夏の甲子園出場校がどんどん決まっている。9回裏に8点差をひっくり返しサヨナラ勝ちしたゴジラ松井の青陵高校はすごかった。高校野球は負けると終わってしまうから、「あきらめる」ことはありえないと思うが、それにしてもすごいドラマがあるものだ。その約1ヵ月前、県の予選大会が始まっており、我が家のすぐ近くにある球場が3回戦くらいまでは試合会場になっているから平日でも臨時駐車場も含め周辺の道路が混雑する。ただでさえ夏場は周辺の道路が観光客で混むのに地元民で混むとは困ったものだといつも思っていた。
部活でいう正規の「現役」は3年生の最後の大会に負けると「引退」することになる。その先の「学生」の身分であっても(体育会でなくても)ヤマトの波動砲発射時のようにすべてのエネルギーをつぎ込んで何かをプレーしているうちは私の定義では「現役」だった。サッカーが主体だったが、バブル期全盛の「何でも手を出した時代」だから、野球やテニス、スキーやゴルフ(はちょっと違うかなー)などそれなりに練習し、ガチで取り組んでいるものは自分にとって現役だ。今となってはかなり「ひとりよがり」だと苦笑いだが、私は「現役であるうちは人の応援などしないものだ」と思っていた。
子供の頃は(実在の)「ヒーロー」がいて、憧れの的として応援していた。プロ野球なら長嶋、大相撲なら「旭國」、サッカーならベッケンバウアー、スキーならステンマルク、テニスならボルグ、女子バレーなら白井、ジャンプなら笠谷・・・いずれもチームとして勝利することというよりは、個人に憧れ個人の芸術とも言える華麗なプレーを見たくて応援していたものだ。また少年野球をやっていた時は指導者から言われて、所属のBチームや下位チームをスタンドから大声で応援したりもした。しかし中学を卒業するあたりから、大人と同じ仕様でそこそこスポーツらしいことをできるようになると無邪気に人の応援はしなくなるのである。可能性があるうちは「オレも死ぬ気でやればあのくらいはできるさ」というのがどこかにある。息子甘辛が元チームメイトがプロチームの下部組織でプレーするのを見て何とも複雑な顔をしたというその感覚がよくわかる。
共感は多くないかもしれないが私は高校や大学などで「応援団」とか「マネージャー」とか選手を応援し支えることを好んで行う存在がどうもに理解しにくかった。応援団もマネージャーも当時は野球が主流だったが、それほど野球が好きならば「自分でやればよい」と思っていた。不幸にもハンデなどがあって「やりたくてもできない」なら別だが、「できるんなら見て応援などしている暇があったら自分でやればよい」と信じていた。(うーむ。。。若いかも・・・)自分が現役だと(勝手に)定義して動く「競技スポーツ」は自ら身体がおかしくなるほど鍛錬することはあっても、同じことをする人を「応援する」ことはなかった。プロと呼ばれる選手たちがいつの間にか自分と同年代になっていて、「逆立ちしても太刀打ちできない」事実を認めたくなかったのかもしれない。「競技スポーツ」の世界に身を置いていると思って(い込んで)いる間である。
学生時代の後半だったろうか、たまたま同級生だった女子と食事をした時があった。単なる数年前の話しだったが、昔話にずいぶん盛り上がったものだが、ちょうど当時開催されていたオリンピックの話題になった。皆が注目する種目が中心だったが、不思議と彼女は聞いたことくらいしかない馴染みの薄い種目についても熱く語ったのだった。例えば(今はないかもしれないが)「水球」「馬術」「射撃」などおよそ日本ではマイナーな競技を時差の関係で明け方近くまで熱心に見入っていたそうだ。「ふーん、そういうの好きだったっけ?」とニヤニヤしながら聞くと、どんな競技でも国の代表として全力を尽くす姿を見ると感動してしまい、夜中じゅうテレビにくぎ付けになってしまうというのだ。その時は「そういうものか」と感心したものだ。
どこからというポイントがあったわけではないが、いつの頃からか「もはや現役ではない」という自覚が生じ、単なるサポーターとして応援に行くということに違和感を感じなくなっていた。おそらくゆっくり健康に悪くても「勝つため」に無理をする「競技スポーツ」から健康を促進し気持ちよく運動する「生涯スポーツ」に変わってしまったのだろう。世の中には「競技スポーツ」が「生涯スポーツ」のようになっている超人的な人もいるが、やはり年齢を重ねるに従って自然に移り変わっていくのだろう。25歳くらいまでが単純な身体的な能力が生涯で最高点だと聞くが、その年代に身を置いていた我が学府は早慶戦のように野球、ラグビー、サッカーなど色々な競技で「伝統の一戦」で盛り上がれる分野がなく「競技スポーツ」としては限りなくマイナーだったから、卒業してから母校を応援するような機会はなかった。
「応援」の興奮を最初に味わったのは社会人になってからの「都市対抗野球」である。入社して20年以上たっても毎年この時期になると我が社の(どういうわけか幹部が多いが)社員は常に「シンボルチーム」の応援に余念がない。。本大会に出られる時もそうでない時もあるが、会社の業態が何回か変わってから結構「常連」となることができた。かの大会はあくまでも「都市」の代表同士の対抗戦なのだが、企業力を挙げての応援合戦と言ってもよく、プロ野球などよりも組織的かつ大規模な応援団とブラスバンド、チアリーディングなどが活躍する。場内に響き渡る大太鼓に合わせ、時には数万人にもなる同じビブスとグッズを手にした大応援団が応援歌を歌うこの一体感と高揚感は選手一人ひとりなど誰も知らなくても鳥肌もんの興奮を呼び起こす。日頃、自社には大して興味を持たぬ社員がこの時だけは大声で「社歌」を歌い、勝利に熱狂し、愛社精神は普段の数倍に達するだろう。(翌日、すぐに元に戻っちゃうけど)
自分は生涯スポーツ側に身を置き、素直に応援した次の経験は「息子甘辛のサッカー」である。経験者として指導こそしなかったが、幼い頃から一緒に練習もしたしゲームに参加したりもした。小学生の時は主力選手で県トレセンにも選ばれ、チームも県内有数の強豪であり自家用車が移動手段でもあったから、試合のたびに応援に駆け付けていた。1年に150試合くらい消化していたプロ野球並みのスケジュールだったのだ。しかし中学になり「学年別」のチームでなくなると下級生の出番はほとんどなくなる。「セブンティーン」でようやく急速成長モードに入った息子はこれまでは同年代の中で身体が小さく最上級生になるまでベンチを温めることばかりになり、そこでは妙な親心が出てしまうのである。こればかりは自分の力ではどうしようもないので、本人は健気にもレギュラーで活躍する選手のサポートに回っていたのだが、やはり時折見せる寂しそうな表情を見ると自然と可哀そうになり、ピッチから足が遠のいてしまうのである。高校でもサッカーを続け、今はようやく半分Aチームになったようだが、正直自分でやりたいことがたくさんあり、何となく応援からは遠ざかっていたのだ。
冒頭書いたように、約1ヶ月前に県の予選大会が始まり、近所の野球場でも「○○高等学校野球部」と書かれたバスを見かけるようになった時、とある日曜日ふと「そういえば母校はどうなってるんだろか?」と思いついた。野球部でなかったからというわけでもないが、これだけ近くにいるのにこれまで卒業以来ただの一度も母校の応援に行ったことがないのに気が付いた。本県は日本一の激戦区で決勝まで7回くらい勝たねばならない。常連校は予選用と本戦用にメンバを分けたり、エースを温存したりして予選を勝ち抜いていくようだ。1回戦負けしていたらもう見る機会はないかもしれない・・・ネットで調べてみると残念ながら近所の会場ではないようだが、まさしくその日の午後に3回戦が予定されているではないか?!勝てばベスト32、本県では中々立派なものだ。海の日3連休はそんまんま海に浮いているつもりでいたのだが、珍しく思い立って妻と新しくできたがまだブツ切りの圏央道を北上し、県北に向かった。
我が家の近所の球場よりはずいぶん立派なスタジアムだ。おーっ、ちゃんと母校の名前が出ているぞ。1塁側のスタンドに入ってみると応援席には小ぶりながら応援団、ブラスバンド隊とチアリーディング、生徒などが詰めかけ、その横にはPTAと思われる大人たちが同じ色のポロシャツに帽子を揃えて歓声を挙げていた。2回を終わっていたが、結構点差をつけてリードしていた。スタンドの一番上に掲げてあった大応援旗の校名二文字を見てさすがに興奮に打ち震えた。(オレ達の時もあったなー!)応援歌はお約束の「狙い撃ち」(山本リンダなんて知ってんのか?)、「ルパン三世」、「サウスポー」、「仕事人のテーマ」、「笑点」・・・なんだ、我々の時から何の進歩もないじゃないか。。。そもそもどれも知らない世代のはずだろ?!試合は何と次々と得点を重ねてコールド勝ち!監督が「『打を売りにする』のチームにしよう」と言ったら皆その気になって強打のチームに仕上がったそうなのだ。
予選だからないよな・・・と思っていたら、試合終了後は甲子園同様選手はホームベースの前に並び「同校校歌の斉唱」というのがあった。社歌は覚えていたが、数十年ぶりとなる「北原白秋・山田耕作」ゴールデンコンビ作詞作曲の校歌は鳥肌ものだった。家に帰るとスマホに1件のメールがきていた。懐かしさに写真を某サイトに載せておいたらそれを見た知人から聞いたらしいのだ。「・・・今日、タロウ行ってたらしいよ、て言うから。。。声かけてくれれば良かったのに」中学の同級生女子の息子さんが野球部でベンチ入りし1塁コーチをしているらしいのだ。ご本人が卒業生ではないのだが、保護者応援用スタイルでメガホン持っていたらしい。次は昨年の優勝校らしいが秋の大会で負けはしたものの、それなりには健闘し打力をつけてきているから期待もできるようだ。
さすがに試合当日は仕事で観戦はできなかったが、開始時間に「卒業生にも回しておいたから応援頑張って」とメールしておいた。私も午前中、デスクでずーっとネットの試合速報を睨みつけていた。やはり実力差はあったのかビハインドだったのだが、7回に追いついた時は思わず「ちょっと打合せキャンセル!」と叫んでしまった・・・さすがにそういう訳にはいかず、15分遅れで会議に出席したのだが、帰って来て急いでサイトを見ると残念ながらその後得点されて負けてしまっていた。その後しばらくして彼女からメールがやってきた。「・・・・地味な1塁コーチャーの うちの次男だったけど、録画を観てたら、最後の最後 負けて泣いているレギュラーの後輩の肩を抱いて 自分も泣きながら励ましている次男が映ってた。この子は こうやって自分は試合に出られなくても後輩のフォローに回って3年間の高校野球をやって来たんだと、初めて私が気付き、また涙流しちゃいました」
うーむ。。。見ていて私は「じーん」ときた、親が子を応援するとはこういうことか。。。人を応援するとはその人に応援パワーを授けるだけでなくむしろもらうものの方が多いんだな。息子のサッカーの場合は自分の経験もあって、「試合に出られない」姿を見たくないあまり遠ざかってしまったが、こういう見方ができる彼女には親としては脱帽する思いだった。珍しく海とは関係なく、都市対抗に母校の県予選と応援に明けくれた海の日3連休だったが、夏休みは今年2年生になる息子の夏の大会を応援できるように予定を組み替えたのである。
部活でいう正規の「現役」は3年生の最後の大会に負けると「引退」することになる。その先の「学生」の身分であっても(体育会でなくても)ヤマトの波動砲発射時のようにすべてのエネルギーをつぎ込んで何かをプレーしているうちは私の定義では「現役」だった。サッカーが主体だったが、バブル期全盛の「何でも手を出した時代」だから、野球やテニス、スキーやゴルフ(はちょっと違うかなー)などそれなりに練習し、ガチで取り組んでいるものは自分にとって現役だ。今となってはかなり「ひとりよがり」だと苦笑いだが、私は「現役であるうちは人の応援などしないものだ」と思っていた。
子供の頃は(実在の)「ヒーロー」がいて、憧れの的として応援していた。プロ野球なら長嶋、大相撲なら「旭國」、サッカーならベッケンバウアー、スキーならステンマルク、テニスならボルグ、女子バレーなら白井、ジャンプなら笠谷・・・いずれもチームとして勝利することというよりは、個人に憧れ個人の芸術とも言える華麗なプレーを見たくて応援していたものだ。また少年野球をやっていた時は指導者から言われて、所属のBチームや下位チームをスタンドから大声で応援したりもした。しかし中学を卒業するあたりから、大人と同じ仕様でそこそこスポーツらしいことをできるようになると無邪気に人の応援はしなくなるのである。可能性があるうちは「オレも死ぬ気でやればあのくらいはできるさ」というのがどこかにある。息子甘辛が元チームメイトがプロチームの下部組織でプレーするのを見て何とも複雑な顔をしたというその感覚がよくわかる。
共感は多くないかもしれないが私は高校や大学などで「応援団」とか「マネージャー」とか選手を応援し支えることを好んで行う存在がどうもに理解しにくかった。応援団もマネージャーも当時は野球が主流だったが、それほど野球が好きならば「自分でやればよい」と思っていた。不幸にもハンデなどがあって「やりたくてもできない」なら別だが、「できるんなら見て応援などしている暇があったら自分でやればよい」と信じていた。(うーむ。。。若いかも・・・)自分が現役だと(勝手に)定義して動く「競技スポーツ」は自ら身体がおかしくなるほど鍛錬することはあっても、同じことをする人を「応援する」ことはなかった。プロと呼ばれる選手たちがいつの間にか自分と同年代になっていて、「逆立ちしても太刀打ちできない」事実を認めたくなかったのかもしれない。「競技スポーツ」の世界に身を置いていると思って(い込んで)いる間である。
学生時代の後半だったろうか、たまたま同級生だった女子と食事をした時があった。単なる数年前の話しだったが、昔話にずいぶん盛り上がったものだが、ちょうど当時開催されていたオリンピックの話題になった。皆が注目する種目が中心だったが、不思議と彼女は聞いたことくらいしかない馴染みの薄い種目についても熱く語ったのだった。例えば(今はないかもしれないが)「水球」「馬術」「射撃」などおよそ日本ではマイナーな競技を時差の関係で明け方近くまで熱心に見入っていたそうだ。「ふーん、そういうの好きだったっけ?」とニヤニヤしながら聞くと、どんな競技でも国の代表として全力を尽くす姿を見ると感動してしまい、夜中じゅうテレビにくぎ付けになってしまうというのだ。その時は「そういうものか」と感心したものだ。
どこからというポイントがあったわけではないが、いつの頃からか「もはや現役ではない」という自覚が生じ、単なるサポーターとして応援に行くということに違和感を感じなくなっていた。おそらくゆっくり健康に悪くても「勝つため」に無理をする「競技スポーツ」から健康を促進し気持ちよく運動する「生涯スポーツ」に変わってしまったのだろう。世の中には「競技スポーツ」が「生涯スポーツ」のようになっている超人的な人もいるが、やはり年齢を重ねるに従って自然に移り変わっていくのだろう。25歳くらいまでが単純な身体的な能力が生涯で最高点だと聞くが、その年代に身を置いていた我が学府は早慶戦のように野球、ラグビー、サッカーなど色々な競技で「伝統の一戦」で盛り上がれる分野がなく「競技スポーツ」としては限りなくマイナーだったから、卒業してから母校を応援するような機会はなかった。
「応援」の興奮を最初に味わったのは社会人になってからの「都市対抗野球」である。入社して20年以上たっても毎年この時期になると我が社の(どういうわけか幹部が多いが)社員は常に「シンボルチーム」の応援に余念がない。。本大会に出られる時もそうでない時もあるが、会社の業態が何回か変わってから結構「常連」となることができた。かの大会はあくまでも「都市」の代表同士の対抗戦なのだが、企業力を挙げての応援合戦と言ってもよく、プロ野球などよりも組織的かつ大規模な応援団とブラスバンド、チアリーディングなどが活躍する。場内に響き渡る大太鼓に合わせ、時には数万人にもなる同じビブスとグッズを手にした大応援団が応援歌を歌うこの一体感と高揚感は選手一人ひとりなど誰も知らなくても鳥肌もんの興奮を呼び起こす。日頃、自社には大して興味を持たぬ社員がこの時だけは大声で「社歌」を歌い、勝利に熱狂し、愛社精神は普段の数倍に達するだろう。(翌日、すぐに元に戻っちゃうけど)
自分は生涯スポーツ側に身を置き、素直に応援した次の経験は「息子甘辛のサッカー」である。経験者として指導こそしなかったが、幼い頃から一緒に練習もしたしゲームに参加したりもした。小学生の時は主力選手で県トレセンにも選ばれ、チームも県内有数の強豪であり自家用車が移動手段でもあったから、試合のたびに応援に駆け付けていた。1年に150試合くらい消化していたプロ野球並みのスケジュールだったのだ。しかし中学になり「学年別」のチームでなくなると下級生の出番はほとんどなくなる。「セブンティーン」でようやく急速成長モードに入った息子はこれまでは同年代の中で身体が小さく最上級生になるまでベンチを温めることばかりになり、そこでは妙な親心が出てしまうのである。こればかりは自分の力ではどうしようもないので、本人は健気にもレギュラーで活躍する選手のサポートに回っていたのだが、やはり時折見せる寂しそうな表情を見ると自然と可哀そうになり、ピッチから足が遠のいてしまうのである。高校でもサッカーを続け、今はようやく半分Aチームになったようだが、正直自分でやりたいことがたくさんあり、何となく応援からは遠ざかっていたのだ。
冒頭書いたように、約1ヶ月前に県の予選大会が始まり、近所の野球場でも「○○高等学校野球部」と書かれたバスを見かけるようになった時、とある日曜日ふと「そういえば母校はどうなってるんだろか?」と思いついた。野球部でなかったからというわけでもないが、これだけ近くにいるのにこれまで卒業以来ただの一度も母校の応援に行ったことがないのに気が付いた。本県は日本一の激戦区で決勝まで7回くらい勝たねばならない。常連校は予選用と本戦用にメンバを分けたり、エースを温存したりして予選を勝ち抜いていくようだ。1回戦負けしていたらもう見る機会はないかもしれない・・・ネットで調べてみると残念ながら近所の会場ではないようだが、まさしくその日の午後に3回戦が予定されているではないか?!勝てばベスト32、本県では中々立派なものだ。海の日3連休はそんまんま海に浮いているつもりでいたのだが、珍しく思い立って妻と新しくできたがまだブツ切りの圏央道を北上し、県北に向かった。
我が家の近所の球場よりはずいぶん立派なスタジアムだ。おーっ、ちゃんと母校の名前が出ているぞ。1塁側のスタンドに入ってみると応援席には小ぶりながら応援団、ブラスバンド隊とチアリーディング、生徒などが詰めかけ、その横にはPTAと思われる大人たちが同じ色のポロシャツに帽子を揃えて歓声を挙げていた。2回を終わっていたが、結構点差をつけてリードしていた。スタンドの一番上に掲げてあった大応援旗の校名二文字を見てさすがに興奮に打ち震えた。(オレ達の時もあったなー!)応援歌はお約束の「狙い撃ち」(山本リンダなんて知ってんのか?)、「ルパン三世」、「サウスポー」、「仕事人のテーマ」、「笑点」・・・なんだ、我々の時から何の進歩もないじゃないか。。。そもそもどれも知らない世代のはずだろ?!試合は何と次々と得点を重ねてコールド勝ち!監督が「『打を売りにする』のチームにしよう」と言ったら皆その気になって強打のチームに仕上がったそうなのだ。
予選だからないよな・・・と思っていたら、試合終了後は甲子園同様選手はホームベースの前に並び「同校校歌の斉唱」というのがあった。社歌は覚えていたが、数十年ぶりとなる「北原白秋・山田耕作」ゴールデンコンビ作詞作曲の校歌は鳥肌ものだった。家に帰るとスマホに1件のメールがきていた。懐かしさに写真を某サイトに載せておいたらそれを見た知人から聞いたらしいのだ。「・・・今日、タロウ行ってたらしいよ、て言うから。。。声かけてくれれば良かったのに」中学の同級生女子の息子さんが野球部でベンチ入りし1塁コーチをしているらしいのだ。ご本人が卒業生ではないのだが、保護者応援用スタイルでメガホン持っていたらしい。次は昨年の優勝校らしいが秋の大会で負けはしたものの、それなりには健闘し打力をつけてきているから期待もできるようだ。
さすがに試合当日は仕事で観戦はできなかったが、開始時間に「卒業生にも回しておいたから応援頑張って」とメールしておいた。私も午前中、デスクでずーっとネットの試合速報を睨みつけていた。やはり実力差はあったのかビハインドだったのだが、7回に追いついた時は思わず「ちょっと打合せキャンセル!」と叫んでしまった・・・さすがにそういう訳にはいかず、15分遅れで会議に出席したのだが、帰って来て急いでサイトを見ると残念ながらその後得点されて負けてしまっていた。その後しばらくして彼女からメールがやってきた。「・・・・地味な1塁コーチャーの うちの次男だったけど、録画を観てたら、最後の最後 負けて泣いているレギュラーの後輩の肩を抱いて 自分も泣きながら励ましている次男が映ってた。この子は こうやって自分は試合に出られなくても後輩のフォローに回って3年間の高校野球をやって来たんだと、初めて私が気付き、また涙流しちゃいました」
うーむ。。。見ていて私は「じーん」ときた、親が子を応援するとはこういうことか。。。人を応援するとはその人に応援パワーを授けるだけでなくむしろもらうものの方が多いんだな。息子のサッカーの場合は自分の経験もあって、「試合に出られない」姿を見たくないあまり遠ざかってしまったが、こういう見方ができる彼女には親としては脱帽する思いだった。珍しく海とは関係なく、都市対抗に母校の県予選と応援に明けくれた海の日3連休だったが、夏休みは今年2年生になる息子の夏の大会を応援できるように予定を組み替えたのである。