超兵器磯辺2号

幻の超兵器2号。。。
磯辺氏の文才を惜しむ声に応えてコンパクトに再登場。
ウルトラな日々がまたここに綴られる。

歴史を学ぶということ

2012-06-29 15:35:51 | 書籍
先般、紹介した「もういちど読む山川日本史」を一通り読み終えた。さすがに寝る前に寝転びながら読み進めてもあっという間に睡魔に襲われてしまい、電車の中だけで一気に読み進めただけなのでずいぶん時間がかかってしまった。記憶力が優れているわけではないが、学校で日本史が必須教科だったから、一度習ったことは何となく甦るものだ。「おーっ、こういうのあったなー!」「ちょうどこれを習っていたとき関東大会予選でPK負けしたよなー」「ちょうどこのあたりはつまらなくて、内職で磁束密度『テスラ』とか覚えてたなー」・・・どうでもいいエピソードばかり甦るものだ。

今にして思うと、中学高校で履修した教科はいくつかのジャンルに分類されるような気がする。
●その先、実用性が一番実用性が高くともすると知的成長よりは実利が優先される・・・・・・国語、英語
●一部の人の特定の分野には高い意義があるが、それ以外は忘れても全然問題ない・・・・数学、物理、化学
●身体の動きを通してセンスを磨き、あわよくば開花させてその道に進む・・・・・・・・・・・・・・・体育、音楽、美術
その中で「史学」というのは、どんな意味合いを持っているのだろうか?考えてみれば不思議な学問である。何せ過去に「終わってしまったこと」なので、タイムマシンでもない限り真実は確認しようがないからだ。
ぱっと思いつくのは
・日常の仕事などの中でさりげなく、歴史上の単語をちらつかせると知性的に見えてかっこいい。
・歴史的名所やアイテムなどに触れ、由縁たる過去の人物に想いを馳せると心が豊かになる気がする。

もうちょっとちゃんと言うと「そこそこ住みやすい『今』に至るまでの愚劣かつ血塗られたプロセスを学び、これからを『より良く』する糧とする」
個人的には人類学に近い「かくも人間とは愚かなものか」というのを学ぶ学問に見える。律令国家に武家社会、幕藩体制に大日本帝国・・・ごくごく近い過去を「古き良き時代」と言う人もいるが、歴史に虐げられ犠牲になった数え切れない人達の今からは想像もできない苦悩を思うと、過去に帰りたいなどとは絶対に思わない。そして国史の学び方も「ちょっと違うんじゃないか?!」というところがある。

以前、テレビで「スーパー小学生vs芸能人クイズ対抗戦」みたいな番組があった。小学生は有名私立校で既に難関大学を志望としている秀才揃いで恐ろしく賢そうな顔つきで皆眼鏡をしている。(芸能人の出演者は忘れてしまった)
どこかで書いて記憶もあるのだが、その中でこういう問題があったのである。「自由民権運動の板垣退助が暴漢に襲われた後に語ったとされる名言は何か?」
タッチの差で芸能人チームが回答した。「板垣死すとも自由は死なず」しばらくして正解のピンポーンが鳴り響いた。その直後、眼鏡のスーパー小学生から自信たっぷりの「物言い」がつくのである。「違うよ。『板垣死すとも自由は死せず』だよ」
私もそう記憶していたし教科書にもそう書いてあった。正解は覆らなかったが、ものすごい違和感(というより正直背筋が寒く)を感じたものだ。この子はこんなに幼い頃から「歴史」を学ぶことの意味を履き違えているような気がする。。。

私は歴史そのものを読み解いたりずるのは大好きなのだが、科目としてお勉強する気にはならなくなったトラウマ的エピソードがある。中学生のときに第2次世界大戦あたりの歴史がテスト範囲になっていて、その辺の著書も元々読み漁っていたから絶対の自信をもって臨んだことがあった。答え合わせなど必要なく満点以外はありえないと思っていたのだが、信じられないほど無残な結果だった。むろん小さな見落としもあったのだが、最もショックだったのが「ナチス党」と「ソビエト」と書いた回答が×だったこと。。。
ナチスとは「国家社会主義ドイツ労働者党」のことだと教科書には書いてあった。つまり「ナチス党」と記述すると「党」がダブってしまうので正しくないと言うのである。
ソビエト社会主義共和国連邦、又はソ連が正解なのだが、「ソビエト」というのは本来はロシア革命のときに作られた労働者・農民などによる評議会を言い、国家は表していないと言うのである。

その後、読んだ書物などにもナチス党という記述はあったし、国家として「ソビエト」とニュースでアナウンスするのも聞いた。まるで上記のスーパー小学生と言っていることは同じではないか・・・
そんな歴史の勉強に当時反抗期にいた私は思い切り「くだらなさ」を感じてしまい、以後真面目に勉学に励むフリだけして入試に出る事項だけを覚え、後はきれいさっぱり記憶から捨て去ってしまったのである。
「責任者出てこぉーい!」の世界である。今からでも遅くないから、あの時のテストの回答を○として欲しいマジで思う。(これはプライドの問題だー)

つい熱くなってしまったが「もういちど読む山川日本史」の続きは鎌倉幕府以降である。

蒙古襲来の後に鎌倉幕府が傾いてやがて滅亡、その時に活躍して室町幕府初代将軍となったお笑い芸能人の○○みたいな足利尊氏の像画は近年、ただの騎馬武者像と呼ばれ尊氏ではないとされているようだ。画像の上に尊氏の子、義詮の花押があったかららしい・・・長い間「足利尊氏」と思っていた、背中に矢が刺さっている像である。(誰もが見た記憶があろう・・・)
護良親王も(もりなが)と読んでいたのだが、今は「もりよし」と呼ぶ根拠資料があるらしく但し書きになっていた。

建武の新政から南北朝の騒乱、室町幕府あたりはややこしくて、あまりじっくり読む気がしないのだが、誰もが一度は足を運ぶ鹿苑寺金閣の北山文化・・・「侘び寂び」の好きな日本人には賛否あるようだが、「外国人の友達が来日したら見せてあげたいもの」といったら金閣寺が筆頭だと思う。修学旅行でも何でも何だかんだ言ったってあのインパクトは忘れられないものだ。(他にすごいのを見てないからかもしれないが)
ただどういう訳か仲間内では慈照寺銀閣の方が人気があったような気がする。(両方とももう一度見に行きたいなー)

戦国時代、安土桃山時代などは物語としては飽きるほど読み尽くしているから語らないが、その豪華絢爛な文化はぜひあらためて触れてみたい。安土城がないのが残念だが、初めて南蛮文化(言い方が変だけど)と融合した様々なモノにはすごく興味をそそられる。教科書の構成ではこのあたりから「近世」という分類になる。息子甘辛が先日行った修学旅行で撮ってきた二条城の写真と全く同じものが本に載っていた。(あの角度が定番なのね)
TBSで3夜連続で放映された「関ヶ原」は今でも日本の歴史テレビ番組史上の最高傑作だと思っている。

徳川幕府の政権が安定し農民生活の細部まで規定した「慶安の御触書」は1637年制定と習った記憶があるが、近年の研究ではもっと後になっての法令らしい。ちなみに社会の授業でこの法令について指され、大真面目に「慶安のお『さわり』書き」(何ていかがわしい響きだ!)と答えてしまいクラス中を笑いの渦に巻き込んでしまった苦い思い出がある。江戸時代そのものにはあまり興味が沸かないのだが、「江戸」という都市の風水上の設計思想や霊的な位置づけには予てから造詣を深めたいと思っている。

幕末・維新にかけては日本史上最もエキサイティングな歴史として語るに尽きないが、「坂の上の雲」にあるように実はその後が最も将来に関して参考になるような気がしている。冒頭のくだりが実に印象的で不滅の名作だと思う。(NHKドラマとしても放映されていた)
「まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている。小さな、といえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の読書階級であった旧士族しかなかった。明治維新によって、日本人ははじめて近代的な「国家」というものをもった。・・・・・彼らは明治という時代人の体質で、前をのみを見つめながら歩く。上って行く坂の上の青い天に、もし一朶(いちだ)の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて、坂を上っていくであろう。」

むろん当時の列強欧米の事情に左右されてはいたと思うが、個人的には「日英同盟」というのは、外交のヘタなこの島国の唯一とも言ってよい成功例ではないかと思う。年齢的には「明治の人」とはもうほとんどいらっしゃらいないだろう。はるか昔話として忘れないうちにその「気質」を受け継がなければならないと感じる。。。。なんてことを書いていたら「坂の上の雲」を再び見たくなったのでDVDを借りてこよう。。。

転の時期

2012-06-27 13:31:03 | 職場
この時期はどの会社も株主総会が近いからか管理者の異動が多い。一番エラい人から決まっていくので、タイミングも引きづられていくのかもしれない。また退職される人もこの時期というのがある。普通は八兵衛のように3月の前年度内というのが一般的だが、後任の調整とか業務事情等で7月まで延長してもらうこともあるようだ。我が方にも八兵衛同様、勇退される方と転勤される方が数名いる。各課や部門などあちこちで送別会が開かれるのがこの頃である。私は一つ出ると他のも全部出なければならないから、要所を除いては遠慮していたら、そもそも声があまりかからなくなった。。。

まあ、それはいいとして、大所の送別会等に出席すると必ず何かしゃべらされるが、意外と似たようなメンバーがかぶっていることが多く、思いつきでもさすがに「同じ話」をするわけにはいかない。「締めの挨拶は止めてくれ!」とお願いしているので最近は冒頭が多くなった。(出番が最後だとスパークできないからねー)
送別会などでは慣例として司会から当人の入社以来の略歴が披露される。多くの人が入社30年を超えるシルバー会社だから、それぞれの経歴も多種多様で色んな仕事をしてきているものだと思う。グループ会社合わせると結構な人数になるのだが、どうも職場では似たような顔ぶればかり繰り返しているのが不思議だ。私は想定外の転勤がやたらに多いような気がするが・・・

そんな退職者や転出者の略歴などを聞きながらいつも同じようなことを考える。もしかして書いたことがあるかもしれないが「人生100年の計」である。信長の倍とは欲張りすぎと言われようが、100まで生きるとしてそれを4分割し「起承転結」に当てはめる。最初の25年は「知力、体力他あらゆるものを開花させ一社会市民としてデビューするための準備期間」(学業には少し長めだが、社会人になってもしばらく学生気分が抜けないから)ということで「起」の期間とする。次の25年、つまり50歳までは「子育てや労働を通じて生物的にも社会的にも成熟した市民となる期間」ということで「承」の期間。そして最も難しく大事なのが次の25年間である「転」だと思っている。(最後はもうどのようにでもなろう。)

日本で多くを占める会社員はこの年齢付近で大きな転機を迎える。今は少しは多様化していると思うが、まだまだ一つの企業に何十年も勤め、これを円満に退職し「第2の人生(もう死語?)」を歩むというスタイルである。我が社は半シルバー会社ということもあって圧倒的にこのスタイルが多い。制度上は成果主義となっていてもまだまだ「年功序列」のフィードバックが大きいのである。またこの年齢は残念ながら生物的な能力は段々と下降するのを思い知ることになる。「転」である25年に何をするのかで生涯密度が大きく変わってくるような気がする。簡単に言うと「借りたものを返す」期間だと思うのである。最初の25年(起)は明らかに社会から色々な恩恵を受けて借りを作ってきた。次の25年(承)でこれを返せればよいのだが、正直中々そこまで手が廻らないからだ。

その昔、よく欧米的な会社員のスタイルと日本的な会社員を比較されていたことがある。(今でもそうか?!)一般的には欧米スタイルというのは「自身で転職を繰り返しキャリアアップを切り開く」イメージがあり、合言葉は「成果主義」、そして「早く引退して後は悠々遊ぶ」と続く。。。一方で日本スタイルは「最初に入社した企業に滅私奉公、定年まで勤め上げる」イメージであり、合言葉は年功序列、そして「第2の人生を歩む」と続く。一時期日本的スタイルは「諸悪の根源」みたいな言い方をされた。終身雇用・年功序列・・・「能力もなく成果も出していない者が『長く会社にいる』というだけで昇進して足を引っ張る」そんなダメダメ課長モデルが絵に描かれていたものだ。安定成長から弱肉強食の激動時代に入った企業は「成果主義」という言葉の魔力に半ばとらわれ、こぞって導入してきた。(むろん成果を度外視したキャリアアップなどあり得ないだろうが)

何度かディスカッションしたことがあるのだが、欧米のビジネススクールなどでは日本人のように年功序列=Seniorityを忌み嫌っていることはなく、むしろその特長を積極的に取り入れようともしている。「成果主義」というのは(役員はそうだろうが)、短期的な業績を最大化できても長期にわたって広い視野を持ち健全な経営に寄与するとは限らない。あれだけ「リーダーシップ」を強化し、ヒューマンマネジメントに力を入れ、企業のリソースは「People」だと言い放つHBSのプログラムは「優秀な社員が辞めていかないようにするには」という切実な問題が隠されていたように思う。確かに15年以上前、欧州で各国の同業が集まって交換研修を行ったが、その時のメンバー(当時30歳前後)はほぼ全てが同じ会社にはいない。。。

両極端のように言われてきた欧米、日本のスタイルだが、実は極めて似通っていると思っている。「人間は一定期間で環境を激変させると成長する」という点である。「おぎゃー」と生まれて1年間が人間の生涯で一番成長する期間だそうだ(生物的だが)。ストレスやプレッシャーもすごいものだが学校にしても会社(職業)にしても最初の「1年目」が最も伸びる。だから一定期間で「職場」を変えた方が個人の成長の効率はよいはずだ。企業人はそれを経験的に知っているはずだが、要はその機会を「自分で作り出すか」「企業が与えるか」だけの違いだ。それはフロンティア精神のお国柄と共同体精神の違いでどちらがいいということはないが、どちらが効率的かというと後者のように思える。自分の能力や資質は自分で評価するよりも他人(会社)が評価した方が正しいことが多いし、人間は自分のためよりも他人(会社)のために何かする方がパフォーマンスを発揮するものだと思うからである。

そういう意味では単身赴任も何らかの成長を促す「転機」であろうと思う。我が国よりもはるか広大な国では、「会社の命令に従って家族と離れて暮らす」というのは中々理解し難いかもしれないが、そもそも日帰りできないところは少ないほど狭い国土では、単身と言っても単なる生活変化のきっかけでしかない。グローバルビジネスマンは世界を飛び周り、それこそ「家で家族といる」時間ははるかに少ない。2年間たってマンションに寝泊りするだけの生活スタイルと一人でいる刺激に慣れ親しんでしまっやので、飽きっぽい私は前述したように(「息子と勉強する」という)次なる変化を求め始めたわけだ。

少し話が脱線してしまったが、今回異動される方はまさしく「転」にあたる時であり、年少の私が申し上げるのはおこがましいが、今後25年のご活躍を祈念するところである。
最近は送別会というとこれまでの本人の色々な登場シーンをダイジェスト版にして映像化して見せることが多い。実は私はあの手の映像に特に弱い。。。自分でない人の映像なのにBGMなどでも「うるうる」してしまうことがあるのである。何十年もこの会社に貢献してそれなりの地位になった人ばかりだから、やはり人柄を表すようなところはあるものだ。(こういうのは長くいないとねー)
皆さんお疲れ様でした。新天地でもお元気で。

中華街のブランチオフィス

2012-06-24 15:16:49 | 職場
私にとっては「地元」になってしまうのだが、南関東の優良なブランチオフィスを訪問することになった。以前から企てていたのだが、中々出張の機会を得られず、せっかく招いていただいてから数カ月もたってしまってからようやく実現した。同行する二人の同僚は北関東から新幹線でやって来るが、私は久々に早朝サーフィンしたくて前夜には自宅に戻って来ていた。残念ながら台風の余韻かものすごい暴風雨のため家で寝ているしか無かったが・・・(いやー、ついてねえ)
訪問先は3箇所、首都圏でもかなり優良とされる協力会社の事務所と改装したというブランチオフィスのビル、そして保土ヶ谷にあるという顧客周りの仕事を一元的に統合した巨大なセンターである。最初は戸塚から地下鉄で数駅のところにある事務所だ。改札で待ち合わせたがどうも2人が現れない・・・そのうちSメールがやってきて「方向を間違えて今、湘南台・・・遅れます」まあ、地元の私でもほとんど使うことがなく、駅名も知らないブルーラインだ。北関東から来た人は方角がわからないのも無理はない。(たしか「いっけい」はこの辺の大学のはずなんだけどなー)

事務所の責任者が今度は北関東エリアの勤務になりそうだ、というサプライズ情報を得て我々は次の目的地に向かった。最寄り駅は関内、昔妻が勤めていたビルが近くにあって、よく足を運んだエリアだ。少し早めに到着したので、その辺を散策したいところなのだが、ものすごい雨・・・我々はひとまず開店したばかりの横浜スタジアム内ベイスターズショップに入ってみた。地元チームなのでもう少し応援してあげるべきなんだろうが、DeNAの選手たちがさっぱり分からぬ。先日「父の日」にイトーヨーカドーの「BODY COOLER」というインナーを何故かプレゼントしてくれた息子甘辛にお礼に何か買って帰ってやろうかと思ったが、サッカー小僧の彼も私も「ハマの大魔神」と「ハマの番長」くらいしか知らない。。。中畑清さんの「絶好調」グッズじゃあベタ過ぎるしなー。結局謎のマスコットキャラ入りの「イチゴミルクキャラメル」という「やられそうな」土産を買い込んだ。

     

行き先のブランチオフィスのビルは1階が綺麗なショールームになっていて、案内係の人に色々と説明してもらえた。同じ社員ということを遠慮がちに申し上げたが、丁寧に案内してくれた。中畑監督のサイン入りグローブも展示されていたぞ。「こちらのコンセプトは『ハマさん一家の快適な生活』ということになっているんです。」
「なーるど、深いですねえ。昔、磯野家の隣にいたハマさんでしょ。引っ越しちゃったんだけど、横浜に引っ越してきたことになってるんですか。んっ?ハマさんちの奥さんってもう少し小太りだったような・・・葉巻をくわえた犬のジュリーもいませんねえ」ハマさん一家のポスターをよく見もせずにべらべらしゃべりまくる私に、係の人は少しうろたえて
「いえ・・・ヨコハマだから『ハマ』さんなんですけど・・・」(ぜーんぜん関係なかったのか・・・)確かに横浜って「ハマ何とか」ってよく言うよなー。やはり漁師の田舎町出身の私にはチト敷居が高いようなのだ。

約束になったのでお礼を言って、一旦ビルの外に出ようとしたら、「こちらからどうぞ」と裏方エリアへ通された。いきなりの「身内モード」だったが、一瞬のうちにどこに行っても大して変わらない雑然として古臭い我が社のオフィスが現れた。懐かしい顔ぶれもあり(似たような仕事をしているから、意外に世界が狭いのだ)、しばらく雑談に花を咲かせた後、自称「業務用車両オタク」というあちらの責任者に現在製造開発中という秘密の2号車について熱く語られた。。。昔から何かと「装備類」についてはうるさい人だった。同じ工場で製造中という我が方の車両も工程半ばという写真を見せてくれた。機密上、詳しいことは言えないが、米空軍のエアフォース・ワンのようなものだ。大人の秘密基地とも言えるようなシロモノだが、車内の数か所に何故かついている謎のフックはスティーブが鮎釣りの竿を掛けるために取り付けたらしい・・・

昼食はむろん「スープの冷めない距離にある」横浜中華街である。むろん改装後のビル内にもカフェテリア方式の洒落た社員食堂があるが週に一度は足を運ぶという。入ったいのは「重慶飯店」、割とメジャーなところだ。ランチはスープに一品料理とおかわり自由のライス、デザートだが、メニューの種類が実にたくさんあるから、6人で円卓を囲めば6種類の料理をシェアすることができる実に充実した昼食だった。むろん舌の閾値が低い私でも「これは本格中華だー!」とわかるような絶品ばかり、それらの料理が1000円出さずに腹いっぱい食えるのだから、こんなところに勤務していたら間違いなくブクブクになるだろなー。そこの人に言わせるとやはり「中華街」というのは難しいらしい。メジャーな店を除くと「何でも美味しい店」というのは基本的になく、エビチリ、チンジャオ、酢豚、ショウロンポーなど「食べたい物」によって店を選別しなければならないという。テレビの取材があってからか今は肉まんとか、ショーロンポーとか街を歩きながら食べている人も多く見られる。
「磯辺さん、何写真ばっか撮ってんですか?地元でしょ?」「「距離は近いけど最近あんまり来てねーんだもん・・・」

      


帰りがてら見えたのが「加賀町警察署」、確かタカ、ユージに交通課長が元暴走族だった「あぶない刑事」の港署だったこともあるはずだ。中華街のど真ん中近くにある警察署がなぜ「加賀町」と言われるのか、未だにわからない。あのあたりの地名は山下町であり、加賀町というのはどこにも出てこないのである。昔廃藩置県の名残で藩(この場合は加賀)名を地名に使った名残とも聞いたことがあるが・・・
道路一本渡るがオフィスのすぐそばが横浜スタジアム、ちょうどベイスターズショップの反対側あたりである。ドーム球場ではないから、ナイターのDeNA戦でもあろうものなら、ものすごい歓声が聞こえてきて、仕事しづらくて困っているという・・・全く何という羨ましい環境なのだろう。チーフのU野さんは自宅からの通勤であまりに快適過ぎて、ここから転勤したくないという(それは許されんなー)。
私は地元で勤務したことは一度もないし、たぶんこれからも無いと思う。何かにつけて「浮かぶ」のが通勤の時なのでそれに一定時間必要だというのが持論なのでここに勤務したいとは思わないが、たまに足を運ぶには素晴らしくよいところだ。その場にいたら解散後もう一度中華街を散策するつもりだったのだが、次の目的地は保土ヶ谷で社用車で送ってくれたので、その後はそのまま帰宅したのである。(どうもお世話になりました)

   

もしものウルトラ番組

2012-06-21 07:47:54 | ヒーロー
小夏師匠がなんと、先に紹介した「山川日本史」をお持ちになっていて大仰天だった。せっかく途中まで読み進めた社会人版日本史・・・楽しく勉強して(おーっ、ここは習った覚えがあるぞ!とか)、いずれ後半はレポートしよう。今度は教科書片手に鎌倉の街を歩き回ることにする。
今回は「本業」=ウルトラヒーローの話である。ちなみにむろん歴史上にも様々なヒーローがいる。この名称はどうも「我が国の場合は「判官贔屓」という言葉があるように、「最後に笑った者」ではなく「途中で滅んだ者」に与えられる称号というイメージが強いような気がする。源義経、楠正成、真田幸村、土方歳三あたりかなー。。。。

そうそう、小夏師匠ゆかりの温泉への道すがらにとんでもない看板があるという「鳥居強右衛門」・・・私が読み漁った信長、家康、勝頼、勘助など登場する様々な人物の視点で書かれた物語の中の「長篠の合戦」に現れる(マイナーだが)ヒーローだ。徳川方奥平信昌の家臣だった強右衛門は守備する長篠城を武田軍に何十にも包囲され、城は兵糧もままならない窮地に陥ってしまう。彼は家康の岡崎城に対し、不可能と反対する周囲を押し切って武田包囲軍の隙を抜けて援軍を要請しに行く。織田・徳川連合軍が長篠に向かうことを知った彼は、今度はその場に留まるように薦める味方に反して、その吉報を城内の同士に伝えようと長篠城に戻ろうとするのだが、途中で武田方に捕まってしまう。強右衛門は城内から見える所に連行され、「援軍は来ないから降伏しろ」と城内を説得すれば命を救うと誘われて一旦は約束するが(実はウソで)逆に「援軍はごまんと来るぞ」と城内を鼓舞させてしまったため、磔にされて殺されてしまう。

さて話がそれてしまったが、本家?のウルトラヒーローについて昨年11月からローカル局で「ウルトラゾーン」という超マイナーだがマニアには垂涎もののレア番組があった。我が家ではテレビ神奈川の番組として視聴していたが、時間は何と日曜日の23時・・・・1週間を通じて番組構成上最も「どうでもよい」時間帯である。しかしその内容はウルトラ史上稀有と言ってもよい高レベルな番組で、私も息子甘辛も必ず録画して次週末、夢中になってまさしくマニアの目で見ていた。我が家から半径1キロ以内にその番組の内容が全て理解できる人が私と息子の他に何人もいないような話だ。
コンセプトは恐らく「日常の生活で、もしもこんなところに怪獣が現れたら・・・」だと思う。その他にウルトラ怪獣が漫才をしたり、英語のレッスンになったり、かるたになったり・・・CMに入る時のイラストだけでも死ぬほど面白い。

ウルトラ怪獣を知らない人でも面白く見ることができ、また楽しみながら「覚える」ことができる。(その必要があるかどうか分からないけれど)歴史の話にあてはめれば「長篠の合戦」を知っている人であれば十分楽しめるが、「鳥居強右衛門」を知っているマニアは超ウルトラ楽しい!っていうところだ。
「もしも・・・シリーズ」と言えば最初に浮かぶのは「ドリフの大爆笑」だが、ウルトラゾーンの中心にあるこのコンセプトを少しだけ紹介しよう。
「もしこんなところに怪獣が現れたら・・・」怪獣特捜隊の「タカダ・リホ」隊員がいつも怪獣警報とともに「都内に●●が現れました!」と読み上げるのがオープニングだ。そしてタイトルの後に「●●は・・・・・・に現れた模様です!」と続く。

★赤いランプの点滅とブーッブーッという警告音・・・「都内に『サドラー』が現れました!」
じゃーん!【怪獣転校生】(岩石怪獣サドラーのプロフィール登場)
「サドラーは『有名中学に毎年合格者を出す、親の年収もそこそこ高めの私立中学校』に現れた模様です!」
---今日はみんなに先生、新しいお友達を紹介しようと思うんだが、その前に一つみんなに知っておいてほしいことがある。それは彼の手は「ハサミ」になっている、ということだ。でも例えそうであっても、みんなは彼と仲良しになれると先生は確信している---
その後、先生は「サドラー君」はサドラ脳により敵を倒すことばかり考えていて勉強についていけない時には助けるように、またハサミは鋼鉄でも切り裂き、首に8万度の溶岩を蓄えているので遊ぶ時は十分注意するように諭す。

★★赤いランプの点滅とブーッブーッという警告音・・・「都内に『ベムスター』が現れました!」
じゃーん!【怪しいものじゃないです】(宇宙大怪獣ベムスターのプロフィール登場)
ベムスターは『都心から電車で約30分、閑静な住宅街に建つ瀟洒なマンション』に現れた模様です!」
---ですからね、不要になったエネルギーを頂こうと伺ったんですよ。この腹でね、スペシウム光線も吸収できるんですよ。MATステーションだって飲み込んじゃったんだから---
マンション一人暮らしの若いツンデレ系女性にドアの外からしつこく食い下がり、しまいには騒ぎ出すベムスターに、ツンデレ女性は「あんまり騒ぐとウルトラセブン呼びますよ!いいんですか?」「そ、それとこれとは話が別ですよ~(泣)」(ベムスターはセブンが帰マンにプレゼントしたウルトラブレスレットで倒されたのだ)

★★★赤いランプの点滅とブーッブーッという警告音・・・「都内に『ゼットン』が現れました!」
じゃーん!【不良怪獣ゼットン】(宇宙恐竜ゼットンのプロフィール登場)
「ゼットンは『実は子供嫌いと噂されるお婆ちゃんがやっている不良達のたまり場の駄菓子屋』に現れた模様です!」
---「ゼットンってさー、すんげえ無口だよな。お前ちょっとあの駄菓子屋でアイス買って来てくんねーかな」---
転校してきたゼットンはその学校の「中途半端な」不良達とつるみパシリにされるが、買い物している間に偶然その街で最も凶悪な学校の札付き不良達にその仲間達がボコられてしまう。駄菓子屋から出てきて倒れている仲間を見て仁王立ちするゼットンの姿に、敵の不良が突如恐怖に凍りつき「あ、あれ、ゼットンくんじゃないですか?!ウルトラマンを倒したって言う・・・超やべえよ!」(その後なんとゼットンに彼女ができる)

ざっとこんな感じだが数々の怪獣・宇宙人が実にリアルな表現で本当にあるとしか思えない店、建物に現れるのである。他には
「結構強めに揉んでくれるという溜池山王のマッサージ店」【怪獣マッサージ】
「読者モデルもたくさん来店する中目黒の目黒川沿いから一本入ったところにあるカリスマ美容室」」【ヘアサロン マグマ&ババルウ】
などが登場する。説明がうーんと長くなってしまうのでこの辺は割愛する。

「KAIJU ENGLISH」のLesson.1に登場するのはどくろ怪獣レッドキングだ。
My name is Red King.(私の名前はレッドキングです)
I came from Tatara Island.(多々良島から来ました)
I am not intelligent, but I have never seen such a violent monster than me.(私は賢くはありませんが、私ほど凶暴な怪獣を見たことがありません)
And I was told that I look like Hayato Ichihara.(そして私は市原隼人に似ていると言われたことがあります)
その他にダントツで印象深かったのは「にせウルトラマン」に変身した極悪宇宙人「ザラブ星人」の何と純愛ドラマ!そのタイトルは【The Love(ザ・ラブ)】でヒロインは丘みつ子さん・・・これはホントに泣ける。。。

怪獣たちの特徴やウルトラマン本編でのエピソードを散りばめ、気づいたらウルトラ怪獣に詳しくなっているというコーナーだが、後半のドラマ群は思わず「ほろっ」としてしまう切ないものが多い。甘辛とも「この意味分かるヒト、どれくらいいるかなー。」とか言いながらゲラゲラ笑いながら見ている。妻は台所で冷たく笑っているかと思ったら、意外に知っていることも多いのだ(そりゃー、これだけ我々が話題にすればねー)
ひとことで言ってしまえば「パロディ」ということになってしまうんだが、ウルトラストーリーをここまで洗練してパロッたスタッフには敬意を表したい。山川出版社もぜひ見習って「山川ウルトラ史」を作製してほしいものである。(センター試験科目になれば9割は得点する自信はある)

もういちど読む山川日本史

2012-06-18 14:33:29 | 書籍
高校の時、「入試に日本史を選択するなら『山川』で勉強すべし!」という定説があった。我が校は山川出版社の教科書を使用していなかったが、誰かがどこかから入手(書店で買えたんだっけ?)してきて、その独特な古臭いワインレッドの教科書を見せてもらったことがある。私は歴史が好きで色々な本を読み漁っていたが、それはいわゆる歴史小説という「好きな人物と物語」であって、史学という「時の流れを政治、社会、文化など色々なジャンルからシステマティックに学ぶ」ほど正直暇が無かったから(何せ理系なので)世界史だけを選択した。日本史は馴染みが深い分、教科書にも中々書いていない奥深い社会の文脈や政治的背景を語らなければならず、片手間でできるような記憶量ではなかったのに対し、世界史は範囲は広いが断片的でもわーっと丸覚えすればよかったからである。(担任が世界史担当だったということもある)

「試験にでる英単語」を初めとする英語はもちろん、数学、物理にも「受験に際してこれだけはやっておくべし!」という伝説の参考書は存在した。(正直、当時はさっぱり分からなかったが、皆がやっているので自分も持ってはいた)文科系科目についてはあまり知らないが「山川」だけは知っていた。どこかからそれを入手され、クラスメイトに見せてもらったその教科書はボロボロになるほど「読み込まれ」「線引きされ」使い込んであった。まるで一語一句覚えているようで「すげーっ」と感心したものだ。しかし教科書はやはり「教科書」で分かりやすくするための「参考書」とは異なるから、学校で使っていたモノと同じに見えてしまい「違いが分かる」までには至らなかった。だから「山川出版の日本史」などというのはただの「都市伝説」だと思っていたのである。

ところが最近になって、「社会人のための高校教科書、ブームだけではわからない、本物の歴史が読める本」というカバータイトルで「もういちど読む、山川日本史」という著書があるのを教えてもらって思わず購入してしまった。今頃にこういう本が出ているということは、あの伝説は本当だったのか?!
大学入試などという悪夢のような目的もなく、歴史検定などというぬるいモチベーションもないまま、パラパラと読み始めたが、社会人用にディティールを端折っているらしく、あっと言う間に「近世」まで読み進んでしまった。そりゃそうだよな、何せ「おーっ、こういうの習った!」と懐かしむだけで「覚える」必要がないからなー。日本史が必須教科だった高校を卒業して約30年・・・興味の的は「あれからどのように教科書の記述・解釈が変遷してきたか」である。(冥王星が惑星でなくなっていまったように)

章立ては全然変わっておらず、第1章は昔から「日本のあけぼの」である。人類の誕生からナウマン象の化石、縄文の竪穴式住居、そして土偶というパターンだ。北関東の県でも有名な石器を発掘した遺跡があるから今度見学に行ってみよう。弥生時代に農耕が進み、小さな「国」がたくさんできてやがて統一に向かうようになった。その過程で現れる有名な卑弥呼の「邪馬台国」は九州説と大和説がまだ決着していないらしい。時代的には「三国志」の後だと思うが、中国史があれだけ絵画やアイテム、物語が明確なのに(後付かもしれないが)日本はまだぼやーっとしていて当時のマイナーさがうかがえる。
やがて現れた中央政府は以前は「大和朝廷」と表記され習ったが、国名として「大和」という文字が使われだしたのが、もっと遅かったことから、最近では「ヤマト政権」と表記されるらしい。(初代の長は「沖田十三」か?!)実は勤務県には古墳が多いらしく以前八兵衛が連れて行ってくれた古墳があった。近所に別の古墳も見えたからやはりかなり盛んな土地だったようだ。

第3章古代国家になると蘇我馬子、聖徳太子などが登場する飛鳥時代である。これまた以前習った事柄とは少し変化が見られた。「聖徳太子」というのは生前には使われず、ずっと後になってから現れるようである。また厩戸王という名称が使われているようだし、あの1万円、5千円の旧紙幣の象はモデルが太子という確証がないことから「伝聖徳太子画像」と言われているそうだ。(伝何とか、というのは後にも登場する)聖徳太子が建立したとされている法隆寺はその目的、意味合い、伝えられる伝説など実に謎が多く、古文の教師から梅原猛という作家の「隠された十字架」という書物を紹介され、夢中になって読んだことがある。ご他聞に漏れず修学旅行で訪れたが、ギリシア神殿に通じるエンタシス柱など世界最古の本格木造建造物としてそのど迫力は圧巻だった。

東大寺大仏などを初めとする仏教色の強い奈良時代を経て第4章律令国家となる。平安時代はだらーんと長い貴族の時代という印象があるが、政争に明け暮れた歴史(400年近くあればねー)ばかりで個人的にはあまり好みでない。しかし文化は優雅で平等院鳳凰堂などもう一度訪れたい名所のベスト5に入る。これも古文だったが「清少納言」と「紫式部」は同時代の女性で実は仲が悪く、お互いに内緒で相手の悪口を書いていた、というエピソードを記憶しているが、同様のことがこの本にも記述されていた。京都・奈良などは修学旅行で訪れる神社仏閣のオンパレードだが、歴史的な「予習」をしていくとこれほど魅力的なところはないのだろう。息子が先般行ってきたばかりだから、忘れないうちにもう一度おさらいするのも「あり」だろう。

第2部中世第5章は武家社会の形成で、以前は「源平の争乱」から始まっていたが近年では院政あたりからこの始まりとしているようだ。実はこの「院政」という言葉、もちろん我が社とは限らないが会社では結構使うのである。例えば一代で事業を起こしたワンマン社長、創業でなくても事業に大躍進をもたらした雇われ社長が、その職を去った後も「会長」や「顧問」などという意味不明の役員として権勢を欲しいままにするときなどだ。「平清盛」は初めて政権を手にした武家として大河ドラマでも注目されていたようだが、その視聴率の低迷は危機的らしい。。。清盛に元々歴史上はヒーローというイメージが少なかったのに加え、登場する宮中の公家が「気持ち悪すぎる」というのが番組を少し見た私の印象である。(視聴率の再起を期待するが)

源平の争乱を経て鎌倉幕府の登場だ。「イイクニつくろう鎌倉幕府」は実は「イイハコ作ろう」に変わりつつある、と聞いていたが山川日本史では1192年だった。(社会人向けだからか?!)別に説として対立しているわけではない。1185年に源頼朝が朝廷に全国へ守護・地頭を設置することを認めさせたのが実質上の支配と考えられるからのようだ。征夷大将軍任命は1192年で山川日本史は鎌倉幕府が「名実ともに」成立した、と記述している(うーむ。うまいかわし方をするものだ)
ちなみに先程も出てきたが、源頼朝像としてよく知られているあの「カクカクした」肖像画はえがかれた冠の様式、絹地の図面作例などから「時代が違う?!」という説と、モデルが足利直義だという説などがあり、通説が揺らいだ結果今では「伝源頼朝像」と表記されているそうだ。

ざっと読み進んだのはこのあたりまでだが、地理的に見ると日本を支配してきた政権は大体上方(京都・奈良・大阪を一緒にしてはダメか?!)、乱暴だがその後江戸になって今に至っている。江戸という土地は平坦性、水脈、交通の便もさらに風水上?も政権の拠点としては申し分に見える。しかし「鎌倉」というのは三方を山に囲まれ海を臨む地とは言え、他に比べて政権の拠点としてはどうも違和感があるのだ。街そのものは小さいし大きな港があるわけでもなく交通の便も悪い。鎌倉山などにあるのは古くからの豪邸が多く庶民と異なる雰囲気があるのだが、言い方を変えると山と坂ばかりで一人一台の乗用車(又は運転手)がないと不便で「住めない」のである。我が家を建てるときに鎌倉エリアも一応候補にはあったが、450坪の土地の90%が急斜面とかそんなのばっかりで、とても検討範囲に入らなかった。

京都大学を出たある著名人が若者の将来向けの対話本の中で「近所に金閣寺があったって行きゃぁしませんって」と言ったように、身近にあるとあらためてディープに予習して歴史を堪能してみようとは思わぬものだ。鎌倉というのはそういう意味と古都としての学習対象と流行が共存する実に興味深い場所だと感じる。なぜあのような土地が一定期間この国の政権の中心となったのか?その風水上の意味合いは?手始めに鎌倉五山でも研究してみるとするか・・・・(今は紫陽花の季節だしねー)

遠距離通勤

2012-06-15 17:16:59 | 職場
私の通算通勤距離は通常よりもかなり長い方だと思う。入社して悠長に見習い仕事などしていた時は会社の寮から数十分というところだったが、次の転勤から通勤に1時間を切ることは無くなった。
最初に東京大手町の勤務となった時は、最寄り駅まで上り下りのあるルートをチャリで30分(バスだ渋滞で時間が読めない)というダメージがあって、電車で30分の行程だったのに、慣れないこともあって満員電車で揺られる気にはどうしてもなれず、1本しかない始発電車に15分並んで座って通勤したものだ。

日比谷近辺だったときは、最寄駅が新橋だったが妻と一緒に途中まで通勤していたこともあり、割と楽な毎日だった。ただそういう期間は長く続かず、数年すると今度は浦和の方にあるオフィス勤務となってしあった。実に微妙な距離である。湘南電車で50分弱、その先京浜東北線で45分・・・どちらもゆったり座っていけるわけではない。通勤時間数十分のところにある家族社宅を紹介されたが、部屋を見せにもらいに行った時、最寄駅に降り立った瞬間、今まであまり気が付かなかった潮の香り(実は定置網の臭いに近い)の代わりに何とも違和感のある臭気を感じてしまって(むろん悪臭ではない)、2時間かけて通勤することを決断した。

ただ後半は数名のお仲間からなる地下組織のようなところで仕事をすることが多くなった。今はそのアジトも「物置」になっているが、錦糸町付近にあったのである。先日、10年ぶりくらいに用があって足を運んだ。ずいぶん様変わりしていたが、どうにか当時の地理を覚えていて、公園の中を突っ切り「こんな立派な体育館あったっけ?」などと首を傾げながら歩いたものである。野球のグランドも(少し場所がずれただろうか?)すごく綺麗に整備されていた。あの街自体には飲み屋以外に大したものがないが、隣りの両国にはちゃんこ鍋屋が並び、浅草にも近く下町歩きをするには便利なところだ。そして何と言っても駅を降りて目に入ってくるのが巨大な「東京スカイツリー」である。どうも地理がよく把握できていないが、歩いて20分のところにあり、公園が桜で満開になる時に、まるで花のロケット発射台のような絶好の撮影アングルがあるという。。。

    

地下組織でご一緒した先輩と昔話で花を咲かせ昨今の情勢について話し合った(ただの雑談に近い)。
「昼飯、どこで取りましょうか?」何年もそこで勤務していた同僚が聞いてきた。私が勤務してきたオフィスには何故か必ず「社員食堂」があったから、あまり職場の周辺で外食することが無かった。休日も仕事に来たときに近くに何軒かあるラーメン屋しか浮かばなかったが・・・
「そうそう、何か池に亀がたくさんいる神社の近くの蕎麦が美味かったなー」「それなら亀戸天神ですよ。すぐそこだから行きましょう」
歩いて10分くらいのところに亀戸天神があり、東京スカイツリーもその向こうに聳え立っていた。学問の神様のようだから、先日の湯島天神に続き今年受験生の息子のために御札を買ってみた。私は自分でも他人でも「利益を得る」ためには祈らない。あくまで「もう少しやる気を出しますように」ということだ。

      

話がそれたが、アジトでの仕事は一段落すると浜松町、新宿と職場が変わっていったが比較的安定した通勤だった。特に新宿での数年間は朝は(別途有料だったが)「スーパービュー踊り子」の車両を使ったホームライナーでの通勤にしたので快適そのものだった。しかし、その後また私に長時間通勤の壁がやってくる。武蔵野市のとある研究施設である。新宿からそのまま中央線で延長するようなルートになるが、駅からの便があまりよろしくなく、それまでの時間に出社しようとするとかなり早く家を出なくてはならない。しかしその時は「フレックスタイム」という制度に運よく救われた。出社タイムにある程度裁量がきくようになったので、時間幅を後ろにずらすことによって、これまでのホームライナーと中央線の合体技で通勤できることが分かったのである。これにより片道2時間というこれまでの最長時間でさらに最長期間どうにか勤務できた。

そして数年ぶりに新宿に舞い戻り、ホームライナーによりまたあの快適な通勤ライフを堪能できた。ロングボードでサーフィンを始めシーズン中は朝の出勤前まだ暗いうちから海に入り、会社帰りにフィットネスジムで汗を流す、というアクティブな(日ばかりではないけれど)生活だった。皆、疲れきった顔をしてグーグー寝ている朝の特急車両から併走する新幹線を写真に収めたり・・・仕事は何でもよいから、ずーっとこの通勤が続いて欲しいと思っていた。しかしこういうことは長く続かず、約2年前初の北関東勤務を言い渡されるのである。住居は快適なマンションライフだが、職場まで自転車で15分、歩いて25分というのは初めての経験だ。

職場が近い、というのはもちろん大きなメリットをもたらす。まず体力的な負荷が少ないし、これまで何時間もかけてきた通勤時間を別のことに費やせる。いかにたくさん酒を飲んだところで、見たこともない駅で目を覚ますこともないし、翌日遅刻してしまうこともなる。
遠距離通勤の最大の敵は「乗り過ごし」と「翌日」である。(これは通学でもあてはまる)学生の時は熱海、片瀬江ノ島、桜木町・・・社会人では少し飛距離が延びて、沼津(東海道)、君津(総武快速)、高尾(中央快速)、中神(青梅)・・・駅構内で一夜を明かすことが普通だが、帰れる時は「歩いて」帰る。最大射程距離は「大磯」の約16キロ、帰宅したときは夜が白み始めていた。
そんなことがあって帰宅した翌日は会社が「地の果て」に見え、どうしても「お前がおらんでも会社はマワル」という悪魔の正直な囁きを耳にしてしまうのである。

しかし、(最近はほとんどないが)それほど散々な目にあっても私は電車での通勤時間はある程度必要だと思うのである。もちろん比較的快適な、という条件はつくのだが。どこで知ったのか忘れてしまったのだが、中国の欧陽修という人が言った言葉に「三上(さんじょう)」というのがあり、私は経験的に強く信じている。「人間が馬上、枕上(ちんじょう)、厠上(しじょう)にあるときよい知恵が浮かんだり閃いたりしやすい」というものである。これまで(アタリはずれはあったが)何か閃いて実践までこぎ着けて結果を出したのはほとんどが馬上(この場合は通勤電車の中)なのである。寝ていながら(特に朝方)というパターンもあるが、メモをとらないから忘れてしまい、トイレには長くいないからそもそも浮かばない。。。
ボーッとしているが電車の通勤途中で何か思いつくことは実に多い。一方「今、戦略を練っています。」という顔で席に座っていても、豪奢な会議室で腕組みしていても何も浮かんだことがないのは多くの人が経験しているはずだ。

そしてもう一つ私にとって大事な時間なのが「読書の時間」である。ずーっと座って寝ていけるわけでもないから、立っているときは数十分の時間をどのようにしてつぶすかが大事だ。私はウォークマンを聞いたり、携帯をいじる習慣がないし新聞もあまり読まないので、通勤中の友は「読書」ということになる。
もともと好んで読む本のジャンルが歴史系に偏っていた私だが、いい加減ネタが尽きてきて「何でもいいから手持ち無沙汰を解消してくれえ!」状態に陥ったときに、たまたま全く違う世代のそれも女性に薦められて読んだ本が面白く、「雑食」と言えるほど手当たり次第にあらゆるジャンルの書物を読み漁ることになった。「読んだ本について語り合うと楽しい」という実に単純なことに気付いたのだった。
そして不思議なことにいつの間にか私の「読書」は通勤途中で電車内で行うことがほとんどになってしまった。自宅でごろごろ本を読むことはないし、喫茶店や図書館ということもない。単身マンションで有り余る時間を使えば、とも思うのだがどういうわけかDVDを見たりや勉強はする気になってもただ「本を読む」気に中々ならないのである。

単身赴任して2年、特段不便を感じているわけではないし、ぜひともに自宅にいたいというわけでもないが、「生活習慣に変化を与え、あわよくば大きく改善するために」超遠距離通勤を検討中である。(会社が承認するかどうかは分からぬが)時間は切り詰めて約2時間だが始業時間が現場ライクなために、出勤前に海へは行けないし、冬は真っ暗で鶏が鳴く前に家を出ることになろう。年をとったからか朝時間が早いのは全く苦にならないし、ある程度自分のペースで仕事もできるから体力的につらくなるとは思われない。もしかして翌日通勤を考慮してお酒を飲む量も「自粛」できるかもしれない・・・
息子甘辛と受験勉強を一緒にしてやりたいし(あくまで自分のためだけど)メタボ脱出の180日コミットを完遂するために、転勤はまだのようだが一足先に北関東ライフの幕を閉じてしまおうかと考えている。

水の宝庫の三名爆

2012-06-13 23:01:06 | 旅行お出かけ
「辺境に出掛けた時は最寄りの滝を巡る」スティーブと交わした約束である。水源や温泉の豊かなこの土地は海こそ無いものの、少し車を走らせればいたるところに美しい渓谷や川のせせらぎ、そして「滝」に巡り合うころができる。「東洋のナイアガラ」を筆頭に大小様々な顔つきをした滝にまみえてきた。特に県境付近は我が家の付近ではとても見たこともないような巨大な奇岩がそびえ、秘境のようなところに見事な滝が現れる。私が仕事上この地を去る時は、「山々の風景」「見事な滝」そして「ゲテモノ食文化」について特集したDVDを作ろうと思う。スティーブは生まれも育ちもこの土地の人だが、隅々まで行き尽くしているというわけでなく、私のような「そともの」が喜ぶのをきっかけとして、自分も故郷の自然を「再発見」するのを楽しみにしているようにも見える。私もまるち師匠に県内の色々な名所のことを教えていただいて、いかに自分が郷里に疎いかを思い知った。(意外とそういうものかもしれない)

さて、今回は県内拠点の朝会で打合せするために、うんと朝早くオフィスを出発し1日中社用車で移動しまくる工程だった。その途中にまさしく「辺境」と言ってよい水の豊富な村に「三名瀑」と呼ばれる見事な滝が比較的近くにあることをスティーブが発見した。「一番見事なヤツは30分くらい上るらしいんですがね」といいながらタオルを用意したりスティーブは行く気満々である。さすがにあの辺りまでは滅多なことで足を運ぶことがないからなー。これまで駐車場から少し歩くだけで見ることのできる滝ばかりだったが、この「三段の滝」は確かに実に歩くこと30分、途中に小さな滝が10以上は見られる秘境だった。獣道のような幅に半分腐りかけた丸太の架け橋がいくつも現れた。

        

しかし水はまさしく清流で、陽の光がこぼれて反射し実にすがすがしい気分になってきた。時々スティーブは立ち止まって水面に目を凝らしていたが、「おーっ、アレ岩魚じゃねえかな!」よーく見ないとわからないのだが、さすが鮎釣りのベテランだけあって小さな魚でも敏感に察知する。何をやるにも大雑把な海釣り系の私にはできないデリケート技だ。(残念ながら動きが早く写真には収められなかった)
汗を拭きつつ前を歩くスティーブが突然「ぬおーっ」と叫んで凍りついた。。。。前方を見ると何か一本棒のようなものが細い道に横たわっている。「どうしたの?」「ヘッ、ヘビですよ、ヘビ!アオダイショウだ。オレ、実はヘビって大の苦手!」
後ろから覗きこむと真っすぐに見えた細い棒の先端がぐるーっとUターンして・・・私も背筋が凍りついた。(カメラを持つ手も震えてピンボケ。。。)

          

ちょっと下がって助走をつけジャンプ一番(意味無いような気がするが)ヘビのいた地点を飛び越し、すたこら走り逃げた。やがてちょっと危ない感じがする鉄製の梯子が現れて(最後の試練か?!)それを乗り越え少し歩くと大きな滝が目に入った。「こりゃー、迫力ありますねえ」結構汗をかいたが、それも吹き飛ぶような見事な光景だった。
「あれっ?あの上の方に人がいますよ。どうやって上ったんだろ。。。?」カメラでズームアップして見ると、本格的な山歩きスタイルとすごいカメラを持ったマニアのようだった。我々が降りはじめるとあっという間に追いついてきた。ちりんちりんという鈴の音がどんどん近づいてきて、思わずスティーブと目を見合わせた。「この辺って熊が出るのか?!」
下る道はあっと言う間で、ものの15分くらいで駐車場まで戻ることができた。小さな滝をたくさん横目に水流に沿って降りてくるから、ハイキングなどには丁度よいかもしれない。

          

次の滝は「象ヶ滝」という。名前からして動物のような顔つきをしているのだろうか?案内によるとアスファルト道路の先は「軽自動車がやっと通れるくらいの道」で歩くと30分程度、一番先に自動車を二台停められるくらいのスペースがあって、そこからは10分。。。場所は三段の滝からすぐ近くのようだ。最初に一番の難関と思われる秘境を制覇した私達は地図を見ながら象ヶ滝に向かった。
「もう30分歩くと結構ツライねえ。3本制覇は無理かな」スティーブは平気な顔で3ナンバーの4WDを「軽自動車・・・」と書かれていた細道に突っ込んだ。。。(対向車が来たらアウトだぜ)
タイヤの幅ギリギリで土が崩れたら下を流れる川にまっしぐら・・・という場面が何箇所かあり、さすがにスティーブも慎重にハンドルを操作していた。密かに私はシートベルトを外して窓を全開し、いざという時は「自分だけ」でも脱出する準備をしていた(スティーブごめん!)。

  

「自動車はここまで」という看板まで辿り着き、平らな道を川に沿って歩くと前方から少し年配のご夫婦が歩いてきて「こんにちは」と声を掛け合った。二人で県内(国内?)の滝を巡り歩いているとしたら優雅で高尚な趣味だと思う。「(車がないから)県道から歩いてきたとすると、かなりの距離ありましたよねえ。」スティーブは首をかしげていた。
10分ほど進むと正面にこれまた個性的な顔つきをした滝が!滝壷のそばまで行けるからか、滝の上からかなりパワフルな「風」を感じた。マイナスイオン全開というか、スピリチュアルなパワーというか、しばらく浸って深呼吸していると瞬く間に身体の澱みが浄化され、二日酔が去っていくような気がした。
「どういうところが『象』なのかねえ・・・」「滝つぼの真上の一本線が『鼻』、その上の三角形の岩が『おでこ』じゃないですか?なるほど、確かに象が正面を向いた顔に見えなくもないなー。中々迫力のある見事な光景だった。

  

「最後の滝はちょっと戻らないと行けないけど・・・・こんな時でなければ来ないので行ってみましょう。駐車場からはすぐみたいです!」私もまったく異存なかった。こういうのは「行ける時に行っておかない」と次にチャンスはやってこないからだ。ネットからプリントアウトした説明書きを読むと・・・
「邪魔にならないところに路駐して、1,2分細い道を降りていくと正面に展望スペースがあります。目の廻るような螺旋階段を下りると滝壺のすぐそばまで行くことができます」
「何、目の廻る?!もしかして高いとこ?オレだめかも・・・」「何、降りる方ですから大丈夫ですよ」スティーブがあざ笑うかのように言う。私は落ちたら怪我をするような中途半端なところは足がすくんでダメなのだが、彼はヘリのように高高度なところがダメなのだ。(でもヘビの嫌い方は半端じゃなかった。ぐふふ)

  

地図を確認しながら車を進めたら、看板が出てきたので場所はすぐに分かった。確かに遊歩道は「降りていく方向」に伸びている。ほんの少し歩いたら、正面に見事な一本の水の筋が見えてきた。ホントに滝口から滝壺まで一直線!他の滝のような変化に富んだものと異なり、女性のような優雅さをもった光景だった。滝裏も全くの平にくぼんでいて、人工的なコンクリートにも見えて仕方がないのだが、これが自然の作り出したと思うと驚愕だ。。。前の二つの滝にはあまり逸話めいた話は無かったようだが、この滝には「いかにも」という伝説があった。「お仙という絶世の美人が髪を結えないということで、姑にいじめられそれを苦にして入水した。」という話である。「夜な夜なすすり泣きが聞こえる」という噂も現れ、道路の上にはそれを鎮めるためか神社が祀ってあった。
そんな伝説があるが滝そのものは実に上品で、さらに滝壺から溢れだした流れは狭い岩の間を通り抜け、その先の絶壁そのものの見応えも十分だ。また滝口から真下へ落ちる水流も少しだけだが眺めることができる。

    

「いやあ、三者三様で全然趣きが違いますねえ。ホントこの村は水の宝庫だなー」スティーブと私は満足そうに帰路についたのだった。途中、また不思議な色をした険しい岩に囲まれた水流が表れ、車を停めてもらった。「なぜだか立派な駐車場があるし、休憩施設にしては何もないけどバス用と思われる枠も引いてある。バス停を見ると標札には「蝉」と一言だけ書いてあった。さらに道路の古い看板を見ると「蝉の渓谷」と書いてある。そこらを歩き回って色々な角度から渓谷を眺め渡してみたが、どうにも意味がよくわからなかったが、スティーブが発見した案内板によって全てが明らかになった。

       

「この渓谷の景観は、県内に存在する多くの峡谷同様大変美しく、川の急流が岩肌を浸食して、素晴らしい渓谷美を作り上げています。この渓谷に望んで、俳諧芭蕉の「奥の細道」立石寺の一句が残っていることから、この地が県を代表する優れた風致景観であることがわかります。

『閑さや岩にしみ入る蝉の声』安永2年、闌更刻

なお、この地の名称「蝉」は、「狭水」の転訛といわれています。」

うーむ。松尾芭蕉・・・日本を代表する「蝉」だったのかー。色々な名勝があるものだ。

学を修める旅行

2012-06-09 11:07:50 | 旅行お出かけ
2泊3日で息子甘辛が修学旅行に行ってきた。日曜日に出発して火曜日に帰ってくる妙な日程だ。7時台の電車に乗って新幹線最寄り駅まで移動するからラッシュ時を考えると的確な作戦なのかもしれない。
行き先は広島へ1泊、京都へ2泊だそうだ。その昔湘南エリアからは小学校では日光1泊、中学校では京都・奈良へ2泊というのがほぼ定番だった。
日光へは当時「修学旅行専用列車」というのがあり、黄色とかオレンジを使ったど派手なカラーをした子供には「憧れ」の列車に茅ヶ崎駅から乗り込んだ。うろ覚えになっているが、どこが専用なのかというと、確か小学生用に3人掛けの6人ボックス席だったのとその席の真ん中に長い大きな折り畳みテーブルがあって、弁当を食べたり、ゲームをしたりすることができた。二つドア入り口近くに大きな洗面台もあった記憶がある。

中学校では京都・奈良方面なので新幹線を使う。車両によって他の学校も乗り込んでいたが、たぶん臨時の専用列車だったと思う。ただ停車時間が短いので全組一糸乱れずに乗車せねばならず、リハーサルとして体育館に乗車位置を想定したテープが貼られ、教師はストップウォッチを持って生徒は乗り降りの練習をさせられた。トイレで平然と煙草を吸っているようなズボンがダボダボの不良(死語?)もこの時ばかりは真面目に練習していた。。。(ただし彼らは旅館1泊目の夜に喫煙を発見されて付き添いの体育教師にボッコボコにされていたが・・・
京都・奈良は日本中から修学旅行に来ているし、皆学生服(カンコー?)を着ているからすぐにそれが丸わかりだった。中学生なんてのは粋がっているから、全く知らない土地の同学年と仲良くなろうなんてことはなく、大体衝突することになる。「クラスの女子をからかった」とか「土産屋でガンをつけてきた」、「変な方言を笑われた(そうだべー、とか)」・・・発端の理由は何でもよいのである。何故か修学旅行先ではクラスの男子ほぼ全員が「武闘派」と化してしまう。。。

高校生になると行き先にはかなりのバラエティが現れる。妻などは飛行機で九州だったと言うし、私立のリッチ学校などは我々の時でも海外旅行というのはあった。また生徒が自分でコースを選び、アレンジする自由度もかなり高まってきた。我がクラスは確か金沢から飛騨高山を巡るルートだったが、「永平寺宿泊」といういかにも奇を衒ったメニューを入れたのが裏目に出た。1時間に及ぶ座禅の行に糖尿病患者のような精進料理、午後9時に就寝し朝3時に起床して庭の掃きそうじや本堂の拭き掃除・・・皆、かなり不満たらたらだったが、あの旅行で今でも鮮明に覚えているのは永平寺と金沢の忍者屋敷くらいのものである。最終日はストイックな旅程への反動からか、部屋飲みをしているメンバが次々に発覚し呼び出されていた。(ちなみに私のグループはバレなかった・・・)

概して小学校は割と近場の観光地、中学校は歴史の勉強を含めて神社仏閣、高校は卒業旅行の意味合いが強かったような気がするが、今は中学では「学を修める」意味が弱まってTDLとかドームシティとか遊びに行く感覚が強まったような気がする。お台場にもたくさんの(それも地方からの)修学旅行生が来ていた。また高校となると先日の塾の説明会などではどこも「沖縄」というリゾート地だった。むろん海外組も我々の時よりもはるかに盛んでグアムやサイパン、ハワイはもちろん、英国、中国、西海岸とか長距離の旅行も増えてきている。私立校なんか海外修学旅行を売りにしているところもあるようだ。まあ、私の母校でも公立なのにサッカー部のスペイン遠征があるほどだから、それほど国際色が豊かになっているってことか・・・

甘辛の学校はその点結構真面目?で、広島では原爆ドーム見学や平和イベントなどで歌を合唱してみたり、フェリーで厳島神社を見学したり、基本的に神社仏閣コースである。団体見学の他によくある「グループでの自由行動」というのがあり、見学コースを決めて事前にその由緒などを調べておくのだという。このグループで最も需要なのが「女子の顔ぶれ」である。普段から仲良しの子や気になっている子ならば文句なし、ほとんどしゃべったことのない子でもOK、最悪なのは日頃から反目し合っていたり、以前に「振ったり振られたり」のあった「曰くつき」の子がいるときである。何せ小集団だから気まずいことこの上なく、「早く終わってくれー」と願う悲惨な結果となってしまう。。。
甘辛のクラスは男子は大人しく、女子に「花沢さん」タイプが多いらしく、仲はよいのだがグループ行動では随分と引きずり回されたらしい。「大事なのは女子のメンバなんだよな」というつぶやきはまことに的を得ている。



そしてグループ行動と連動するのが修学旅行名物「散歩&告白」タイムである。食事、入浴の後、就寝までの極めて限られた時間内に相手をどうにか呼び出し見知ら土地を歩き(ここ大事)ながら思いを伝える云わば玉砕イベントのようなものである。(というのは、これで成立したカップルを聞いたことがない)
別名「旅の恥はかき捨て」とも思えるイベントで、甘辛の友達も色々策を練っては散って行ったと言う。。。。むろん女子から、という逆のパターンも大いに「あり」で、甘辛は実際に呼び出されて「すわっ告白か?!」とドキドキ勇んで行ったらただの「相談」だったらしい。(よくある話だが、あるだけマシだ)
甘辛と同室だったお友達は告白仕切れなかったのか、玉砕したのかよく聞かなかったが、大荒れに荒れて、パンツ一丁で部屋で馬鹿踊りを披露しその一部始終が動画に残されていた。。。

3日目の夜、駅まで向かえに行ってやるつもりだったが、友達と歩いて帰ってきた。電車内等で周囲の迷惑を避けるためだろうが、行きも帰りも大きな荷物は宅急便で送るなどという、「ゴルフらくらくパック」のようなヌルさである。(甘やかし過ぎじゃないの?!)
しかし以前「オレんちのクラス、イマイチつまんねえ・・・」とボヤいていた甘辛が帰宅して開口一番「いやー、面白かったー」と笑ったのを見て安心した。その夜は家族でファイレスに食事しに行き、上に書いたような様子を詳しく聞いた。家に帰って持たせたIXY画像をPCに落とし色々見せてもらった。
原爆ドームに二条城、金閣寺、そして私の行ったことのない厳島神社・・・広島の昼食はモダン焼きだったのね。「あれっ?甘辛よ。清水寺の写真がねえぞ」「うーん、K太郎(仮称)のヤツの馬鹿踊り動画で撮りまくってたら、バッテリーがなくなっちゃった・・・」


  
「根性」とか「友情」とか書かれたベタなキーホルダーか「五重塔」の置物を買ってこい、と言ったのに、「八つ橋」しか買ってこなかった・・・(しかもチョコレート味というゲテモノ?!)
ズバリ修学旅行で行く神社仏閣シリーズはその当時はほとんどどうでもよいが、大人になってからもう一度じっくり訪ねると実に面白いものだ。実際に学生の頃、友人と車で京都・奈良を旅行したときはホントに楽しかった。(まだ何となく修学旅行の思い出が甦ってくるからかもしれない)観光地化していようが、生徒で溢れかえろうが名所と言われるところはどこも皆素晴らしいものだ。
「今、ここで頑張らずにいつ頑張る!」と中学3年生の我々に気合の喝を入れた大徳寺大仙院のご住職が健在で、数年後に同じことをやはり中学生に説教していたのにいたく感動した。
その方は「尾関宗園」さんと言い、いまだご健在のようだ。当時14歳の我々へのツカミのセリフは「キミの瞳は1万ボルト、ボクの頭は100万ボルト!」いつか息子にも彼のお説教を聞かせてやりたいものだ。



免許がない?!

2012-06-08 10:27:46 | 出来事
昔そういうタイトルの映画があった。スター俳優(舘ひろし)が運転免許がないのにコンプレックスを持ち、女優に馬鹿にされたきっかけで、身分を隠して教習所に通うようになるストーリーである。「はんこくれよ~!」というなさけない顔をした舘ひろしさんのCMが印象的だった。
これまでうすうす暴露していたのだが、私の場合「足元に気をつけなかった」結果として、思わぬ時に「免許がない!」状態に陥ってしまったのである。(ストーリー展開に無理があるなー)
私の他にも多いとは思うが、普段は財布を二つ持ち歩いている。大きなヤツと中くらいのヤツである。大きな方は昨年、ソウルプチ旅行した時に成田で衝動購入したもので保険証やお札などが入っており、小さい方には種々の会員証や診察券、懇親会1回分くらいの現金などを入れてある。クレジットカードや銀行カードなどは偏ると全滅した時に立ち直れないので相互にバックアップとして分散配置している。
免許証は更にずーっと前に妻にプレゼントされたパスケースに何となく入っていた。

これらは普段別の入れモノに分散しているが、収納するバッグは常に一つのリュックサックである。入れるポケットはそれぞれ異なるが、リュックごと失くすと私はほとんど機能不全に陥ることになる。そして私は仕事はもちろん、釣りに行こうが水族館に行こうがどこに行くにも常にこのリュックを持ち歩くのである。社員証や印鑑の入ったクリアケースと同じところに投げ釣りのアオイソメが入っていたときもあるし、超兵器の周辺パーツも同じところに入れて歩く。何かと地べたに放っぽり置くこともあり、底の方はだいぶ薄汚れており、気をつけてみると妙に魚臭いところもある。
息子の体育祭でグランドに置きっぱなしにし、埃で真っ白になったリュックを見かねた妻が「丸洗いする」と宣言した。私もさすがに「やばい」と思っていたので、素直に従った。

リュックの底には様々なものが沈殿しており、ドブさらいに苦労をかけたようだ。釣りに使うヨリモドシやかみつぶしオモリ、裁縫セットの残骸に壊れた扇子、外袋がボロボロの箸、缶バッヂなどである。
知らないうちに全部ひっくり返されていて、貴重品は銭湯で使うような箱に集められていた。
出かける用途などによって収容するバッグを換え、中身を移し替えていると必ず漏れや間違いが生じ、うんと痛い目に合うからすべてのモノを同じリュックに入れて持ち歩いているのだが、何か足りないような気がした。スタンプカードのようなしょうもないモノまで全部揃っているが・・・
「あれれっ、免許の入ったパスケースがねえぞ?!外から2番目のチャックに入ってるんだけど。。。」当のリュックは洗濯機の中で洗剤とともにもまれていて、慌てて取り出して中身を裏返してみたがどこにもない。洗濯槽に出てしまっているわけでもない。

免許なんて普段出し入れすることなんかないので、いつ失くしてしまったのか全然気が付かなかった。その割には入れてあったチャックは別のものを取り出すために頻繁に開け閉めするので何かの拍子に落ちてしまったに違いない。。。
「こりゃー、困ったな。再交付にいかないと運転できねーぞ。」無免許というわけではないから、これまでだったら手続きが終わるまでこっそり運転していただろうが、コンプラのうるさい昨今、たとえ私用でも何かあったときに色々とやばそうだ・・・
調べてみると免許紛失による再交付は運転免許試験場でなければやってもらえないようだ。しかも平日のみ。。。なかなか機会を作るのが難しいなー。北関東で単身勤務している私は休暇をとったとしても平日に往復するのはいかにも効率が悪い。月曜日の朝一にそれこそトップバッターで手続きし、そのまま新幹線で向かうしかない。。。

ルート鎌倉のCOSTCO行きも箱根へのゲリラ旅行もそういう混みいった事情で(どこが?)助手席に座らせてもらって超兵器を構えた。ちなみに妻は甘辛が小学生の時からサッカーの試合などで県内の至る所まで車を走らせている(かれこれ8万キロも乗っている?!)から道路には私よりも詳しいが、いつまでも助手席に甘んじるわけにもいかぬので、とある月曜日に窓口の開く1時間前に到着するように家を出た。
試験場は県内中から人が各種手続きで集まるので、いつもものすごく混んでいて免許更新なんて半日コースだった記憶がある。再発行窓口にはそれほど人が並んでいなかったが、それでも1番ではなかった。。。
再発行申請書に必要事項を記入して持ってきた写真を貼り付け並んでいると、開始時間の15分くらい前に太古の昔から変わらぬ紺色をした役所制服(腕貫はしていなかったが)の女性が必要なものを持っているか尋ねて廻ってきた。「2番窓口で先に収入証書3600円を購入してください」げげぇーっ!そういうのは紙に書いて張っておいてくれよなー。

向いの窓口に並んで証書を購入し、再び受付に並び直した。ほとんどの人がそうだったからあんまり待たされずには済んだ。書類を出したら「顛末書」というのを渡され記入して暗証番号(昔はそんなの無かったよな)を登録し再び呼ばれるのを待つ。顛末書ではなりすましや偽造を防ぐために「古いのが見つかったら提出する」とサインして誓約するが、「いつ頃どのようにして失くしたか」だと・・・・?それが分かったらそもそも失くさねえよ!とつぶやきながら頭を抱えてしまった。
前回は「海外で置き引きにあってしまった」、前々回は「前かがみになったら大型シュレッダーに落ちてしまった」などといかにもワザとらしい言い訳を書いていたのだが・・・・「江ノ島の断崖絶壁から海へ落としてしまった」とでも書いておこうか。

ふと記入台を見ると「記入例」が載っているではないか。「カードケースに入れて持ち歩いていたが、いつの間にか無くなっていた」だからどうして失くしたか聞かれてるのに・・・こんなアバウトな記述でいいんだな?窓口に呼ばれ書類を提出すると、係員は中身も見ないでハンコを押し、写真室へ行くように言った。免許の写真っていつも変な顔で写るものだが、この時も普通にしていたのに妙に上から目線のようになってしまった。引き換え券を渡され、発行までの所用時間は約1時間だ。いつもながらこの時間はホントにやることがない・・・朝一なので検定試験もやってないし、テレビがあるわけでもない。建物外をうろうろ歩いていると待ってましたとばかりに呼び込みに捕まってしまった。いつ来ても必ず営業している「献血」である。

前週から懇親会続きで土日も何やら家族で飲んでしまい、メタボ改善も行き詰っていたところである。400mlも血液を抜く、ということは「どんな運動よりも確実に体重を減らすことができる」と考えた私は受付に向かったのだった。
「昨晩、バレーボール見ながら飲みすぎちゃって・・・血中に残ってるかもしれませんが、献血しても大丈夫ですか?」
係員はゲラゲラ笑いながら「全然OKです」と申込み用紙に記入し始めた。「発行されたらすぐに会社へ出勤したいんですけど、時間どれくらいかかります?」「全部で40分くらいですよ。急いで手続きしますからぜひお願いします」
レントゲン車みたいなのがいるのかと思ったら、専用の献血ルームができていた。(毎日、やってるのね)
受付を済ますと血圧を測定し担当医の問診があった。そしてその隣りで看護師により採血され、成分によってはお引取り願われてしまう・・・

「ちょーっと血圧高いですねえ」いつもなら「美人を前にして緊張してるんですよ」という、救いのない「じじいギャグ」を炸裂させるんだが、冗談が通じなさそうな人だったので「今、改善中なんです」と真顔で答えた。採血の時には必ず目をそむけるのだが、「んっ?痛くねえ。この注射は流行りの『痛くない針』を使ってるんですか?」「いいえ。普通の針ですよ」「じゃ、腕がいいのかな」笑いかけてみたが、淡々と血液の成分を調べているようだ。(やっぱり冗談が通じねえ・・・)

スポーツドリンクをもらって採血台へ行くと、別の保健師が待ち構えていて「どちらの腕から採るか見てみますね」「400採るのにどれくらい時間がかかるもんですか?」「15分くらいですかねえ」「両腕からいっぺんに抜いてしまえば半分の時間で済むんじゃ・・・」「ははは。それは無理ですよ。あ、でもかなり『出』がいいようだから早く終わるかも」
「あのーぅ、献血ってダイエットにはいいものでしょうかねー。余分な脂肪を取るのと同様に余分な血液を抜くとか・・・」「血液を作るためにちゃんと食べてくださいね。健康面から言えばあまりお勧めできません。献血でダイエットなんて聞いたことないですよ」「次に抜いていいのはいつ頃でしたっけ?」「3ヵ月後です。結構間を開けるでしょ?献血している間に貧血で倒れるひとも真面目にいるんですよ」

我ながら間抜けな会話をしているうちに、なんと8分足らずで400ml採血が終わってしまった。お茶と薬用ハンドソープ、絆創膏をもらって献血カードを登録してもらった。「くれくれも食事は摂ってくださいねー」「今晩、ちょっと飲む機会があるんですが、大丈夫ですか?」「酔いが廻るのが早いので気をつけてください」
駅から試験場までは歩いて15分くらいののぼり坂、また最寄り駅からオフィスまでも歩いて15分くらい、それだけで1時間歩いたことになる、それに加え本館との往復を2回、携帯についている万歩カウンターを見たら1万3000歩、献血に400グラム(水分)、メタボ改善には申し分ない消費量なのだが、むろんそれをはるかに上回るアルコールを摂取したので成果はゼロに違いない・・・

鉄砲の道

2012-06-06 04:23:50 | 旅行お出かけ
我が家からは片道8キロほどになるだろうか、とある理由で竜泉寺の湯まで自転車で行ってみることにした。天気もよいし海岸のサイクリングロードを走るだけなので簡単だが、ただのママチャリで走るには少し骨が折れる距離だ。海岸に出てひたすら西へ向かう。謎のTバーや烏帽子岩を横目に先日「湘南際」が開催された茅ヶ崎サザンビーチを過ぎはるか彼方まで走ることになる。(その辺の光景はもう書いた)
サイクリングロードと言っても本格的なバイシクルは車道を風のように走るので、最近はランナーの方が多いように思える。ぶつかってはいけないし、彼らはよくイヤホンをして音楽を聴いているから、ちりんちりん鳴らしても気が付かないことが多い。昨今はあまりチャリで走りやすいとは言えなくなってきている。さらにその日はかなりの西風が拭いていて、往路の茅ヶ崎柳島へ着くだけでへとへとになってしまった。

時間は約30分。。。どうということはない運動量だが、この後スーパー銭湯で1時間過ごしてさらに復路となるとかなり厳しい。風呂に入った後汗でべとべとになるのも妙な話だ。すぐそばまで来たのだが、そのまま帰宅することにした。来た道をそのまま戻るのは嫌いなので、(と言っても1本道には変わらないのだが)何の変哲もないが鉄砲道を走ることにした。昔幕府が鎌倉の方から柳島まで鉄砲が行き交っていたことにちなむと習った。
その昔は雄三通りより西は無かったように思うが、一応134号と合流する後付ルートを起点にスタートしてみよう。まずはテレビで放映されたこともある茅ヶ崎の網本料理「萬蔵丸」である。生シラスはもちろん旬の魚介料理も美味しいらしいが、何故か妻はあまり興味を示さず近くの「あさまる」のほうが好みらしい。。。

    

私が子供の頃からあった、浜見平団地。。。少年野球のライバルチームがあった。(今でも「シーホークス」あるかなー)
入り口に以前、柳島海岸で投げ釣りした際に駐車禁止のステッカーを貼られ出頭した派出所がある。ちょっとインテリ風の巡査さんが細い眼鏡で上目遣いに「んで?何が釣れたの?」「イシモチが1匹だけ・・・型は結構いいんですけど」「ふーん、高いイシモチになったもんだねー」「・・・・」(2度と来るもんか!)
ちなみに持ち帰ったイシモチは私が疲れて昼寝している間に妻が煮付けにして息子と食べてしまった。。。
向いはお馴染みの「えぼし」・・・この店の輸送車に書いてある文字は「怖い」。全国的にもかなり有名になっており、茅ヶ崎駅南口前にも「赤い魚」という系列のお店があったのだが、5年前くらいに潰れてしまった・・・何度か訪れたことがあるが、すごいメニューの種類だった。我が家からは普段車でしか行けないのでだんだん足が遠のいて行った。有名になり過ぎて評判としては賛否両論あるようだ。

      

小夏師匠に教えて頂いたパンの店「こなひき洞」・・・よく見ないとベーカリーとはわからない小さな店で、こんな隠れ名店をご存知とはやはり師匠はすごい!うろ覚えで「ホラ吹き洞はどこですか?」とさっきの派出所で聞いた。。。
雄三通りを渡って少し走ると左側にその昔「あたりや釣具店」というのがあった。今は自然工房になってしまったが、子供の頃からよくエサや道具を買いに来たところだ。駐車場がないので道路を渡って正面にあるローソンに置かせてもらうのだが、いつか甘辛と釣りに行ったときUターンしようとして真ん中に突き出ている鉄製のピラーに気が付かず、「どかん」とぶつけてしまった。。。24時間営業の店で何の為にあるのか分からぬが、ピラーは何とも無かったものの当時乗っていたステップワゴンには丸分かりの柱のめり込んだ跡ができてしまった。あまりにも綺麗にめり込んだので、大きく歪んでいるのに後部ドアの開閉は何の問題もなくできたほどだ。息子はそれ以来「あたりや」のことを「ぶっつけや」と言うようになった・・・

    

一中通りに向かって進むと部活の時からサッカーのグッズを買い求めたコワダスポーツがまだ健在だった。1年上の世代のキャプテンのお兄さんが経営していて、中々可愛がってくれたものだ。スパイクにトレーニングウェア、ストッキングなどお年玉をためては買い求めていた。アディダスの「カンガルー皮」のシューズが憧れで、3年最後の大会の前にようやく手に入れた(当時1万6千円くらいした)が、骨折のため本格稼働は高校に進学してからのサッカー部までお預けとなった。(しかしすぐに小さくなってしまい、WWⅡ末期ドイツのキングタイガーのように、十分活躍するには至らなかった)
ラチエン通りを渡って少し進むと・・・はははー。懐かしいねー。さらに小学校の時に仲良しだったお友達(ちなみに女子)とよく遊んだ小さな公園を過ぎ、動物病院の向かいあたりに妻が探しだしたという一見何の店かわからない「ボージャン」というインド料理店がある。平日のランチ時でも結構混んでいるのだが、味とボリューム共にかなりハイレベルだと思う。

      

私の記憶では鉄砲道は松波小学校の前の道、平和学園までで行き止まりだったような気がする。道路が突き抜けたこのエリアは新しくて明るく、住みやすそうなところで我が家の社宅からの移転候補地にもなったところである。突きあたり近くになると「メノンズ」というもう一つのインド料理店があるが、以前はこの場所ではなかったはずなのにどうしても元の場所が思い出せない・・・その昔はブッフェ形式にもしていたと聞くが、妻に言わせるとボージャンの方が味はよいらしい。。。
私的には鉄砲道の終点にあるのが「マルデナポリ」というイタリアン店、その昔は「アフタヌーン・ティ」という店だった。1品注文するとできたてのパンが60円で食べ放題になり、チーズパンが息子の大好物だった。新江ノ島水族館を舞台にしたドラマのロケが行われたらしい・・・「ヤンキー君とメガネちゃん」のロケはすぐ近所の小学校だったと言うし、「最後から2番目の恋」も江ノ島でロケを行っていたとか、そういう話題をよく聞くのだがどうもタイミングよく情報をGETできない。(できても行けないと思うけど)

      

鉄砲道編はこれで終わりだが、番外編で帰り道の海浜公園では祭りが開催されていて、小さな池ではバルーンアトラクションが面白そうだった。(昔、甘辛がフナを手掴みで捕まえてきた人工池である)
実は別日の早朝、実家に向かう途中で撮っておいたのだが少年野球時代、打ち上げなどで指導者のご用達だった酒店・・・毎日ここを横目に通学していた。すぐそばに駄菓子屋があって生活指導教師の厳しい目を盗んで部活の帰り暗くなるまで10円ゲームに夢中になっていた。その店を「ナカジマ」という。。。
酒店は尊敬する某師匠ゆかりの店かもしれないのだが、もしそうだとしたら信じられない奇跡的な偶然だー。