勤める期間を短く見積もって30年とみても、何代にもわたって企業文化を受け継いできたことになります。
だから我々企業人は次の世代にそれを引き継ぐべく「人を育てる」必要があるんです。それを明確に「責務」として背負っているのが「管理者」です(必ずしも管理者だけではもちろんありませんが)。だから私は会社員となる以上、管理者として後進を育成するのは第一条件である、と常に言っているのです。どうかここにいる方はスティーブ初め優れた管理者であると同時に「背中で指導できる教育者」になってください。私もかくありたいと常に思ってきました。

最後になりますが、これまで皆さんには色々とお世話になりありがとうございました。私はちょっと冷酷なのか、回遊魚系だからか、色んな節目を通過点としか思わず、思い出を懐かしむという習慣があまりないので、来週からは当たり前のように新しいメンバーで、今後とも色々な形で当たり前のように皆さんと向き合うと思います。事業全体として考えると先ほど申し上げた「後進を育成する」というのは同じ会社にいなくてもできることはたくさんあるので、これからも私も後進の一人として見守っていただけると幸いです。皆様の新転地でのご健勝、ご活躍を記念して挨拶とさせていただきます。本日はありがとうございました。」


職場で同僚としているのは今日で最後・・・ミスタースティーブ、何もかもお世話になりました。二人で歩き回った名滝写真集作ってお送りしますよ。また「あずまや」の肉うどん食べに行きましょうねー。
最後に3つお願いです。
1.近いうちに仲良し会社でゴルフ会を企画してください。
2.二人の縁があった証である丸秘作戦を進めてください。
3.(これ重要)ボクの異動の噂を聞きつけたらガセでもいいから真っ先に教えてくださいね。(たぶんそっちのルートが早い)
今後ともよろしくお願いします。

ヒョウ・ショウ・ジョウ

2013-03-27 22:13:53 | 職場
会社でも学校でも4月というのは人も組織も大きく動く時期だ。我が社もその昔は2月末くらいから、管理職から順番に1週間おきくらいに異動の発令があり、それぞれのポジションで「リーチ」がかかっている(例えば●年目とか)人はそわそわしたりしたものだ。しかし最上級幹部は6月の株主総会前後で役員人事が確定することもあり、ウルトラ警備隊でいう「キリヤマ隊長」のように現場一線の指揮官でちょうど平民との境目にいる人が中途半端に早く抜けてしまうと仕事上えらい影響が大きいらしく、現在は何となく全定期人事を7月くらいにもっていこうという動きがあるようだ。

私は何故か二つの会社に在籍しているのだが、大きい方はともかく地方圏を基盤とする会社の方は業界でも有数の高年齢のシルバー会社である。つまり毎年々々お辞めになる方が実に多く、この方達は会計上3月末をもって職を辞するのが普通だ。昨今は管理者の場合これすらも7月に引っ張ろうという方向にあるようだが。3月25日はこうした人達が(口頭も含め)発令されるため、オフィスは普段あまり顔を合わせない人達でごった返すことになる。通常の異動であればその手のことは直接の上司から行うのだが、「退職」などの大きなイベントだと私の出番がやってくる。

その日は80人近くの方に多種多様な辞令を読み上げる(ある時は文書をお渡しする)羽目となった。一言に退職に関わる発令と言っても何種類ものパターンがある。一旦、全国区の本体会社を退職し地方圏会社に再就職するパターンもあるし、我が社の職は辞していただくが契約社員として残ってもらうケース、そして完全に我が社(グループ)を去ってしまうケースである。誰が決めたのか知らぬがパターンによって様々な伝え方がある。「3月31日をもってご退職いただくことになりました。」というのもあるし、退職の辞令とともに内定の通知を行うのもある。また場合によっては契約内容まで口頭で伝える時もある。

また会社のルールによっては「辞令書」として書面をお渡しする人と口頭で伝えるだけの人がおり、口頭発令の紙面は資源節約から雑用紙又は裏面利用紙になっている。ただ受ける人は紙面をもらえるのかそうでないのか知らない人が多く、卒業証書のように一歩前へ出て紙を受け取ろうとする人に慌てて「いやいやー、これは違うんですよ」としどろもどろになることが多かった。元からそうだが威厳も何もあったものではない。。。
一番分かりやすいのはホントに我が社を去る人で、この方々には感謝状と記念品をお渡しすることになっている。いわゆる「ヒョウ・ショウ・ジョウbyパンナム」ばりの立派な紙面である。むろん記念品はトロフィーではなく2枚の羽もついていない・・・今回はこのような方が38名いらっしゃった。私にとっては38回だが一人ひとりにとっては「初めての還暦」と同じ1回きりなので、全部読み上げてあげたいところだが、名前以外は全て同じ文面なので時間を考慮して以下同文とさせてもらった。

今ほど奇妙奇天烈ではないが、それでも人の名前というのは漢字からは想像もできない読み方をする場合もあり、トミーが読み間違えやすい字には付箋紙を付けてくれているのだが、うっかり「おしょうさん」などと読んでしまうこともある。。。まったく恐縮しきって遠くから手を差し出す方もいるし、にっこり笑顔でという人もいる。必ず一言かけるようにしているが、感極まっている人もいるし街角でティッシュをもらうように去っていく人もいる。どんな人も皆何十年も勤めてきて色々な表情をしているのが分かるし、人生の節目でこんな私からの頼りない読み上げでは申し訳ないとも正直思う。ちなみに記念品は何種類かあって結婚式のカタログ引き出物のように自分で選べるそうだ。

一通り終わると全員が横に並び、一言ずつ挨拶をしていく。一番長い人で47年?!短い人でも35年・・・とても一言では言い表せないだろう。息子甘辛が卒業した時もそんな表情だったし、私がこれまで経験した卒業や転勤など小さな転機ではあろうが、「もしかしてオレって非情?」と思うほど節目というものを感じない。どんな局面にも「今日で最後」というのはあるのだが、感傷に浸ることなどなく翌日になると綺麗さっぱり前のことは忘れていた。何度も言ってきているように回遊魚は「死なない限り何事も通過点に過ぎぬ」からである。このまま転職せずにいれば遠からず彼らのようにヒョウ・ショウ・ジョウをもらうことになるだろうが、どんな気分になるのだろうか?恐らく「お弁当メール編」を紹介した東京ガスの感動CM「家族の絆・おてつだい券」のようにはならないと思う。

少し前は「定年退職で花束をもらい、明日からは第二の人生・・・」なんてのは欧米の「自分で切り開くキャリア人生」のようなスタイルに比べて「今時流行らない」と私も思っていた。終身雇用が崩壊し、日本企業の停滞の原因は年功序列制であり、成果主義・能力主義に移行すべきと言われて久しい。しかし我が社もそういう制度を組み入れてきているが、今お辞めになる人たちはベタベタの年功制度で会社を発展させてきた人たちである。時代としては彼らのような人が大半を占めるようなことはもうないだろうが、大震災後のそれこそ「粉骨砕身」の「滅私奉公」ぶりを見ていると、「長くいるだけでも得られることは多い」と思わざるをえない。

ただホントに引退する人たちに「これからは好きな趣味を楽しみ、今まであまり馴染みのなかった地域に貢献し、家族に感謝して有意義な人生を送りたい」などと言う人が多かったのには多少気になった。いかにも今までは仕事で忙しくてそういう暇ができなかったが、これからは十分な余暇ができるのでそれを謳歌したいように聞こえるが、私の(長くない)経験では「ある一定のゴールラインを設け『これさえクリアすれば』と途中プロセスを無視して企てたことは高い確率で実現しない。「これさえ乗り切ったら(やりたかった)アレができる」とか「ちくしょー、今忙しくて何もできないが、一段落ついたらアレやってこれやって・・・」などと考えて思いついた時に実行しないとホントに「できるようになった時」にはやる気が失せていたり、何をしたかったのか分からない」事態に陥ってしまうことが多いのである。

「やりたいことがあったら、無理やり時間を作っても一番忙しい時に行う。」というのが回遊魚の原則である。忙しいという字は「心を亡くす」と書くが、ある程度ジョブが詰まっている方が脳が活性化し時間を作りやすいし、色々なアイディアが生まれやすいものだ。どこに行っても回遊魚の仲間を増やすためにこういう「生き急ぎ」とも言われるスタイルを勧めている。昨年、引退した大先輩は4月を迎えて悠々自適の生活をしていたが、突如体調を崩しほとんど死にかけた結果「ドラム」を始めて元気になったという。私はそんなに忙しいわけではないが、今ですら色々と手を出しているからヒョウ・ショウ・ジョウをもらって仕事をやることがなくなると退屈してバッタリいってしまうかもしれない。

さて我が社にとっては4月というのは多くの大先輩が我が職場を去って行く時期だ。そして私の職場ではこのサイトで登場回数ダントツの巨匠「スティーブ」もいよいよ我が職場を離れることになった。昨年は八兵衛だったが、これは時期がくれば避けられないことだ。先週末は職場のメンバーでは初めてのゴルフ&旅行会だった。この「職場の父」のような存在だった人については別途、記事を綴ることにしよう。

中学最後の公式戦

2013-03-20 06:21:11 | 少年サッカー
息子甘辛の中学最後の公式戦が終わった。多摩川沿いの河川敷で何度か訪れた会場だ。暖かかったが少し風のあるコンディションだった。小学生の頃は移動の車だしやら会場の設営やら保護者が協力して直接携わっていたから、試合などはほぼ毎回見に行っていたが、中学のクラブチームではそういう必要がなく(むろん自分達で行う)、単なる観客となっていた。学年別の小学チームとは異なり、U15、14、13というまとまりで、チームに色々あって同学年で加入したのは甘辛を入れてわずかに2人だったために、上位学年と一緒に試合に臨んでいたが体格差もあって最上級生になるまではほとんど出番らしい出番はなかった。。。これまでそういう話はあまり聞かなかったが、小学校では県トレまで選抜されたのに未だ本格成長期間とは言えず、ベンチを暖めるのはずいぶん悔しい思いをしたらしい。子供がポツンとベンチに残るような試合など見に行くはずもなく、何となくクラブチームの活動とは疎遠になっていたものだ。しかし彼は試合には出られずとも練習だけはひたむきに通い、受験のある3年生になっても塾よりも練習日程を優先していた。

中高の本格活動期間は短い。3年生になると部活は夏休みの大会で引退し、受験勉強に備えるのが普通だ。私も結構ひたむきに部活をしていたが、ラッキーにも1年生後半からレギュラーになれたことも影響したのか、最後の夏の大会が終わったら引退することに何の迷いも無かった。実際は大会初日前の練習で左手を骨折し、最後の大会は出られない、というオチがついたが。しかも茅ヶ崎市では優勝し県大会まで進んだのである。まったく存在感のないと苦笑していたところだが、そのお蔭で夏休みは全く何もすることがなく、勉強ばかりしていたのが幸いして第一志望を突破できたようなものだ。息子同様、父親も結果オーライ人生の始まりだった。

高校になるとどの時点で引退するかは自分で選択するようになる。進学校の場合、夏休み前のインターハイ予選あたりで大学進学を目指すものは引退してしまう。正月の選手権予選は秋口から始まるが、まともにこれを突破しようとチームに残る3年生は大抵が浪人覚悟で「燃え尽きたい」という選手だけだった。インターハイ予選は6月くらいに始まるから、早く負けてしまうとあっという間に3年生は抜けてしまう。新入生にとって3年生は「神」のような存在だが、一緒にプレーをすることはほとんどないのが実情だ。また青春真っ盛りの高校生ともなると部活以外の楽しみ(誘惑)も多様化し、中学選抜を何人も出した我がチームの出身者も高校卒業までサッカーを続けたのはなんと私だけだった・・・

さて息子甘辛のチームには後から一人加入したが、最上級生が3人ではせっかく試合に出場できるようになってもチームとしては甚だ弱小だ。大きな大会が結構あったが、ことごとく1回戦負け・・・夏休み明けの大きな大会にあっさり負けた時、そろそろ割り切って次の準備をしたらどうかとも思ったが、受験の準備にサッカーを一時的に休眠することなど全く考えていなかった甘辛は初めての進路相談で担任と母親を相手に「3月までサッカーは続けます」とこともなげに宣言して周囲を驚かせた。秋も深まりクラスや塾でも緊張の雰囲気が漂い始め、また残念ながら「サッカーで進学できるほど優れた技能を持っていない」と気付き始めた甘辛と我々は話し合い、塾を増やして練習日を削り、試合出場を公式戦だけにするなどして少しずつ受験モードに入っていった。

それでも「部活はとっくに引退し」1日数時間も入試勉強に打ち込んでいるのが普通の受験生だと思うと息子を「遊んでいる」としか思えず、「いい加減にやめて、一生でこの数ヶ月間くらい集中しろ!」とどやしつけたものだ。年末になって「親子で受験勉強」などという奇妙なモードに突入し、大晦日まで模擬試験を受けるほど「その気」にはなったようだが、最初の面接日の週まで欠かさずに週一で練習には参加していた。真面目に入試勉強を始めたのはたぶん私の母校を志望校にしたからである。たまたまサッカーが強いというだけで志望候補になる学校が2つ集う選手権予選の試合があって、パスを中心とする比較的クレバーな母校のプレーをいたく気に入ったようなのだ。身体がまだ小学生体型だからスピードとパワーで押しまくるプレーは逆に好きになれないようだった。

前述のとおり正月明け、わずか1週間であっさりちゃっかり進路が決まってしまった。面接で「サッカー部入部」を宣言していた息子は合格発表日に部の監督から声を掛けられその週末から練習に参加する気の早さである。それから2ヶ月、現在のクラブチームの活動と進学先サッカー部の2足のわらじを履いていたが、いよいよクラブチームの最後の公式戦を迎えたのだった。このチームで1,2年のうちはほとんど華々しく活躍した経験もなく、最上級生となっても「出ると負け」状態だったのに、結果オーライだったから良かったものの、下手すりゃ思いもよらぬ進路を辿った可能性もあった・・・あまり接点がなかった私には「彼にとって、このチームでの活動とは一体何だったのか?」とも思えたのだが、卒業文集を読んで初めてその心境というか、存在がわかったような気がする。

「・・・試合に出られずに悔しくてしょうがなかったが、このチームが楽しかったから続けられた・・・少なかったが同じ学年のチームメイトにも支えられた・・・」そして前述のように「この経験をどう活かすか、将来が楽しみ・・・」と結ぶのである。彼にとってはこの上もなく居心地のよい場所だったのだな。
そう言えば父子で面接のリハーサルをしていた時に「中学校生活で辛かったことは何ですか?そしてそれをどう克服しましたか?」という私のアドリブ質問に対し、真顔で彼は答えた。「身体的な成長が遅いこともあって、努力しているのに体力的に試合に出られないときが辛かったです。その時はチームメイトを助けて支える方に回ろうと思いました」私は正直、息子ながら実に立派だと思った。(こいつはこのまま受かっちゃうかもしれぬ)と初めて思ったのもこの時だ。

紙と鉛筆による答案用紙、その他これまでの結果だけで進路が決まる「進学」というのはむしろ異常なケースで(実際に面接もあるようだが割合は小さい)、社会人以降は圧倒的に「面接」で人物判断されることが多い。甘辛はクラスメイトの間でも「うるさい人」、「変な人」の上位にランキングされ、「イジられ役」として溶け込んでいたようだが、社会に出てからは決して入学時に成績としては対象とならないことで評価されてしまうことばかりなのは不思議だ。例えば「何となく『いいね』という感じがする」とか「何を言われても打たれ強そうだ」とか「何かこう、イジりたくなる人柄」などというものだ。入試という試練をかわしてしまったのはどうかと思うが、あの歳で「面接で買われた」とすれば親としても将来が楽しみである。

ここ1、2年、息子の試合からは遠ざかっていたが、週末は最後の公式戦を見に車を走らせた。こういう時唸るようないい試合を見せてくれると物語になるのだが、現実はそう簡単にはいかず目を覆うほど厳しいゲームだった。リーグ戦の中では最も苦手とする相手で、最初から呑まれていたのか動きにも精彩がなく序盤から失点を重ねていた。とくに守備的MFの位置にいる甘辛は変幻自在に動く中盤に翻弄されまくり、いつものプレーが全くできないようだ。「お前は3年間何やってきたんだよ!」という監督の怒号が自分に向けられているかのようにグランドに悲痛に響いた。後半少しエンジンがかかりいいプレーもあったが、結局大量失点のボロ負け・・・「これが3年間の成果か・・・」と無言になってしまうような最終戦だった。試合後応援席に挨拶に来た時にキャプテンの3年生は悔しさのあまり泣き崩れ、「こういうこともあるわなー」と我々は薄曇った気分で会場を後にした。

その晩、妻は用事があったので甘辛の帰宅を待っていると「飯を食ってかえる」というメールがきた。どんなに意気消沈して帰ってくるんだろう?東京ガスのCM「かぞくのはなし・最後の大会」のようなシーンを想像していた。私はシミュレーターゴルフで1時間ほどクラブを振り、帰宅してくるとちょうど息子が帰ってきたところだった。風呂に入り「中々、厳しい試合だったな」と落ち込ませないように注意して聞いてみると「いやあ、あのチーム苦手なんだよ。全然だめねー。でも昨日の相手の方が強いんだぜ。」前日も見に行ったが負けはしたものの結構いい試合をしていたのだ。しっかし全く落ち込んでいる気配がない。私もそういうところがあるが、華やかに有終の美を飾ろうが泥沼で山ほど悔いが残ろうが「通過点」は「通過点」に過ぎない、と考えているらしい。
 
     

「締めくくり」が大きな意味をもつのはどうやら歳を取ってからのことらしい。続けているうちは「終わり」や「負け」はない。「さよなら銀河鉄道999」のメーテルの言葉を思い出した。「若者は負けることは考えないものよ・・・」
今日は「3年生を送る会」だが、活動は月末までありまだ練習試合などにも出る気でいるらしい。あまり未練がましく残ると甘辛の代わりにベンチに下がる選手に申し訳ないが気の済むまでやればよいと思う。進学する高校には野球部他グランドを共有する部活がほとんどなく、サッカー部専用グランドのようなものだから、見に行くとしても自家用車で県内中を走り回ることはもはや無かろう。毎晩のように送り迎えしていた妻に「お疲れだったねー」と言葉をかけ、「この車もうすぐ車検だよな。もう燃費を気にする必要もないから、次は外車でも買うか・・・」と話しながら横浜新道を家に向かったのだった。

湘南「にら」観察日記作戦

2013-03-17 21:04:59 | 出来事
このサイトでも何度か紹介した茅ヶ崎駅南口にあった北京亭。。。オリジナル中華丼(タローメンも同様)以外はまた別の機会にレポートすることにして、本日の話題はかの店のメニューにほぼ100%登場する無くてはならない食材、「にら」である。我が家の食卓にのぼるメニューでも炒め物系はもちろん、餃子、韓国風チヂミなどの焼き物、スープやモツ鍋などの汁モノと多種多様な場面で登場する。単身生活の時でさえ、タマゴとモヤシの中華炒めモノにぶち込んでおかずにしていた。家族揃って口にする機会の多い栄養野菜だ。今まで何故か「自分で栽培しよう」などと思ったことはなかったのだが、ひょんなことから親愛なる師匠が街の美味しい名物珈琲と共にその種を贈って下さったのである。

  

届いたモノを見た時、私は歓喜して早速地面の少ない庭に蒔こうとしたのだが、ここで脳裏に住まう白髪の「老師」からの声がかかったのである。「ちょっと待て。お前はいつも何かあるとすぐに動きたがる。今でよいのか、場所はどんなところがよいのか、ちゃんと調べてから植えるべし」
そうだった、そうだった・・・その昔、庭をカナダグリーンで埋め尽くしたくて、整地の上種を蒔いたが広すぎて全然密度が足らず、追加で蒔いた種を全部小鳥に食われてしまった惨劇を思い出した。師匠に御礼と共に伺うと「春先でいいんじゃないか?」とおっしゃる。はるばる箱根の関を越えて湘南のこの地にやってきた師匠の土地の種である。是非根付かせて我が家の土という土(どちらかというと砂)を「にら」で覆い尽くしたいものだ。

かくして、我が家の三河産?ユリ科植物繁殖計画がたてられたのである。何せ我が家の多数のメニューに登場する野菜を自家栽培できるとなる意義も実に大きい。まずは老師の指示通りインターネットで色々と調べてみた。スーパーでよく買ってくるにらだが、詳しい生態は全く知らず、匂いが分からない時は「わけぎ」と間違って買ってきたこともある。ちなみに「わけぎ」と「あさつき」と「万能ねぎ」の違いは未だに分からない。。。
「にら」は中国原産のユリ科の多年草で硫化アリルによる独特の香気を持ち、カロテンが多く含まれている栄養野菜ということだ。生育適温は約20℃だが、暑さにも強く、春から夏にかけて生育し続けるようだ。生育中は盛んに株がぶんげつ(根元付近から枝分かれして増えること)するので、1年の間に幾度も収穫できる。ひとたび植えておくと4〜5年は収穫できる。。。なんと、素晴らしい植物ではないか!

まるで植物は繁茂し放題という我が家のための野菜のようだ。しかし栽培する場所としてはどこがいいのだろうか?にらは日当たりと水はけの良い場所を好むそうだから、土質としては悪くない(むしろ砂地だから水はけ良すぎ?!)。圧倒的な日当たりを誇る庭正面は全てウッドデッキで埋め尽くしてしまったからな。昔、ジャガイモを植えた「一坪菜園」の周りは比較的日当たりもよいが・・・絶望的な草むしりを強いられていた時、周辺にはにらに似た植物が繁茂していたが、妻に言わせると「毒があるから食べられない」という。どうもスイセンという植物のようだ。球根で中々抜けず、いくら取っても次々に復活してきて実に難儀した。間違って収穫してはまずいから、この周辺はダメだなー。

  

東南側のお隣りのフェンスと新設ウッドデッキの間の細長い三角地帯も日当たりはよいから雑草が結構すごい。軍手をして草むしりを始めたのだが、元々芝で覆われたエリアだったのでその残骸がはびこっていて、全くと言ってよいほど草が根っこからは抜けない。シャベルを持ってきて15分ほど格闘したが、ほとんど戦果を上げることができず撤退を余儀なくされた。最後の候補が我が家に唯一残った小さな梅の木の手前である。ここは南側の隅っこだから我が家の中では日照時間が短いほうだが、芝エリアでは無かったので砂地であり比較的草むしりはしやすい。早速周囲の草をむしり、以前一坪菜園を構成していたコンクリブロックを持ってきて周囲を囲った。ところがである。やはり梅の木の向こう側、ブロック塀の隅にはスイセンと思われる植物が・・・どうも我が家はいたるところに茂るスイセンの楽園のようなのだ。ブロックで囲んだとは言え、やはり飛び火して混合してしまっては気持ち悪い。かくして残念ながら我が家での自然繁茂作戦は諦めるに至ったのだ。

      

ウッドデッキの下に以前から置いてあった大きな鉢植えがいくつかあった。ここに土を入れて栽培することにしたが、ここで理系の血が騒ぎ始め、せっかくだから色んな種類の土を入れて、どれがどのように生育するか(はたまたもしかしてダメか?!)「観察」してみることにした。タネから育てる時は3〜4月の春まきにするようだから、ちょうど今がよい。AMAZONで5種類の土を購入し、5つの鉢にこれを入れていただいた「にら」の種を15粒ずつくらい撒いて水をやった。最後の一番大きい鉢は6種混合のスーパーソイルである。これらを我が家で最も日照時間の長い(発芽しないと意味ないけど)位置にずらりと並べた。正直、雑草取りや肥料など気の利いたケアは全くと言ってよいほどできないと思うが、調子がよいようだったらこれに印をつけてブロックエリアに移せば毒花と区別できるだろう。

    

あまり容積を考えずに土を買ってしまったから(5lで500円くらい)、かなりの量が余ってしまい、さらに茅ヶ崎の実家にはその倍くらいの家庭菜園用土が余っていて「持っていけ」と言うので、全部ブロックエリアに撒いておいた。ガーデンを愛でる人には叱られそうな「いかにも粗雑」な方法だが、試しにやってみるシリーズに「にら生育観察日記をつける」を加えることにする。 元々は師匠のお宅の庭に自然繁茂していたものだそうだ。直線距離にしても数百キロ、鳥た風の力に頼って種が自分でここまでやってくることはありえない。この湘南で三河産の「にら」がどうか収穫できますように。もしできたら、そのにらを使って茅ヶ崎北京亭名物「たまにら(正式名『タマゴニラ炒めライス』の白衣クッキングと行こう。

ホワイトな日

2013-03-14 20:12:01 | 出来事
昔、巨人にいた4番打者ではない。餃子の店でもない。ベタなタイトルにするとネット上の色んな網に引っ掛かり面倒くさいから捻っただけだ。今日はホワイトデーである。私の記憶では2月14日をバレンタインデーといい、ラッキーな男子は女子から告白とともにチョコをもらえるという法則を知ったのは小学校高学年、当時その1ヵ月後の「ホワイトデー」なるものは確かなかった。つまりあくまで「告白」のイベントであり、「お返しする」などという文化はなかったのである。高校くらいだったろうか、「バレンタインにチョコをもらった者はその1ヵ月後に『マシュマロ』を返さなければならない」といういかにも後付の都市伝説のような話を聞いた。「そんなのバレンタインと一緒でお菓子業界の作り話に決まってんじゃんか」(実際そうだったようだが)と思っていたが、バレンタインの神聖さは何となく感じていたので、本気でもらったチョコに対しては「応えるつもりなら自分から逆告白するのが礼儀、断るなら『ごめんなさい』の意味でマシュマロを贈る」と勝手に解釈していた。むろんそういう事態になった時の行動指針で、実際に適用したことは限りなくゼロである。

そのホワイトデーだが、その後どうも「キャンディ」を贈ることで定着してきたらしい。もはやバレンタインもホワイトも国民的行事と言えるほど浸透し、神聖な告白儀式はほとんど姿を消し、「清算」の意味合いの濃い「義理チョコ」、親愛さを確かめる「友チョコ」などが主流となっているようで、14日少し前にはそれぞれお菓子屋は華々しくバレンタイン-ホワイトフェアなるイベントに長蛇の列ができるシーンがあちこちで見られる。テレビでOLがインタビューされていたが、職場では一人何十個と買い込み、渡すタイミングや作法?も色々難しいモノがあるらしい。例えば明らかに全員同じモノだと「いかにも義理」なので人によって少しずつ変えるとか、郵便物のように配って歩くのではなく、さりげなく離席している時に机に置いて行くとか・・・チョコにも身分差があり、先輩のお局よりも立派なチョコを買ってはいけないそうだ。本来の意味からは遠くずれて行くような気がするが、女性軍がこのような目に見えない気配りをなさっていることを考えると「3月14日は3倍返しで」というのも分かるような気がする。

我が社もルーキーズに限っては女性社員の割合が4割くらいになっていると聞いたが、全体の割合はそれほど多くない。それも地方圏で「技術屋」を名乗る集団ともなると女性の数は激減し、職場にはわずかにしかいないのが実情だ。ドラマで見かける(かなり偏っている?!)「全面ガラス張りのドアの奥には観葉植物が置かれ、首からIDカードを下げた長身の『天海祐希』のようなパンツルックの女性上司がプラスチックカップのコーヒーを片手にカツカツ歩いてきて『ちょっとキミ・・・』」なーんていうシーンはどう考えてもありえない。それでもこれまでどの職場でもほぼそうだったが、我が社では女性社員が費用を出し合ってチョコを購入し「総意」としてプレゼントしてくれる、という実にスマートな方式を採用しているようだ。個々の構成員が他者を気にすることなく作法や序列も意識しなくてすむ、極めて賢い方法だと思われる。

中高生などではまだまだ「神聖さ」が残っている(何せもらえる者ともらえない者が現れる)らしいが、日本ではそれ以外の圧倒的多数派にバレンタイン&ホワイトデーがなぜ国民的行事と言えるほどに浸透したのか?個人的には神聖な儀式を尊重したいものだが、思わず膝を打ったのが先日読んだ「ルース・ベネディクト」の著書「菊と刀」である。タイトルだけ見ると何やら国家主義的な臭いがしてしまうが、講談社学術文庫では「第二次大戦中の米国戦時情報局による日本研究をもとに執筆され、後の日本人論の源流となった不朽の書。日本人の行動や文化の分析からその背後にある独特な思考や気質を解明、日本人特有の複雑な性格と特徴を鮮やかに浮き彫りにする。“菊の優美と刀の殺伐”に象徴される日本文化の型を探り当て、その本質を批判的かつ深く洞察した、第一級の日本人論。」と紹介されている。最初のうちは何を言いたいのかよく分からず頭から湯気が出そうだったが、そのうち何となく分かったような気分になる手強い著書だった。

丁度、バレンタインデーの前後でこの本を読んでいて、なぜに日本では「義理チョコ」という型がこれほどまでに浸透したのか(合ってるかどうかは分からぬが)電撃的に閃いた。詳しく書くともの凄い字数になってしまうと思うので思い切り端折るが、日本文化を語るのにキーワードは「恩(オン)」、「義務(ギム)」そして「義理(ギリ)」ということだ。日本人には「恩」を抵抗無く感じる人はほぼ決まっている。両親・保護者、学問・武道の師、主君などである。これらの人には生涯かけて報いなければならない「義務」をほぼDNAレベルで感じている。親はかつて自分の親が自分に施してくれたように、子供に100%の愛情をもって衣食住を保証し教育を受けさせる、恩師には届け物を忘れずに窮乏していたらこれを助ける、主君がみまかったらその遺児に尽くす・・・元々生きているだけでこれらの人には「負債」を背負っているということになっている。

一方で言われなき人に「恩を施される」ことをあまり好まない。むろん人の好意を拒否するわけではないが、何となく「負い目」を感じて警戒し、負債を持ったままでいることを嫌う傾向にあるという。街中で飛ばされた帽子を拾ってもらった時に大抵の日本人は「すみません」という言葉を使う。アメリカ人から見たらどう考えても「ありがとう」と言うのが正しい。「手を煩わせて申し訳ない」というお詫びの気持ちもあるだろうが、ルースはこの現象を「私は(他人の)あなたに言われのない債務を負ったと感じ、このままで済ませてはいけないと思っている」という気持ちの表れだというのである。人から何かを頂く、おごってもらう、自分のために何か骨を折ってもらう、はたまた自分の味方になってもらう・・・そのまま放っておくのは何か「恩知らず」のようで気持ち悪い感覚は誰でも分かるだろう。

全部が全部そうだと思わないが、日本を訪れたことのない著者が「なるほど!」と思われる分析をしているのは驚くばかりだ。実はちゃんと気持ちがこもっていて、こんな事を言うと次からもらえなくなるような気もするのだが、バレンタインの「義理チョコ」とはまさしくそういうものじゃないかと閃いたのだ。
学校ではあまりないかもしれないが、社会人の間で女性は友人、同僚、仕事相手など(特に数の少ない場)では「レディ・ファースト(その反対もあるかもしれないが)}なことが結構見られるように思う。簡単なことで、「重い物を運んであげる」とか「飲み会の会費が安い」、「移動の際、運転は引き受ける」などなど・・・たまには奢ってもらうこともあるだろう。

しかしルースに言わせれば、見た目の関係以外に何の感情も持たない彼女らにとってそれらの「気遣い」はただの「負債」でしかなく、そのままにしておくのは気持ち悪い。バレンタインがその「清算」の場となっているのではなかろうか。。。メッセージに「日頃からお世話になっている感謝の・・・」とよく書いてあるのはこのためか。文字通り義理チョコが「これで借りは返したからね」という意味のものだとすると、1ヵ月後に3倍にして返すのはさらに負債を増やすことになり、あまり的を得たものとは言えないことになる。まあ、こちら(私だけ?)もこのイベントのやり取りを楽しんでいるところもあるので、素直に受け取ってその後忘れてもらってよい。

今年は若手の女子社員たちからランドマークプラザで店を見たことのある、何かゴージャスなチョコレートを頂いた。別用があってたまたま普段しないようなピンクのネクタイ(フェラガモだぜ)をしていたところ、代表で私に来てくれた女子社員が「あれーっ?今日はチョコもらえるからピンクなんですかー」と鋭く指摘され慌てふためいた。「そ、それは関係ないです」
お返しはいつも妻に考えてもらうことにしている。自分で選んで「大外し」する危険を熟知しているからである。昨年は「マカロン」とか言うお菓子の姿をした石鹸か何かだったと思う。一人一人に返しに行けないから代表の人に受け取ってもらい配っていただく。

今年は「一夜城ヨロイヅカファーム」のお菓子となった。熱海に釣行した帰りに寄ったとき、「バレンタインのお返しはここのがいいんじゃない?あなたしか買いに来れないよ」という妻の言葉で決まった。その場で買い置きしようとしたら「ダメダメ、ここのは賞味期限があるんだよ」
3月になって週末、早朝に母を竜泉寺へ連れて行った後、天気がよいのでドライブがてら西湘バイパスを疾走し開店直後のヨロイヅカファームを訪れた。師匠にいただいた「ほしの珈琲」を堪能するためにそのお供とするケーキと師匠へのお礼(ちなみにこれは「債務感」からではない)、そしてホワイトデーのお返しを購入するためである。開店してすぐなのに店の中はかなり混みあっていて、レジに長く並ばされた。ちなみにケーキ類の包装にやけに時間がかかると思っていたら、1個1個円筒形の厚紙で保護し、箱の下にテープで固定すると共に、横壁と蓋には保冷材が張り付いているという丁寧さ・・・

一人当たりにすると1個になってしまって申し訳ないのだが、人数分の焼き菓子セットを二箱持ってレジに並んでいると、「この商品はこちらが3月12日、こちらは3月17日が賞味期限となっていますが、よろしいでしょうか?」へっ?どう見ても乾き物の焼き菓子の賞味期限がそんなに短いの?3月14日当日にお渡しするつもりでいたのだが、片方は賞味期限切れになっちゃうのか・・・わずか数日だがどうにもまずい。かと言って別の商品を選び直してもう一度長時間並ぶのも嫌だ。最悪どこかの悪徳菓子メーカーみたいに「賞味期限偽装工作しちゃえばいいや」と悪魔の囁きがあったが、「確か次週(6日)は若手社員達の発表会があったはずだ。打上懇親会にはチョコに名を連ねていた女子社員もいるだろう。賞味期限が12日のヤツはそこで配れるだけ配り、残りはその場にいない人に14日までに配ってもらう」私は2.5秒程度で決断した。
先日、無事全員に行き渡ったようだ。何人かの人がお礼のメールをくれたが、こちら北関東の人ばかりではないとは言え、さすがに小田原の一夜城など知らない人ばかりのようだった。あまり話題性ばかり追求すると空振るものだが、そこもまあ楽しみの一つということで。

  

ちなみにホワイトデーは完全日本オリジナルのイベントのようだが、韓国や台湾などアジアにも広まり、浸透してきているらしい。特に韓国では恋愛に関わる「14日」の設定がやたらに多く、毎月なにかしらの●●デーというのがあるらしい。笑ったのは4月14日のブラックデー・・・韓国ではバレンタインやホワイトデーで贈り物をもらえなかった人が黒い服を着て韓国風の黒い麺を食べるのが習慣だそうだ。韓流ドラマでは「今年はチャジャンミョン(韓国風麺)を食べることになりそう。。。」というセリフが「今年は恋人ができそうにない」という意味になるそうだ。
自分で書いておいてなんだが、「義理」だ「債務」だなどというよりは、朗らかな文化だと思う。たぶん4月14日に黒い服を着ている人は「私、恋人募集中」と公然と言い放て、黒服同士仲良くできるではないか。私はもうそのような対象ではないが、こういう趣向は嫌いではないので、もし日本にそういう記念日があったら大喜びで黒尽くめのスタイルで街を闊歩するだろう。

先週は煙霧という現象に悩まされた週末だった。すごい強風の中、毎年訪れる曽我梅林へ。数日前に梅まつりは終わってしまっていたが、人がいない分のびのびと楽しめる。(ただし農道を歩くまではよいが、梅の木の下までは入っていけない)2月から3月は梅の季節・・・私はなぜか桜よりも梅を好む。ここは10種類3万5000本以上の梅が咲き誇り平坦で広々と視界が開け寒い日には富士山も美しい、この辺りではもっともお気に入りの梅エリアである。我が家の季節遅れの木もつぼみが膨らんできた。息子甘辛も卒活(卒業時に好きな女子に告白し、あわよくばそのまま付き合ってしまう土壇場活動)にいそしんでいるらしい。4月14日に黒い服を着なくてよいようになればいいですなあ。

         

卒業=通過点

2013-03-10 04:38:07 | 出来事
10年近く前、「さよならぼくたちの幼稚園」を歌った卒園式後、教室で涙ながらに「つらいことがあったらいつでも先生のところへ来てね。待ってるからね」と話す、さと子先生に「それ、有料か?」と聞いた息子甘辛が義務教育を修了した。早々と進路を決めてしまった彼はほぼ2ヶ月近く所属するクラブチームと進学先サッカー部のかけ持って勉強以外で忙しく走り回っていた。卒業式(正確には卒業証書授与式)は平日に行われたために、どうしようか考えたか結局休暇を取ることにした。妻は学年委員会の役員なので前の方に専用席があるため、実家の母親を誘っての出席である。寒かった冬から突然春のように暖かくなりコートもいらないような陽気だった。 卒業式はむろん甘辛の小学校卒業以来だが、自分の卒業式などあまり印象はなかったのに子供のはやたらに色々考えるものがある。

我々は「金八先生」リアル世代であり、物語らしく色々なテーマはあったが、人生最初の試練として「高校入試」を取り上げた最初のドラマだったと思われる。私は受験勉強をしながら見た「課外授業」(タイトル忘れた)を今でも覚えている。
「文化とはふぐちりである・・・昔、海辺に一人の男が住んでいた。その男はとてもお腹が空いていたのだろう、拾ってきた奇妙な魚を食べて、その魚の毒に当たって死んでいく。その魚は『ふぐ』という魚だった。周囲の人は笑った。『あいつはバカだ。あんな気味悪い魚を食って』と。しかし彼は単なるバカではなかった。その証拠に死ぬ前に一言言い残して死ぬ。『どうもオレはあの魚の皮を食ったのがいけなかったらしい』また別の海辺におとこがいて、やはりフグを食って死ぬ。その男は『どうもあの骨がいけないようだ』と言い残す。そしてさらに別の男がフグを食って七転八倒して死んでいく。その男は『皮も悪いかもしれない。骨もいけないだろう。でも、内臓がいかんのではないか?』こうしたバカ達の営々たる努力によって今、我々は安心してフグを食うことができるのだ。我々は何か次の世代の人が幸せになるための『何か』を残さなければならないのである。そのために君たちは勉強しているのだ。」(これ、前に1回書いたなー)

中学卒業は思春期ど真ん中のビッグイベントのはずだが、正直受験までの暗黒プロセスと高校の合格発表までの緊張感で一杯一杯で、残り少ないクラスメイトとの時間をどうのという余裕はなかった。公立高校は発表が一番遅いから、ようやく進路が決まってわずか10日くらいで卒業式である。ホッとしたところも多かったが、私は薄情なのか「3年間の思い出」を蘇らせて懐かしく名残を惜しむようなところがなく、もう次の世界が楽しみで仕方がなかった。(この辺りで既に回遊魚体質が出ているかな?!)卒業式の日、いつもボロい自転車をひいこら漕いでいた担任の先生(女性)に新しい自転車をプレゼントしたが、それ自体の皆の感動に浸ることもなく、ぼーっと教室の後ろの方からクラスメイトを他人事のように眺めていた。むろん、そんな男子に「卒業記念」の告白する女子などいるわけもなく、制服のボタンなど全段燦然と輝いたまま帰宅したものだ。

私たちと大してかわらないレベルだが中学生あたりだと、男子の方がはるかに「バカ」である。最近、教室で流行っているのが「ジャンケン罰ゲーム」でお決まりゲームは「裸学ラン」だそうだ。「大都会」を歌うクリスタルキングの田中さんのようなスタイルか?!入試の終了後はひたすら思い出作りと卒業式の練習ばかりだったらしい。入場行進ではしゃぎ過ぎて前の生徒の肘が目に入り、視界を失って3周ほどその場でぐるぐる回ってぶっ倒れ、病院送りになったヤツもいたそうだ。しかしその卒業式、印象のあまりなかった私にとっては素晴らしいものであった。9時からの開式だったが20分前から前説が入り、全員合唱の練習をさせられた。「式次第終了は11時40分頃を想定しています・・・」へっ?2時間40分もあるの?そんなに長かったっけ?

何せ卒業生は約300人。。。名前を呼んで一人ずつテンポよく卒業証書を渡していくが、たっぷり30分はかかる。そして校長先生の話、PTA会長の話、来賓紹介・・・まあ、どうでもよい時間帯ではある。次が祝電の披露だが、甘辛達が3年前に卒業した時の小学校の担任がメッセージを送ってくれ、卒業生には大きな喜びのどよめきがたった。中々粋なことをするものだ。申し訳ないが市長や議員、有名人の祝電など誰も興味はないから。読み上げられはしなかったが、生徒たちの進学先の高校からも多くの祝電が来ていたそうだ。これまた生徒たちを力づけるものだろう。
在校生の挨拶、卒業生代表の別れの言葉を経て、「別れの歌」を歌う番となった。「しばらく準備の間、お待ち下さい」というから何をするのかと思ったら、何と卒業生全員が舞台の上ったのである。総勢300名ぎりぎりの巨大な「少年少女合唱隊」である。歌は「HEIWAの鐘」、「COSMOS」そして「旅立ちの日に」である。前の晩に「明日何を歌うんだ?」と甘辛に聞いて、一つも知らず、TUBEの「さよなら湘南 MY LOVE」やAKB48の「ギブミ―ファイブ」、はたまた不滅の王者「贈る言葉」を期待していた私は少しがっかりしたが、圧巻の大合唱にものすごく感動した。

    

そしてそのまま場内全員で「さようなら」の大合唱。曲の終わりに各組から「●●先生!ありがとーう!」という(たぶん)担任の先生へのエールが飛び交う。最後にステージから音楽に合わせて卒業生たちは退場して行ったが、当人たちはもちろん保護者の中にも感動のあまり「わーわー」泣いている人がたくさんいた。自分の経験から言ってもずいぶん練習したんだろうと思うが、特にゴージャスに気取らない実に素晴らしい式次第だった。教室に保護者は入れなかったが、名残を惜しんだ後はグランドで在校生がアーチを作りその中をめいめい行進する。整然としたものではなくオリンピックの閉会式のようにフリーなものだ。今でも「卒業式の第2ボタン」伝説はあるらしく、中には全部もぎ取られて「ちゃんちゃんこ化」しているイケメン系生徒もいた。

その日の夕方、謝恩会の後、クラスメイトたちは海浜公園に遊びに行き夜の11時近くまで帰ってこなかった。家に帰って我々は甘辛の持ち帰ってきた色んな「思い出」のアイテムを眺めていた。学校の彼はあまり知らないが、卒業文集のクラスランキングでは「うるさい人」第1位、「変な人」第3位・・・ある女子からのメッセージには「いつも変なことしてておもしろかった。。。」(一体何をしていた?!父ですらそこまでは言われなかったぞ。)
日付指定で両親にあてた郵便には「これまでの感謝とこずかいUPの要求」が書いてあった。修学旅行の写真でチロルチョコを作るとか、中々発想が面白い。 お別れ遠足は東京ディズニーシー、お別れシネマは「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」だったそうだ。

    

4月に3年生のクラスとなった時は「皆、大人しくてつまらないかも」と言っていたクラスメイトだが、後半はサッカーがOFFの時はよく友達と遊びに行き、何だかんだでクラスでは「いじられキャラ」であり、実に楽しそうだった。しかしやはり印象が一番強かったのか卒業文集では学校のことではなく、3年間所属したクラブチームでのサッカーのことを綴っていた。「将来の楽しみ」というタイトルで締めくくりは「・・・・これらの経験を自分が後でどう活かすか、またどういう人になっているか、今は将来が楽しみで仕方がない。」
節目は節目だが、すべてを通過点ととらえ、もう次のことを考えているあたりやはり彼にも回遊魚系の血が流れているようだ。
まずはおめでとう。「卒業とは出口ではなく入り口・・・」これからもがんばりたまえ。(しかし自画像は似てねえぞ)

教わるということ

2013-03-04 22:42:07 | 出来事
「試しにやってみる」第一弾がゴルフ、第二弾がスノーボード(実は第三弾もあるのだが、それはいずれ・・・)、この2点のトライアルに共通して言えるのは当たり前だが限りなく初心者なので「他人の教示を受ける」ということである。それまではガイド本を読んでみたりDVDを借りてきたりと事前学習を行っているが、やはり読むと実際にやるのとは天と地ほどの違いがあるのはこれまでの経験上明らかである。他人の教示は、そこそこの経験者や達人の域にいるベテランに教わったり、スクールやプロのレッスンを受けるなど形は色々とある。スノーボードのデビュー戦は確実にスクールとなるだろう。気軽に練習場に行けるわけでもないから、同行者を拘束しては悪いし、ド初心者がゲレンデで何か起こすと周りに大変な迷惑がかかるからだ。

反対にゴルフは大昔に多少の経験があるし、一緒に練習場にも行けるから知人から教わったり、プロのレッスンも受けてみようと思う。と言ってここでも自分を奮い立たせているのだが、実は私は人から物事を教わったり、逆に教えたりするのが「大の苦手」なのである。さわりを聞いたら後は地下に潜って一人で磨く、というスタイルが多い。正しく言うと昔はどちらも何の抵抗もなかったのに、大人になって下手に余計なことを考えるようになって煩わしくなってきたのだ。このサイトへの投稿に「学ぶ」ということを取り上げることは何度かあったが、「教える」「教わる」という言葉を使ったことがない所以となるあまり感心はされないであろう経験である。

子供の頃は野球やサッカーなどのスポーツにしても、勉強にしても「指導者」「教師」などの言うことは絶対だと信じ、何でも愚直に言われたとおりにしていた。団体競技だから試合に出す出さないは指導者の一存だし、授業態度やテストの点により成績をつけるのも教師が全て決める、という生殺与奪権を持っていることもあったが、ひとたび教壇に立った人やグランドで指導をする人の言うことは無条件で従うような文化があった。「教わる側」は彼らの考えていることは全くわからず、教える側と教わる側にはっきりと「見えない線」が引いてあったのだ。その中には当然のように今で言う体罰やしごきのようなものもあった。少年野球で真夏の炎天下、バケツの水を被りながらグランド50周というのもあったから。

受験を迎えるくらいの年頃になると、「こと入試に関しては授業などあまりあてにならない」ということが薄々分かってきたので「聞いているフリをして」内職することが多くなった。勉学の場合は誰かに教わりながら進めるよりも自分のペースでやった方が効率が良かったので塾や予備校など行くことはなく、ひたすら自室に引きこもって色々と問題集などを手当たり次第こねくり回していた。後になって知ったのはやはり「受験」というモードにおいては「手当たり次第方式」は実に効率が悪く無駄なことを山ほど積み重ねていた。結果オーライではあったが我流でいくと陥りやすい罠である。

スポーツの場合は勉学よりもはるかに劇的な変化があった。何しろ青少年の時に恐いコーチに命令され、ひたすら重ねていたトレーニング、固く守っていた習慣がほとんど全部「意味がない」か「害悪しかもたらさない」ことになってしまったのである。テニスコートにあった「こんだら」という巨大なローラーをひたすら引いたり、うさぎ跳びでグランドを何周もしたり・・・真夏のカンカン照りでもガブガブ水を飲むことは許されず、休憩時に軽く口をゆすぐだけ(むろん顔を洗うフリをしてガブ飲みした)の掟。「蹴って走ってセンタリングシュート」のような単調極まりない練習で死ぬほど走ったあげく、「最後のがんばりを出せるように」100メートルダッシュ30本とか・・・

少年野球の悪友と社会人になってから飲んだりすると必ず「何であんな馬鹿な指導を真っ正直に受けていたのか?一体あの指導者たちは何をしたくてあんなことをさせたのか?」というのが熱い話題になる。「アッパースイングにならないように膝を向かって素振りしろ」「フォームが崩れるから草野球で利き手で打つのは禁止」「コツコツ当てるためバットの真ん中を持って水平に構えろ」当時はそれなりの根拠があったのだろうが、全くもって奇妙奇天烈な命令である。内野手はグラブの中央でボールを受け止めるために「網」を外されてまるでスネークセンターで見たイグアナである。キャッチボールの時に正面に来たボールをグラブの網で捕ろうとすると顔を直撃することになる。

その昔見ていたアニメ「侍ジャイアンツ」では剛速球投手の主人公番場蛮がその絶望的なコントロールを治すために「殺人ノーコン改良兵器」というのが登場する。真ん中に小さな穴を開けたトランポリンを縦にしたものだ。マウンドの前に立てかけて持ち前の剛速球を投げ、穴を通ればストライクになるが、穴を通らない場合トランポリンの作用で自分に目がけてもの凄い勢いでボールが跳ね返ってくることになる。この際ミソとなるのは「思い切り投げなければ穴を通らなくてもダメージが少ない」のに蛮は決して手を抜かないところだ。「グラブの網外し」や「ノーコン改良兵器」など当時のスポ根を強力に表していたものだろう。(しかも前者は実話である)

社会人になってからは昔の徒弟制度のように「仕事を盗む」とか「一人前になるまでに長い時間がかかる」ような職場ではないところばかりだったので、先輩などから何かを教わることはほとんど無かった。さらに人に何かを教えることは輪をかけて少なかった。講演やプレゼンテーションのような「しゃべりっぱ」はたくさんあったが、言葉のキャッチボールを使って特定の人に何か教え込むようなことは皆無に等しい。またこの歳になると自分の知らない分野の仕事について本人は「教わっている」つもりでも、相手から見ると「業務説明」やら下手すりゃ「視察」などと言われてしまう。。。

そんなこんなで自分がこれまで人に何かを教えた、仕込んだと言えば息子甘辛くらいしかない。幼い時にサッカーを始めるというので嬉しくなって色々トレーニングを考案し、それこそ2人3脚のように練習してきた。朝6時の寺の鐘を聞きながら海浜公園で朝練も通った。(役に立ったかどうか知らないが)
中学も後半となると「サッカー行こうぜ」から「勉強しようぜ」に変わっていった。受験生になっても信じ難いことに志望校云々の話が出るまで彼は自分から受験勉強しようとしなかったのである。「3月卒業するまでサッカーは続ける!」と3者面談で豪語し親と担任を驚かせたらしい。それでも年末も近くなるとさすがにそういう雰囲気ではなくなったのか、新しくできたシェッドにこもって私が使っていた机に向かう時間も少しずつ増えていった。この場合は「教える」というよりは「一緒にやる」というニュアンスが近い。高校の入試過去問題あたりが、記憶の隅から知識を引っ張り出し、理解できるぎりぎりの領域であり、自分の脳も活性化されて実に面白かった。

サッカーにしても勉学にしても、少年・青少年期のイマイチ暗い(つまり信じ込んでいた「教える人が実は大したことなかったと気付く」経験から、息子には決して「教える」とは言わず「一緒にやろう」といい続けた。サッカーはどうでもよいが、受験勉強などは下手なことをして失敗するとまずいから、直前はいわゆる勉強そのものは塾に任せ、私自身の迎える「受験」の準備をしていた。これなども資格試験向けセミナーなどが設けられているのだが、自分には全く意味がないことが経験上分かっていたので、息子がちゃっかり進学を決めてしまってもひたすらシェッドに籠もって自習していた。

さて、過去の経験を踏まえながらも長じるに従って「この人は教えることが得意かどうか」は何となく分かるようになるが、教えようとするご本人は実に真剣に教えてくれようとしているのも分かる。また自分もほとんど機会はなかったが何か「教授する」ことがあったら全力を挙げて期待に応えようと努めた。
私がどちらも「大の苦手」なのは教わるほうなら「教えてくれる人の期待通りの向上を示そうと」、「教えるほうなら「聞いてくれる人が少しでも得ることの多いように」にプレッシャーを感じてあれこれ色々考え、終いにはヘトヘトになってしまうからである。この歳になると「人に何か教わること」がほとんどなくなるから、新しいトライアルの機会は貴重だ。全くの初心者同様なら「昔のようにはいかない」という言い訳が使えるから「覚えが悪い」ことの罪悪感をあまり感じなくてすむ。

ということで、しばらく「試しにやってみる」シリーズは「人に何かを教わる」という忘れかけていた感覚を取り戻すことも視野に入れることにする。試しにゴルフ練習場で達人の域にいるスティーブに教わったが、彼は実に教えるのがうまいと感じた。(私相手に多少遠慮しているようでもあったが、とにかく言葉がシンプルでわかりやすい)
よく言われているように「教わり上手」の人は何かにつけて向上するのが早い。子供の頃は無邪気に指導者の言うことを聞いていたし、そもそも年齢的に人の動きをコピーする能力が高かったから、何をやってもすぐに上手になれた。大人になって邪心に満ちてからそうはいかなくなった。トライアルの対象は「ひょんなこと」をきっかけに発生するものだ。できるだけ「無邪気に教わる」こと、ただし「足元には気をつける」こと。。。なんだ、ここ数年「標語」としている事柄ばかりじゃないか・・・

ちなみに先週末、スティーブたちに連れられ、ようやく「試し第一弾」ゴルフコース再デビューを果たした。ゴルフウェアまで持っていないから、それらしいスラックス(って今は言わないのか!?)にヒートテックにリフト券ホルダー付きのスノボウェア・・・というイマイチ成りきれないスタイルだ。行きの新幹線はスキー場へ行く客でほぼ満席、私も似たようなウェアだったが、何故かお友達に借りた「ユーティリティ」というクラブを抱え、3列シートの真ん中席で両側をいかにも「受験生」に挟まれ何もできずにじーっとしていた。車内はスノボ客で賑わうなか、ノートを開いて最後の準備に勤しむ受験生は少し気の毒だった。ゴルフコースは風速10メートルを超すすごい強風で、ティーアップしてもボールがこぼれおちるほどだったが、そんなハンデを差し引いても練習場とは大違いで、数えるくらいしかまともに当たらず、「行き先はボールに聞いてくれ」状態。。。スキーと一緒で20年の間に道具もだいぶ変わって(進化して)しまい、全然勝手が異なる。まだまだ教わることや練習が必要のようで、とりあえずはスティーブに教わった初心者向けの3つ4つの心がけをこの1週間で繰り返すこととしよう。


   

異業種のルーキーズ交流会

2013-03-01 23:01:17 | 職場
とある会議で「ルーキーズに本県出身者はほとんどいない。現場第一線でじっくり鍛え上げるため、これまでのようにあまり短い期間で本社や開発センターなどに異動させず、数年はこの職場で経験を積んでもらうことになっている。だからこの土地ならではの企業との接触点などを作れないだろうか・・・」普段あまりあれしろこれしろと言わないチーフの珍しい「つぶやき」だった。そういうことの嫌いでない私は電光のようにいくつか思い当たるアイディアが生まれ、「やりましょう。ちょっと時間ください」と言って会議室を後にした。技術系しか管轄しない私だが、以前から同様の異業種交流のようなことを実現したいと思っていた。

直後の部内ミーティングですかさずスティーブに相談を持ちかけた。彼のごく近しいご親族がとある新聞社の重役だったのである。「ルーキーズ同士の会社見学や意見交換会ができないものか?」
私のセクションには「セブンルール」という不文律を設けてある。上司からの検討指示、顧客・他部門からのリクエスト、同僚からの依頼などがあった場合、「7時間以内に目処を返す」「7日間以内に結論を出す」「それを7分で説明する」。この職場の経験的にオーダを発出した他者は「どんなもんかだけは早く知りたい」し、「だらだら長く時間をかけても大した結論にならない」し、「何十分も長々と説明したってほとんど聞いていない」のである。むろん全部それで済む案件ばかりではなく、「結論を出すことを先送りにする」という結論も「あり」だ。

頼もしきスティーブはこの手の話でも電撃のように進めるのが早い。早速その新聞社の重役(面倒だから大スティーブと呼ぶことにしよう)に連絡して、久々に飲み交わしたりしているうちにトントン拍子に進展して、後は事務レベルで具体的な日程や方法を話し合う段階まできてしまった。基本路線はあっという間に決まったが、何せ初めての試み(それこそ試しにやってみる)に行う取組みなので日程調整が一番手間取ったようで、数ヶ月かかって今週開催の運びとなった。ルーキーズには大きく技術系と事務系がある。いつもの若手の「やる気DAS教室」は私の管轄である技術系だけだが、この機会は両系とも経験させたいということで、人事育成部門が事務方の取りまとめを預かることになった。本社で決めたカリキュラムを消化するだけで、イレギュラーな試みはやらないセクションだが、こうなるとあまりしゃしゃり出る理由がない。

プログラムはお互いの会社を訪問し、特徴ある施設やセクション、仕事について見学・レクチャーを受けた後、ルーキーズ同士の意見交換会となっている。私はどちらかと言うと迎え入れて最新鋭の施設などをご案内する方の責任があるのだが、そんなの面白くも何ともないので口聞き役のスティーブと共に新聞社の印刷工場見学に同行させてもらうことになった。元々チーフや企画の長が訪問する予定だったのだが、急遽変更を余儀なくされ彼らは先方のルーキーズにホストとして自社で挨拶するほうに回ってしまった。すかさず私が手を挙げ「乗り込む方」になったのである。

予定ではいわゆる新聞の印刷を行っている印刷局を見学し、本社へ移動して「デスク」で一通りの仕事の流れをレクチャーしてもらい、後は若者同士(何かお見合いみたいだな)自己紹介やら仕事の説明、意見交換の順で進められる。印刷工場は高速インターのすぐ傍で広大な土地に建てられていた。まず新聞社の概況について説明を受けた後にいよいよ印刷局の見学である。しかし残念ながら印刷や運搬、配布の時間帯などから工場の輪転機等が稼働するのは夜中なので、実際は停止している姿で説明を受け、動いているのは想像することになっていた。

      

中々の圧巻だった。直径約1.5メートル、重さ1トンの紙ロールが数十個並び立ち、高速運転を待っている。カラー紙とするために色々な印刷プロセスがあり、60部単位でまとめられた新聞がかなりダイナミックに工場内を動き回ることになる。昔の映画でよく見た輪転機が「カシャカシャカシャーッ」と高速で回転し出てくる新聞の束を背景に「ゴジラ、東京に現る!」など斜めに入った見出しがTV画面に出るシーンなどもう時代遅れかと思っていたが、意外にも基本的なところはそうは変わっておらず、正確さやスピード、容量などが進歩しているそうだ。新聞の原紙ロールは4階建て相当の建屋で稼働し地下の最下部で1ミリでもずれると最後は使い物にならなくなるので、輪転機そのものが停止してしまうという。

    

「大地震の時に私は恐くて外へ逃げ出しましたが、『逆』だと笑われました。建物は極めて堅固に作られており、この施設が地震で倒壊する時には周囲に家など一つも建っていないことになるでしょう」
説明員は誇らしげに語った。(なるほど新しいし頑丈そうだが、そもそも周囲に家なんかねえじゃんかよ)私は小声でスティーブに囁いた。最後に新聞を配送用トラックに積み込む部屋に案内された。不杉なことに明かりの蛍光灯が真っ黄色になっている。皆、不思議な顔をしていたが係員は「何故黄色なのかと言うと、作業時間が常に真夜中なため、明かりによる『影』を作らないようにするためです」
なるほどねー。これには膝を打った。室内灯があるとは言えゲートを開ければ外は真っ暗だ。何かを落としたり確認したりする時に自分の影ができてしまうと実に見えにくい。。。。

    

最後に私は質問した(あんまり積極的に質問などする立場ではないんだが、聞きたくてずーっとうずうずしていた)。「これだけの規模の施設に対して停電時の発電装置などはお持ちですか?」係員ではなく印刷局長が困ったような顔をして代わりに答えた。「先の大地震でかなり停電の影響もあったので、新聞社によっては自家発電装置などを導入した社もありましたが・・・ウチはまだ検討中なんです。何せすごい費用がかかるもんです。●●●kVAの容量が必要ですから」「我が方の移動電源車2台デュアルで使えばいけますねー。いざとなったら役に立てるかもしれませんよ」
一通り工場の見学を終了するとレクチャーをうけた部屋に戻り、記念撮影を撮られた。珍しいことをするもんだと思っていたら、翌日の朝刊にその写真を載せてくれるというのだ。思わず「ついでにボクへの独占インタビューとかないですかねえ。記者会見とかは大体立場上ろくでもない時しか出番ないんですが」

印刷局を後にして、次は本社へ向かった。ここでは新聞を編集する「デスク」というところで仕事の流れを説明してもらった。記者が取材して作成した原稿を見てその内容の重要性や性格から一つの面のどこにどのようにレイアウトするかを決めていく。見出しやサブ見出しを考えてデコレーションを選び、文章を決められた枠の中に当てはめていく。PC上で行っているが特別なソフトウェアでもないようだ。一人前になるまで何年もかかるのかと思ったら、ベテランの横でトレーニングを重ね数ヶ月で大まかなことはできるようになるらしい。個人のセンスにはだいぶ違いがあるので、不得意なところは得意な人の技をパクってくるそうだ。「デスク」と言えば「揉み上げの長い編集長が両足首を机の上に重ねて乗せ、山盛りの灰皿を前に暑苦しそうに団扇で扇いでいる」姿を思い浮かべるのだがまったくクリーンなオフィスだった。建物も斬新だ(若干フジテレビにも似ているが)。休憩時間に建物の中を勝手に探検し、玄関上の大きな地球儀の中は球形会議室ということを発見した。

      

会議室へ戻って雑談していると、我が方の施設を見学してきた新聞社側のルーキーズ達が帰ってきた。記者が2名、印刷局配属が2名、営業が3名の構成である。3つのグループに分かれ、お互いのルーキーズ達は自己紹介から意見交換を始めた。私は初対面となる「大スティーブ」にご挨拶し、しばらく彼らの様子を見ていた。「記者ってえのは、新人の時はどうやってトレーニングするんですか?」興味深々に伺うと、「いやー、いきなり現場に飛び込ませます。警察本部とか県庁とかね。知事の定例会見みたいのがあるから、経験の場には困らないんですよ。」大スティーブは見た目優しそうなおじさんだが、さすが重鎮のような貫禄がある。新人を我が子を見るような目で眺めている。「そろそろ我々年寄りは席を外して若い者同志で・・・・」とお見合いのお約束セリフで部屋を出た。

終了間際に一人ひとり今回の意見交換会の感想をスピーチしている時、ほぼ全ての人の持つ形態が異様な音を発した。緊急地震速報である。隣県で地震発生だそうだ。いざとなったら何よりもつながりやすい私の携帯で状況を確認するが・・・最初に思い付いたのが「KICK師匠」の故郷は大丈夫か?
新聞社よりも早く(当たり前か!)スティーブが状況確認し、特に問題は出ていないことがわかった。震度5強というからかなりすごい地震だと心配したが、大きな事故なども起きておらず胸をなでおろした。昔だったらこんな大きな地震があったら大騒ぎで特別な措置(例えば予定をキャンセルして帰宅させるとか)があったはずだが、大震災発生以降大きな地震があっても交通機関などに支障がなければ平然と何かを続けている・・・

正規の?意見交換会が終わった後はお約束の懇親会だ。ちょっとした居酒屋の大広間あたりかなと思っていたら、向いのホテルの大ホールで着席型のコース料理だった。「何かやるなら最初にさせろ」と言っておいたので、一番最初に挨拶させられる羽目となった。正面が大スティーブで隣りがスティーブである。酒をお酌しながら、大スティーブは「この話を最初に聞いたときは、どうなるんかなーと思ってましたが、彼らには中々刺激的だったみたいですね。ぜひとも続けて行きたいと思います。そういや、印刷局を見学してもらいましたが、輪転機動いてなかったでしょ?夜の11時頃来てもらえればフル運転してるんですよ。結構すごいですよ。何十万部を2時間くらいで刷り上げますからねー」昼間はひっそり人っ気もなくひっそりと佇んでいる機械室が夜な夜な豪快な音を立ててロール紙が縦横無尽に動き回り新聞が出来上がっていく・・・・異様な光景のようだが是非見てみたいものだ。