超兵器磯辺2号

幻の超兵器2号。。。
磯辺氏の文才を惜しむ声に応えてコンパクトに再登場。
ウルトラな日々がまたここに綴られる。

進歩をもたらした「鉄の城」

2014-10-31 22:01:20 | 出来事
広島での2日目の午後は2種類のオプションを考えていた。安全大会は午後もあるが、会社の創立記念日で半日勤務でもよいことから、プチ観光してみることにしたのだ。一つ目は日本三景のうち未だ足を運んだことのない「安芸の宮島」観光である。確か息子甘辛が修学旅行で訪れたはずだったので、共通の話題にもなるだろうとも思ったのである。
「甘辛よ、中学の修学旅行で宮島行っただろ?今度オレも行ってみようと思うんだが、どんなところだった?おすすめのお土産とかあるか?」「宮島?そうさなー、うーむ。。。覚えてねえや・・・」マシュウ・カスバートみたいな言い方でスルーしやがった。まあ、修学旅行なんて一緒に行ったクラスメイトなどが印象で、行った先は覚えていないものだからなー。

というわけで、「あー、あそこはいい所だったよなー。」と共に懐かしむこともできなそうだったので、迷わずもう一つの観光地に行くことにした。海軍工廠のあった「呉」である。ここに世界最大最強の戦艦「大和」の博物館と現物の潜水艦を展示した海上自衛隊の施設がある。昔の同級生女子が訪れ、大和の巨大模型と実物潜水艦、そして艦内の士官ベッドで寝そべる姿を某サイトにアップしたのを見て、この方面に出張するチャンスを伺っていたのである。広島駅からは呉線快速で30分ちょっと、本数が少ないから注意が必要だが、午後からでも急いで行けば二つとも回れそうだ。呉駅から歩いてすぐのところにあるのが幸いしたのだ。私はワクワクしながら足早に港湾方面に向かったが、まずはいきなり目に飛び込んだ実物潜水艦に度胆を抜かれた。(こんなのありか?!)

まずは「大和ミュージアム」の入口に走ったが、屋外に戦艦の一部にも見られる巨大な建造物を発見。ド迫力の大砲は何と「大和」が完成する前は連合艦隊旗艦も務め世界一の口径を誇った戦艦「陸奥」の主砲だった。当時の日本海軍の象徴として国民に親しまれ、私も何度か子供の時プラモデルを作成したが、広島湾沖に停泊中謎の爆発を起こして自沈してしまった。そこから引き揚げられた四番主砲、後部旗竿、スクリュー、主錨、主舵などが展示されている。海軍の艦船は全て沈没して現存するものはないが、「陸奥」は近海で沈没したために遺留品も含めて色々なものが引き上げられ、国内各所で展示されているそうだ。大和ミュージアムにある主砲身だけでも途方もないド迫力なのに江田島の海上自衛隊内術科学校敷地には四番砲塔そのものが展示されているという。まさか実物を見ることができるとは思っていなかったので、ミュージアムに入館する前から鳥肌ものだった。

        

      

さて正面入り口から左に進むといきなり階下に鎮座する1/10戦艦大和模型が現れる。大和の全長は263メートル、全福38.9メートルだから模型は26.3メートルもあることになる。本物の「大和」を建造するには東海道新幹線並みの費用がかかると聞いたが、この模型でも少なくとも数億円はかかると思われる。艦上で作業をする乗組員も含めて細部にわたって本物同様に作られていた。「ヤマト」だけでなく「大和」も何隻となくプラモを製作したし、「戦艦大和のすべて」という子供向けの本も持っていた私は世界最大の46センチ主砲をはじめ、主たる性能や建造技術が驚異的なものだったのは知っていたが、具体的なところまでは詳しくなくその生涯について一度じっくり調べて(思い出して)みたいと思っていた。1/10模型(というよりは立派な艦船そのもの)は真横からも階下、上部からも眺められるようになっていて、その芸術とも言えるディティールは周囲を何回も歩き回っても飽きないものだった。そして2周目に隅にあった展示物を見てその日2回目の鳥肌が訪れる。なんと帝国海軍の艦船で一隻だけ最後まで沈まずに残った前連合艦隊旗艦「長門」の軍艦旗(旭日旗)があったのである!

        
このサイトで何度か書いたことがあるが、私が幼少時代から主治医(というよりは恩師にも近い)として母子ともに世話になった大先生は、東大医学部卒で戦艦「長門」の軍医長を務めていた。外科医として絶対の信頼を寄せていたが、軍医上がりだけに触診などは実に荒っぽく、打撲していようが骨折していようが容赦なくぐいぐいひねり回し、頭を切った時も麻酔抜きで縫い合わせようとされて泣き叫んだ。。。その先生、戦艦「長門」に乗艦していたのを知ったのは成人になってからだが、診察室の書棚に「軍艦長門の生涯(上下)」が陳列されていたのは見逃さなかった。実際に戦艦長門の艦尾にはためいていた軍艦旗を間近で見て、「先生がこれを見たらさぞ懐かしがるだろう」と不思議な興奮を覚えたものだ。実際に「長門」はただ一隻終戦まで沈まぬに残ったが、戦後アメリカ軍の核兵器実験の標的とされビキニ環礁で沈没してしまう。この時も2度の核爆発に耐えて日本の造船技術の優秀性を証明したという。

  

さて話が「大和」から逸れてしまったので元に戻すが、アニメやゲームで一緒に遊んだ「波動砲が撃てるヤマト」しか知らないのでは困るので、息子甘辛が小学校に入ったばかりの時にちょうど上映されていた「男たちの大和」という映画を見に連れて行った。壮烈な戦闘シーンや出血シーンなどあの年齢の子供にはショックが大きかったようだが、「戦艦大和」の雄姿とはうらはらに「戦争とはかように残酷で恐ろしいものだ」というのは十分に分かったようだ。いまだに「トラウマになってる」というのは申し訳ないと思うが、あの映画に一つだけ小説から引用したと思われるシーンがある。吉田満さんの「戦艦大和ノ最期」という著書である。いよいよ水上特攻と分かった上で沖縄に向けた戦場に向かう「大和」で乗員たちは愛する家族を思い、それと永遠に別れなければならない苦悩、愚劣な命令を発した軍令部への疑念、無意味な出撃で死ぬことの意義を巡って激論となる。それを制したのが臼淵大尉だった。

「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじ過ぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって本当の進歩を忘れていた。敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。今目覚めずしていつ救われるか。俺達はその先導になるのだ。日本の新生にさきがけて散る。まさに本望じゃないか」
映画では哨戒長の臼淵大尉を長嶋一茂さんが演じており、個人的には「・・・」というところがあったが、ヤマトミュージアムにもこのくだりが約3300名もの戦没者名簿の横に掲げられていた。数年前に沈没した大和を深海潜水艇(確かタイタニックの周辺にも行った)がその姿を捉え、船首の菊の紋章などを写し出したVTRがあった。また3人の生存した乗組員の「・・・ものすごい空襲だったが、何度めかに敵機群が去って行った時、かなり艦は左に傾いていたが『このまま行けば沖縄まで行けるかもな』とうっすら思った・・・」証言映像には言葉を失った。。。今は二つに折れた形で海底に鎮座しているという。。。

  

この博物館は戦艦大和だけではなく、これらの艦船を生み出した「呉工廠」の歴史そのものを展示するものだ。1853年ペリーの蒸気船を見て「・・・たった四杯で夜も眠れず」と慌てふためいていたちょんまげ国民が80年で世界最大最強の戦艦を建造した。今はCGがあるから(録画禁止)その建造がいかに技術の結晶だったかがよく分かる。空前絶後の巨大艦を建造したのは起工からわずか3年、ドック周辺の施設は今の「ジャストインタイム」方式そのもの、設計施工の進捗管理手法、艦体の接合方法などすべてにおいて現代でも通じる最新技術である。(語っていて自分が熱くなってくるのが分かった)前方底部の有名な「球形艦首(バルバス・バウ)」は速度と燃料効率をよくするための独特な技術で超大型タンカーなどにも採用されている。VTRではこれにより造波抵抗を8%も減少することができたという。

  

終戦直後、唯一残存したあの「長門」をはじめスクラップ同然で港湾にあった全ての艦船は接収され、すべてこの世かた消え去ったが、それから数十年で世界一の海運国になった。無用の長物と蔑まされ、「先駆けて散る・・・」とされた「大和」だが皮肉にもドラマチックにも自らが後世に「進歩」をもたらしたのだ思う。戦艦というのは元々の矛盾があるが、あの機能的にも芸術的にも美しいと感じる艦を「戦争を避けるためのシンボル」として使えなかったものかと想像する。46センチ主砲弾は人の背丈と同じくらいのサイズであるが、そんな砲弾は打てなくても良い。原爆ドームを眺めて祈りを捧げつつも、領海沿岸を兵器としてではなく決して日本を離れることのない守護神としてのあの艦が航行したら(半ば神社としてかもしれないが)ずいぶん安心をもたらすんじゃないかと思う。ちょっと語っていて熱くなってしまったので、本編は「鉄のくじら」編につづく。

          

再び広島へ(産業安全衛生大会)

2014-10-27 22:43:38 | 旅行お出かけ
新横浜駅のホームで列車を待つ私はおもむろにIXYを取り出し滑るように入ってきたN700A系のぞみ号をパシャリと写真におさめた瞬間「あれっ?確か去年の今頃も同じようなことしてたな・・・」明らかにデ・ジャヴュでないことを思い出した。実際は11月末だったのだが、小夏師匠が昨年の同じ日に同じことをしていたとブログに書かれていたのを思い出して、くすっと笑ってしまった。人間、同じ時には同じようなことをするものだ。確か昨年すごく天気がよく車窓から世界遺産や山陽の風景を撮りまくったと思うが、今回はあいにくの雨天でしかも3列シートの通路側だったから、風景は期待できない。行先は同じ広島・・・約4時間の道のりである。

    

何故か移動中に音楽を聴く習慣のない私とって4時間というのは車窓から外の景色を見られないとなると、中々退屈しのぎのネタに苦しむ時間だ。ぼーっと車両前方の電光掲示板を眺めていると「東海道新幹線開業50周年記念キャンペーン」という文字が見えた。エクスプレス予約に加入すると東京〜新大阪のこだま号グリーン車が9500円!通常の切符よりも5000円近く安いうえに乗ったこともないグリーン車とは魅力がある。ただちょっと時刻表を調べてみると、こだま号って東京〜新大阪に4時間もかかるのである。のぞみ号だと2時間半だから6割増しだ。その分快適なグリーン車に長く乗れるのはよいが、さすがにここまで違うとちょっと遠慮してしまう。たぶんほとんど駅に止まる度にのぞみ号やひかり号に抜かれてしまうのだろう。

そういえば10月1日に新幹線は開業50周年を迎えた。このサイトでも取り上げたし、ニュースでも取り上げられ、雑誌や新刊でも新幹線を話題とするものが書店をにぎわせている。今、乗車しているのは最新のN700A系でほぼ現在の新幹線としては最終形態のようだ。残念ながら座席シートそのものは東北へ行く「はやぶさ」「スーパーこまち」などのほうがゴージャスだが、乗り心地は実に素晴らしい。ほぼ毎日上越の「とき号」に乗っていた私はその違いがすごくよくわかる。まさしく童謡?「はしれ超特急」にある「〜すべるようだな は・し・る〜」の通りである。世の書物では技術立国日本の誇る新幹線の素晴らしさを賛美するものが多く見られるが、実際に乗車してみてその素晴らしさを色々思い付いた。(かなり子供っぽいけど・・・)

まずなぜ「すべるようだな」と感じるほど静かなのか。駅のホームに入線する時以外は、普通の列車にある「ガタン、ゴトン・・・」というレールの継ぎ目がないのである。つまり新幹線は何十キロもある超長い1本レールを使用しているか、継ぎ目を感じさせない工夫がされているということになる。レールの継ぎ目は夏と冬の温度差に対する鉄の膨張を吸収するためと聞いたことがあるが、それがないというのはすごいことだ。また東北・上越新幹線は大宮を過ぎると周囲は田んぼばかりで何もないところが多いが、東海道はすぐ脇に住宅地や商業地などちゃんとした街があるのである。ブラックジャックに酔っ払いが猛スピードで通過する新幹線に小石を投げつけたらそれが反射して妊婦のお腹に突き刺さってしまう話があるくらいだ。(むろん母子とも無事にBJが助けてみせる)こんなに近く人がいても平気というのは(内部も静かだが)騒音対策もかなり進んでいるということだろう。名古屋を出てしばらくして、東名(名神かな)高速道路とほぼ並行して進むところでは時速100キロで走行する自動車を相対速度150キロで追い抜いた。東海道新幹線は人間の生活が近くにあるから速度を肌で感じやすいようだ。

また高速走行中でも何本もの対向列車とすれ違うが、よく考えてみれば時速2百何十キロも出しているのにあの列車同士の間隔ですれ違えるというのはすごいことだ。よく風圧で列車が外側に倒れてしまったり窓ガラスが割れたりしないものだ。運転士から見るとほとんど正面衝突する(わけないけど)ような感覚になるんじゃなかろうか。ところで新幹線って何人で運転しているのだろう?テレビ番組で神業のように場所と速度をコントロールして到着時間ぴったりに合わせる運転士を取材していたが、確か一人しかいないようだった。あまりに退屈なので検札にきた車掌さんに「あのぅ、変なことを聞きますが、新幹線って何人で運転してるんですか?」「新大阪で交代しますが、一人ですよ」やっぱり・・・航空機と違ってレールの上ではあるが、いくら自動化が進んでいると行ってもあの高速運転を地下鉄同様、一人で動かしているなんてすごくないか?!

そんな新幹線のすごさに思いを馳せているうちに広島駅についた。今回の用事は色んな産業分野での安全衛生の取組を共有する集会で、リスクアセスメントや安全意識の向上などがメインのテーマとなる。我が業界も関係が深いが労働災害防止の観点からはやはり電気、建設、運輸などの業界が中心となる。服装もカジュアルだし「現場が中心」の大会だから、多少野暮ったい泥臭いところがあるが、「労働災害をなくそう」という気運は素晴らしく、会場全員で「ゼロ災でいこう!ヨシ!」と指差呼称した時は圧巻だった。指差呼称というのはたぶん国鉄職員がルーツだろうが、「指で対象をしっかり指して、大声を出して確認する」というのは「思い込み」や「うっかり」ミスをなくすのに非常に有効で、色々な業界で導入されており、「ゼロ災」唱和は全国共通なのである。

      

厚生労働省役人のお堅い話を夢うつつで聞いて、眠気覚ましに八段錦のような体操を皆で行った後、特別講演の時間となった。講演は元マラソンランナーの有森裕子さんである。タイトルは「よろこびを力に・・・~諦めない心の育て方」とある。私は自分が走る時は不思議と谷川真理さんがゲストでいることが多いのだが、有森さんの姿を拝見するのは初めてだった。岡山出身の彼女は「広島なら岡山弁丸出しでも理解してもらえる」と若い時のエピソードを時折我々にはさっぱり分からない言葉で熱く語っていた。生まれた時に股関節脱臼で走ることなど苦手だった彼女の話は「多くのオリンピック選手がそうであったように、自分は恵まれた身体と環境そして『走ることが大好き』という『なるべくしてなった』要素は一つもない。自分を理解し期待してくれた教師の顧問が陸上部だったから入部した。中学では陸上部入部を断られて1ヶ月ストーカーのように顧問をつけまわしてようやく認めさせ、高校時代も大した記録は残していない。ただ『あきらめずに続けた』だけで今の私がある」とまあ、こんな内容だった。

リクルートで師匠である小出監督談ではそれまで実績もスピードも際立ったものではなかったが、走ることに関する執念といざという時に限界まで頑張れる底力がメダルに結びついたという。アトランタで銅メダルをとった時の有名なコメントがあるが、私は「自分で自分をほめたい」というフレーズよりもその前の「・・・終わってから、なんでもっと頑張れなかったのかと思うレースはしたくなかったし・・・」というところが好きだ。彼女は「応援の力」も強く語っていた。40km地点を過ぎて心身ともにへろへろになって目の焦点すら定まらないランナーに「もう少し!がんばって!」と声をかけると信じられないくらいに目を輝かせそれまでの疲労がうそのように再び走りだすという。これは実際に走るとよく分かる。彼女は沿道の応援を「諦めない力」に変えてきたというのである。

人に隠れて地味な練習をひたすら続ける「こそ練」が得意だったという彼女は鳴かず飛ばず時代にトライアスロンに転向するため仕送り全部使って専用自転車を購入したが、盗まれてしまい断念したエピソードもあるそうだ。たぶん同様の話を色んな会場でしてきたであろうが、人を引き付けるような立派な講演に聴衆は聞き入っていた。海鮮居酒屋で刺身をつまみながら「有森さんの話、面白かったですね。聞き入っちゃいましたよ」と同行者は口々に言っていた。オリンピックで走る姿を皆知っているから、「バルセロナの時に松野が『私を選んでください』って会見してたよな」「でもやっぱり『自分で自分をほめたい』ってのには感動しましたよ」「でもガブと結婚して一度変になっちゃったよね」「小出監督って結構すごい人なんだな。Qちゃんのイメージが強いけどね」「あの、酔っ払って会見に登場したおっさんだろ。赤い顔しかイメージないけど・・・」我々は好き勝手に彼女に持っていたイメージで盛り上がっていたが、今ではNPO法人の代表やアスリートのマネジメント会社の経営者、様々な団体の理事や親善大使、評議員などを務めるマルチタレントぶりである。

  

一体どういう関係で「産業衛生大会」の特別講演なのかよく分からないが、色々と残るものが多い話だった。二つのオリンピックの昔話で盛り上がり広島の夜は更けていくのだった。翌日はパネルディスカッションや色々な分化会に分かれて取り組みの発表などが行われる。私は緑十字展という安全に関わる器具や安全作業法の展示会を見学し、グループ会社の発表を聞いて午前中で会場を後にする予定だった。いつか一度は訪れたいと思っていたあるところに向かうためである。

江ノ島秋の風物詩

2014-10-20 22:06:17 | 出来事
先週末は今や定番となりつつある江ノ島「秋の花火大会」だった。日もだいぶ短くなったこの季節に3000発45分という小ぶりな大会だが昼観光して夜花火大会見物という「2度おいしい」エリアであることもあって、どんどん見物客が増えて行くような気がする。その昔は明るいうちから海辺に陣取り宴会しながら見物というスタイルもあったが、秋花火は時間が短いのでドリンク片手に散歩気分で見に行って、終わってからゆっくり宴会ということになった。見るのは大体昼間私が出動するエリアで、当然真っ暗闇だがすごい人で溢れていることがわかる。秋と言えば伝統あるT浦花火競技大会だが、昨今は禁止されているにも関わらず土手などに何日も前からブルーシートなどを張って場所取りしている迷惑行為が多発し問題になっているらしい。こちらのはコンパクトだから徹夜で場所取りするモノ好きなどいないようだが、そのうちに鎌倉のように海岸に足の踏み場もないほど人が集まるかもしれない。

我々はいつもの仲良し家族の集まりだが、子供達もそれなりに大きくなり受験その他自分の用事を持つ者が多く、今回はつぶやきさん一家のお嬢さんを除いては「子供抜き」の催しとなった。息子甘辛は定期テスト前で部活が休みだったが「一緒に行く彼女がいないからパス」だそうだ。「親や家族と行くのも空しいが、部屋で音だけ聞こえてくるのはもっと空しいものだぜ・・・」私も経験があるから、誘ってはみたがノッてはこず、ごちそうに釣られて宴会から登場ということになった。(別にテスト勉強していたわけではないらしい・・・)この年代は「何を見に行くか」ではなく「誰と見に行くか」が大事で対象物そのものを楽しめるようになるにはもう少し月日がいるのである。

さて開始時刻の6時が近くなったが、買い出しに協力してくれたSちゃん一家がまだ姿を見せないため我が家で前夜祭をしながら待機していた。表の道路は見物に向かう近所の人通りで賑やかになってきている。時間が短いので重装備の人はあまりおらず、さーっと行ってぱっと帰ってくるつもりらしい。私は超兵器203号とビールを2本リュックに入れビーサン姿の軽装で「えっ?まさかの・・・?」という(たしかつぶやきさんだった)声とともに登場した。ビールも入っていたしただ歩くだけではつまらぬからイイトコ見せてやろうとスケートボードに乗って現れたのである。人が結構いるからあまりスピードを出さずにゆっくり弧をかきながら前に進んでいった。実は最後になってこれが大参事を呼ぶのだが・・・

写真の中でも「花火を撮る」というのは難しいものだ。下手な割には先般息子の学校の文化祭写真部の作品で見たような奇抜なモノが撮れないかテーマを考えていた。同じような場所で見物しているが、前回は「江ノ島のシルエット」、今夏の茅ヶ崎花火大会はその向こうの二宮大会も同時に移す「ダブルワークス」・・・今回は一定周期で光を回転させる「新江ノ島灯台」に目を付けた。ほんの一瞬なのだが、あの光の矢と煌めく花火がコラボしたら「かっこいいだろうな」と思いついたのである。カメラの知識もテクニックもほとんどなく野生の勘だけでシャッターを押し続け、世にも奇妙な心霊写真のような画像を積み重ねていた。こういう時には「何をするにも説明書を読まない」習慣が仇となる・・・

まずチャンスを逃さないために「連射モード」で撮ろうとしたが、明るさが足りないらしく1回1回がえらい長いシャッタースピードとなってしまう。せっかくの花火も「ぴよーん」と伸びてムンクの「叫び」の背景のようになってしまう。フルオートモードだとピントが合わなかったり、何故かシャッターが押せなかったり・・・仕方がないのでマニュアルモードでシャッター速度を何回も変えて試行錯誤を繰り返すことにした。遅すぎると心霊写真になってしまうし、速過ぎると江ノ島さえ写らない・・・さらに一発花火とスターマインとでは写り方や必要な明るさがだいぶ違う。どうやら1/10秒くらいが具合がいいことが判明した。この花火の決めどころは真ん中ら辺に大きなスターマインと2尺玉、最後のフィナーレとしだれ柳2尺玉だ。途中仕掛け花火なども面白いのだが、ちょっと距離があるので迫力に欠けてしまう。

      

「どっばわわぁーんん」お腹の調子の悪い人なら思わずうずくまってしまいそうな地響きと空気の震えとともに(たぶん)最初の2尺玉が炸裂した。私たちの見物場所からは江ノ島の幅くらいもある巨大な光の玉である。鳥肌ものの大迫力だが、高度があり過ぎて灯台の光の矢とはあまりリンクしなかった。。。その後、真ん中辺の山場は仕掛け花火が斜めに炸裂しいくつかの水中花火が炸裂した。これまた見事な演出で近くで見たらさぞ迫力のあったことだろう。案内紙を見ると打上げ場所はいつも釣りをしたり、朝市で水揚げ直後の活魚を買いに行く片瀬漁港と水族館沖400mくらいの台船である。有料観覧席は弁天橋の横、境川河口付近の水上バイクを乗り降りするあたりの三角地帯である。交通や人混みはとんでもないことになるだろうが、家から歩いていくには散歩気分で行けるところですごい迫力だろうと思う。

        

スターマインのピークはかなり明るくなるので、もう少しスピードを上げてみた。そして灯台の光の矢が空へ放たれる瞬間を数えてタイミングを合わせる。ふと横を見ると隣の「しんさん」もお嬢さんもスマホを花火に向けて見事なシーンを写真に収めようとしている。ずーっとファインダーを覗いていてもレンズを通してしか生の花火を見ないことになってしまうから、半分は生花火、半分は撮影とすることにした。花火の技術も年々進歩しているのか、これまであまり見なかった色や形のものも現れた。(って前回も書いたような気がする)フィナーレは真っ暗闇にいる観客全員が歓声と拍手をあげるほど見事なものだった。「今年もよかったよねえ」暑くもなく寒くもない、ちょうどよい陽気で私達は大満足のうちに家路についた。

      

そして最後に悲劇が訪れるのである。我が家の近くまでくると人混みもだいぶ疎らになっていた。超兵器203号のレンズの蓋を落としてしまって暗がりの中探しているうちに置いて行かれた私は、ビールを2本(前夜祭も入れると4本)飲んでいる上にビーサンという舐めたスタイルでスケートボードに飛び乗ったのである。大通りから折れ曲がったところで下り坂となり、スケボーは加速を増した。前方に我が家に向かうグループが見えてきて、「おーっ、やっと追いつけた」と横を通り過ぎようとしたら突然皆が道一杯に広がったのである。自分だけ飛び降りるとスケボーだけが突っ走ってしまうので危険だ!とっさに右へ折れ曲がる路地に急角度でターンした・・・とたんにバランスを維持できず前が浮き上がって「ずってーん・・・!」見るも無様に横倒しにすっ転んでしまった。。。

  

結構なスピードが出ていて、下は堅いアスファルトの上、ビーサンの鼻緒が吹き飛ぶくらいの勢いでずっこけたのに大怪我しなかったのは幸いだったが、ビーチサンダルなんて舐めた格好をしていたために右足の親指の腹が少し裂けていた・・・うーっ痛え・・・周囲はまるでチキンレースのように急カーブして人んちの塀の手前で大アクションする私にびっくりしていたようだが、前を歩く友達は大笑い(たぶん)だったようだ。「やっぱ、太郎さんは何かやってくれると思いましたよ・・・」心無いコメントが聞こえた。帰ってよく見たら結構深い傷で、酒も入っていたので包帯でぐるぐる巻きに圧迫してようやく血が止まった。その後は。何事もなかったかのように大宴会に突入し、いつの間にか撃沈していた。朝からスーパー朝風呂、エアロビクスにゴルフレッスン、午後からサーフィンと少し身体をいじめ過ぎたようだ。朝になると親指は適当に巻いてあった包帯からバンドエイドに変わっていた。(どうも妻が手当てしてくれたようだ)

ここのところ毎年同じことを言っているようだが、秋の江ノ島花火大会は実に素晴らしい。来年こそは仕掛け花火も間近に見られる特等席をGETしたいものだ。そして人混みが解消して立入禁止区域が解除になったらぜひ片瀬漁港内港側に糸を垂らしてみたい。あれだけの音と振動である。水中は恐らく大変なことになっているだろう。普段は警戒心の強いクロダイなども耳が「キーン」としてしばらく何が何だか分からぬだろう。そこをすかさず釣り上げるのである。どこかの漁法で爆弾を水中で炸裂させて魚を一時的に活動不能にして一網打尽にするのを見たことがあるのだ。なかなか奇抜な発想ではないか。

弟の燕カーニバル

2014-10-12 16:31:36 | 出来事
名前だけからすると何のことか分からないだろう。息子甘辛の通う学校のいわゆる「文化祭」のタイトルがそんなネームだったのである。たぶん親会社の校章に燕が入っているので「弟分」ということだろうか。前回は体育祭について語ったが、この学校はどちらかと言うと文化祭の方が力を入れているようで盛大なのだ。SSH(Super Science High-school)と名乗るだけあって、高校生でも「課題研究」「ものつくり」が盛んで大学の「さっぱり分からぬ」卒業研究などよりは親近感があって面白い。と言っても先般語った私の母校の文化祭など「ただの遊び」に見えてくる本格的なものもあった。自分ではやらないが私はこの手の催しに目がないので、早速妻と行ってみることにしたのである。ただし甘辛は私同様、ガリガリの運動部で文化祭には全く「お呼びでない」ので、「オレのワッフルがこんなに華麗なわけがない」という意味不明なタイトルのクラス企画に参加して理科室で「ワッフルとカレーを大量に作成」した後、出番はないようなのだ。

校門を入って全人工芝化したグランドに沿って進むといくつかのテントが賑わっていた。この学校はタイ、フィリピンと国際交流を行っていて短期間の交換留学などもあるそうだ。女子生徒が集まっていたが、どうもお国の代表的なお菓子を試食させてくれるらしい。最初の3つはタイのお菓子だ。一番左が砂糖とバターで炒めたようなスライスしたバナナ、真ん中はココナツスライスを煮込んで甘くしたようなお菓子、右側は米を飴のように柔らかくしココナツミルクで固めたようなもの・・・どれもあまり経験のない食感だったが、正直味はイマイチ・・・後ろにフィリピンのお菓子が並んでおり、一つだけつまんでみて後悔した。「(これってもしかして何かの虫を唐揚げにしたんじゃないよね)」お笑い芸人が海外取材でいやいや食わされる「コ●ロギ」の油炒めのような不吉なイメージが湧いたが、甘ったるい揚げ餃子のような味だった。

      

企画もの展示館に入るとまずどこにでも必ずあると思う「鉄道研究会」である。ただジオラマを走らせてくれるだけでなく、先日書いた新幹線0系とN700系のスピードの違い、制動方式、カーブでの傾斜など乗り心地をよくする仕組みなどを詳しく(熱く)語っていた。さすがマニアの王道のような鉄道の世界だが、鉄道そのものよりもそれを支える「技術」に注目しているところがこの学校らしい。次が写真部。部員がこれまで撮った自信作が張り出されていて、気に入った作品を投票することになっている。自然の景色や航空機、面白いものや動物などたくさんあったが、知る人ぞ知る「ペンギン好き」の私が選んだのは「Let’s go」という作品だ。
続いて甘辛のクラスの企画である。カレーは一杯200円、悪くはないがどこか安っぽい感じがした。後で聞いたら具材を少しは加えたものの、何百ものレトルトカレーを大量に寸胴にぶち込んで煮込んだだけらしい・・・確かに色んな種類の味が混ざっているから、何となく深みはあったような気はするがあの安っぽさはレトルトか・・・

            

さらに歩くと天体についての企画があり、何と教室内にプラネタリウムの手作りドームがあった。ホントは予約整理券制らしいのだが、「あと3つ席があるからどうぞ」と言われて中に入った。その回は「彗星」をテーマにした説明会である。ちなみに残り3つの席を埋めたのは我々夫婦と校長先生だった・・・星が大好きという甘辛のサッカー部仲間のカジ君が説明を始めた。「皆さんで楽しくクイズ大会にしたいと思います。校長がいるんで、張り切って説明もしますよ~」
「いきなりですが、彗星と流れ星の違いって分かりますか?」集まっていたのは保護者達ばかりで、顔を見合わせて首を傾げていた。校長先生はたぶん知っているがトボけて黙っていた。。。妻がちらちらこちらを見るから「彗星は太陽を回る惑星みたいな星、流星は地球の周りのチリなどが降って来る際に摩擦で燃えてひかる隕石みたいなもの・・・」恐る恐る答えると「おーっ、ほぼ正解です!大きさも全然違うんですね」会場がどっと沸いた。

    

「この写真は僕達が生まれた年に現れたヘール・ボップ彗星です。何ヶ月くらい見えていたか分かりますか?」同じような年代なのに皆、あまり興味がなかったのかな。やはり皆、首を傾げていたが、カジ君の話し方が面白くだいぶ場が和んできたのであちこちで答える声があった。「1週間?」「いや、2,3日じゃ・・・」「半年くらいは見えたんじゃない?」「うーん、結構近いんですけどねえ。他にありませんか?」カジ君がこちらをチラ見した。何かリクエストされたような気がしたので遠慮がちに「ありゃー、確か3、4ヶ月見えたかな・・・」とつぶやいたらすかさず、「おおーっ、出ました!正解は3ヶ月です」今度は何人かいた友達のママ達が「甘辛のお父さんすげぇ」と囁き出した。そして「これは有名なハレー彗星です。地球は1年で太陽を1周しますが、この彗星は何年周期でしょう?」今度はカジ君はまっすぐ私を見ながらクイズを出した。もう遠慮せずにすかさず「76年」と答えると「さすがー、正解です!」ドーム内が拍手喝采となったが、あんまりいい気になってボロを出さないようにその後は知っていても黙っていた・・・この企画、説明会自体も楽しいものだったが、実はドームが素晴らしい。段ボールでできた完全な手作りなのである。正52面体の気象レーダードームを参考にして、展開図を作成し130枚の三角形の段ボールで組み立ててあった。私達は「最もよかった展示」にはこのドームに投票することにしたのだ。

    

次に行ったのは「ピタゴラスイッチを作ってみた」という展示だ。いわゆるドミノ倒しの高度なヤツで、電気や磁石、科学反応らしき仕掛けもある巨大なセットだ。準備に1時間以上かかるらしいが、その日3回行って一度も最後までは成功していなかったらしい。わかる、わかる!子供の頃、この手の仕掛けが大好きで、一度やりだすと時間を忘れて仕掛けを考えたものだ。ちょうど入った時は前回の失敗から準備中であと1時間くらいかかるらしいので残念ながら動くところは見られなかった。隣の建物に場所を移すと、3年生による「課題研究」の発表会のようだった。卒業制作のようなもので、グループであるテーマを決め、まとめた成果を実物展示したりパネルを使って説明してくれる。学生の後期に色々な学会でパネル説明なども行ったし、社内のフォーラムも毎年見学しているが高校生でここまでちゃんとしたものができるとは驚きだ。

    

電気や情報、エネルギー、化学などいくつかの分野別になっているが、やはり「ものつくり」として手で触って動かせる「機械系」が一番面白い。トップバッターは昨年夏に全面人工芝になったサッカーグランドの「自動枯葉収集機」。人工芝の枯葉って放っておくとかなりやっかいな邪魔物らしいのだが、グランド整備として集めるのは結構大変ということなのだ。これを使うとブラシが枯葉をトレ―の上に巻き上げ、トレ―の微妙な振動によって小さな砂などはふるい落としてくれるのだ。次は「自動クレープ焼き機」。動いているところを撮れれば良かったのだが・・・逆T字型のヘラが水平台の上でクレープを引き延ばす時の圧力調整が錘の微妙な調整でできるところが手作りっぽくて面白い。その隣はハンズで似たようなラジコンが売っているが、「羽ばたいて飛ぶゴム動力飛行機」。ゴムの回転をクランクを巧みに使って上下運動に変換し、なおかつ左右の羽を均等に羽ばたかせる工夫がすごい。

          

フロアを1階上がるとコンピューターを使った今流行りの3次元プリンターだった。和菓子を作成していたが、データの入力や色合いの調整にかなりの熟練が必要らしい。次のヤツは女子にやたら人気があり、ラジコンで操作させてもらえるのだが「泳ぐ海ガメ」である。単にヒレを前後に動かすだけでは前に進まないので、漕ぐときは「水を掴み」、戻すときは水の抵抗がないように角度を変えるようになっている。「面白~い!」カップルも喜んで操縦していたが。このカメの顔、どうにも怖くないか?!よく見ると甲羅にはYシャツを使用していて、ゾンビのようにも見えるのだが・・・私は次のマシンが一番だと感心した。明らかにキャタピラにはタミヤの戦車プラモを使用している手作り感満載の作品だが、何とこのマシンは垂直の壁をよじ登ることができるのである。手前にあるファンが高速で回転して吸い付くようにして登るのである。「浮かせる」のとは逆に吸い付かせるという発想が素晴らしい。最後が水陸両用車である。浮力のあるスポンジがキャタピラ状に回転し、水をかいて進む。また陸地に合わせてとアームが回転し「上陸して普通にキャタピラで進む。津波の後に瓦礫だらけの水面を捜索する時に使いたいと考えたらしい。

        

どれもこれも素晴らしい発想の作品だ。親会社はよく「学生ロボットコンテスト」にも出場していたが、若者の柔らかい発想が未来を切り拓くのだと改めて思った。新社会人も年齢はそうは違わないのだから、遊び心をもって見習ってほしいものだ。一風変わったのが建築分野における考察の一つで「色で見る世界各国のイメージ」である。「赤」が危険を表すのは万国共通だが、「幸福」のイメージもほぼ共通の「黄色」というのが驚きだった。「黄色いハンカチ」「ドクターイエロー」など黄色に幸福をイメージするのは日本だけだと思っていた。ちなみに15種類のイメージに最も多くのマークがついたのは「青」である。「黒」は戦争と孤独、少し優雅というのもあった。「白」が圧倒的だったのは平和である。やはり白いハトが平和の象徴なのだろう。

  

いやあ、久々に理系の血が騒ぐ実にあっ晴れな催しだった。あと少しすれば、息子甘辛もああいった課題研究に精を出す時期がくるのだろうが、「オレやっぱ、文系向きなんだよな」と平気で言ってのける甘辛にあんな立派な仕事が果たしてできるのだろうか?まさか「納豆菌を使って納豆を作成」や「種子からにらを栽培」というわけにはいかないだろうからな。「映画泥棒」の動きをさせたら写真の彼よりはうまいと思うのだが・・・

  

体育の祭りと文化の祭り

2014-10-08 06:30:06 | 出来事
妻と息子甘辛の通う学校の文化祭を見物しに行くことにした。息子が受験生の時に「志望校となりうる学校の文化祭に行くとよい」と言われたが、ついに一度も行くことはなかった。学校によって色々スタイルがあるが、この辺の高校は大体、春に文化祭を行い、秋に体育祭を行うようだ。中には1年に両方は行わずに決まった季節に交互に行う学校もある。入学年次によってどちらかが1回でもう一方が2回になるというのはちょっと寂しい気がする。息子の学校はどちらかというと文化祭系で体育祭はさらーっと春先に済ませてしまう。3年生の課題研究の発表の場でもあるようなので、どちらかというと文化祭の方が面白そうだった。しかし息子さんが私の母校に通う同窓生からその模様を動画で送ってもらった時はやはり数十年前の「体育祭」の記憶が鮮明に蘇った。

我が校の体育祭は周辺地域の住民も多く見物にやってくるほど有名で、グランドの後ろで思い思いのテーマを10m四方に描くバックボード部門、午前中の競技部門、午後の仮装部門、そしてフォークダンスに後夜祭・・・全校生徒が一丸となり、3年生は現役合格を諦めてまでも「情熱をかける」高校生活最大のイベントだった。学年縦割りの「色別」の対抗で準備はバックボード、各競技、仮装演技、仮装大道具、仮装小道具、仮装衣裳などのパートに分かれ、3年生がパートリーダーとなって同色の低学年を引っ張る。生徒の大半がパート要員になるので分かるが最も準備に力が注がれるのが仮装部門である。準備期間と予算が限られているから、(今では禁止されているかもしれないが)大道具パートは昼夜兼行でグランド中央に聳える大型セットを作り上げ、小道具・衣裳パートは総勢百数十人のダンスメンバーの持つ小道具や衣裳を設計し一つ一つ念入りにチェックする。基本となる衣裳は家庭の扶養な布団シーツなどを集め、夏休みに顔料なので「染めて」統一した色を作るのである。

仮装演技パートはあるテーマに即した約9分間の演技時間の音楽選定、ダンス、体形移動、要員の衣裳や小道具、大道具の仕様を決めるいわばプロデューサーで花形部門だが、その分激務なること想像を絶する。体育祭は9月の最終土曜だったが(近年は9月半ばらしい)、開催までの2週間ほどはほとんど不眠不休で仮装演技の企画、制作、団体演技のリハーサルまでをやってのけ、「祭のあと」は精も根も尽き、喉が潰れて声は枯れ果て、私のルームメイトの一人などはその後2週間入院したほどだ。私は大道具パートで仮装演技パート同様、徹夜の作業に明け暮れていた。当時は女子の炊き出し隊があって、徹夜組向けの飲料水や食料など兵站を取り仕切っていた。食中毒防止用におにぎりはすべて「梅干し」と決まっていたが、どうにも食べられない私のために気を利かせた人が「塩しか入っていない」おにぎりを作成し、他と区別するために三角形ではなく俵型になっていたのはいつかここで書いたような気がする。

仮装演技は自らが設定した「テーマ」があり、「ライオンキング」のように各々の役割を担って場面ごとのミュージックに合わせ踊り、隊列を自在に変更する。1年の時のテーマは「ダンボ」でネズミやらダンボのサーカス仲間、ピエロやカラス、コウノトリが登場し、私はピエロを演じた。中々ファンタジーなものだったが、あまり好成績ではなかったと思う。下級生は3年のパートリーダーが決めたことには全て従い年次を超えたチームワークを発揮する。これが裏目に出たのが2年の時だった。「むしば」をテーマとしたその仮装演技は最近お亡くなりになった有名な映画監督の1学年上のご子息がパートリーダーとしてプロデュースした作品?だった。奇抜なアイディアと一糸乱れぬ隊列変形(ものすごく息が切れた)によって人気を呼び、かなりの高順位だったと思う。

綺麗に揃った白い歯の周囲で、「虫歯予防」群と「バイ菌」群が戦うようなシナリオだったが、イケメン系の男子と女子はハブラシ隊や歯磨き粉、白い泡など演じていたが、予想通り「ガラの悪い」我々が扮せられた「バイ菌」側は「この仕事断りたかったよなー」という悲惨なものだった。まるで「ひょうきん族」でホタテマンを扮するよう命ぜられた故安岡力也さんの気分のようだった。最上級生が「バイ菌」の親分だったが、バットマン風のマントに大きな槍を持ち、サリーちゃんのパパのようないかつい被り物をしていてそれなりの貫録だったが、下級生の我々は大将と比べて「足軽バイ菌隊」で、昆虫の羽のような短いマントにシャベルのような武器(たぶん歯に穴を掘るイメージなのだろう)、頭にはみなしごハッチのような「触覚」である。「まるでGキブリじゃねえか・・・」心で叫んだが超有名監督の御曹司の脚本には逆らえず、その姿のままフォークダンスを踊った時の気分は今でも思い出しくたくない。。。

そして最後の体育祭、確かルームメイトの仮装パートリーダーが選んだテーマは「ギリシア神話の勇者」の話だった。何と私は最後の仮装演技のセンターにいる「勇者」役に抜擢されたのである。1年前のGキブリ衣装から一転!デスラー総統ばりの豪華絢爛お手製マントにベン・ハーのような特製兜、そして関羽の青龍偃月刀みたいな長大な槍を持つ異例の大出世である。別にセンターに耐えうるイケメンだったわけではない。演技後半に「進撃の巨人」(というかジャンボMAX)みたいな巨大な怪物セットから囚われの姫を助け出すシーンがあり、その姫役の結構大柄な女子を高い所から軽々と「お姫様抱っこ」できるのが私だけだったのである。(腕力の勝利である。)家族も富山からたまたま実家に来ていた祖母までも私の雄姿を見ようと見物にやってきた。彼女は老人だったから会場係に尊重され何と本部特等席で見物していたらしい。県内に散った元同級生などにも2度とはないだろうこの活躍を見せつけたかったが、残念ながら同一学区の学校は同じ日に体育祭開催だったので、誰も見に来られなかった・・・

何か体育祭のことを書いていたら熱く思い出してしまったが、本当はここで取り上げようとしていたのは息子の「文化祭」だったのだ。(ホントに後付けじゃないよ)。ただせっかく昔の話を思い出したからその話は別途にして当時の文化祭のことを書いてしまおう。正直私はこれまで文化祭なるイベントにはほとんど縁がなかった。何せガリガリの運動部だったから、文化部というコミュニティはブラスバンド部、放送部、新聞部くらいしかどんな活動しているのかさっぱり知らなかったのである。中学と違って高校は部活が必須ではないから、「帰宅部」所属の生徒がたくさんおり、早いうちからそれこそガリガリ受験の準備をしている者もおれば、一応禁止されていたがバイトに精を出す悪友もいた。文化祭は学校の行事だから全く関係なくても登校しなければならぬ。学校全体が「スポーツをもって尊しとなす」みたいな風土があったから、残念ながら「文化祭」というのはいかにもなマイナー感が否めず、我々にとっては貴重な「出欠を取られれば後は自由にしてよい部活がオフの土曜日」でしかなかったのである。

当時、バンドとサーフィンやるヤツは不良扱いだからたぶんレジスタンスだと思うが、物好きな運動部員有志が視聴覚室で何やら演奏していた。しかし今のように「ライブ」やら「クラブ」など行ったこともない私達は「サクラ」で一番前席に陣取ったが、「うるさくて」しかたがなかった。観客は総立ちで熱気に溢れていたが、どうにも「この世界にはたぶん入れねえな・・・」と思ったものだ。部活が休みになるのはラッキーだったが、デートに誘う彼女があるわけでもなし、チームメイトたちと藤沢の駅に出て、ごはん・キャベセンのお代わりし放題のトンカツ屋で昼飯食ってそのまま帰ったくらいしか思い出がない・・・唯一印象深いのは他校の文化祭だが「親善試合」として招待された時である。

我々にとっては「ただの練習試合に行ったらたまたま文化祭の日だった」というものだが、しっかりプログラムに「親善試合」と組み込まれていた。そして試合開始のホイッスルが鳴ると我々は仰天することになる。これは野球部以外の運動部には共通して理解し合えることだ。同級生の(特に女子の黄色い)声援である。野球部は甲子園予選から応援団やらブラスバンド部やら学校あげての声援にあずかれるが、それ以外の部はそういう恩恵は一切ないのである。サッカーの試合をやっていてスタンドから女子の応援を初めて聞いたが、問題はそれが「相手に対して」ということである。フォワードがボールを持ってドリブル始めたりすると「わーっ、○○クン、行っけぇ!」とか「キャー危ないよ、△△ぅ!そこがんばってぇ」そして先取点を挙げた(取られた)時の割れんばかりの歓声である。

最初は「何かやりづれえなー」とプレーしていた我々も失点の大歓声でついにスイッチが入った(というよりブチ切れた)。このやり場のない「怒り」にも似た鬱憤をプレーに注ぎ込んだのである。「(完膚なきまでに叩きのめそうぜ)」ピッチの我々は言葉を交わさずにアイコンタクトもせずに言わば「ハートコンタクト」をとったのである。何せいつもあまり走らずにディフェンスに徹している私ですら直接ドリブルで正面突破しペナルティエリア付近から何本もシュートを放ったのである。結局観客は静かにならなかったが、終わってみれば大量得点で圧勝、いつも怖い顧問の監督が「いい動きをしていた」と珍しく褒めるほどのベストマッチだった。ぜひ我が校の文化祭でも招待試合を行ってほしいものだったが、ついに一度も実現はしなかった。。。

甘辛のサッカー部もそういうことはしないらしい。毎年OB戦を企画するのはバスケット部らしいが、どちらかというと真面目な展示物やクラスごとの出し物に精をだしているようだ。甘辛のクラスはワッフルとカレーを出すそうだった。午前中は製作係で理科室にこもり、後半は友達どうしで校内を見て回るようだ。出席を取って一回りしたらとっとと帰ってしまった我々とはえらい違いだ。そして今風ではあったが、行ってみると実に面白いアトラクションがたくさんある「あっ晴れ」な催しだったのである。その紹介はまた今度にしよう・・・

祝・50周年の超特急

2014-10-04 16:53:15 | 出来事
10月1日で東海道新幹線は開業50周年を迎えたそうだ。このサイトでも何度か取り上げたことがあるが、私と同年齢の「こだま号」「ひかり号」には格別お思い入れがある。今朝のニュースで「ビュワーン、ビュワーンは・し・る〜青いひかりの超特急・・・」と(「走れ超特急だったかな」何十年ぶりかで聞いた。あの歌の歌詞はこの後「時速250キロ〜」と続いたはずだが、確か「ひかり号」は210キロ、「こだま号」は200キロだったと微妙に違っていたと記憶している。子供の頃、両親の故郷富山へ行く時は米原経由の北陸本線ルートだったから、「こだま号」しか乗ったことがなかったのは既に書いた。たぶん車両形式は「だんごっ鼻」の「0系」に違いはないだろうが、ビュッフェにあった速度メーターを食い入るように睨んでいても「こだま号」の速度は時速200キロを超えることはなかったのである。

    

「超特急」というのは子供ながらに素晴らしくワクワクする響きだったが、普段見慣れている(と言ってもあまり乗ることはなかった)湘南電車の二つドア、もぐらのように不細工なロマンスカー「えのしま号」、ディーゼルうるさい「しゃがみ線」、江ノ電「タンコロ」などに比べ新幹線は「のっぺりした妙な顔」であまりカッコイイとは思わなかった。全体的に丸っこく(空気抵抗を減らすため?!)、ドアや窓が小さく、電車の象徴的存在でもあるパンタグラフもやけにミニサイズだ。乗っていてもやたらのトンネルが多くて小窓からは景色もあまり見られないし、ホームに近づいて減速してからの徐行運転がとにかく長くてまどろっこしかった。プラレールも持っていたが、3両連結の標準セットだと他の列車に比べて横から見ると「安っぽいハンガー」のように見えてしまい、あまり好きではなかったのである。それだけ当時のデザインとはかけ離れた画期的なkものだったと知るのは工学部に入学してからである。

東海道開業の約20年後くらいに東北新幹線と上越新幹線が生まれたが、最初は大宮までで「リレー何とか」いう接続列車があったと思う。車両は東海道と同じ丸顔で横っ腹のラインは緑色で、「関ヶ原」付近の雪でいつも苦戦していた東海道に対して、豪雪地帯を走る丸顔はかなり工夫されたと開業時報じられていた。他にも色々あるだろうが、私の記憶では先端の「スカート部」がラッセル車のように折り返しカーブになっていて、雪の中に車体が埋もれていかないようになっているくらいだったが。。。新幹線はレールに継ぎ目があまりないので、列車特有の「ガタンゴトン・・・」という振動が少ないが、当時の丸顔は「ブオウォウォウォーン」というモーター?の音が結構騒がしく、あまり乗り心地のよいものではなかったと思う。

丸顔の新幹線からずいぶんたってからだと思うが、ちょうど学生時代「ドレンディードラマ」が流行っていたころ、ちょっと細い目をしたイケメン風の車両が現れた。JR東海のシンデレラエクスプレスで長距離恋愛が話題となり、何度かのったが乗り心地もよくなっていて「新幹幹線っていいよなー」なんてビジネスマンのようなかっこいい気分になったものだ。グリーン車に乗ったことは(今でも)なかったが、「2階建て」なんていう鉄道史上すごいと思うことがあった。そしてCMで初めて知ったのだが、東海道新幹線史上「ひかり」「こだま」に続き始めて新しい「のぞみ号」が現れた。顔つきも丸顔路線から鉄仮面系の銀河鉄道999路線のようだった。最高時速も270キロまで上がり、乗り心地もさらによくなって東京-大阪が2時間45分くらいで結ばれるようになった。

300系と言われる初代のぞみ号は社会人なりたての私にとって、何か憧れでもあったが実際に利用することになると結構ありがた迷惑でもあった。大阪で会議等がある時に普通はいくつか所用を固めて宿泊出張で往復するのが一般的だったのだが、のぞみ号を使うとよっぽど無理のあるスケジュールでなければ悠々と日帰りできてしまうからだ。大阪の堂島にあるオフィスが会場で朝一の9時から始まる会議でも東京6時発の「のぞみ1号」を使うと、何と間に合ってしまうのである!東海道始発電車が東京駅に到着するのが6時52分。。。悪夢のようなスケジュールの出張が実際に数回あった。当時のぞみ号は全席指定だったが、10年以上たって久しぶりに同様の会議開催に見舞われ1号を使用したところ、出張費用請求にあたってNGを返された。私は激怒して担当に電話をかけると「のぞみ1号には自由席があるんですよ。経費削減のために自由席を利用してもらわないと・・・」

(「バカヤロー、だから経費削減のためにわざわざ4時起きして、日帰り出張しようとしてんじゃねえか!混んでて座れなかったらどうすんだよ。地下鉄じゃねーんだぞ。名古屋まで1時間半も立ちっ放しかよ?!」)という怒号を危うく呑み込んで、「はいはい、そうでっかー、すんまへん・・・」とエセ関西弁で電話を切りつつ、次から絶対宿泊にすることにしたのである。その後、新幹線史上初の時速300キロを達成した銀河鉄道777号(999じゃないよ)にも似た500系のぞみ号が登場したが、残念ながらJR西日本管内が主だったので乗車は経験できなかった。。。ここまで超近代宇宙列車路線できたのが、「何でこんな顔になっちゃったの?」と首を傾げたのが今も走る700系車両である。だんだん鼻が長くなっていくのは空気抵抗を軽減するためのようだが、アヒル顔?カモノハシ顔?目(ライト)も中途半端な高さにあってちょっとヤラしい感じがしたものだ。

しかし今はN700系Aというのが最新らしいが、顔つきはイマイチでも素晴らしく乗り心地がよい。時速300キロ近くで結構カーブや上下があるはずなのに、ほとんど揺れない。最初は沿線の住民への騒音対策が主だったが、乗客の振動や騒音にも徹底的に対処したらしい。カーブでは車体を傾けて遠心力を感じさせないようにするというからすごい。今までに何度か見たが、最初「ピラミッド、万里の長城、戦艦大和に次ぐ無用の長物」とさえ言われたらしい新幹線を生み出すまでの日本人の技術・努力、そしてこの50年の発展を取り上げた番組や書物などが大好きだ。50周年に際しこの手の記事や本がたくさん出ていて、何かにつけて目を通すようにしている。

      

ボストンのビジネススクールのグループで新幹線を話題にディスカッションしたことがあった。彼らはどういうわけか日本の新幹線(だけじゃないかも知れないが)のことを車内アナウンスで使われる「Superexpress」とかニュース風の「High-speed train」とは言わずに「bullet」(弾丸?!)という単語を使って話す。ドイツの有名自動車メーカー、フランスのワイナリーからも来ているメンバーに対し、「ICEもTGVも目じゃねえよ。日本の新幹線が世界一だね」と豪語して憚らなかった。1日の運行数、発着時間の正確さ、住宅密集地を駆け抜ける静寂性、技術的なことはもっとあるだろうが、議論好きの彼らに対してどう転がっても論破する自信があった。そして驚いたことに拙い英語で熱く語る私に対し、ほとんど反論する人はいなかったのである。実は後から思うとICEは騒音がすごいが、TGVは静かで席も広く乗り心地は素晴らしくよかった。

実は学生時代、卒業年次の就職活動みたいなノリでJR東海を訪問したことがある。当時はイットリウムとバリウムを成分とした液体窒素の温度で電気抵抗がなくなる酸化物超電導体研究が盛んだったから、研究心のまだ旺盛な私の目当てはやはり超電導で走るリニアモーターカー開発だった。しかし約四半世紀前、希望通り「リニア検討室(仮称)」に案内されて見たのは、小さな机に向かい合って座り、熱心に文献を読む若者4人だった・・・まだ研究途上だったのかフィールドが違うのかよく分からなかったが、その程度の扱いに見えてがっかりしたものだが、「新幹線総合指令所」を案内してもらった時は度胆を抜かれた。すべての車両がどこを走っているか、どの駅に止まっているか人目でわかるのである。1日何百本と運行できる技術と頭脳の集積を見たような気がした。東京駅大丸13Fの「XEX」というレストランのJR窓側に座ると、東京駅地上ホームを発着する全ての列車を眼下に一望することができる。息子甘辛の学校もすぐそばを新幹線が通っているのだが、XEX同様同じところで眺めているとホントにひっきりなしに通過するのである。たぶんその間隔はわずか数分だ。

ニュースで東海道新幹線は50年で56億人を運び地球5万周にあたる20億キロを走ったそうだ。私個人も地球を3周(約12万キロ)するくらいは乗っている。何せ通勤にも使っていたのだから・・・最近よく聞くのだが、電気や軌道試験用の「ドクター・イエロー」という車両を見ると幸せになれるそうだ。テレビ番組で紹介されていたのだが、名前の通り真っ黄色・・・何回か見たことがあるのだが、そんなに人気があるのなら写真だけでも撮っておけばよかった。。。ちなみに上越新幹線を通勤に使っていた際、JR東日本の試験用車両も見たことがある。これは黄色くなく「East i」という名前だったと思うが、やはり幸せにはなれるのだろうか?

最後に2027年開業予定の中央リニア新幹線も話題になっていた。時速500キロで東京-名古屋間を約40分で結ぶ夢の技術である。日経新聞の記事にあったのだが、現在の新幹線を当時「夢」であった未知の時速200キロから制動をかけるのに色々とアイディアがあり、スペースシャトルのように「後部でパラシュートを開く」といういのも真面目に検討されたそうだが、どうやらそのうちの「車体から翼を出す」というアイディアは何とリニア新幹線で空力ブレーキとして実現するようなのだ。しかしそれこそ新幹線とともに時代を生きてきた妻と私は全く新しいルートのリニア新幹線には多少懐疑的である。現在の新幹線も少しスピードアップし、東京-名古屋は1時間半くらい・・・40分になると「通勤」できるようになるが、地下鉄のように大半がトンネルになるルートに「ホントにそんな速度が必要でしょうか・・・?」というが感想で、「コンコルドみたいにならないといいよねえ・・・」と話している。

日本が世界に誇る「新幹線」、台湾では日本の新幹線が走り、新幹線のない各国にも売り込もうと運動しているらしい。できれば(お古を使えというわけではないが、)我々が親しみを持ったダンゴ鼻の新幹線に世界の色々なところで走ってほしい。サンフランシスコに「カモノハシ」顔の新幹線が走るのを想像するとワクワクする。JR高崎駅長さんにお出でいただいた社内の講演会で聞いた「新幹線早期地震検知システム」により、東日本大震災発生時に27本運行していた新幹線で一人の乗客にもケガ一つなかった。線路沿いの一定間隔と海底に検出装置をおき、初期微動を検出すると確か1分40秒後に架線への送電を停止し、揺れ始める前に列車を停止させるそうだ。我々は俄然「現新幹線派」である。さらに50年進化し続けてほしいものだ。
しかし先日、リニア中央新幹線の試乗キャンペーンがあると聞いてついつい抽選に申し込んでしまった。。。トンネルばかりとはいえ時速500キロ・・・当たらないかなー。