超兵器磯辺2号

幻の超兵器2号。。。
磯辺氏の文才を惜しむ声に応えてコンパクトに再登場。
ウルトラな日々がまたここに綴られる。

応援する者の心理

2014-07-30 21:42:54 | スポーツ・健康
夏の甲子園出場校がどんどん決まっている。9回裏に8点差をひっくり返しサヨナラ勝ちしたゴジラ松井の青陵高校はすごかった。高校野球は負けると終わってしまうから、「あきらめる」ことはありえないと思うが、それにしてもすごいドラマがあるものだ。その約1ヵ月前、県の予選大会が始まっており、我が家のすぐ近くにある球場が3回戦くらいまでは試合会場になっているから平日でも臨時駐車場も含め周辺の道路が混雑する。ただでさえ夏場は周辺の道路が観光客で混むのに地元民で混むとは困ったものだといつも思っていた。

部活でいう正規の「現役」は3年生の最後の大会に負けると「引退」することになる。その先の「学生」の身分であっても(体育会でなくても)ヤマトの波動砲発射時のようにすべてのエネルギーをつぎ込んで何かをプレーしているうちは私の定義では「現役」だった。サッカーが主体だったが、バブル期全盛の「何でも手を出した時代」だから、野球やテニス、スキーやゴルフ(はちょっと違うかなー)などそれなりに練習し、ガチで取り組んでいるものは自分にとって現役だ。今となってはかなり「ひとりよがり」だと苦笑いだが、私は「現役であるうちは人の応援などしないものだ」と思っていた。

子供の頃は(実在の)「ヒーロー」がいて、憧れの的として応援していた。プロ野球なら長嶋、大相撲なら「旭國」、サッカーならベッケンバウアー、スキーならステンマルク、テニスならボルグ、女子バレーなら白井、ジャンプなら笠谷・・・いずれもチームとして勝利することというよりは、個人に憧れ個人の芸術とも言える華麗なプレーを見たくて応援していたものだ。また少年野球をやっていた時は指導者から言われて、所属のBチームや下位チームをスタンドから大声で応援したりもした。しかし中学を卒業するあたりから、大人と同じ仕様でそこそこスポーツらしいことをできるようになると無邪気に人の応援はしなくなるのである。可能性があるうちは「オレも死ぬ気でやればあのくらいはできるさ」というのがどこかにある。息子甘辛が元チームメイトがプロチームの下部組織でプレーするのを見て何とも複雑な顔をしたというその感覚がよくわかる。

共感は多くないかもしれないが私は高校や大学などで「応援団」とか「マネージャー」とか選手を応援し支えることを好んで行う存在がどうもに理解しにくかった。応援団もマネージャーも当時は野球が主流だったが、それほど野球が好きならば「自分でやればよい」と思っていた。不幸にもハンデなどがあって「やりたくてもできない」なら別だが、「できるんなら見て応援などしている暇があったら自分でやればよい」と信じていた。(うーむ。。。若いかも・・・)自分が現役だと(勝手に)定義して動く「競技スポーツ」は自ら身体がおかしくなるほど鍛錬することはあっても、同じことをする人を「応援する」ことはなかった。プロと呼ばれる選手たちがいつの間にか自分と同年代になっていて、「逆立ちしても太刀打ちできない」事実を認めたくなかったのかもしれない。「競技スポーツ」の世界に身を置いていると思って(い込んで)いる間である。

学生時代の後半だったろうか、たまたま同級生だった女子と食事をした時があった。単なる数年前の話しだったが、昔話にずいぶん盛り上がったものだが、ちょうど当時開催されていたオリンピックの話題になった。皆が注目する種目が中心だったが、不思議と彼女は聞いたことくらいしかない馴染みの薄い種目についても熱く語ったのだった。例えば(今はないかもしれないが)「水球」「馬術」「射撃」などおよそ日本ではマイナーな競技を時差の関係で明け方近くまで熱心に見入っていたそうだ。「ふーん、そういうの好きだったっけ?」とニヤニヤしながら聞くと、どんな競技でも国の代表として全力を尽くす姿を見ると感動してしまい、夜中じゅうテレビにくぎ付けになってしまうというのだ。その時は「そういうものか」と感心したものだ。

どこからというポイントがあったわけではないが、いつの頃からか「もはや現役ではない」という自覚が生じ、単なるサポーターとして応援に行くということに違和感を感じなくなっていた。おそらくゆっくり健康に悪くても「勝つため」に無理をする「競技スポーツ」から健康を促進し気持ちよく運動する「生涯スポーツ」に変わってしまったのだろう。世の中には「競技スポーツ」が「生涯スポーツ」のようになっている超人的な人もいるが、やはり年齢を重ねるに従って自然に移り変わっていくのだろう。25歳くらいまでが単純な身体的な能力が生涯で最高点だと聞くが、その年代に身を置いていた我が学府は早慶戦のように野球、ラグビー、サッカーなど色々な競技で「伝統の一戦」で盛り上がれる分野がなく「競技スポーツ」としては限りなくマイナーだったから、卒業してから母校を応援するような機会はなかった。

「応援」の興奮を最初に味わったのは社会人になってからの「都市対抗野球」である。入社して20年以上たっても毎年この時期になると我が社の(どういうわけか幹部が多いが)社員は常に「シンボルチーム」の応援に余念がない。。本大会に出られる時もそうでない時もあるが、会社の業態が何回か変わってから結構「常連」となることができた。かの大会はあくまでも「都市」の代表同士の対抗戦なのだが、企業力を挙げての応援合戦と言ってもよく、プロ野球などよりも組織的かつ大規模な応援団とブラスバンド、チアリーディングなどが活躍する。場内に響き渡る大太鼓に合わせ、時には数万人にもなる同じビブスとグッズを手にした大応援団が応援歌を歌うこの一体感と高揚感は選手一人ひとりなど誰も知らなくても鳥肌もんの興奮を呼び起こす。日頃、自社には大して興味を持たぬ社員がこの時だけは大声で「社歌」を歌い、勝利に熱狂し、愛社精神は普段の数倍に達するだろう。(翌日、すぐに元に戻っちゃうけど)

自分は生涯スポーツ側に身を置き、素直に応援した次の経験は「息子甘辛のサッカー」である。経験者として指導こそしなかったが、幼い頃から一緒に練習もしたしゲームに参加したりもした。小学生の時は主力選手で県トレセンにも選ばれ、チームも県内有数の強豪であり自家用車が移動手段でもあったから、試合のたびに応援に駆け付けていた。1年に150試合くらい消化していたプロ野球並みのスケジュールだったのだ。しかし中学になり「学年別」のチームでなくなると下級生の出番はほとんどなくなる。「セブンティーン」でようやく急速成長モードに入った息子はこれまでは同年代の中で身体が小さく最上級生になるまでベンチを温めることばかりになり、そこでは妙な親心が出てしまうのである。こればかりは自分の力ではどうしようもないので、本人は健気にもレギュラーで活躍する選手のサポートに回っていたのだが、やはり時折見せる寂しそうな表情を見ると自然と可哀そうになり、ピッチから足が遠のいてしまうのである。高校でもサッカーを続け、今はようやく半分Aチームになったようだが、正直自分でやりたいことがたくさんあり、何となく応援からは遠ざかっていたのだ。

冒頭書いたように、約1ヶ月前に県の予選大会が始まり、近所の野球場でも「○○高等学校野球部」と書かれたバスを見かけるようになった時、とある日曜日ふと「そういえば母校はどうなってるんだろか?」と思いついた。野球部でなかったからというわけでもないが、これだけ近くにいるのにこれまで卒業以来ただの一度も母校の応援に行ったことがないのに気が付いた。本県は日本一の激戦区で決勝まで7回くらい勝たねばならない。常連校は予選用と本戦用にメンバを分けたり、エースを温存したりして予選を勝ち抜いていくようだ。1回戦負けしていたらもう見る機会はないかもしれない・・・ネットで調べてみると残念ながら近所の会場ではないようだが、まさしくその日の午後に3回戦が予定されているではないか?!勝てばベスト32、本県では中々立派なものだ。海の日3連休はそんまんま海に浮いているつもりでいたのだが、珍しく思い立って妻と新しくできたがまだブツ切りの圏央道を北上し、県北に向かった。

我が家の近所の球場よりはずいぶん立派なスタジアムだ。おーっ、ちゃんと母校の名前が出ているぞ。1塁側のスタンドに入ってみると応援席には小ぶりながら応援団、ブラスバンド隊とチアリーディング、生徒などが詰めかけ、その横にはPTAと思われる大人たちが同じ色のポロシャツに帽子を揃えて歓声を挙げていた。2回を終わっていたが、結構点差をつけてリードしていた。スタンドの一番上に掲げてあった大応援旗の校名二文字を見てさすがに興奮に打ち震えた。(オレ達の時もあったなー!)応援歌はお約束の「狙い撃ち」(山本リンダなんて知ってんのか?)、「ルパン三世」、「サウスポー」、「仕事人のテーマ」、「笑点」・・・なんだ、我々の時から何の進歩もないじゃないか。。。そもそもどれも知らない世代のはずだろ?!試合は何と次々と得点を重ねてコールド勝ち!監督が「『打を売りにする』のチームにしよう」と言ったら皆その気になって強打のチームに仕上がったそうなのだ。

  

予選だからないよな・・・と思っていたら、試合終了後は甲子園同様選手はホームベースの前に並び「同校校歌の斉唱」というのがあった。社歌は覚えていたが、数十年ぶりとなる「北原白秋・山田耕作」ゴールデンコンビ作詞作曲の校歌は鳥肌ものだった。家に帰るとスマホに1件のメールがきていた。懐かしさに写真を某サイトに載せておいたらそれを見た知人から聞いたらしいのだ。「・・・今日、タロウ行ってたらしいよ、て言うから。。。声かけてくれれば良かったのに」中学の同級生女子の息子さんが野球部でベンチ入りし1塁コーチをしているらしいのだ。ご本人が卒業生ではないのだが、保護者応援用スタイルでメガホン持っていたらしい。次は昨年の優勝校らしいが秋の大会で負けはしたものの、それなりには健闘し打力をつけてきているから期待もできるようだ。

  

さすがに試合当日は仕事で観戦はできなかったが、開始時間に「卒業生にも回しておいたから応援頑張って」とメールしておいた。私も午前中、デスクでずーっとネットの試合速報を睨みつけていた。やはり実力差はあったのかビハインドだったのだが、7回に追いついた時は思わず「ちょっと打合せキャンセル!」と叫んでしまった・・・さすがにそういう訳にはいかず、15分遅れで会議に出席したのだが、帰って来て急いでサイトを見ると残念ながらその後得点されて負けてしまっていた。その後しばらくして彼女からメールがやってきた。「・・・・地味な1塁コーチャーの うちの次男だったけど、録画を観てたら、最後の最後 負けて泣いているレギュラーの後輩の肩を抱いて 自分も泣きながら励ましている次男が映ってた。この子は こうやって自分は試合に出られなくても後輩のフォローに回って3年間の高校野球をやって来たんだと、初めて私が気付き、また涙流しちゃいました

うーむ。。。見ていて私は「じーん」ときた、親が子を応援するとはこういうことか。。。人を応援するとはその人に応援パワーを授けるだけでなくむしろもらうものの方が多いんだな。息子のサッカーの場合は自分の経験もあって、「試合に出られない」姿を見たくないあまり遠ざかってしまったが、こういう見方ができる彼女には親としては脱帽する思いだった。珍しく海とは関係なく、都市対抗に母校の県予選と応援に明けくれた海の日3連休だったが、夏休みは今年2年生になる息子の夏の大会を応援できるように予定を組み替えたのである。

「気」について空想する。

2014-07-25 18:10:19 | 出来事
先日、スピリチュアルヒーリングの先生が久々に登場し、我々に「気」の恩恵をもたらしていったが、「どうもこの家は騒がしい」のでお祓いをしたほうがよいとおっしゃった。しばらくお世話になることもあるまいと思っていたが、こう言われて「別にいいですよ」と断ってしまうほど、霊的度胸があるわけでもない。(むしろこちらからお願いしたいくらいだ)酒と塩と水を用意し、翌々週に時間をかけて改めてお祓いしていただくことになった。実際に「気」の効果を目の当りにしているだけに、神社などで年1回「無病息災」を祈祷するよりは「ありがたみ」を感じるのである。ただ言われることを全部信じているわけではないし、私自身がその効果をあまり身を以て体感していないから、「どういうものなのか?」自分なりに納得しておかないと「気持ち悪い」(このあたりは理系の性か?!)

「気功」とか「ヨーガ」、「魂」、「霊」などの所見をいくつかのサイトで読んだが、その「存在」はあたかも当然のように謳っていて、何でできていてどういう挙動を示すのかおよそ「自然科学」的な情報はほとんど見つけられなかった。まあ、だからこそ「超自然現象」とか言われるのだろうが。。。あまりその方面の専門的な知識はないので、今更付け焼刃であれこれ考えてもろくな考察を得られなそうなので、手持ちの乏しい科学知識だけをもって「気」について考えてみた。信じる信じないではなく、「こんなものかなあー」という勝手な想像に近いし、時々行き詰まってあんまり科学的でない「こじつけ」的論点もたくさんある。

まず人間の細胞は約60兆個、組織によって時間が異なるが、一生のうちに何度も死滅・再生を繰り返す。生きるための設計書はDNAが持っていて、生きるエネルギーは外部から取り入れた物質との化学反応から得る。呼吸や血液の循環、消化、感覚などの系もものすごく乱暴に言えば60兆の細胞が創り出した偉大な化学反応のしくみである。ここまでそうは違っていないと思うのだが、他の生物と異なり、「物事を考える」「モノを作り出す」「喜怒哀楽の感情」などが入ってくると少しややこしくなってくる。少年ジャンプの「コブラ」というコミックに登場したデカルトの言葉「我思う、ゆえに我あり」(Cogito ergo sum)のように「思う」という行為も一つ一つの脳細胞が発したシグナルが複雑なパターン回路を形成した結果だとする。

ここからがちょっと無理のある仮説なのだが、神経回路が何万?回も信号をやりとりした結果「強く思う」という行為に対し、「思念」という時空の歪んだような「場」ができると仮定する。その他にも60兆の細胞は絶え間なく化学反応を続けている。自然発生的ではなく何かの「目的」があってこの反応を起こす時、細胞の外部に作用して空間に何らかの変化をもたらすとする。普段はその「変化」は体内に留まっているが、特に強く作用する時、外に「場」の影響を及ぼすことがある。そして人間が「何かを強く思う時に作用する外界の変化のようなもののうち「レーザー光」のように整ったものが「気」なんじゃないかと想像である。これは昔の物理学でいう「エーテル論」に近い。17世紀くあいから力や光が空間を伝わるのは「エーテル」という見えない媒質の現象と仮定されていたが、アインシュタインの相対性理論によって否定された。

60兆の細胞の化学反応と脳神経回路を行き交う信号による強い「思念」という作用が身体内外の場に「ゆらぎ」をもたらしこれが整然と揃った「濃い」ものが「気」じゃないかと考えるとき、「死者の魂」みたいな「信じるか信じないかは『あなた』次第です」というモノよりも少しは科学っぽい説明が色々とできる。
例えばスピリチュアルヒーリングの先生は「気」は生命エネルギーの源と言う。身体にこれが枯渇してしまうと、病気になり易かったり、原因不明の体調不良を引き起こす。こういう時、彼女は「気」を注入する施しをする。また体内の気が素直に流れていないとき、「澱んでいる」「凝っている」と表現し、こういう時は頭から足の先まできれいない「気」を通過させて整えようとする。

さらに思念・想念の影響が強いとすれば「よいこと」「わるいこと」もあり、「よい気」と「悪い気」とが存在することになる。先生が「波動を高めよ」と言った時、どうすればよいのか尋ねたら、人を恨んだり憎んだりせずにまた思わずそうなってもすぐに忘れ、いつも人のためになる、人を思いやる「よきこと」を考えるように努めることだとされた。KICKPOP師匠のおっしゃる「考える時に使う脳の部位はよいこと、悪いことなどにより異なり、繰り返しているうちに該当する部位が鍛えられる」という話に合致しているようにも思える。人がその生命活動とともに強く念じたことが、たまたま外部に発現した(ただし確率や総量は多くない)ある変化が「気」だとすれば、濃淡があり良し悪しもあって不思議ではない。そして強さと波長(位相と言った方がよいか?)によってはその人がいなくなっても、その空間に残留したり漂ったり・・・さらに他人に影響したり内部に入り込むことも想像できる。

ものすごく強い思念が発動したとき(例えば言われのない死とか)、人によっては稀にその「気」が目に見えることもある。何せ元は人間が発出した歪、澱みのようなものだから、見える人がいてもおかしくない。時には「人型」に見えるかもしれないし、物理的に写真に現れることもある。放射性元素の半減期のような寿命みたいなものもあり、かつ別の人が発する「気」によって消滅したり浄化されたりする。以上が私の「心霊現象」「憑依」「除霊」などについて説明するための仮説である。これまで生きた人が延べ(ここがスタートというのはないが)1000億人とすればそのすべてが多かれ少なかれ外界に「気」を発したはずだが、普通は消滅してしまい(たぶんこれが成仏)空間にたくさんは残っていない。

60兆の細胞の化学反応と思念による気が体外ににじみ出ているのが「オーラ」、人にとってすばらしくよい影響を与える気が溢れているところが「パワースポット」、どうも澱んであまりよくない影響を与えるところが「心霊スポット」、さらに空間にある「気」を感じてこれをコントロールし、よいことに使用することができる人が「ヒーラー」、強い気を発する空間を感知し、その所以が分かるのが「霊能者」・・・この仮説で結構もっともらしい説明がつく。
そしてこの解釈で説明できないのが「死者と会話をする」ことである。仮に死者の気が残留していたとしても、死んだ時点で60兆の細胞は科学反応を停止しており、脳神経細胞もシグナルを出さないから、その場にある「気」だけが物事を考えて「会話」をするというのだけは考えられないのである。

世の中のことは大半が仮説に過ぎず厳密に立証されている事象は少ないそうだ。「99.9%は仮説」という本によれば、飛行機がなぜ空を飛ぶことができるのか、厳密には解明されていないらしい。それでも毎日何百という航空機が落ちることもなく(最近墜落が多く怖いけど)運行されている。科学では起こっている事象を最も「齟齬なく」説明できる説が今正しいとされるものだそうだ。私のはそんな大層なものではなく、空想に近いのだが仮に自説を信じるとすれば「幽霊が話しかけてくる」ことはありえない、ということになる。霊などを最も恐れる私にとっては何とも都合のよい説ではないか?!なお今回の話はあくまで私的な空想であり、何かを主張するものではありません。

ヒーリングの力に恩恵を得る

2014-07-19 16:55:15 | 出来事
久々、我が家に幾度となく恩恵をもたらした「スピリチュアル・ヒーリング」の先生の登場である。このサイトでも取り上げたように私はこの7月に意外にも職場が変わり、その少し前に妻も新しいことにチャレンジしていた。息子甘辛も17歳の誕生日の一月前くらいから「急成長期」に入ったようで、家族3人が「何か新しいモード」に突入したようなので、先日「すごく『気』の流れのいいところだよ」と言われた鎌倉最古の「杉本寺」にお参りに行った。強くはないが多少なりとも「感じる」力を持つ妻は奥の国宝と言われる仏像の前に座ると、肩の緊張などがとれてすーっと楽になるという。本堂は萱ぶき屋根だったのだが老朽化のためにこの1ヶ月ほど前に布施によって新しくされたという。新品の萱ぶき屋根というのを初めて見た。山門から本堂へ通じる真ん中の一本道階段も老朽化が進み、滑って転落すると危険なので長いこと閉鎖されていたが、いよいよここも工事されるようだ。

すぐ近くに日本三天神という江柄天神社がある。御祭神はむろん「菅原道真公」で、福岡の大宰府、京都の北野天満宮と共に三天神社と称されるそうだ。湯島天神や大阪天満宮は有名な「学問の神」だが、こんな身近に由緒ある神社があるとは知らなかった。江柄天神社も鉛筆とか鉢巻きとか受験にまつわるお守りが多く、もうこれは吊るせないほどびっしり絵馬がぶら下がっていた。合格を願う祈祷もあったが、極め付けメニューは「受験当日早朝祈祷」で神職が受験生に代わって成功を祈願するそうだ。「自分の利益のために神頼みしてはいけない」という私のポリシーから、何も買わずに「とりあえず努力はしますように」とだけ祈っておいた。

杉本寺に江柄天神社をはしごしてきたが、お参りだけで安心できたら誰も苦労しない。最近、実家の母が腸炎にかかって体重が減ったというし、妻も何となく疲れが出ているようで元気がない。甘辛は急成長期特有の症状なのか膝や足首、股関節などあちこちが痛いという。正直私自身はあまり恩恵を感じていないのだが、疲れや痛みを和らげるのに家族皆に効果をもたらしてきたし、最近家周りのことをあまり見てもらっていないから、ここは数年ぶりに先生にご登場いただくことにした。いつも改札で待ち合わせるから車を駐車している間は甘辛に迎えに行ってもらった。「ちゃんと高校生らしく挨拶するんだぞ」と言っておいたが、自家用車のドアを開けてあげたりして中々のエスコートぶりを見せた。

実は私も想定していたのだが、先生をお迎えして駅から我が家まで向かう車の中でほとんどの話は済んでしまうのである。「甘辛君、いよいよ一皮剥けたわねえ。お母さんはお元気?」彼女はころころ笑いながら世間話をしていたが、私がいきなり核心を突くような質問をした。多少のことは直接会わなくても分かるようだとつぶやきさんから聞いたのだ。「どうも妻が最近疲れているのか元気ないんですよ。それで見て欲しくて・・・」先生は笑いながらキラリと目を光らせ「奥さんねえ、甘辛君の卒業するくらいからちょっとおかしいよ。あなたにも分かった?家の中も少し騒々しいのよねえ」妻は彼女のヒーリングパワーでよくなるだろうとも予想できたが、騒々しいなどと言われて私はぞぞぞーっと鳥肌がたった。むろん私は甘辛が馬鹿騒ぎして騒々しいのではない。我が家の住人ではない誰かが物音をたてているのである。。。

家につくとまず実家の母をヒーリングして頂いた。先生に言わせれば「気」というのは生命の源になるようなエネルギーで疲れや老いで不足してくると病気とか憑き物とか心身に様々な災いが起こるという。ちなみに母親は単純にエネルギー枯渇に近い状態なので「気」を注入して充填してもらうようなイメージ、甘辛は若い割には激しい運動が続いて身体のあちこちに澱みがあるので、「気」を通過させて通りをよくするようなイメージだそうだ。妻の場合は憑き物にも似た症状だったようだ。
「ちょっと疲れが溜まっていたり、落ち込んで後ろ向きになっていたりすると、悪い気を集めてしまうのね。何と言うのかなー。。。」
先生はあまり自然科学的な言葉には詳しくないが、中には嫌がる人もいるからできるだけ「心霊」などという言葉を使わずに説明しようとする。
「それって、『波動』みたいなものですか?」理系の私はすかさず聞いてみた。本当は波調と呼ぶべきだったかもしれないが、先生は思わずダンディ坂下の「ゲッツ」みたいなポーズをして「そうそう!波動を上げることが大事なんですよ。人を憎んだり恨んだり、ちょっと腹を立てたりすると人格の波動が下がってしまの。そういう波動に悪い気が同調して集まってしまうのよ」

「そ、そうですか。。。(どうせ見抜かれてしまうから)先生、ボクも自慢じゃないが年中悪いこと考えてますよ。車の運転や車内マナーの悪い人なんかほとんど『呪う』よ・・・・」先生はにっこり笑って(いるようで目は笑ってなかった)
あなたは大丈夫!ついでに甘辛クンも平気です奥さんはあなた達より感性が高いので波動が下がった時に悪い気を集めやすいのよ。」
うーむ。。。前にも似たようなことを言われた記憶があるが、何か素直に喜べないなー。先生は一通りのヒーリングを終えると過去の人の例や以前に見たことのある私のお友達について色々と語り始めた。ある人のことは仕事が忙しくて夜寝るのが遅いのをすごく心配していた。いつも帰宅が12時を回っていて、それから入浴したり夜食、晩酌していて毎日就寝が2時過ぎだという。職場が自宅から近いので睡眠時間は結構たっぷりなのだが、時間帯がよくないという。

先生によると、彼は「仕事については特に優秀だから色んな課題が集中する。それも計画的にひとつひとつ確実にクリアしていく性格で根が少し短気だから、誰かのせいでそれが滞るとすぐにイライラする。だから人に頼らず自分で完遂し、結果疲れを溜めることになってしまう。こういう人が時間帯のよくない=あまり質のよくない睡眠を繰り返すとやがて鬱になってしまうことがある。」それがすごく心配だというのだ。彼と一緒に仕事をしたことがないので実際のところはよく分からぬが、職場の姿は言われてみればそんなスタイルもイメージできるのだ。何度かヒーリングしたり、会話をしただけでここまで分かるとは恐るべし。

「あなたは12時前には確実に寝ちゃうよね」妻は半分冷やかしのように言った。ふふん。。。12時どころか飲んで帰ってもジムに寄っても11時前には寝てしまうし、朝明るくなると起きる。だから今は4時台に目が覚めるのだが、一度起きると2度は寝られない。完全に年寄りモードの睡眠スタイルで必ずしも深くないから、よい睡眠かどうかはわからないが「だからー、あんたは大丈夫だって!」と言われてしまった。
「仕事において特に優秀・・・」などと言われてみたいものだが、これまで自分に「課題」など集中したことは一度もない・・・(自慢にならぬが)気のせいかも知れないが、むしろ私に課題が集中しないように周囲が気を配っているようにも思える。

私は直感を重んじ(思い付きで動く)、臨機応変(行当りばったり)に仕事を処理、お出掛け大好き、用が無ければすぐに退社してジム・・・自席にいる時間が限られているから決裁・承認行為が必要な時スタッフは「アイツがいるうちに・・・」と高能率で事務処理をこなす。短気なのは彼に近いと思うが、そもそも滞っているかどうかもよく知らないうちに仕事がまわっているのでイライラすることがない。人に頼りきり、自分で背負いこむのはイザというやばいときだけ・・・まことに「人生結果オーライ」だ。実は「そんなことではダメ!」と先生に言われるのにいつもビクビクしているのだが、不思議なことにいつも「あ・な・たは、だいじょーぶ!」と強くのたまうのである。妻に「だろ?だろ?、ほら、究極のマネジメントとは『いないこと』を仕事にできるヤツなんだよ」

シーリングを重ねながらも先生はにこにこと色々な世間話をしながら、最後に「太郎さんにも少しやっときましょうね。あ、でも別に『いる』わけじゃないわよ。ちょっと頭が疲れてるようだから」
私がリクエストしたわけでもないのに先生のオファーに思わず堅くなった・・・むろん、あろうことか私以外の誰かが憑いているのを連想したのである。首の後ろを万力のような力で挟んで、ぐりぐりー、ぐりぐりりー。。。。うー、痛えなんてもんじゃねえ・・・「あなた、ホントに素直な筋肉してるわねえ。ヒーリングしてて嬉しいくらいよ。ほーら、堅いところが楽になっていくでしょう?」
(正直、正直ですよ・・・?!ここだけの話、少し凝りがほぐれた気はしましたが、全然わかりませんぜ・・・)
私はこれまでのスピリチュアルヒーリングに対し、家族の反応、先生の逸話、その他自分が感じたこと(中々難しかったが)を総合すると「何となくこういうことなんじゃないか?」という仮説をたてるに至るのである。(つづく)

セブンティーン

2014-07-12 09:32:42 | 出来事
先日、息子甘辛が17回目の誕生日を迎えた。「セブンティーン」とは何と羨ましい響きであることか。今もあるかどうか分からないが、私が同年代のころ「セブンティーン」という名の週刊?誌があった。口に出すのも若干恥ずかしい、「少女雑誌」というヤツだったと思う。これよりもさらに「少女マンガ」路線にあったと思われるのが「マーガレット」(別冊もたしかあった)、「少女フレンド」とか「少女コミック」とかで、我々「悪童」には別世界が広がっていた。実はどれも冊子そのものを開けたことは一度もないが、掲載されていた作品は意外と好んで読んでいたのである。アニメ版が先行して後からコミックを借りるパターンが多かったが、「アタックNo.1」に始まり、「ベルバラ」、「リボンの騎士」などがあって、かの名作「エースをねらえ!」にとどめを刺す。「セブンティーン」という雑誌はもう少し大人びたイメージがあり、ファッションや占いとか女子高生の興味がありそうな話題ばかりなんだろうと思っていた。

唯一とも言える接点がテレビドラマ化した「ヤヌスの鏡」という漫画である。杉浦幸というアイドルが主演でその生い立ちなどが関与してか、真面目で大人しい少女と凶暴なヤンキーの面が多重人格としてそれぞれあるきっかけで入れ替わり現れる。何か複雑で重々しく好んで見ていたわけではないが、当時ファンであった会員番号12番が私の知る限り唯一出演していたドラマだったので何となく見ていたのだ。あの前後数年は「スチュワーデス物語」や「スクール☆ウォーズ」などを筆頭に「花嫁衣裳は誰が着る」とか「不良少女とよばれて」とか割と似たようなテレビドラマが次々に放映されていた。出演者も女優(と言えるか微妙だが)は堀ちえみと伊藤かずえ、伊藤麻衣子ばかり・・・男優では鶴見辰吾や松村雄基を見たが、特に伊藤かずえと松村雄基は「主役ではないのに常に登場する」ウルトラ警備隊員のようなゴールデン脇役だった。

それは私にとっては息子甘辛の年齢よりは少し上の80年代だったと思う。「金八先生」もそうだったが、17歳などと言えば部活や試験勉強と少しの遊びで忙しく、同年代をテーマにしたドラマなど見やしないのである。実は「ヤヌスの鏡」など全くと言ってよいほど忘れていたのだが先日「東京MXテレビで深夜に放映されているのを見た」と知人がFBで報じて懐かしく思い出した。東京MXテレビはその再放送終了後、堀ちえみの「花嫁衣裳は誰が着る」を放送したようだ。あのオープニングの独特な女性のちょっと薄気味悪い(のは私だけ?!)ナレーションは今でも耳に残る。「このドラマは・・・」で始まる例の響きを覚えている人は多いと思う。主人公は大体出生や生い立ちに何らかの秘密をもち、常に運命のいたずらに翻弄されるストーリーで放映翌日にはクラスで話題になるようなで派手なセリフや意外な展開が多く、最後はまあハッピーエンドみたいなのがこの年代のパターンである。

ちょっと疲れてきたり身体が変調したりすると部活やら授業は随所にサボっていた私と比べて見事とも言えるほど「皆勤」で、台風接近により「自宅待機メール」が来ているのに電車が動いているうちに通学しようとした・・・クラスと部活が楽しくて仕方がないのだという。(これはこれで素晴らしいが勉強はしないらしい)さらに現代っ子は我々はあまり縁がなかった「塾通い」というものもあるので、私よりもはるかに忙しい甘辛は当然ゴールデンタイムにテレビなど見ない。しかしそこはさすが商業主義メディアは大したもので、深夜に人気アニメなどを放映するのである。最初は夜更かしして起きていたが、「成長に悪いからやめろ!」と禁止すると、今度は録画するのだが結局見る暇がない・・・テスト期間に部活が休みになったので録画を見溜めしようとして妻にどやしつけられていた・・・

さて、その「急成長期」だが、小学校の時は背の大きい部類にいたのに、その後たらたらひょろひょろ伸びるばかりで一向にその兆しすら見えなかった。チームメイトが瞬く間に親を超すような身長になり、もんたよしのりと桑田佳祐を混ぜたような声に変っていくのに、彼だけは小児体型でソプラノヴォイスのままだった。サッカーなど青少年はフィジカル面が強く出るからずいぶん悔しい思いをしただろう。小さい頃から培ったアジリティとボールテクニックは秀でていても、あっという間に抜き去られ、簡単に弾き飛ばされる姿は親としても見ていて忍びないところがあり、試合観戦からもだんだん足が遠のいて行った。日常生活でも結構注意深く見ていたが、夜はいつまでも起きているし、三度の飯よりもサッカーやゲームといったおよそ成長期の大量エネルギー消費時代には突入していなかった。ただもやしのように身長だけは伸び続け、先般妻を抜いたと思ったら子供の日あたりで私を追い抜いた。

しかしわずかここ一か月くらいと妻は言うのだが、突如として「食う寝る魔人」化したようなのだ。食うのは遅いが「食っても食っても腹が減る」というまるで腸に回虫を飼っているような様子だし、四六時中眠くてしょうがないらしい。(これまでの反動のような気がしないでもないのだが)帰りの外食は原則認めていないのだが、部活の帰りなどにチームメイトとお店で食べてくる量が尋常ではなくなってきた。お代わり自由の「チカラめし」でご飯8杯とか、おやつ代わりのラーメン替え玉4個とか・・・サイゼリヤではペペロンチーノにハンバーグステーキ、フォッカチオ、クラムチャウダーでしめて1000円でおさめるという。我々と一緒にいる時は上のメニューにすかさず「エスカルゴ」とプロシュートをつける。ペペやハンバーグはお代わりする時もあるが、いきなり高額メニューに移行するのではなく、単に追加するあたりが彼らしい。。。

今年の甘辛の誕生日はたまたま試験期間中で部活がなかったから日曜日にゲリラ的にお祝いの食事だけ行こうということになった。我が家が正規のアニバーサリーとしてはよく使用する横浜ランドマークタワーの「鉄板焼よこはま」である。甘辛の入学祝い以来だから1年半近くぶりということになる。甘辛は幼い時から外食に関してはどうも祖父である私の父に似た傾向を持つらしく、味そのもの(味覚があるだろうが)や量よりも、店の雰囲気や見た目・価格などで選ぶところがある。その点「よこはま」は従業員の立ち居振る舞いや落ち着いたムードといい、座る時に椅子を引いてくれるような行き届いたサービス、目の前でプロと思しきコックが見事なヘラさばき。。。価格はそれなりだが味はもちろんバッチリで甘辛は「肉」を食べられるようになってから、ずーっとここが気に入っていた。普段どちらかというと食が細くあまり食事に興味がなかった彼が3歳にして大人用のメニュー(ただし肉とご飯だけ)をペロリと食べて親を驚かせたものだ。

ここのランチコースはどれをとっても結構ボリュームがあるが、メニューを選ぶにあたり甘辛は悩み込んでしまった。いつもは「季節のスペシャルメニュー」などに飛びつくのだが「どうも足りなそうなんだよなー」と首を傾げている。「(この店出たら、ラーメンでも食え!)」とも思ったが、せっかくの誕生日祝いだからあまり無粋なことは言わずに「2人前食やぁいいじゃんか」と涼しい顔で提案した。あんまりそういうノリの店ではないことは承知の上だが、先日朝一で杉本寺にお参りした後、朝飯に入った「すき家」で大盛り牛丼とまぐろたたき丼を苦も無く平らげた姿を先日目の当りにしたばかりだったのだ。店員はにこにこ笑いながらすかさず「ステーキはグラム単位で増量できますよ」と助け舟を出してくれ、問題は解決したかに見えたが、高級感溢れるこの店の値段は10gあたり300円という・・・「うーむ。。。100g増量したら3000円か・・・」私がつぶやくと「やっぱ、2人前にしよう!」と彼は断を下した。

  

ステーキランチは最初に和風サラダ、温野菜、メインの肉、御飯と味噌汁、香の物、デザートとシンプルな構成だが、いきなりサラダがふた皿出てきた・・・鉄板焼シェフは具材を大皿で4人分用意し、400グラム近くあるステーキ肉をじゅうじゅう焼きだした。皿は我々よりも大きな皿ですべて倍の量が盛り付けられた(当たり前か!)。御飯と味噌汁はお替り自由なのだが、最初から我々のお椀の4倍近くある巨大丼に御飯が山盛りになって登場した。(これ、絶対普段は御飯用ではない)味噌汁はそういうわけにもいかなかったのか、二椀サーブされたのだ。鉄板焼野菜は大き目のナスにエリンギ、ピーマンにもやしが軽い塩・こしょうでよい加減に炒められて一緒に盛られるのだが、甘辛のはもやしだけ別の皿で鬼のように盛られて出てきた。まるで一袋はあるかというすごい量だ。

    

「お代わりは自由ですので、おっしゃって下さいね」店員はにこにこ声をかけてきた。つられて私だけでなく妻までも御飯と味噌汁をお替りしてしまった。ステーキ肉はあっという間に平らげ我々の4倍以上もあろう丼と涼しい顔で戦っている甘辛に「お替りは大丈夫ですか?」と店員が聞いてきた。「おい甘辛よ。だいぶ挑戦的だぞ。大丈夫か?」最後に残った巨大もやし炒めにはさすがに苦戦気味だった彼はやがて店員を呼び「すいません。小さいお椀でお替りいただけますか?」ははは。。。どういうわけか、何とも頼もしく思われた。初めてシーフードランチを注文した私のホタテ焼きを試し食いし、妻のハンバーグにも手を出して出された2人分のランチを全部平らげた。予約時には言い忘れていたのだが、我々の会話の中に「誕生日」という言葉が入っていたのを聞き逃さなかった店員が「さきほどちょっと耳にしたので・・・」とデザート時に写真を撮りにきてくれた。(こういうホスピタリティが素晴らしい店だ)

  

17歳と言えば「ど真ん中」であろう。少し遅かったが息子も急成長期がやってきて、日増しに声も低くなってくるのがわかる。ついこの前私の身長を抜いたようだが、朝などはぬぼーっとして特に背が高く見上げるようである。中学の時は先に成長モードに入った友達に次々に背を抜かれ悔しい思いをしていただろうが、もはや逆襲の時は来たようだ。母親が男の子にかける思いというのは特別なものなのか、いつも何かにつけて気をもみ、口出ししている。甘辛はそれを「うざい」とは言わず、かと言ってベタベタ甘えているわけでもないのでまあ「冬彦」さんのようにはならないだろう。最近は家族で出掛けることも少なくなってきた。先日Fヨコでリスナーから「仕事が忙しくて帰りも遅いので子供の相手ができず、なついてくれない」というよく聞く悩み相談に「子供が親と遊びたがる時期なんてあっという間に終わってしまうので、無理しても相手をしてあげて・・・」などとキャスターが言っていたが、なるほどなと思う。

私はそんなことを意識していなかったが、多分に職場環境に恵まれたこともあり、結果としてラッキーだったことに息子甘辛が幼い時から「これ以上は無理」というくらい一緒に過ごしてきたから、そういうことを後で悔いることはないだろう。今では盆と正月のウルトライベントに行くくらいのものかもしれないが、それはそれで自然な話だ。最近ずーっと膝が痛いというので、スポーツ外来させるとともに久しぶりにスピリチュアルヒーリングの先生にも見てもらったら色々と身体に歪みが出ているらしく、「うぎーっ」とか「ぎょえーっ」とか畳を叩いて痛がっていた。帰りに先生は「甘辛君、一皮むけたわねえ。」としみじみ仰っていた。これまで不思議な「気」のチカラで我が家に恩恵をもたらしてきた先生の太鼓判があれば安心だが、ゲーセンで意味不明の「庭園」をGETしてくるようでは、まだまだ先は長い。私はどちらかというと「見守る」というよりは「眺める」に近いかもしれないが、むろん彼の応援団である。(スポンサーか?!)
17歳に栄光あれ!

  

解散&送別会

2014-07-07 06:16:14 | 職場
バタバタしていて1週間のタイムラグとなってしまったが、無事に新天地に着任した。これはその約10日前に行われた解散&送別会の話である。そう、私が台場のオフィスをわずか1年で異動となったのは、別に余人曰く「何かしでかしちゃった?」というものではなく、この会社の大好きな「大規模な組織見直し」に関係することだったのである。(実は自分の気付いていない悪行もあるかも)
特に(当時)の我が職場は他企業の部門と合併し新たな企業を形成するややこしい移行形態で、歴史ある●●部としては一旦その幕を閉じることになり私は「最後の将軍」になってしまったのだ。考えてみるとこれまでの会社員ライフで所属組織が終焉を迎えるケースは結構多かった。でも同じくらい新たに産声を上げた組織に浸かったことも多く、安定した部署の方が少なかった。。。これは私の境遇がどうのというよりは、この会社がそれだけ組織変革好きという結果だろうと思われる。

そして先月末の大パーティはお台場のとある店を借りきって、前半はセンター組織の解散会、後半は異動する者の送別会ということになった。色々な所属から仕事に来ている人がたくさんいる多民族国家のような我がセクションだが、今回は社員限定で、昔この職場で働いて異動して行った人達も招待された。
「最初に乾杯して、しばらく歓談した後に磯辺さん、何かしゃべってください。異動される人の挨拶は最後にまとめて頂きます。最後の締めの挨拶などを好まない(思い切りスパークできないから)私には歓迎すべき段取りだ。

「皆さんこんばんは。最後の●●○となった磯辺です。今月末をもちまして歴史ある当セクションも一旦幕を閉じることとなりました。皆さんの中には創業期からおられる人も一旦離れて舞い戻った人もいるでしょうから、一抹の寂しさを感じる人もいるかもしれませんね。私は1年しかいなかったから正直あまり感慨はないのですが、今日はこの後、歴史を綴ったVTRもあるようですから、そちらでしんみり、うるうるきてください。ただ組織の枠組みは変わっても「仕事」は脈々と終わりなく流れつづけます。組織が大きく変革する時というのは、一人一人がこれまで何となく感じていた疑問を形にしたり、胸中に温めていたアイディアを開花させる大きなチャンスです。つまりは自分が成長する外部から与えられる数少ない機会でもあります。この時、最も大事なのは「ドサクサに紛れて」「悪ノリ」することです。悪いことはダメですが、普段なら遠慮したり尻ごみしてしまうこともこの際だから出し惜しみせずに発動してみてください。きっと今までにできなかった道も見えてくると思います。ここまで前半ね」

「次は異動の挨拶ね。さて、個人的な話ですが、この機会に私もこの職場を離れることになりました。昨年度の後半、しばらくして自分は何となくそのまま皆さんと一緒には移行しないだろうと予感がしたんです。だから私が提案する新たな取り組みとか検討アイディアなどは全て今月末をもって無効とする期間限定のものと思っていました。正直自然相手の仕事環境としては散々だったといえる昨年度でしたが、お陰さまでほぼ目標を達成できたのは皆さんのがんばりとリーダ達のベタな力技に追うところばかり、いつまで続くか分からない策戦よりも「いつまでに限り」という期間限定の方が人間ってパフォーマンスを発揮するんですね。今回はまさしく外部要因としての「期間限定」ですが、これから「自ら期間を限定する」というのも一つの工夫だなと思いました。そしてそのお陰で皆さんとたくさんの結果を出すことができ、わずか1年でも高密度な時間を過ごせたことを感謝しています。新体制では間違いなく皆さんが中心です。このどさくさに紛れて皆さんが様々な分野で悪ノリすることでこれまで以上に生きいきと活躍されることを祈念しています」

やがて昨年1年間を中心にセンター発足からの歴史を辿るVTRが大画面で放映された。私は1年しかいなかったから、それより過去のことはよくわからないが、登場する人物は昔同僚だった人も多く「おおーっ、こんなところで活躍してたのか?!」と懐かしくも感じた。(それにしても意外に狭い世界だな)
いわゆるCRMとされる分野で、我がセクションは農業のように天候の善し悪しに大きく左右されてしまう。そういう意味でも昨年は散々と言ってよい1年だったようだ。

「オレが連れてきたわけではない!」と主張したが、群馬を筆頭に例年をはるかに超える落雷数に大雨洪水、めったに見たことのない竜巻も多数あった。全国各地の荒天続きで施設群のメンテナンス関連業は商売繁盛どころか疲弊し続けた。いつもなら落ち着き始める秋口でも一向に異常気象は収まらず、おまけに2月に私が羽田で野宿を余儀なくされた首都圏未曾有の「大雪」である。なにしろ先に紹介した「ゆりかもめ」は自然災害に滅法弱く、すぐに止まってしまうのである。マンパワーによる運営を主体とする我がセクションは人が集まらなくて連日、苦戦を強いられたこともある。VTRで記録を見ると改めて「いやー、オレのせいじゃない(くどい?!)けど、散々だったなー」と苦笑いせずにはいられない・・・

しかし私の経験では「目の覚めるような」結果や画期的な改善が発揮されるのはこうした「目の回るくらい忙しい」時である。忙中閑ありというのとは少しく違う。人間、追い込まれると苦し紛れによい知恵が浮かんだり、脳が活性化されていつもより冴えたりする現象だと思うのだ。「ホントはそんな暇ない?!」のかもしれないが、私の祭り好きも加わって社内外のコンクール、競技会は応援壮行会や打上げも含めて素晴らしく盛り上がり、社外では東京都や全国大会出場、社内では優勝、準優勝のワンツーフィニッシュとこれ以上ない成果をもたらした。また本業での事業貢献も改善も素晴らしく数々の「●●賞」を受賞した。いずれも比較的余裕のある時には達成できなかった快挙である。

VTRが流れ出して数分・・・「正直、あまり感慨深くはない」と言っておきながら、早くもうるうるきていた。最後にスタッフ一人一人の顔写真コレクションがばばばーっと画面に現れ「最後の締めシーン」も流れた。この職場の中締めはいつもセンター長であるヒロくんの「万歳三唱」である。「今時なんやねん?!」と思うベタな締めだが、一つだけもはや誰もが知っている「ヒネリ」がある。彼によると明治時代にそのルーツを持つ「万歳三唱」の正式なポーズは手のひらを正面に向けるいつもの万歳ではないというのだ。「手のひらを前に向けて上げると『お手上げ』という意味になってしまいます。手のひらを内側に向けて上げるのが『正式な万歳』であります。では、せーのぉ・・・」
玉川カルテットの「金もいらなきゃぁ、女もいらぬぅ、・・・」ばりのワンパターンだが、ここまでお約束化すると黙っていても期待されるからすごい。

「(なるほど、いいタイトルだったなー)」としんみりしていると、最後にモノクロでエンディングロールのように淡々と流れたものがあった。それはある人が去り際に放った言葉であった。
「優しさを失わないでくれ。弱い者をいたわり、互いに助け合い・・・・」
流れているのはBGMだけでしーんとしている中で私は思わずつぶやいた。「なんだ、こりゃ、エースの言葉じゃないか」こんなところでお目にかかるとは思わなかったが、何気なくつぶやいた瞬間にしんとしていた会場がどよめいた。。。「おー、すげえ・・・」「さすが~」「あれだけで・・・?!」製作者以外に瞬時にあれが何か分かったのは、傍らに息子甘辛がいなければ私しかいないだろう。しばらくして最後のテロップ一行が画面に現れた。(ウルトラマンA 第52話「明日のエースは君だ!」より)・・・エースのアップが登場したと思ったら、それがあろうことか「ウルトラよそ行きネクタイ」をした私の胸像にチェンジした・・・

なるほど、そういう演出だったのか・・・?!素直にすごく嬉しかったが、私をつかまえて「明日のエースは」とかけられても・・・濃い時間を共に過ごしたとは言え、やはりわずか1年で皆とは付き合いの浅い私にすごく気を使ってくれたようで、この上なくありがたいのだが、この上なく照れくさくもあり昨今したこともない苦笑をもたらした。ちなみに家に帰ってそのことを甘辛に話そうとしたら「優しさを・・・」と言いかけただけで「エースだろ?」と0.1秒で返ってきた。(さすが)
最後に育児休暇から復帰間も無い「しのっち」から花束と職場を共にするのは2回目となる「もみさん」から記念品を頂いた。何と気の利いたことに家庭用ビールサーバという優秀な利器だった。「期間限定だからね」と東1局からドラを鳴きまくるように荒らし放題「場」を荒らしてしまった私に何とも暖かい思い出となった。(私は本当にどこに行っても同僚に恵まれている)
皆さん、短い間でしたがお世話になりました。お互い新天地で頑張りしょうねえ。

  

おまけ 
私はお店や食べ物の注文をつけることはないが、先の札幌・仙台訪問は「これが最後」と思って、いくつかリクエストした。北海道・宮城のグルメを紹介しよう。有名な店ばかりでヒネリがないが・・・

札幌「福よし」(美唄地鶏の店)・・・ピンボケで使い物にならん写真ばかりなのでラーメン二つ追加

          

仙台「利久」(東京にもある牛タン店)

          

さらばゆりかもめ

2014-07-05 10:21:32 | 職場
その昔、新交通「ゆりかもめ」は東京ビッグサイトで開催されるイベントに参加する際の「足」だった。台場がウォーターフロントと言われて久しく、お洒落なデートスポットのイメージから家族で1日遊べるような一大観光地になってきたのがここ数年くらいか。どちらかというと「みなとみらい派」で台場エリアなどには興味の無かった我々もレインボーブリッジやフジテレビに加え、アクアシティ、DEX東京ビーチなど名所が次々に登場するにあたり、「一度は行ってみようか」という気になったものだ。ビッグサイトのイベントに行きがてら「ゆりかもめ」の車窓からレポートしたのもその頃だ。

まさか通勤に使うとは予想もしなかったが、いざ毎日往復するようになると「ゆりかもめ」など遅いだけで快適な乗り物とはほど遠かった。小型車両で網棚がないから混み合った時は人の持つ荷物が邪魔だし、中途半端にUVカット?の窓になっていて遮蔽度が少ないから夏場の日当たり席は無茶苦茶に暑い。。。先日、仕事上ですごくお世話になった他部署のクラさん(以前でいうスティーブのような存在)は実にうまいことを言った。セッシーの先輩らしいクラさんは、久々に台場にやってきたときに後輩をいじり倒していた。「ゆりかもめって『セッシー』の仕事っぷりみたいなもんだよな。『あっち行ったりこっち行ったりでスピードがのろい』ってえことで・・・」当人のセッシーは大笑いしていたが、私はすかさず「そうそう、でもね、意外に時間ってかからないんですよ・・・」う-ん。あんまりフォローになってないか?!

今回の異動でもはや台場に来ることもそうそうはあるまい。数年前に比べて多少は新しい名物も増えたから思い出作りにいつもの通り「窓から写真」を撮るため最前列の無人席に陣取ってIXYを首に下げた。新橋駅から出発すると日テレタワー他洗練されたデザインの巨大な高層ビルが立ち並ぶ。竹芝から芝浦埠頭までは単なる倉庫街だ。クルーズ船シンフォニーや浅草からの水上バスとして宇宙船をデザインした「卑弥呼」も見える。実は走行中の窓からは、レインボーブリッジの見事な姿を拝めるのは意外に一瞬しかない。建物が邪魔になったり、進行方向から反対側になってしまったりするからだ。また河津七滝ループ橋のようなコースの途中からは銀河鉄道999の耐エネルギー無限電磁バリアのような防護柵に囲まれ、ちょっと無粋な風景になってしまう。

    

レインボーブリッジを渡ると台場エリアとなる。台場駅を発車して一瞬だけ「ここは絵になるよねえ」という風景が現れる。台場の公園とミニ女神像後ろに橋の雄姿である。ゆりかもめは台場を出ると90度左に折れ、ちょうど今建設中の「お台場合衆国」なる大きなイベントなどが行われる広場を左に見る。その向こうにはダイバーシティ東京プラザがあり、有名な「等身大ガンダム」が守護神として仁王立ちしている。プラザ7Fにはガンダムフロント東京という施設があり有料だが様々な体感・体験ができるようだ。ガンダムの中心にいるコア・ファイターや宇宙機動要塞ア・バオア・クーなどの模型も展示されている。常設のミニウルフェスのようなものだろうが、ガンダムは守備範囲外なので無料のグッズショップしか入らなかった。ただ私は強烈な「ウルトラ戦士アロハ」を着ていたので猛烈なアウェイ感が漂っていた。

      

しばらくすると元職場の最寄駅に到着する。私の座席はフロアでは奥まったところにあって、完全な窓際族(今では死語となった?)であるため景色だけは素晴らしい。20数年勤務してきてこれほど景色のよいオフィスで仕事したことは一度もない。群馬の時なんて前は壁だし、同僚と変身ポーズしている写真が貼ってあるだけだったから。また隣接する通常フロアからは富士山や東京スカイツリーなども見られる。また下の階の大部屋フロアの反対側からは未だ通ったことのない「ゲートブリッジ」というのが少し遠いが眺められる。夜は白くライトアップされ、中々綺麗な光景だ。普段勤務しているとこういった光景は何の感慨もないが、いざ去ろうという時には何となくもったいなような気がし、せめて超兵器203号で写真集でも作っておけばよかったと思う。1階から5階?まで吹き抜けの巨大なエントランスホール部分はその珍しい構造からか、色々な目的で使用される。ピアノとハープのミニコンサート場になったり、CMの撮影スタジオになったこともある。空港を模したロケ場所となったのも何回か見た。「21:55 JAL JL5055 PARIS ・・・・」などというフライトインフォメーションボードなども設けられ(我々のオフィスに行くエレベーターの入り口)、案内板や観葉植物などとともに、エキストラたちはそれこそ空港内を行き交う人々としていかにもな雰囲気を醸し出していた。

           

さて帰りもまたゆりかもめで(当たり前か!)別の角度から思い出写真を撮り集めることにした。すぐに子供の頃、一度だけ連れてきてもらった「船の科学館」が見えてくる。ずいぶん前に潰れてしまったと思っていたら、本館の展示を(無期限だが)休止しているだけで、南極観測船宗谷や屋外の一部展示物は公開されているらしい。6万トン級の豪華客船をイメージした船の形をした建物は子供の目からは一度は訪れてみたい場所だった。10メートル以上ある巨大な戦艦大和の模型が度迫力だったのと、自衛隊の飛行艇が印象的だった。かつては少年の心を躍らせた科学館も老朽化が進み休館後は駐車場もいつも空っぽ、反対側のお台場イベントエリアがいつも人で混みあっているのとは対照的で一抹の寂寥感を覚えた。

  

船の科学館のすぐ隣は「潮風公園」という緑の多いエリアがある。何から何まで人工的な香りのするお台場エリアで自然な緑が見られるところだ。3月の頭にこの公園で「グルメマラソン」というのに参加した。2kmの細長いコースを5周するさして面白いマラソンではなかったのだが、「グルメ」というだけあって参加賞として会場にたくさん出店した全国B級グルメの試食ができるという趣向があった。最初私はそのタイトルから「走っている間」に露店で出しているグルメメニューをまるで給水のように提供してもらえるものだと勝手に思っていた。考えてみれば甘食ならともかく、走りながらシロコロホルモンなど食べられるはずがない・・・

    

デックス東京ビーチはタコ焼きミュージアムにお台場一丁目商店街、マダムタッソー東京(と見て「東京タワー蝋人形館」を思い出すのは私だけ?!」など興味深いところが多いが、有料施設はかなりお高く、商店街なども正直それほど大したことはない・・・以前書いたようにアイドル全盛時代を過ごした私にとって「聖子ちゃん」や「明菜ちゃん」の大きなポスターが目についたくらいだ。建物の向こうにはいかにも人工だが大きな砂浜のビーチがある。さすがに波は作れないのでサーフィンは無理だが、ウインドサーフィンの新名所として有名なようだ。あのビーチに寝っ転がって日焼けするのはちょっと違和感があるが。。。甘辛たちは何と部活で向こう側の橋を走って渡り、砂浜で練習をしたことがあるそうだ。これまたずいぶん違和感が強く、カップルたちに囲まれてさぞ浮き上がったことだろう。

  

さてレインボーブリッジを再び渡り、一旦JR線と並行して汐留を過ぎると日テレタワーの真横を通り過ぎる。写真が少しボケてしまったが、ビルの合間にあるちょっとした広場こそnews everyのエンディング近くでスタジオの陣内貴美子さんからの「木原さ~ん」という呼びかけに「そらじろう」と木原さんが後ろの一般人とともにの天気予報する広場なのだ。一度だけそのまさにその撮影時間に真横を通過したことがある。車内にいた女性二人が「ねえ、あれってニュースでやってる撮影じゃない?」と言うのを聞いて振り向いたら、まさしく大きなライトとたくさんの人だかりが見えた。慌ててスマホを取りだしたが、カメラ起動するまでに通り過ぎてしまった。。。。

      

終着の新橋までは歩いて行けるような距離だ。スピードは出ないし、遊園地の二人乗りコースターのようにがくんがくん直角に曲がったりする。それでも東京ビッグサイトまでの所要時間は20分ちょっと・・・やはりそれほど時間はかかっていない。観光で乗ってきた外国客は皆、喜んで写真を撮っている。以前勤務していた東京西部の研究所から御一行でやってきた先輩たちも懇親会の後、スタッフがコンビニでビールとつまみを買い込み、一番後ろの車両を陣取って夜景撮影会をしていた。(止めてくれえ・・・)むろん他人のフリをして白い目で見ていた。
強風が吹いたり車両故障などがあると全線がストップしてしまうし、自動運転だからトラブルを検出して停止すると確認やら点検やらでやたらに時間がかかり、まず1時間は運転再開しない。ゆりかもめは遊びに来て乗るもので、通勤に使うのはちょっとねー、という感じだったが、もう乗ることは稀と思うと、その「使えなさ」(セッシーじゃないよ)に愛着すら感じるのである。

3空港から

2014-07-01 06:01:44 | 旅行お出かけ
何となく予感はしていたのだが、7月に勤務先の企業グループが大きな組織編制の見直しを行い、それにつられた形で私もわずか1年でオフィス自体は殺風景だが窓からの景色だけはよい(つまり窓際族)台場ロケを去ることになった。1年で転勤というのはこれまでの会社員ライフでも初めてのことで、まるで引退間近のプロ野球選手が毎年チームを変わるような気分だ。自然、この職場機能の連動性の高い札幌・仙台オフィスへの足を運ぶことはなくなる。デスクに「でんっ」と座って、七曲署のボスのようにてきぱき指示を出すスタイルの苦手な(お出掛け好きの)私はなるべく現場を訪れるようにしていた。交通機関の発達した今は札幌や仙台といえども、打合せのために宿泊する旅行気分の御大臣は今時いない。。。朝早い便で飛び、夕方の便で「とんぼ帰り」するのである。東京朝6時や仙台22時の新幹線も乗ったし、羽田6時半、新千歳9時半のフライトにも搭乗した。先日、「スケジュール的にはこれが最後になるだろう」と久しぶりに札幌仙台を泊付で出張した。色々と打合せや確認したい事柄が多かったが、自分としては最後の「挨拶」のつもりでもあった。

今回は朝の全体ミーティングでぜひいくつか「お話し申し上げたい」ことがあり、前泊という形を取ったから出発便は夕方であった。職場でいくつか仕事を片付けてから羽田に向かうが、色々ルートがある中で今回はすごい久しぶりにモノレールを使用することにした。次の機会はいつになるか分からぬので、例のごとくIXYを首から下げて一目も顧みず風景を写真に収めた。浜松町駅を出るとモノレールは一旦JRと並行に進み、運河に沿って進む。ゆりかもめでは正面に見えるレインボーブリッジも少し彼方に見える。どこかで見た場所だと思ったら、研究所勤務時代にこれまで唯一職場同僚の家族連れで何回かBBQを行った、大井ふ頭「ハゼつきの浜」である。甘辛がやんちゃな盛りだったが、一つ随分感心したのは落ちていた糸と針、その辺にあった小枝を竿とウキにして有り合わせのエサをなにやらごそごそ仕掛け、本当にハゼを釣り上げたことだ。決まった道具に頼る我々大人とは違い、「子供ってすげえな」と思ったものだ。

      

しばらくすると海上保安庁のドックが見えてきたが、鈍行で行ったので空港までは20分くらいかかった。私は真っ直ぐに検査場を通過して、とある航空会社のラウンジに向かった。先日もらった「たくさん乗る人」用のプレミアムカードを使うチャンスだと思ったからだ。前に入った時は時間がなくてほとんど中を一周しただけで終わってしまったから、今回はゆっくりくつろぐ最初で最後のチャンスかもしれない。しかし向こう側の見えない重厚でゴージャスなゲートはいつも「庶民は近づくな」オーラを醸し出している。本当はそんなところ使う機会も必要もないのだが(負け惜しみ感あり)、今回はタダ酒と展望を思う存分楽しむつもりでいたから、怖じ気心を奮い立たせ向こう側に座っているであろう澄ました顔の受付になんと言って初心者とバレずに通過するか考えながらドアを開けた。

    

豪華なドアーが低い音で「うぃーん」と開くと、想像していた受付ではなくエスカレーターが並んでいた。何とラウンジとその受付は2階にあったのである。「電子クーポンを使用したいんですが」とカードとたぶん必要であろうeチケットを差し出すと、何かカタカタ端末を叩いて「あちらでございます」と親指を折った「ご案内ハンド」で通路を示された。実は受付の真後ろにもう一つ入口があり、エスカレーターの下から係がバッグを預かって案内されている人を見た。たぶんさらにハイグレードなVIP又はファーストラウンジなる「おもてなし」なのだろう。薄暗い通路を進むと広々とした滑走路の真向かいにあるラウンジに着いた。ここまでに何人かの従業員とすれ違ったが、必ず彼らは壁ギリギリに直立静止し「きりっ」と頭を下げるのである。思わずこちらも会釈してしまう・・・滑走路正面のカウンターと豪華な椅子で飛行機を眺めてもよし、ついたてで隣りと分離されネット接続で仕事してもよし、丸テーブルを囲んで静かに談笑してもよし・・・

      

私は飲食コーナーを探したが、驚いたことにサンドイッチやら点心やら食い物類が何一つなく、小さな煎餅片とピーナツだけだった。数度だけ経験した国際線ラウンジとは違いえらいシンプルなサービスだ。しかしビールサーバがあって銘柄は3種類、しかもグラスをわざわざ冷やしているのは素晴らしい。もう夕方に差し掛かっており若干早かったが失礼して私は飛行機を見ながら優雅に生ビールを流し込んだ。正面は着陸用滑走路だったようだが、それでも色々な種類の航空機が行き来するのを見ているだけでも退屈しなかった。ゲートにある飛行機の回りで作業する地上員、コックピットでの操縦士の動作などももの珍しいのである。私はIXYを取り出し、着陸や移動する航空機や地上作業などをパチパチ撮りだした。その中に以前から機内で「これ、いいよなー」と思っていたのがある。

      

ある朝、福岡に向かう便に乗っていた時、ゲートを出るまでえらい待たされた上に、長崎行の搭乗機が欠航になってしまったので搭乗客を福岡便に分乗させるという。そのための待ち時間が約1時間、誰もが「そんな救済策って意味あるのか?!」と思っていた(たぶん)。外は冷たい雨が降っていて乗客は声には出さないが皆憮然としていた。長崎行乗客がぞくぞくと乗り込み、私の隣にも座ったが彼らが悪いわけでもなし、でもこの飛行機とは関係ないのに遅れるのは困るし・・・何とも言えないやり場のないイライラ感に苛まれていた。ようやく飛行機が動きだし、向きを変えて滑走路に向かい始めると赤い線上に土砂降りの中整備士と思われる人が手を振っているのが見えたのだ。3人は飛行機に向かって手を振り終わると深々と頭を下げた。私は(たぶん向こうからは見えないが)思わず頭を下げた。実はそれ以来、ゲートを離れる時には必ず窓から、かの人たちがいないか探すようになったが、向きにもよるが大抵やってくれている。私はどうにも手を振り返すことはできなかったが、いつも少しだけ頭を下げていた。

    

どうにかしてこのシーンを画像に収めたいと思ったのだが、残念ながら滑走路までの移動期間は「全ての電子機器」が使えないのだ。ちょうどその時ラウンジ正面のゲートに駐機していた飛行機が動き出した。もしかしていけるかも・・・。機が滑走路に向かうルートに乗った時、前輪を牽引する車両に乗った整備士が下りてきて車輪から牽引器を外した。そして後ろから走り寄ってきた同僚と二人で並び、手を振り始めたのだ。おーっ、ついにあのシーンをとらえることができたー。やっぱ、あれっていいよなー。この空港もしばらく来ぬだろうから、最後によい場面を写真に収めることができた。3杯目のロイヤルを干した時に搭乗アナウンスが流れ、最初で最後になるかもしれないラウンジを後にしたのだった。

到着した千歳空港は雨、夕刻は懇親会場に向かうだけだったので、エアポート千歳に乗り込んだ。翌日は朝早くから合同ミーティングやら打合せなどをばばばーっと済ませ、慌ただしく再び新千歳空港に向かった。朝はホテルのブッフェでがっつり食ってきたからさすがに札幌ラーメンを食う気にもならずその時間も無かったのでROYCEの生チョコなる人気製品を買い込み、普段は歩いたこともないエリアをさーっと見納めた。実はここは空港とは思えないようなアトラクションが満載だ。飛行機の博物館やドラえもんのミニテーマパーク、ロイズチョコの工場、カルビーのショールーム横にシアターまであるし、なんとスーパー銭湯まであるのだ!食べ物は私の制覇したお馴染み「札幌ラーメン道場」をはじめ、回転寿司で有名な根室花まる、スープカレーなど北海道の有名どころが凝縮している。さらに女性に嬉しい「スイーツロード」なる甘味店街などもある、1日いても飽きないエリアである。観光ツアーのルートがないのが不思議なくらいである。(XY電池切れのため写真がないのが残念だ)

  

そして(むろん)ジェットの小型機で仙台空港へ向かった。梅雨時で低気圧の中を飛んだのか、飛行機はやたらに揺れた(それでもプロペラよりはましだった)。着陸すると外は雨・・・大震災の時に滑走路を飛行機やヘリが流されてくるという信じられない光景に愕然としたこの空港も立派に機能している。震災の後、復旧の色々なお手伝いをしたのは名取周辺だったのでこの空港近辺にもやってきたことがあるが、見渡す限り何もなかった・・・あれから3年、空港は完全に戻り、全線開通までに確か半年以上かかった仙台空港アクセス線も2両編成でがんばっている。だが空港周辺は・・・元々田畑だったのかもしれないが、大震災直後とそうは変わらないようで復興もまだまだという印象を受けた。

        

羽田、新千歳、仙台、それぞれの思い溢れる空港だが、しばらく足を運ぶことはあるまい・・・
やたら時間の余裕を要求すすり、保安検査場では何かにつけて引っ掛るし、出発便は年中遅れる上に何回乗っても慣れないあの緊張・・・飛行機というはどうも好きになれないが、疎遠になればそれはそれで懐かしく思うものだろう。