超兵器磯辺2号

幻の超兵器2号。。。
磯辺氏の文才を惜しむ声に応えてコンパクトに再登場。
ウルトラな日々がまたここに綴られる。

チェジュ島を歩くⅡ‐後篇

2012-08-27 04:28:54 | 旅行お出かけ
過密スケジュールの済州島2日目、午後はいよいよ世界自然遺産のオンパレードだ。最初は「城山日出峰」(ソンサンイルチュルボン)である。海底噴火で忽然とあらわれた巨大な噴火口で、頂上の縁にはいくつもの小さな寄生火山が縁取り、王冠のようになっている。すり鉢の中は新緑の植物が繁茂し、上空からの眺望、そして島の東端なので日の出が絶景らしい。成田から航空機や船を使って何十時間もかけて訪れる秘境ではないが、こんな身近に自然の作り上げた奇跡があるとは驚きだ。SOUさんが途中で「ここからの遠景が綺麗なんですよ」と車を停めてくれた。天気が良かったこともあり、海の美しさも一際立った。

      

峰が海に突き出ており、その突き出た部分だけが緑に覆われているので、上空から見るとさながら「緑のフライパン」という不思議な光景だろう。陸上自衛隊のoh-6D偵察ヘリがあればなー。。。頂上までは徒歩で30分くらい、石畳が整備されているので簡単なスタイルでOKだが、工程のほとんどが上り坂で特に頂上付近はかなり急な階段となる。老母は残念ながら途中まで一緒に歩いて後は麓のお土産店で待機だ。気温は35℃、雲一つない最高の天気だが、流れる汗が止まらない。振り返ると港を含んだ美しい光景が・・・また途中途中に浸食作用などで作られたと思われる奇岩がある。頂上に到着すると大海原からの心地良い風が迎えてくれる。見事なすり鉢ドームである。(残念ながら中を歩くことはできない)

      

「後ろを向くと美しい港町の風景、前は何一つない大海原・・・素晴らしい景色じゃないか」ちょっと太り気味で途中の階段でうずくまりかけ「Are you all right?」と声をかけたオーストラリア人が話しかけてきた。(もうちょっとダイエットしないとその体格じゃキツいだろ)
私が円谷プロの監督だったら地球防衛軍の基地はここに設定して(世界遺産だからありえない?!)みたいが、あまりにも分かりやすくて無理かなー。周囲は断崖絶壁、そして取り囲む海の美しいこと!遊覧ボート乗り場の岩礁はほぼ透明と言ってよいほどだった。ここは島の東端、今度訪れる時があったら、ぜひ済州空港着陸前に見てみよう。(見えるかどうか分からぬが下調べしなかったのが悔やまれる)

        

ヘトヘトになったが感動の城山日出峰を後にすると次は「榧子林」(ピジャリム)という世界最大のカヤの原生林である。米作のできない済州島では民族村にあったようにカヤを屋根に使っていた。見たことも無い巨大なカヤの木だが、幹は指で凹むほど柔らかく、また不思議な香りが漂っていた。がしかし・・・城山日出峰で上ること40分、ここでの散策はウォーキング程度だが焼く30分、「よく歩かせるツアーだねー、お義母さん大丈夫かしら・・・」木陰ばかりだったからよかったが、さすがに彼女も少し疲れてきたようだ。

        

観光としては最後となるのが世界自然遺産第二弾、「万丈窟」(マンジャングル)である。中央のハルラ山の噴火によってできた巨大な溶岩洞窟で、全長は13.4km、そのうち1kmが一般に公開されている。富士山の風穴のようなものだろうが、スケールが全然違う。最大幅23m、最高30mを誇る洞窟である。埼玉にあるという巨大地下都市「首都圏外郭放水路」を思い出させる。「秋吉台みたいなもんかねー」母は興味深そうだったが、「溶岩洞窟なんで鍾乳洞とは違うんですよ。だだっ広いけど中はなんもなし」SOUさんはドライなものだ。結局ここでも往復2kmを歩く、しかも足元は溶岩道でゴツゴツしていて暗いからあまり年寄りには勧められない。途中まで行ってその先も同じような光景が続くだけと聞いたので、ちょうどよい岩に腰掛けて待っていてもらった。

    

広い洞窟内は似たような風景が続くが、溶岩鍾乳や溶岩バルカラクと言われる、溶岩が冷えて様々な形になったもの、済州島そのものの形に近いカメの形をしている溶岩標石という見どころがある。そして見学コースの端にあるのが、世界最大級という「溶岩石柱」だ。足元を照らしているだけでライトアップしているわけではないのに、青い透き通った幻想的な柱だ。佐渡金山と同様、洞窟内は10℃くらい、なぜか理屈がよくわからないが地下洞窟というのは皆、10℃くらいで四季を通して同じような気温のようだ。「35℃の中山登りしてさー、木陰だけど何も無い原生林を40分歩き、今度は10℃の洞窟を往復2km・・・過酷なツアーだねー」早歩きをしながら妻も苦笑だ。。。

          

夕食はグランドホテルのすぐそばにある「郷味食堂」という店で「トンペコギ定食」という料理だった。これは済州名物の「茹で豚」だそうである。古漬けキムチや昆布、魚の塩からなどと一緒に葉野菜に包んで食べるのが島方式らしい。この店は日本人ご用達のお店らしく、店中の壁にメッセージペーパーが貼り尽くされていた。ケランチムという茶碗蒸しがサービスで出てきたがぐつぐつすごいボリュームだった。息子曰く「ちょっと味ねえなー。塩・コショウがほしいど・・・」確かにねー。私はだし汁が欲しかった。トンペコギは柔らかくてクセがなく、何と合わせても美味しいので母は一番気に入ったようだった。。。韓国ビールを飲んで、いやー満足満足、歩きに歩いた世界遺産巡りもようやく終わり・・・と思いきや、なんとその後に最後の予定があったのである。

    

訪韓する前から妻がぜひ観たいと言っていた「NANTA」という名前の無声のバラエティ舞台?である。「JUMP」という同様のショーは剣を使ったバラエティだそうだが、NANTAはキッチンのアイテムを使った面白ドタバタ劇である。日本でも予約はできたそうだが、安上がりツアーの「時間がはっきり分からない」という特徴からあきらめかけていたそうだが、SOUさんが気さくにセットしてくれた。時間は8時から、グランドホテルからNANTA劇場までシャトルバスで15分くらいである。4人ともヘトヘトに疲れているのだが、興奮しているのでものともしない。エンターティメントとしてはキッチンの道具であるフライパン、おたま、包丁、その他あらゆるモノを使って独特のリズムで叩き捌く。中国語読みでは「乱打」となっていたが、意味はよく分かった。

    

セリフがないから国籍、性別、年齢を問わず皆が大笑いできる構造となっているが、日本人の「笑いのツボ(関西はわからないが)」とは少し異なるところもあり、それもまた興味深かった。簡単に言うと「8時だよ!全員集合」のドリフのコントを高度にしたようなドタバタ劇で、この類に目のない息子甘辛は漏らしてしまうんでは?と思うほど最初から最後までずーっと笑い転げていた。観客から何人か選ばれて舞台に上がりショーに参加するが、甘辛は中央付近の座席にいながら手を挙げようとしていた。。。しかしフィナーレの乱れ叩きは圧巻の一言!和太鼓の達人にも劣らないド迫力のパフォーマンスに震えがきた。音のすごさに驚いたようだったが、生涯でこのようなドタバタ劇など見たこともあろうはずがない母親もゲラゲラ笑いながら満足そうだった。

      

部屋に入って興奮冷めやらぬ調子で韓国焼酎チャミスルをちびちびやりだした私達だったが、ものの30分で私は撃沈、最終日に備えてめいめい床についたのだった。(次が最後ね)

チェジュ島を歩くⅡ‐前篇

2012-08-25 18:53:31 | 旅行お出かけ
済州島プチ旅行2日目。。。この日はあまりにも「長い1日」だったため、前編と後編に分けることにしよう。8時にガイドのSOUさんが迎えに来てくれて、海よりの食堂へ移動して朝食だ。いつもの韓国食卓の数点セットに「ウニワカメスープ」にご飯というシンプルなものだった。さすがワカメを筆頭に海藻物の宝庫で磯の豊かな香りがする。がしかし、ラーメンどんぶり大のお椀を埋め尽くしているワカメは浮いているのではなく、そこまでぎっしりなのである。こりゃーちょっと多過ぎだよなー。生姜かと思ったらウニがところどころに散在している。それなりの量を入れてあるのだが、ワカメがあまりにも圧倒的に多くて埋もれてしまっているのだ。(どうせなら別にして食いたいものだ)

  

さて朝食を済ますとまず向かったのが、すぐ近くにある東門市場である。私は市場が大好きだ。どの地方でもどの国でも「市場」というのは実に興味深い。近所に片瀬漁港ですら季節によって獲れる魚介は多彩で、年中足を運んでも飽きが来ない。ましてや異国の地などとなれば楽しみもひとしおであろう。いきなりあった長い魚はウナギかアナゴか・・・胴の側面に白い点がないからたぶんウナギかな。「父ちゃん、美味そうなイカがいるぞー」甘辛が声を上げた。形から言ってこれはヤリイカだろう。大きな黒い貝の中身をワイルドなおじさんがガシガシ取り出している。横に50センチ近くはある巨大な鯵のような魚が並んでいたので、超兵器を近づけると横からおばさんが焼き魚を摘んだままの手をにゅーっと目の前に差しだしてきた。「食え」という意味かと思い抵抗を感じつつも口を近づけると、何やら奇声を上げて怖い顔をして手を振っている。どうやら「撮影するな!」という意味だったらしい。「なんだよー、It won’t hurt you.」たぶんわからない英語で軽く抗議しておいた。。。野菜、肉、金物・・・怪しげな漢方薬なども含めて色々なものがごった煮のように売られていた。

            

次はジョルムル自然休養林で森林浴だ。タイトルでわかると思うが、この旅行はとにかく歩きに歩いた。年老いた母には少し辛かったかもしれない。風の強いので済みにくかった済州島は戦争終結後、日本政府から大量の杉の木を植え木され、大きな森林群があちこちにある。その辺にあるちゃちな散歩コースと異なり、ほとんどジャングルと言ってもよい草深い敷地で、ものすごいマイナスイオンである。(だから小一時間歩き続けてもあまり疲れなかった)
韓国ではカップルや老夫婦、家族などで色々なところをウォーキングするのが流行っているらしく、小道や休憩するちょっとしたベンチ、モニュメントなどが綺麗に整備されている。「面白い柄の鳥がいるぞ」超兵器を向けて近寄っていくとSOUさんは「あー、それ韓国の国鳥なんですよ。カササギです。カラスの一種。その辺でよく見られるんです。」へえーっ国鳥がそこいら辺で普通に飛んでるのか・・・?!まあ、日本でも山ん中へ入ればキジくらいはいるかもなー。

              

次なるは「城邑民族村」である。朝鮮時代の典型的な形態を保ち、実際に生活することで文化遺産と指定されているそうだ。むろん外見そのものではなく部屋にはエアコンが効いた文化的な生活だが、一部は昔の姿そのままである。ボランティアのおばさんに手招きされて済州島独特の三本の棒を使った門の説明をされ中へ。馬に引かせる石臼や木につけた萱で雨水を甕に溜める仕組み、トイレにもなっている豚の飼育場など。ここで飼われている済州名物黒豚。なんと、人間の排泄物をまるごと食べて育つという。
他には五味子(茶)やトルハルバンの説明。トルハルバンは右手が上だと武官を表し健康をもたらしてくれる、左手が上だと文官を表し知恵をもたらすと考えられているという。屋根は日本のように茅葺だが、古くなっても張替えはせず、上に重ねるのだという。そして8年目に全部取り替える時に一番下の層にできているのが済州島特産の「冬蟲夏草」だそうだ。
まあこれで生計を立てているのだろうし、こんな機会でもなければ縁がないとも思えたので、結構値が張ったが家族4人で試して見るために一箱購入。。。

             

昼食はその邑内の食堂で「海鮮トッペギ」だ。暑く長い1日だったが、このアツアツの海鮮一人鍋はこれまで食べた韓国料理のベスト3に入る旨さだった。SOUさんによると韓国人は「暑い時には熱いものを、寒い時には冷たいものを食する習慣だという」別に天の邪鬼というわけではなく、前者は「汗をかいて老廃物を抜くため」、後者は「暖かいオンドルで生活するため、冷たいモノを食べたくなることが多い」ということだそうである。後者で典型的なのが冷麺なのだそうだ。食の文化というのは実に奥深いものだ。済州島にこれだけ広大な杉のジャングルがありながら、春になっても花粉症で悩む人がいないのは「発酵食品=キムチ」の効能らしい。90歳代の人口が韓国一多いのは冬蟲夏草の効果、というのはちょっとやられているような気がするがなー。

      

民族村を後にしてSOUさんが済州島の生活事情を詳しく話してくれた。火山島である済州島は玄武岩質で水はけが良過ぎて水田ができず米が獲れない。島の特産はミカン、豚、馬などだが、主食は麦に粟、そして海産物を獲るために海女が活躍する。男連中は海に漁に出たが、台風のコースとなっているこの島では海難事故で漁に出た男が帰らないことが多く、母子家庭がかなりの割合を占めていた。一昔の日本のように赤子誕生の際はまず男子を望む文化であった。トルハルバンという独特のシンボルは「鼻を触ると男子、耳を触ると女子が生まれる」とされてるそうだが、有名なところでは大体鼻が低くなるくらい擦られているらしい。一夫多妻で男は漁以外に家にいる時は何もせず、ハーレム状態だったという。

午前中だけでも結構盛りだくさんの1日だが、午後はいよいよ世界自然遺産の登場である。天候はドピーカン、35℃の灼熱の中、険しい階段を上ったり、真夏でも11℃程度しかない洞窟・・・チェジュ島を歩く旅行はつづく

チェジュ島を歩くⅠ

2012-08-24 07:11:33 | 旅行お出かけ
ひょんなことから今年の我が家のプチ旅行は「済州島」になった。実はひょんなこと、というよりは妻のスーパーファインプレーである。去年の節電フィーバーに続き今年も長い休みを奨励しみずから実践してみせた(ほとんど誰もついてこなかった・・・)私の休みと、甘辛が夏休み唯一計画できるOFFがわずか3日間、お盆休み前後で「混み具合も価格も絶望的」な時期に八方手を尽くして手配したのだ。これまで何度も訪れたお気に入りの南の島はフリープランでも10万円近くする。今回の旅行は一昔の日本人お上り観光ツアーのように「オールインクルード」、つまり食事から訪問地までほぼすべて旅程に組み込まれている。途中、免税店やらお土産店やら回るからそのバックマージンのお陰で「どフリーツアー」よりもはるかに格安になるようなのだ。

だから今回は70台後半にもなろうとする茅ヶ崎の母も一緒に誘って行くことにした。私達が誘わなければ中々海岸旅行など行こうとしない世代だから、それはそれでよい機会だったと思う。(全部決まっているから楽だと思ったが、実はものすごい歩かせてしまったのだが・・・)
済州島は朝鮮半島の南に位置する「大阪府」ぐらいの大きさの島である。火山島で古くから米が獲れず家畜や海産物で厳しい生活を続けてきたところだが、火山の織りなす不思議な光景が世界自然遺産となってその美しい海とともに急速にリゾート化が進んだ。決定的だったのは多くの韓流ドラマのロケ地となったことらしい。成田からは直行便が出ていて、午前便で昼には到着することができる。年寄りにも負担の少ないフライトだ。

「海が綺麗でオーギョプサルとアワビ粥が美味しかった」というお友達のリコメンドをもらったが、ほぼ全てツアーに入っていたのですごく楽しみだった。第1日目、ソウルは雨だったそうだが済州島は曇りで蒸し暑かった。いわゆる「旅行記」を綴るとき、私は時系列に辿ることはまずもって無く、大抵自然や文化、グルメなどジャンル別なのだが、今回はあまりにも過密でそれぞれ別にするとただのガイドブックになってしまうので、敢えて旅日記風に書くことにしよう。
済州島では甘辛が乳児の時に訪れた台北以来の「現地案内員の出迎え」をうけた。私達と同じような年代と思われる彼女は「済州生まれの済州育ち」と言い、私はこの人に韓国の文化を色々聞き「現地ガイド」の話は聞きようによってはいかに「興味深いか」を感じることになるのである。

最初に訪れたのは「薬泉寺」という済州島の誇る大きなお寺だ。ソウルにも昌徳宮など世界遺産を訪れた時、その独特の色合いに驚かされたが、ここはその内部も実にすごい作りをしていた。そもそも人体によい薬のような泉が湧き出る」パワースポットなのである。韓国の寺院には必ず龍が祀られているそうだがこれは龍そのものではなく、七つの動物の部位の集合体だそうだ。ヘビ(またかよ)、鷲、豚、鹿、馬、虎、猫である。大寂光殿の中はとにかくすごい。東洋最大というルシャナブツ、一万八千体と言われる黄金に輝く小さな仏の像、七夕飾りのような信者の願いを綴った短冊・・・お米を捧げてお参りする作法といい、実に興味深かった。

            

島の南側となるが次に訪れたのは柱状節理と言われる不思議な石柱群である、火山による溶岩が噴出し、突如地形が隆起して急速に冷却されて結晶化した結果出来上がった、自然の職人技である。なぜ六角形の柱状になるのか、研究対象としては非常に貴重で、荒れた海の波しぶきなどの豪快な光景も「絵になる」らしい。福井の東尋坊に近い断崖絶壁だが、あれほど険しく刺々しい感じはなく、むしろ幾何学模様の美しさに目を見張るところだ。「まるでサッカーボールじゃんか。自然てぇのは結構すごいモンを作るもんだなー」正しく言うと「サッカーボールの縫い目模様」だが、息子甘辛の感じた通りの迫力だった。

        

そしてその次に車が向かったのが、ガイドさん曰く「お化け道路」(私はこのネームは好きではない)。地点に接近すると「あの家、傾いて見えません?」「道路に対して角度が変でしょ?」ガイドがいい始めて、やがて何の変哲もないゆるやかな坂道に出てきた。前に大きな観光バスが停車していていつまでも発進しない。(何やってんだよー。)そこから先は明らかに上り坂だ。バスが動き出すと、我が運転手はいきなりエンジンを切ってしまった。。。「えっ?」なんとエンジン音が停まってクラッチをニュートラルにしたら車が坂を上り始めたのである!「うそだろー!明らかに上ってんぞー?!」目の錯覚か?どう見ても角度的には上ってくるようにしか見えない。水を撒いても上側へ流れて行くし、マッコリ瓶を置いても上に転がり出す・・・「トッペギ道路」というそもそも何の意図もなく作られた普通の道路なのだそうだ。ある日タクシーの運転手が坂の下?にハンドブレーキなしで停車したら車が勝手に坂を上りだしたのに驚いて発見されたそうだ。

        

大勢の観光客が道路に出て歓声を上げており、エンジンを停止して上って来る観光バスなどにカメラを向けていた。ガイドのSOUさんは「ここ、ホントに普通の生活用道路なんですよ。特に規制とかしていないので、地元の通行車と結構事故が多いんです。気をつけて下さいね。」「ふーん。それで轢かれて亡くなった人が出るから『お化け道路』とか・・・?」と言いかけて私は後悔した・・・妻が「そんな恐ろしいこと言ってていいのかなー」ちなみに韓国で「トッペギ=お化け」とは恐怖の「恨めしや~」ではなく、ちょっとしたいたずらをするファンキーな輩なんだそうだ。このカラクリはどう考えてもわからない・・・「もしかして、坂は普通の上り坂なんだが、ジオラマのように島全体が傾いてるんじゃ?」「父ちゃんはホントに理系かよ・・・」息子に冷やかされたが、実は結構有力な説だと思っていた。。。

    

夕食は済州市内のレストランで「オギョプサル」という島の黒豚料理だった。韓国焼肉店で妻が好んで食べる「サムギョプサル」というのは三枚肉、オギョプサルは五枚肉でかなり分厚く皮やカルビ成分も含んでいて、とてつもなく美味い。焼き目がついてくると何とも言えない香ばしい香りが・・・これに辛子ミソだれをつけてキムチ、ナムルなど好みの具を載せ、サンチュで巻いて一口で食う。柔らかくてジューシーこの上ない食感だった。惜しむらくは甘辛がつぶやいたのだが、「塩とコショウ」でも食べたいところだった。これだけ見事な肉を一種類のタレだけで食するのはどうももったいない。

     
 
この後、激辛とそうでない韓国冷麺をひとつずつ注文し、3本目の韓国焼酎を飲み干してホテルへ向かったのだった。(つづく)

お盆休みの1日

2012-08-18 07:19:55 | 出来事
夏休み前半は今日で終わり・・・・(実は節電便乗でやけに長い?!)比較的大きなイベントは後半に予定していて、前半はウルフェス、墓参り以外にはこれと言って普通の休みと何ら変わり映えしない。「この機会にあれをやろう、これもやっておこう」と色々思い付くのだが、結局のところはその辺をうろうろするだけなのである。(とにかく道路が混んでいることもある)そのごくありふれた休日の記録・・・前日からいそいそと準備を進めていた。久々に江ノ島に釣りに行くつもりだったのである。甘辛と朝練ならぬ朝勉を共にする約束だったから、朝飯前のほんの2時間程度である。

  

息子甘辛もよく似たところがあるが、私は「道具」というものにこだわったり、金をかけたりしない。大事に手入れなど欠かさないわけではないし、かといって粗末に使っているわけでもない。どちらかと言うと一つの道具をずーっと使い続けるほうだ。(それこそ道具としてしか見ていないのかもしれない)
だから磯釣りに使う道具は竿とリールのセットで2980円、これをかれこれ10年近く使い続けている。竿先が何度か折れてしまい、4m30cmの竿が30センチくらい短くなってしまっている。テトラポットのような足場の悪いポイントを竿を持って移動し続けるので、コンクリでこすれて傷だらけだ。

友人には「道具にこだわり」これを大切にずーっと使う人がいる。どちらかと言うとこちらのほうが正統派だと自分でも思う。その友人から引っ越しの際に高級磯竿とリールのセットを頂いた。以前は同じ社宅住まいで磯(波止)釣りも何度かご一緒したことがあるが、小田急沿線の東京方面に引っ越し、さらにめでたくお洒落なウォーターフロントにマンションを構えられたので、磯釣りとは縁遠くなってしまったからのようだ。私の定義では磯竿については、しまう時のキャップにガイドを保護し、それらがバラバラにならないようにプラスチック芯(赤)がついている、リールについては「大物が掛かった時に、糸の張力を一定(切れるレベル)以上にならないように、自動的に「スベって」くれる機能がついている、のが「高級の証」だが、彼から頂いたのはこれらの他に未知の機能を持つ、竿だけでも私のセットを10は買える代物だ。

  

だからデビュー戦はどこにしようかと考えあぐねていたが、「ボクの夏休み」の記念に釣れても釣れなくても地元江ノ島に繰り出すことにしたのだ。(一応、練習も兼ねて)
朝5時にはヨットハーバー側の磯に入り込んだが、早くも先客がいた。(釣り人はホントに朝が早い)たいらだが、今は大潮だからそこらじゅうに水たまりがあり、あまりコンディションがよいとは言えない。それでも先端は確保していよいよゴージャスセットの登場だ。タイムリミットは2時間、朝まずめにはちょっと早い時刻だが全誘導ウキ(タナを取らず、どの深さも探る手法)を投げ込んだ。

  

すぐ後に3人連れの親子がやってきて近場で釣り始めた。開始早々お父さんに大きな引きが・・・私のタモアミを貸してあげようかと思ったが、作ってないのでこれから組み立ててtも間に合わなそうだ。すごい引きだったが上げられたのは30センチくらいの茶色い魚。。。私も釣ったことのある「アイゴ」である。お父さんはさすがによくご存知で「これって毒ありましたよね」とメゴチハサミで注意深く魚を外してリリースしていた。っとその時ウキから目を離していた私の竿もググーッと重くなって・・・すわっオレにもきたか?!とは経験上思わず、この重さは海中の海藻に引っ掛った時の感触だった。ふーん。すぐ下に藻群があると全誘導は難しいなー。。。

岩ではないから、竿を傷めないように真っすぐゆっくり引けば外れるか最悪ハリスが切れるかで済むのだが、何と高級リールは大物用に一定以上の引きを加えるとスプールという糸を巻いてあるロールが滑り出す(空回り)し出すのである。これではいくら引っ張っても抜けないぞ、この機構の無効化なんて聞いてないし。。。色々と苦戦しているうちにようやくハリが外れたようだ。その後、ものすごい引きが1回あったのだが、手前まで持ってきたときにの岩場の隙間に逃げ込まれてしまい、引っ掛ってあえなくハリスを切るハメに・・・しばらくするとコマセに小さな魚が集まり過ぎて秒殺状態になってしまった。磯の王者イシダイの子、シマダイだがホントに小判サイズしかいない。あの体でよくLサイズのオキアミに食いつくものだ。人間に例えればギャートルズの肉に、骨の代わりにハリがついているようなシロモノで、これにまっしぐらにかぶりつくようなものだ。陽も上がりじりじり暑くなってきた中、2時間粘ったが後半はメジナ混じりの木端だけになっちゃったので納竿・・・

帰って来て朝飯を食ったら「受験生なのに全く勉強しようとしない」息子とガーデンシェッドに籠って「朝勉」である。甘辛はサッカー推薦で無受験で進学したいらしいが「とりあえず中学教科は社会に出てからも登場するので『バカ』な社会人にならないためには必須である」と私がいる時には一緒に勉強することにした。語学や自然科学は今でも十分役に立つし、頭の活性化にもなる上、何よりも「面白い」。進学にホントに役に立つのか疑問だが「あくまで自分のため」であるため、息子には「勉強する癖」をつければよい(なんて受験生とは思えないが)。
「甘辛よ。どうも『英語』だけは前世又はDNAの縁が無ければ、モノにはできないと思うのだ」「ガリガリ理系の父ちゃんがオカルトかよ・・・」
DNAよりも近い「親から子への遺伝」が強いとすると、甘辛の英語力は期待できない。私自身が「縁がない」と感じているからである。
はっきり言って勉学はそこそこできる。読解も文法も作文もずーっと勉強としてやってきたからTOEICも英検もそこそこできる。英語でコミュニケーションを取りながらの仕事も通算するとそれなりになるから、これまたそこそこできる。しかしあくまで「勉学」であって「英語ができるヤツ」では決してないのである。息子に分かりやすく話した。

「まずオレが英語圏の海外で会話しているとする。何が起きているか?まず相手の英語を聞きとることから始めるよな。これを頭のプロセッサーをフル回転させて高速で日本語に変換して一時蓄積する。次に変換された日本語に『返す言葉』を考える。これはキャッシュを使う超高速処理だろう。その次、その日本語をまたプロセッサーを使って高速に英語に変換し・・・発音やントネーション、相手に通じているかどうかを見ながら口から『アウトプット』を出す。これをあ相手の言葉に間髪入れないように繰り返す。1日中こんなことをしていたら脳がヘトヘトになってしまう。英語のできるヤツはこんなことたぶんしてないだろ?普通の日本語のようにペラペラ話すだろ!あの人達は絶対オレのプロセッサーとはタイプの違うものだ。これはもう「前世の縁」としか言いようがないだろ?」
そんなしょうもない会話をしながら、「私が日本語を言って息子が英語に直して言う」というごくごく幼稚な勉強を2時間足らず続けて、息子は炎天下サッカーの練習に向かった。

妻は珍しく何とか(まつげ?ネイル?)サロンに行くというから、いつも海岸に行く時に居を構える「サーフエリアと遊泳エリアの境目」で待ち合わせる約束をして、私はボードを持っていつものポイントに出動した。カンカン照りになったり雲が厚くてうす暗くなったり微妙な天気だったが、オンショア(海から岸に向かう風)が強く波面はかなりざわついていた。昼になると一旦上がり、チャリにボードを装着して東側のサーフビレッジに向かった。合流点は何かイベントをやっているようなビーチバレーコート群の向こう側である。
しばらくは遊泳エリアのすぐ隣に浮かんでいた。このあたりはファミリーもたくさん訪れている初心者エリアで、波打ち際にはそれこそボード同士コツンとぶつかるほどの人口密度だ。二人で一つのボードで練習しているカップルもいるので、沖の方からオーバーアクションで滑って来るヤツはいないが、やはり衝突が一番怖い。(一応、ここでは私は避けてあげる方だから)

    

休憩するために岸へ上がってきたら、やけに遅かった妻がマックの紙袋を抱えてやってきた。ナーイス!そうなんだよ。海辺のマックって美味しいんだよなー。昔は「海の家」と言えば、とうもろこしやイカのまる焼きが主流で、どこでも醤油を焼く(田舎臭い)香りが潮風と混じったものだ。ビーチの端っ子の方では干物を作る網が立てかけてあったし、定置網も固めて整理されてあった。今はもはや畳敷きで荷物はざるに入れることはなく、ガーデンデッキにパラソル、食べるのは(妙にうまい)ラーメンではなく、ハンバーグロコモコやカルボナーラなどである。海辺のディスコ(これも死語?)なんて新島にしか無かったのに、東浜にも西浜にも何件か「踊れる」ビーチハウスがある。
鎌倉由比ヶ浜には「アルマーニ・エクスチェンジ」の「海の家」ができたという。一体何を売っているんだろか?

風評被害をものともしないビーチと報道されていたが、お盆休み中の平日ということもあって、それほど過密に観光客がいるわけでもない。波が荒くなってくるとライフセイバーの人達は大変だ。常に腰まで海につかりマイクで「はいはい、すいませーん。潮が速いのでこれ以上沖にいかないようにお願いしまーす。」子連れは大人しくしているが、若者はほとんど言うことを聞かない。ライフセイバーに方には気のどくだが、いくら遠浅で海岸から距離があるからと言って、深さが「腰まで」というのは若者には辛いと思うぞ・・・
妻はボディボードはやるが、サーフィンはやらない。だから2人で海岸に来る時はボディボード可能な遊泳エリアとサーフィンエリアの境目にいることになる。上空で狙いを定めるトンビに注意して「ビッグ・マック」を抱えると再びボードを抱えて歩きだすのだった。(砂浜がすごく熱いので裸足では歩いていけない)

        

セブン45周年のウルフェス

2012-08-14 19:20:06 | ヒーロー
今年もウルフェスの季節がやってきた。予定では数日しかOFFのない(これで受験生かよ)息子甘辛も「0歳児」の時を除けば10数年間、ウルフェスだけは外したことがない。「そろそろ卒業か・・・」と生温かい目で見ているが、彼曰く「これに行かないと夏休みになった気がしない」(もしかして私同様、友達少ないのか?!)
その昔は後楽園プリズムホールだったが、池袋サンシャインになって10年近く、入り口の大型ウルトラマン(今年は初代マンだった)で写真を撮り、会場内を飽くことなく見て回り、セブンのマーベラスアイスを頬張って、ライブステージに鳥肌を立て、ウルトラデパートで山ほど買い物をして帰る。飯も食わずに歩き回るから会場から出てくる頃には腹ペコになっていて、迎えの松屋で大盛り牛丼・・・毎年、計ったように同じことを繰り返している。

普段よほどのことがないと自分の財布からモノを買わない私が1年で最も豪快にアイテムを買いまくるのがウルフェスである。(ビールジョッキ5本大人買いとか)まして今年は私の愛して已まない「ウルトラセブン」45周年、今ウルトラ戦士の主役はその息子「ウルトラマンゼロ」、ちょうど我が父子と重なるところがあり、力が入るというものだ。茅ヶ崎の母の所へ泊まりに行った甘辛を拾って我々は湘南新宿ラインに乗り込んだ。どういうわけかウルフェスに行く時は毎年灼熱のような高温日だ。「池袋ってサンシャインまでが結構長いんだよなー」今年は珍しく曇っていて少し涼しかった。
お馴染みのALPA入り口には恒例の巨大ウルトラマン像が・・・少し上から見下ろす感じのこの初代マン像は浅草ROXの旧ウルトラマン倶楽部のものを持ってきたと思われるが、実はティガ、ガイア、アグル、ダイナなど同一サイズの像が何体もあり、普段はどこにあるのかわからない・・・ちなみに不思議にセブンは見たことがない。

      

入り口でライブステージの指定席券を受け取るが何と1時間先のショーが立ち見状態、我々は迷わず2時半からの回を選んだ。何せ今年は45周年のウルトラセブンが主役のはずだから立ち見などでは見ていられない。本編だけでなく、セブンはウルトラシリーズの色々な場面に登場している。次シリーズ「帰ってきたウルトラマン」ではベムスターに一旦敗れた帰マンに必殺ウルトラブレスレットを贈ったし、エース、タロウでも何度も登場する。レオでは悲劇的な役割で怪獣に足をやられ変身できなくなってしまう。ちなみにウルトラの父と母の実の息子、ウルトラの貴公子タロウとセブンは親戚である。なんとセブンのお母さんはウルトラの母のお姉さんなのである。(顔似てるでしょ?)
さて、ここからこの父子の会話について来れるのは我が街でも20人とはいないだろうから、写真だけでも見て行ってください。

「ぎゃーっはっは。父ちゃん、シャドー星人が新聞売ってるぞ。タクシーの運ちゃんが振り返った時は怖かったよなー。あれっ何で買ってんだ?家にその新聞あんじゃんか」「保存用だ」
「おーっ、このよくできてるなー。第一話で発進するしーんだな」「甘辛よ、よく見ろよ。玄関にあるうちのプラモと一緒じゃんか」自慢ではないが我々はセブン全48話のどのシーンを見てもそのタイトル、登場エイリアン、あらすじを語ることができる。甘辛などセブンの光線発射シーンだけで放った相手をあてられるほどだ。
トップバッターは第一話「姿なき挑戦者」で登場したクール星人だ。「名前?そう、モロボシ・ダンとでもしておきましょう」セブンが地球上で人間として名乗った記念すべきシーンである。クール星人の「人類なんて我々から見れば昆虫のようなものだ・・・」というまさしく「クール」なセリフが印象的だった。

          

次はそれこそ昆虫のようなちょっとシュールな姿のピット星人、有名な「エレキング」を飼育していた宇宙人で、何と「女性」(宇宙人に性別があるかは疑わしいが・・・)なのだ。「地球人の男性はかわいい子に弱いって事がわかったんですもの」というベタなセリフを吐く。「さすがのオレもここまでは知らなかったぜ」と甘辛が感心したのは「ダークゾーン」で地球防衛軍基地内の女性隊員アンヌの部屋にあった「人形」。。。ウルトラ警備隊の紅一点は自室で隊員服のまま女性らしく髪をとかすのである。次に登場するのが「宇宙囚人303」のガソリン大好きキュラソ星人だ。キュラソ連邦警察に追われて地球に潜入しガソリンを求めて街を彷徨う。とある家庭のガレージに逃げ込み、リビングに現れた時の恐怖に研究所時代の同僚Kメギさんの息子N人クンは泣き叫んだという。「あれは怖ぇよなー」甘辛も納得のシーンである。

        

ウルトラセブン屈指の名作「狙われた街」、夕闇の工業地帯(この頃は高度経済成長期で、工場排水による公害もひどくなってきた時代だ)水には写る美しいメトロン星人との対峙シーンが芸術的だ。モロボシ・ダンとメトロン星人がちゃぶ台を挟んであぐらをかいて話すウルトラシリーズきっての「ほっこり」シーンもある。しかし何より名作なのはエンディングのナレーションだ。「メトロン星人の地球侵略計画はこうして終わったのです・・人間同士の信頼関係を利用するとは恐るべき宇宙人です。でも、ご安心下さい・・このお話しは遠い遠い未来の物語なんです。 えっ!? 何故ですって? 我々人類は今、宇宙人に狙われる程、お互いを信頼してませんから」おーっ、セブンシリーズ屈指の強力ロボット「キングジョー」の登場だ。3つに分解して潜水艦で移動する防衛首脳を襲ったシーンが再現されていた。水槽の中には魚までいたのだが、フラッシュが反射してよく写らなかった・・・・

       

「盗まれたウルトラアイ」のマゼラン星人マヤ・・・中高生の時ウルトラセブンは再々放送くらいだったが、他のどんなアイドルよりも彼女のファンであった。この回には何と怪獣はもちろん、星人すら登場しない。恒星間弾道弾が地球に向かって接近するだけである。
そしていよいよこのブログのタイトルにもなったセブン信者である私の原点、「超兵器R1号」である。登場したのは「ギエロン星獣」、星人ではないところが深いところ、地球を侵略に来たのではなく、平和に暮らしていた母性を地球防衛兵器実験で破壊され、怒りにまかせて復讐にやってくるのである。
「地球を守るためなら、何をしてもいいのですか…?」(ダン)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「超兵器が必要なんですね」(ダン)
「決まっているじゃないか!」(フルハシ)
「侵略者は、もっと強烈な破壊兵器を作りますよ!」(ダン)
「我々は、それよりも強力な兵器をまた作ればいいじゃないか!」(フルハシ)
「…それは、血を吐きながら続ける…、悲しいマラソンですよ」(ダン)
実は「血を吐きながら続けるマラソン」というこの名セリフは誰も気がつかないが、仕事上でも結構引用しているのだ。

     

ウルトラセブンの能力を測定し、罠にはめてエネルギーを消耗させてついには十字架に掛けてしまう、という神をも恐れぬ企てを見せたガッツ星人。。。子供ながら我らがヒーローが十字架に磔にされるという、恐ろしいシーンを目の当たりにしてしばらく悪夢に魘されたものだ。そしてウルトラ史上最高の名作と今でも思う、最終回「史上最大の侵略」、最後の力を振り絞ってパンドンと戦うセブン(ダンだと知らされる)を見たキリヤマ隊長の名セリフ「行こう!地球は我々人類自らの手で守り抜かなければならないんだ!」この言葉は約40年を経て甘辛が夢中になった「ウルトラマンメビウス」の最終回に蘇る。「あの時のキリヤマ隊長の握った拳って中指が微妙に飛び出てるんだよなー」甘辛はマニアのような指摘をする。。。

      

地球を攻撃から救う代償としてこれまでこれを戦って救ってきたウルトラマンを引き渡せ、という宇宙人の要求に対し、
「皆さん・・・CREW GUYS JAPAN総監サコミズです。タイム・リミット迄1時間・・・先ず最初に伝えるべき事が在ります。メビウスは・・・CREW GUYSの一員です。今、多くの人が驚き、動揺しているでしょう。ですが少しだけ・・・私の個人的な話を聞いて下さい。昔私が・・・亜光速で宇宙を飛んでいた時、侵略者から地球を守る為、人知れず闘っているウルトラマンを目撃しました。その時彼は言いました。『何れ人間が自分達と肩を並べる日が来る迄、我々が侵略者の盾になる。』と。彼等は人間を愛してくれた。そして人間を・・・命懸けで守り続けてくれたのです。私達は・・・その心に応える責任が在る。『地球は我々人類、自らの手で守り抜かなければならない。』ウルトラ警備隊、キリヤマ隊長が残した言葉です。この言葉は・・・ウルトラマンが必要で無いと言っている訳では在りません。彼等の力だけに頼る事無く、私達も・・・共に闘う可きだと伝えているのです。最後迄希望を失わず、ウルトラマンを声援する。それだけでも、彼等と共に闘っていると言えるのです。彼等に力を与える事が出来るのです。御願いします。今こそ勇気を持って下さい。侵略者の脅しに屈する事無く、人間としての・・・意思を示して下さい。一人一人の心の声に従い、最後の答えを出して下さい。」

いやぁ、つい熱くなってしまった・・・「おーっ、ウルトラ警備隊の地下基地だど!やっぱ最高なのはホーク1号だよなー。2号はマルサン倉庫に格納してあるな。ホーク3号は滝の中から出撃だが、さすがにホントの水じゃないなー」
ジオラマを丹念に見ながら甘辛は感心するが、私は再び「甘辛よ、よく見てみろ。ウルトラホーク、全部オレんちにあるEX超合金と一緒だぞ。」「おーっ、1号は父ちゃんのマンションにあったんだよな。あっと言う間に全部揃えたよな」それを世間では「大人買い」と言う。。。あまり褒められたことではないんだがな。飾るのは簡単だが「セット」が難しい・・・風呂場のジオラマにどのように応用するかずーっとシミュレーションしていた。それを見抜いたのか甘辛は「さすがにこれだけ精巧なモデルを雨ざらしはやばいべ・・・」おっしゃるとおりだ。ガーデンシェッドに全て飾ることに決めた。

      

甘辛が子供の頃大好きだった「ウルトラP」(人形劇)、そしてふれあいステージも外さすに参加した。(さすがに小さい子ばかりなので端っ子で見ていたにすぎないが)先日、訪れたスネークセンターの「ふれあい」とは大きな違いだな。そしてメインイベント「ウルトラマンライブステージ」だ。指定券は11列の27番、28番、会場の案内を見ると、何と一番端っこである。「前なのはいいんだが、一番端っこかよ・・・」ところがである。立ち見席は我々のはるか前でそれ以上立ち入り禁止、真後ろに黒いカーテンがある。「甘辛、もしかしてここは・・・」私の予想通りだった。このライブステージは経験上、舞台横の出入り口からも意表を衝いてウルトラ戦士、怪獣・エイリアンなどがいきなり現れるのだ。
「ぬおーっ、いきなり出た!」我が崇拝するウルトラセブンである。ストーリーの中での登場だったが、真横をゆっくり歩き過ぎるセブンに「抱きつきたい」衝動をやっとの思いで我慢した。
「やっぱ夏はウルフェスだよなー」来年は高校生になっているはずの息子と鳥肌をたてながら第2部(夏休み後半)も身に来る約束をし、オリンピック3回分連続で訪れた会場を後にしたのである。

      

ヘビの楽園?!

2012-08-13 16:11:22 | 旅行お出かけ
夏休み突入の前(もう入っちゃったけど)、お化けの嫌いな私はしばし別方面の納涼を・・・(あ、今回は「嫌いな人」はどうか読み飛ばしてください)
少し前になるが、田舎道のとある高所で作業していた人が、脚立から降りようとした際に足元に「マムシ」がとぐろを巻いているのを見つけ、驚いて飛びのいたがバランスを崩して側溝に足をとられ骨折、という不運な事故があった。先日、スティーブと外出先付近の滝めぐりをした時にも山歩きしていると一本棒のような蛇が通路を通せんぼしていたし・・・このエリアではヘビが出るなんてことは驚くほどでもないらしい(の割にはスティーブの怖がりかたは尋常ではなかったが、ぐふふ)。少し前、1年に何回かの社宅周辺草むしりの際に、桜の木に大きなへびが巻き付いていて大騒ぎになったことがあるが、これまで「生のヘビ」を見るのは数回しかなかった・・・

我が家のジャングル状態からの大草むしり作戦でも得体の知れない虫が出たり、守り神とも言える大きなカエル様が出たり、凍りつくことはあったが、あのクネクネ野郎が「ぬーっ」と出てきてしまったら心臓も止まってしまうかもしれない。中には毒蛇もいると知っていたが、むろん模様などで見分けなどつけられるわけもない。仕事柄、外出したところで遭遇するケースもあるし、一度その生態を学んでおかねばならないと思っていた。実は県東部に仕事先でよく通り過ぎる「スネークセンター」というやばそうな施設看板が気になっていたのだ。県人は割と知っていて訪れた人も結構いる。なんとKICKPOP師匠もご存知で、お父様がその昔色々チャレンジングなことをなさっていたらしい。スカイツリー近くの北関東向け始発駅にも宣伝看板が輝いていた。

高所作業における安全措置は随分長いこと議論・装置改良され続けてきたが、危険生物についての対処はほとんど聞いたことがない。。。実際、真面目にその生態や注意事項について調べ周知する必要があるな。大真面目(半ば興味本位)にスケジュールを組んでもらった。(夏休み前でぼちぼち半閉店状態、はっきり言って暇だしねー)
自分の休み前の処理をがーっと終わらせ、やまちゃんお勧めの蕎麦屋で早めの昼食を済ませた後、謎のヘビセンターに社用車を走らせた。インターから結構近くにあり「そもそも絶好の生息地じゃないの?」と言うような山の一画にその施設はあった。平日ではあったが夏休みというのに閑散として、開園しているのかどうかもさだかでない状態だ。いきなりマムシの効能が・・・やっぱり「生血を飲める」というのはホントの話だったのか?!

      

「2時から採毒室でかわいい子ヘビとふれあうイベントがありますからねー」入り口のおばちゃんはにっこり笑って切符を切った。しばらく歩いて行くと真っ白な観音様が見えてきた。足元に大蛇が巻き付いているいかにもなお姿は白蛇観音と言うそうだ。まっすぐ歩いていくとコンクリートの柵でできた草むらが現れた。「おい、向こうにいるのヘビじゃねーか?」いきなり黒い細長いのがくねくねと動きだし、草の塊に隠れて行った。普通爬虫類の展示などはケージやガラスで仕切られた部屋の向こう側なんだが、ここではいきなり庭のようなところにかなりの数がいるようだ。最初は中々見つけられなかったが、慣れてくるとそこらじゅうにいることが分かって来た。「アイツ、木に上ってんじゃんか。枝をつたってくれば外出ちゃうんじゃね?!」

          

隣のエリアに歩いて行くといきなり物騒な看板が・・・何々毒蛇だと?まさか放し飼いかよ。。。マムシが自然の状態でどんな生息をしているのか、この周りを色々に探してみたが残念ながらその姿を拝むことはできなかった。(どうやらハブもそこにいたらしいが、これも発見できず)
大蛇温室、毒蛇温室を順番に見学して行った。嫌いな人も多いだろうから、あまり写真は載せないようにしておこう。白いのは「ビルマニシキヘビ」で叶姉妹が飼っていたヤツ、黒いデカイのは「エジプトコブラ」、かのクレオパトラが自殺する時に我が身を咬ませたという曰く付きのヘビだけ置いておこう。資料館では色々参考になることが多かった。一部を除いて蛇は人間に気付くと逃げるし、攻撃範囲も狭いのでよほど不用心に手を出さない(例えば「マムシ酒」にしようと捕まえようとしたりしない)限り、咬まれることは少ないそうだ。キノコ採りなんてするのはテラピーぐらいのものだし・・・マムシはともかく見たことのある「ヤマカガシ」には結構強力な毒があるのには驚いた。

      

      

実は2008年、原宿で猛毒蛇が見つかったのはかなり大きなニュースになったようだ。世界最強毒の蛇の他50匹以上の毒蛇が無許可で飼育されていて検挙され、その蛇達はぜーんぶこのスネークセンターに収容され研究対象にされたそうだ。蛇ってーのは恐ろしいなー。。。彼らの体温調節、捕食の仕方・・・ずいぶん勉強になるぜ。。。歩いて行くと「ヘビ料理」の看板が。。。食堂は閉まっていたが注文はできるらしい。。

        

「あのうー、何を出してくれるんでしょうかねー?」やけに元気のいいお土産屋のおばちゃんに聞くと・・・
「まずはねー。生血を飲んでいただいて、一匹に一つしか取れない肝・・・後はご希望でハンバーグか蒲焼ってぇのが流行りですかね。大きさによりますが4500円から・・・・」時価かよ。。。「ヘビの種類はやっぱマムシですか?」
「そうねえ。。普通はマムシねー。そこにいるのもそうだもんねえ」見ると入り口にあった籠の中にまだら模様のへびが・・・

   

「おっオレ、生のヘビはなし!顆粒とかノーマルなヤツないの?」おばさんはにっこり笑って、「試してみますか?『肝入り』は結構貴重でねー。運転しなければお酒買っていく方多いですよ」アルバート悪い(運転手)!ちょっと試させてもらうぜ。。。製法を見ると何百匹のマムシを高純度のアルコールに浸し、10種類以上の生薬を足した上、特殊製法で何年も寝かしいわゆる「マムシ酒」を生成するそうだ。濃度29度!私は迷わずその一本を購入してしまった。精力絶倫とかいう噂話よりは、深酒する前に一杯でも飲めば(養命酒のように)悪酔いしなくなるようなのだ。そりゃー話のタネには素晴らしいよねー。
そろそろ時間になったので「かわいい子ヘビと触れ合える館」に足を進めた。子供が結構集まっていたが、係員が籠から取り出したヘビに誰も近寄らない・・・
「卵から孵ってずーっとエサを与えてきて懐いたんですよ。普通のへびはこんなに大人しくないんです。これは『アオダイショウ』だよ。可愛いもんでしょ・・・」

子供達は興味深そうに見ていたが、さすが現代人っ子?へびを持とうとする子がいない・・・意外にママ達がしゃぁしゃり出てきてカメラを構え、「●●っ、ほら、こっち向いて、ママもギリギリなんだから・・・早くしろよお前よぉ!」まあまあ・・・あんまり好きではないがこんな機会ないもんなー。私は子供が躊躇するスキをついて、人生初のヘビ抱っこだ!冷血動物ならではの・・・と思ったら意外と温もりがあるぞ・・・なーんとも言えない肌触りだなー。。。
(まあ、はっきり言って「お化け」に比べれば大したことはなかったよ)イグアナも「まあ、お前らなら珍しいもんだろ」みたいな顔をしていた。

      

一通り見回って満足し、洞窟のような切り通しに入ったが驚くべきことに「金山」で経験したようなひんやりしたところだった。壁には鮮やかな緑色のコケが繁茂しており、滴る水に小さな姿の雨蛙とか・・・同行していた同僚がつぶやいたの。
「ここってそもそもビーヘーの絶好の生息地じゃーないすか?!」そんなことは来た時からすべてお見通しなんだよ。と心の中で苦笑していると「わーっ、今何か動いたぞ!これ、明らかに敷地外じゃんか!「ほら!あっちのヤツ・・・ヘビだべ」我々の目の前を小さなビーヘーが横切って見せた。ホントに出るじゃんか・・・

    

出口にいたおばさんに、「ここ放し飼いのヘビ逃げてません?」と恐る恐る尋ねると、「いーえ、囲いの部分は『返し』という構造になっていてヘビは出られなくなっているから大丈夫」「だってぇ、あっちの洞窟歩いてたら、一匹いましたけど・・・」「あーっ、それは元々この山に住んでるヤツだろねー。お騒がせ様!」
この山ならマムシでも何でもいるような気がする。。。こうなると道にある何でもがヘビに見えてくる。3人は言葉少な足早に駐車場へ向かい、なぜか猛スピードでスネークセンターを後にしたのだった。取りあえず目的は果たしレポートは書けそうだし・・・再び足を運ぶことはないような気がする。。。

「ステーキ」という響き

2012-08-10 21:45:13 | 食べ物
子供の頃、お祝いなどのご馳走と言えば「ビフテキ」であった。これ自体がもう死語と化しているかもしれない。
銀河鉄道999で鉄郎がメーテルと初めて999に乗車し洋風の食堂車に行った時、メニューにあった横文字に辟易している鉄郎にメーテルが「鉄郎、ビフテキ食べましょうか?」「う、うん、それがいいよ。ビフテキ二つ!」ウェイトレスのクレアさんが「焼き方は?」と訪ねると鉄郎は再び「焼き方?えっ、えーと・・・」メーテルは優しく「焼き方はミディアム、それからコーンスープ。私はパン、鉄郎はごはんね」そんなやり取りがあった昭和の時代である。
富山出身で(バイ貝とかかなり偏った)魚貝類しか興味の無かった父も、息子の誕生日はレストランでステーキとしており、茅ヶ崎駅南口の「ルアン」、同北口の「松坂牛の店ジャルダン」そしてR134号線沿いに昔はあった「銀座スエヒロ」とグレードアップしていった。
(確か以前、ここまでは同様のことを書いた)

「記念日にはステーキ」という習慣は新たな世帯となってからも我が家に続いてきた。結婚直後ニュージーランドにスキーに行った時、滞在したのはクイーンズタウンという湖の近くの星の綺麗な小さな町だったが、妻の誕生日祝いに入ったのも「ビーフイーター」という小さなステーキハウスだった。私は20代の時は卒業旅行にオーストラリアに行ったことしかなく、ステーキのすごさは知っていたがそれはあくまで「オーストラリアビーフ」だからで、他国のステーキもそうだとは全然思ってもいなかった。しかし出てきたのは正しくレンガ色の「山川日本史」サイズの大型サーロインステーキ、面積は半分だが厚みは5割り増しのヒレステーキを前に出された妻と目を見合わせた。。。しかしお隣の仲良し老夫婦は私の山川日本史サイズのステーキに加えて世界史も付いている二段重ね!しかも私達が早々と放棄してしまった、付け合せのご飯茶碗サイズのポテトを共にペロリと平らげていた。何となく外国はどこもアメリカ、と思っていた我々は「この国に戦争仕掛けるやつぁバカだよ」とつぶやいた。

結婚後、ドイツで欧州各国の派遣者と長々と研修を受けた私は、少しは欧米文化に触れ始め、英語が得意なわけでもないのに、渡航することに抵抗がなくなってあちこち海外を仕事で飛びまわった。本場米国でステーキを食する機会が何度もあり(ロブスター以外はステーキしかないんじゃないか?)その歯ごたえと巨大さはよく知るに至った。
息子甘辛は幼い時から贅沢をさせた訳ではないのに(祖父の遺伝か?!)、お店で雰囲気よく味わうステーキが大好きで、ランドマークタワーの「鉄板焼よこはま」で幼稚園前に一人前ペロリと食べてしまったことはもう書いた。どこで覚えたのか「黒毛国産和牛?」「ミディアムレアー?」とどこに行くにも訪ねる癖がついてしまった。

その甘辛がアメリカンステーキの味を覚えたのは、家族で毎年サイパンのPICに夏休み旅行をしていた時である。普段は多国籍ブッフェ(ビール、ワインはセルフで飲み放題)で食事を済ますのだが、大体妻の誕生日が近い日程だったので、「シーサイドグリル」という海辺のレストランで一度はディナーをとった。三食オールインクルードのカードだったのだが、子供はキッズメニューだったので甘辛はあまり行きたがらなかったところだ。しかし私のサーロイン、妻のフィレを半分ずつ分けてやっているうちに味を覚え、「でかいステーキが食いてえ〜」と言い出すようになった。彼にはど迫力の「血も滴るごっつい見た目」も大事だったのであろう。それならというので、繁華街にある「カントリーハウス」という口コミでは中々評判の良かったステーキハウスに行くと、園児なのに300グラムのステーキをやはりペロリと平らげた。やはり妻の誕生日であることを予約で告げていたら、壁にあったTDLのカントリーベアジャンボリーの壁掛けトナカイ達が歌を歌いだした。それ以来甘辛曰く「トナカイが歌う店」に必ず一度は行くようになったのである。

その後、グアム島旅行で訪れた「アウトバックステーキハウス」や「トニーローマ」、ハワイ島の「ハゴス」、ボストンサマースクールの修了後ニューヨークで待ち合わせた時に、予約してやったヒルトン近くの結構有名な店(名前忘れた)など、海外を訪れる時は必ずと言ってよいほど、迫力のステーキハウスに足を運ぶことになる。
子供の彼はもちろんのこと、最近は少し魚介派になってきてしまった我々も「たまのご馳走」はやっぱりステーキであり、霜降りの上品肉もよいが記念日は、やはりど迫力ステーキでワクワクするのを選ぶのは小さい時から変わっていない。

昨年、息子の誕生日祝いには平塚の店に行ったのだが、今年は久々にがっつり「迫力ステーキ」を食べようということになった。あの「アウトバックステーキハウス」が海老名の「ビナウォーク」(ベタな名前)にあると言う。もう10年も前のことだからメニューなどは忘れてしまっていたが、何もかもがアメリカンサイズというのだけ覚えていた。久々に「これぞ肉っ!」というようなステーキに塩とコショウだkで味付け、ひたすらシンプルに赤ワインがぶ飲み・・・を企み、実家の母とともに家族で茅ヶ崎から相模線(乗るのは超久々)で海老名に向かった。早めの来店だったので客はほとんどいなかったが、ジャパニーズスタイルにアレンジされているかと思ったら、意外にも本家と同様のサイズを誇るらしい。「今日のオレはアメリカ人だからなー。」

家族みんながメインディッシュはめいめい「これぞステーキ」というものを選んだ。そして店頭で配っていたサービス券で始めてみるオニオンフラワーを注文。「おーっ、テレビで見たことあるけど、こりゃー面白えなー」コストコで5kg300円で売っている玉ねぎを丸ごとフライにしただけで1000円とは「やられて」いるような気がするが、初めて見る迫力あるサイドディッシュにに喜んで手を出していた。やがて4人ともに大きな肉がジュージューいいながらサーブされてきた。実は見た目もそうだが、この景気のよい「音」もステーキの重要な演出だと思うのだ。私はアウトバック・スペシャル、妻と母はビクトリア・フィレ、甘辛はニューヨーク・カット300gである。幼い頃と違い、アペタイザ含めて全然足りぬらしく、私と母の分を半分くらい取り上げ、妻からも肉をおすそ分けしてもらっていた。

  

ディナータイムでは我々がほぼ一番乗りだったのだが、いつの間にか店内には次々と来客があり、見渡すと驚いたことにかなりの数の外国人が・・・メインディッシュはもちろん、サラダやサイドディッシュも巨大な訳がわかった。また同じ県内で横浜やみなとみらいにはなく、何故海老名なのか?も理解できた。なーるへそ、米軍基地が近いからか。。。私だけ「レア」で注文した血も滴る」分厚いステーキと赤ワインをたらふく飲み、普段外食そのものの機会が少ないので目新しければ何でもよさそうな母も老齢ながら歯応えのあるステーキを口にして満足そうだった。   

          

息子甘辛の年代(実は彼も魚介派?!)と違い、我々の年齢になると地方的なものあり普段は魚介に走ることが多くなってきた。妻は酒の肴としては割りと何でも作ってみせるが、相性は断然さかな系のほうがよい。「イカをきらせたら暴れる」とまで中毒化したときもある。
しかしやはり何と言っても記念日にワクワクするのは「ビフテキ」である。これは昭和の文化だろうか?子供はともかく、私も妻も老母もこぞってこの日だけは分厚いステーキで盛り上がるのである。

遠くの花火

2012-08-09 04:33:02 | 出来事
子供の頃から近所の花火大会と言えば茅ヶ崎と江ノ島だった。どちらも規模としてはさほどでもないし目玉があるわけでもないが、海岸で打ち上げられるから浜辺ならどこでも見ることができ、場所取りやら煩わしいことがない。チャリで海岸の適当なところに乗りつけ、サイクリングロードを打ち上げ地点まで散歩がてら歩いていた。どこがベストポジションというのはあまりなく、ただ何となく打ち上げが始まると花火に向かって近づいてしまうのである。今でこそ花火の美しさを無邪気に楽しむようになったが、中高生の時は正直あまり興味はなく、「ドンドドン」という音がしても出て行かないのに何となく罪悪感を感じたからで、「彼女」と一緒に歩く、というよりは「彼女連れ」のヤツを冷やかす、という侘びしい目的しかない。

高校、学生になると少し行動範囲が広がって、「横浜開港記念花火大会」がメインになってくる。大桟橋あたりに場所を取るのだが、ものすごい人の波で明るいうちから行かないといい場所をGETできない。この年齢層の男性軍は女性軍のために労を惜しまない。買出しチームや場所取りチームに分かれ、早ーいうちからけな気にも準備を進め、浴衣姿で現れる女性軍を待つのである。どのグループにもこういう時のオペレーションを完璧にこなす「奉行」がいるもので、酒やつまみ、開始まで待つ間のBGM(ラジカセ)まで用意していた。私は、と言うと恐ろしく場所取りがヘタで、8人しかいないのに缶ビール2ケースも買ってくるような「使えない」ヤツだったので、重要な任務を任されることは決してなく、せいぜい待ち合わせの関内駅まで女子を迎えに行くような役だったが、これが意外に「美味しい」のである。当然集まった子全員を横にはべらせて大通りを歩くからだ。また場所取りや準備のプロセスについて「自分がやったわけではないのに」苦労話っぽくにしてみせ、女の子の感謝を一身に集めることができるのである。

他に桜木町の神奈川新聞主催大会や、厚木鮎祭りの花火大会もかなり立派なものだった。東京には隅田川とか東京湾とか、神宮外苑とかもっと有名な花火大会がたくさんあるのに、不思議にどれも訪れたことがない。
社会人になってから学、生時代の先輩のいるつくば研究所に遊びに行き教えてもらってたまたま訪れて度肝を抜かれたのが「土浦全国花火競技大会」である。「全国」と「競技」という名称がついているところが他の大会とは違う。しかも開催は毎年10月の第一土曜日で真夏の花火ではない。文字通り翌年の花火大会に向けた全国の花火師が「新作」の花火を披露し、競技に集う会なのである。以前にも紹介したかもしれないが、「10号玉の部」「スターマインの部」「創作花火の部」に分かれて実に2時間半競技は続く。「普通、花火大会ってフィナーレで『どどどーっ』と最大に盛り上がるだろ?スターマインなんてアレが最初から終わりまで続くようなものさ。」先輩談だったが、まさしくその通りだった。桟敷のような間近で見ていたわけではないのに、あまりにすごくて花火の燃えかすが「火山灰」のように降ってきたから。

そして意外に身近で全然縁が無かったのが鎌倉水上花火大会だ。規模は小さいがなんと言っても、専用の小船でポイポイ海上に撒いて行った花火がしばらくして「ずどぅうぉーおーん」と尻から胃の内部に向けて衝撃波が走るような半球型の花火は他では見られない見事なものだ。この日だけは江ノ電も横須賀線も鎌倉駅は人で溢れ帰り、海岸までの大通りは文字通り会場に向かう人で埋め尽くされる。最初に来たときに一緒にいた幼馴染の「ガンさん」はお腹の調子がたまたま悪い時だったらしく、あの見事な水中花火が炸裂するたびに脂汗を流してうずくまっていた。。。今年は妻と、小夏師匠ゆかりの「パークホテル」あたりまでチャリで来て見ようと話していたが、残念ながら丁度逆に妻が北関東を訪れていたので実現しなかった。

家族で行くようになってやはり見事だったのは冬の「熱海海上花火大会」である。クリスマス前夜あたりに一度「一碧荘」に宿泊して見物に行った。冬の夜だから寒さ対策は要注意だが、何せ空気が澄んでおり、炸裂の音が後ろの山々にこだまして荘厳に響き渡る。フィナーレではその山々の上の空を真っ白に埋め尽くすのが圧巻だった。土浦などを除くと、少し前は冬の花火などスキー場以外ではあまり見られなかったのだが、ここで初めて経験してから俄然好きになった。
あと、仕事で淡路島を何度も訪れていた時に関西空港から羽田への最終便が千葉から着陸するために、よく東京ディズニーランドの花火が真上から見えた。ただ音とか聞こえるわけではないので、単なる珍しいものを見た、というだけだった。(実はヘリで上空から見物したり、クルーズ船で見るものもあるらしい)

さて我が地元花火大会だが、開催日は大体江ノ島が夏休みに入って数日後、茅ヶ崎は8月の最初の土曜日あたりだった。江ノ島花火は社宅のベランダから何度か見たし、海岸まで行って見たこともあった。今の家は海岸が歩いてすぐなので、社宅のお友達家族達と大勢で浜辺で宴会し、2次会は我が家ということがあった。息子甘辛がまだ幼い頃で、同じ年頃の子供達は花火が始まる前に海水と砂にまみれて海坊主状態だ。打ち上げが始まってしばらくたつと、不思議なことに炸裂音が妙にダブっていることに気がついた。「なーんか音が滲んでないか?」自分だけ聞こえ方がおかしいのかと思ったが、一緒にいたメンバーも変な顔をしている。よーく見てみると、江ノ島の向こうが明るくなって小さく丸い光が見える。その日は逗子海岸でも花火大会があったのだ。遠近両用「●OYAバリラックスⅡ」のような花火だ。

驚いたのはその直後である。「おーっ、あっちにも小さい花火が見えるぞー」甘辛の声に反対側の西方面を見ると、逗子よりも大きな光の輪が・・・平塚も開催していたのである。そして何と、その向こう側にさらに小さな光が炸裂していたのを発見した。後から調べたら、小田原酒匂川の花火大会だった。。。一晩で湾内に4箇所、同時に花火が炸裂するのを目にしたのは最初で最後だった。(日程も少しは考えりゃいいのにねー。)
今年は江ノ島花火大会は8月のお盆過ぎに納涼の小さいやつを開催し、11月に落ち着いた雰囲気で行うらしい。何せ大した花火大会じゃないのに、人だけはものすごくたくさん来るからなー。

先週の土曜日、夕方サーフィン可能となった海水浴場で、台風接近のためかなりビッグサイズの波に翻弄されてヘトヘトになった私は海岸線を西に歩く浴衣姿の女性が多いことに気付いた。
「今日、茅ヶ崎の花火大会じゃんか。これから行こうぜ」その場にあった飲み物をリュックに入れ、二人でチャリで出動することにした。数年前、浜須賀の大型陸橋の上で眺めていたのだが、風がないせいで煙が流れなかったのか、明るくなるだけで音しか聞こえなかった。どこまで行くか迷ったが、見物人の喧騒にそろそろ疲れを感じる年齢になったのか「ここいいんじゃね?」と選んだのが、ジャンボプールを背中にした海浜公園の西向き階段の上である。目の前のモニュメントが若干邪魔だが富士山のシルエットが見え、中々の景色だ。どのように見えるのかわからんが、方角的には富士山の左に上がるはずだ。

  

先客が二組、後から家族連れがきて、続々と見物人が集まり始めた。結構隠れ名所なのかな。隣りの家族に「あのーぅ、ここからはどう見えるんでしょうか?」パパと連絡を取り合っていたお母さんは「実は」よく知らないらしい。。。もう一人隣りにいたおばさんに聞くと「さあ・・・海岸まで出れば間違いないけどねー」
もしかして人がたくさんいるから、何となく見物に集まっているだけで、どう見えるのか(そもそも見えるかどうか)誰もしらない?!しかし、花火大会が始まると、あまり大きくはないが遠方に綺麗な輪が見え始めた。カメラに詳しければもう少しカッコイイ写真が撮れたかもしれないが・・・構図だけは中々なものだと思うが。。。(薄ーくだけ富士山が写っている)間近で見るのも迫力あるが、遠くで静かに飲みながら見るのもよいものだ。
来年の鎌倉はやはりこの要領で稲村ヶ崎の先あたりから眺めることにしよう。

      

  

遠距離通勤開始

2012-08-06 21:44:42 | 出来事
灼熱の北関東、KICK師匠がご帰郷なさる時に乗り換えたという県東部のT林市は連日、熊谷を抜く日本一熱い街・・・2年間寝泊り(あえて住んだとは言わない)したマンションを退去する日が来た。仕事が変わったわけではないから、自宅からの通勤としたのである。この地方に赴任して丸2年、仕事のかたわら、県内の名所名物を隅々まで堪能していて何の不満もないが、「早朝シリーズ」もいい加減ネタ切れとなり、夜寝るだけのために(怖いし)一人住まいする必要も感じなくなってきたのだ。飲む機会が多いから翌日のことを考えると楽だが、その分際限もなく飲んでしまうし、寒い地方で一人メニューなどを作るとどうしても塩分が多すぎて血圧も上がり気味だった。

ここに至り、今月から新幹線で約2時間かけ遠距離通勤することにしたのである。(ホントは制度上NGっぽいらしいのだが、無理やり承認してもらった)
私は予てから「人間は集団で住むほうがよい」と思っていた。一番手っ取り早いのが家族である。他人がやってくれるのを期待してはいけないが、人には得意と不得意があるので、まるっと全部一人でこなすのは実に効率が悪いし、この低炭素時代に逆行する余計なモノが多い。一旦分離してしまった生活スタイルを元に戻すだけでも恐ろしく煩わしく、妻の協力が無かったら引越しそのものにめげていたかもしれない。

一応、県内の全ての施設他多数の「ヒト、モノ、カネ」を預かる身だから、いざという時に自県にいない可能性もあるのは関係者のコンセンサスを得ておかなければならない。と言っても、金曜の晩から月曜の朝までは自宅にいるから、実に1週間の2/7以上県内にはいないわけだし、最近では最大級の「いざと言う時」すなわち、大震災の時は出張帰りで帰宅難民になり翌日まで駆けつけられなかった。。。横浜に自宅があり同じマンションに住む同僚「ガノさん」は「なーに、連絡がつけられりゃーその場にいなくても現場は回るもんですよ。」全くその通りだと思ったが、それはそれで釈然としないものがある・・・(いてもいなくても大して変わらん?!)

次は転居の届けと通勤経路の変更処理などである。どこに聞いたらよいのやら全然分からぬのでトミーが調べてくれた。昔はヤマのように書類を提出しなければならなかったが、今は便利なことに大概はオンラインでできるようだ。新幹線で通勤するには結構な費用がかかるので、その承認条件は意外に厳しい。そもそもこんな長距離通勤をするものは他に類を見なかったらしく、色々とヒヤリングされて様々な作戦を駆使しようやく認められた。様々な手続きはすぐに終わったが困ったのは大物家電の行き先である。同様に単身生活していた前任が置いていってくれたのは重宝したが、引越しパックで我が家に持って帰っても使い道がない。まだまだ使えるし捨てるだけでも結構な費用がかかる。いっそのこと強権発動で県内にたくさんあるフロアが有り余っている事務所で「使え!」と持って行ってしまうことも考えた。

救世主として現れたのは4月に「隊長」の後任としてやってきた「ザワさん」だ。私のマンションがいっぱいで入れなかったので、オフィスに近いワンルームマンションを借りて住んでいるが、単身生活が初めてで生活用品がほとんど何も整備されておらず(忙しいポストなのでなかなか揃わなかったのだろう)、カーテンすらない部屋で明るくなったら起床していたという。基本的にあらゆる家電を引き受けてくれることになった。(ついでに大型ゴミも持って行くと言ってくれたがさすがに遠慮した)
前任が置いていった蛍光灯は初登場、八兵衛に代わって着任した「ジローちゃん」に引き受けてもらい、次の「燃えないゴミ」までどうしても捨てられないゴミは所定のビニール袋に分けて何人かの住人に預かってもらった。(この辺りは前述)

布団とダンボール、そして退去時にばばばーっと詰めて運送屋に渡すボックス以外何も無くなった部屋で、単身マンション最後の朝はまだ暗いうちから目が覚めた。「じゃあ、最後の早朝スケボーを」と玄関に歩いたが、とっくに持って帰られていた・・・・
冷蔵庫もカラ、洗濯物もないし掃除機もない、どうにもやることがない中で、燃えないゴミを預かってもらう住人の部屋の前に置いて回った。また業者に予約しておいた大型ゴミとしてリビングテーブル、衣装ロッカー、スチームテレビ台などを朝方からガタガタとエレベーターホールの外に出し、床やサッシを拭いて回り、これまたガタガタと洗濯機をドアの外に出したら、下の床だけは掃除がまだだったのできれいにしておいた。(そんなの応援部隊が来てからやればいいのに手持ち無沙汰だったので)朝の9時ぴったりに約束通りザワさんが後輩を連れて現れ、冷蔵庫、洗濯機、電子レンジ、カーテン(ここまではホントに持っていなかったらしい)、FAX、ウォシュレットなどを引き取って行った。

彼らの運び出し作業が終える頃、見事なタイミングで運送屋がやってきた。普通の引越しよりはよほど楽なはずなんだが、午前中でも35度を越える灼熱の世界・・・大変だと思う。このプランはいわゆる引越しのようにトラックに積み込んですぐに引越し先まで運ぶものではなく、大きなBOXを用意してその中に入りきる分を詰め込んで持って行き、通常の宅配便のような配送ルートで運ぶものだ。だから荷物が届くのは数日後ということになるが、やけに割高の引越しプランの数分の一の費用で済んでしまう。あっという間に荷物の運び出しが終わった後、またまたタイミングよく電気、ガスの検針が終了して退去の立会い検査を終えてもらったのが午前10時前。。。

      

歩いて数分のところに今まで一度も行ったことがなかったが、結構有名なスパゲティ専科の店があり、最後に人気メニュー(たぶん半分ゲテモノ)を試してから去ろうと思っていたのに、開店前に全て終わってしまった。湿度の関係からか夜中にフローリング部屋でパチパチ妙な音がして恐いのを除けば実に快適な部屋だったので、あらためて名残惜しい気分になり、しばらくしんみりしていたが、何せ扇風機もなければエアコンはあっても動かない・・・あっという間に室温は推定30度を超し、とてもじっといられる状態ではなくなって、仕方がないので自転車で新規に契約する駐輪場に向かい、翌月からの契約を済ませると新幹線に乗り込んだのである。

  
    
遠距離通勤を開始して1週間、朝6時発の列車でも東海道線は空席がないからすごい。(大体途中で座れるんだが皆、どこへ通勤しているんだろう?)朝早いのは全然平気だし、妻が起き出している時はおにぎりを作ってくれるので新幹線で朝食だ。実は昨日、これまでで最も手ごわい資格認定試験があったので、往復の通勤ではかなり真面目に勉強した。快適な通勤だし読書量が増えそうだなー。月内はスポーツクラブと契約があったので、最後まで通った。初心者や年寄り向けのプログラムの多いジムだったが、もうAKB48を踊れなくなるのが残念だ。「結構頻繁にお出で下さったのに残念ですねえ。。。」そうなんだよ。やることないから、(飲み会の無い日は)夜にジムに行って、朝はスケートボードという生活に何となく飽きてしまったんだよ。「ここで運動するのは快適でしたよー」にっこり笑い手を振ってまだ明るいうちに施設を後にした。

  

自宅最寄の駅近くの元いたスポーツクラブに再入会、となり駅の巨大モールの裏に最新式のフィットネス&スパがオープンし、記念入会すると永久割引が得られたということを教えてくれた。
妻も知っていたが、ハンパな施設ではないらしい。天然温泉の大型スパに何種類ものサウナ、リラクゼーションルーム、インターネットコーナー・・・これだけでも高級リゾート施設っぽいのに、ものすごい数のスタジオプラグラム、私が会員のクラブの3倍近くある。。。また夜の部にはバドミントンやミニサッカー、バレーボールにバスケットボールなど私の得意とする球技系がたっぷりあり、体育会系の血が騒ぐ・・・でも残念ながら割引特典は入会金以外今はやってないらしいし、一駅移動すると時間が合わない。転勤にでもなって自宅通勤の時間に余裕ができたたその機会にチャレンジしてみるか。

慣れもあってか勤務先が「住みにくい」とは思わないが、毎日ニュースで取り上げられるほど日本有数の高気温エリアではある。最高気温だけ比べると、我が街と5度も違う。。。久々に茅ヶ崎の花火大会を近所で見たが、特に朝夕は海岸からの涼しい風が懐かしかった。
今はいいが、冬になると真っ暗なうちから出勤しなければならず、それなりにキツいだろうが、ずーっと続くわけでもなし、少しずつ昔のレベルに戻していこう。この通勤を終えるまでに通算どれくらいの読書時間があるか・・・ご推薦の本があったら何でもよいのでメールくださいねー。今なら漏れなく特製「読書感想文」をつけてお返しします。

湘南より妻、再来す

2012-08-02 05:05:53 | 出来事
昨年、私が単身寝泊りするマンションに妻がやってきたのも今頃だった。夏休みに入り息子甘辛のサッカー合宿の時に合わせて、大掃除をしに来てくれるのである。今回は引越しの準備も兼ねていたから特に、甘辛の集合時間に合わせて早朝から自家用車で出発し、そのまま北関東まで駆け抜けて持っていけるものは持って帰るという強行軍だった。大物家電は単身したてで冷蔵庫も洗濯機、カーテンすらなく「明るくなると起きるしかない」というザワさんにほとんど引き取ってもらうのだが、それでも布団などを入れれば結構な数のダンボールになってしまい、引越しパックを使うと夏休みで混んでいることもあって、想像以上に経費がかさみそうだったため、できる限り自己解決するという方針だったのだ。

総行程160キロを妻単身で帰り運転してもらうには心配だったが、行きに私が運転して道路の要領がわかれば大丈夫そうだということで、頼むことにした。朝の5時過ぎに息子を集合場所まで送った後、そのまま第三京浜-環八通り-関越自動車道という単純なコースである。環八通りは246号を過ぎて、用賀、高井戸などを通過して、西武新宿線井荻駅の開かずの踏み切りを越すまで「悪夢の渋滞」として、その昔はスキー、軽井沢旅行などで使った環八練馬入り口までは「地の果て」だった。
学生時代、キャンパスに集合してどこへ行くにもこの悪夢のルートに悩まされ、運転手はヘトヘトになった。路駐車両もやたらに多く、あまりにも走りにくい道路だったためわざわざ環七通りまで行って遠回りしたものだ。

それがいつの間にかあの辺りの万年渋滞道路が、完全地下化し長ーいトンネルで一気に駆け抜けられるようになっていた。環八通りを通過するのにわずか数十分!早朝とは言え自宅からマンションまでわずか2時間半あまりで到着してしまった。全く渋滞のないポインター号での帰宅では4時間半かかったことに比べれば驚きだ。同僚には「交通事情によっては遅刻するかも・・・」と予告しておいたのだが、予定よりも1時間近く着いてしまったので、途中まで荷造りなど準備を進めている部屋の中を見せ「どうして欲しいか」説明した。
「全然使ってなくね?」約1年前には見事に整理されていたキッチンなどの水周りアイテムが当時のままになっているのを見て妻は呆れて、ゴミではないが至るところに落ちているグッズを拾い始めた。
確かに「クイックルワイパー」1枚以外は使った記憶がない。。。

死ぬほど汚くしているわけではないが、決して清潔にしているわけでもない。2泊3日の日程でどこまで綺麗にしてくれるか、妻の手腕に頼むしか無かった・・・ダンボール梱包や大型ゴミの処理、いらない家電の引き取り手探しなどは私が担当することにした。引越し時に頼んだのは「単身パック」という引越しというよりは、大型の宅配便でケースに入るだけ持って行ってくれるものだ。今出せないから「燃えないゴミ預かってぇ」などと半ば強権発動で持って行ってもらったり、ムーブに積めるだけ積んで、大物は布団と大型ダンボール数個、後は小間物だけにしてしまい、ミニマム費用で済みそうだった。

前回は「日本で有名なうどんと観音」そして有数のパワースポットである神社に連れて行ったが、恐らく妻にとってはこの県での観光の機会はそうそう縁がないだろう。特に数々の人から教えてもらった県を代表するゲテモノメニューを堪能させる最初で最後のチャンスのように思えたから、珍しく食事の場所は自分が決め、昼ごはんは会社を抜け出して待ち合わせた。「あずまや」の肉汁うどん、「はしごや」の一発ラーメンなどがそうだ。どちらもいかにも田舎のゲテモノ料理だが味はお薦めだ。1日だけ晩御飯はパスタの店を探して初めては行ったが、幸いにもかなりのアタリ店で中々評判は良かった。実は昨年妻が自分で探して気に入っていた「エヴィータ」というイタリアンはたまたま休業日だったのだ。

    

我が妻ながら驚くべき周到させマンションの大掃除は進んで行き、翌日午前中には引越し時まで使うものを除いてはほぼ片付きそうだったので、荷物の梱包も兼ねて私も半日休暇をとり、日が高いうちにプチ観光することにした。マイカーだから手軽だが、ぱーっと行けて、現地ではそこそこ見所があり時間を要す場所でこの県で「一つだけ見せておきたい」と言ったら・・・・「東洋のナイアガラ」である。
県内でスティーブと滝巡りをしている私は、この滝は着任してすぐに訪れたが、仕事の途中だったのでホントに掠めた程度だった。ネットで周辺のスポットを調べると、渓谷の周りを数十分かけて歩くようなコースがあるようだ。地元でもよく散歩で歩き回る私達は観光バスが駐車するお土産屋からのコースではなく、手前側から何箇所か観瀑ポイントを経て滝へ至るルートを少しウォーキングすることにした。

      

すぐ向こう側で滝の見物者への案内テープが聞こえているのに、なぜどんどん山道を登らなければならないのか?!運動靴でない妻はどうも不審な顔をしてついてきたが、15分も上り続けるルートではかなりキツかったらしい。観瀑ポイントはそれなりに見事な風景だったが、「ここ歩くのは無理があるんじゃね?」と言いたげだった。(実際言っていた・・・)
下りルートになって滝の上流の大きな川をつり橋で渡ると小さな観音様があり、もう一つ釣り橋を渡って、いよいよ本編の滝まで川沿いを歩く。観音様で購入した平べったいお線香は、火の部分が通過して灰になると「文字が浮かぶ」という中々面白いものだ。

        

東洋のナイアガラとも言われるそうな、その滝にはたくさんの観光客が訪れていた。スケールは違うが見事なものだと思う。吸い込まれそうな恐ろしさもある。「いいだろ?苦労して歩いた甲斐あったろ?」(別に駐車場から降りてくればすぐなんだが)無理やりそういうことにして、恐ろしい顔をした般若の岩を過ぎ、もう一つある「鱒飛の滝」を見学し、もとの場所に戻った。おおよそ1時間くらいのコースでウォーキングの準備をしてくればちょうどよい運動になる。小さな土産やには「まむし」の皮なども売っており、この辺りに生息してそうなことがわかった。山道には「クマ出没注意」という看板はあったが「マムシ注意」という看板はなかった。(当たり前だ!マムシ注意なんて看板を見たら誰も近寄らないだろう。奴等に哺乳類同士にある感覚は通じないだろうから)

          

少し汗をかいたので、少し車で走ったところのO神温泉へ。それこそ路上に蛇の死骸があるような山道を走っていくと突如川沿いの傾斜地に温泉街が現れる。その中の日帰り温泉施設に寄っていくこちにする。八兵衛に教えてもらったO上温泉ほどのすべすべオブラート感はなかったが、日本一きれいな日帰り温泉と自称する温泉だった。幹線道路からはその存在すらよくわからないところで風光明媚なところだが、付近の道路で見た蛇の死骸がどうも気になり・・・・(露天風呂に入っているといきなり混浴になったりして)帰りの道路がやはりすごいつり橋で車で渡った後、写真を撮りに戻ったのだが足がすくんで歩けなくなりそうだった。。。

      

晩御飯はワインで乾杯できるところがよいだろう、と一旦マンションまで戻り駅周辺のイタリアンレストランへ足を運んだ。普段グルメサイトなど見たこともないのだが、前回良かった「エヴィータ」が定休日だったので別に色々探し、(外し王の私は少しドキドキしながらも)とあるレストランのドアを叩いた。平日で客は私達だけだったが、がちがちの固ゆで太麺にベタベタのガーリックたっぷりソースで数日間胃にもたれるようなこの地方特有のパスタではなく、どれも丁寧に作られた欧風料理という感じで、妻も満足していたようだ。部屋に戻ると既に大掃除はほぼくまなく完了し、後はダンボールに色々と送るものと捨てるものをよりわけるだけだ。

翌日妻が帰る朝、自家用車に積めるものは積んで部屋を出た。私なら部屋中の荷物を積めるだけ積むのだが、一人で運転して帰ってもらうから後ろが見えないと危ないと思い、後ろの窓が塞がらない程度に抑えておいた。そして38度を超す昼休み、汗だくでマンションまで自転車で帰り、最後に何が残り自分で梱包しなければならないか確認した。この部屋に寝泊りするのもあと2日、部屋で飲むのは自制しているのだが、何となく寂しくなってセブンイレブンに足を運んだ。チューハイを買い込み、床に置いたテレビを見ながら夜を過ごしたのだった。