子供のときから、孫のように可愛がってくれ方の訃報が先日届いた。享年92歳、大往生であろう。。。母方の遠い親戚筋にあたる。次週から夏休みに入る予定の私は、今週どうしても丸々1日空けることができず、葬儀などに列席できなかった。
火曜日だけ外出予定だったので、そのまま出抜けして一目だけでも顔を見ようとご遺体が安置される清瀬の自宅まで向かった。早めに出たので着いたのは7時くらいだった。
連れ合いを亡くした「オバサマ」は私の母親よりも10歳年上、娘もちょうど私より10歳年上であり、そのご家族には小さい頃にホントにお世話になった。
小学校に上がり、実家茅ヶ崎から初めて湘南電車に一人乗って遊びに行ったのがその家、両親の故郷富山と同様、夏休みになると一度は遊びに行った。都内の遊園地、プール、交通博物館などありとあらゆるところに連れて行ってもらった。家族以外と麻雀をやったのも彼らとだし、初めてゴルフ場でラウンドしたのもあのご夫婦だった。
夜になってしまったが、私駆け付けるとすごく喜んでくれた。残念ながら翌日も早朝から仕事があって、わずかな時間しかいられなかったが手を合わせられたので良かった。
家には娘夫婦と孫、そして故人の妹さんがおられたが、社会人になってさらに結婚してからはさすがに少し疎遠になってしまっているから、こういう時は小さい時の話を山ほど聞かされることになる。
お年寄りというものは私が全く覚えていない数十年前のことでも鮮明に記憶しているものだ。
幼いときにその家にあった非売品のコアラのぬいぐるみが欲しくてしきりにおねだりしたことがあった。実は私はなぜかペンギンが好きだったのだが、当時はペンギンのぬいぐるみなど「マンシングウェア」のマスコットくらいしか無かったのである。
そのコアラは当時でも結構レアものだったらしく、中々「うん」と言ってくれなかった。そして彼らが持ち出した条件が「これからずーっと、私達のことを『オジサマ』『オバサマ』と呼ぶこと」
まだ小学校にも上がっていなかった私は何の抵抗もなくその通りにした。そのときの約束が40年たった今でも続いている。
この二人は東京近辺にたくさんいる私の従兄弟連中にも人気があった。どういうわけか彼らもいつの間にか「オジサマ」「オバサマ」と呼ぶようになり、それが親戚中に広まってしまったのである。
「オバサマ」は私の母親の従姉妹にあたる。母上は昨年亡くなった私の祖母の姉にあたり、富山にあったその家にもずいぶん遊びに行った。
私の祖母も同様に言っていたが、幼い「太郎」はかなり極悪の坊主だったらしい。。。。
格子に張られている障子紙全部に北斗百烈拳よろしく手刀(おあたたたたー)で穴を開けたとか、好奇心から水槽の金魚を掃除機で吸い出そうとして本体を破壊したとか、お店で使っていた出っ張りボタンをボチボチっと押して「チーン」と引出しが飛び出てくるレジスターで遊んでいて、引っ掛かりを無視して無理やり押し込んだら、引出しが歪んで出てこなくなっちゃったとか・・・耳を覆いたくなるような悪行三昧である。(薄々覚えているのもある)
「太郎が遊びに来ると必ず何かを壊していく」と警戒宣言が出され、「オバサマ」の父上に至っては「また来るねー」と玄関で無邪気に手を振る幼い「太郎」に向かって「もう来んでいい・・」とのたまったそうだ。。。
中学くらいからさすがに悪行はなくなったが、警戒の目は緩めなかったようだ。その様子は東京の「オバサマ」の家でもそうは変わらなかった。
先日の大地震の際、どこか壊れたりしなかったか尋ねると・・・
「全然平気だったよ。壊れてるのはお前が壊していったとこだけ!」
オバサマよ、それは違うよ。床が抜けてるのは単に傷んでるからだろ・・・?ただし、あの家に私が遊びびに行くと、帰った後に数々の「仕掛け」があったそうだ。
そんな話を故人を前にしてしばらく懐かしんでした。オバサマは「今頃、お前のパパと向こうで麻雀でもしてるのかねえ」などとしんみり言っていた。
オジサマは元国鉄職員で、独特の麻雀ルールがあったらしいが、当時私の亡き父と結構熱いバトルを繰り広げていたようだ。
「ねえ、オジサマ。この何にも描いていないヤツはなーに?」と幼い太郎が後ろから覗き込み「凍りつかせた」ことがあると言う。。。
私がいたずらをすると必ずオバサマが与えた罰は「怖い話をすること」だった。私は当時から何よりも「お化け」が嫌いだったのだ。生半可な「怪談」などではなく、「ホントにあった」話ばかりされたから堪らなかった。。。。
遠い親類のおじいさんが亡くなったときに、初七日法要まで毎晩「お世話になりました」と親族みんなの枕元に現れたとか、知り合いの連れ合いが亡くなったときに、納骨を済ませるまで毎晩居室だった部屋で足音がしたとか・・・
「あれーっ?今、カズサのおばちゃんが庭にいたよねー」と兄弟で話していたら「息を引き取った」という電話が着たとか・・・(どうしてこんな話ばかり覚えているのか?)
「オジサマも『太郎』が来てくれたんで、喜んで今晩行くかもしれないよー。ワタシも『いよいよ』と言うときはそっちの様子見に行こうかねー」
いっ、いやー、よく知っている人は大丈夫なんすよ。でもできれば前もって連絡をもらったほうが・・・いきなり来られると心臓が止まるかもしれないので。
ずいぶんご無沙汰してしまっていたのだが、今年の冬にお見舞いに行ったとき私のことを分かってくれたのが結構救いだった。
別に怖がる必要は全然なかったのだが、その日は部屋中の電気を点けて寝た・・・
オジサマ、小さいときから可愛がっていただきありがとうございました。あの世でもお元気で、父の麻雀相手してやってください。
火曜日だけ外出予定だったので、そのまま出抜けして一目だけでも顔を見ようとご遺体が安置される清瀬の自宅まで向かった。早めに出たので着いたのは7時くらいだった。
連れ合いを亡くした「オバサマ」は私の母親よりも10歳年上、娘もちょうど私より10歳年上であり、そのご家族には小さい頃にホントにお世話になった。
小学校に上がり、実家茅ヶ崎から初めて湘南電車に一人乗って遊びに行ったのがその家、両親の故郷富山と同様、夏休みになると一度は遊びに行った。都内の遊園地、プール、交通博物館などありとあらゆるところに連れて行ってもらった。家族以外と麻雀をやったのも彼らとだし、初めてゴルフ場でラウンドしたのもあのご夫婦だった。
夜になってしまったが、私駆け付けるとすごく喜んでくれた。残念ながら翌日も早朝から仕事があって、わずかな時間しかいられなかったが手を合わせられたので良かった。
家には娘夫婦と孫、そして故人の妹さんがおられたが、社会人になってさらに結婚してからはさすがに少し疎遠になってしまっているから、こういう時は小さい時の話を山ほど聞かされることになる。
お年寄りというものは私が全く覚えていない数十年前のことでも鮮明に記憶しているものだ。
幼いときにその家にあった非売品のコアラのぬいぐるみが欲しくてしきりにおねだりしたことがあった。実は私はなぜかペンギンが好きだったのだが、当時はペンギンのぬいぐるみなど「マンシングウェア」のマスコットくらいしか無かったのである。
そのコアラは当時でも結構レアものだったらしく、中々「うん」と言ってくれなかった。そして彼らが持ち出した条件が「これからずーっと、私達のことを『オジサマ』『オバサマ』と呼ぶこと」
まだ小学校にも上がっていなかった私は何の抵抗もなくその通りにした。そのときの約束が40年たった今でも続いている。
この二人は東京近辺にたくさんいる私の従兄弟連中にも人気があった。どういうわけか彼らもいつの間にか「オジサマ」「オバサマ」と呼ぶようになり、それが親戚中に広まってしまったのである。
「オバサマ」は私の母親の従姉妹にあたる。母上は昨年亡くなった私の祖母の姉にあたり、富山にあったその家にもずいぶん遊びに行った。
私の祖母も同様に言っていたが、幼い「太郎」はかなり極悪の坊主だったらしい。。。。
格子に張られている障子紙全部に北斗百烈拳よろしく手刀(おあたたたたー)で穴を開けたとか、好奇心から水槽の金魚を掃除機で吸い出そうとして本体を破壊したとか、お店で使っていた出っ張りボタンをボチボチっと押して「チーン」と引出しが飛び出てくるレジスターで遊んでいて、引っ掛かりを無視して無理やり押し込んだら、引出しが歪んで出てこなくなっちゃったとか・・・耳を覆いたくなるような悪行三昧である。(薄々覚えているのもある)
「太郎が遊びに来ると必ず何かを壊していく」と警戒宣言が出され、「オバサマ」の父上に至っては「また来るねー」と玄関で無邪気に手を振る幼い「太郎」に向かって「もう来んでいい・・」とのたまったそうだ。。。
中学くらいからさすがに悪行はなくなったが、警戒の目は緩めなかったようだ。その様子は東京の「オバサマ」の家でもそうは変わらなかった。
先日の大地震の際、どこか壊れたりしなかったか尋ねると・・・
「全然平気だったよ。壊れてるのはお前が壊していったとこだけ!」
オバサマよ、それは違うよ。床が抜けてるのは単に傷んでるからだろ・・・?ただし、あの家に私が遊びびに行くと、帰った後に数々の「仕掛け」があったそうだ。
そんな話を故人を前にしてしばらく懐かしんでした。オバサマは「今頃、お前のパパと向こうで麻雀でもしてるのかねえ」などとしんみり言っていた。
オジサマは元国鉄職員で、独特の麻雀ルールがあったらしいが、当時私の亡き父と結構熱いバトルを繰り広げていたようだ。
「ねえ、オジサマ。この何にも描いていないヤツはなーに?」と幼い太郎が後ろから覗き込み「凍りつかせた」ことがあると言う。。。
私がいたずらをすると必ずオバサマが与えた罰は「怖い話をすること」だった。私は当時から何よりも「お化け」が嫌いだったのだ。生半可な「怪談」などではなく、「ホントにあった」話ばかりされたから堪らなかった。。。。
遠い親類のおじいさんが亡くなったときに、初七日法要まで毎晩「お世話になりました」と親族みんなの枕元に現れたとか、知り合いの連れ合いが亡くなったときに、納骨を済ませるまで毎晩居室だった部屋で足音がしたとか・・・
「あれーっ?今、カズサのおばちゃんが庭にいたよねー」と兄弟で話していたら「息を引き取った」という電話が着たとか・・・(どうしてこんな話ばかり覚えているのか?)
「オジサマも『太郎』が来てくれたんで、喜んで今晩行くかもしれないよー。ワタシも『いよいよ』と言うときはそっちの様子見に行こうかねー」
いっ、いやー、よく知っている人は大丈夫なんすよ。でもできれば前もって連絡をもらったほうが・・・いきなり来られると心臓が止まるかもしれないので。
ずいぶんご無沙汰してしまっていたのだが、今年の冬にお見舞いに行ったとき私のことを分かってくれたのが結構救いだった。
別に怖がる必要は全然なかったのだが、その日は部屋中の電気を点けて寝た・・・
オジサマ、小さいときから可愛がっていただきありがとうございました。あの世でもお元気で、父の麻雀相手してやってください。
もうすぐ夏休みですねー☆
ありがとうございます。
KICKPOPさんにもたくさんの思い出があるんでしょうね。ご活発だったでしょうから私に似た経験もあったりして~
お嬢様にもちゃんと伝わってますよ~(私、子供にはあんまりしないんですが、ばーばが色々吹き込んでいるようです)
今日は海に釣りに行きましたが、夏休み何して遊ぼうかな~
本当によく可愛がっていただいたのですねぇ。
少年太郎君の様子は初めて聞きました!いろいろやらかしていたのですねー
オバサマの罰もなかなかツボを得たもので、かな~りの尊い血筋を感じます(笑)
きっとこれからも磯辺さんの心の中に生き続ける事でしょう!そしてオジサマも天国から磯辺さんご一家のお幸せをやさしく見守って下さるのでしょうね。
ご冥福をお祈りいたします。
お隣の小さな坊ちゃんが昨日救急車で運ばれ(昨夜のうちには戻れたみたい)ちょっぴり幼き日の甘辛君を思い出していました。
心配なものですねぇ。。ワンパクの方がモノ破壊されるけどまだ安心なのかいな・・。
ありがとうございます。ホントに可愛がってもらったんですよ。
家ではやらないぶん、外では色々とやらかしていました。あれ以外にも多数・・・
ホントの恐い話は今でも思い出すと寝られなくなります。
実はあの日も部屋中の電気つけても眠れたのは朝方のみ・・・
お隣に救急車が。。。それはご心配だったでしょうね。小さいとき弱くても、大きくなれば忘れてしまうほど丈夫になります。
「弱く産んで強く育てよ」
そういえばネッ友さんのお子さんも喘息気味の子が野球少年になってみるみる身体が丈夫になったと聞きました。
只今父母の付き添いで郵便局に行ったら一枚のポスターに目がテン!
それは記念切手の案内で、左に富山のもの、右にペンギン!!(超クールになりそなデザインよ^^)
まさに↑のお話に出てくるキーワードにピッタリ!
オジサマのいたずらかしら・・と思いましたー(思いこみ激しい?)
あぁ、西の魔女のおばあちゃんみたいだー
ところで、お母様の具合はいかがでしょうか~~。
暖かいコメントありがとうございます。
そうそう、小さい時に喘息と(ごほごほっ)だった少年がスポーツバリバリになったりするんですよねー。
ははは富山にペンギンですかぁ。。。
いろんな意味で「西の魔女マダム」には教えていただきます。
母親の心配までしていただいて感激です。
スピリチュアルヒーリングのパワーにふれて、食欲も出て、おかげさまで元気に過ごしています。
毎週末、竜泉寺に連れて行ってそれがよくわかります。