超兵器磯辺2号

幻の超兵器2号。。。
磯辺氏の文才を惜しむ声に応えてコンパクトに再登場。
ウルトラな日々がまたここに綴られる。

肉体資本の嗜み

2016-01-31 09:47:41 | ホビー
今年オープニングラン(と言いうほど走りはしないが)となる湘南藤沢市民マラソンはかなりスローペースだったが、無事に10マイルを走り切って余力を残してゴールできた。いつもは釣り客で賑わう湘南港灯台の手前の駐車場で着替えを済ませ、今回はド派手な赤い記念Tシャツとあまり効いた経験のないファイテンのネックレスを受け取り、まだ完走ランナーがゴールしているコースを横目に待ち合わせ地点に向かった。海原に白い波があちこちに見えるほど強風に震えながら弁天橋を戻ってくると、さすがにもうちらほらしか見られないランナーのすぐ後ろに大型バスが2台追走してくる。「あれが噂の『ドナドナバス』か?!」ゆっくり走るバスの後ろには警官がいてランナーは1人もいない。規定時間を過ぎるとバスで回収されてしまうということだが、ちょっと見た限りバス内には係員の他に「ドナドナされてしまった」ランナーらしき人は見当たらなかった。ゴールまではせいぜい200メートル・・・さすがにここで回収するほど酷なことはしないだろう。待ち合わせ場所に行くと、マイクはとっくにゴールしたようで元気そうに手を振っていた。私が前半にものすごい多数のランナーに行く手を阻まれ、やたら遅いペースで楽ちんに走ったとは言え、それより30分以上早いタイムなのは驚きだった。そのごっつい身体からは想像もできないしなやかな走りだったのだろう。しばらくするとほとんど練習もせずに何年ぶりかのマラソンで前回の雪辱を果たした「しんさん」が現れて、我が家まで3人でてくてく歩き始めた。

    

マイクとはモトチバ会以来(と言っても数か月前)で、東京マラソンで初めてフルマラソンを走った経験など色々聞くことができた。10kmでだいたい1時間、10マイルでは100分くらい、サッカーで60分、90分と走りっ放しなのは身体に刷り込まれているから何となく勝手が分かるのだが、2時間、3時間となると未知の世界で各器官に何が起こるから分からない。特に私のように退屈が死ぬほど嫌いな回遊魚体質は4時間も5時間もただ走り続けることなどとてもできるとは思えない。「一体、何を考えて何時間も走れるんだい?つまらなくないの?」と聞くとマイクは「1kmごとのラップを見て、ペースを調整したり身体を観察したり色々とやることが多くて意外に時間が経つのは早い」と言うのだ。ある程度集団内で走る以上「周囲にやたらと追い抜かれたり」「自分だけが次々にランナーを抜き去る」時がある。やはり長丁場だと周囲に惑わされて自分のペースが狂うのが一番危ないので、(彼の場合は1km5分半というペースを)距離表示を見て注意深く維持するらしいのだ。あとは終盤に差し掛かると「もうちょっとイケそうか」「ちょっと休むか」などと身体と会話しながらゴールを目指すという。

彼は20数年前からマウンテンバイクも乗りこなし江ノ島水族館まで数十キロもはるばるやってきたことがある。最近は海岸道路でもよく見かけるようになったロードバイクとは少し異なるが、前3段、後6段というギアを持ち、本格的なヤツだそうだ。「おとおさん」も今流行りの自転車に乗り、伊豆半島や三浦半島、かなり遠出をしているようだった。「だいたい18通りもギアの種類があって、全部使うのかよ?平らなとこと登り下り3つ4つありゃぁ足りるだろ。オレなんかいつも同じギヤだから他のに変えるとギャラギャラうるせえんだけど・・・」不思議そうに尋ねるとマイクは当たり前のように、その時々の傾斜や風の向きなどに合わせて最適なギアを選ぶのが楽しいのだと諭すように言う。ここに煩わしいと感じるか、楽しいと感じるかの違いがある。それから歩く速度に合わせるためにいつもよりも軽いギヤで「きーきー」言わせて走る私の自転車を指差して「さっきから、気になってるんだけどよ。家帰ったら、チャリに油させよ!」どうもマイクはどのポジションもベストなコンディションにないと気が済まない性質らしい。
「ところでさー、チャリで何十キロも遠くに行くんだろ。行先で故障したり、調子悪くなったりしたらどーすんだよ?」

散歩ならば家からの距離などたかが知れているから、具合が悪くなろうが靴がダメになろうがどうにかなる。しかし1日がかりで何時間もチャリを走らせたところで致命的なアクシデントが発生した時の絶望感は歩きの比ではあるまい。マイクは事も無げに「パンクやちょっととしたトラブルなら対処の準備をしている。どうしてもダメな時は近くの自転車屋に持っていくか、電車内に持ち込めるように専用袋を用意しておく」これまでも何度かそういう目にはあったようだ。「だって、おとおさんなんか、伊豆高原とか行ってるぜ。あんなところに自転車屋なんかねーじゃんか」あたりを彷徨い続けてどうしてもダメだったら最後の最後、私なら捨てて帰る。結局それは採ってはならない手段なので自転車で遠乗りはできない。「そういう考え方する磯ちゃんは、自転車は無理だなー。オレのなんかさ、買ったのは4万5千円くらいだけど、修理その他に15万円くらいかかってるぜ」本件に関してマイクと理解しあうのはほぼ不可能だと感じた。

「オレ、運動神経あんまりねえからさ。馬力で勝負するわけよ」マイクは涼しげに話す。実際そんなはずはない。彼は青年期から柔道家でれっきとした高段者である。アジリティ(すばしこさ)が前面に立つ球技スポーツ系があまり得意でなかったのは確かで、その点変化球を好み単調な体力勝負が苦手な私とは対極的な位置にはあるかもしれない。ちょうど真ん中辺に位置?するスキーの腕前などは私よりも少し上なくらいだ。趣味の話、健康維持の話、子供(上のお嬢さんは甘辛と同い年)の進路の話など、高濃度炭酸泉でとめどもなく続きスーパー銭湯から帰宅すると私とはすれ違いになった応援団がすっかり「打ち上げ」の支度を済ませている。ボランティア警備員の「おとおさん」ご夫婦や、こちらも完走証発行のお手伝いをしていたというお嬢さん、T焼さんと恐るべき笑才のお嬢さんには何とトイプーがまとわりついていた。このメンバーでマイクは初登場だったがお誕生日席で明るく皆を笑わせながら相変わらずの食いっぷりだ。何せデタラメ4人組で彼の実家で大層御馳走になった時の話だけで、ミシュラン星ものの香ばしい逸話がいくつもあるのである。

  

お友達家族にとってマイクの存在は結構新鮮だったと思う。彼が医学の道に進み学位を取得したこと、オスミウムのような密度の身体を持ちながら東京マラソンを走り切ったこと、今回のマラソンで走ったメンバではぶっちぎりに速いタイムだったこと、どれを聞いても驚いていたようだ。(多少失礼かも)気が付くと走り切ったメンバーは皆「ヘタレでない証明」に完走記念のTシャツを取り出してめいめい服の上から着込んだ。いつもデザインがイマイチの完走Tシャツも今回は鮮やかな赤で色だけは美しかった。そういえば2年前に10数名見かけたチームTKB48(Tomita Kyoko Bakuso 48Age)のお揃いTシャツがTKB50となっていたが爆走の「B」ではなく、Beautifulの「B」だった。。。(大台に乗って気を使ったのか?)「たまさん」情報によるとどうも「とみたきょうこ」さんとは元プリプリのドラマーでレディオ湘南のパーソナリティを務める富田京子さんのようだ。赤シャツで記念撮影をしながら「我々も来年はチームを組んでTシャツ作らねえか?」単なるノリで言ってしまっただけなので、実現するかどうかは未定だが、どうせチームTシャツを作るなら「リレーマラソン」に出たいと思う。「襷をつなぐ」という行為が単なるコースをマイペースで走るのに比べどれだけ気分が高揚し、またプレッシャーのかかるものなのか、体験してみたい気がするのだ。

    

今年のオープニングRUN

2016-01-27 20:25:22 | スポーツ・健康
今年で6回目となる湘南藤沢市民マラソンである。募集開始とほぼ同時に定員締切になってしまう、湘南国際マラソンに比べるとマイナーな大会だったが、それでも出場者は1万人を超えたようで年々活発になっているように思う。第一本家とも言える湘南国際大会はスタート&ゴールが大磯などという「湘南」というには首を傾げるネームだが、市民マラソンは江ノ島出発の江ノ島ゴール、コースは湘南ど真ん中そのものである。私は資格試験日と重なってしまった第3回を除き全て出場している。最初は10kmレースだったが、コースが変更されて今は10マイルレースになってしまったから、多少は真面目に準備しないと、途中でへばるか故障欠場となってしまう危険がある。特に制限時間内にゲートを通過できずにバスで「回収」されることを仲間内では「ドナドナされる」というこれ以上はない屈辱を受けることとなる。しかし16キロレースも3回目ともなれば多少は余裕もでき、前回あたりからレース中に行うミッションを設定したりもした。年に数回しか走らないマラソンだが、色々なレースで経験したことを少しずつでも活かしてはいるのだ。。

昨年はアンダーシャツの上に「ウルトラマンTシャツ」を着て、沿道の声援を稼いだが、今年も同じでは能がないので同じシリーズの「バルタン星人」とした。某SNSには家で妻に撮ってもらった写真を投稿し、「道路の端っこを颯爽とよろよろ走る宇宙忍者を見かけたら声をかけて」と書いておいた。むろん沿道で「バルタンがんばれ」と応援されたら「フォッフォッフォ・・・」とかますのは言うまでもない。ファイテンのネックレスもバンデルのリストバンドも前回全く効果を感じなかったので今回は脱ぎ捨て、鳩サブレの黄色い手袋を装着して会場まで自転車を走らせた。あまりスタート地点に近づくと人混みに埋もれて停める場所すらなくなってしまうから、準備運動も兼ねてだいぶ手前の水族館横に駐輪し小走りでスタート会場に向かった。134号の規制はまだかかっておらず、時々パトカーや白バイが行ったり来たりしている。沿道にはボランティアによる給水場や距離表示の準備などが進んでいる。晴れてはいたがものすごく寒い朝で、早くからありがたいことだ。私は今回のマラソンは裏方の姿や沿道の応援を中心に写真に収めることにした。

      

今回は知人で出場する人が結構多かった。ずーっと連続出場の「たまさん」、前回休んで「ヘタレ」呼ばわりされ雪辱に燃える「しんさん」そして初登場の「マイク」である。土日の運動量だけ言えば私を軽く凌ぐスポーツマンの「おとおさん」(仮称)は昨年に引き続きボランティアの警備員、息子甘辛も走る予定だったのだが、アルバイトの収入に目がくらみ、イベント警備に乗り出してしまった。しんさんとマイクとはゴールして帰り支度を済ませたら藤沢観光センターで待ち合わせ、我が家まで一緒に帰ってスーパー銭湯に行く予定になっていた。しかし暗黙の了解なのか、レースの前、中に連絡を取り合って一緒に走るようなことはない。フルマラソンもこなす怒涛のマイクを除けば10マイルというのは我々にとってギリギリの距離であり、下手に並走したりすると間違いなくペースを乱してスタミナが消耗するような気がするからである。上着を脱ぐだけだが、走る準備をして荷物を預けると私はトイレに向かった。実は走っている最中にトイレに行きたくなることで、昨年の相模原マラソンは散々辛い思いをしたのである。米軍工廠内がコースになっているので、沿道にはトイレが全くない。1周5kmのコースを2周する大会だったが、スタート地点にしか特設トイレがないため、30分近く我慢して走り続ける羽目になったのだ。その辺で立ち○ョンでもしようものなら、MPに打ち殺されるような気がした。

    
 
前回の経験でエナジードリンクなどを入れるとすぐに吸収されてトイレに行きたくなるようだったので、今回は固形の「スポーツようかん」としたのである。ところがスタート前、会場のトイレには信じられないほどの列ができていて、かなり長く待たされることになる。比較的時間には余裕をもって出てきたのだが、トイレを出るころにはスタート1分前とアナウンスされてしまっていた。「これはヤバい!」慌ててポケットのスポーツようかんを頬張り、スタート待ちの1万人を超えるランナー群のほぼ最後尾から押し分け前に出ようとしたが、自分のタイムゾーンまでは辿り着けなかった。号砲一発、巨大な列が少しずつ動き出したが、あまりに前の人が多すぎてスタート地点を過ぎてもしばらく徒歩スピードになってしまった。おかげで沿道でカッコよく太鼓を決めるお姉さんたちの姿も収めることができた。弁天橋を渡って「イル・キャンティ・ビーチ」を通り過ぎる時、「(確か前回、この辺にMラさんがいたんだよな)」とキョロキョロ見回したら、昨年以上に派手なキラ星メイクで「寒いのは気のせいです!」とかましていた。軽く手を振ってみたが、ほぼ真下を通ったので気が付いてくれなかった・・・

    

しかしこの少し先でようやく走るスピードが落ち着いてくると思わぬ試練がやってくる。慌てて固形ようかんを頬張ったので、のどにつかえて下まで降りないのである。咳き込むほどにひどくはないが、どうも喉の下の方に固形物が詰まったまま留まっており、何やら息苦しい。。。「(早く胃に降りてくれ・・・)」苦しみながら走っていると、最初の給水地点が見えてきた。しかしスタート2kmくらいで給水する人など誰もおらず、どうもまだ準備中のようなのだった。私はそーっと走り寄って苦しそうに「あのーぅ、お水もらっていいですか?」と尋ねると「どうぞ、どうぞ」と紙コップになみなみとミネラルウォーターを注いでくれた。私は一気飲みすると「ありがとういございます」とまだ何も入っていないゴミ箱にコップを落として走り出したのだった。ようやく元気になったが、どうも集団のペースが遅い。。。しばらく走ると「おとおさん」が手持ち無沙汰で立っているのが見えた。「おーい!」と大きく手を振ってハイタッチする。「ちょっと今日、出遅れて何か遅いんですよね・・・」

身体の調子はすこぶる良いのだが、なーんか調子が出ない。まだまだコース上を走る人口密度が高い上に集団のペースがやたら遅いのである。箱根駅伝でも登場する「浜須賀」で折り返し、給水地点でランナーが左側に寄り始めてできた右側のスペースでぐぐーっとスピードを上げた。そして昨年、可愛らしいカゴにお菓子を抱えていたお嬢ちゃんが二人で佇んでおり、「ありがとねー」と頭を撫でた。「(おじさん、前回ももらったんだけど、憶えてないだろな)」今度はスマホを構えてパチリと押したのだが、振られ過ぎて調子が悪いのか肝心な時にピントが合ってくれない…さらにこれまた昨年同様(顔は憶えていなかったが)、黒い服を着た長い髪の女性がお皿を持っていた。やはり夏みかんの切り身だったが、ちょっと気味悪かった昨年と比べてにこにこ近づき、「これ頂いていいですかぁ?昨年も頂いたんですよ」と聞くと彼女もにっこり笑い「どうぞ、どうぞ」とお皿を差し出してくれた。すると後ろから何人ものランナーが駆け寄ってきて「お、いいですねえ。頂きます!」と次々に売れて行き、あっという間にお皿は空っぽになってしまった。何か自分が人気を呼んであげたようで嬉しくなった。何か元気が出てきて水族館手前で向かい風と登り坂になっても一気に駆け上って行った。2回目の折り返し点を過ぎ再びイル・キャンティまで来て大きく手を振ると今度はMラさんも気づいて「おー、がんばれー」と声をかけてくれたのだ。

  

さあここからは残り5km、今回はやけにペースが遅かったが適当に走っても30分程度でゴールには到達する。どこも痛いところはなく、疲れもあまり感じないので「(そろそろ10マイルも馴染んできたかな)」とほくそ笑んでいたら、相模原マラソン同様突然にトイレに行きたくなってきた。米軍工廠とは異なりこのコースはいくつものトイレが用意(というか元々ある)されているので、早々と駆け込んだ。最後の折り返し地点を過ぎ、残り2kmでは沿道にたくさんの応援者が「もう少し!がんばってー」手を出している。「あー、バルタンだ!」という人から10数人、「ふぉっふぉっふぉ・・・・」とハイタッチして駆け抜けた。ウルトラマンと違い、意外にもバルタンはあまり声援を稼ぐことがなかったのだ。Mラさんは道路を渡って再びメガホンを構えていた。今度は名前を呼ばずに「磯辺2号がんばれ!」と声をかけてくれた。後にも先にもこのサイトのペンネームで応援されたのは初めてである。134号から右折して弁天橋に差し掛かった時、最後の試練がやってきた。元々風の強い日だったのだが、ものすごい向かい風に襲われたのである。しかも砂浜の砂が舞い上がり、加えて橋桁にぶつかる波しぶきまで被る始末だった。たかだか数百メートルなのだが。やたらゴールが遠く感じられた。「最後、風強いけどゴールはもうすぐ!頑張って~」というスピーカーからアナウンサーの声が聞こえる。ここだけでかなり体力を消耗しやっとの思いでゴール!前回同様、ボランティアの学生さんたちが「いぇーい!」と待ち並んでハイタッチ攻めしてくれた。しかしここでもスマホの調子が悪くピンボケ・・・何かちょっと冴えないことも多かった藤沢マラソンだが、普段は知らない距離だけにいつも完走できうrかどうかはドキドキものだ。某SNSではたくさんの友人が応援メッセージを入れてくれていた。身内の声援など自分で見つけたT焼きさんだけなのに中々心温まることの多く、まあまあ幸先のよいスローペースな今年のスタートRUNだった。

    

試練多き自然相手のホビー

2016-01-23 12:56:59 | ホビー
大陸からの寒波に覆われ、連日最低気温記録を更新している時期、寒風吹き荒ぶ未明の庭で震えること2時間・・・そんな無茶なチャレンジがここ数日続いている。「カタリナ彗星」を観察・撮影するためである。アイソン彗星のようにニュースにもなるほどメジャーなものではなく、ラブ・ジョイ彗星のように肉眼でも見える美しいものでもないが、一応天文マニアの中では今年の目玉となる大物彗星ということだ。明け方の空で昨年の暮れ前から輝きが増し、星空の綺麗な場所ならぎりぎり肉眼でも見られる程度に増光したらしい。昨年の前半に超兵器A-VX号、主砲M20号が登場し整備計画も一段落したのだが、いくつかの天体ショーもあったのだが天気にも恵まれず月面や一部の惑星観察以外には戦艦大和の46cm主砲のようにその威力を発揮することなく今に至っていた。以前に比べて少し地味な彗星だが、マニアの投稿した写真などを見ると「尾っぽが二つに分かれている」珍しい形をしており、ぜひ超兵器を活躍させたいものだとチャンスを狙っていた。

大昔から星の海というものは「変わらないもの」とされていると思うが、天体の観察や撮影となると「一期一会」、チャンスは一度きりと思ったほうがよい。何万年も同じ姿であっても(簡単な話だが)雲っていたら見られないし、月が光っていたら淡い星雲は消えてしまう。月齢と天気、そして観察時間の組み合わせによってあっという間に条件が狭くなってしまう。惑星はその軌道によって見られる季節が毎年異なるし、流星群や月食などの天体ショーは決まった日しか見られない。写真は東の空に輝く金星と月が同じように欠けている珍しいシーンでこういうことも滅多にはない。前回のラブ・ジョイ彗星など次に見られるのは8000年後だし、大抵の彗星は一度地球(太陽)に接近したら生きているうちに再びその姿を拝めることはない。月面などもまだまだ奥が深くて色々な表情があるし、撮影も素人さながらままにならないのだが、やはり何百何千年を経てやってきた星の光や太陽系の彼方から、前触れもなくやってきて短い時間だけその姿を現して去って行く彗星などにロマンを感じてしまうのだ。

    

本格マニアなどの間で話題に上っている彗星は毎年何個かあるが、比較的明るい「カタリナ彗星」は暮れのころ朝方の東の空で見えると報じられた。私は朝5時には起きているので、早く庭に出るのはわけもないことだが、ちょうど東側には道路の街灯など邪魔な光が多く、低い位置だと何も見えない。A-VX号赤道儀は夜空の名のある星や星雲など対象物の自動導入機能があるから地軸を正しくセットすると自動的に視界に入れてくれるのだが、彼方から突如現れる彗星の類は内蔵DBリストにないので、予め調べて置いて手動で探さなければならない。星図の座標を使うなどもっとよい方法があるのだが、まだモノにできていない。結局彗星の姿を主砲M20号で捕捉することができず、方角のあたりだけつけて203号のレンズを向けて追尾撮影してみたが、画像に写り込んではくれなかった。淡い対象物はファインダー越しに姿を見ることができないので、ピントを合わせて手探りで追いかけるところが辛いところだ。

何度かトライしてダメだったので諦め、年末年始は忙しくて星空どころではなくなって、そのうちに忘れてしまっていた。1月中旬になって地球に最接近したころはだいぶ夜空の中を移動していて、北斗七星の近くとなっていたのをたまたまとあるサイトで見つけたのだ。200�望遠レンズでうまく撮ると渦巻き状銀河M101と同じ視野に入れることができるという。北斗七星の尻尾からその下側を通過して北極星に向かうような軌道のようである。時間は午前3時から4時くらいである。正月は海にも入れるくらいに暖かく「久々の暖冬だ」と思っていたのに、成人の日くらいからすごい寒波がやってきて、強い風に身体を振るわせるのが最近のことだ。彗星捕捉作戦は大きく2種類考えられる。A-VX号赤道儀を使用して我が家から望遠鏡観察する方法とポラリエ1号を使用して星空の綺麗な場所まで足を運ぶことである。我が家からのA-VX号は精密な追尾性能があるから、主砲M20号で捕捉できれば大迫力画像も夢ではないが、何と言っても空が明るすぎるし周囲の建物もあって方向に限りがある。一方、赤いライオン号に大型赤道儀は搭載できないから、携帯のポラリエ1号を使用することになるが、お馴染みの星ヶ丘までは車で40分、真っ暗闇の怖さに耐えなければならない。天気さえよければ203号の望遠で十分その姿を撮影はできると思われる。

寒風吹き荒ぶ屋外で一人きりお化けの恐怖には耐えがたいので、まずは我が家の庭から追いかけてみることにした。まずは4時に起床し、万全の防寒対策にくるまってA-VX号に68mm屈折鏡筒と203号をダブル搭載して望遠レンズで「カタリナ彗星」撮影を試みた。自動追尾するには赤道儀の軸を正しく北極星(正しくは天の北極)に向けなければならず、これが容易くできるようにデッキ上にマジックで三脚をセットすべきマークをつけてある。しかし真っ暗闇でこれを探し出すのは至難の業でかなり手間取った。この後明るい木星で星を自動導入するための「アラインメント」という設定を行い、北斗七星にレンズを向ける。双眼鏡や屈折望遠鏡を低倍率にして周辺を探ってみたが、それらしい姿を拝むことはできなかった。我が家の光を全部消して真っ暗にしても街の光に邪魔されてやはり淡い姿は中々見られない。そのうち空が白み始め東に金星が輝くような時間になってしまったので、その日の観察は断念した。

翌日、さらに冷え込みと風が強く、「モノ好き」を超えてほとんど「狂気の沙汰」でA-VX号をセットした。起床したのは前回の反省を踏まえ午前3時とした。私にとっては極寒の世界だったが、その恩恵か我が家周辺にしては綺麗な星空が広がっていた。インターネットサイトで詳しく位置を調べると、どうも自分の想像以上に激しく移動している。どうも前夜は見当違いの場所を探していたようなのだ。どんずば「その日」という位置はネット上では見つけられなかったが、北斗七星のミザールから気持ち左下方面というあたりを当たってみた。屈折鏡筒は40年前の古いものだからか、やはり望遠鏡で見つけ出すことはできなかった。ちなみにミザールという星は北斗七星の後ろから二つ目の星で小さな星が横に引っ付いている。それが昔はその星を見分けられるかどうかが軍隊の視力試験にもされたようだが、「北斗の拳」で登場するところの「死兆星」である。望遠距離を短くして1分ほど露出していると、どうやらうすぼんやりとそれらしい姿が写りこんだ。私は大喜びで250�フル望遠にし、拡大撮影に意気込んだところ、思わぬアクシデントが発生した。ほとんど真上に近い状態で203号をセットしシャッター開きっぱなしで追尾撮影すると、なんとレンズ自身の重みでズームが動いてしまい、星がピンボケになってしまうのである。そんなこんなで悪戦苦闘しているうちに寒さで身体が動かなくなり外での活動はもはや限界となってしまった。。。

        

こうなったら根気勝負である。翌日も天気予報では降水確率0%でしかも恐ろしい寒風がようやく止むようだ。雨は絶対降らないことを前提に私は明かるいうちからA-VX号を庭に出し、極軸合わせだけを済ませておいた。さらにAMAZONから届いた軸受用雲台を使用してダブル搭載が可能となった主砲M20号を屋外に出しておく。実はM20号は反射式と屈折式のあいのこのような構造で、鏡筒の中の空気と外気を同じ同じ温度にしておかないと内部に気流が発生し星が揺らいでしまうらしいのである。万を持して起床したのはさらに早い午前2時。203号の望遠レンズはピントを合わせてズーム部をガムテープで固定した。しかし残念ながら2時間の奮闘も空しくこの日もわずかに小さな白い姿を写し出せただけで、主砲でその雄姿を捕捉することはできなかった。一番低倍率の接眼レンズを使ってもM20号の焦点距離は2000�と長いので、視野に入る範囲が極端に狭く、かなり広範囲に動かしても「カタリナ彗星」を見つけることはできなかったのである。その日もやはり2時間くらいで身体が芯から冷え込んでしまい、埜庵のかき氷を一気食いしたように頭がきんきんしてきたので作戦は終了した。

  

「カタリナ」彗星は1日経つと星空をかなり移動する。2月1日に北極星付近まで見かけ上接近する軌道になっているからまだチャンスはあるが、明るさが下がってきているから、時間が限られているのは間違いない。次なる作戦は、もう少し正確に位置を調べておいて焦点距離の短い10cm反射鏡筒で直接撮影を試みるのと、ポラリエ1号携帯の星ヶ丘遠征である。「今度こそは迫力画像をGETしてやる」と考えうるイメージトレーニングを繰り返し臨もうとしたら、数日ぶりに雲で覆われてしまった。しばらくは夜空の星の海は期待できそうにない天気予報だ。こうなると彗星の光度のように途端に衰弱し、この寒さに懲りてしまうのか、超兵器群には全く手を触れなくなってしまうのである。

とにかく自然相手の趣味(と言えるかどうか自信なし)とはしんどいものだ。寒グレ釣りやカワハギ船釣りなどもそうだが、それこそ寒空の下、時には水しぶきを浴びることもある。星も魚も「大物」を得ようとしたら、人があまりいない奥へ奥へ進まなければならないのが共通の試練だ。特に私は根気に乏しく物事にすぐにとりあえずその場は満足してしいまい、冬釣りや寒空の天体撮影など一区切りすると「もういいや」としばらく離れてしまう。趣味の境地にいる人と比べるとあっという間に「懲りて」しまうのである。とりあえず今は、毎年恒例の湘南藤沢市民マラソンが近いから、寝不足にはならないようおとなしくしている。2月に入ってしばらくは一晩中「カタリナ彗星」は北の空にいるようだ。今年のテーマはEXCEEDだから昨年のラブ・ジョイ彗星画像より優れたモノをGETしたいものだ。

手作り弁当物語

2016-01-20 07:33:49 | 昭和
前の土日は大学入試センター試験だった。息子は縁がなかったが、同級生は「これから本番」という人も多く、月曜日のように雪で交通が混乱しなくて良かったと思う。年齢的に当然なのだが、中高の同級生や同年代の知人はご子息に「受けに行った」と人も多かった。そして某SNSに同級生の女子が息子さんのために作って持たせた「お弁当」を掲載していた。彼女曰く、昔の共通一次経験者という男性は「自分たちの時は、親なんて何にもしなかった。お弁当なんて重たいからやめた方がいい」だそうだ。(もしかしてパートナー様かもしれない)30数年前はどうだったかな。たまたま竜泉寺に行く途中に母親に聞いてみると、たぶん「カツ入りの弁当」を作ったはずだという。今でこそセンター試験の会場は我が家のすぐそばの大学も含めてたくさん設けられているが、我々の時は横浜にある某国公立大学が試験会場だった。周囲にコンビニのようなものや食堂は無かった(あっても初めて行く所だから知らなかった)から、間違いなく弁当持参で行ったのだろう。受験に「勝つ」といういかにも昔風の内容だったようだが、ものすごいボリュームをガッつり食べたからか、午後からの試験後半(さすがに科目は忘れた)はやたらに眠かった記憶だけが残っている。

息子さんに手作り弁当を持たせた女子の投稿に対し、「私も持たせた」とか「母の愛情が一番」とか、「おにぎりと具だくさんスープがよい」、「緊張しても一緒にいてくれる感じでほっとする」「コンビニのおにぎりは売り切れになるから手弁当が一番」などと受験生を持つ又は経験した母親の思いが賑やかに交差した。中には「私は上の子の時ついて行っちゃった」というママもいた。自分は方向音痴なので、すべての会場を試験時間に合わせて下見したそうだ。そういえば前日にニュースでまだ立ち入り禁止の試験会場の門前で受験生がインタビューされていて、翌日の試験開始時間から見て電車の所要時間やルートを確認しているということだった。親がついていくというのはちょっと心配性のような気もするが、「無事会場にたどり着けるか心配でついて行きたい」と名乗りを上げたママの気持ちもよく分かった。最初の女子の言う「共通一次経験者の男性は弁当をやめたほうがよいという」に反論して、「ボクは持っていきました」と母に確認した後コメントしたら、「今みたいに親は関与しなかったけど、お弁当くらいは作ってもらった」と賛同してくれるバスケ部の同級生も出てきた。「確か雪が降っていたか、雪がやんだか、すごく寒い日でしたね」と件の女子が返してきたので「(へーえ、彼女も受けたんだな)」と思っていたらプロフィールに何と、我が家と浅からぬ御縁の学校が載っていた。(不思議なものだが、よろしく願いたい)

翌月曜日は朝から大雪で首都圏の交通は大混乱、県内から通勤する人は軒並み普段の倍以上の通勤時間をかけて苦戦していた。前日のセンター試験投稿を見るとさらにたくさんのコメントが寄せられていた。女性が多かったがやはり受験生の母親らしくお弁当のメニューなどの話題が多かった。それらを見ていて私は電撃的に思い出した東京ガスのCMのことを「タイミング遅れですが・・・」とコメントしてみた。渡辺えり子さんが「息子にお弁当でメッセージを伝える母」の物語である。最初はたぶん少年が中学生になったときだろう、玄関で「好物ベスト3」を差し出す。その後「おふくろの味」「リラックス」・・・「野菜も食べなさい」と思い切り弁当箱に野菜炒めが詰め込んであるのは笑える。「元気だせ」「ごめん!寝坊した!」「晴れるといいなぁ」とテルテル坊主のノリ弁、8点の答案用紙を見つけた時は「カツ(喝)!」、彼女と歩く姿を見つけて「祝!」、誕生日には「ハッピーバースディ」、試験勉強(たぶん受験勉強?)で机に向かう姿を見て「がんばってるで賞」・・・そして少年の月日は流れ母がお弁当を渡す最後の日がやってくる。高校生活最後のお弁当だろう。メッセージは「このお弁当、覚えてる??」最初に渡した卵焼き、ハンバーグ、鳥唐揚げの「好物ベスト3」である。その後の展開は涙で画面が滲む。。。ところが後から「弁当篇は渡辺えり子じゃないよ」と妻に指摘され。大慌てとなった。。。

私のようにデスクで暇なのか麻雀仲間だったバスケ部同級生は「あれは良いCMだった。」と返してきたが、今時のある方面の方々からは「女性の役割の固定化だ」とクレームが付きそうだともいう。うーむ。。。言われてみればそうかもしれないが母親は母親だ。日本のお母さんと言えば昔は京塚昌子さん(もしくは畏れ多くも先の皇后陛下)、今は渡辺えり子さんというイメージなんだが・・・件の女史は同じ東京ガスの「母とは」篇を見て「世界で一番料理がウマイ」以外は自分のことのようだとコメントを返してきたが、しばらくして「東京ガス」「渡辺えり子」「お弁当」検索して出てきた動画を見て「号泣中」と方向修正し、関連で出てくる色んな動画を見て「今日は、流行りの涙活です。」と締めくくった。(雪で仕事がキャンセルになり、暇になったらしいがえり子さんじゃなくてお騒がせしました)
地方のスタイルとして私も息子甘辛も同じで、小学校は給食だから弁当はなし、中高は部活で遅いからがっつりお弁当となるから、この6年は母親の濃い時間である。しかし高校を卒業するとすべては外食となり弁当持参ということは一旦なくなる。つまり母の手弁当最後の日が普通やって来るのである。同級生の女史も妻も遠からずこの日を迎えることとなる。

父親が職場に弁当を持っていく人だったから、私の母は私が中高生である「母の手弁当篇」が始まる前も終わった後もずーっと弁当を作り続けていた。父向けの弁当は偏屈なのか内容に無頓着なのかいつも同じような「ごめん!寝坊した!」篇のようなものだった。毎日シャケと卵焼きと漬物だけでよく飽きないものだと感心していた。私の弁当は横になっても汁が漏れない巨大なタッパに入っており、「好物ベスト3」に似たコンテンツが多かったが、たまに焼き鳥が串ごと入っている時もあり、「こいつんちは酒飲みだ」と冷やかされた。東京ガスCMでは「喝」の意味だったが、普通カツが入っているのは何かの「勝負時」だった。しかしソースを入れ忘れられたり間違って醤油を入れられたりすることが多く、100万円の宝くじに2番違いで外れたような気分をよく味わわされ得た。母にとっては高校を卒業して私の弁当はなくなっても、父の弁当はさらにしばらく続いたからあまり感慨深いものはなかった(割とこの方面はドライだった)ようだが、孫の甘辛の運動会向けに「何かおかずを作ってきて」というとかなり嬉しそうに色んなものをこしらえてきたものだ。

結婚して一緒に遊びに出かける時に妻が作ってくれる弁当以外はしばらく遠ざかっていたが、甘辛が生まれ幼稚園に通うようになって「第一期手弁当時代」を迎える。「ボクの大好きなものだけ入れてね」と幼い甘辛にせがまれ、小さなウルトラマンの箱に弁当を作るようになって「ついでに」私の分も作ってもらうようになり、インテリジェントビルの職場で何の抵抗もなく弁当箱を開いた。中高の時のように巨大なタッパーではなかったが、そこそこ入る器だ。私は食い終わると必ず給湯室でさーっと洗うことを忘れなかった。女子社員に感心されたこともあるが、その昔夏休み前に食ったままの弁当箱を机の中に忘れたまま、40日間の休みを過ごしてしまい、9月の新学期に発見してその蓋を開けるという世にも悍ましく忌まわしい経験が忘れられないだけである。そして甘辛の小学校入学とともに私の「手弁当時代」も終わりを告げた。当たり前だが「第二期手弁当時代」は6年後にやってくる。この時は私が使っていた弁当箱を甘辛が使用することになり、私用はミスタードーナッツの安っぽい景品にされた。成長期が遅かった甘辛に対し少しでもたくさん食べさせたいのか、妻は甘辛の弁当箱に凄まじいばかりの米とおかずを詰め込んだ。何せ全体重をかけないと蓋が閉まらないほどの量である(大きいのを買えばいいのに)。一度包みの巾着を間違えて持ち上げたら鉄アレーでも入ってるのかと思うほど重かった。。。

      

甘辛は自由登校期間に入り、ほとんど学校に行かなくなってから弁当を持っていくことも自然に消えつつある。そのうち甘辛向けの弁当が終わるとき、私の弁当も終わる。まことにありがたいことだが、同級生女史のように本命の息子向けでないのに作ってもらうのは何か悪いし、我が社は昼食の補助制度が結構充実しているから、ものすごく不便になるわけでもないのだ。今度「お弁当メール篇」を妻と息子甘辛に見せて、高校生である彼への最後の弁当はいつになるか、そしてその時は何をおかずにするか聞いてみようと思う。むろんその時は同じものを自分用にも作ってもらうつもりである。母の手弁当が終わる時とは一つのイニシエーション(通過儀礼)だとも思われるが、CMのように、「これで最後」とキメられることは中々なく、後から「あー、あれが最後だったな」と思い出すくらいのものだ。しかし自宅から進学先へ通学するであろう息子は何の屈託もなく「母ちゃん、弁当作ってくれい!」と頼みそうな気もするし、そうなるとこの感無量的な作戦もパーになってしまう。それとは別に仕事に出る妻にいずれ私が自分用と共に弁当を作ってやろうと最近、朝の忙しい時でも簡単にできる弁当メニューを色々教わろうとしているのだが、その日珍しく甘辛の出かける予定がないのに「弁当作ってあげるよ」と包みを持たせてくれた。どうやらこちらの魂胆を見抜き「やめておけ」というメッセージにも見えるのである。

EXCEEDーこれまでを超えるー

2016-01-15 23:30:16 | 出来事
年が改まって半月も経ってしまったが、改めて今年のテーマを書き留めておこう。2016第1回目にも少しだけ書いたが「EXCEED=超える、更に上を行く」である。(シチズンの電波時計ではない)昨年の正月には「一休-Cool Down-」と書いたが、少しもペースダウンしなかった。。。人生ハーフタイムを越えて、今年は何か大きな節目のようなものが予定されているわけでもないが、こういう中だるみしやすい時こそ、「これまでの限界を超える」意気込みが必要であろう。大した野心があるわけではないが、簡単にいうとあらゆる面で「自己ベスト更新」を意識する。大層なことではなく、KICKPOP師匠直伝の「30日コミットメント」のように「実現可能なこと」ばかりと言ってよい。1回に走り切るマラソンの距離、釣った魚の大きさ・数、乗れた波の大きさ、写した星の数、ゴルフの打数、読書数、にらの出荷量・リレー数、最高標高到達点の更新・・・Exceedと言ってもこんな平和なものだ。

順当に卒業すれば4月から息子甘辛は大学生となり、アルバイトでこずかいを賄う一部自立生活となる。家を出て行くようなことは先の話だから、生活の半分以上は今まで同様だが、自由度や仕事の責任などもより「大人」に近くなり、我々と行動を共にすることも減るだろう。一昔は学生の間では一人暮らしを始めることが自立した大人への通過儀礼でもあり、自宅から通学する者は結構肩身の狭い思いをしたものだが、今は普段の生活そのものも圧倒的に親と同居した方が楽なので「敢えて自宅に住みつく」合理的な若者も多いようだ。高校時代もそうだったが、甘辛も新学期から学業、アルバイト、サッカーの3本立てで今まで以上に忙しく走り回ることになろう。私はこれらを想定して一つだけ前年のCool Downを図った。これまで利用時間フリー+ゴルフレッスンだったスポーツクラブのゴージャスコースから、ゴルフはお休みにして平日の会社帰りのみ使用するエコノミーコースに変更したのである。

全てにおいて貧乏性というのであろうか、私は「自分なりに元を取った」と納得しないと絶対に気が済まない。ブッフェ形式のレストランなら、全てのメニューを一通り全部食べ、さらに好物をお替りしてそれこそ胃袋限界まで詰め込んでしまうし、飲み放題の懇親会でお替りがくるまでの空白時間がないように飲み物メニューを2杯ずつ頼む(つまり予備)のは大抵の人なら周知の事実である。使い放題のスポーツクラブ会員であれば、仕事上の色々な付き合いで残ることを除いては全て利用しなければ気が済まない。土日も必ず隙間時間を作り出してクラブに向かう。平日は会社帰りにさすがに飲むと寄ってこれないので、スポーツクラブに寄る日≒休肝日としていた。ドックで医師に言われた「運動量は十分だけど、同じ日に飲んじゃダメ」という警告を土日以外は忠実に守っていたのだ。ちゃんと数えたわけではないが、平均的に算出すると昨年1年にスポーツクラブで汗を流した日数は軽く200を超えている。だいぶ前、ブログを毎日更新していたある期間、連続記録が途絶えてしまうのが嫌で馬車馬のように書き込んだことがある。「骨折しても走ることを休めない」ランニング症候群のようになってしまい、一時止めたことがある。ゴルフレッスンはここでも何度か書いたがそれなりに成果はあったので一旦お休みにし、家族(というか妻)を顧ない運動中毒から脱出を図ることにしたのだ。これにより土日は無理やりにでも時間を作ってスポーツクラブに行かずにはいられない生活から解放され、甘辛のいない休日でもどこかに出かけたりする機会が増えよう。ここに「EXCEED」の可能性が高まるわけである。

今年も「お正月だよウルトラマン全員集合」改め「ウルトヒーローEXPO」や「怪獣酒場」での星人の日などで始まり、今まさに「帰ってきたぞ!我らのウルトラマンスタンプラリー」に奔走するウルトラな年となる予感は強い。来年(のことを言うと鬼が笑うが)はいよいよ「ウルトラマン生誕50周年」であり、色んなイベントが期待される。6兄弟に始まるレジェンドなウルトラ戦士は姿かたちを変えることなど想像もしなかったが、平成に入りティガに始まるシリーズから「状況によってモードチェンジするウルトラマン」が登場した。スピードやパワーなど重視する特性によって青や赤に変化するティガやダイナ、途中から最強モードにパワーアップするガイア、メビウス、ギンガ、戦う目的によって変化するコスモス、私の愛して止まぬセブンのっ息子ゼロも様々なモードに変化する。最新の「ウルトラマンX」の進化形態は何と虹の七色!そしてその名を「Exceed X(エクシードエックス)」という。ネタバレしまうと、今年のテーマはここに由来しているのである。両親の期待の斜めに超す進路をとった甘辛、スポーツ偏重ではなく、虹のような様々な色合いを持った未知の領域にも踏み込む、まさしくエクシードエックスな年としたいものだ。

まずは第一弾、昨年の興奮の再来とも言える1月12日から始まったJR東日本の「帰って来たぞ!我らのウルトラマンスタンプラリー」は甘辛とともに万全の作戦を練り、初日に早くも昨年の実績を上回った。友達と始発電車で待ち合わせた甘辛(何せ暇だから)が一気に40駅スタンプを達成し、昨年GETできなかったオリジナルアイテムはもちろん、コンプリートも時間の問題としてしまったのである。この分だと限定アイテムも含め全てGETするのは可能であろう。そうこうしているうちに最近「茅ケ崎を語る会」などでご一緒する女史から「来月はいつ行ける?」と督促のようなメッセージがやってきた。怪獣酒場のことである。ご自身も小さい時に男子と怪獣ごっこで遊んだ経験から結構この分野に詳しく、お友達に「すごく行きたがっている」人がいて案内役が欲しいらしい。うーむ。。。先日行ったばかりなのに・・・人気モノはつらい。

        

    

来月と言えば茅ケ崎の老母もいよいよ大台の年齢を迎える。幸い病院に連れて行くような事態にはなっていないが、必ずしも調子のよい時ばかりではなく、月に1度程度定期的に発熱もするようなので、毎週土日どちらかに竜泉寺に行きがてら様子を見ることにしている。あちらこそスポーツクラブにも通っているようだから、すぐに衰えるとも思えないが、やけに最近歩くのが遅くなったような気がする。大台の年齢と甘辛の進学記念にハワイでも行くか、と妻と話しているのだが果たして実現するかどうか。。。どこに行くにも「次回があるかどうか」を考えねばならない年齢になってきた。

ここ数年、いつの間にかそんな気がしてきて、近場に遠場、母を連れて色んなところを訪れるようにしている。喜んで出かけてくるようにも見えるが時折かなり、私の詰め込み趣味が出てしんどい思いをさせる時もある。周囲や親類は「それは孝行なことで・・・」と口を揃えるし、このままだんだんと出かけられなくなっても、「それなりのことはした」と言えるのだが、それはあくまで自己満足の世界である。「子供が親に感謝して孝行する」のではなく、「親が子に孝行させてやっている」のではないかと最近思えるのである。それなら「させてくれる」うちにこれまで以上に悔いが残らないように甘えておいたほうがよい。今年一番大事なExceedはこのあたりにありそうな気がするのである。三日月を高倍率で観察すると、光っていない部分も薄く見えることが分かる。これは地球で反射した太陽光によって月が照らされて見える「地球照」という。親が地球で子が月だとすると、子供は色々姿を変えて親を楽しませているつもりだが、見えない部分まで薄いながら親にしっかり照らされているということか。

    


怪獣酒場での星人式

2016-01-12 22:04:41 | 出来事
新年早々から、ひょんなきっかけで我々の心の故郷(っていつからなったんだ?)「帰ってきた怪獣酒場」を訪れる機会を得た。元々はクラスメイトでプチ新年会をやろうとかいう話になっていたのだが、旧な話で出席できる者が少なかったので流れてしまった。その連絡をくれた「プチエさん」(仮称)と「怪獣酒場行こー」という話になって、いつものウルトラ悪友を誘ってゲリラ的に足を運んだのである。おりしも3連休は「星人の日」イベントがあり、大変な混雑が予想されていた。土休日に予約を入れると、座席は必ず小上がりの「怪獣無法地帯」になってしまい、あまりゆっくりとウルトラについて語れなくなる。実はかの酒場は少人数席のディティールにマニア垂涎ものの趣向が凝らしてあるのである。今回は人数を絞り、果敢にも開店前に店前に並ぶことにした。夏休みの終わりごろに息子甘辛とウルフェス帰りに妻と待ち合わせた時は30分前でもほぼ誰もいなかったのだが、今回は余裕を見て1時間以上前に店頭に足を運ぶことにした。この正月から土休日は開店時間が15時というとても「酒場」とは思えない時間になったので、川崎駅に着いたのはまだ13時半頃だった。

我々は先発隊として先に行って並んでいてあげるつもりだった。1時間以上前に店まで行き、どれほどの列ができているか多少ドキドキものだったが、先頭から数えるとわずか3組目・・・そしてそこに何とウルトラ悪友の「ガンさん」が競馬新聞を広げて並んでいた。彼によるとたまたまその日、家族が皆出かけてしまい、朝から周辺をうろついていたそうだ。「11時半に店の前を通ったら誰もいなかった。12時半にもきてみたらまだ無人でさ・・・13時過ぎにも偵察に来たら2人いたんで慌てて並んだんだよ」この限りなく頼もしいウルトラ好きに思わずプチエさんと尊敬の眼差しを向けたものだ。しばらくするとガンさんはもう一人の女子を駅まで迎えに行き、メンバーは4名となった。「予約をせずに開店前に並んで待つ」というのは私なりには2つの意味があった。一つは先ほど書いたように、大部屋にされずに秘密の部屋を楽しみたかったこと、もう一つは入店前に「昔の懐かし話」をし尽してしまうことである。前回、久しぶりの大人数で来店した時、予約したので大部屋なのは仕方がないが、皆懐かしくて昔話にばかり花が咲いてしまい、「怪獣を慈しむ」という主題は置き去りにされてしまった反省がある。

最後にもう一人の悪友である「こーちゃん(仮称)」が合流してメンバが全員そろった。開店15分前くらいになると店員が列の先頭から順番に名前と人数をメモに書き込んでいく。そして我々の番になったとき、係のお姉さんに「あのーぅ、何回かこの店にお邪魔してるんですが、いつも大部屋になってしまって・・・できれば少人数の個室部屋にしてもらえませんかね?5人なんですけど・・・」店員恐怖症の私にしてはかなりの勇気を奮って交渉に臨んだつもりだ。お姉さんは「5名様ですか・・・では禁煙席ということでいいですか?」我々は大きく頷いて内心「しめた!」と思った。前回、家族で来店したときも「禁煙席」をリクエストすれば大部屋以外の席に案内される可能性が高いということだな。お誘いしていた女子が一人都合がつかなかったこともあるが、5名というのもボク的には多少の意味があった。時間が丁度合うようならアルバイトの面接・試験で近くまで来ている息子甘辛を呼び付けるつもりだったのである。来週から陣学に向けての特別な授業が始まるが、春休みの旅行費用を稼ぎ出すまでアルバイトを探す甘辛に対し、「どうせやるなら怪獣酒場でバイトしろ」と囁いていたのである。「なるほど、そりゃー、ありだな」と本人も満更でない様子だったのだ。

各小部屋や座席には、かなり趣向を凝らした「仕掛け」がされている。怪獣の姿、名前だけでなく物語の有名シーンやそれに至るいきさつ、続きのオチなど「客」に聞かれた時に爽やかに答えられなければ店員は務まらない。その点、甘辛は幼い頃から「星一徹ばり」の洗脳を受け、平成の今に至るウルトラ史を語れば父を凌ぐほどのレベルになっている。どう考えても受験教科よりもこちらの方が詰込みが完了している。「帰ってきた怪獣酒場」は入店する際にグループごとに一旦ドアを閉めて「ジャミラの真実の口」に手を入れるテストを受ける。この店は「怪獣が憩う」場所なのでウルトラ戦士と地球防衛軍は入ることができない。万が一変装していても「真実の口」が化けの皮を剥がされてしまう。
「やっぱ、キミは怪獣酒場のバイトなら適性満点だよ。オレは明日、ウルトラの皮ジャン着て行くだろ。ジャミラの入口で『あれ、お客様!TDF(Terrestrial Defense Force=地球防衛軍)じゃないですか!入店頂けません!』と咎められたとするだろ?オレなら『いや、実は隊員に化けたゴドラ星人なのだ』と答えるわな。その時1秒でかの星人の姿やどこで何をしたかを思い出せるヤツってそうはいないだろ・・・?」
「マックス号応答せよ、か・・・・」私はアルバイト店員を募集していたら、迷わず甘辛を呼び付けるつもりだった。(店長に話をつけて、面接してやってくれないかと)

5人が通されたのは「光の国/地球戦力研究室」だった。奥の個室となっており、モニターや防衛軍の超兵器が所せましと飾られ落ち着いて語ることができた。この店のメニューは以前から名前とサブタイトルだけで写真が載っていない。もうスペシャルメニューに慣れてしまっている私は取り分けられるように「大阪城の悔恨〜自虐のローストビーフ」「タッコングのおススメ!オイルと蛸のハーモニー」「出現!宇宙竜ナース」などを迷わず注文した。最初の乾杯で皆ビールを頼んだが、プチエさんだけはビールが飲めないのでカクテルを所望した。幽霊怪人ゴース星人の「インベーダーフィズ」、海底原人ラゴンの「深海Green」・・・・「どれがいいか全然わかんないよ」プチエさんは困った様子だったが、「幻覚宇宙人メトロン星人の『メトロンサンライズ』でいいんじゃないか?」と訳知り顔でサポートした。実は全然見たこともなかったのだが、実験台にするつもりだったのである。やがてメトロン星人らしいオレンジと緑の派手なカクテルが運ばれてきた。幻覚で暴れだすように強い酒だとやばいと思ったがどうやら普通のカクテルのようだった。ガンさんはずーっと気になっていたようで、しばらくすると変身怪人ゼットンの「The“最強”」といういかにも危なげなドリンクを注文した。タイトルはゼットン星人だが姿は最強と言われる宇宙恐竜ゼットンの胸部と角である。ゼットンの黒い部分は「ブラックウォッカ」という酒を使用しており、「最強」名前の通り3杯飲んだらくらくらしてきた。

    

やがて隣の個室がやたら賑やかになっていた。マグマ星人とババルウ星人が登場したのである。「星人の日」イベントとして今年新成人となる客(証明要)にはお酒が振る舞われ、マグマ&ババルウ及びメンバの前で「今年、私は○○星人になります!」と宣言すると記念品がもらえるようだ。我々は「子供が成人式」を迎えるような年齢だからスルーされちゃうだろうと思っていたら、ちゃんと2人で漫才師のように現れてくれた。「誰でもいいです!『今年○○星人になります!』て宣言してください。あれれっ、こらー、ウルトラ戦士が混じってるじゃないかー!ダメー!」私のトレーナーが「セブン」であることが分かり、両星人がさらに騒ぎ始めた。「さー、急いで、誰がやる?」私は隣のプチエさんを小突いて「何でもいいから、○○星人って言いなよ」「そんなこと急に言われたって・・・」「何でも!おっ○い星人でもいいから」タモリさんを思い出しながら我ながら悪い例えだと内心苦笑しながらもさらにプレッシャーをかけた。「さーどうぞ!」というマグマ&ババルウの前に観念したプチエさんは「私は今年、おっ○い星人になります!」とそのまんまブチかましてしまったのである。これにはババルウ星人が仰け反った・・・

         

「怪獣酒場」は座席を事前に予約しても店頭に並んでも2時間交代制で、いつの間にか店の外には何十人もの列が出来上がっていた。楽しい時間はあっという間に過ぎ去るもので、ダダ模様Tシャツの店員がラストオーダーの注文を取りに来た。旧友であっても何十年ぶりの再会だとそれなりに積もる話や緊張感があるのだが、このメンバーはそろそろそれこそ昔の悪友ぶりが健在でだんだんタガが外れてきてしまったような気がする。怪獣に関して男性群はこのメンバーが恐らく最強だろうから、意外に多い「行きた~い」という女性軍を少しずつ組み入れて「怪獣酒場友の会」の輪を広げて行こうと思う。

大晦日と正月の今昔

2016-01-09 13:18:41 | 昭和
我々は言わば昭和末期に若者時代を過ごした世代だが、暮れと正月の過ごし方や家周辺の風景、テレビ番組なども少しずつ変わってきたものだ。正月明け朝の連ドラではそれこそ「昔の日本の正しい正月」(商家バージョン?)が短い15分という短い放映時間にダイジェスト版で登場した。あれと比較すると確かに昭和も平成も日本の家庭そのものが劇的に変化したと言えるだろう。しかし昭和末期から今まで30年くらいを見ると、なくなったものとまだあるものがたくさんあり、変化としては微妙なのである。もちろん年齢によるスタイルの変化も多分にあるが、文化という面から見ると昭和末期には現在の生活で当たり前のように使用するほとんどのものが存在したのである。インターネットやスマホは確かにあの時代には無かったが、普段の生活と異なり年明けを過ごすにあたり、あんなものはあってもなくても大差がない。餅つきや年賀状も、門松や正月飾りも減るには減ったが、絶滅してしまったわけでもない。福笑いや羽子板は確かに見なくなったが同様のゲーム、スポーツはあるし、駒は「缶ゴマ」という形で学童で見られるし、海浜公園の空を埋め尽くしたゲイラカイトも数は減ったが健在だ。巨大な凧を上げて喜んでいるのは「○○凧揚げ会」とかいう大人のグループだが。

ちなみに我が地方で遊んだコマは先日ハイキングした大山がルーツの「大山こま」というもので、紐が麻で編まれた細い縄のようになっている。馬の尻尾のような先端は「はたき」と言い、回した後コマの回転が衰えないように回転方向に「はたく」のだがあまり効果はない。「けんかゴマ」といって先に回っているコマ目がけて投げつけ叩き割る遊び方が主流だが、頑丈な大山こまはそんなことで割れることもないので、そのまま一番長く回っていた者が勝ちとなる。ある者が一計を案じ、はたきの先端に細かく線上にちぎった布きれを装着して回転補助力を強化しようとしたが、はたいた瞬間、コマごと吹っ飛んでしまい隣家のガラス窓を叩き割ってえらい怒られていた。またある者は芯の部分を本体と見分けがつかぬほど短く削り、「止まっても倒れず、はたけば再び回り始める」不死身のコマを考案したが「豚ゴマ」と蔑まれて姿を消した。芯の中央にベアリングを打ち込んできた者もいて、滑らかなコンクリの上では威力を発揮したが土の上では刺さってしまってダメだった。

子供の頃、大晦日はNHK夜の番組で「刑事コロンボ」を放映する日以外に唯一、日付が変わるまで起きている日だった。今は完全な時代の変遷と番組としての行き詰まりを感じるが、高橋圭三さんの「輝く!日本レコード大賞」が始まる夕方7時頃までには全て正月準備が終わっていた。歌番組とアイドル全盛期を過ごした青少年の注目は最初、「最優秀新人賞」、そしてその彼、彼女らが盤石のアイドル基盤を築いて受賞する「レコ大」だった。レコード大賞は「日本を代表する歌の上手い人が歌う日本で一番売れた曲」だと思っていたが、ピンクレディがこの常識を打ち破った(というのは失礼かな)。その頃はレコード大賞発表とNHK紅白歌合戦の始まり時間がカブっていて、レコ大受賞者は武道館から駆け付けたが紅白のオープニングには間に合わなかった。この遅刻こそ歌手最高の栄誉と思われていたようだ。当時の紅白歌合戦では新人アイドルは全てトップバッターや前半に集められ、いきなり登場、一番だけ歌って退くという明らかな差別扱いだった。少年の私達は最初から3組くらい見ると後は「聞いたこともない」懐メロしか出て来ないので紅白など全く興味を持てず、自分の部屋で「紅白歌合戦をぶっ飛ばせ」や「仮装大賞」を経てべーやんが歌い里見浩太郎さん演じる「年末時代劇」を見ていた。そして紅白歌合戦が終了するとNHKは地味に雪降る「永平寺」などが映ったが、昭和の終わり頃までは確か民放の「ゆく年くる年」は割と華やかに全局同じ番組だったと思う。

私はこれまで「深夜番組を延々と見る」という習慣がなく、大晦日も年が明けてしばらくすると寝てしまっていた。今でこそ「年越しライブ」とか「朝まで生放送」など24時間そこそこ内容のある番組があるようだが、昭和の頃は朝方の空白時間帯までの「つなぎ番組」は年明け前後の華やかさとは考えられないくらい「落差の激しい」映画ものだった。(うろ覚えて適当に挙げているが)例えば「大魔神」「大魔神怒る」「大魔神の逆襲」の3部作そのまんま放送、「猿の惑星」「続・猿の惑星」「新・猿の惑星」なんてやはりシリーズ3連チャン、「水戸黄門(天下の副将軍)」、「旗本退屈男」「社長何とか記」シリーズ・・・どうだろうか?自分の守備範囲だけで決めつけてはいけないが、どう考えてもわざと「斜め下」を進んでいるとしか思えない。大魔神・・・?「ゴジラ」なら間違いなく見た。猿の惑星・・・?「スター・ウォーズ」は無理でも「スター・トレック」ならたぶん見た。時代劇なら「関ヶ原」をやってほしかった!森繁さんの社長シリーズ・・・?「釣りバカ日誌」なら。。。。見ないな、やっぱり。

新年の朝を迎えると、その昔は正月番組と言ったらどこのチャンネルを回しても「爆笑ヒットパレード」や「新春東西寄席」など純粋お笑い番組に事欠くことはなかった。この時期のお笑い番組は1年で正月以外たまに笑点でしかテレビで見られない正統派の漫才やコントなどの宝庫で、ある意味貴重な記録だ。染之助・染太郎師匠を筆頭?に楽器持ちの演芸なら玉川カルテット、東京ボーイズ、横山ホットブラザーズ・・・純正漫才なら昭和のいる・こいる、大木こだま・ひびき、中田カウス・ボタン・・・中には亡くなってしまった人もいるな。元々漫才やコントが本職だったのに、テレビではバラエティ番組の司会やコメント出演、クイズ番組の回答者ばかりやっているのが正月だけはちゃんとしたネタを一応はやるところが面白い。最近は「出ては消え」が激しく、流行の人気芸人が毎年変わっているようだでさすがに「一発屋」とは言われないが、「去年流行って、今いない人」みたいな感じでミニコーナーで紹介される人々には何か哀愁のようなものを感じる。「ゲッツ!の黄色い人」「ワイルドな人」「そんなの関係ねえ人」「ごめんねごめんねえの栃木人」などは辛うじてチョイ出を見たが、M1グランプリなどで正統派コントを勝負するとは思えない「だめよ、ダメダメの連合」「ぐぅ〜っの美人なお姉さん」「らっすんごれらいの人」などはとうとう、テレビで見かけることはなかった。妻は「あなたは『お笑い』あんまり見ないから」と言うが。。。

朝の連ドラで見たほどがっつり「大晦日と正月」をそれらしく過ごした記憶はない(でもあれを見ると「なるほどなー」と感心する)が、コンビニ主流となる前は正月3が日は近所の商店街も全てシャッターが下りて「しーん」としており、食品や必需品が不足すると何一つ買えなくなった。大掃除や正月料理など正統派を改めて見ると我が家はかなりサボっていたようだが、それでも普段は外さない網戸や換気扇を洗ったのは覚えている。また自家用車がやってきてからは必ず洗車はしていた。今ではとんと見なくなったが、ボンネットの前の小さな正月飾りも付けていた。いつだったか正月飾りを付けたまま大晦日に洗車していたら、中央の安っぽい海老の模型がボロボロに溶けてしまい悲惨な姿になった。慌てて新しいのを近所のダイクマに買いに行こうとすると「そのままにしておけ」という父親の言葉で初めて「一夜飾り」というのはよくないことなのだということを知った。
私も父親も「おせち料理」なるものはあまり好きでなかったから、母もあまり精を出して作らなかったようだ。黒豆はよく煮ていたが家中異様な臭いに包まれていた。その結果、出来上がった黒光りする豆が何とも薄気味悪く、数の子は漬物っぽくて食べられない。田作りなども豊作祈願があるそうだが、「何で正月からこんな釣りエサみたいなものを食わねばならんのか?」という気分が否めなかったし、伊達巻や栗きんとんなどは甘くて酒の肴にはならない。昆布巻きとかまぼこ以外正当おせち料理を色々出してもあまり手を付けずいつまでも残っているので、そのうち正月の食卓には出て来なくなってしまった。

両親とも富山の人だから魚や独特な漬物にはこだわりがあり、送られてくるヒラメの昆布〆やバイ貝煮付け、煮しめなどはよく食べていた。私が成人して酒を飲むようになると尾頭付き鯛の塩焼きを箸でつつき、骨を炙って骨酒にして飲んだ。雑煮を普通に食い、あまり歓迎されないおせち料理の代わりに日持ち(というか製作者が楽)する大量のおでん鍋とか、すきなべ、豚しゃぶなど鍋ものが台頭していた。餅もよく食べたがちょっと変わっていて富山から送られてくる豆もちと昆布もちが主だった。豆もちはこの辺でも見かけるが、昆布もちとなると中々売っていないようだ。また「おせちもいいけどカレーもね♪」というキャンディーズのCMにすっかりやられた私にはよくカレーが作り置きされ、カップラーメンなどもかなり買い置きされていた。家族3人でひたすら酒ばかり飲んでいたのだが、妻が増えて4人となり、さらに甘辛が登場していち早くルールを覚えてしまうと、そこそこ飲み食いした後は箱根駅伝中継をつけっ放しにして「新春麻雀大会」が開催できるようになった。残念ながら麻雀好きの父が亡くなってしまった後だったが息子が幼稚園の頃であり、一応受験生の今に至るまで続いている。(一家で所縁ある何校も箱根駅伝の応援を沿道で楽しめるという月美さんご家族におかれてはまことに羨ましい限りである)

あろうことか息子甘辛がクビになってしまった駅前の進学塾の前を通ると「センター試験まであと9日」という大きなカウンターが見えた。ずいぶんと追い込むようなことをするものだが、幸いにも(と言ってよいかの判断は後年に委ねなければならないが)甘辛はこの暗黒期間を潜り抜けることができた。しかし神妙にも今回はどこにも出かけずに家で皆と寝正月を決め込んでいた。恐らく近くで「遊んでくれる者」が見つからなかったのだろうが。来年は友達同士どこかに出かけてしまうかもしれない。スキー場とまでは行かなくても、首都圏近郊、我が家周辺でも若者らしく?カウントダウンして夜通し過ごすイベント、場所には事欠かない。そしたら妻と老母3人で久々に正月の温泉にでも出かけるか。そうなったとしても1日には帰宅していなくてはなるまい。月美さんに「絶対にテレビに映る場所」を教えてもらい、ウルトラコスプレで小夏師匠に合図を送ることになっているから。。。

今回は写真がないのだが、正月に赤いライオン号を取りに家に戻った時に不思議なことがあった。ポインター号用の車体カバーの下に何と「カニ」がいたのである。海までは400m、川までも50mはあるのだが、どこからどうやってやってきたのか?そのまま203号を持って川辺を少し歩くと、縁起のいいことに「青い鳥」に出会うことができたので、これだけ載せておこう。

        

新たな駅伝の楽しみ方

2016-01-05 21:44:02 | 出来事
皆さま 明けましておめでとうございます。いつも与太話に貴重な時間を割いていただいてありがとうございます。今年も少しずつEXCEEDしていきますので「超兵器」をよろしくお願いいたします。

息子甘辛のプチ祝いに行った箱根で珍しい「箱根駅伝の優勝トロフィー&メダル」を発見してから、今回の競争には何か御縁があるような気がしていた。友達同士や家族で正月3が日にスキーや旅行に出かけなくなり、実家に集まってまったり過ごすようになってから久しい。自宅も実家も「箱根駅伝コース」の近くで、寝ていても「ランナーの走音」が聞こえるくらいなのに、実際に見に行ったことはほとんどないが、ランナーたちの疾風のような走りを間近で見ると、全く縁もゆかりもない選手でも思わず熱く応援したくなるものだ。駅伝3区の戸塚〜平塚間のコースは「浜須賀」で湘南海岸のR134号に出て、平塚中継所までの間、恐らく茅ヶ崎の一中通りT字路にある歩道橋からの眺めが最も素晴らしいと思う。2日も3日もほぼ快晴で朝早く行けば真正面にどどーんと富士山がそびえている。往路、復路ともに選手が通過する時は沿道には溢れかえるくらいの声援と結構邪魔な「大学幟」がずらりと並ぶが、早朝に幟が立ち並ぶ光景を富士山を正面に撮影しに行ったら、何と一本も出ていない?!どうも各大学の応援拠点となっている場所以外は選手が通過する直前にばばばーっと幟を立て、すべての選手が走り終わると速やかに撤去してしまうらしいのである。往路に立てた幟はさすがにそのままにしておくかと思ったら、翌朝綺麗になくなっていた。(考えてみれば走る方向が逆なんで当たり前か?!)

    

私は2日、3日とも早朝に出かけ富士山を正面に駅伝ランナーが走るであろうコースを撮影した。驚くことにこの暖かい陽気のせいか、富士山の雪が大山ハイキングに行った1か月前よりもかなり減っているのである。(こんなの初めて気付いた)これまで箱根駅伝の出場校には残念ながら全くといってよいほど縁がなく、母校を応援するような昂揚感を味わったことは一度もなかった。強いてあげるとすれば30数年前に一応入門を許されたが御縁のなかったW大、新キャンパスに友人と遊びに行って面白半分でドイツ語の授業に数回紛れ込んだことのあるC大、グンマ勤務時代外出して高速道路を使用すると必ず目に入る巨大な「群馬から箱根へ」という看板が印象的だったJ大くらいしかないが、この程度の薄い縁では入れ込んで(例えば大学名入りアイテムを購入してまで)応援するほど親しみもない。息子が志望または御縁のある学校も全然名前がないところだったが、何と昨年から自分に非常に所縁のある学校から1名だけその名前とシンボルマークを胸に着けて走っていたのである。残念ながら陸上競技部は出場できるほど強くないが、個人成績として選抜されて出るチームの1ランナーになっており、なんと最終学年の今回は我が家の真横を疾走するのである。ぜひ沿道で応援したかったが、息子甘辛と毎年恒例の「お正月だよ、ウルトラマン全員集合」改め「ウルトラヒーローEXPO」に出かけるため、私は富士山に超兵器203号を向けながら彼が走るであろうコースに向けて健闘を祈った。

    

3日は荷物を引き払って実家から自宅へ移動するのだが、実家に「赤いライオン号」を駐車するスペースがないため、自宅を往復して私はポインター号で茅ヶ崎までやってきている。ヒーローEXPOのライブステージの指定時間からすると昼過ぎには出発したいところだが、ここに大きな難問があるのだ。箱根駅伝競争による幹線道路の規制である。実家から我が家へはその位置的にどうしても駅伝コースを跨がなければならないが、沿道に駆け付けたものすごい応援住民と交通規制のためにルートと通過時間に最大限の注意が必要なのだ。自分で応援する時間がないので、実家のテレビで皆と一緒に我が家周辺を走る箱根ランナーを眺め、彼の襷リレーをこの目で確かめることにしていた。朝8時に往路優勝の青学がスタートし、次々にランナーが走りだす。時々箱根登山鉄道を横目に急な坂を駆け下りる風景を見ながら「あー、ここ、この前行ったよねえ」などと指差していた。誰一人として知っている選手はいないのだが「何かゆかりあるランナーいねえかなー?」と箱根駅伝についての新聞記事を探していると、妻が「データ放送に詳しく載ってるよ」とリモコンボタンを押した。なるほど今までほとんど使用したことは無かったが、大学や個人選手が色々な角度から紹介されている。世の中には便利なものがあるものだ。

甘辛は興味なさそうにゲームをしているが、母と妻は色々とデータ放送で調べ始めた。「神奈川の大学って言ってもあんまり意味ないから、県出身とか県登録で調べてみようか?」各選手の母校や出身地などもデータ放送で調べられるので面白い。「へーえ、この人富山県出身だよ。富山で調べてみようか?」よほど箱根駅伝に興味がある人でないと知らない専門誌掲載のような事項が簡単に調べられる。ネットでも分かるがあいにく実家はインターネット環境がないだけに、このデータ放送というのは新しい道が開けそうだった。しかし残念ながら出身地や高校名なども細かく調べても「つながり」を見出すことはできなかった。そうこうしているうちに7区先頭の選手が平塚中継所で襷をリレーした。上空のヘリからいきなり見慣れた湘南海岸が映し出され天気もよくキラキラ光る海原と江ノ島が印象的だった。ここから先はどの場所を放送されようが手に取るように分かるゾーンである。私はふとした思いつきでこたつに入ったまま超兵器203号をテレビに向けた。復路後半はもちろん独走する青学と追う東洋、駒沢を中心にシード権争いの10位前後のチームまでが注目を浴びるはずだが、残念ながら全出場選手で唯一個人的に応援したくなるランナーは、どこにも関係ない立ち位置(走り位置)なのでほとんど中継車の的にならないことが想定され、唯一あるとすれば襷リレーの瞬間と思い付いたのである。

        

やがて中継車はド正面の富士山をバックに疾走するW大の選手をとらえた。やはり早朝行った地点は駅伝コースの中でもかなりの名所なようだ。復路は先頭がスタートしてから10分後は一斉スタートになってしまうから、その後の個人のレース展開で走っている順位と実際の順位が異なってしまうからややこしい。中継車が我が家のほんの近く「華屋与兵衛」を映し出したとき・・・「10位の中央学院?シード権争いか。もうちょっとだけ少し先を走ってるのに・・・」トップから画面が切り替わり後方の選手を映し出すたびに203号をテレビに向けたのだが、やはり私が見ている前で彼の雄姿が現れることはなかった。甘辛の通った幼稚園を少し過ぎたあたりで、「おおーっ、父ちゃん、大学の名前出てんぞ!」甘辛は思い出したように言い出したが・・・「別に幟を撮りたいんじゃねーんだよ。本人(顔は知らないけど)を撮っておきたいんだよ。こんなこともう、無いかもしれないからな」とため息をつきながらも「(個人的に選抜されて出場していても、ちゃんと学校として応援するんだな)」と内心は感心していた。戸塚中継所の襷リレーまで見届けるつもりだったが、出かける時間になってしまったので甘辛に「画面に出たら撮ってくれ」と超兵器203号を託し、選手たちが駆け抜けたコースを横断してポインター号を我が家まで走らせ、再び赤いライオン号で迎えに行ったのである。

        

ついさっきまでものすごい群衆が旗を振って大声援を贈っていた沿道が「兵どもが夢のあと」のようにゴミ一つ落ちていないのには感心した。「沿道で応援していただく皆様に、箱根駅伝は育てられてきました。」という学生連盟のメッセージに応えての心がけなのかもしれない。駅で待ち合わせた甘辛から203号を受け取ったが「戸塚中継所の前で一瞬映った」そうだ。東海道線新橋駅で乗り換えで水道橋にある後楽園プリズムホールに向かう。新橋〜東京間で山手線の車窓を見ていた甘辛の「父ちゃんよ、アレ、駅伝じゃね?」という声にすかさず望遠連射モードの203号を向けた。時間的にはまだ走っている姿が見えるかもしれないのでセットしておいたのだが、何と山手線の窓から人ごみだけではなく奇跡的にも走っているランナーの姿を画像に収められたのだ。(上半身だけだけど)見れば某SNSサイトではたくさんの知人が箱根駅伝爆走シーンをアップしていた。中には列車で小田原あたりから列車で区間追っかけをしている人までいたようだ。母校を沿道で応援するというシーンはほとんど期待できない我々にとって、ピンポイントでも今回は常連校OBには分からない小さな感動があった。来年(のことを言うには早すぎるが)が今年のようなスタイルになるかは分からないが、沿道声援が「毎年恒例行事」となる日も近いかもしれない。