広島での2日目の午後は2種類のオプションを考えていた。安全大会は午後もあるが、会社の創立記念日で半日勤務でもよいことから、プチ観光してみることにしたのだ。一つ目は日本三景のうち未だ足を運んだことのない「安芸の宮島」観光である。確か息子甘辛が修学旅行で訪れたはずだったので、共通の話題にもなるだろうとも思ったのである。
「甘辛よ、中学の修学旅行で宮島行っただろ?今度オレも行ってみようと思うんだが、どんなところだった?おすすめのお土産とかあるか?」「宮島?そうさなー、うーむ。。。覚えてねえや・・・」マシュウ・カスバートみたいな言い方でスルーしやがった。まあ、修学旅行なんて一緒に行ったクラスメイトなどが印象で、行った先は覚えていないものだからなー。
というわけで、「あー、あそこはいい所だったよなー。」と共に懐かしむこともできなそうだったので、迷わずもう一つの観光地に行くことにした。海軍工廠のあった「呉」である。ここに世界最大最強の戦艦「大和」の博物館と現物の潜水艦を展示した海上自衛隊の施設がある。昔の同級生女子が訪れ、大和の巨大模型と実物潜水艦、そして艦内の士官ベッドで寝そべる姿を某サイトにアップしたのを見て、この方面に出張するチャンスを伺っていたのである。広島駅からは呉線快速で30分ちょっと、本数が少ないから注意が必要だが、午後からでも急いで行けば二つとも回れそうだ。呉駅から歩いてすぐのところにあるのが幸いしたのだ。私はワクワクしながら足早に港湾方面に向かったが、まずはいきなり目に飛び込んだ実物潜水艦に度胆を抜かれた。(こんなのありか?!)
まずは「大和ミュージアム」の入口に走ったが、屋外に戦艦の一部にも見られる巨大な建造物を発見。ド迫力の大砲は何と「大和」が完成する前は連合艦隊旗艦も務め世界一の口径を誇った戦艦「陸奥」の主砲だった。当時の日本海軍の象徴として国民に親しまれ、私も何度か子供の時プラモデルを作成したが、広島湾沖に停泊中謎の爆発を起こして自沈してしまった。そこから引き揚げられた四番主砲、後部旗竿、スクリュー、主錨、主舵などが展示されている。海軍の艦船は全て沈没して現存するものはないが、「陸奥」は近海で沈没したために遺留品も含めて色々なものが引き上げられ、国内各所で展示されているそうだ。大和ミュージアムにある主砲身だけでも途方もないド迫力なのに江田島の海上自衛隊内術科学校敷地には四番砲塔そのものが展示されているという。まさか実物を見ることができるとは思っていなかったので、ミュージアムに入館する前から鳥肌ものだった。
さて正面入り口から左に進むといきなり階下に鎮座する1/10戦艦大和模型が現れる。大和の全長は263メートル、全福38.9メートルだから模型は26.3メートルもあることになる。本物の「大和」を建造するには東海道新幹線並みの費用がかかると聞いたが、この模型でも少なくとも数億円はかかると思われる。艦上で作業をする乗組員も含めて細部にわたって本物同様に作られていた。「ヤマト」だけでなく「大和」も何隻となくプラモを製作したし、「戦艦大和のすべて」という子供向けの本も持っていた私は世界最大の46センチ主砲をはじめ、主たる性能や建造技術が驚異的なものだったのは知っていたが、具体的なところまでは詳しくなくその生涯について一度じっくり調べて(思い出して)みたいと思っていた。1/10模型(というよりは立派な艦船そのもの)は真横からも階下、上部からも眺められるようになっていて、その芸術とも言えるディティールは周囲を何回も歩き回っても飽きないものだった。そして2周目に隅にあった展示物を見てその日2回目の鳥肌が訪れる。なんと帝国海軍の艦船で一隻だけ最後まで沈まずに残った前連合艦隊旗艦「長門」の軍艦旗(旭日旗)があったのである!
このサイトで何度か書いたことがあるが、私が幼少時代から主治医(というよりは恩師にも近い)として母子ともに世話になった大先生は、東大医学部卒で戦艦「長門」の軍医長を務めていた。外科医として絶対の信頼を寄せていたが、軍医上がりだけに触診などは実に荒っぽく、打撲していようが骨折していようが容赦なくぐいぐいひねり回し、頭を切った時も麻酔抜きで縫い合わせようとされて泣き叫んだ。。。その先生、戦艦「長門」に乗艦していたのを知ったのは成人になってからだが、診察室の書棚に「軍艦長門の生涯(上下)」が陳列されていたのは見逃さなかった。実際に戦艦長門の艦尾にはためいていた軍艦旗を間近で見て、「先生がこれを見たらさぞ懐かしがるだろう」と不思議な興奮を覚えたものだ。実際に「長門」はただ一隻終戦まで沈まぬに残ったが、戦後アメリカ軍の核兵器実験の標的とされビキニ環礁で沈没してしまう。この時も2度の核爆発に耐えて日本の造船技術の優秀性を証明したという。
さて話が「大和」から逸れてしまったので元に戻すが、アニメやゲームで一緒に遊んだ「波動砲が撃てるヤマト」しか知らないのでは困るので、息子甘辛が小学校に入ったばかりの時にちょうど上映されていた「男たちの大和」という映画を見に連れて行った。壮烈な戦闘シーンや出血シーンなどあの年齢の子供にはショックが大きかったようだが、「戦艦大和」の雄姿とはうらはらに「戦争とはかように残酷で恐ろしいものだ」というのは十分に分かったようだ。いまだに「トラウマになってる」というのは申し訳ないと思うが、あの映画に一つだけ小説から引用したと思われるシーンがある。吉田満さんの「戦艦大和ノ最期」という著書である。いよいよ水上特攻と分かった上で沖縄に向けた戦場に向かう「大和」で乗員たちは愛する家族を思い、それと永遠に別れなければならない苦悩、愚劣な命令を発した軍令部への疑念、無意味な出撃で死ぬことの意義を巡って激論となる。それを制したのが臼淵大尉だった。
「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじ過ぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって本当の進歩を忘れていた。敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。今目覚めずしていつ救われるか。俺達はその先導になるのだ。日本の新生にさきがけて散る。まさに本望じゃないか」
映画では哨戒長の臼淵大尉を長嶋一茂さんが演じており、個人的には「・・・」というところがあったが、ヤマトミュージアムにもこのくだりが約3300名もの戦没者名簿の横に掲げられていた。数年前に沈没した大和を深海潜水艇(確かタイタニックの周辺にも行った)がその姿を捉え、船首の菊の紋章などを写し出したVTRがあった。また3人の生存した乗組員の「・・・ものすごい空襲だったが、何度めかに敵機群が去って行った時、かなり艦は左に傾いていたが『このまま行けば沖縄まで行けるかもな』とうっすら思った・・・」証言映像には言葉を失った。。。今は二つに折れた形で海底に鎮座しているという。。。
この博物館は戦艦大和だけではなく、これらの艦船を生み出した「呉工廠」の歴史そのものを展示するものだ。1853年ペリーの蒸気船を見て「・・・たった四杯で夜も眠れず」と慌てふためいていたちょんまげ国民が80年で世界最大最強の戦艦を建造した。今はCGがあるから(録画禁止)その建造がいかに技術の結晶だったかがよく分かる。空前絶後の巨大艦を建造したのは起工からわずか3年、ドック周辺の施設は今の「ジャストインタイム」方式そのもの、設計施工の進捗管理手法、艦体の接合方法などすべてにおいて現代でも通じる最新技術である。(語っていて自分が熱くなってくるのが分かった)前方底部の有名な「球形艦首(バルバス・バウ)」は速度と燃料効率をよくするための独特な技術で超大型タンカーなどにも採用されている。VTRではこれにより造波抵抗を8%も減少することができたという。
終戦直後、唯一残存したあの「長門」をはじめスクラップ同然で港湾にあった全ての艦船は接収され、すべてこの世かた消え去ったが、それから数十年で世界一の海運国になった。無用の長物と蔑まされ、「先駆けて散る・・・」とされた「大和」だが皮肉にもドラマチックにも自らが後世に「進歩」をもたらしたのだ思う。戦艦というのは元々の矛盾があるが、あの機能的にも芸術的にも美しいと感じる艦を「戦争を避けるためのシンボル」として使えなかったものかと想像する。46センチ主砲弾は人の背丈と同じくらいのサイズであるが、そんな砲弾は打てなくても良い。原爆ドームを眺めて祈りを捧げつつも、領海沿岸を兵器としてではなく決して日本を離れることのない守護神としてのあの艦が航行したら(半ば神社としてかもしれないが)ずいぶん安心をもたらすんじゃないかと思う。ちょっと語っていて熱くなってしまったので、本編は「鉄のくじら」編につづく。
「甘辛よ、中学の修学旅行で宮島行っただろ?今度オレも行ってみようと思うんだが、どんなところだった?おすすめのお土産とかあるか?」「宮島?そうさなー、うーむ。。。覚えてねえや・・・」マシュウ・カスバートみたいな言い方でスルーしやがった。まあ、修学旅行なんて一緒に行ったクラスメイトなどが印象で、行った先は覚えていないものだからなー。
というわけで、「あー、あそこはいい所だったよなー。」と共に懐かしむこともできなそうだったので、迷わずもう一つの観光地に行くことにした。海軍工廠のあった「呉」である。ここに世界最大最強の戦艦「大和」の博物館と現物の潜水艦を展示した海上自衛隊の施設がある。昔の同級生女子が訪れ、大和の巨大模型と実物潜水艦、そして艦内の士官ベッドで寝そべる姿を某サイトにアップしたのを見て、この方面に出張するチャンスを伺っていたのである。広島駅からは呉線快速で30分ちょっと、本数が少ないから注意が必要だが、午後からでも急いで行けば二つとも回れそうだ。呉駅から歩いてすぐのところにあるのが幸いしたのだ。私はワクワクしながら足早に港湾方面に向かったが、まずはいきなり目に飛び込んだ実物潜水艦に度胆を抜かれた。(こんなのありか?!)
まずは「大和ミュージアム」の入口に走ったが、屋外に戦艦の一部にも見られる巨大な建造物を発見。ド迫力の大砲は何と「大和」が完成する前は連合艦隊旗艦も務め世界一の口径を誇った戦艦「陸奥」の主砲だった。当時の日本海軍の象徴として国民に親しまれ、私も何度か子供の時プラモデルを作成したが、広島湾沖に停泊中謎の爆発を起こして自沈してしまった。そこから引き揚げられた四番主砲、後部旗竿、スクリュー、主錨、主舵などが展示されている。海軍の艦船は全て沈没して現存するものはないが、「陸奥」は近海で沈没したために遺留品も含めて色々なものが引き上げられ、国内各所で展示されているそうだ。大和ミュージアムにある主砲身だけでも途方もないド迫力なのに江田島の海上自衛隊内術科学校敷地には四番砲塔そのものが展示されているという。まさか実物を見ることができるとは思っていなかったので、ミュージアムに入館する前から鳥肌ものだった。
さて正面入り口から左に進むといきなり階下に鎮座する1/10戦艦大和模型が現れる。大和の全長は263メートル、全福38.9メートルだから模型は26.3メートルもあることになる。本物の「大和」を建造するには東海道新幹線並みの費用がかかると聞いたが、この模型でも少なくとも数億円はかかると思われる。艦上で作業をする乗組員も含めて細部にわたって本物同様に作られていた。「ヤマト」だけでなく「大和」も何隻となくプラモを製作したし、「戦艦大和のすべて」という子供向けの本も持っていた私は世界最大の46センチ主砲をはじめ、主たる性能や建造技術が驚異的なものだったのは知っていたが、具体的なところまでは詳しくなくその生涯について一度じっくり調べて(思い出して)みたいと思っていた。1/10模型(というよりは立派な艦船そのもの)は真横からも階下、上部からも眺められるようになっていて、その芸術とも言えるディティールは周囲を何回も歩き回っても飽きないものだった。そして2周目に隅にあった展示物を見てその日2回目の鳥肌が訪れる。なんと帝国海軍の艦船で一隻だけ最後まで沈まずに残った前連合艦隊旗艦「長門」の軍艦旗(旭日旗)があったのである!
このサイトで何度か書いたことがあるが、私が幼少時代から主治医(というよりは恩師にも近い)として母子ともに世話になった大先生は、東大医学部卒で戦艦「長門」の軍医長を務めていた。外科医として絶対の信頼を寄せていたが、軍医上がりだけに触診などは実に荒っぽく、打撲していようが骨折していようが容赦なくぐいぐいひねり回し、頭を切った時も麻酔抜きで縫い合わせようとされて泣き叫んだ。。。その先生、戦艦「長門」に乗艦していたのを知ったのは成人になってからだが、診察室の書棚に「軍艦長門の生涯(上下)」が陳列されていたのは見逃さなかった。実際に戦艦長門の艦尾にはためいていた軍艦旗を間近で見て、「先生がこれを見たらさぞ懐かしがるだろう」と不思議な興奮を覚えたものだ。実際に「長門」はただ一隻終戦まで沈まぬに残ったが、戦後アメリカ軍の核兵器実験の標的とされビキニ環礁で沈没してしまう。この時も2度の核爆発に耐えて日本の造船技術の優秀性を証明したという。
さて話が「大和」から逸れてしまったので元に戻すが、アニメやゲームで一緒に遊んだ「波動砲が撃てるヤマト」しか知らないのでは困るので、息子甘辛が小学校に入ったばかりの時にちょうど上映されていた「男たちの大和」という映画を見に連れて行った。壮烈な戦闘シーンや出血シーンなどあの年齢の子供にはショックが大きかったようだが、「戦艦大和」の雄姿とはうらはらに「戦争とはかように残酷で恐ろしいものだ」というのは十分に分かったようだ。いまだに「トラウマになってる」というのは申し訳ないと思うが、あの映画に一つだけ小説から引用したと思われるシーンがある。吉田満さんの「戦艦大和ノ最期」という著書である。いよいよ水上特攻と分かった上で沖縄に向けた戦場に向かう「大和」で乗員たちは愛する家族を思い、それと永遠に別れなければならない苦悩、愚劣な命令を発した軍令部への疑念、無意味な出撃で死ぬことの意義を巡って激論となる。それを制したのが臼淵大尉だった。
「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじ過ぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって本当の進歩を忘れていた。敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。今目覚めずしていつ救われるか。俺達はその先導になるのだ。日本の新生にさきがけて散る。まさに本望じゃないか」
映画では哨戒長の臼淵大尉を長嶋一茂さんが演じており、個人的には「・・・」というところがあったが、ヤマトミュージアムにもこのくだりが約3300名もの戦没者名簿の横に掲げられていた。数年前に沈没した大和を深海潜水艇(確かタイタニックの周辺にも行った)がその姿を捉え、船首の菊の紋章などを写し出したVTRがあった。また3人の生存した乗組員の「・・・ものすごい空襲だったが、何度めかに敵機群が去って行った時、かなり艦は左に傾いていたが『このまま行けば沖縄まで行けるかもな』とうっすら思った・・・」証言映像には言葉を失った。。。今は二つに折れた形で海底に鎮座しているという。。。
この博物館は戦艦大和だけではなく、これらの艦船を生み出した「呉工廠」の歴史そのものを展示するものだ。1853年ペリーの蒸気船を見て「・・・たった四杯で夜も眠れず」と慌てふためいていたちょんまげ国民が80年で世界最大最強の戦艦を建造した。今はCGがあるから(録画禁止)その建造がいかに技術の結晶だったかがよく分かる。空前絶後の巨大艦を建造したのは起工からわずか3年、ドック周辺の施設は今の「ジャストインタイム」方式そのもの、設計施工の進捗管理手法、艦体の接合方法などすべてにおいて現代でも通じる最新技術である。(語っていて自分が熱くなってくるのが分かった)前方底部の有名な「球形艦首(バルバス・バウ)」は速度と燃料効率をよくするための独特な技術で超大型タンカーなどにも採用されている。VTRではこれにより造波抵抗を8%も減少することができたという。
終戦直後、唯一残存したあの「長門」をはじめスクラップ同然で港湾にあった全ての艦船は接収され、すべてこの世かた消え去ったが、それから数十年で世界一の海運国になった。無用の長物と蔑まされ、「先駆けて散る・・・」とされた「大和」だが皮肉にもドラマチックにも自らが後世に「進歩」をもたらしたのだ思う。戦艦というのは元々の矛盾があるが、あの機能的にも芸術的にも美しいと感じる艦を「戦争を避けるためのシンボル」として使えなかったものかと想像する。46センチ主砲弾は人の背丈と同じくらいのサイズであるが、そんな砲弾は打てなくても良い。原爆ドームを眺めて祈りを捧げつつも、領海沿岸を兵器としてではなく決して日本を離れることのない守護神としてのあの艦が航行したら(半ば神社としてかもしれないが)ずいぶん安心をもたらすんじゃないかと思う。ちょっと語っていて熱くなってしまったので、本編は「鉄のくじら」編につづく。