超兵器磯辺2号

幻の超兵器2号。。。
磯辺氏の文才を惜しむ声に応えてコンパクトに再登場。
ウルトラな日々がまたここに綴られる。

2015総ざらい

2015-12-30 07:38:47 | 出来事
この時期は毎年のように誰ともなく「1年たつのは早いねえ」とため息をつく。25歳時(4%)に比べれば1年分の比率は約半分(2%)である。前も書いたが「1年の長さの感じ方はそれまで生きてきた年数による」という説にはかなり説得力があると思う。しかし某SNSには「1年を振り返ってダイジェストにいてくれる」機能がある。試しにやってみると今年の始めは「ウルトラマンスタンプラリー」で山手線駅を駆けずり回っていたのである。その記憶から今までの時間を考えるとはるか以前のことに感じ、やはり365日というのはそれなりの長さを持っているとも思う。このサイトでは「○○編」と引用する時くらいしか読み返すことがないのだが、年末なので一旦正月まで遡って今年を振り返ってみよう。

新年スタートは「一休-Cool Down」という下りになっている。年末の「おイタ」に加えて、正月早々ランニングマシンでの激痛から「天の警鐘」を聞き取り、スロースタートとしたのだが、なんのことはない・・・半月もすれば忘れ果て、前々日の発熱にもめげずに爽やかに10マイルを駆け抜けた。最初は少し出遅れたが先のSNSに登場したようにウルトラマンスタンプラリー全64駅を怒涛のように駆けずり回り、初めて念願の「怪獣酒場」を訪れた。その後、この1年の間に懐かしの同窓生メンバで訪れたり、家族で店を訪ねることになる。妻が見つけてきた台場の3D写真館で憧れの「ウルトラ警備隊」制服を着用、これを某SNSに掲載したところ、少ないメンバの中で最高数の「サムズアップ」を記録した。実は私が鏡の前で夢中でポーズを撮っていた間に妻が「3Dデータを使用してクリアフィギュアを作成する」なんていう思いも寄らない秘孔を突き、1ヶ月後にサプライズプレゼントとして届くのである。これには無条件降伏するしかなかった・・・超兵器整備計画の第一弾「A-VX」号が登場し、寒さと(お化けの恐怖)に震えながら、星空の名所で8000年に一度の「ラブジョイ彗星」を補足した。ウルトラに星に釣りに極寒の中で全然「一休」でない真冬だった。

読書や映画、趣味の世界はもちろん、自分には未知の分野であっても「その知性人柄を絶大に信頼できる人」の言うことは無条件に踏み込んでしまうことが多い。早春のまだ肌寒い季節はKICKPOP師匠からきっかけを頂くことになった「アーユルヴェーダカウンセリング」で始まることになる。動きを表す「ヴァータ」(青)、情熱の「ビッタ」(赤)、癒しの「カファ」(黄)の3要素のうちで「カファが一番強い」という診断だった。「ビッタも強いがカファがそれを押し包んでとりあえずは安定している」日本に数人しかしいないと言われるインドのアーユルヴェーダ医師はどう見ても「鳥人間」としか思えないような下手な絵で食生活の注意事項を指摘したのだ。実はこの時に薦められたカルダモンを買ってきてデスクに置き、毎日飲むコーヒーに振り掛ける30日コミットメントを企てたのだが、目薬入れたような味がどうにも不味くて挫折・・・息子甘辛と大の仲良しな一つ年上のSちゃんが見事に第一志望大学を突破。高校と異なり色んな選択肢があるので単純ではないがやはり「(またまたハードル上げてくれたよなー)」最初から技術科学分野方面の息子甘辛やさらに続くKちゃん周辺は思ったことだろう。この春は寒くて家にこもりがちの母親を外出ついでに花を求めて房総他連れ回したり、職場の「新おでかけトリオ」と北関東を走り回ったり自分の知らない「ちょっとした」名所を巡る機会が多かった。先日、小夏師匠がいらしたという「空の博物館」も師匠からの情報に飛びついて電撃参加したのである。

初夏から梅雨にかけては何をするにも身体が勝手に動いてしまい「何かをきっかけにのめり込む」ことが多かった。ひょんなきっかけで巡り合った「オオスズメバチ」の物語は不思議な共感と猛然とした昆虫への興味を呼び起こし、自分でも夢中になって超兵器203号を片手に小さな虫を追い求め、私にとって貴重かつ稀少な「本の友」は「風の中のマリア」という不思議な本を読んでパスワークさせられることになる。また初めて見た舞台挨拶付き映画と某SNSで知人が紹介していたやはり「キネマの神様」がきっかけとなって映画やオーディオへの関心が高まり、そしてアニソンヒットソングの熱い世界にのめり込んで行くのである。また某SNSで古い友人が「茅ヶ崎駅ビル」の建替えを記事にしたら、まるで炎上したかのようにその昔を「語る」者が次々に現れ、多くは同窓生が多かったが「いっそのこと集まるか?」と駅を語る会が成立した。このコミュニティがその後「怪獣酒場に集う会」に発展していくのである。口径20cmの主砲「M20号」の登場によって超兵器整備計画は一旦終了し、これまで40年前の反射鏡筒ではまず困難だった月面、星雲の細部や惑星の撮影も可能になった。むろん釣りにビーチバレーに「こそ練」で痛い目にあったスカッシュに、動的分野も健在で、イベント入れ食い状態でこの年折り返し点を迎える。

梅雨も明け本格的な夏に入る少し前に思ってもみなかった不思議な集まりが実現した。「イニシエーション・ラブ」映画鑑賞会である。この原作となる乾くるみさんの著書を最初に紹介してくれたのが同年代の知人「クリスタルさん(仮称)」である。一度読んだだけではまず解読できぬ奇想天外な物語展開を「面白いぞ」とパスしたのが約20歳年下でグンマの元同僚「あまちゃん」だ。そしてあっちゃん主演の映画化に驚き、電撃的に鑑賞会を企画してくれ、ちょうど真ん中世代の「タカさん」が登場するのだ。あまちゃんとは研究所の元同僚も絡んで色々な本を紹介し合いパスワークしていた。そのあまちゃんも先般めでたく結婚、今や本社ビルのバリバリキャリアである。そしてその上長は何と3年前くらいに登場しグンマの祭りでご一緒した、「休暇を取ってまでもキャンプ地に追いかける」数十年来のホエールズ(もとい!ベイスターズ)ファンのガノさんである。あまりの奇縁にあまちゃんには先日パスするはずだった三河のにらリレーに彼にも参加してもらうよう頼んだ。夏休みにかけては仕事で(ほんとだよ!)太平洋側大島、日本海側佐渡島、初回赴任地などを訪問し、伊豆のジオパークをプチ旅行したりと中々ダイナミックに各所を巡っていた。再びアニソンライブで熱くなり、いつものようにウルフェス、怪獣酒場でウルトラ怪獣を追いかけているうちに息子甘辛が部活を引退しいよいよ受験を意識し始めた夏だった。

9月になって「アド街ック天国」に我が家のある街が紹介された。地図で見るとギリギリに入っている程度だったが、いつも見慣れている店や知らなかった?店が紹介されて不思議な気分となり、私なりのダイアリー&ベスト10を考えてみたものだ。我が街を取り上げてくれたテレ東に敬意?を表し、完全テレビっ子だった私は色んなジャンルで他の民放と違う味を出していた12ちゃんについて、たまたま図書館にあった昔の番組一覧を見ながら懐かしく語ったものだ。今年最大のスーパームーンとなった中秋の名月を経て、息子甘辛の学校最後の行事「課題研究発表会」や「文化祭」も無事に終わっって今年の中では比較的平穏な秋口だったようだが、一際輝くのは3年に一度の一大イベント、海上自衛隊観艦式である。念願だった東京湾から相模湾への体験航海は圧巻という他なく、日本の防衛力の充実度に色々考えさせられるところもあった。初めて見るブルーインパルスも最新鋭のヘリコプター搭載護衛艦(どうみても空母にしか見えないが)「いずも」も迫力満点の8時間(長いな〜)だった。ちなみに本サイトのタイトルにしたDD111の数字は艦番号、頭のDDは「Destroyer」という物騒な意味なんだそうである。その場で乗艦した「おおなみ」のプラモをAMAZONで注文し(まだ作ってないけど)、「霧島カレー」「いずもカレー」を土産に帰路についた。

晩秋から師走にかけては結構お出掛けが続いた。全国安全大会で「城でもつ」尾張の国を訪れ、街の名所を練り歩き、少し外れに秀吉、信長などと言った戦国の英雄の足跡を辿った。ドック帰りに三島の街を訪れ、新お出かけトリオと共に北関東の国宝やあまり知られぬ名所に立ち寄った。年に一度の従兄弟姉妹会の会場は富山で、初めて北陸新幹線の旅となった。ついでに越中西部の名所巡りを行い、ついでにあいにくの天気だったが世界遺産「越中五箇山」である。同じ方向だから少し間が開いてくれればいいのに、翌週再び今度は仕事での出張だがその先の金沢である。百万石の街は私にはあまり馴染みのないところだったが、ほとんどジョギング状態だったがメジャーどころは抑え、久々に見る雄大な立山連峰に感激したものだ。さらに初冬に入ってはいたが、ビーチバレー仲間の企画してくれた県西部の大山ハイキングは今年一番の青空に恵まれ、最高にして最後のお出かけ日和の1日となる想定だった。その数日後、受験生真っ只中の息子甘辛がの仕掛けた(選んだ)試練の結果が待っていたのだ。その後、受験の厳しさを思い知り、引き続き来る「入試」に向けて息子も私も第一級臨戦態勢となり、彼の進路が決定するまでは、このブログも含めてあらゆる活動を停止するつもりだった。むろん私にとって今年最大のニュースは息子甘辛があっけなく突破してしまったことである。「あまり調子に乗ると手痛い揺り返しがあるぞ」と警鐘を鳴らす私を後目に、高校卒業までの期間、自分をクビにした進学塾にアルバイトを申込みに行くとはいい度胸だ。「人の一生分のツキ量は同じ」というのが、Kちゃんママの持論だが、来年はその言葉通り注意深く行こうと思う。

皆さま今年も「超兵器」に遊びにいらしていただきありがとうございました。よければ本文を見ながら今年の与太話を遡ってみてください。
年もゆるゆる続けますのでどうかよろしくお願いいたします。

箱根の山

2015-12-26 11:40:56 | 旅行お出かけ
本人が納得のいく決着を見るまではブログも遊びその他も封印し最優先しようとした息子甘辛の受験シーズンだったが思わぬ結末となった。私とは違う側面で全面応援していた妻だったが、まずは数年ぶりに「温泉に浸ろう」ということになって、老母とともに土日を使って箱根の温泉施設を訪れたのである。部活が忙しかったこともあり、甘辛も入れて家族で出掛けるのは数年ぶりだ。プチ旅行とは言え、いつもは一泊でも「行ける限りの観光」メニューを詰め込む私だったが、今度ばかりは「何もせずにまったりする」慰労に徹することにしていた。強羅温泉にある施設は数年間に全面改装して昔の面影はないが、私が社会人になって初めて両親を招待したところだ。 大涌谷の噴火警戒レベルが上がってしまい、温泉の安定供給に不安があるとして営業を休止してしまっていたのだが、この秋にようやく営業再開に至った。田舎の「卓球場付き温泉旅館」だったのが、見違えるほどお洒落な内装となり、料理もこれに合わせて本格イタリアンに生まれ変わったからか、妻も甘辛も最もお気に入りの宿泊施設となっていた。

ただ夏場は避暑地としてよいのだが、かなり急な坂道の上にあるので、この季節路面が凍結したりして登れなくなったり滑り落ちると危ないので、今回は周辺観光も諦め、老人旅行のように電車&送迎を使用することにした。富山のような遠いところは新幹線だが、比較的近いところに電車を使うのはホントに久しぶりとなる。我々4人は秋口に「アド街ック天国」に登場した辻堂駅に集合して東海道下り線に乗り込んだ。自家用車ではできない、アルコール類とつまみをたんまり買い込んで中距離車両特有のBOX席に陣取ったのである。わずか30分程度だが見慣れた車窓からでも旅行気分で缶ビール片手の風景は味わいあるものだ。東海道線の駅の発車メロディはご当地化を進めているのか、茅ヶ崎駅はサザンの「希望の轍」、平塚は「たなばたさま」、そして乗換の小田原駅は笑っちゃうことに「お猿のかごや」である。ちなみにもうじき開業100周年になるという辻堂駅はアド街でも紹介された「浜辺の歌」を駅メロにしようという活動があるらしく、以前署名依頼が回覧されてきたことがある。

途中観光を予定しないので、かなりゆっくり目に出てきたこともあり、昼食は小田原でとることとなった。かなり駅ナカは改装が進んでいて、改札には巨大な「小田原提灯」が「でーん」と構えている。(なるほど「お猿のかごや」が駅メロになるわだ)乗換以外にほとんど訪れることのない駅前だが、ここにはご当地グルメとして「小田原丼」というのがあるのを聞いていて、手軽に食べられるところはないか探してみた。鯵のたたきにカマボコあたりが乗っかっている丼をイメージしていたのだが、「小田原の食材を一つ以上入れること」「小田原特産の漆器に盛ること」を満足すれば「何でもあり」のようで、牛ステーキやローストビーフを乗せたものもあるし、天丼風やお茶漬けみたいなメニューもある。たまたま入った海鮮モノが売りのお店では限定10食の小田原丼が売り切れてしまっていた。(考えてみたら小田原名物「梅干し」をど真ん中に据える丼モノもあるようで、代わりに注文した「大名海鮮丼」が結果的にアタリだったような気もする。

    

小田原からは箱根登山鉄道に乗り換え、箱根湯本を目指すことになる。小田急ロマンスカー「はこね号」は新宿から箱根湯本まで直通運転しているが、普通は旧式の列車で途中3駅しかない区間の往復運転を使う。ほとんど知らない名前の駅ばかりだが、「入生田」という駅の近くに有名な長興山紹太寺の「しだれ桜」と「生命の星地球博物館」がある。ちなみに箱根登山鉄道は小田原をはじめいくつかの駅で中学で習った「は・こ・ねのやまは〜てんかのけん〜」という滝廉太郎の曲が流れていた。タイトルはよく知らなかったのだが「箱根八里」というそうだ。終点の箱根湯本で再び登山列車に乗り換えることとなる。宿の送迎サービスまで時間があったので少しだけ付近を歩くことにした。小田原北条家の菩提寺「早雲寺」(そのまんま)である。観光客で賑やかな湯本駅周辺に比べて人っ子一人いないが、豊臣秀吉が小田原城攻めの際に使用したと言われる梵鐘や北条五代の墓などが見られる。箱根湯本の駅から強羅までいよいよ標高差500m近くある登山鉄道に乗り込むことになる。実はこの電車、これまで小学校のスケート教室他2回くらいしか乗った記憶がなく、中々楽しみにしていた40分だった。

    

ほとんど周辺の観光を予定しない今回のプチ温泉行で、「箱根登山電車」というのはかなり香ばしい乗り物である。途中小涌谷まではほぼ箱根駅伝で走る国道1号に沿っているから途中駅も知っている名が多い。しかし最初の停車駅「塔ノ沢」ではいきなりホーム内に銭洗弁天が現れる。車内アナウンスでは箱根登山鉄道にまつわる説明が随所に聞かれる。総行程の大半は80パーミルという勾配(1000mにつき80m登る)になっており車輪の力だけで登るのは日本でこの電車だけだという。12.5m進むごとに1m登る急勾配を車輪の摩擦だけで登る計算になるから確かにすごい。途中3か所「スイッチバック」する「信号場」というところがあり、来たレールと行くレールの傾斜を感じることができる。信号場に停車すると前と後ろが逆になるので運転士と車掌が入れ替わ鉄橋だがる(当たり前か!)。塔ノ沢駅を出ると早速「出山信号場」というスイッチバックポイントになる。ここから見える「出川鉄橋」は自分たち通過してきた、この登山鉄道建設工事で最大の難関だたそうだ。橋梁を架設するには恐ろしく険しく困難な地形で現在のような技術がなかった当時は何十もの足場を組んで人海戦術で建設したそうだ。紅葉の時期は美しい場所でスイッチバック停車している時が撮影のチャンスらしい。登山鉄道の特徴に急勾配と急カーブがあるそうだ。山岳に無理やり軌道を建設しているから、かなり急なカーブが多く、曲率半径30mというところもあり、まるで直角に折れ曲がっているようにも見える。グンマで慣れているから野生動物の出没には驚かないが、この辺も色々な動物が出るらしい。

        

終点強羅駅に降り立つとすぐに送迎の車があり宿まではわずか5分程度だった。施設内もすっかりクリスマスムードになっており、久々に高級感溢れるコース料理を堪能できた。ここの温泉は硫黄臭が強く白濁していて、源泉かけ流しでかなり湯温が高く、適当にうめスクリュー付きの棒でかき混ぜながら入ったのだが、火山活動の影響なのか全体的に温度が下がったようで、ゆったりまったり長時間浸かることができた。翌日はゆっくりめの朝食とし、早朝、朝食後にも温泉に浸かりマッサージチェアで全身をほぐして帰路についたのだった。再び香ばしい下り電車に乗ると行きに気が付かなかった様々な仕掛けがあった。例えば曲率半径30mの急カーブではレールの摩耗を防ぐために水を巻きながら進み、下りのスピードを制御するためにレールに圧着する特殊なブレーキがあるそうだ。これだけのカーブを安定して進むために連結器も特別仕様らしい。再び箱根湯本駅まで降りると一か所だけ箱根町役場を訪れた。来年正月の箱根駅伝に出場する各校の幟やユニフォーム、そして優勝校に送られるトロフィーやメダルが展示されていたのである。(寄木細工とは知らなかった・・・)今回のプチ旅行は息子のプチお祝い会ということで、温泉施設に泊まりに行っただけだったがこういう「ゆっくりまったりお出掛け」というのもありだと思った。

              

      

          

   

再び斜め上をゆく

2015-12-18 13:00:59 | 出来事
ご当人は「オレの実力が『神』だったからだ!」と言い張っているが、どう考えても「作戦勝ち」(百歩譲って「戦略勝ち」)である。高校受験は内申点他、日頃の積み重ね分のウエイトがあるから、ある程度ギャンブル性が低く進む道が「はっきり見える」ものだが、大学進学はいわゆる「一発勝負」で博打の要素も多い。自分の持論からすれば「結果の振れ幅」は結構大きく、知力(はもちろんだが)、体力、時の運のバイオリズムが合うとかなり奇跡的なことも起こる(何せ自分がそうだったような気がするから)。ただ(何度か書いた私の持論だが)この強運を手にするには後で振り返った時「あれ以上は無理だった」という「いっぱいいっぱいの詰込み」が前提だ。この詰込み感を持っておれば結果はどうあれ自分で自分を納得させることができるのである。私の場合、この感覚には完全に自己満足していたので合格発表を見に行ったのは1校だけで他は旅行に出かけていた。

今はあういうガチガチの詰込みというスタイルは流行らないようだが、息子甘辛も春先のSちゃん合格報にも刺激され、誕生日を迎え、部活帰りにも塾に通ってそれなりに少しずつ受験を意識し始めてはいるようだった。ところが、一学期を終えて夏休み最後の大会を控え、最新の人工芝グランドで遅くまで部活に勤しみ、昔なら後輩に押し付けるような片付けなどもちゃんと協力していると、塾の開始時間にどうしても遅刻する日が多くなってしまい「受験生なのにそんなに自覚がないなら、もう来なくてよい」と、あろうことか塾側にクビを宣告されてしまったのである。私もこれには少し忍びなく思ったが「きっと見返してやるからな」と甘辛は言うことだけは立派だった。でもさすがにこの時期には「まずいんじゃないか?」と息子はいくつか他の現役予備校を探し回り、私も一緒に説明を聞きに行った。前のところもそうだったが、今の進学塾のエントランスというのは思わず仰け反ってしまうほどすごいことになっている。四方の壁(ところによっては天井にさえも)に「○○大学合格おめでとう!」のお札が敷き詰めてあるのだ。下手すりゃ名前の上に花までついてるぞ。まるで衆議院解散総選挙に圧勝した政党の候補者一覧である。

夏休み終わりに部活を引退し9月からはいよいよ受験生らしく新しい進学塾の講義を結構詰め込んで受けるようになった。その塾のカリキュラムは教室に集合して講義形式で行うスタイルと、ある単元に対して自習した結果を見極めてもらう自動車教習所のようなスタイルを併用し、過去の出題対象分野を分析してきめ細かくつぶしていき、最後は志望校別のリハーサルを繰り返すというような念のいったものだった。どの塾でも「最初に門を叩いた」際には最高の営業マンをぶつける鉄則があるようで、説明を受けた時は当人の甘辛ならぬ私自身が何となくその気にさせられてしまった。クルマのセールスさせたら間違いなくナンバーワンと思えるその担当者は、満面の笑みで受験生の成功を請け負うかのような言い方をするのだ。「(今の受験サポートシステムというのは実によくできたものだ。信じる力さえありゃ大抵のところにゃ行けるんじゃないか?)」自分が我流でいかに無駄なこともやっていたか苦笑いするしかない・・・必要なのは「入試問題を解く」能力ではなく、「これさえやっておれば大丈夫」と自分を説得し続ける能力に思えてきた。何せ室内全てが「耳なし芳一」のような「おめでとう札」の洗脳である。

むろん講義の開始時間までやその合間には集中して「自習」できるような環境が整備されている。私は図書館や自習室などやたら静まり返っているところでは勉強できないタチだったが、彼も何やら息が詰まるようで、学校が終わってから実験室に残って追い出されるまで自習しているという(ホントかな)。志望校などもまだあやふやでどこで何をしたいかを決めるまでは、とりあえず数学や物理・化学など理系なら必ずついて回る教科について、日曜日は私と一緒に塾の教材を使って高校受験の時のようにまた親子で勉強するようになった。ただ前回の切迫感とはだいぶ異なり、これは本人にとってあくまで助走のためで、私にとっては限りなく「趣味」に近いもので、久しぶりの「数�」は新鮮で実に興味深く当人そっちのけで演習問題に食い入ってしまうこともあった・・・微分、積分、極限・・・Σ、lim、∫など「数学的な気分になる」記号のオンパレードにワクワクした。(後にまたまたこれらは全て無駄となってしまうが・・・)
甘辛当人は数時間も集中して続けることができないようで、何かにつけて休憩したがり、しまいには「ボール蹴り行かね?」と言い出す始末である。確かに部活を引退してから身体を動かすこともなくだいぶなまっているらしかった。部活引退後サーフィンデビューしたものの私のウェットスーツが小さくて着られない甘辛は寒くなってくると数回ですぐにめげた・・・・

秋になって私は「(こんなことでいいのかな)」と思いながらも夕方までグランドでボール蹴りに付き合った。昔、日の出前の真っ暗なうちから、色んな道具を使ってトレーニングしたことを思い出しながら。中学校を卒業するまではまだ高度成長期が見られず体力も蹴るボールもそこそこでしかなかった甘辛だが、今度は二人で練習すると言っても私よりも10cmも身長のある現役高校生が蹴るボールである。しかも部活では意図的にかなり固めのボールで練習していたようで、地を這うようなグラウンダーをやっとの思いでトラップすると、足首にまるでボーリングの球を受けたような衝撃が走った。もはや私も1対1では抜かれ役に徹するばかりだったし、ロングボールを蹴ってもふらふらと相手まで届かないことも多い。「(父はこんなにへろかったかな)」と思われるようだが、こちらは「(コイツもこんなボールを蹴るようになったか)」と思う、そんなものだろう。コートの真ん中に置いたネット代わりの自転車を片付けながら「(次からはサッカーバレー主体にしよう)」と密かに決めたのだった。そうこうしているうちに志望校調査や親も含めた3者面談などもあり生徒も親も徐々に受験モードに突入していく。今は普通の一般入試の他に指定校・一般推薦、AO入試など様々なチャネルがあり、受験生にとってチャンスは多いようだが、早い者は夏休み明けから学力試験や自己PRレポート提出、面接試験などの準備に追われることになる。

高校進学の際も我々両親や同年代の子を持つお友達家族がもつ想像の「斜め上」を歩んで見せた息子甘辛だが、今回も前から薄々聞いてはいたものの何やら作戦を練っているようだった。その考え方自体は「それぞれの受験」編でも書いたように我々も認めるところで、最初に第一志望だと言ったところのキャンパス見学を兼ねて出願要項一式を一緒にもらいに行ったが、そこは首都圏ではあっても我が家から通学圏としてはちょっと厳しいところにある学校だった。オリンピック選考大会のように「ここを○位通過すれば出場内定」みたいな選抜方式があるのだが、最初の出願書提出期間の数日前の日曜日に担任から電話がかかってきて、あろうことか学校の都合(後から聞くと手違い?)で受験できないことが分かったそうなのだ。「えーっ、なんでそんなアホな話になっちゃったんですか?」ちょっと前の「塾退去事件」同様、のっけから彼にとっては忍びない結果となってしまった。ほぼ同等の志望校があるのは知っていたが、ネット申請で出願応募用紙を取り寄せていては間に合わない。休み明けの平日に入試課に直接赴いて用紙一式を受け取り甘辛の学校まで自分で持っていく綱渡り方式でもぎりぎりだ。そこで私の母校がそうだったが休日であっても意外と守衛で対応してくれることはあるので、試しにダメ元で祝日に妻とドライブも兼ねて赤いライオン号を学校正門につけ係員を訪ねてみたら、うまい具合に出願書一式をもらうことができた。

「いっぱいっぱい詰込み法」しか知らない私自身のターゲットはあくまで2、3月のノーマルな一般入試の正面突破であり、こういうチャネルは横道のような気がしてあまり期待もしていなかったのだが、実は第一志望校を受けられなったことに責任を感じたクラス担任と塾の担任がダブルつきっきりで提出文書や小論文の添削、面接試験のリハーサルなど短期間ではあったが徹底的に面倒を見てくれ、前夜にとどめの私との親子面接リハーサルを行って、受験シーズン最初の本番を迎えるに至ったのである。甘辛の学校は制服がないが私服で面接に行かせるわけにもいかぬ。前々日に妻が買ってきたパンツに私のジャケットを着せワイシャツにネクタイを締めさせたら中々堂々たる風体になってきた。ネクタイなどもっていないから私のを貸したが、迷ったあげく黒地に水玉模様、そして所々に「ウルトラセブンの顔」がデザインされているヤツにした。むろん「オレがついてるぞ」という意味を込めてある。主な選抜材料は彼が何度も書き直しを言い渡されて閉口していた志望理由書、自己推薦書、そして小論文、面接のようである。「全身が震えた」というほど緊張したそうだが、その割にはあっけらかんとしたもので、彼に言わせると「イマイチ」の面接官もいたそうだ。合否の発表は約2週間後、実はこの期間が実に悩ましく、受験勉強にも身が入らず何か「そわそわ」する空白期間になってしまう。

    

「ダメ元でいた方がいいんじゃね?結果NGで慌てて始めても間に合わんぜ」と言ってはあったものの、結果が出るまでは何か気を入れて勉強をする気がしないらしく(そら、そうだわな)、おまけに最後の定期試験期間が間近になっていた。また先般紹介した「課題研究」のために費やした授業のために所定の教科単位に達するためにやたら厳しくレポートが課せられ、受験勉強どころではないようだった。甘辛はバタバタそわそわ、私はイライラどきどき過ごした2週間だったがインターネットでの発表当日、甘辛からのそっけないメールですべてが一瞬にして氷解してしまった。高校進学の時と同じように私も妻も「そうなっては後々によくないような気が少しする」が「そうなるように一応願い」つつ「何となくそうなるような気がした」「期待の斜め上」をまたまたあっさりちゃっかり行く結果となった。生涯に「食う寝る入る(風呂)以外は全て詰め込む」期間があってもよい(なくてはならない)と思っていたのだが、振り返ればその後そういう期間がやってくることはなく、経験が役に立った記憶もほとんどない。。。彼の通う高校は、学校生活もまだ丸々四半期あるので、暇を持て余して遊び呆けた末に「ポンコツ」にならないように、そういう「あっさりちゃっかり」生徒向けの「先駆け学習」プログラムも用意されているようだ(さすが!)。あまりに「いっぱいいっぱい詰め込み過ぎて、「通過」したら燃え尽き症候群で遊び始めるよりは、行ってからの方が大事なのだから甘辛のスタイルの方がこれからはよいのかもしれない。

「それぞれの受験編」でも書いたが、約30年余り前のこの時期、私は息子甘辛よりは勤勉にセンター(昔の共通一次)試験の準備をしていた。しかし周囲は焦って自ら納得性の低い進学先に行くよりは清々しく「浪人」していた時代である。クラスメイトの半分近くは1年余分な受験スケジュールをたて、今のうちから予備校選びをして人気の高い講座の優先権を得ようとしていた者もいた。私もその緩やかな波に乗ってしまい、大らかに残り1年計画でいたのだが、クリスマスを前後して気分が一転した。今もそうだが街にはイルミネーションが煌めき、「ジングルベル」が鳴り響き、「歌謡大賞」「今年の重大ニュース」が流れる季節である。1年で最も華麗なこの数週間を部屋に閉じ籠って「オスマン=トルコによる東ローマ帝国の滅亡年表」を覚えながら「こんな年末はもういやだ!」と一念発起したのだから、私の「いっぱいいっぱい詰込み」密度はやたらに高い。私の両親は私と違って子のすることに何一つ口出ししなかったし、かまいもしなかったが受験シーズンというのは周囲にも少なからずイライラ・どきどき焦燥感をもたらすものなのがよく分かった。もはや我が家のシェッドで一緒に「理想気体の状態方程式」を解くことがなかろうことは少し寂しいが、3年前よりもさらに早くこれを解き放ち、親にのんびり温泉気分で年末年始を過ごさせることとなった息子の作戦勝ち(もとい!戦略勝ち)には感謝すること大である。

高校入試、その先の受験にあたって息子甘辛は少なからず父のとった進路、方法、経験の影響は受けたのだろう。しかし結果的どちらも全く違うコースを進んだ。言いようによっては自分が成しえなかった(選ばなかったんだけど)道でもある。
アニメのような美しく壮絶な話では全然ないが、それでも私は「巨人の星」のとあるシーンを思い出した。私は最終回よりもこのシーンの方が印象が強いのだが・・・もはや中日で飛雄馬の敵となった星一徹が大リーグボール3号を初めて目にして伴宙太に語るところである。
大リーグボール1号は一徹に仕込まれた壁の穴も通す神業コントロールの賜物だった。大リーグボール2号の原型は父が授けた「魔送球」だ。しかしアンダースロー、ノーコン、超スローボールの大リーグボール3号は星一徹の野球を根底から覆し、その理論から完全に独立したものだった。これに対し一徹は「父親の喜び、これにまさるものなし」と涙するのである。
そりゃーちょっと違うんじゃねえの?と言われそうな無茶振りで、正直もうちょっと劇的に掲げたいところだったのだが「まあ、こんなものかな」と息子の快挙?に笑うのだった。

視力回復企画

2015-12-15 07:01:06 | スポーツ・健康
やけに時間がかかったが、先日受診した人間ドックの結果がやってきた。健診終了時は故・大滝秀治さん似の医師とくわばたりえさん似の保健師にはほぼ「オールグリーン」と褒められて気をよくしたのだが、実際結果が文書でやってくると体重、血圧の他にどころどころに経過観察の項目があり、医師からの紹介状まで入っていていた・・・確かに彼らのいう通り特に緊急を要する深刻なことはないようだったが、1点だけ「いよいよかあ」とため息をついたのが「視力」である。自宅から1時間半近く自動車を運転した直後で疲れ目だったとはいえ、片目/両目とも運転に若干の支障がでるゾーンに入ってしまった。今まで条件欄は真っ白だったのに、次の運転免許更新時には間違いなく「眼鏡」とかかれてしまうに違いない(とほほ)。今までサングラスしかしたことないのに、目の前にレンズがあるなんて鬱陶しいことこの上ないが、目の中に異物を入れるコンタクトなどさらに想像できない。

私はすぐに「レーシック手術」を思い付いた。初期の頃は事故もあったり何かと物議のあった施術だが、今は最新の設備が整って技術的にも安定し、ほぼリスクのない安全な近視回復術のようだ。これまで人生の大半をド近眼で過ごしてきたかなり年下の知人が視力2.0まで劇的に改善し「世界が変わった」と述懐していた。インターネットで調べると手術例数、設備、口コミ評判などからいくつかのクリニックが浮上した。レーシック手術は人によって適用できないケースもあるそうで、大抵のクリニックでは無料で「適性検査」を行ってくれるようだ。3時間も所要する結構本格的で精密なもので、検査技師の細かい説明や医師によるカウンセリングもセットになっている。手術そのものの費用は数万円から数十万円というところだが、後から想像するにこの懇切丁寧な事前検査料金は手術料金に含まれているような気がする。いつもはぐずぐずとふんぎりのつかない私だが、今回は何となく一つのきっかけのような気がして、さっそくネット上では最大手?とされる近視クリニックの門を叩いたのである。

都心にあるれっきとした眼科なのだが、元々健康保険が利かないから初診でも保険証の提示は不要、分割やカード支払いもOK、無料託児所や交通費補助、提携ホテルもあり我々は患者ではなく完全なお客様、医療機関ではなくサービス機関のようである。「3時間もかかる検査とは一体何をするのか?」という疑問があったが、視力だけでなく普段眼科でも見たこともない検査機器がずらりと並んでおり専門の技師がつきっきりで案内してくれた、。また途中で瞳孔を開く目薬を点眼し、しばらくは外界がぼーっと見にくくなるので運動や運転は不可ということだった。まず、角膜の屈折度や曲率半径を測定し、次に角膜そのものの形状を調べる。さらに角膜の細胞数を数えたり、厚さも計測してドックお馴染みの眼圧検査に入る。この時点でようやく詳細の視力検査である。「C」の字があちこち向いているいつものボードに加え、黒い斑点の滲み方、赤と緑の背景にある二重丸の見え方など、さまざまなレンズをつけて検査された。私は初めてだったが、一般的に眼鏡を作成するときのプロセスだそうだ。この検査結果と最初の角膜の測定値を解析した上で散瞳点眼というのを行う。これが利くまでに30分ほどかかるので、その間に専門の機能訓練士というジョブタイトルの人から私の見え方の質やレーシック手術で期待できる効果などを詳しく説明される。

  

完全商業モードでやたらに手術の効能を説明され高額メニューを勧められるのを予想していたが、思ったよりも淡々と事実と期待される効果、デメリット、メニューの違いなどを丁寧に説明してくれたことが逆に信頼をもてた。まず今の見え方だが、近視は緩やかに進んでいる程度だが、乱視の気がありこれが悪さをして遠方が見えにくくなっている。年相応に老眼は進みつつあるが、近視と中和されて近くを見るのにそれほど不便ではない。左右の近視の度合いが異なるので、結果的にどの距離でも何となく普通に見えており、日常生活にはぎりぎり支障がない状態のようである。これにレーシック手術を施すとどうなるか?角膜に異状はないので施術はむろんOKで遠方の視力は1.5まで回復する。しかし近視の影響によって見えている近くが見えなくなり結果的に「老眼鏡が必要となる」という衝撃的なものだった。ただ彼によると乱視もきれいにとれるので、見え方としてはメリットの方が多く、手術はお勧めだということだ。最近のレーザーを使用した視力矯正技術は目覚ましく、「遠近両用レーシック」というメニューもあるそうだ。ただし費用はほぼ倍、もっともすごいのは水晶体そのものを特殊加工のレンズに変えてしまうもので、緑内障や白内障など高齢化に伴う病気の心配は一切なくなり、死ぬまでよく見えるという・・・(ここまで来たほとんどサイボーグである)

「ボクはガチャ目ということなので、片方だけ手術というのはありですかね」技師は大きくうなずいて「乱視さえなければ、あなたの場合ドンズバ片側というところなんですが、費用がかなり割高になってしまって・・・やはり勧められません」
さらに目薬が利いてきたところで最初の検査に近い測定が行われ、最後に眼科医師により詳しく異状がないか診察された。コンサルしてくれた医師はまた気さくなもので、「ボクはこのクリニックに雇われているので手術を勧めなきゃいけないんですが・・・眼科の医師として意見を言わせてもらえば、少し様子見かなーというところなんですよ。そんなに困ってないすもんね?」この後、先般の「モトチバ会」編で書いたように医療従事者のマイクその他に意見を聴き、喫緊のアクションとしての「レーシック」は私の中から消え去ったのである。しかし営業丸出しではなく、きちんとした結果から見解を示してくれた件の近視クリニックはかなり好感が持てた。

いきなりレーシックに臨んだ安直さを反省し、図書館で「近視の回復」などについての本をいくつか借りこみ目を通してみた。これまでも少しは効果のあった「立体視」や、眼球の運動によるピント調節トレーニングなど色々「回復法」があるものだ。しかし通勤列車での読書を欠かさない私はこれから先、よくなることはないだろう。「眼鏡を作るなら眼科医の処方を受けてから」という記事が多かったので、今度は近所の普通の眼科医院に行ってみることにした。たまたまネット検索していたらまさに灯台下暗しだが、私の通うスポーツジムのすぐそばに面白い療法を営む医院があった。「オルソケラトロジー」といい、個人向けにオーダーメイドで制作した特殊なコンタクトレンズを夜間就寝時に装着し角膜の形状をよく見えるように矯正する、というものだ。普通のコンタクトレンズの使い方とは真逆で寝ている間に装着し、起きている昼間は裸眼で活動できる。よくよく調べると発想は「矯正下着」と同じようで、矯正したい形状のものを一定時間装着し、無理やりその形にしてしまうもので、軽度の近視ならば一晩の装着で2,3日は効果が継続するようである。この医院でも角膜の測定以外はレーシック同様、細かい視力や眼圧、カウンセリングなどをしてもらった。

      

ジュディオングさん似の眼科医はやはり両目をくまなく調べて「まあちょっと様子を見て、危険を感じるくらいだったら運転の時だけ使う眼鏡を作ってみたら・・・」「ここで眼鏡も作れるんですか?」「月、水は眼鏡屋さんがきているから、処方からそのまま製作できますよ。でも普段はかけたくないんでしょ?」女医は「できればかけたくない」という本心を見透かしたかのように、レーシック医院の医師と同じように「様子見」を仄めかした。さらに彼女はレーシックはもちろん、できる医師は限られているというご自身の「オルソケラトロジー」も「全然、お勧めできません。リスクというよりは、デメリットの方が大きいです。不便な世界が広がっちゃいますよ」あっけらかんと言い放ち診察を終えた。院内は眼鏡をかけた子供も多く「世の中小さい頃から不便な人が多いんだな」と感じた。当面、心配される免許更新までは3年・・・よほど不便にならなければそれまでは「眼に直接手は加えない」色んな方法を試してみるか。初めての眼鏡でこれまでのイメージが一変するような衝撃的(笑劇的)なイメチェンも「あり」かと思われたが、たぶんそのうちに忘れてしまうだろう。

大山ハイキング日和

2015-12-11 08:46:10 | 旅行お出かけ
小学校の遠足で一度登ったことのある神奈川県北部の大山(おおやま)である。このサイトでも紹介したことのある大山阿夫利神社があり、下社までのケーブルカーは今年新しい車両にリニューアルされた。紅葉が美しくて有名な場所でもあり、前日曜日まではライトアップもされていたそうだ。駐車場(バス停)からケーブルカー駅までも緩い階段で300段以上あるが、ここ数年でそこまではドライブがてら母を連れて行ったことがある。手前の大山小学校から1時間くらいのハイキングコースになっているようだが、大山桜という樹齢400年の立派な桜もある。今回はビーチバレーにやってくるメンバーのうちに山登り・山歩き大好きガールが企画してくれたものである。先のビーチバレーで「今度、山登りを企画します!」と言っていたのだが、運よくメーリングリストに私も入っており、同じ県内のお出かけだったから「オレもついて行くぞ」ということにしたのである。海に山にまったくアクティブで頼もしい若者たちである。

参加メンバーは「じろーくん」「えいちゃん」「ちーちゃん」「はるちゃん」「ゆかりん」である。むろん最高齢は他ならぬ私、続くじろーくんはこちらに近いがその他はぐぐーんと若くなって皆20代、はるちゃんに至っては今年入社のルーキーズである。「下界と気温差が5度以上あるから暖かい恰好で」とゆかりんからの案内だったが、どんな服装で行けばよいのか分からず金沢で会ったじろーくんに尋ねたら「真冬にサッカーするようなスタイルで」と微妙な言い回しだ。AMAZONでざっと眺めるとぶ厚めの登山ウエアにトレッキングシューズ、スキーポールのような杖が定番のようだ。ただ登りコースもハイキングというには手強いようで、びっしょり汗を掻くことも想定し、「暑ければ脱ぎ寒ければ着込む」ことができるようにすると、下に短パンを履き、甘辛とやったサッカー練習着の上にピステ、厚手のウインドブレーカーを羽織ると確かにじろーくんの言う通り「真冬にサッカー」であった。

皆、登山についてはベテランで「もしかしてオレだけ浮くんじゃないか?」と不安もあったが、伊勢原駅に集合したメンバを見てじろーくんも「サッカースタイル」そのもののようだったので安心した。駅からはカーブルカー駅の下まで直行バスが出ているが、バス停を降りてから乗り場までお土産・飲食店を横目に300段以上階段を上ることになる。大山ケーブル駅まできて「男坂」「女坂」という2つのルートが現れる。「ケーブルカーは使わないんだよね。念のため聞いたみただけだけど・・・」当然どちらで行くか、という話題しかない。途中「大山寺」というところに立ち寄れるので「女坂」で行くことになった。登り始めたのは午前9時過ぎ、雲一つない絶好のハイキング日和である。女坂には7不思議があるとされ、それぞれの場所に立札があるのだが古くなっているのかどれが該当する箇所なのかよく分からないモノが多かった。結構急な石段を上り続けることになる途中、シーズンはもう終盤と聞いたが、ところどころ素晴らしい紅葉が見られる。「無明橋」という7不思議では「話をしながら渡ると橋から落ちたり、落し物をしたり・・・悪いことがおきる」という言い伝えが「橋を渡った向こう側の看板」に書いてあるから面白い。「一休さんじゃあるまいし、渡っちゃってから読んでも遅えよ・・・」

            

数十分は石段を登り続けたが、身体が山歩きに慣れていないのか、阿夫利神社下社に到着する頃はひどく疲れを感じたものだった。ここまでは人工物で登ることができたのに、と思うとなおさらダメージがでかかった。お参りして、地下巡拝道内で御神水を頂き、いよいよ登山口に向かう。入山祓所で自ら登山の無事を祈ってお祓いし御守りを頂いて登拝門をくぐる。登り始めてすぐのところに夫婦杉というのがあるがそこが8丁目、山頂はなんと28丁目!途中から階段ではなくなり結構険しい岩の道となるので気の遠くなるような道のりである。はるちゃんは登山は初めてと言い「ふーふー」登っていたが、1時間ほど進んだ先(確か20丁目くらい)に見事な富士山の姿が。。。素晴らしい天気にも助けられて、途中ところどころに相模湾を一望できるスポットや紅葉も見られ、疲れも吹き飛ぶ絶景だった。「もう、あっと言う間かも知れないねー」身体が山歩きに慣れてくる、というのがよく分かった。最初はやたらに足が重く、汗も噴き出ていたのだが、何となくリズムが乗ってくると「まだまだ全然平気じゃん」というペースになってくる。(確かにサッカーでもマラソンでもはじめの10分くらいが一番苦しいのである。)

            

ほどなく山頂へ到着した。晴れていたので我が家のある江ノ島周辺、三浦半島はもちろん、東京湾を挟んで房総半島、西は伊豆半島まで見渡せる、これまで見た神奈川では最高の眺めだった。我々の縁結びの地、ランドマークタワーやベイブリッジ、遠くは新宿高層ビル群まで眺め渡せる。初心者である私とはるちゃん以外のメンバーは手慣れた手つきで携帯ボンベと鍋を取り出し、お湯を沸かし始めた。「山頂ではお湯を沸かしてカップヌードルを食う」というのが山歩きでは定番らしい。確かにほどなく「ものすごくいい香り」がしてきて鼻の奥がむずかゆくなってきた。山頂で飲むコーヒーやヌードルは最高なんだろう。次に山を歩くときはじろーくんと同じくらいのセットを用意して持ってくることに決めた。確かにこれなら冬の釣りや出掛けての星空撮影、波乗り(は違うかな)にも使えるな。これで私も「アウトドア派」に一段近付けるというものだ。標高1252メートルからの眺めを十分堪能し、下山路は見晴台を通る登りとは反対側のルートとした。

          

「大山って思ったより手強い道のりだったねえ。高尾山の倍くらいかな。夜景も綺麗なんだろうね」コンビで日本百名山を十幾つも巡っているというゆかりんとえいちゃんが話している。「高尾山から見る都心て綺麗なんだってねえ。テレビで何度か見たけど」我が家からはちょっと距離のあるところだ。「磯辺さんは行ったことないんですか?」「うん。研究所勤務の時、何度も『高尾』は行ったんだ。寝過ごしてだけど・・・」中央線は終点の東京駅で折り返し運転の際に「起こしてくれないから」と力説しておいた。後談だがえいちゃんによると帰りの小田急線では終点の新宿駅で駅員が起こしてくれたそうだ・・・彼らの家は埼玉というから、折り返して小田原に行ってしまったら大ショックだろう。(江ノ島だったらうちに泊まればいいけど)

ゆかりんとえいちゃんは帰りしなの温泉入浴も調べてあり、行程はかなり延びてしまうが日向薬師方面に向かうということである。後から聞いたがちーちゃん、ゆかりんのコンビは山歩きも慣れたものだが、年に数回(すごい時は月に2回も)はフルマラソンを走っているというからとんでもない。はるちゃんも自転車をやっていたといい、えいちゃんと専門用語を交わしていた。運動センス抜群の彼女らに「年齢の差」を痛感させられたのが「下り路」である。登りほど険しくはないルートだったが、どちらかというと体力勝負なので若者に遅れはとっていなかった登りに比べ、延々と続く丸太の階段や石のごろごろする坂道を下るのは、想像以上に負担がかかり、転倒防止に神経をすり減らすことになる。身の軽い彼女らに着いて行くのが精いっぱいで「(こりゃー、明日ぁまともに歩けねえかもな)」と苦笑していた。日向薬師手前に見つけた温泉にゆっくり浸かって疲れをとり、さらに20分ほど坂を下ったところで路線バスに乗って伊勢原駅へ戻ってきた。行きとは全く違うルートで降りてきたので、乗用車では決して辿れないコースである。早目に始めた慰労会でその日初めてのビールが身体中に染み渡るのを感じた。しかしやはり身体のダメージが想像以上でいつものペースで飲んでいたら、あっという間に奈落の底に陥ってしまう・・・

山というのは他の行楽に比べて「朝が早い」分だけ何事も仕掛けが早い。心地よい汗をかき、最高の景色を堪能、温泉に浸って喉を潤してもそんなに深夜には至らない。どちらかというと「海抜0メートル」の活動が主だったが、山歩きも楽しいものだ。神奈川には近場でまだまだ「歩いて楽しい」場所がたくさんあるようだ。実は前日に仕事で足柄峠、箱根方面をぐるーっと乗用車で回ったのだが、この周辺や有名な丹沢も初心者が歩ける場所の宝庫らしい。えいちゃんは早速次なる企画を考えてくれているようだ。私は海側ばかりしか縁がなかったが、山もいいところがたくさんあるじゃないか。じろーくんはグンマ勤務時代に結構山々を歩いて回ったらしい。私はスティーブと乗用車によるドライブばかりで自分の足を使うことがほとんどなかったのが残念だが、これからはディスカバー神奈川!観光地だけでなく、体力の続くうちに秘境と言われるところも踏破していきたいと思う。

百万石の街

2015-12-06 10:16:16 | 旅行お出かけ
グループ会社の大きなイベントがあり、先週の越中富山に続き、石川金沢を訪れることとなった。北陸などめったなことで行く機会はないので、もう少し別の季節になればいいのにこういうことは何故かやたらに重なるものだ。昨年は単身、松山まで飛んだが今年は新しく兼務となった職場の若手に声をかけ、数人での参加である。メンバは皆、北陸金沢は初めて訪れるということだ。私は両親がお隣富山県人ということもあり、これまで数回足を運んだことがあるが、富山よりも一回り大きい北陸最大の都市であるのにどうもあまり強い印象がない。高校の修学旅行でもコースになっていて「忍者寺」なる寺院や有名な兼六園なども訪れたはずなのだが、何となくしか覚えていない。ただN叔母さんの言う「山が見えない時はみるとこない」富山とは異なり、市の中心部には兼六園と金沢城公園がでんと構え、新旧の観光名所は比較的周辺にまとまっているので、私の得意な短時間ゲリラ観光にはマッチしているようだ。

北陸新幹線「かがやき」は東京から金沢まで2時間半程度で運んでしまう。開業時に散々番組宣伝していたが、元々記憶の薄い金沢駅周辺も全く様相が異なり、北陸一の都市に相応しい門構えとなっていた。ただ前年もそうだったが、毎年東京・関東方面からこのイベント目がけて「どばーっ」と関係者が移動し、宿泊施設を早目に抑えないとどこも泊まるところがなくなるので、会場の詳しい場所を確認する前から中心部の香林坊・片町周辺のホテルを予約しておいたら、会場は駅を挟んで逆方向であったがシャトルバスのコースになっていたので助かった。このイベント、規模としては東日本側のグループで行われるものよりも小さいのだが、「職場は大丈夫なのか?」というほど幹部やマネージャー、現場担当者がこぞって移動する。こちらは変わり映えのない決まった施設の開催であるのに対し、向こうは毎年持ち回りで地方開催地を転々とするので、東京の人間にとっては「よい機会」になるのである。

そして(私だけかもしれないが)もうひとつが「以前の同僚や仕事の付き合いのあった人と邂逅」する機会である。主に「業務のカイゼン」をテーマにしたイベントだから、ほぼ全ての職場が対象となっている。台場やグンマの元同僚はもちろん、本社や研究所勤務時代、さらに以前ご一緒した人々と次々と再会し、バス乗り場で並んでいる時からして近況や昔話に花が咲く。ぜひそのまま全員と杯を酌み交わしたいところだが、残念ながらどの元同僚もそれぞれ今の同僚と約束しているはずだし、私も合流した若手に付き合わなければならない。松山ではゲリラ的にご一緒した台場で接客術のリーダーである「姫」は5年越しの努力が実って、とあるコンクールの全国大会で優秀賞に輝いたそうだ。祝賀会にはぜひサプライズ登場するつもりでいる。またグンマの発明マニア「エジサン」も健在で、我々が考案した特殊器具は既に商品化して他のメーカーが展示しており、別の発明品の説明員になっていた。組織の統合などで引っ越しのあった一フロアを「エジサン研究室」として与えられ、発明品の実地テストや試行錯誤のための簡易なラボ環境を整備したという。これまた、今度遊びに(もとい!見学)に行く約束をしておいた。

展示物の中では今流行りの「ドローン」が人気を博していた。色々と物議を醸しだしているドローンだが、我が方の研究開発陣が「マルチヘリコプター」と呼んで手がけていたのは結構前からだ。災害地の上空を飛んで被災状況を撮影する目的で作られていたはずのだが、別の切り口からあっという間に世間に広まり、誰もが知るところとなってしまった。6つのプロペラと姿勢制御により安定した飛行ができるのに加えVTRに搭載されている高性能の手振れ防止機能により、まるでCG画面のように綺麗な上空からの画像を伝送している。本来の素晴らしい機能をぜひ活用してほしいものだが、悪用のシーンばかりが取り上げられている。友達のしんさんは新しモノ好きなのか早速おもちゃのドローンを購入してきたそうだが、飛ばそうとした公園には早くも「ドローン禁止」の看板があったらしい・・・

  

翌日の各種技能競技大会はさーっと見学して、新幹線の時間まではいつもの電撃観光である。会場から1日数本しかないバスに飛び乗ると繁華街の外れで下車した。駅でもらった1枚の小さな観光マップによると少し歩けば「武家屋敷跡」というところがあるはずだ。静かな街並みで小さなお堀が巡らされており、加賀百万石を支えた武家の屋敷、庭園などが見て取れる。そこから金沢城公園の敷地沿いに歩くと左側に「しいの木迎賓館」という県政記念に作られた施設が見える。もう少し歩くとテレビでも紹介されていた21世紀美術館である。公園を散歩するだけでも面白いモニュメントがあり下に人がいるのが見える「スイミングプール」があった。アートがよく分からぬ私でも面白そうだったが、時間がないのでそのままスルーして兼六園入口に向かう。

              

案内パンフレットで初めて知ったが、誰もが知っている「兼六園」という名称は「相反する性質から同時には存在できないとされる6つの優れた景観を兼ね備えることから奥州白河藩主・松平定信によって命名されたそうだ。園内には六勝と言われる景観がある。「六勝」は宏大(こうだい)と 幽邃(ゆうすい)人力(じんりょく)と 蒼古(そうこ)水泉(すいせん)と 眺望(ちょうぼう)。一つめは一番有名な「霞ヶ池・徽軫灯籠」である。霞ヶ池(かすみがいけ)は、六勝の「宏大(開放的で明るく、広々としていること)」の代表的な場所ということ。雁行橋(がんこうばし)は、六勝の「人力(人の手が加わっていること)」の代表的な場所。噴水(ふんすい)は、六勝の「水泉(低いところを流れる池や滝の水)」の代表的な場所。瓢池(ひさごいけ)は、六勝の「幽邃(静かで奥深い、趣を持つ景観)」の代表的な場所。他に眺望の代表的な「眺望台」、蒼古として代表的な「黄門橋」がある。また園内には枝ぶりで有名な唐崎松、根っこが2メートルも盛り上がった根上松がある。雪の季節、ライトアップした園内などゆったり見て回りたい庭園だがほとんどジョギング状態で隣の金沢城公園へ。

        

        

兼六園と向かいにある石川門は国の重要文化財として江戸時代のまま現存するそうだ。写真で見ると屋根瓦が薄っすら雪が積もったように見えるが、これは元々黒かった鉛瓦が長年の化学反応で白くなったものだ。菱櫓(ひしやぐら)五十間長屋(ごじっけんながや)橋爪門続櫓(はしづめもんつづきやぐら)再建されたらしく真新しいが中を隅々まで見学することができる。極楽橋を渡るとこれも重要文化財の三十間長屋が登場、さらに戌亥櫓跡へ上ると城下を一望できる。二の丸広場の外れには旧第六旅団司令部、玉泉院丸庭園と歩ける。兼六園よりも広い史跡満載の公園だが、これまた時間が迫っているのでジョギングペースで一周することに。尾山神社を抜けて百万石通りに出ると、バスなど待っているのももどかしく金沢駅に走ることとなる。

          

      

堪能というにはほど遠い、「時間との戦い」のようなプチ観光だったが、歩き通しで金沢駅に到着した。朝のうちは曇っていたのだが、午後になって空は晴れ渡っている。前夜のスパークもあり、半日近く歩き通しでひと眠りしたいところだったが、ある期待をもって黒部宇奈月温泉駅までは眠気をこらえて窓の外を凝視していた。やがて新高岡を過ぎたあたりではるか遠くに「んっ?」と思われる白い輝きが・・・前週の越中行ではついに見られなかった「立山連峰」の雄姿である。午後になってすこーし霞もあったが、これがN子叔母さんに「富山には他には見るとこない」とまで言わしめる雄大な景色である。確かに私の知っているグンマや長野の山々とは別格だと感じた。いつか富山湾越しに眺めながら寿司でもつまみたいものだ。

    

越中西部を走る

2015-12-01 06:36:25 | 旅行お出かけ
約10年ぶりに我が親類陣のルーツである富山に集った兄妹&従兄弟会だったが、私の「ついで作戦」によりほぼ追加費用なしでもう1泊し付近を観光することにしていた。従兄弟会宿泊施設を送迎バスで富山駅向かいレンタカーで移動する。晴れ渡っていると我が家のある太平洋側からは決して見られない立山連峰の雄大な眺めが見られるのだが、あいにく雨は降っていないが薄晴れで山の姿は拝めない。今回は富山県西部の高岡・氷見・新湊方面を主に巡ってみることにした。母親も富山の人間なのにこの方面はあまり訪れたことがないらしい。まず最初に訪れたのが富山県唯一の国宝、瑞龍寺である。驚くことに母は行ったことがないという。私は息子甘辛が幼い時に家族3人でゲリラ的に訪れたことがある。石川県の手取にあった(つぶれたと聞いたが復活したらしい)ウルトラマンスタジアムに行った帰りである。閉館間近に飛び込み総門、山門、仏殿、法堂を駆け抜けてわずか10分ほどで出てきてしまった。

今回はゆっくり見物したが、さすが国宝というに相応しい伽藍配置で総門をくぐって左右対称の広大な白い砂利、金剛力士像のある山門をくぐるとこらまた左右対称の美しい芝生広場に石畳である。仏殿を見学し一番奥の法堂に入ると、位牌としては最大級という前田利長公のものが安置されている。奥に烏蒭沙摩明王(うすさまみょうおう)というトイレの神が祀られている。珍しいし貴重な気がしたのでお札を一枚頂いた。むろんトイレに貼るものだが、「画鋲を使わずに、目線よりも高い位置で、南側(北向き)以外の壁に貼ること」とされた。法堂の右奥の茶室手前に「おびんずる様」が安置されており、悪いところを撫でるとよくなると言われている。反対側の伽藍の外側には石廟が並んでいる。前回訪れた時は気が付かなかったが、前田家ゆかりの武将が並んでいる。手前から高岡開祖の前田利長公、加賀藩開祖の利家公、織田信長公、信長公側室、信忠公が祀られている。(信長、信忠も分骨されていることになっているが少し怪しいものだ)

            

瑞龍寺からまっすぐ八町通という石畳の整備された直線コースを870メートル進むと前田利長公の墓所がある。名のある武将も墓所となると意外にしょぼいことが多いが、前田2代目の殿様のお墓は手前に小さいながらもお堀があり、並び立つ灯篭と鳥居があって中々立派なものだ。富山は微妙に違うが金沢、高岡はやはり前田家を崇め奉っているところが多い。コミック「花の慶次」も含め私の読んだ歴史読み物に出てくる前田家は、初代利家は信長の家来で、下風に立っていた秀吉に追い抜かれてこの家来となって百万石を手にした「あまり美しくない」イメージがあり、2代目の利長に至っては「家康に対抗する器量はない」と母親(おまつ)自らが人質にたつ「ていたらく」が描かれているのだが、親藩でもないのに100万石という大名最大の領地を徳川幕府に分割も没収もされず大きなお家騒動もなく明治まで維持できたというのは、この国を奇跡的にうまく治めた偉大な家だとも思う。

      

次に向かったのが高岡大仏である。ナビゲーターに従って運転をして行ったが「こんな街中にあんのかよ」と思うルートを進み、自家用車が10台も置けない小さな駐車場に到着するといきなり母が「これじゃないの?」と指差したのが大仏様の背中だった。民家やテナントビルに囲まれた敷地にいきなり現れるのである。中々趣があり大仏らしい後光がさしているようだが、3大仏のうち2つが奈良と鎌倉だからスケール的にはちょっと厳しいかもしれない。(まさか「自称」じゃないよな)大仏の中には妙なコートを着たおじさんがおり、撮影ポイントや大仏内の歩き方などしきりに詳しく説明していた。(正規な説明員なのか単に年中そこにいる近所のおじさんなのかは不明)この御仁が「大仏内は必ず左回りに歩け」という。仏教では左手は不浄なので仏様の中心部側においては失礼にあたるから、常に我が身を挟んで反対側になるように、というのである。インド(ヒンドゥー教)はそう聞いたことがあるが仏教もそうなのだろか?一応、言われるままに左回りで「御体内」をお参りした。一番奥に木造の仏頭(どうやら先代の大仏様らしい)があり、自分の干支の鐘を叩くことができる。高岡大仏のすぐ横にある高岡古城公園はお堀を一周する小さな遊覧船まである広大な庭園で一角しか歩かなかったが始まった紅葉が緑と相まって美しかった。

      

高岡の主要な観光は済ませて母は満足していたようなので、昼御飯も兼ねて次なる地、氷見へ向かうことにした。ちょっと「道の駅」のような観光地っぽいのだが「るるぶ」に載っていた「氷見番屋街」という海沿いの施設である。「ブリ」や「うどん」で有名な地で、ここの海側の展望台から眺める富山湾を挟んだ立山連峰の雄姿を期待していたのだが、残念ながら曇ってしまい向こう側は見えなかった。連休中なのでやたら混んでおり、観光地に厳しいNおばさんが「あんなとこ、いっちゃだめだがいね」と酷評する施設を後にして、毎正時間、忍者ハットリ君のからくり時計を見物した。母が「寿司を食いたい」というので、観光案内で教えてもらった市街地周辺のお店を回るが、時間が中途半端だったのか、信じがたいことにどの店もやっていなかった・・・私たちはがっかりして最後の訪問地新湊に向かった。

      

海王丸パークに到着したのが15時頃ですでに陽が傾きかけていた。この地も最近できたという新湊大橋の雄姿と「海の貴婦人」といわれた帆船「海王丸」、バックに立山連峰を一望できる素晴らしい景観スポットだそうだ。海王丸の中はかなり細部まで見学でき、練習生の航海生活などが展示されていたが、狭い階段の上り下りが多く年寄にとっては少ししんどかったようだ。さすがに昼飯を食いっぱぐれかなり空腹だったので近くの「きっときと市場」に立ち寄ったがどういうわけかこの施設でもメニューに「寿司」はなくお馴染みの海鮮丼を頼んだ。市場の名産品などをひと通り見て回っていると何やら巨大なイカが見えてきた。世界最大の「ダイオウイカのするめ」だったのである。そう言えば少し前に富山でダイオウイカが上がったというのをニュースで見た。商魂たくましく「試食会」も企画されちょうだが(ちょっと食べる気はしない)「するめ」になっていたとは・・・・!?

            

市場は店じまいの準備に入り出てくるころには薄暗くなってきていた。夜は市内のホテルを予約してあったが、近くに住む叔父夫婦と会食する約束になっていた。観光地豹かに厳しい例の叔母さんもいる。早速その日に巡った名所の数々をお話しすると、氷見番屋街以外は順当なコースであるという。翌日はほぼ半日しかないので、ガイドブックで見た近場のお寺やミュージアムなどを挙げたがどれも笑って却下・・・日本一の落差を誇る「称名滝」は素晴らしいが自家用車が入れなくなって1時間半も歩かねばらなないから母には無理。「五箇山行ったらいいねかいね。山(立山連峰)が見えない時って富山は見るとこないよ」この一言で我々は昨年に続き「世界遺産」見物を強行することにした。

中学生の時くらいに親族に不幸があって一同が集まった時に子供たちはつまらないだろうと、バスで連れて行ってくれたのが越中五箇山合掌造りの集落だ。富山市中心部からは60kmくらいあり、東海北陸道がなかった当時は一般道をバスで向かうと片道2時間以上かかった。私はサッカー部バリバリで、集まれば公園で「泥警」やら「かんけり」に夢中になって走り回っていた子供たちである。「バスで何時間もかけて古臭い田舎の家を見物して何がたのしいのか?!」引率者には申し訳ないが「死ぬほど」退屈だった灰色の記憶がある。あいにく天気は崩れ昼過ぎからは雨が強くなる予報だったが、やはり「訪れたことがない」という母と「いっそのことだから行っちゃうか」といつもの「ついで」のノリで朝早めにチェックアウトし、一路世界遺産に向かったのである。

五箇山には相倉と菅沼という大きな集落が2つあり、どちらも行って近く富山からは1時間くらいで行けそうだ。最初に訪れたのが相倉集落で、天然のブナ林に囲まれて20棟の合掌造りが現存している。民俗館や伝統産業館、また観光客が宿泊できる施設になっている家もあるが、今だに普通の生活をしている家もあり、農業用の軽トラや乗用車も見られる。合掌という祈りの形式を表す造りはとがった屋根の形状からも伺えるが釘や鎹(かすがい)を一切使わず、丸太を荒縄やネソと言われる柔らかくした木の幹を使って結合させる建築工法である。2階には養蚕を営むことが多かったというのが意外だった。係員の説明によると、遺産指定のエリアは現存の建物の修理などはよいが、老朽化により取り壊したり、別の土地に新しい建築をしていはいけないそうだ。さすがに住民が生活しているので雪が無い時は車両を家屋脇に駐車してあるが、真冬になって雪景色となると「景観を損ねる」ために全ての車両は結構離れたところにある集合駐車場に「疎開」しなければならないという。「世界遺産」を維持ということはそこの人々の努力と犠牲の上に成り立つというのがよく分かった。

        

もう一つの菅沼集落は合掌造り家屋こそ9棟だったが比較的観光地化が進んでいるようで、民俗館やら塩硝の館などの他にお土産店や宿泊、和紙作り体験館などちょっとしたテーマパークのようだった。五箇山という地は幹線道路から少し入ったところの一角にいきなり現れるが、やはり地理的には山深い幽谷と言ってよいところである。塩硝というのは「火薬」のことであり、これを収めた先の加賀藩にとって最高級の機密保持用件から閉鎖的な環境におかれたという。自然や政治的環境とこれに適用した特殊な生活様式、知恵がそのまま現存している、というのが「世界遺産」たるゆえんのようだ。35年の時を経てこの文化遺産の意義がようやく伝わってきた。

    

両集落とも距離は近くそれほど長時間見て回るほどではないから、ちょうど午前中で見学を終えて帰路に着くことができた。雨が降っていた分、霧が立ち込めて幻想的に見えるところもあった。夜はライトアップもされ雪化粧をまとった姿はそれは美しいだろうが、訪れるのも大変そうだ。新幹線の時間まではまだ余裕があり「富山湾の寿司、結局食べなかったねえ」と名残惜しそうにしているから、母の記憶を頼りに国道沿いにあるという昔からの老舗の寿司店に寄ることにした。おまかせでウニ、イクラ、甘エビ、大トロ、ノドグロに名物の白エビにブリ・・・ようやく海の幸にありついて満足した富山旅行だった。