超兵器磯辺2号

幻の超兵器2号。。。
磯辺氏の文才を惜しむ声に応えてコンパクトに再登場。
ウルトラな日々がまたここに綴られる。

ルーツの地で従兄弟会

2015-11-29 07:36:03 | 旅行お出かけ
昨年は信州の駒ヶ根高原という中々レアなところで開催された母方の兄弟&従兄弟の集いが今年も行われた。確かこのサイトでも取り上げた記憶があるので読み返してみると今年は前回よりも少し遅めの日程になっている。いつの間にか「代表幹事」になってしまった私は今回幹事の「ノリくん」を指名した時に「来年は北陸新幹線もできるし久々に富山でいいんじゃないか?」とサジェストしておいた。これまで2回あった集いを見ると、我が家のように較的どこでもほいほい駆け付けられる組とそうでない組が何となく分かり、富山組の一部は仕事他家庭の事情もあって、中々遠出するのは大変なことに気付いたのである。昔一時的にパンクヘアーで亡くなった首領(ドン)=祖母や皆を驚かせた「ノリくん」だったが、この手の企画は結構得意なようで、半年以上前から日時と場所を決め方々に連絡していた。宿泊施設だけだがかなり由緒正しいところらしい。前回は母親と二人で赤いライオン号を飛ばした私だが、今回はむろん北陸新幹線を使用することにしていた。

残念ながら今回も受験生である息子甘辛と妻は欠席せざるを得ず母親と二人旅となった。宿泊もそこそこ良い所だが新幹線もそれなりに費用がかかる。正直に往復運賃と宿泊施設を別々に支払うと昨年の東北旅行並みの費用になってしまう。そこで色々作戦を考えた末、私にとっても久々の富山行なので、ここ数年母を連れ回している旅行と合わせることにした。毎年貯めるポイントから得るクーポン券を使用し1泊2日のツアー企画と個人手配の宿泊を組み合わせると新幹線が格安となり、普通に訪れるのとほとんど同じ費用でもう一泊できてしまうのである。さらにラッキーなことに地方創生の「ふるさと割」なる応援キャンペーン期間となっており一人1万円もツアー料金からディスカウントしてもらえた。私はこの浮いた費用でレンタカーを借り、またまた高齢の母を富山県内方々を連れ回すことになる。

  

初日は兄弟&従兄弟の大宴会を予定していたので、無難に昼過ぎに富山に到着、10年以上ぶりに祖父母の墓参りを行いそのまま会場に向かうことにしていた。叔母の一人が駅まで迎えに来てくれ、市内の外れにある広大な霊園に向かった。つい先日、東京に単身遊びにやってきて母も含め姉妹4人で東京ディズニーランドを巡り、都内観光に乗り降り自由の2階建て屋根なしバスに2日間にわたり皇居周辺、お台場を走り回ったハルおばさん(仮称)であある。台場地区はマンションが立ち並び、遊戯施設も派手で興味深かったらしいが「たまに行くならいいけど、人の住むところじゃないね・・・」わずか1年間、ゆりかもめで通勤した私も同感だった。さて富山駅から地図で見ると霊園はすぐに分かるのだが実際に行ってみると見渡す限り墓標が並び、まるで住人がスターシアだけになってしまったイスカンダルのようだった。「○区画の◇▲番を目指してくるといいのよ」ハルさんはからから笑っていたが、母と二人きりでは絶対に辿り着けなかったろう。「姉さん久しぶりだから、街の中を走ってみるね」とハルさんは市内中心部に向かった。駅から少し離れたところにある繁華街もだいぶ再開発が進み様相が激変していた。

  

姉妹とも年が近いせいもあって、昔(と言っても何十年も前)の同級生とか知人、恩人、遠い親戚、お店、会社など共通の話題が数えきれないほどあり、ハルさんはあらゆる方向の履歴・沿革を把握している。別に彼女が特別に人や企業の噂話が好きということはなく、そういう世間ならしい。「○▲町の乾物屋の嫁がまた・・・」「二丁目の◇◆医院の次男いたでしょ?」「ほら、■□の小学校のそばから移転した○×屋・・・」と、現住所や跡地を巡りながら、とどまることなくその変遷を語り続けた。まるで東京の短時間観光バスと比べると富山の「裏観光バス」のようだった。商売をやっていた家柄なのでその方面は特に詳しく「H恵ちゃんと同級生だった▲▽社のKさん、先代のご主人は結構のーんびりしてたでしょ?Kさんの息子さんは家を継がないで神社の経営に乗り出したのよ。ずいぶん色んなところに教わって、熱心に勉強してたんだけど・・・なんでダメだったんだろ?」私は思わず心の中で「(坊やだからさ!)」とつぶやいた。赤い彗星の顔が浮かんだのは言うまでもない。ほどなく富山市と高岡市の間にある小高い山の宿泊施設に到着した。

  

チェックイン時間よりも早く着いてしまったのでしばらくロビーでさっきの続きの話を聞いていたが、次々に後発組が到着し部屋に案内してもらえることになった。小さな子供もいれると総勢31名、家族単位ではなく4姉妹が中心で、母と子の部屋割になっており、野郎は大部屋にまとめられた。何と我々の大部屋は皇室「秋篠宮ご夫妻」が宿泊された部屋らしい。「誰かが紀子様のお使いになった布団に当たるかもしれませんよ」と加納屋炭鉱の亀助さんのような従業員が案内してくれたが「(んなわけねえだろ!皇室なら布団にも『菊の御紋』が入っとるわい・・・絶対これ、ネタだよな)」と笑っていた。山の中腹から街並みを展望できる露天風呂で温泉に浸かり、ビールを飲みながら土産代わりに先般撮影しておいた観艦式を上映したら元自衛隊幹部の叔父さんがいたく感心して、画面を見ながら我々の知らないことまで色々と教えてくれた。そうこうしているうちに、今回初登場の我が従兄弟仲間最年長であるカズくん(仮称)が現れた。

  

いつかも書いたが太平洋組の長である私とは全く対照的で、器楽部の部長として指揮者を務めたり、天体観察クラブの部員で私に望遠鏡の手ほどきをしたり、上には丁寧で下には優しく絵に描いたような秀才だった。我らが首領であった祖母に最も期待され(たぶん大事にもされ)たぶん狭い土地柄で様々な期待と噂に悩まされ、ちょっと躓きながらも父上と同じ医師という職業に就いた。私にとっては10年ぶりくらいの再会だったが、前にも増して誰にでも丁寧で優しく皆に挨拶してまわっていた。「オレ、タロウくんにトランプで負けて『ど根性ガエル』全巻巻き上げられたんだぜ」と今だに恨みをもたれている私と比べて、もはや「仏」の領域にいるようにさえ見えた。子供の時、夏休みに皆で富山城跡公園で遊ぶと彼らがこぞって「たろうチーム」を望んだのは私に付いていれば、必ず「ドロ警」(警察と泥棒に分かれた鬼ごっこ)で勝てたからである。

いつも同じような話題にしかならないのだが、子供の頃の話題で前回書かなかったことは、今はもう無き祖父母の邸宅の話である。昔の大きな屋敷のような家だった祖父母の家に太平洋組は遊びに行くと必ず泊まっていた。屋根裏部屋や仏壇の部屋、庭には大きな石と池、そして石灯籠があった。何十年も誰も入っていない屋根裏部屋に忍び込んで蝙蝠を捕まえてきたのは私である。年の近い我々があの家に泊まる時「恐怖の部屋」と呼んでいた畳部屋があった。田舎らしい巨大な仏壇があり朝になるとばあちゃんは仏壇の前で御経を読むのが習慣だったが、部屋の真ん中上に世にも恐ろしい顔をした老婦人の写真があったのである。どこのどなたなのか、誰も聞かなかった。私も何か悪さやいたずらをしたりすると「仏壇の部屋で寝かせるぞ」と脅かされると必ず大人しく言うことを聞いた。ヒロくん(仮称)も全く同じでその部屋には決して寄り付かなかった。「あの写真のばあさん、部屋の中で動いても目が追いかけてくるんだよな・・・」ちょっと難しい事情もあるようなのだが、あの写真は我々のいわゆる曾祖母にあたる人のものだったと知るのはごく最近のことである。ちなみに今回墓参りの時に「あの怖い顔したおばあさん、この墓にいるの?」と聞くと、どうも後妻なので本家の墓には入らなかったらしい・・・

年齢にすると一回り以上の差もある野郎ばっかの従兄弟で稀少な女子でアイドル的(そこまではないかな)存在だったミニーちゃん(仮称)も今回はお子さん連れで登場した。確か妻も同じものを持っていたのを思い出し「ミニーちゃん、いい指輪してるねー。オレのと同じブランドだろ?」普段しないスリーゴールドを見せると「そうそう、たろう兄さん(と私を呼ぶ唯一の女性だ)、子供が生まれた時に家族の名前を裏に彫ってもらったんだよ」
年齢がかなり下ということもあり、小さい時から恥ずかしがり屋で言葉も少なかった彼女だったが「ミニーもあんた達とよく話してたねえ」と母親が感心していた。20年くらい前だったか、ノリくんが仕事で上京した時に久々に連絡を取り、健気にも一緒に食事をしようと初めて私のPHSに電話をしてきた。移動中だったので雑音が多く「イトコのミニーです」と言ったところを「ミニー」しか聞こえず、「んっ?えっ!へ?誰?」当時はまだ部屋の固定電話が主流で女性から移動中に携帯電話がくるなど思いもしていなかった私は慌てて「どこの誰なのか?」思い当たるところを検索したのだった。ヒロくんにも電話をしたが捉まらず、結局年の近いノリくんと二人で焼き鳥屋で飲んだらしい・・・

宴もたけなわ、年寄りメンバーはそろそろ疲れが見え始めた頃、「やっぱり代表幹事が最後しめてよ」とノリくんがやってきた。「だーかーらぁ、いつからオレが代表なんだよ・・・」と苦笑しつつも私は言い出しっぺとして一つ提案を思いついていた。首領である故Tばあさんとその所縁の人全てのルーツである富山で固定開催にしてしまおうということだ。幹事を頼める者は他にもいるし、毎年中々思いもしない所に集うのも楽しみではあるが、年寄りにとっては全く初めての地というのは全てにおいて要領が分からず気疲れが多かろう。祖父母が亡くなり、東京近郊の親類もこういう機会でもないと富山を訪れることもなくなった。母親も数十年前のこともあるが、あらためて県内・市内というと意外に訪れたことがないの名所が多いようだ。年長のカズくんに来年のことを頼めないかと聞いたら、やはり仏顔で快諾してくれ、何と翌朝、その場所の仮予約を取ってしまっていた。ここに「もうずーっとここでいいよね」という運びになり、これからは当分「ディスカバー富山、ディスカバー北陸」という従兄弟会になったのである。

北関東続編レポート

2015-11-25 20:11:43 | 旅行お出かけ
現職の事業テリトリーは物理エリア的に言えば1都3県が中心である。屋外のいわゆる工事現場以外のオフィスも数十箇所に上り、中々顔を出せないが、何かにつけて現場や施設を訪問し、スタッフと意見交換したり安全にかかわる情報共有したり、施設の点検などを行うのも日常の仕事でグンマの時に似て「お出掛け」することも結構ある。本人は「御用聞き」のつもりでいるのだが、訪問の仕方は行先に任せてあり、土地によって色々なスタイルがある。現場スタッフとコミュニケーションを重視する場合もあれば、外回りのように施設巡回を重視するところもある。今回訪問したのは北関東グンマの手前「彩の国」である。社会人最初の赴任地や離島記事などもあったが、このサイトで紹介するのは約半年ちょっとぶりである。このエリアを訪問するとオフィスでの挨拶などはそこそこに1日中屋外を走り回るグンマースタイルで、同行者はたぶん「お出掛け大好き」のフクさん、マッさんコンビである。集合場所は館林にはいつも届かないが「熱いぞ!」で有名な某市である。

地元愛の強かった元上司はグンマが毎年都道府県の知名度最下位なのをよく嘆いていたが、マッさんに言わせると「グンマは山もあるし、神社仏閣も有名、何よりも温泉天国じゃないですか。こっちは『名所』と言われるところがほとんどないんですよ。最初に国宝に指定された聖天さまに寄ってみますが知らないでしょ?」前回、立寄った「三峰神社」も知らなかったが、今回は「妻沼聖天山」。。。うーむ、確かに聞いたことがない・・・鎌倉時代に「斉藤別当実盛」という武将がご本尊をお祀りしたのにはじまるらしい。ここの目玉は国の重要文化財となった「貴惣門」と3年前に国宝指定された御本殿である。国宝になる前に8年かけて外壁を創建当初の華麗な色彩に復元されたそうだ。眠り猫で有名な左甚五郎の彫ったとされる彫刻が随所に見られ、金箔の鮮やかさと重なり合って中々見事なものだった。

          

いくつか現場を巡回して昼御飯時となった。「ここ来るといつも『B級グルメ』ばっかりで申し訳ないんですけど・・・この前話題になった『ゼリーフライ』食わせる店に行きますね」先日、社内の発表会せプレゼンしたこの近くのオフィスのチームが「ゼリーフライ」という名前だった。昔、実家の近くに「アイスクリームの天ぷら」といういかにもな奇食を出す店があったが、何のことなのかさっぱり分からなかった。「おー、ゼリーフライね。あの辺のご当地食ですよ。『おからの唐揚げ』って感じかな」マッさんは私が不思議そうな顔をしていたのを覚えていて、今度必ず食わせるつもりだったらしい。「ちょっと炭水化物ばっかですけど、この辺で定番の3点セットで行きますね。」くだんのゼリーフライにただの「フライ」、そして焼きそばだそうである。このあたりでグンマのようなゲテモノ臭がしてきたので「大き目のを頼んで3人でシェアしたら・・・」と言いかける前に3人分同じものを注文されてしまった。

最初に「フライ」が出てきたが、ゼリーフライとは全然違う食べ物で、小麦粉を水で溶いた中にネギ、タマゴ、肉なだが入って薄—く焼いてあるクレープとお好み焼きのあいのこのようなもので、食感はかなりもちもちしておりおやつ感覚だった。ソースと醤油だれが選べるがどちらもかなり塩から系でまさしくB級おやつという感じだった。焼きそばも少し濃い味のシンプルなもので、広島焼きとはだいぶ製法が異なるが、フライの中に焼きそばを挟み込むメニューもあった。最後に出てきたのが「ゼリーフライ」、これもかなり濃いめのソース味がした。ルーツは日露戦争時に中国から伝わった「野菜まんじゅう」ということだが、ジャガイモ、おからを練ったものを衣をつけずにコロッケのように揚げたもので、小判を重ねた形であることから「銭フライ」がなまって「ゼリーフライ」になったという。どれも肉体労働者向きのおやつのイメージでその地域では「B級グルメ」として30軒以上のお店が営業しているそうだ。成分がヘルシーなのは何となく分かるが、とにかくものすごい濃い味で「粉もの」ばかりなので、かなりずしりと胃に響くところがあった。あの辺はグンマとの境にも近くやはり「北関東」というと濃い味が主流のようだ。

      

昼食後、近くのオフィスに少しだけ顔を出し、再びマッさんはハンドルを握った。利根川に水資源施設を見学するという。「利根大堰」という12門のゲートからなる巨大な水門があり、様々な用水路を構築して水道、工業、農業用に水を供給しているそうだ。利根川河口から154km地点にあって、ゲートによって利根川を堰き止め、各用水路に安定して水を供給するとともに、利根川の水位を一定になるようにしている。それだけなら「ふーん、なるほどねえ」と感心するくらいで、700メートルある川幅を眺めながら「(さすがにここは飛び石があっても渡るのは無理だろな)」と心の中でつぶやいていた。ところがマッさんによると3か所ほど魚道なる施設があり、魚が通れるようになっているという。海から河口に入って川を上る習性のある魚は完全に堰き止められるとそれ以上上ったり下ったりできなくなるので、それまでの生態系を壊してしまわないように設けられた文字通り「魚の道」である。何とこの季節鮭の遡上を見物することができるそうなのだ!利根川でも鮭は遡上するものなか?!小夏師匠のような「本場」ではないが、こんなところで初めて見られるのはすごいことだと、私は興奮して駐車場から1号魚道に走り寄った。

なるほど狭い水路で段差はあるが、落差が緩やかで魚が通れるようになっている。上からしばらく「ワクワク」しながら眺めていたが、残念ながら何事も起きなかった。マッさんが手招きしている階段を下りて行くと、手前の魚道の壁がガラス板になっていて何と真横から観察することができるのである。水資源機構も粋なことをしてくれるものだ。地下はちょっとした広場になっていて、小学校の社会見学のコースにもなっているようだ。壁面に設置されたモニターには最盛期に遡上する無数の鮭が狭い魚道をひしめいていた。(すげえ)どうやって数えたのか昨年の日別遡上数(9時〜17時が記録されており、10月くらいからポツポツ始まって11月中旬頃に最多となっている。我々が見学した日は前年記録だと90匹くらいでだいぶ落ち着いてしまっているが、翌日は293匹となっている。1匹くらい通らないものかガラス前で粘っていたのだが全くなんの気配もない。。。時刻は2時くらいだったから、「魚釣りみたいに『朝マズメ』『夕マズメ』があるんだとしたら、今が一番サボっている時間ですよねえ・・・」我々はちょっと(私はかなり!)がっかりして魚道を後にした。

          

さらに他の現場を点検して、最後に向かったのが「古代蓮の里」である。原始的な形態をもつ1400年〜3000年前と言われる蓮が近くの公共建設工事に偶然種子が自然発芽して蘇り、池に開花したという。古代蓮も含めて他の外来品種も合わせると42種類12万株の花蓮が見られるという。これを地上50メートルの展望室から眺めわたし、天気がよければスカイツリーや富士山、筑波山に赤城山を見ることができる。残念ながら今はシーズンではなく、蓮の葉っぱは全て枯れ尽くし次期シーズンを待っているようだった。展望塔や園内は各所にLEDライトが張り巡らされ、クリスマスイルミネーションの準備をしていた。実はこれ以外にあまり知られていないようだが、展望室から観覧する「田んぼアート」というのがある。田植えから稲刈り時期までとある一角の田んぼが稲を使った巨大な絵画になっており、ギネスにも挑戦したことがあるそうだ。蓮の季節とも合わせてぜひ訪れてみたいものだ。

    

たしかにマッさんの言うように、全国知名度最下位県とは言わないが「彩の国」も中々名所や観光地として知られるところは少ないかもしれない。ちなみに「北関東を走る」編で紹介した県北部と今回の訪問の間にも一度、県東北部を訪れた。その際にマッさんは色々なところに連れて行ってくれた。グンマ顔負けのゲテモノ特盛うどん、古墳群、石田三成の作った堤の跡、川越大師などだがどれも私にとっては全然知らなかった。東京に接しているところはそれなりに足を運んできたが、ちょっと離れると広い県だけあって、さっぱり縁のないところも多い。これからまた「ネオお出掛けトリオ」として面白いところ、名物に触れて行きたいと思う。(むろん本業はちゃんと全うした上で)

         

モトチバ会

2015-11-19 20:59:42 | 職場
昨年、多年勤続の節目を迎えた我々だが、その集まりから大よそ1年後、同期として初年度の地域グループを共にした者が再び会合した。バブル期だから人手不足ということもあり、今の就職氷河期からは想像がつかないくらいたくさんの同期入社はいるが、この位置づけでいくと私は「千葉グループ」ということになる。簡単に言えば最初に着任した県域のグループと思えばよく、以前書いたように私の初期配属地は木更津である。集まったのは20名くらいだったが、最大8年くらいの年齢差のある中で、多少仕事上の接点はあっても一度として同僚とか上司部下の関係になったことがないのが大らかなところだ。その中で高校卒業後、入社した「モトくん」という人が私の正面にいた。高卒入社もたくさんいる時代でも、会社の硬さからして校内ではかなりの優秀層を採っていたと思われ、彼もその通りだったはずなのだが、なにぶん外見はどう見ても「ツッパリヤンキー」の延長にいた。(ごめんなさい!)

エッジナイフのような風貌と言動から同年代から(特に女子)などは若干敬遠されるところもあったが、健在だった「でたらめ4人組」の「ダック」などは親分肌なのでまるで舎弟のように可愛がっていたし、同じく年長の「ケイさん」は父兄のような目で見ていた。私とも仲良しだったし、年長の女性などは「モト君は変わらないよねえ」と母の慈しみを見せていた。ただ大半の「でたらめでない」人はやはり少し距離があったらしく、共通の昔話はあまり見つからなかったようだ。(当然だが)そのモトくんも結婚してお子さんが3人もいるという。小声で「奥さん、ヤンキーじゃないよね」と聞くと、以前の職場で同じビルに入っている業者さんだったそうだ。元々付き合っていた人がいるのに略奪婚的なものだったと本人は回想するも、「何かやばいことしてないよね」とか「昔の仲間とは連絡取ってんの?」とか色々といじくられて苦笑していた。「そんなことないっすよぉ」と頭をかきながらも、お子さんに「空手」を習わせていると聞いて、隣の女子は明らかに「(やっぱり・・・)」という顔をしていた。

このサイトにも以前登場した4人組最後の「マイク」も相変わらず体力、食力全く衰えを見せていなかった。アジリティやボールなどを使う競技は私に比べると得意でなかったようだが、体力勝負の単純運動(悪い!)ならその場にいた人間が束になってもかなわない最強人なのは間違いない。今はやりのロードバイクを20年以上前から嗜み、山あり谷あり20km以上あると思われる我が家近くの海岸にも「散歩気分」でやってくるようだ。最近(なのか昔からなのか聞いてないが)、マラソンにも出場するようになり、前回の東京マラソンではほぼ目標タイムでフルマラソンを走り切ったそうだ。入社数年で残念ながら我々とは袂を分かち別の道へ進んだ彼は一方、前回「キラーカーン」の店で再会した時に言っていたのだが、自身の進む道をさらに深めるべく「論文」を作成していた。残念ながらその時はダメだったらしいが、不屈の精神で再びトライして受理され、晴れて「博士」となられたそうなのである。「おめでとう!(パクリばかりで後から取り消されたりしないよな)」と某元研究リーダーが浮かんだが、さすがにここは黙っていた・・・

長老格のケイさんも元気そうだったが、なぜか手にしているグラスはウーロン茶だった。不審に思って聞いてみると、「血圧が高くて、心筋梗塞の気があり、しばらくアルコールは控えている」ということだった。万が一、発作を発症したときのために「ニトロ」を持ち歩き、搬送先の病院も決めてあるというから心配なことだ。念のためにどれくらいの血圧なのか聞いてみると・・・・「なんだ、オレよりちょっと高いくらいじゃん!たまにそれくらい上がることもあるのに何も言われなかったけど・・・」症状的には血圧だけが問題なのではないらしい。年齢差の幅はあるとはいえ、入社して四半世紀たてば身体的に色々ガタがくる時期になっている。年寄りの集まりにありがちな「病気自慢」まではいかないが、中年の「要注意自慢」会が始まってしまった。人間ドックなどの結果をもとに、血圧をはじめとして、肝機能、腸内ポリープなど様々な「お馴染み」の症状で盛り上がった。こういう会には20代前半でしかも学生、社会人こぞってバブルに浮かれていた時期、何をしでかしてもおかしくない我々若者を相手に育成担当(飼育担当)として面倒を見てくれたバンさん(仮称)に声をかけるのだが、今回は体調を崩して欠席だと聞いた。楽しみにしていたらしいのだが「何か遠足前の子供が熱出すようなもんじゃねえか?」口の悪い「ダック」は笑っていた。

「健康診断じゃーどう考えても、あんたが一番先に引っ掛かるはずなんだけどねえ」ずけずけと笑ったのは、かの翌年度入社式司会の相棒を務めた真奈美姉(仮称)である。あのイベントはやはり入社1年目のフレッシュ人だった我々にとっては刺激的なものだった。細かい逸話は私達しか知らないので、自然二人きりの盛り上がりとなってしまったが、5年目に再び召集された入社式スタッフオーディションでお高くそまった本社スタッフを相手に「てやんでぃ!」ばりの啖呵を切り、ほとんど机を蹴飛ばして去った事件は彼女も私以上に詳しく記憶していた。「ちょっと、これどういうことなんですか?私たち希望して来たわけじゃありません!」業界人じゃあるまいし、終業後夜の8時に集合させられて(実はその前に時間が余ったので生ビール飲んできたけど)、得意でもない原稿朗読に難癖つけられ馬鹿らしくなって再び向かったのが新橋のLIONだという記憶なのだが、寸分狂わず合っていた。「全く、アイツら、態度悪かったのよねえ」その後、結婚してお子さんもいらっしゃるが、今でも営業前線でバリバリ仕事するキャリアウーマンで「怖いものなし」なのは相変わらずだった。

ひと通り2人だけの内輪話で盛り上がった後「要注意自慢」に戻った。私は今回の健診で大きく取り上げられはしなかったが、いよいよ治療に踏み切ろうと考えている「視力」についてカミングアウトした。生まれて半世紀、裸眼で何事も不便なくやってきたのである。サングラスくらいはするが、今更矯正眼鏡やコンタクトレンズなど「目の前に余計なモノがある」状態などは耐えられなかろうと「レーシック手術」を検討していた。出始めは事故もあり色々と物議を醸しだした施術だが、時代とともに技術も進んで安全・高品質な視力回復治療の主役らしい。しかし傍らで聞いていたマイクが「医療に従事する者としては、あまり薦められないな、元に戻せないからね」殊勝なことを言い出した。眼科はともかく医師の中でもまだまだ色々な意見があるようなのだ。自身は医者ではないし「(お前のカラダじゃ、レーザーメスも跳ね返すんじゃないか?)」と思われる彼の言にはイマイチ説得力がない。そもそも直腸ポリープも医師からは「失敗しても影響なし」と言われているだけで、元に戻せるとは言われてないし、そんな術式があるかもよく分からない。(あちこち方面で情報を収集したが、結果どうしたかはまた別途・・・)

世間を驚かせた北斗晶さんの乳がんを発見する「マンモグラフィー」なる女性疾患用検査があるという話題にもなった。確か妻も受けたと聞いたことがあるが、乳房を横と斜めにすごい力で挟み込み撮影をするそうで、かなりの痛みと苦痛を伴うものだという。ホントに知らなかった私は真顔で「『まんもーぐらふぃー』という名前からして、違うところを調べると思ってたんだがな・・・」一瞬空気が止まって場内は笑いの渦となった。無邪気にそう考えていただけなのだが、恐るべき下ネタ発言に取られたことに後になってようやく気が付き「さっきのなし!」と特に女子に向かって拝む羽目になった。全然気にしないで笑う人ばかりでよかった〜。。。昨今は年齢がら、学校時代の友人が集まって昔話を咲かせる機会も増えたが、「同期の集まり」というのはまた違った連帯感があり、同じ会社だから最近の話題も共通性が高く、「気のおけない仲間」とはこういうモノだと思う。次回幹事も決まり、1年に一度は開催する方向となった。皆で撮ったいい写真があるのだが、この手の話題だと顔を出せないので、トボケたヤツが私のスマホで撮ったピンボケだけ掲載して雰囲気だけ伝えることにしよう。

  

三河産「にら」で北京亭の「タマゴニラ炒めライス」製作

2015-11-17 19:09:24 | ホビー
小夏師匠が三河のにらの種を送って下さったのが2年半前。その後、用意した幾種類かの土壌で鉢植え上で芽生え我が家の小さな菜園に移植された。豪雪にも耐え、私も結構気にかけてサーフィン帰りに水やりや雑草抜きをマメに行ってきた結果、見事に白く丸い花を咲かせ、青々と育てるのに成功したのでった。ただ思ったよりも時間がかかったのと、茂った「にら」は種からたまたま芽生えたものなので、根付いたようだがまだ「自然繁殖」までは至っていないと思った。以前、栽培した「じゃがいも」は「種イモ」から見事に実ったが、それを食べたらお終い。次世代に後が続かなければ買ってきたほうが安いんじゃないか・・・?!入れたばかりの培養土の中心部に青々と茂った三河産「にら」だったが、完全にこの土地のモノになってもらうために、もうワンサイクル様子を見ることにしたのである。ネットで調べると一旦生えてきた芽を一度ばっさり刈ってしまい、その後伸びてきた芽を伸ばして収穫すると葉の質がよくなる、ということだったが中々勇気がでずに、中華丼に使う分を恐る恐る使っていたくらいだった。

にらという植物は確かに繁殖力が強いらしい。最初は菜園の中心部に細々と茂っただけだったが、そのうちに畳一畳分の土壌全般に拡大し始めた。まるで「ここはオレ達の王国だ!」と言わんばかりに他の雑草もほとんど寄せ付けず、夏場に巨大な雑草が侵攻してきた際もよく見ると、菜園の外側から多い茂っているのだったから、根っこに方にこっそり伸びだした下等っぽい小さな雑草をむしるだけで済んだ。6月頃だろうか、1年前よりもはるかに強い勢力で繁茂した「にら群」を飼ってしまえば良かったのだが、周辺の大きな雑草、また類似の毒草「スイセン」があるようで、妻が料理に使用するのを嫌がったのである。そのうちに芽はどんどん伸びて行き、多くの太い茎に花が咲いた。(どうもこれは食べられなそうだ・・・)

「風の中のマリア」を読んで昆虫の生態に興味を持った私は、超兵器203号を片手に夏場に庭や近所の川沿いなどにいる昆虫をマメに撮っていた。1年目では数本だったのだが、今年たくさん咲いたニラの花にはハチや小さな蝶(もしかして蛾かも)などがたくさん訪れていた。この虫たちが湘南に根付いた三河産にらのさらなる繁茂を助勢してくれることだろう。夏が終わり急に気温が寒くなって昆虫たちもどこかに姿を消して行ったころ、枯れた花びらの残骸跡に黒い粒粒状のものが多数見られた。これぞ小夏師匠が送ってくださった「にら」の種子そのものだった。ついに三河‐湘南「にらリレー」のバトン移行が成立したのである。種さえあれば経験上、何度でも増やすことができそうだ。私は多数実った種を回収するとともに、今回は勢いよくバッサリとすべての芽を刈ったのである。

      

周囲の雑草を注意深く見渡しても「スイセン」はなさそうだった。花が咲き種ができてしまう時期は収穫としては遅いらしく、葉そのものにはあまり元気がないが、一応王国中心部の間違いなく「にら」らしい宮殿にあたる位置で、地面から5cmくらい残してばさーっと挟みを当てたのだった。半分枯れてしまっている葉もあった(やはり収穫時期遅すぎ)が、食べられそうなものだけでもかなりの量があった。さて何を製作するか?私のお気に入りだった北京亭のメニューにも全てと言ってよいほど「にら」が入り、このサイトでも「中華丼」「タローメン」「マーボ丼」などが登場した。しかしこれらのメニューで「にら」はあくまで脇役、「あさが来た」でいうと「友近さん」のようなものだ。今回は本格的な収穫だったから主役にさせてやろうとすると、思いつくのは「タマゴニラ炒めライス」通称「タマニラ」である。

  

「炒めライス」ものとしては肉野菜炒め、ホイコーロ、そしてかなりレアな「焼肉ライス」に比べると地味なメニューだが、タマゴふんわり、野菜たっぷりで最後にどかんと「にら」が入り、いかにもヘルシーでボリュームがあり、中々人気があった。ただ最盛期週一ペースの北京亭サイクルからすると、ちょうど食べたくなるのは定番メニューばかりとなり、「今日はタマニラにしよかな」と浮気心を持っても、店のドアを開けた瞬間に漂う香りと先客の食べている品を見て「やっぱりタローメン」と言ってしまうのである。しかしたまたま続いた時など何度か食したことがあり、タマニラもかなり満足の行く美味だった。北京亭のメニューで使用する調味料は見ている限り「醤油タレ」、「スープ」、「塩・コショウ」、「粉末調味料?」くらいしかないのだが、おやじはこれらを魔術のように使い分け、それぞれのメニューが全く違う味を出すのが不思議だ。タマニラはこのうち、スープを使わずにひたすら炒めるだけなのだが、中々あの店と同じ味が出せない手強いメニューなのだ。

用意するのは簡単、キャベツに玉ねぎ、卵に主役の「にら」である。肉系は本当は「チャーシューのきれっぱし」なのだが、冷蔵庫になかったので豚バラ肉で代用した。ちなみに肉野菜炒めライスには卵は入らず代わりに豚肉が入りスープでとろみが付けられる。私は閉店までの約30年、飽くことなく何百回と通い続けカウンター席から眺めてすべてのメニューの作成手順を記憶しているつもりだ。その中でも「タマニラ」かなりシンプルな手順である。まず溶き卵をフライパンで中途半端に炒めていた。かき混ぜてスクランブルにするわけでもなく、かと言って玉子焼きのようにそーっと固まるのを待つわけでもない。中華お玉で何となく適当にかき混ぜ、半液体状のまま一旦皿に取り出す。ここまでで特に味付けはしていなかったように思う。次にもう一度油を引いて切った野菜を醤油タレで炒めて、肉(チャーシュー切れ)を足す。強力な火力鍋なのであっという間に火が通るのか、すぐに塩を一つまみ、コショウを一振り、調味料も加える。

          

たぶんここからが最も大事なタイミングなのだと思われるが、適度に肉、野菜が炒まったら最初の中途半端に炒めたタマゴを加えて一緒に炒める。タマゴがちょうどふんわりと固体状になるのと肉、野菜がシャキッとした状態で仕上がる、その直前に大量のニラを鍋にぶちまける。最後は全ての具材をさーっと軽く炒めて、火を消しごま油をひとたらしして出来上がり。何回見てもこれ以上のことをしていないのだが、タマゴにもニラにも絶妙なタレの味が沁みわたり、いくらでもご飯が進むおかずとなるのである。餃子と合わせると「最強」のメニューとも言えた。北京亭の味の全ての素となっているであろう、あの特製醤油タレは手に入らぬので、醤油と中華味の素で代用した。IHだと火力も弱く、火の通りタイミングがよく分からなかったが、途中で鍋の中をつまみながらどうにか、形だけはそれらしいものに仕上がったのである。まあ、可もなく不可もなくという感じだったが、収穫したニラは多少萎れていたものの、十分味覚に耐えられるものだった。

              

菜園のど真ん中から採ってきたことと、私が一人で山のような「タマニラ」を平らげても全然平気なのを見て、ようやく妻も安心したのか、その日の晩御飯はもつ鍋となり残った「ニラ」をすべて投入したのである。今回は湘南に根付いた三河産「にら」がいよいよ次世代に種を残した収穫だったが、たぶん時期がかなり遅かったので萎れてしまった葉も多く、いけそうな葉との選別に苦労した。そしてもう一つ、苦労したのが「種の回収」である。なるほど、「ニラの種」とはこうしてできるのか。。。乱暴にがさがさ毟ると花弁?まで混じってしまうので、ちまちまと小さな黒い種だけ選り分けていたが、途中で絶望してしまうほど恐るべき量である。3分の1ほど皿に取り分けた時点で残りは菜園にばら撒くことにした。それでも師匠から頂いた種の倍以上の量はある。全部芽を出してしまったらどんなことになってしまうのか?第2菜園計画も立てる必要がありそうだ・・・

        

以前も書いたが、最新の「ネットワーク論」によれば、このニラの種を6回ほどリレーすれば地球の果てまで行きわたらせることができる。私は回収した種子を二つに分け(まだあるけど)、このたあいも無い思いつきにとりあえずは真面目にノッてくれそうな「本の友」にパスすることにした。このサイトにも登場した「あまちゃん」と研究所勤務時代の元同僚である。「やり方は任せるから次代の種子を収穫し、同じことにノッてくれそうな人にリレーすること」という条件をつけるが彼女たちなら実現してくれそうな気がするのだ。三河産の「にらリレー」がどのように進行していくか楽しみなことである。(実は万一枯らされた時のために保険はとってあるけど)

今年もドック 2nd Day

2015-11-10 06:52:13 | スポーツ・健康
毎度さしたる話題もなく淡々とこなす行事となったドックだが、2日目の朝、思わぬ試練に見舞われることになる。前夜、飲食制限時刻は守ったのだが、一人で黙々と飲んでいたためかやけに「残っている」感があった。いつもの通り、腸管洗浄剤1.8リットルをコップに空け、1時間かけて飲み干す。30分くらいで反応があるはずなのだが、どういうわけか1時間たっても何も身体に変化がおきない。通常多くても10回程度の排便で綺麗に洗浄されてしまうのだが、集合時間の30分前になっても何も起こらない。。。まずいぞ、これは・・・このままだと大腸内視鏡検査が受けられない。1.8リットルの液体が腹に入っているのだから、かなりの膨満感はあるのだが、何か神経が麻痺してしまっているのか?!時間がたつにつれ、事の深刻さを実感して行った。このまま何も起きなかったらどうなってしまうのだろう?

仕方がないのでジャンプしたり、その場で足踏みしたりスクワットしたりしてみた。さらにカトちゃんのように腰を前後にして歩く、スタジオプログラムでやらされる「腰から下だけをぐるぐる回す」を繰り返して、汗びっしょりになった。何でこんなことやらなきゃならんのだ?と泣きたくなりつつも「(神様ごめんなさい!もう食堂以外では飲みませんから今回だけ正常波を呼んでください!)」集合10分前でようやくお腹がぐるぐる言い出したが、時間になるまでに完全に洗浄は仕切れなかったようなのだ。受付で正直に「あのーぅ、すみません。洗浄剤の効きが遅くて、まだ全部出切ってないようなんですけど・・・」係の人は「大丈夫ですよ。そこにトイレがありますから、検査時間までに出ますよ」人の心配もよそに笑って答えた。

大きな問題は最初が上部の胃内視鏡検査ということなのだ。実はこれはこれで結構な試練だ。嘔吐反射の強い私は経口だとものすごく辛いので経鼻法でお願いしてあるが、横になって鼻から内視鏡チューブをずっぽり入れた状態で下部が反応してしまったら・・・前日付きまとった「屁男」なんて笑える事態ではないとんでもない惨状となる。ぎりぎりまでバタバタトイレに駆け込んだりしていたが、幸い腸管洗浄は完了したようで、続く大腸内視鏡検査も無事に終了した。まったく冷や汗ものだった。ちなみに前日試してみようと思った、「血圧測定前に大笑いしてみる」だが、それどころではなくすっかり忘れたうえ、前日朝よりもはるかに悪い数値を叩き出してしまった。

全ての検査が終わると医師による総合診察があり、げっそり疲れ果ててドアを開けた。おじいさんの先生は既に参照できるようになっている検査データをさーっとみて、「ふーむ。。。いいじゃないか。血圧と体重以外全部異状なし。何か気になることある?」「あのーぅ、大腸内視鏡で『直腸にポリープがある」って言われたんですけど・・・』「んっ?あー、これか。何て書いてあるのか読めないなー。大きかった?」「いえ、小指の先くらいですって。でも取った方がいいと言われましたけど」「直腸はねー。回りに何もないから失敗しても心配なし。取るんなら躊躇しなくていいよ。医者によって見解は違うけどね」「失敗してもって・・・もしかして、放っておいてトカゲの尻尾みたいに治ることもあるとか?」「はははー。難しい質問しますね。医師としては最悪、悪性に変異することもあるから取れ、ということなんだけど・・・モノによっては無くなっちゃう場合もあるにはあるよ」

昨年の上部内視鏡検査では「耳鼻咽喉科の分野ですけど」とポリープが撮影されたのだが、1年たった今、どうも無くなっていたようだ。私は来年まで様子を見ることにした。人間ドックの最後は保健師による保健指導である。毎年、酒をへらせ、野菜食べろ、塩分注意の3点セットから微動だにしないのでここ数年スルーしていたのだが、今回は激闘腸管洗浄のこともあり、ふらふら〜と診察券をケースに入れてしまい、すぐに名前を呼ばれてしまった。「くわばたりえ」さん似の保健師が愛想よく、「どうもー、お疲れ様でした〜。全部終わりましたか。ちょっとデータと問診表見ますね。」さっきの医師と同じ画面を見ながら、りえさん(仮称)は「すごーい、ほとんど『A』じゃないですかぁ。前回NGだったのも全部改善してますよ〜。どれどれ、体重がオーバー?ホントだ。標準65キロですからねー・・・」

「体重は65キロになんて絶対になれないと思います!高校でサッカー部だったんですが、人生で最も締まっている時でも70キロだったんですよ。」「そーですね。体脂肪もOKだし、このまま維持してください。あと血圧高めですねえ。昨日2回目が下がってますが、大体いつもどのくらいですか?塩辛いもの好きですか?塩分制限は年々の標準で厳しくなってるんですけど・・・」「まあ、血圧は2回の平均くらいですかね。薄味好みじゃないですが、ラーメンのスープは気持ち残すようにしてますよ」測定前にバカ笑いしたら血圧が下がったなんて言っても本気にされないだろうと、黙っていた。

「りえ」さんはさらに問診表と検査データを眺めながら「休肝日は週2日?いいですねー。1回に飲む量は・・・4合!多すぎ!肝臓が疲労しきってしまいますよ。半分にしてください」「ま、毎日じゃないですよ。ところで前から聞きたかったんですけど、飲酒量って1週間のトータルで調整すればいいんですかね。例えば1升飲んじゃったら2回分休みとか・・・」「そんな無茶な飲み方したらダメです。肝臓以外にも色んなダメージもありますよ。そんなに飲むことあるの?最高どれくらい?」パッと思いついたのは甘辛が幼い時に妻とサイゼリヤで飲んだデカンタワイン8本だったが、「ワインでも1升くらいですよ」とごまかしておいた。

「1合とか2合とか。。。中途半端に飲むくらいだったら、その時は止めにして『固め打ち』にしたい性格なんですよ。」りえさんは微妙に笑うだけだった。
「あとは・・・視力が低下した?まあ、この年齢まで裸眼ていうのが珍しいんだから。。。でもねー、メガネやコンタクトで矯正しないとよい方の目まで悪くなっちゃいますよ。私がそうでした。このメガネ最近作ったんですけど、もっと早く作ればよかったってね」「(そんなくわばたりえメガネで役にたつんですか?)」と心の中で首を傾げた。「それから・・・全身に痒みや湿疹ができやすい?まあ、乾燥すると誰でもね。内臓疾患が原因なこともあるけど、この検査結果から見るとは関係ないですね」

最後に減塩パンフレットを取り出して説明するりえさんに「血圧って塩分減らすとか、酒を減らすとか『後ろ向き』の治療ばっかりじゃないすか。何か『これをやるとよい』 とか『前向き』なヤツはないんですか?」りえさんは紙面裏の一番下を指差した。カリウムがよいらしい。食品はバナナ、キウイ、納豆、ワカメ、豆腐など、私が日常で結構頻繁に口にするものである。しかし1日の推奨摂取量はバナナだと10本、納豆だと18パックに相当してしまう。(そんなに食えるかい!)「でも検査結果は全体的にすごくいい方ですから、このまま維持してくださいね」こうして今年も波乱のあった人間ドックは終了した。

赤いライオン号に乗った私はすかさずナビをセットして三嶋大社へ。流された源頼朝が源氏再興を祈願した伊豆国一之宮である。滅多に訪れない地ではその土地の一之宮または神社仏閣に足を運ぶべし。平日なのに観光バスで乗り付けた(多くは年寄)参拝客で賑わっていた。境内に国の天然記念物に指定された樹齢1200年の金木犀がある。銀杏やけやきなど大木がメジャーな中で「君のひとみは10000ボルト」の金木犀とは珍しい。私も参拝していつもしているように息子甘辛用に「八方除守」、最近体調がイマイチのような妻にも小さな鈴の御守りを購入した。



次に向かったのはるるぶにもあった、箱根西麓・三島吊り橋である。残念ながら富士山はほとんど雪に隠れてしまっていたが、橋が完成すれば全長400メートル、歩行者専用吊橋として日本最長となり、空へそびえる富士山の様々な表情や広大な駿河湾の絶景が一望できるそうだ。場所はこの辺だろうとうろうろ走っていると工事現場となって巨大な橋桁が見えた。ドライブインのような施設を建設中らしいが、ものすごい規模だ。前日のような雲一つない天気だったら素晴らしい景色だろう。しかしここから見えてあの大きさということは・・・高所恐怖症の人には世にも恐ろしい場所になるかもしれない。



帰り道がてら立ち寄った最後の地は昨年チェックしておいた山中城跡である。小夏師匠の三河の国にも山中城というのがあるらしいが、こちらは三島市のほうである。国道1号線を挟んで本丸方面のエリアと出丸のエリアがあるようだが、時間の関係で出丸の方に歩いて登った。北条氏風と言われる畝堀や障子堀が残っており、出丸跡からは富士山や駿河湾も眺め渡すことができる。山頂付近が少しだけ見えるようになったが大半は雲に覆われている。さっきの巨大吊り橋の柱が小さく見えている。豊臣秀吉の北条攻めに備えたようだが、数にして15倍の敵に取り囲まれわずか半日で落城してしまった悲劇的な城だ。



箱根新道を家路に向かい、西湘バイパスの入口に降りてくると、正面に何やら浮遊する物体が見えた。昔見たことがある、生命保険会社の宣伝用?飛行船である。よく見るとバイパスに沿って東に向かっているようだった。途中で西湘バイパスを大磯方面に疾走する赤いライオン号と完全な並走状態になったが、運転中に真横を向くわけにはいかない。ふわふわと優雅に漂っているように見える飛行船も実は並び走ると結構な速度で飛んでいることが分かる。ほぼ同じ速度で走ってみたら、推定時速75キロくらいのようだ。確か今日本の上空を飛んでいる飛行船はあの飛行船のみ。中々見られないものを運よく発見した。視界に入れたまま走るとちらちら気になって危険なので、一気に速度アップしてフロントガラスからは消し去り、そのまま竜泉寺に向かったのであった。



今年もドック1st Day

2015-11-06 21:18:48 | スポーツ・健康
昨年は夏休みにそれこそ「完全レジャー化」を目論み、海水浴の準備までして乗り込んだ人間ドックだったが、今年は職場の都合もあってこの時期になってしまった。もう10回以上も回を重ね、このサイトでもいい加減書いておくような話題もなくなってきたのだが、ウルフェス同様、何となく毎年の行事として記録しておくことにする。検査終了後のむやみに退屈な時間と自家用車の機動力に目を付け、今回も「赤いライオン号」で箱根峠を越すことにした。1泊2日の天気予報は絶好のドライブ日和のようで、昨年同様ゴルフバックに星空撮影セット、磯釣りセットを積み込んだが、今年は海パンの代わりにクーラーBOX、そして自分用PCを搭載したのである。

昨年と同じコースだが地図で見ると我が家から検査場まではほぼ西向き一直線だ。R134号を快調に飛ばし、今回は竜泉寺をスルーしてそのまま西湘バイパスに乗り入れた。正面に頭の端っこにちょっとだけ雪を被った富士山が見える。私は超兵器203号を首にかけ、信号待ちのたびに色々と近くの風景を撮ってみようと思い立った。ドライブもそうだが「撮影日和」でもあったのである。運転しながらの撮影はむろん危険なのでできないが、「おーっ。これは見事な風景だ!」と思う所で停止できるとは限らない。私は考えた末にダッシュボードの前にカメラをおいて、星野撮影用のレリーズで画面を見ずにシャッターを切ることを思いついたが、これはカメラが固定できなかったためNG・・・・少し改良が必要だ。




西湘バイパスから箱根新道に入り、そのまま峠を越えて三島市内に入ると所々見事な富士山が現れた。いつも鉄道、バスで来るので知らなかったが、病院はどうやら幹線道路からは少し外れた位置にあるようだ。建物、設備が老朽化し近々建替えと聞いていたが、慣れ親しんだ本館は巨大なシートカバーに覆い尽くされていた。隣に少し小さめの新しい建物が完成しており、かなり手狭だがこの棟で通常の外来診察や入院治療、人間ドックも行うようだ。10年も健診にかかればどこで待たされ、何をしておけば要領よく進むか全て頭に入っているのだが、必ずしも効率がよいとも思えない従来のプロセスからずいぶんと改良されていた。何せ今までは最初の受付時間が9時半から10時の間、この間にバス組はどどーっとやってくるから、受付には長い列ができてしまい、80人からのドック受検者にオリエンテーション始めるのがどうしても10時半頃になってしまう。



今回からそれが8時半から11時という長時間受付に変わった。つまりグループではなく、受付けた順番にそのままさみだれで検査を受けていくのである。最初に保健師の問診があり、その日の体調を確認されたり検査予定項目の説明が個別にされる。順番や項目はこれまで通りだが、素晴らしく流れがよくあっという間に終了してしまう。(かなり研究されているな)いつものように最初に糖負荷検査用に採血されるのだが、保健師が取り出したのはびっくりするほどデカい小型のフラスコくらいある容器だった。「血液検査用に2本、糖負荷用に3本取りますからね、へへ。」何かやたらに明るい看護師だったので「こっ、これデカくないですか?5本も取ったら貧血になるかも・・・」「はははー。この大きいのは3本分なんですよ。残りは1時間、2時間後に糖負荷用ね。」

アルコール消毒され血管をさすって場所を確認する看護師に「だいじょーぶ。出はいい方なんですよ・・・ぶすっ!おー、いつもより多めに出ております!」「あははは。面白ーい」何か朝から明るい気分になってきて、この調子で話題(笑い)の多い検査にしようと思いついたのである。私は渡されたファイルを持って身体測定に向かった。腹囲はこれまでのようにメジャーで自分で測る自己申告ではなく、係りの人に何やら新式の装置で測られるのでインチキができない。へその位置を確認し「ここをもってぐるーっとお腹の周りを回して・・・カチッとはめてくれますか?はいはい、普通にしてOK。じゃ、ちょっと絞めますよ。大丈夫?」84.2cm・・・メタボに引っ掛からないことを確認したうえで、この人も気さくに見えたので、私はかねてから疑問に思っていたことをここぞばかりに聞いた。「今、糖負荷検査用のジュース飲んだからお腹膨れちゃってますよ。少し凹ましましたけど。お腹をぶよーんと膨らませた時ときゅうっと凹ませた時って結構サイズ変わりますよね。ちょっと測っていいですか?」

係の人は面白がって「そうね。普通にって言っても、感覚難しいかもね。」ヨガで行う腹式呼吸の要領で「ふんっ」と腹を膨らませて「早く早く!」と測定器をぐるっと回すと92.5cm、次に「ぐむぅっ」と凹まして再び図ると78cm。。。やはり最大値と最小値の差が14.5cmもある。係りの女性は感心しながら「へーえ、結構差が出るものなんですねえ。」「でしょ?でしょ?85cm超えると特定健診で呼ばれちゃうんですよ。ボクの場合、ギリギリだからね。ちょい超えの時はまけてもらおうと思ってたんですよ。」「ちょっともう1回測ってみましょうか・・・」「えっ?わー、わー、そんなのなしですよぅ・・・」からから笑う係員からファイルを奪うと隣に向かった。

「(アイツ、脅かしやがって・・・)」と心の中でぶつぶつ言いながら次の検査場に行ってファイルを出すと「はーい、こちらでは身長、体重、体脂肪を同時に計測しますので、スリッパを脱いで足を金属板に合わせ、真っすぐに台の上がってください。って、あはあはは。34番磯辺さん!そっち向きじゃなくて前向きですって。」動揺してぼーぅっとしていたのか、身長測定用の柱に真っすぐ向いてそのまま上ってしまったのである。(オレは「たけし」か?)体脂肪率20.8%・・・・うーむ、無念だ。このために今週はジムでかなりハードメニューをこなし、お酒も減らして体重を落とし、直前のスーパー銭湯でいつもより2kg近く落としてボクサー並みの減量してきたのに、どうしても20%の壁を破れない・・・・

遠方の視力は1時間以上運転してきた影響もあるのかがっくり落ちた・・・これまで半世紀、裸眼で耐えてきたのだが、いよいよ「運転に支障」ゾーンに突入である。普段の生活にそれほど不便はないが、見えにくくなっているのは間違いない。これだけで自分的にはかなりセンセーショナルな話題なのだが、ここにきて「顔の一部」である眼鏡の世話になるか?私には高音難聴の気があり、聴力はいつも「勘」でクリアしている。音がしている間ボタンを押し続ける測定なのだが、低音、高音、右、左の発出パターンが読めるので、聞こえなくても「心聴」できるのである。昔の電話交換士のような古典的なヘッドホンを装着し、両手でヘッドホンを押さえ「逆探願います!」と言って(話を長く伸ばせ!)というお馴染みの両手ジェスチャーしたら、思い切りポカンとされた・・・そうだ、この女性たちは昔の刑事ドラマなんか知らない世代なんだ。。。その日初の大滑り・・・

次は肺機能である。鼻をつまんでチューブみたいなものをくわえ、思い切り息を吸い込んで一気に極限まで吐き出す計測で、昔の肺活量測定みたいなものだ。ここの計測員は大抵明るい人が多い。「大きく息を吸ってぇー、吸ってー、吸って・・・・ぷうううぅーって、あれ?ダメですよ磯辺さん、横から漏れてます。口をすぼめて息が漏れないようにして」70歳代くらいの値になってしまった私を見て慌ててやり方を説明し始めた。「はい、もう一度、吸ってぇ、吸って吸って・・・何で笑ってんの?」こういうのを思い浮かび笑いというのだろう。吸って吸っての後に「思い切り吐いて、ぷうううぅー!」とかまされて、真面目にやるあまり息は横から漏れて、下から音が出てしまう人っているんだろうな、と想像したら可笑しくて笑いが止まらなくなってしまったのである。

思い出し笑いというのは怖いものである。その後、眼圧・眼底、心電図の測定まで、静まり返った検査室で「肺機能検査で思い切り息を吹きすぎて下からも『ぶっ!』とやってしまった人」が脳裏をかすめる度におかしくて、笑いをこらえるのが大変だった。、腹部超音波検査の時など、「はい、大きくお腹を膨らませてぇー・・・止めてください」を繰り返すので、頭の中に口では言えないような「下ネタ」が炸裂しまくり、自然と笑い顔になってしまう。。。検査技師はきょとんとした顔で「何か楽しそうですが、どうかしましたか?」「い、いやぁ。。。何かお腹をぐりぐりされてくすぐったいんですよ・・・」と慌てて取り繕うことになる。

ここまで終わると糖負荷検査の2回目の採決時間となり、これが済むと昼食を食べることができる。前夜の9時以降、水以外一切口にしていないから、この懐石弁当のような昼食がたまらなく美味なのだ。私は終えると近くにコンビニに向かった。その日、翌日の検査終了後についで観光する場所を確認するためである。るるぶ静岡を眺めてみるも残念ながら周辺にはプチ観光するような見どころがほとんどない。三嶋大社と来月完成予定という日本最長の箱根西麓・三島吊橋工事現場、そして昨年通りがかりにチェックした「北条ゆかりの」山中城跡の位置を確認しただけだった。

昼食時は別に何ともなかったが、午後の頸動脈・甲状腺超音波検査、胸部CT検査時にも「屁男」の残像が襲ってきて、とうとう我慢ができずトイレに駆け込んで「どぎゃーっはっはっはぁ・・・」と思う存分笑いこけた。ところが最後にその日2回目の血圧を測定したら不思議なことが起こる。朝、いつもより高めに出てしまった血圧がほぼ正常値に戻っていたのである。もしかして、「大笑い」するのが血圧を下げる要因となり得るのか?翌日、内視鏡検査の前にも測定するから試しにやってみようと思った。1日目の検査はかなりスムーズに終わり、午後の結構早い時間に新しい宿泊棟に入ることになる。私は赤いライオン号のトランクにあるクーラーBOXから持参した「ゼロ仕立て」という糖質、プリン体、香料、着色料、甘味料すべてゼロという素晴らしく健診向けの飲料をリュックに詰め込んだ。(まさかクーラー持って部屋には入れぬから)

さて、すごく中途半端に時間が余ってしまい、神社の参拝などには合わない時間帯だったから、昨年同様車で10分くらいのゴルフ練習場に行くことにした。夕食時間までは3時間以上あるし、平日だから打ち放題でもそう高額ではない。夏の真っ盛りだったらかなりバテるところだが、今は季節的に一番いい時かもしれない。いつもの運動量から思えば大した消費量にはならぬと思われるが時間制限いっぱいまで右に左にボールをぶっ叩き続けた。一応クーラーBOXにはつまみっぽいものも入れておいたのだが、何か足りなさそうなのでコンビニでチーズ、ところ天などを買い込んで部屋に戻った。空には雲一つなく、「これは夜中にポラリエ1号の登場かな」とも思っていたのだが、朝早くから1時間半の運転とやはりそこそこ緊張する検査、2時間半におよび打ちっ放しでかなり身体が疲れているらしく、同じ宿泊棟にある温泉風呂に浸かり、時間制限である9時まで持参した「ゼロ仕立て」を飲み尽くしたらばったり眠り込んでしまい、翌朝を迎えることになるのである。ここまでならいつものずっこけドックであまり話題にもならぬのだが、翌朝思いもよらぬ試練を受けることになるのである。(つづく)

英雄たちの足跡

2015-11-03 18:12:09 | 旅行お出かけ
全国産業安全衛生大会in名古屋の2日目である。3日間開催される大会の初日は名古屋城横の愛知県民体育館での総合集のみだが、2日目以降は分科会形式となり4か所ほどに会場が分かれる。異業種の安全衛生に関わる取り組みを聞けるのがこの大会のよいところで、どのジャンルも興味深かったが、個人的感覚では最近何かとやらかしてくれる昔国有だった鉄道会社の話の多い分科会を選んだ。会場は名古屋商工会議所ですぐ目の前に世界最大のドームを擁する「名古屋市科学館」がある。午前中は20分の発表を何件か聴講し、昼休みになる少し前に会場を抜け出して脱兎のごとく地下鉄駅「伏見」に向かった。東山線に乗るためである。

昼休み前後で聴講する発表を調整すると2時間少し時間が空く。私はこの時間を利用して、「中村公園」を訪れることにしていた。尾張中村とは木下藤吉郎が木下弥右衛門の子として生まれたとされる地である。天下取り徳川の名古屋城のようにメジャーではないが、太閤や清正ゆかりの土地がすぐ近くにあると調べて、ぜひ訪れてみようと作戦を練っていたのである。教科書や歴史物語ではよく登場する英雄ゆかりの地だが、徳川の治世において過去の英雄はタブーとされ、あまり大々的に祀ることはできなかったのだ。地下鉄駅を降りると巨大な赤い鳥居が登場し、神社入口までの参道?では賑やかな朝市が開かれていた。

しばらく歩いて現れるのが「豊国神社」である。天下人の秀吉は幼い秀頼を見ながらもう後先少ない自分は死後、神となって祀られることは当然のように承知していた。気がかりなのは豊臣の天下を幼い我が子、子孫がどうやってつないでいくかだったことだろう。案の上、家康によって豊臣家は滅ぼされ歴史から消え去ることになる。関西やサラリーマンの間では戦国の3英雄では秀吉が一番人気と聞く(景気によっても左右されるらしい)が、歴史の表舞台から去った天下人の「祀られる社(やしろ)」というのはそこはかとなく、寂しいものだ。日本史の中で「天下人」の名が最もふさわしいのが秀吉だと思うのだが。すぐ横には「秀吉公誕生の地」という碑があり、日吉丸と仲間たちの像もあるのだが、どうも物悲しい雰囲気を感じてしまうのである。

          

公園の隣には名古屋市秀吉清正記念館というのがある。通常の市立図書館と併設されていて、図書館はそれなりに人がいるが記念館には誰一人として見物客はいない。(これまた少し寂しい)しかし中には私にとっては痺れるとうな展示が惜しげもなくあったのである。特別陳列として「浮世絵にみる秀吉・清正」というのが運よくあった。江戸時代の後期は戦国時代の武将(特に消え去った英雄たち)を浮世絵に描くことは幕府により禁じられていた。何となく分からなくもないが個人的には徳川政権を通じて感じる「器の狭さ」である。戦国武将は庶民にとってやはり英雄だが、家康と敵対していたり無理強いをくらわせて滅ぼした豊臣家などは幕府にとってはタブーだった。浮世絵師は幕府の取り締まりをくぐり抜け、偽名や遠い過去の合戦などを使って戦国の英雄を描き続けたというのである。4人の武将が登場する図ではそれぞれの紋が巧みに隠し描かれているが、猿面が秀吉と一発で分かるところが面白い。もう一つは信長に叱責される光秀を描いたものらしい。

    

その他に豊臣秀吉直筆の辞世(用に作った和歌)や」、秀吉が朝鮮征伐(実は明征服のつもりだった)を思い立ったという、明皇帝からの手紙、信長が実際に使用していたとされる刀の鍔など・・・戦国・安土桃山時代の話が好きな(誰でもだろう)私には垂涎もののアイテムが展示されていた。むろん秀吉の得意な兵糧攻め、天下取りのきっかけとなった大返し、賤ヶ岳の戦いなどが細かく紹介され、天下取り後に行った教科書でも有名な検地と刀狩などの政策も図入りで展示されていた。同様に加藤清正についても色々と取り上げられていたが、こちらの方は朝鮮半島で虎狩したという逸話(どうも本当らしい)の他は目立ったものはなかった。何やら調べものをしているらしい中学生以外、ひと気も少ない記念館はハッとするような展示物もあったが、どちらかというとノーマルな彼ら向けの「教育施設」という感じがした。

      

中村公園の秀吉清正記念館の反対側には清正公、秀吉公所縁のお寺が仲良く並んでいる。妙行寺は加藤清正が自らの生誕地に名古屋城築城の際の余材を使って再建したと言われているそうだ。境内には有名な長〜いとんがり烏帽子を被った清正公の像がある。またその後ろの常泉寺は秀吉の継父筑阿弥の宅跡で秀吉生誕の地とされており、秀吉誕生の際に産湯として使われた井戸も見られた。豊国神社の前の道路は「清正公通り」と言われ、路面に秀吉や清正の兜が彫られている。慌ただしく歩きまわること1時間、私は豊国神社で息子用の八方除守を購入し、再び地下鉄駅に走った。午後から聴講する予定は1時20分からであり、昼飯などコンビニおにぎりで済ます強行軍である。午後の部は名古屋駅近くの会場の分科会に出席し目当ての発表数件を聞き終えると、再び脱兎のごとく東海道線に向かった。「清州」に向かうためである。

      

            

名古屋城の徳川家康、中村(とは少し寂しいが)の豊臣秀吉ときたら、織田信長の道を歩かない手はない。ネットで調べると「信長ウォーキング」なるコースがいくつかあり、出世街道コースとして清州駅から名古屋城までのルートがあったが、ゴールまで到達する時間がないので、清州城周辺だけ歩き回ることにした。織田信長が尾張を掌握し那古屋から拠点を移し、この城から出陣して桶狭間の戦いに勝利した後、清州を拠点として天下統一に踏み出すのである。東海道新幹線で大阪に向かうと名古屋を過ぎたあたりでこの城は見えてくるので場所はよく知っていた。中には清州の歴史、歴代大河ドラマで織田信長扮した役者がまとった衣裳(撮影禁止)、清州城にまつわる戦国末期の様子などがビデオなどで分かりやすく上映されていた。歴史の大きな分岐点「始まりの場所」と説明されていて、本能寺の変直後、尾田家の相続人を決めた(映画にもなった)清州会議が秀吉の天下取りの始まり、関ヶ原前夜に清州城に集結した東軍武将が江戸から動かない家康に「敵味方はっきりしろ」という叱咤によって猛然と進軍開始した家康の天下取りの始まり、ということだ。何よりも面白いのはスポーツ紙がプロ野球の結果のように歴史的事件を報じていることで、この地方のユーモア・ユニークさを感じた。(東京にはこういうセンスはないな・・・)

    

               

清州城を出て川沿いに線路をくぐると清州公園だ。桶狭間の戦いに臨む信長公の姿を模した銅像が戦場の方向を見据えているそうだが、最近その脇に「濃姫像」が移設されてきて、夫婦円満や恋愛のパワースポットとしても話題になっているそうだ。「濃姫」という美濃から政略結婚させられたという斉藤道三の娘は時代劇や小説の中では信長に負けない勝気で知性的な女性に描かれているが、どうもそれは後世の作り話のようで、本当はかなり謎の多い人で歴史の表舞台にはあまり出て来ないらしい。清州駅からのルートには古城跡公園があり、信長を祀る小さな祠と碑が立っている。戦国から安土桃山時代へ先端を切り開いた英雄としてはまことに寂しい限りのモニュメントである。徳川の天下となった後、家康の命令で清州城は廃止、名古屋城が築城されることとなり、中心部は「清州越え」と言われて移転し栄華の歴史を閉じる。名古屋、清州という狭い地域から信長、秀吉とその子飼いの家来など戦国の英雄、覇者が次々と生まれ出たのは実に不思議なことだ。しかしよそ者の家康が最終的な征服者となったために、繁栄した街は廃れまた英雄たちも人気の割には大っぴらに祀られることはなかったところに歴史の非情さも感じるところだった。

      

尾張良ければ街歩く

2015-11-01 08:13:53 | 旅行お出かけ
1年に一度全国の産業安全衛生大会というのがある。昨年は広島で開催され、のぞみ号で向かった。毎年どこかの地方で行われるようだから普段行かないところを期待していたのだが、今年は名古屋での開催だった。今回で74回を数えるかなり伝統のある催しだが、名古屋にちなんだのか、信長、秀吉、家康の3人が「ゼロ災唱和」しているプログラムが少し笑える。大会は3日間開催され、初日はアトラクションや来賓挨拶が延々と続く開会式、表彰などどうでもよいプログラムが午前中にあり、本講演が始まるのは2時40分だから、それまでに会場入りすればよいが、「ついで好き」の私がそんな時間を無駄にするはずがない。午前のうちに名古屋周辺を観光することにした。会場は何と名古屋城の隣なので、とりあえずこのシンボルに行ってみることにした。

  

観光案内所で周辺マップやパンフレットをもらい地下鉄に乗り込む。何かやたらにコスプレして嬌声を挙げている女性が多く「(名古屋ってイタいヤツの多いところだな)」と密かに苦笑していたのだが、後から聞くと例のハロウィンイベントが近くのホールであったようなのだ。「市役所」というところで降りると大きなお濠が見えてきていかにも大きな城の隅にいるのが分かった。実は私が名古屋城を訪れるのは2回目なのだが、あまりにも小さい時だったのでほとんど記憶に残っていない。母と二人、富山からの帰りだったのだが、米原からの新幹線が台風の影響で運休になってしまい、「待っていてもしょうがないから」と名古屋まで移動してお城観光してきたのである。(私の「ついで好き」は母親譲りなのかもしれない)

さて下車したところからは一旦お濠沿いに反対側まで歩いて、まずは名古屋能楽堂を見てみることにした。熱海MOA美術館にもあった能楽堂だが、基本的に同じ作りをしているようだ。グンマ勤務時代にご一緒した女性キャリアのベッティは確か日本舞踊や能を舞うと聞いた。一度ちゃんとしたのを見てみたいものだが、どうも少し高めのハードルを感じる。よほど下調べして勉強していかないと、何が何やら分からないだろう。出口のところにお馴染みの能面があり、装着体験ができるようになっていた。鏡に写った姿を撮ろうとしたが、構えたカメラが入ってしまいちょっと間抜けなスタイルだ。

      

ちょっとゆっくり見ていたら、昼休みになってしまったので、公園らしいところに出て妻の作ってくれた弁当を取り出した。城でも眺めながら食いたいところだが、飲食禁止だったら困るのでそのまま昼食にすることにした。いつの間にか猫がやってきて座ったままじーっとこちらを見つめている。私はむやみに食べ物を与える習慣はないのだが、何か落ち着かないので中に入っていたシュウマイを一つだけ差し出したら美味そうに食っていた。天気もよいし、一人きりの食事というのもつまらないので、ご相伴をお願いすることにしたのだ。

  

さて正門からいよいよ入城である。名古屋城「秋の陣」というイベント中で「名古おもてなし武将隊」というのが出迎えてくれるらしい。その日はコミックで有名な傾奇者の「前田慶次」ということだったが、2m近い偉丈夫の異様にかぶいた姿を想像していたのに、私よりも小さな「ちゃら男」っぽいモデルだった。でも女子が列をなし、ツーショット写真を撮っていた。名古屋城と言えば「金の鯱」だが、その鱗(ホンモノ?)が一枚だけ展示されていた。撫でると金運がつくと書いてあったが、紅白の幔幕で囲まれた小屋でどうも胡散臭さが抜けない。天守閣に入る前に平成30年完成予定の「本丸御殿」の木材加工場を見学することができる。

             

城というのは日本固有の建物文化だと思われるが、日本各地にある名城はむろん姿形は異なるが、どれも基本のデザインは同じのような気がする。西洋だったら何とか風建築とか様式があるようだが、日本では寺院仏閣にはあるようだが、城ではそのようなのをあまり聞かない。(知らないだけかもしれないが)戦目的で作られると要求される機能的に似てくるものなのか、織田信長の安土城(想像図)を除いては何かをモデルにしたのか、どれも同じような顔つきをしているのが不思議だ。各階には色んな展示物があるが(撮影禁止多い)大きな石を引っ張る「石切体験コーナー」があったが、自分が石を引っ張るわけではない。

  

さて最上階に登ると四方は素晴らしい眺めだ。名古屋駅のタワーなどもよく見えるし、左側に目を転じるとテレビ塔などもよく見える。さらに反対側に行くとあれに見えるは・・・小夏師匠ゆかりの「名古屋ドーム」ではあるまいか?!結構遠くにあるんだな。侍ジャイアンツで中日の大砲万作が番場蛮の友情に答えて新幹線の線路を超える場外ホームランを打った中日球場は今、どうなってるんだろうか?位置的には確か新幹線の名古屋駅の手前線路沿いにあったから(車窓から中を少しだけのぞけた)、グラウンドか何かになっているようだった。天守閣を堪能して東門の方に向かうと、復元工事中の「本丸御殿」が一部開放されている。(出来立てのほやほやらしい)

      

名古屋城とその隣にある本丸御殿は太平洋戦争末期に空襲により焼失してしまったそうだ。金の鯱に至っては空襲から避けるために取り外そうとした直前にやられてしいまったらしい。白黒モニターに猛火に包まれる無残な天守閣が映し出され心が痛んだ。さぞ無念であったことだろう。。。本丸御殿は平成30年完成予定のようだが、玄関や一之間、二之間は見学できるようになっており、ちょうどこの期間限定で400年前の「竹林豹虎図」というのが公開されていた。描いたのは狩野派で将軍を迎える迎賓館としての御殿のシンボルらしい。日本に豹はいなかったはずだが、どうも虎のメスと思われていたようだ。外には加藤清正が築城の際に巨石の運搬を自ら采配を振るって行ったと言われる「清正石」というのがある。

      

たっぷり2時間、名古屋のシンボルを堪能し、総合集会に参加した。昨年は有森裕子さんの特別講演だったのだが、今年は名古屋らしくトヨタ自動車の重役・・・プリウスとミライの開発四方山話を聞けそうで楽しみにしていたが、大半がトヨタの歴史(それも自慢話に近い)物語で少々飽きてしまった。会場を後にしたときはまだ明るかったので、宿泊先まで約3キロちょっと、少し歩いてみることにした。ただの一本道なのだが、名古屋テレビ塔が見えてきた。そしてその向こうに新しいスポット「オアシス21」が現れた。水の宇宙船といわれるこの建物は屋上まで登って噴水の周りを一周することができる。ここから眺めるテレビ塔や観覧車はかなり雰囲気が出ていて、デートスポットになっているようだ。(来るのは私のようなお上りさんばっかかなー)

      

翌日は会場が異なったので別の場を歩き回ることになるが、世界最大のドームによるプラネタリウムを擁す名古屋市科学館はぜひ行ってみたかったが、残念ながら時間の関係で前を通り過ぎるだけだった。フジテレビ本社のドームをもっとすごくしたような形だの建物だ。名古屋駅周辺には名古屋モード学園のスパイラルタワーが目を引いた。東京モード学園というのはいつも妙ちきりんなCMばかりやっていて名前だけは覚えていたが、名古屋にもあるのを初めて知った。何を学ぶところなのかは今だに知らないが・・・建物の姿だけは「モード」というのだろう。他にツインタワーあり2代目名古屋ビルヂング(なんで「ヂ」などという田舎モンのようなネームなんだろう?)、横浜に負けないランドマークがたくさんある街を歩いたが、やはり「尾張名古屋は城でもつ」ものだと思った。