昨年は信州の駒ヶ根高原という中々レアなところで開催された母方の兄弟&従兄弟の集いが今年も行われた。確かこのサイトでも取り上げた記憶があるので読み返してみると今年は前回よりも少し遅めの日程になっている。いつの間にか「代表幹事」になってしまった私は今回幹事の「ノリくん」を指名した時に「来年は北陸新幹線もできるし久々に富山でいいんじゃないか?」とサジェストしておいた。これまで2回あった集いを見ると、我が家のように較的どこでもほいほい駆け付けられる組とそうでない組が何となく分かり、富山組の一部は仕事他家庭の事情もあって、中々遠出するのは大変なことに気付いたのである。昔一時的にパンクヘアーで亡くなった首領(ドン)=祖母や皆を驚かせた「ノリくん」だったが、この手の企画は結構得意なようで、半年以上前から日時と場所を決め方々に連絡していた。宿泊施設だけだがかなり由緒正しいところらしい。前回は母親と二人で赤いライオン号を飛ばした私だが、今回はむろん北陸新幹線を使用することにしていた。
残念ながら今回も受験生である息子甘辛と妻は欠席せざるを得ず母親と二人旅となった。宿泊もそこそこ良い所だが新幹線もそれなりに費用がかかる。正直に往復運賃と宿泊施設を別々に支払うと昨年の東北旅行並みの費用になってしまう。そこで色々作戦を考えた末、私にとっても久々の富山行なので、ここ数年母を連れ回している旅行と合わせることにした。毎年貯めるポイントから得るクーポン券を使用し1泊2日のツアー企画と個人手配の宿泊を組み合わせると新幹線が格安となり、普通に訪れるのとほとんど同じ費用でもう一泊できてしまうのである。さらにラッキーなことに地方創生の「ふるさと割」なる応援キャンペーン期間となっており一人1万円もツアー料金からディスカウントしてもらえた。私はこの浮いた費用でレンタカーを借り、またまた高齢の母を富山県内方々を連れ回すことになる。
初日は兄弟&従兄弟の大宴会を予定していたので、無難に昼過ぎに富山に到着、10年以上ぶりに祖父母の墓参りを行いそのまま会場に向かうことにしていた。叔母の一人が駅まで迎えに来てくれ、市内の外れにある広大な霊園に向かった。つい先日、東京に単身遊びにやってきて母も含め姉妹4人で東京ディズニーランドを巡り、都内観光に乗り降り自由の2階建て屋根なしバスに2日間にわたり皇居周辺、お台場を走り回ったハルおばさん(仮称)であある。台場地区はマンションが立ち並び、遊戯施設も派手で興味深かったらしいが「たまに行くならいいけど、人の住むところじゃないね・・・」わずか1年間、ゆりかもめで通勤した私も同感だった。さて富山駅から地図で見ると霊園はすぐに分かるのだが実際に行ってみると見渡す限り墓標が並び、まるで住人がスターシアだけになってしまったイスカンダルのようだった。「○区画の◇▲番を目指してくるといいのよ」ハルさんはからから笑っていたが、母と二人きりでは絶対に辿り着けなかったろう。「姉さん久しぶりだから、街の中を走ってみるね」とハルさんは市内中心部に向かった。駅から少し離れたところにある繁華街もだいぶ再開発が進み様相が激変していた。
姉妹とも年が近いせいもあって、昔(と言っても何十年も前)の同級生とか知人、恩人、遠い親戚、お店、会社など共通の話題が数えきれないほどあり、ハルさんはあらゆる方向の履歴・沿革を把握している。別に彼女が特別に人や企業の噂話が好きということはなく、そういう世間ならしい。「○▲町の乾物屋の嫁がまた・・・」「二丁目の◇◆医院の次男いたでしょ?」「ほら、■□の小学校のそばから移転した○×屋・・・」と、現住所や跡地を巡りながら、とどまることなくその変遷を語り続けた。まるで東京の短時間観光バスと比べると富山の「裏観光バス」のようだった。商売をやっていた家柄なのでその方面は特に詳しく「H恵ちゃんと同級生だった▲▽社のKさん、先代のご主人は結構のーんびりしてたでしょ?Kさんの息子さんは家を継がないで神社の経営に乗り出したのよ。ずいぶん色んなところに教わって、熱心に勉強してたんだけど・・・なんでダメだったんだろ?」私は思わず心の中で「(坊やだからさ!)」とつぶやいた。赤い彗星の顔が浮かんだのは言うまでもない。ほどなく富山市と高岡市の間にある小高い山の宿泊施設に到着した。
チェックイン時間よりも早く着いてしまったのでしばらくロビーでさっきの続きの話を聞いていたが、次々に後発組が到着し部屋に案内してもらえることになった。小さな子供もいれると総勢31名、家族単位ではなく4姉妹が中心で、母と子の部屋割になっており、野郎は大部屋にまとめられた。何と我々の大部屋は皇室「秋篠宮ご夫妻」が宿泊された部屋らしい。「誰かが紀子様のお使いになった布団に当たるかもしれませんよ」と加納屋炭鉱の亀助さんのような従業員が案内してくれたが「(んなわけねえだろ!皇室なら布団にも『菊の御紋』が入っとるわい・・・絶対これ、ネタだよな)」と笑っていた。山の中腹から街並みを展望できる露天風呂で温泉に浸かり、ビールを飲みながら土産代わりに先般撮影しておいた観艦式を上映したら元自衛隊幹部の叔父さんがいたく感心して、画面を見ながら我々の知らないことまで色々と教えてくれた。そうこうしているうちに、今回初登場の我が従兄弟仲間最年長であるカズくん(仮称)が現れた。
いつかも書いたが太平洋組の長である私とは全く対照的で、器楽部の部長として指揮者を務めたり、天体観察クラブの部員で私に望遠鏡の手ほどきをしたり、上には丁寧で下には優しく絵に描いたような秀才だった。我らが首領であった祖母に最も期待され(たぶん大事にもされ)たぶん狭い土地柄で様々な期待と噂に悩まされ、ちょっと躓きながらも父上と同じ医師という職業に就いた。私にとっては10年ぶりくらいの再会だったが、前にも増して誰にでも丁寧で優しく皆に挨拶してまわっていた。「オレ、タロウくんにトランプで負けて『ど根性ガエル』全巻巻き上げられたんだぜ」と今だに恨みをもたれている私と比べて、もはや「仏」の領域にいるようにさえ見えた。子供の時、夏休みに皆で富山城跡公園で遊ぶと彼らがこぞって「たろうチーム」を望んだのは私に付いていれば、必ず「ドロ警」(警察と泥棒に分かれた鬼ごっこ)で勝てたからである。
いつも同じような話題にしかならないのだが、子供の頃の話題で前回書かなかったことは、今はもう無き祖父母の邸宅の話である。昔の大きな屋敷のような家だった祖父母の家に太平洋組は遊びに行くと必ず泊まっていた。屋根裏部屋や仏壇の部屋、庭には大きな石と池、そして石灯籠があった。何十年も誰も入っていない屋根裏部屋に忍び込んで蝙蝠を捕まえてきたのは私である。年の近い我々があの家に泊まる時「恐怖の部屋」と呼んでいた畳部屋があった。田舎らしい巨大な仏壇があり朝になるとばあちゃんは仏壇の前で御経を読むのが習慣だったが、部屋の真ん中上に世にも恐ろしい顔をした老婦人の写真があったのである。どこのどなたなのか、誰も聞かなかった。私も何か悪さやいたずらをしたりすると「仏壇の部屋で寝かせるぞ」と脅かされると必ず大人しく言うことを聞いた。ヒロくん(仮称)も全く同じでその部屋には決して寄り付かなかった。「あの写真のばあさん、部屋の中で動いても目が追いかけてくるんだよな・・・」ちょっと難しい事情もあるようなのだが、あの写真は我々のいわゆる曾祖母にあたる人のものだったと知るのはごく最近のことである。ちなみに今回墓参りの時に「あの怖い顔したおばあさん、この墓にいるの?」と聞くと、どうも後妻なので本家の墓には入らなかったらしい・・・
年齢にすると一回り以上の差もある野郎ばっかの従兄弟で稀少な女子でアイドル的(そこまではないかな)存在だったミニーちゃん(仮称)も今回はお子さん連れで登場した。確か妻も同じものを持っていたのを思い出し「ミニーちゃん、いい指輪してるねー。オレのと同じブランドだろ?」普段しないスリーゴールドを見せると「そうそう、たろう兄さん(と私を呼ぶ唯一の女性だ)、子供が生まれた時に家族の名前を裏に彫ってもらったんだよ」
年齢がかなり下ということもあり、小さい時から恥ずかしがり屋で言葉も少なかった彼女だったが「ミニーもあんた達とよく話してたねえ」と母親が感心していた。20年くらい前だったか、ノリくんが仕事で上京した時に久々に連絡を取り、健気にも一緒に食事をしようと初めて私のPHSに電話をしてきた。移動中だったので雑音が多く「イトコのミニーです」と言ったところを「ミニー」しか聞こえず、「んっ?えっ!へ?誰?」当時はまだ部屋の固定電話が主流で女性から移動中に携帯電話がくるなど思いもしていなかった私は慌てて「どこの誰なのか?」思い当たるところを検索したのだった。ヒロくんにも電話をしたが捉まらず、結局年の近いノリくんと二人で焼き鳥屋で飲んだらしい・・・
宴もたけなわ、年寄りメンバーはそろそろ疲れが見え始めた頃、「やっぱり代表幹事が最後しめてよ」とノリくんがやってきた。「だーかーらぁ、いつからオレが代表なんだよ・・・」と苦笑しつつも私は言い出しっぺとして一つ提案を思いついていた。首領である故Tばあさんとその所縁の人全てのルーツである富山で固定開催にしてしまおうということだ。幹事を頼める者は他にもいるし、毎年中々思いもしない所に集うのも楽しみではあるが、年寄りにとっては全く初めての地というのは全てにおいて要領が分からず気疲れが多かろう。祖父母が亡くなり、東京近郊の親類もこういう機会でもないと富山を訪れることもなくなった。母親も数十年前のこともあるが、あらためて県内・市内というと意外に訪れたことがないの名所が多いようだ。年長のカズくんに来年のことを頼めないかと聞いたら、やはり仏顔で快諾してくれ、何と翌朝、その場所の仮予約を取ってしまっていた。ここに「もうずーっとここでいいよね」という運びになり、これからは当分「ディスカバー富山、ディスカバー北陸」という従兄弟会になったのである。
残念ながら今回も受験生である息子甘辛と妻は欠席せざるを得ず母親と二人旅となった。宿泊もそこそこ良い所だが新幹線もそれなりに費用がかかる。正直に往復運賃と宿泊施設を別々に支払うと昨年の東北旅行並みの費用になってしまう。そこで色々作戦を考えた末、私にとっても久々の富山行なので、ここ数年母を連れ回している旅行と合わせることにした。毎年貯めるポイントから得るクーポン券を使用し1泊2日のツアー企画と個人手配の宿泊を組み合わせると新幹線が格安となり、普通に訪れるのとほとんど同じ費用でもう一泊できてしまうのである。さらにラッキーなことに地方創生の「ふるさと割」なる応援キャンペーン期間となっており一人1万円もツアー料金からディスカウントしてもらえた。私はこの浮いた費用でレンタカーを借り、またまた高齢の母を富山県内方々を連れ回すことになる。
初日は兄弟&従兄弟の大宴会を予定していたので、無難に昼過ぎに富山に到着、10年以上ぶりに祖父母の墓参りを行いそのまま会場に向かうことにしていた。叔母の一人が駅まで迎えに来てくれ、市内の外れにある広大な霊園に向かった。つい先日、東京に単身遊びにやってきて母も含め姉妹4人で東京ディズニーランドを巡り、都内観光に乗り降り自由の2階建て屋根なしバスに2日間にわたり皇居周辺、お台場を走り回ったハルおばさん(仮称)であある。台場地区はマンションが立ち並び、遊戯施設も派手で興味深かったらしいが「たまに行くならいいけど、人の住むところじゃないね・・・」わずか1年間、ゆりかもめで通勤した私も同感だった。さて富山駅から地図で見ると霊園はすぐに分かるのだが実際に行ってみると見渡す限り墓標が並び、まるで住人がスターシアだけになってしまったイスカンダルのようだった。「○区画の◇▲番を目指してくるといいのよ」ハルさんはからから笑っていたが、母と二人きりでは絶対に辿り着けなかったろう。「姉さん久しぶりだから、街の中を走ってみるね」とハルさんは市内中心部に向かった。駅から少し離れたところにある繁華街もだいぶ再開発が進み様相が激変していた。
姉妹とも年が近いせいもあって、昔(と言っても何十年も前)の同級生とか知人、恩人、遠い親戚、お店、会社など共通の話題が数えきれないほどあり、ハルさんはあらゆる方向の履歴・沿革を把握している。別に彼女が特別に人や企業の噂話が好きということはなく、そういう世間ならしい。「○▲町の乾物屋の嫁がまた・・・」「二丁目の◇◆医院の次男いたでしょ?」「ほら、■□の小学校のそばから移転した○×屋・・・」と、現住所や跡地を巡りながら、とどまることなくその変遷を語り続けた。まるで東京の短時間観光バスと比べると富山の「裏観光バス」のようだった。商売をやっていた家柄なのでその方面は特に詳しく「H恵ちゃんと同級生だった▲▽社のKさん、先代のご主人は結構のーんびりしてたでしょ?Kさんの息子さんは家を継がないで神社の経営に乗り出したのよ。ずいぶん色んなところに教わって、熱心に勉強してたんだけど・・・なんでダメだったんだろ?」私は思わず心の中で「(坊やだからさ!)」とつぶやいた。赤い彗星の顔が浮かんだのは言うまでもない。ほどなく富山市と高岡市の間にある小高い山の宿泊施設に到着した。
チェックイン時間よりも早く着いてしまったのでしばらくロビーでさっきの続きの話を聞いていたが、次々に後発組が到着し部屋に案内してもらえることになった。小さな子供もいれると総勢31名、家族単位ではなく4姉妹が中心で、母と子の部屋割になっており、野郎は大部屋にまとめられた。何と我々の大部屋は皇室「秋篠宮ご夫妻」が宿泊された部屋らしい。「誰かが紀子様のお使いになった布団に当たるかもしれませんよ」と加納屋炭鉱の亀助さんのような従業員が案内してくれたが「(んなわけねえだろ!皇室なら布団にも『菊の御紋』が入っとるわい・・・絶対これ、ネタだよな)」と笑っていた。山の中腹から街並みを展望できる露天風呂で温泉に浸かり、ビールを飲みながら土産代わりに先般撮影しておいた観艦式を上映したら元自衛隊幹部の叔父さんがいたく感心して、画面を見ながら我々の知らないことまで色々と教えてくれた。そうこうしているうちに、今回初登場の我が従兄弟仲間最年長であるカズくん(仮称)が現れた。
いつかも書いたが太平洋組の長である私とは全く対照的で、器楽部の部長として指揮者を務めたり、天体観察クラブの部員で私に望遠鏡の手ほどきをしたり、上には丁寧で下には優しく絵に描いたような秀才だった。我らが首領であった祖母に最も期待され(たぶん大事にもされ)たぶん狭い土地柄で様々な期待と噂に悩まされ、ちょっと躓きながらも父上と同じ医師という職業に就いた。私にとっては10年ぶりくらいの再会だったが、前にも増して誰にでも丁寧で優しく皆に挨拶してまわっていた。「オレ、タロウくんにトランプで負けて『ど根性ガエル』全巻巻き上げられたんだぜ」と今だに恨みをもたれている私と比べて、もはや「仏」の領域にいるようにさえ見えた。子供の時、夏休みに皆で富山城跡公園で遊ぶと彼らがこぞって「たろうチーム」を望んだのは私に付いていれば、必ず「ドロ警」(警察と泥棒に分かれた鬼ごっこ)で勝てたからである。
いつも同じような話題にしかならないのだが、子供の頃の話題で前回書かなかったことは、今はもう無き祖父母の邸宅の話である。昔の大きな屋敷のような家だった祖父母の家に太平洋組は遊びに行くと必ず泊まっていた。屋根裏部屋や仏壇の部屋、庭には大きな石と池、そして石灯籠があった。何十年も誰も入っていない屋根裏部屋に忍び込んで蝙蝠を捕まえてきたのは私である。年の近い我々があの家に泊まる時「恐怖の部屋」と呼んでいた畳部屋があった。田舎らしい巨大な仏壇があり朝になるとばあちゃんは仏壇の前で御経を読むのが習慣だったが、部屋の真ん中上に世にも恐ろしい顔をした老婦人の写真があったのである。どこのどなたなのか、誰も聞かなかった。私も何か悪さやいたずらをしたりすると「仏壇の部屋で寝かせるぞ」と脅かされると必ず大人しく言うことを聞いた。ヒロくん(仮称)も全く同じでその部屋には決して寄り付かなかった。「あの写真のばあさん、部屋の中で動いても目が追いかけてくるんだよな・・・」ちょっと難しい事情もあるようなのだが、あの写真は我々のいわゆる曾祖母にあたる人のものだったと知るのはごく最近のことである。ちなみに今回墓参りの時に「あの怖い顔したおばあさん、この墓にいるの?」と聞くと、どうも後妻なので本家の墓には入らなかったらしい・・・
年齢にすると一回り以上の差もある野郎ばっかの従兄弟で稀少な女子でアイドル的(そこまではないかな)存在だったミニーちゃん(仮称)も今回はお子さん連れで登場した。確か妻も同じものを持っていたのを思い出し「ミニーちゃん、いい指輪してるねー。オレのと同じブランドだろ?」普段しないスリーゴールドを見せると「そうそう、たろう兄さん(と私を呼ぶ唯一の女性だ)、子供が生まれた時に家族の名前を裏に彫ってもらったんだよ」
年齢がかなり下ということもあり、小さい時から恥ずかしがり屋で言葉も少なかった彼女だったが「ミニーもあんた達とよく話してたねえ」と母親が感心していた。20年くらい前だったか、ノリくんが仕事で上京した時に久々に連絡を取り、健気にも一緒に食事をしようと初めて私のPHSに電話をしてきた。移動中だったので雑音が多く「イトコのミニーです」と言ったところを「ミニー」しか聞こえず、「んっ?えっ!へ?誰?」当時はまだ部屋の固定電話が主流で女性から移動中に携帯電話がくるなど思いもしていなかった私は慌てて「どこの誰なのか?」思い当たるところを検索したのだった。ヒロくんにも電話をしたが捉まらず、結局年の近いノリくんと二人で焼き鳥屋で飲んだらしい・・・
宴もたけなわ、年寄りメンバーはそろそろ疲れが見え始めた頃、「やっぱり代表幹事が最後しめてよ」とノリくんがやってきた。「だーかーらぁ、いつからオレが代表なんだよ・・・」と苦笑しつつも私は言い出しっぺとして一つ提案を思いついていた。首領である故Tばあさんとその所縁の人全てのルーツである富山で固定開催にしてしまおうということだ。幹事を頼める者は他にもいるし、毎年中々思いもしない所に集うのも楽しみではあるが、年寄りにとっては全く初めての地というのは全てにおいて要領が分からず気疲れが多かろう。祖父母が亡くなり、東京近郊の親類もこういう機会でもないと富山を訪れることもなくなった。母親も数十年前のこともあるが、あらためて県内・市内というと意外に訪れたことがないの名所が多いようだ。年長のカズくんに来年のことを頼めないかと聞いたら、やはり仏顔で快諾してくれ、何と翌朝、その場所の仮予約を取ってしまっていた。ここに「もうずーっとここでいいよね」という運びになり、これからは当分「ディスカバー富山、ディスカバー北陸」という従兄弟会になったのである。