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超兵器磯辺2号

幻の超兵器2号。。。
磯辺氏の文才を惜しむ声に応えてコンパクトに再登場。
ウルトラな日々がまたここに綴られる。

奇縁あった図書

2017-03-18 17:00:48 | 書籍
約40年ぶりに小学校の恩師、ゴリ橋先生と連絡を取り、思わぬ行き違いに翻弄されながらも無事に先生が保管してくれていた卒業記念の木彫りを引き取ってから2週間が過ぎた。「・・・引取り完了」編の末尾に紹介したようなメッセージを作り、某SNSやメールなど知っているクラスメートには直接送り、また連絡先を知っているという知人に頼んで中継してもらった。さらに中継もあってメッセージが届いたと思われるクラスメートは10人余り、文中に入れた連絡用アドレスに返信等くれたのはこれまで数人というところだ。送った木彫り写真を見て「どれが自分の物か判別できた!」という、ある意味御縁のある人はわずか1名。。。その他の人は「できることは何でも協力するが、あいにく他のクラスメートとは連絡取れない」という予想通りのものだった。ネットや人づて以外に、数十年ぶりに消息の分からない人と連絡先を調べようとすると、頼りになるのは卒業アルバムだけである。

以前も書いたが、昨今は個人情報漏洩や詐欺を警戒するあまり、仮に各人の実家などがまだアルバム通りだったとしても、かなり詳しく説明しないと事情を分かってもらえないようだ。また家族であっても「個人情報を他人に教える時は本人の同意が必要」というそれなりに意識のある人も少なくない。さらに完全に他人になってしまうと、詐欺や勧誘と決めつけられ、「言われのない口撃」を受けて嫌な思いをすることもあるだろう。「できることは協力・・・」というのは「一定以上は踏み込まない」という意志の裏返しであり、仕方がないと思う。卒業後キリのいい年次だからか他クラスでも木彫り配付や同窓会の動きが活発なようで、中でも4年がかりでクラスメートを6割集め、担任を囲んだという組は幹事が見事な采配を奮っていた。「楽しんでやった」というこだが、それまでの苦労話も色々聞いてみたいものだと思う。担任の先生はゴリ橋先生よりもはるかにご高齢のようだったが、さぞ喜んだことだろう。

さて、その「サッチー先生」(仮称)だが、何と本を出版しているそうで、ひょんなきっかけからそれを読んでみる機会を得た。実際は約20年前にエジプト・イスラエルを2週間ほどかけて訪れており、その際に見聞したことを綴ったもののようだ。さてサッチー先生は社会科専攻だったか、実際に教わっていないのでよく分からないし、仕事上の当該地の知識や思い入れ、ご経験なども存じ上げないので、場合によっては失礼な物言いになってしまうかもしれないが、一読した感想は「我々と同じ一旅行者目線で書かれていると」というものだった。吉村作治さんのようなこの方面の地政、歴史などが専門の深い学者ではなく、ひょうきん由美さん(古いなー)のように世界各国を巡るリポーターというわけでもない。我々のように初めて訪れる「ポット出の旅行者」という感じ(この辺り違っていたら大変失礼なんだが)がして、身近なものを感じたのだ。専門家の書やベテランのガイドブックなどに感じる見えない溝がないのである。

あとがきを読むと(順番が逆だが)どうもサッチー先生は退職を機会に「自分探し」を思い立って参加した旅行らしい。永年務めた仕事を終えたときに自分の時間が有限なことに気付く。80歳まで生きたとしても自分に残された時間は20年そこそこ、それも保証されているわけでもない。その貴重な時間を輝かせようと自分が選んで行くことはないだろうと思われた友人の紹介によるエジプト、イスラエルの旅にノッたそうである。あとがきに共感するというのも妙だが、ぼちぼち先生の境涯に近づきつつある私にとって、「節目にはこんなきっかけでどこかに行くことになろう」と容易に想像できた。もっとも普通はふらない「わき目」だらけでここまでやってきた私は自分の「これまで」がいかに「結果オーライ」だったのか知っているので、今更自分を探す必要はないと思っているのだが。

さて約20年前のだいぶ今とは情勢が変わっていると思われるが、最初の渡航地はエジプトだった。成田からロンドン経由で17時間かかってカイロへ。午前4時半に街中に流れるコーランの唱和を目覚ましとする。タイトルは「砂漠は語る」である。ナイル川沿いのグリーンベルト沿いにしか住むには適さない国土で何時間もバスに揺られながら、ピラミッド、博物館のミイラを見学していく、「(あー、自分もこんな感想を持って、こんな記事にするだろうな)」というところもあるが、経験や感性は段違い、5000年前に国王だったジュセル王のミイラとの心の会話が印象深い。「エジプト人は王様の功績を守って、変化を好まない。私達日本人は変化を続けて今に至った」良いとか悪いという話ではないが、私の少年時代、万能の行き付け医師だった戦艦長門の軍医長は、生涯の旅行の憧れをエジプトと言い、同様なことを仰っていたような気がする。

地球儀や世界地図を見ると、「この水路を築いたのは人類きっての快挙」と思われるのが「スエズ運河」である。私の高校の担任が世界史の教師でローマ時代から中東・アラブの歴史を特に熱く語る人で、私も当時の一次試験に世界史を選択したこともあって、この辺りの歴史は満更知らないわけではない。フランス人レセップスに始まり、開通には日本人の技術が結構貢献、しかしその地理的な戦略価値から動乱の絶えない施設だった。私が最高傑作とするコミックの一つ「エリア88」でも「スエズ運河を制圧・支配する」という戦略実施が大きく動きを左右する。先生の参加したツアーには「出エジプト記」にまつわる「モーゼ山に登頂する」というのがメインイベントの一つだった(モーゼと言えばどちらかというと「海」なんだが)ようだが、これを平気で蹴飛ばし、スエズ運河で父子とキャンディーのやりとりを記述するところが、先に書いた「自分だったらそうだろう感」を感じて親近感を持った。

モーゼ山へのルートもそうだが、行き交う人や車もない岩砂漠をどこまでもバスで進む旅路だ。「もしここでガソリンが切れたらどうしよう」サッチー先生は外国旅行中の時に非常時用に「不時着パン」なる縁起でもない食料を持ち歩いているそうだ。私も移動を除く空の上、海の底、高山の上、砂漠などひとたびアクシデントが起こると生きていけない場所には行かないようにしているから、その心細さは共感できる。その後彼女はエジプトからシナイ半島を経て陸路イスラエルに無事入国している。死海、ユダヤ人、そして宗教の交差点、テロなど歴史的因縁の街という認識と、戦争によりいつもきな臭いニュースの尽きない国という印象が強い。こういう実際の紀行文を読まないと中々縁のない国のようだ。しかし食事は美味しく、意外にもヨットやウィンドサーフィンも眺められるリゾート地もあり、中々魅力あるところのようだ。

私もこの手の本を持っているが、ユダヤ人と言えばジョークが少しブラックで冴えわたり、商売がうまいということで定評がある。紹介されていた「金儲け」の話はまさしくこれを象徴するものだった。
「ある成功したビジネスマンが妻への土産にエメラルドを購入し友人に自慢気に見せる。購入価格は1万2千ドル、友人はこれに魅せられ1万4千ドルでこれを譲ってもらう。しかし持ち主はやはり妻への土産を取り戻したいと思い、1万6千ドルで再び買い戻す。これらのやり取りから、さらにこの指輪が欲しくなり2万ドルで譲ってもらおうと電話したところ、たまたまオフィスに来ていた別の友人に1万9千ドルで売ってしまう。それを聞いた友人が最後に言った言葉が『おまえはバカだな。二人で午後のうちだけでも何千ドルも儲け合っていたのにそのタネを売ってしまうなんて。これを毎日続けていれば我々はすぐに百万長者になれたのに』」
何か日本のバブル期を皮肉られているようにも思える。私は経済学を専攻していないので詳しくはないが、その本質が「循環」にあるというのを感じさせるウィットに富んだジョークだと思う。

もう一つ、イスラエル編で大きな印象のあったのが、「杉原千畝」さんの記念樹に触れたことである。ちょうど一月ほど前、このユダヤ人の中では最も有名な日本人の一人とも言える外交官の生涯をとある著書で読んだのだった。1940年、リトアニア駐在時にナチスドイツのポーランド侵攻を逃れてきたユダヤ人に日本通過ビザを発行し6000人の命を救った人とある。実は本国の許可を得ずにこのビザを発行したのである。しかも領事館を閉鎖され国外退去を強制されて列車が駅を出る瞬間まで「あと一枚、あと一枚・・・」とビザを書き続けるのである。その時に救った青年と後に日本で再会する感動のシーンがあった。最近読んだ本の中では久々にゾクゾクするほどの感銘を受けたものだった。イスラエルにはこの杉原千畝さんの記念樹であるヒマラヤスギがあり、サッチー先生がその樹と撮った写真が載っていたのである。何やらこの本とは不思議な御縁があるようだ。

サッチー先生の著書最後の章は聖書を携えて、宗教発祥の地を巡るものだった。何しろエルサレムといえば3つの宗教に聖地がひしめく奇跡の地である。ソロモンの神殿跡ノエルアクサ寺院ではイスラム教徒が祈り、嘆きの壁で祈るのはユダヤ教徒、イエスの苦しみを体験してヴィア・ドロロサというところを歩くのがキリスト教徒だという。本書では聖書の一節を引用しながら、「お告げの教会」「キリスト生誕教会」「奇跡の教会」、死海写本が発見された「クムラン洞穴」「祝福の山」「シオンの丘」そしてイエスが処刑された「ゴルゴダの丘」である。先生は大して強い信仰心は持っていないと自白している。私ももちろんその通りである。だから私が同じ場所に立っても聖地のアイテムそのものには大した実感は感じなかったかもしれない。しかし教徒の数千年にわたる敬虔な「祈り」が目に見えない媒体となって聖地たる空気を作り出しているように想像した。私もキリスト教幼稚園卒園の身、聖書のくだりのいくつかは覚えているが、残念ながらその内容に特段の感慨は覚えない。この本の「聖書」編では色々と書きたいことはあるが、「禁断」と言われた宗教論、キリスト教そのものよりも、これを信仰してきた教徒と呼ばれる人間の歩んだ歴史を語りたくなって、長くなりそうなのでそれは別の機会(いや、やめとくか)にしよう。

最後にサッチー先生がエジプト・イスラエルを訪れたのは約20年前だが、初版が著されたのは2003年となっている。旅を終えて5年くらいしてから執筆したようだが、どうやら後から本にしようという気になったらしい。例えば最初から旅行記にするつもりだったとすれば、行く先々で帰国後の執筆を思い浮かべて様々に「取材」し、編纂しやすいように記録を整然と残しておくものだと思われるが、当初はそういった予定がなく、いかにもつれづれ見聞しているようだから、数年たってこれほど細かく、まるでその場に立っているような著述ができるとは素晴らしい記憶力と起草力だ。さすがに学校の先生である。文中にも書いたが、私にも遠からずこういう「旅に出る」機会はやってくる。こんなすごい見聞録はとても書けないが、果たしてどこを訪れようか?私の場合は恐らく妻と一緒だろうから、おいおい相談してみようと思う。

先生を囲んだ同窓会はたいそう盛り上がったそうである。我がクラスが実現するかどうかは不明だが、面白いことに先に紹介した私のキリスト教幼稚園の卒園者が7名もいたそうだ。小学校よりもはるかに記憶が薄く誰がいたかも定かではないし、アルバムの類も全くないが、こういうことは何かのきっかけで急転直下進むものであり、実家の母親に「幼稚園時代の写真がないか」探してもらうよう頼みこみ、奇跡的なショットを発掘したのだった。まさしくツタンカーメンものだ・・・5000年とは言わないが、40年以上たっているからもう時効だろう。

              


ファミリーレスな中年男

2016-12-15 07:00:41 | 書籍
先日、久しぶりに知人たちとお薦め本を交換し合った。考えてみると人に本を薦めるというのは、相手の読書スタイルや好みの分野、さらには人となりや物事の考え方など色々慮るべき事柄が多く簡単ではないが、古くからの知人であれば何となく最近の会話と話題からだけで「この辺りはどうかな?」というところが思い当たる。私が貸してもらったのは、正月明けに映画化も予定されている重松清作品である。私はテレビドラマにもなった「流星ワゴン」から始まり、かなりの著書を読み込んできたお気に入り作者だ。家族、親子、夫婦は友達など、基本単位ともいえるつながりを独特な人間観で綴っている。安易なハッピーエンドには決して向かわず、時にはやり切れなくなるほどシビアに展開していくが、必ず「うるうる」「ほろっと」するところがあり、最後はペナントレースで言えば最下位からAクラス入りくらいには「救われる」物語が多い。本作品は日常どこにでもありそうなあまり重くない主題のようだが、かなり複雑な人間模様が描かれてあり、私達の置かれる年齢や家族構成的なシチュエーションとして「ものすごく身につまされる」物語だった。

ざっと登場人物とそれらの人間関係、ストーリー展開だけ紹介しておくと、主人公から
・宮本 陽平:ちょっとした男の料理を嗜みとする50歳間近のベテラン中学校教師。
  妻 美代子:陽平とは「できちゃった婚」の専業主婦。子供らの自立を契機に「おひとり様化」を志向?!
 長女  葵:数年前に大学を卒業後、一人暮らしで出版会社にアルバイトしながら正社員化を目指す。
 長男 光太:仙台の大学へ入学し一人暮らしを始める。サークルで被災地ボランティアで自立化を志向。
・竹内 一博:通称タケ。葵の勤める出版会社の編集長。妻は5年前に実家の母の介護に戻ったきり別居状態。雑誌「男の深呼吸」の編集長で敏腕とされ、手料理その他こだわりが強い。
  妻 桜子:母の介護で実家に戻り、そのまま自身の本業である和菓子ジャーナリストに従事しておりテレビ出演するほど著名。
・小川 康文:通称オガ。実家の惣菜屋「ニコニコ亭」を半分継ぎ、マリちゃん号で移動販売。子供は離婚時に前妻が引き取る。17歳年下のマリと再婚。編集長のタケとは小学生以来の幼馴染で陽平の料理の師匠的存在。
・北白川エリカ:タケの通う料理教室の新任講師。離婚歴2回でジャンク料理が得意。  長女 ひなた:エリカの一人娘。「突走っちゃた婚」で妊娠中だが、ミュージシャン志望の夫に愛想を尽かし離婚。
・ドン :陽平の担任クラスの教え子。父親は海外赴任中に母親が不倫して交通事項入院。祖母に面倒を見てもらうがその厳格さにキレる。

  

主人公の陽平は長女葵の勤務先の編集長として竹内(タケ)と知り合い、「男の料理」のような腕を上げていく。タケは陽平にとって男のダンディズムの師匠のようなものだが、同い年の妻の桜子は京都の実家に母の介護に帰ったきり別居状態である。夫婦それぞれに仕事を持ち、それを尊重して子供を持たずに互いの距離を楽しむように過ごしてきた。小川(オガ)は前妻と惣菜屋を営む母の嫁姑関係が悪く離婚するに至り子供は手放した。17歳下のマリとは3年前に再婚し、離婚歴のある彼女の連れ子と母と住んでいる。中心にいる男子3人はどれも私達とほぼ同年代で、多少ワケありではあるが、ものすごい過去を持っているわけでもなく、どこにでもいる中年のおっさんである。このおっさんたちが粋な酒の肴などを作りながら、それぞれの悩みや思いを語り合うスタイルで物語が進んでいく。そしてエリカ先生とその娘の騒動に巻き込まれていくのである。

陽平の長女葵は1年前にタケが編集長を務める出版社に就職(と言ってもアルバイトだが)し、一人暮らしを始めた。息子の光太は将来やりたいことも決まっていない受験生で何となく頼りなかったが、「震災復興の当事者になりたい」と東北の大学に進学し仙台で一人暮らしを始めた。子供が大きくなって家を巣立って行った陽平夫婦は50歳前後で二人きりの生活に戻るわけである。これに対し、それぞれの経験から幼馴染のタケとオガはお洒落な肴をつまみながら、ダンディに真逆なことを言うのだ。「夫婦で大事なのは言葉だぞ。以心伝心とか、阿吽の呼吸とか、そんなものを信じてたら、俺の二の舞だ」妻が京都へ行ったきり帰って来なくなったタケは夫婦円満の秘訣を「言葉」に置く。一方、バツイチで若い奥さんを持つオガの理想形は「車の運転席と助手席に座ったところ」と主張する。正面切って向き合って話さずとも、同じモノを見ていればそれだけでよい、とするオガの言葉は経験の分だけ説得力がある。

ある日、陽平は偶然に妻の所蔵する本に署名捺印された離婚届が挟まれていることを見つけてしまう。一体何が原因なのか?全然思い当たるふしがない・・・自分に黙って息子のいる仙台に一人旅しようとしたり、一緒にボランティアに参加したりしようとする。露骨ではないが、何かにつけて別行動しようとし、態度もイマイチそっけない。「ホントにそういう気なのか?!」子供二人にさりげなく聞いても「喧嘩してるの?」と返されるだけで理由は分からない。むろん他の二人に相談することもできず、一人で思い悩むこととなる。この流れまでだと、まさしく我々の境遇と重なるものが大いにあることに気付く。息子甘辛は春から大学生となり自宅から通っているので普段からいるにはいるが、終電までうろうろ遊びまわったり、友達の家に泊まって帰って来なかったりするし、アルバイトも忙しいので家族で食事することもめっきり減ってきた。むろんウルフェス他恒例行事以外は一緒に出掛けることもない。

そう遠くないうちに物語の陽平・美代子夫婦のように銀婚式を迎える我々だが、いつかこのサイトでも書いたように、共通の趣味らしきものはあまりない。休日に家でゴロゴロすることが決してできない私は多方面に触手を伸ばし、1日のスケジュールをアイドルなみに詰め込み、お茶を飲みながらのとりとめのない世間話などただの時間の無駄としか思っていない。妻も私ほど多くはないが、それなりにハマっているものがあり、好き勝手に出かけている。何よりも彼女は共通の趣味で知り合った「友達」が多い。私はそういう人がほとんどいないのだが、この年齢になって仕事や子供を媒介としない「純粋な趣味友達」というのは貴重なものだと羨ましく思う。オガの主張するように「運転席、助手席に座って同じ風景を見る」ことはあまりなく、てんでバラバラの方向を眺めている。本を読み進めてきて「こりゃーやばいかも。アイツも離婚届どこかに忍ばせてるかもしれないぞ」と思ったものだ。何せ「原因にさっぱり思い当たる節がない」というのが主テーマだからである。

主人公の陽平・美代子夫婦は「できちゃった婚」であり、結婚前後のいわゆる恋人期間がほとんど無かった。大きな問題もない普通の家庭だったが他と同様に一所懸命子育てし、いざ一段落して子供が家にいなくなるといきなり「ファミリーレス」(つまりファミレス)となるスタイルは少し前の「団塊」世代ではまず無かった新しい現象だろう。その昔、団塊と言われる世代の「お父さん」は家族のために「モーレツ社員となり」、子供の成長も間近で見ることもせず、妻を顧みることもあまりせずに何十年も勤め上げたあげくに、定年退職と同時に妻や子供に見捨てられ途方に暮れる、こちらは「ファミリーロス」が定番の悲哀のストーリーだった。いずれにしても同じようなシチュエーションにいる私には笑えない脅威ではあるが、さらに読み進めながら「オレはこうは、ならんだろな・・・」と楽観していたのである。と、いうよりも「仮にそうなってもそれほど驚かない」という境地に近いところか。

以前、私のお気に入りのブログサイトに我々とほぼ同世代の男性のための「結婚論」が載っていた。一言でいうと「結婚」というのは「夫婦という最小の社会組織を通じた『リスクヘッジ』だというのである。病気になったり失業したり、思いがけない事態になったときに、1人では一気に生活の危機に追い詰めらるが、2人なら何とかお互いをサポートして生き延びられるから。晴れの結婚式では「その健やかなる時も病める時も・・・」と宣誓するものだが、年齢を重ねると「病める時」の方が割合を増やしていくのが侘しいことだが自然の摂理だ。そのブロガーは経済学者らしく、今後の日本経済の方向、年金問題、少子高齢化などを挙げて最も恐るべきは「老後の貧困」と結論づけている。「老後の安全保障のために二人でいる」というのは、あまりにも殺伐としていて素直に頷けないが、結婚相手をパートナーとせずに「バディ」と呼ぶ彼の感性には何となく共鳴する。スキューバダイビングではバディにそれこそ「命を預ける」のである。

この物語では(ネタバレしてはいけないが)、「奥方が決定的な収入源(仕事と言ってもよい)を持っていない陽平夫婦は『元のさや』、妻がちゃんと仕事を持っているタケ夫婦は『離婚』という結末となる。色んな事件があって紆余曲折もあるが、やはり結果的にモノをいうのは「先立つモノ」である。経済的事情が「子供のような拠り所がなくなった」夫婦にとって「鎹」であるのは否めないだろう。「甘辛が巣立っていなくなったら犬かふくろうでも飼うか」と妻と話したことがある。一人っ子だから二人ともそれなりに力は入ったと思うが、だからと言って「それがすべて」ではなかった。また私は「これ以上は無理」というくらいに一緒の時間を過ごしたから、「もっとこうすればよかった」などという後悔もない。甘辛が我が家から出て行って年末ジャンボ宝くじ10億円が当たったら、ぶっちゃけ「離婚届」を突きつけられても「あり」だと思うのである。しかしそんなことは万に一つもないだろうから、我がバディとはなるべく「機嫌よく過ごす」ようにしている。唯一「同じ景色を見る」のは散歩するときくらいだが、最近は大山ハイキングを機会に入手した簡易ガスコンロを持参して海辺で肉や野菜を焼いて食べることも増えてきた。(寒くてさすがに海へ入れぬから)

  

物語自体のメッセージは登場する小手先、思い出、ダンディズムを表すたくさんの料理群を通して「あまり思い詰めずに機嫌よく暮らせ」みたいなところだろうか?タケがいよいよと桜子と離婚するにあたり彼女のために考えうる限りのこだわりの材料を用意し、これまでの思いを込めて渾身の力で米と味噌汁を作り上げる。これに対して彼女が最後に言った言葉が「さようなら」でも「ありがとう」でもない一言だったのが良かった。正月には本とは異なったタイトルで映画として上映されるそうだ。何となく原作のままの方がよほどいいような気もするのだが。先日営業100周年を迎えた辻堂駅前の商業モールにある映画館は二人で行くとやたらに割安になるから、とりあえず妻と行ってみようかと思っているところだ。(寝た子を起こすような間抜けなことになるのが心配だが、先日越中一ノ宮(雄山神社)で裏側から「手を繋いでくぐると仲良しでいられる」という「夫婦杉」(根元から二つに分かれ力強くつながっている)をく二人でくぐって円満を祈願したから当分はご加護があると期待している。

  


脅威の男女脳論

2016-06-30 22:27:03 | 書籍
前回、○×サス会で本の交換会をするために元同僚、後輩の女性軍と集うたのだが肝心の話題には中々辿り着けず、時間切れとなったのは書いた。久しく近況を語り合うからということももちろんあるが、あういうメンバだと「どうして毎度毎度、どうでもよい話ばかりで本題に入れないんだろう?」と首を傾げているところに驚くべき知見を与える書物に出会った。かの交換会で私が以前に貸してあげた本以外に唯一M女史が持って来てくれたものである。かなりネタバレになってしまうので、興味のある方はいくつかヒントを混ぜておくので著書を探してほしい。まず著者は私よりも5年ほど先輩の女性、国立大学の理学部物理学科を卒業した今でいうバリバリの「リケジョ」である。大手IT企業の研究所でAIの研究開発に従事した後、AI開発の集大成により、感性の分析や脳の性質を研究対象として民間会社を設立している。

本書のカバーにある見出しは「・・・自然を司る神は、人類に必要な感性を真っ二つに分けて、男女それぞれの頭蓋骨に搭載したらしい。・・・」といかにも「理系」の使用しそうな言い回しで始まる。これらを「女性脳」「男性脳」と分類し、それぞれの特徴や性質の違いを科学的根拠を交えて紹介したうえ、両者の「取扱説明書=トリセツ」としてまとめている。ところどころに登場する「実例」は日常の家庭生活だけでなく、仕事や恋愛、旅行やショッピングなどいたるところに「あるある!」と膝を打ちたくなる挿話ばかりで、冒頭書いた「なぜ彼女達とご一緒すると本題に入れぬのか?」を始め、不思議に思っていたことが目の覚めるように鮮やかに解明される(ような気がした)のである。

イントロダクションにおいて、AIによる人とロボットの「対話」をミッションとしていた著者は「女性向けの対話エンジン」と「男性向けのエンジン」は別の設計をしなければならないことに気がつく。(これまた何と理系好みの表現であろうか?)そして男女の脳の違いは色の識別においても異なることがあるというのである。人の目は光の三原色に対応する三種類の色覚細胞を持っていて、RGB(赤、緑、青)の三色の組合せで、すべての色を識別するとされているが、遺伝学上は少なくとも数%、実際は半数くらいの女性が四種類の色覚細胞を持っていると言われているそうだ。三原色の赤の領域に当たる光を2種類に分別し、三原色色覚者には見えない紫色が見えているようなのだ。一言で言うと繊細だということなのだが、物言わぬ赤ん坊の顔色の変化や食べ物の腐り具合、古代から日常の目の前の出来事の仔細を見逃さない本質であるとされる。

実はこの話、私の好きな数少ないドラマ「科捜研の女」シリーズに実際に登場した(第2話「見えすぎた女」)からまったく理解できた。時計メーカーのデザイナーだった女性は男性に全く見えていないカバーガラスの反射防止塗料を見分け、透明にするよう提案したというし、マーケティングのついてはピンクや紫の色については、男性がピンとくる色彩は女性が心地よいと感じるピンク色よりもかなり青みがかかっているそうであり、著者は開発コンサルタントとして、女性市場向けのピンク色の最終ジャッジは女性が行い、男性はやり手の部長でも売れっ子デザイナーであっても女子の意見を傾聴することをアドバイスするそうである。小夏師匠の「西陣織見学記シリーズ」で「作業中の女性が作る色の指示によって同一デザインでもイメージが変わる」という下りがあったが、さすが日本の誇る伝統工芸、古来から色に関する女性の鋭敏さというものを尊重してきたのではないだろうか?

こんなイントロダクションを経て、男女の脳の違いという本題に入る。一言で定性的に言うと、「女性の脳は感度がよく男性の脳はブレない」先の色覚だけでなく、女性脳は音の周波数帯、嗅覚、味覚、皮膚の感触すべてにおいて感度がよい。生殖リスクの高い哺乳類のメスとして育児を抜かりなく行うためと聞けば自然に納得もできる。自ら生み出すものの行く末の「ありとあらゆるもの」に気が向き、「自分や自分の大切なひとの今の気分が何にも勝る」感性が標準装備という。一方で物事を標準化、高速化して無駄を省いて合理的にふるまうのが男性脳で感性にムラがない。というと今の企業社会は全般的には男性脳向け社会と言わざるを得ないんだろう。女性の社会活躍が叫ばれて久しいが、男女脳の差異をテーマとした場合、当面今の企業社会が持続するとすれば躍進する企業というのは男性脳に一定数以上の女性脳が要所に存在する形態だそうだ。私なりに解釈すると昔は男性脳だけで割と事足りたが、変化が激しい現在、感度の高い脳がポイントをおさえないと生き残れないということかもしれない。

次に男女の脳の構造的な違いを言及される。よく言われるが、言語や演算処理など論理的空間を司るのが左脳で直感や潜在意識を司るのが右脳である。女性脳の最大の特徴は左脳と右脳の連携がよいということだそうだ。具体的には左脳と右脳を連携させる神経線維(ニューロン)の束である脳梁という器官が男性脳よりもはるかに発達している。この脳は簡単に言うと鋭い観察力をもって「感じたことが即ことばになる」「とりとめもない情報をいつでも引き出せ」「察しがよい」という特徴をもつ。一方、左右の脳の連携の悪い男性脳はそれぞれの特徴を個別に飛躍させ、物事の全体的な把握能力が高く目の前の出来事には疎くてもマニアックな機能を発揮しやすい。読み進めて行くと女性脳対男性脳の差は臨機応変力と空間認識力というような感じである。動物的には「赤ちゃんの変化を見逃さず安全に育てる」能力と「獲物や敵の存在を広範囲で察知する」能力と言われて私には分かりやすかった。

似たような実例があげられていたが、かつての職場に置き換えると驚くほどジャストミートである。新入社員に色々なイベントを経験してもらおうとお手伝いに狩り出すと、経験的には圧倒的に女性の方が「使える」。。。「察しがよい」からである。むろん全部ではないが、飲み込みもつかみもいいように見える。何も言わなくても周囲の「空気を読み」あれこれお手伝いに立ち回る。男性社員はあれこれ指示しないと、どうしてよいか分からずうろうろしていて、「そこの大きいの!ちょっとこれあっちへ運んで」と言われて初めていそいそと動き出す。(あった、あった!)しかし時がたち、自身の役割やミッションがはっきりしてくると男性社員も負けずに立ち上がってくるのである。人のことばかりでは公平でないので、自分の経験(恥ずかしいが)を少し紹介する。妻に連れられて某ガス会社の「お料理教室」に参加した時である。煮物、蒸し物、揚げ物、サラダなど4品くらい、下ごしらえも含んで時間内に結構手の込んだメニューを一つのテーブルで6人くらい(むろん初対面)のグループで製作するのだが信じられない光景を見た。誰も仕切っているわけではないのに、瞬間的に役割分担が決定しほとんど言葉も交わさずに材料を加工しだしたのである。「あのーぅ、オレ何やったらいいんかな・・・・」面倒くさそうに指差した妻の指示は「カブを洗う」作業だった。(相手は言わばプロだが、何となさけないことだ)

この本によると我々男性軍は「家事を手伝う」にあたり「言ってくれればやる」というのは全然ダメだそうだ。「察し」を要求されるからである。また買い物に出張ってもメモ通りしか買ってこれないし、目当ての品が足りないだけで破綻するし、代替品に目が届かない。台所にたてば多くの主婦が「動線の邪魔」と感じているらしい。冷蔵庫を開けようとすると冷蔵庫の前にいるし、茹でたほうれんそうを水に浸けようとすると流しの前にいるとされる。我が家では以前からこの現象を妻が察知したのか(狭いこともあるが)私が台所で何かしようとすると同時に立つことはなく、リビングで知らん顔している。さらに本を読み進めると女性の買い物は感性を総動員して直感的に答えを引き出すので「これしかない一押しが降りてくる」らしい。私は妻がウィンドウショッピングばかりして「何も買わない」と時間を浪費したと怒っていたのだが、どうもその情報インプットが別の機会に「これしかない一押し」を降臨させるらしい。結論のよく分からない、とりとめのない話を延々と続けても整然とDBにインプットされ、いつか鮮明に蘇るそうだし、一直線にシャンプーを買いに行けばいいのに、どうでもよいようなスリッパとかを眺めているのも意味があるというのだ。

本の言葉を借りると片方は高い空間能力を有し、獲物までの距離を正確に測って狩りをし、複雑な図面を読むし、ビルも建てるし飛行機も飛ばす。目の前のことに気付かず、大切なひとの機微にとんと疎いが究極の事態に強く、死ぬまで頑張れる脳。もう片方は目の前をなめるように見て、他社の体調の変化や食べ物の腐り具合を見逃さず、おしゃべりによって潜在情報を収集し、それを何十年たってもとっさに使える臨機応変脳。つまり見出しにある「人類に必要な感性を真っ二つに分けて搭載・・・」に行きつくわけである。

ここまでだと単なる本書の紹介・感想に過ぎないがここからは本に書いていない私なりの考察である。自分の経験からすると「男性脳は一定の年齢を過ぎると女性脳に接近する」入社したて、結婚したて、子供生まれたての時を思い返すと間違いなくバリバリの男性脳だった。経験値を上げるということかもしれないが、少なくとも「察する能力」は確実に上昇する(挙動に反映するとは限らないのがミソ)。今更合コンというわけでもないが、何となく男女が一定数いなくては落ち着かなかったのが、例え私一人で女性に囲まれておしゃべりの洪水にいても別に苦ではなくなったのは前回の図書交換会が示している。ショッピングも今までは一直線だったが、最近はぐずぐずと思い留まることが増えてきた。しかも全然その気がなかったのに突然閃いて「服を買う」なんてことも発生する。

私は人間の挙動や性質などの本質を「生物である由縁」として説明することにすごく共感する。男女脳の差異の話も人類の生存上最も効率のよい多様化と言われると疑う余地を見出さない。種の保存という観点からは「真っ二つに割ってそれぞれ・・・・」というのは分かるが、この理路を進めて行くと「似たもの夫婦」というのはほぼ存在しないか、しても長く続かないという恐ろしい結論になってしまう。若い(つまり子育て期間くらい)は確かにそのようだが、実は多様性が生存上重要な期間を過ぎてからの時間の方が圧倒的に長い。「異性を意識して」なんてギラギラした感性もなくはないが、「まあまあ、それはそれとして趣味の話でもしますか」という「茶飲み友達化」も悪くはないような気がする。男女脳とも連想記憶力という知性にあたる力がピークに達するのが50代半ばだそうだ。入力よりも出力という意味で「人生で最も頭がいい」時期と著者はいう。普通に言えば仕事に活かせばいいのに、どうもそんな時に差し掛かった時に限って「とりとめもない茶飲み話」を延々としてしまうのが人生、「また楽しからずや」なのであろう。

凄まじき虫の世界

2015-05-02 08:04:24 | 書籍
昆虫界最強最悪、かの「みなしごハッチ」のお母さん女王バチを監禁し、「カマ吉おじさん」を死に至らしめた残忍で冷酷な軍団、スズメバチの物語である。(ちなみに最終回はお母さんに再会するシーンよりも、カマ吉おじさんが死んでしまうシーンの方に涙が止まらなかった・・・)正しくは「オオスズメバチ」学名は「ヴェスパ・マンダリニア」という。満州人の国である中国清朝の官僚の制服が黄色っぽいオレンジ色だったことから名付けられたそうだ。八ヶ岳にある市の体験施設の見学ルームには巨大な巣が展示されていたし、息子が幼い時に実際に周辺で遊んでいて、何度かその恐い顔と不気味に光る尻を見て恐怖を感じたものだ。子供の頃、ハチに刺されて赤くなった(「○●」をかけろとよく言われたが)のは大抵ミツバチでスズメバチに本気で刺されると無事では済まない。多くはないが、死亡に至ることもあるという。ちなみに偶然にもかの小夏師匠はなんとこのハチ(と思われる)に頭に止まられるという、恐るべき経験をなさっている。平然と去るのを待ったという師匠の大物ぶりが伺えるエピソードである。
さてこの物語は期間にしてわずか30日の命しかない、オオスズメバチの帝国に生きる「ワーカー」と呼ばれるメスバチの一生を描いたものだ。著者は「永遠のゼロ」を書いた作家である。

主人公は「マリア」という帝国でも優秀なハンターだ。巣の中央には「偉大なる母」と呼ばれその名は「アストリッド」という。巣の中の育房室にひたすら卵を産み続け、生まれ出る幼虫はすべてメスである。マリアと同じワーカーは自身は幼虫の唾液や樹液をエネルギー源として幼虫が羽化する「ためだけのために」交尾も産卵もすることなく、献身的に世話をする。新しい育房室を建設するもの、巣の掃除や補修をするもの、マリアのように獲物を狩って巣に幼虫にもたらすもの、にきちんと役割分担されている。ハンターは他の昆虫やクモなどを噛殺し、丸めて肉団子にして巣まで運搬する。肉食なのは幼虫だけでハンター自身は獲物を捕食できないから、完全な戦闘マシーンである。「見逃してくれないだろうか」と嘆願するアオドウガネの背中に容赦なく牙を立て、大量殺戮したミツバチの巣では女王バチに「この悪辣な略奪者たち!」と叫ばれ、オンブバッタには「この残酷な虐殺者!」と罵られ・・・いやー、えらい言われようだ。。。彼女たちは感情に流されることなく、無表情に(当たり前か!)肉団子を作り続ける。

ある日マリアは初めて「オス」のスズメバチと出会う。幼い妹達と「偉大なる母」のために帝国の戦士として狩りを続ける彼女がふと、種に定められた宿命というものを考え始める。先に書いた通り彼女たちの寿命はわずか30日、そして数日早く羽化した「姉」がなぜかその宿命を承知していてマリアに告げる。ちょっと無理がある展開に上塗りするようだが、それは「ゲノム」の意思というものの興味ある説明だった。スズメバチには性染色体がなく、ゲノム(遺伝子)の数で雌雄が決まる。一般的な受精で生まれる個体はむろんゲノムがオスの分とメスの分で2種類あり、これは全てメスになる。ここ女王バチも同様でゲノムを二つ持ち、これをAとBとする。オスはゲノムを一つしか持っておらず、これをCとする。この2匹が交配すると生まれてくるのはAとC又はBとCを持つメスとなる。これがマリアを含め帝国にいる全てのワーカーである。帝国内にオスは一匹もおらず、自分も含め「偉大なる母」から生まれるのは全てメスである。では一体父親はどうなってしまったのか?マリアの一抹の疑問はそこから自身の宿命へと発展する。

ここで「ゲノムは子孫がより多く共有することを望む」という不思議な法則に則り、驚くべきスズメバチの生存戦略が明らかになる。先に出てきたAとCのゲノムを持つワーカー�は仮にDというゲノムを持つオスと交配して「娘」を生むとすれば彼女らはAとD又はCとDということになり母である�から見ると父親分が半分入るからゲノムを50%共有していることになる。しかし女王バチがCと交配した結果の受精卵を延々と生み続ければ、つまり「妹」を生み続ければ、彼女らは常にAとB又はAとCのゲノムを保有することになり、ワーカー�から見るとAとB保有なら100%、AとCでも50%、平均すると75%のゲノムを共有することになる。つまり雄雌交配で世代交代せずにメスが妹を生み続け、それを成長させた方が、ゲノムの共有率を高くすることができるというわけだ。マリアはメスであり交配も産卵もできる器官があるが、女王フェロモンによりこれが発動するのを抑制されていると聞いた。

しかしマリアがたまたま出会ったオスのスズメバチは名前をヴェーヴァルトといい、彼の帝国は女王バチが病気で死んでしまい、女王フェロモンの抑制がなくなったためにあるワーカーが擬女王バチとして産卵したのである。その名をルーネという。しかし交尾していなかったから、生まれたのはオスだったのだ。
「ぼくたちオスバチはワーカーではないから、巣作りもできないし、狩りをする本能もない。だから何頭生まれても帝国を維持することはできない。今、生きているぼくの姉たち・・・ワーカーが全員死ねば帝国は滅びる」
「あなたは・・・オスバチは何のために生まれてきたの?」
「新しい女王バチと交尾するためだよ。ぼくたちの務めはそれだけなんだ。」
「それであなたは新しい女王バチが誕生するのを待ってるのね」
「ぼくはその時まで生きていない・・・ぼくは早くに生まれすぎたんだ」ヴェーヴァルトは寂しそうに笑う。悲しい物語である。
「ぼくは羽化してもう2週間になる。こうして雑木林から雑木林を旅して樹液を飲んで生きている。でももうあとわずかしか生きられない。新しい女王バチが誕生する前に死ぬ」
「君が女王バチならよかった」ヴェーヴァルトはそう言うと、マリアに近づいて二本の触角をマリアの顔に触れさせた。「あなたの触角はすごく長いわ」マリアがいう。
「オスバチの触角は女王バチの匂いを探し求めるために長くなっているんだ。ぼくには役に立たないものだと思っていたけど・・・マリア、君に触れることができてよかった」
マリアはゲノムの仕組みとヴェーヴァルトの悲しい将来を思う。自分は立派なメスで卵管や卵巣があって、交尾も産卵もできるが、おそらく本能がそう命じない。しかし彼女は誇り高き戦士であり、姉たちはそんな自分をゲノムの命令で機械的に育ててくれたのではなく、そこには深い愛情と優しさがあった。マリアとヴェーヴァルトの出会いはものすごく切ないが、「ゲノムの共有」というところは自然界に人間の知恵を超えた崇高さがあるようにも感じた。

次に女王アストリッド(何か登場する人物は独特なネーミングだ)が自身の歴史をマリアに語って聞かせる。女王バチ(候補)はある一定の時期になるとワーカーと同じように生まれるが、特別な部屋でワーカー達の特別な待遇によって女王バチ候補たる体格をなす。ある日羽化して巣を飛び立つとフェロモンに引き寄せられた他の帝国からのオスバチが待ち構えていて、交尾のために襲い掛かってくる。しかし帝国のすぐ近くなので巣を守るワーカーたちはオスたちに本能的に襲い掛かるのである。オスには最大の武器である針(本来は産卵管だそうだ)がないので、圧倒的に不利で次々と撃退され、自然に弱いものは淘汰されていく。

この淘汰は凄まじく、ついに若きアストリッドに辿り着いたオスバチは瀕死の重傷だ。二本の触角はが切断され、腹には針を受けた傷が3か所、胸にも牙でつけられた傷があった。フリートムントと名乗ったオスバチは最後の力で交尾した後、生き延びてたくさんの娘を生むよう頼んで息絶える。これがマリアの父親である。そして一冬を眠って過ごし、自らで小さな巣を作り、フリートムントから受け取った精子を受精嚢で卵子と結合させ、娘を生み始める。こうして少しずつ拡大していったのが今の帝国である。ある一定時期になると、新女王バチ用の大型育房室が作られ、女王バチ用に高タンパクのエサがふんだんに与えられる。そして次にアストリッドはオスのハチを生み始める。ヴェーヴァルトはこうして生まれてくるはずだったのだが、母となるはずの女王バチが死んでしまい早過ぎる生を受けてしまったのである。このオスバチはむろん、他の帝国に飛んで交尾するためにいるのだが、ここでも凄まじき「ゲノムの意思」が現れる。

分かりにくい話だが、元々A、Bというゲノムを持つ女王バチがオスを生み始めると当然弟たちのゲノムはAかBしか引き継がない。つまりA、Cというゲノムを持つワーカー�から見ればAなら半分、Bなら共有なしということになり平均共有率は25%になってしまう。しかしA、Cのゲノムをもつワーカー�ともう一方いるはずのB、Cのゲノムを持つワーカー�がそれぞれオスを生めば、ワーカー�から見ればA、Cを持つオスは50%ずつ、B、Cをもつワーカー�から生まれたオスは0%、50%のゲノムを共有し、平均共有率は37.5%となる。つまり女王バチがオスバチを生み始めたら、ワーカーがそれぞれオスを生んだ方が、トータルのゲノム共有率を高められることになる。ワーカー達が産卵するにはその機能を抑制している女王フェロモンの元を断ち切らなければならない。そして彼女らは迷うことなく、それを実行するのである。女王アストリッドは最後に語る。
「あなたたちは私と、そして勇敢だったフリートムントの娘です。私はあなたたちを生み、育てました。そして未来のために帝国を築きました。フリートムントとの約束を果たしたのです」
「私は宿命に従って自分の務めを果たしました。まもなく私はフリートムントに会うことになるでしょう。」「さあ、あなたたちの務めを果たしなさい!」ワーカーたちは躊躇なく「偉大なる母」に襲い掛かる!
虫の世界とは何と凄まじいものかと思う。

やがて若い妹たちのう何頭かが女王フェロモンを出し始め、擬女王となっていく。彼女らはオスしか生まないが、その半分は勇敢なフリートムントのゲノムを引き継いでいることになる。女王フェロモンは他のメスバチの産卵機能を抑制してしまうから、マリアたちは息子を生むことはなくなる。しかしオスバチたちは妹達同じワーカーの息子たちだ。半分は自分と同じ勇敢なフリートムントのゲノムを持つことになるのだ。マリアは自分が産まなくても彼女たちが産む子は自分の子と思う。これ生涯の最後に与えられた贈り物だと思うところが切なく悲しい。
マリアは帝国を代表する戦士となり、新女王バチのために軍団を率いて死闘を繰り広げる。新女王を育てるための高タンパクなエサを求めて、キイロスズメバチの巣を丸ごと遅い、多くの戦力を失った。歴戦の勇士や姉たちは全て死に絶え、マリア自体の命も長くないことを悟る。

新しいワーカーたる妹が生まれてこないので、帝国は衰退していくが、一方まずオスバチだちが「姉さんたち、それでは行ってきます」と巣立っていく。別の帝国で新女王バチと交尾するためである。彼らを守るものはなく、厳しい前途が待っているが、その運命と戦う機会すら与えられなかったヴェーヴァルトの悲しさを見れば希望があったろう。そしていよいよ新女王バチが巣立つ時がきた。マリアは自分よりもはるかに威風堂々とした妹たちに「あなたたちには偉大なる母アストリッドと偉大なる父フリートムントの血が流れている。」と巣立ちを促す。一番最後に巣を飛び立った新女王バチは翅が歪んでいた。マリアは巣に向かってくる他の帝国からのオスバチを片っ端から撃退していく。彼女のなすべきことは妹達と強いオスバチを結ばせることである。これがアストリッドの戦士としての最後の仕事であり、生涯最後の戦いとなる。

マリアは多くのオスバチを撃退した後に、先の翅のねじれた新女王バチに向かう一頭のオスバチと戦う。オスバチはマリアの針で何度も胸と腹を貫かれても怯まない。その勇敢なオスバチは「フローヴァルト」と名乗り、母の名を問うと何と「ルーネ」!
瀕死のフローヴァルトはその傷からして間もなく死ぬことは分かったが、最後の力でマリアを退け、彼女はついに生まれて初めて戦いに負けたことを悟る。彼は翅の歪んだクリームヒルトと激しく交尾し死んでいく。。。
「さよならマリア姉さん」「妹よ!戦って生き抜くのよ!」
エピローグでは立派な女王バチとなったクリームヒルトが自身が巣を旅立つ時に「戦って生き抜け!」と叫んだ姉のことを帝国の戦士に語って聞かせる。

アニメ界のストーリーで言えば、主人公が手も足も出ないほど圧倒的な力を誇るボスキャラ最終兵器のようなオオスズメバチである。「みなしごハッチ」の最終回ではこれまで物語に登場した全てのキャラが勢揃いして皆で力を合わせ、多くの犠牲を払いながら極悪非道なスズメバチ帝国を滅ぼしてしまうが、現実には小型昆虫など何千匹集まっても彼らにとっては敵ではないほどの戦闘能力を持った集団だ。小さき者が知恵と工夫と努力で強き者を倒すような「勧善懲悪」ではなく、元々「右に出る者がいない」連中、一般的にはあまり愛されない連中の凄まじくも美しいこの物語を私はすごく気に入ったのである。ちなみに彼らをこの上なく獰猛だが、意味もなく人や動物を襲うことはなく、「巣を守る」ために攻撃するそうである。「巣」には近づかないこと(特に新女王候補の産卵期)、万が一頭に乗っかられてしまったら、払ったり潰そうとせずに念仏でも唱えながら「じっと去るのを待つ」のが正しい対処のようだが、私に小夏師匠のような度胸があるようにはとても思えない。。。

変身(メタモルフォーゼ)

2014-05-29 22:56:36 | 書籍
息子甘辛がまだ3歳そこそこの時にスーパーの魚売り場で舌足らずに「かあちゃん、へんしんだよ、へんしん。。。」と指差して嬉しそうに叫んだそうだ。「刺身」という文字に反応したらしい。漢字自体が分かるはずもないが、テレ番や絵本を眺めて「変身」という文字の読み方と意味を「画像」として理解していたらしい。これまで十数年、最近ウルトラ戦士はテレビ番組的には一息ついているところもあり、高校生になっても最新の仮面ライダー鎧武まで平成ライダーを毎週欠かさずにチェックしている。「変身」と言えば仮面ライダーである。ウルトラヒーローも一応は「変身能力」としているが、元々の宇宙人が地球人の「仮の姿」から元に戻るだけなので、自分になかった能力を身につける、という前向きな意味があまりない。私は「力と技の風車が回る」仮面ライダーV3の変身ポーズが最も美しいと思う。。。ってついつい変身談義に熱くなってしまったが、今回は別の話。

以前も記事にしたありがたい「本のつながり」でひょんなことからとあるお嬢様から師匠を通じて、一冊の本を奨めてもらった。東野圭吾さんの「変身」という著書である。ヒーローの変身ではなく、書物の「変身」と言ったら「カフカ」の有名な著書しか思いつかなかった。確か「ある朝起きたら何故か自分が大きな虫に変身していて・・・」一家を支えていて重圧が重なったあげく「虫」に変身したことで、皮肉にも一家は勤勉さを取り戻し、最後は自分は害悪をもたらすものとして見捨てられ、結果家族は解放感を得る・・・確かそんないかにもやり切れない顛末だったと思うが、この本には色々な解釈、感想を持つ人が多数いたのがすごいところだと思う。読んだ者ほぼ全てが同じような感想をもち、同様に感動する分かり易い著書も嫌いではないが、「何が言いたいのか諸説別れる」作品に古来から名作と言われるものが多い。

さて一方、東野圭吾さんの「変身」は、ずばり前回も話題にした「脳」の話である。脳と心、人格などを巧みに結びつけた正直言ってすごい話だ。お嬢様は確か息子甘辛よりもいくつか年下のようだから、多感な年齢であの書物をガッツリ読めるというのは強靭な好奇心と感受性をお持ちだと思われる。何せ後半には「こりゃー、ちょっと子供に読ませるのは・・・」という猟奇的なシーンも出てくるのである。映画にもなったらしいが、ストーリーは少し違うらしい。東野圭吾さんの著書というのはシーンを想像しやすいのかどんどん読み進められてしまう。何となく展開が読めそうな、それでいて微妙に意表を突かれたり・・・最後にハッピーエンドの期待に一矢報いるような救われるところがあるが、必ず少し何らかの禍根を残すような巧みなモノが多いと思う。

主人公は大人しく優しい画家志望の青年なのだが、ある日事件に巻き込まれ不幸にも銃で頭を打たれて脳に損傷を受けてしまう。世界初の「脳移植」という出術によって彼の命は助かり、順調に回復して退院までに至る。世界初の手術は人体実験のような「研究対象」でもあったが、そのままでは被害者の死亡が間違いないこと、手術の成功や被害者のプライバシーや入院費用などには絶大な黒幕がサポートする背景などがあり、世間の注目を浴びながらも極秘のうちに実現した。退院してからしばらくして、主人公の青年に少しずつ人格の変化が現れるのである。平凡で優しい人格が過激で直情的、ともすると凶暴とも思える性格が出現してくる。彼は嗜好や感性、五感の変化などに戸惑い、やがて移植した脳の影響ではないかという考えに行きつき、ドナーの関係者と接触しようとする。しかし、それは内密に教えられていたドナーとは直感的に異なると感じ、逆に全身が硬直するほどの反応に確信した本当のドナーとは意外な人物だった。

   

やがて、主人公の人格はどんどん乗っ取られつつあることを自覚し恋人とも別れるが、研究の進捗を何よりも優先する医療スタッフはそれを認めようとしない。気が付いたら殺意を持ってナイフを持ち出していたとか、諍いのあった相手を本気で焼き殺そうとしたり・・・自分ではない他人に「心」を支配されつつあるのを自覚する主人公の懊悩がまざまざと伝わってくる。後半などは半ばストーリー展開が予想できてどんどんスピードアップしていくが、再び読み返す気にはなれないようなシーンにも行きつく。恐ろしくおぞましく切ない話だが、恋人が「パンドラの箱」に最後に残った「希望」のような役割を果たし、少しだけ救われた気持ちになった。「・・・生きているというのは、単に呼吸をしているとか、心臓が動いているとかってことじゃない。脳波が出ているってことでもない。それは足跡を残すってことなんだ。後ろにある足跡を見て、たしかに自分がつけたものだとわかるのが、生きているということなんだ・・・」この図書で最も印象が強かったところだ。主人公の叫びがこの物語の多くを語っていると思われた。

しかし私は医学知識があるわけではないが、「これは遠い先の物語かフィクションである」という考えに達した。例えば脳に「人格を支配する部分」があるとする。「変身」ではこの部分を主人公が不幸にも損傷し、移植された部分がキモとなるが、脳も細胞・分子レベルでは代謝しているとすれば、組織そのものではなく神経細胞が形どる生体信号の伝達パターンとか伝達回路の構造が人の感情や人格を司ると仮定できる。だとすると決定的なのはドナーの脳は「これまでのように回路を増やすことはない」と導かれる。なんせ死んじゃってるんだから。。。。一方、主人公は脳を移植されて、その影響が出ていることはちゃんと自覚して(恐怖もして)いる。人格が特定の脳の神経回路とその信号伝達パターンに依存しているとすれば、自分の周囲にいる恋人や家族、同僚などにこれまで同様のつながりを重ねていくオリジナルの脳の主が死んだ後「時が止まっている」脳破片などに支配されるはずがない。元あった脳が「外来部」に影響を受けながらも、次第に飲み込まれると考えるのが自然だろう・・・(あんまり読書感想文になってないですねー)

私はこれを読んだ時、ふとブラックジャックの「絵が死んでいる」という物語を思い出した。南海の楽園のような島で自然に囲まれゴギャンは絵を描いていたが、ある国の核爆発実験により島は壮絶に死に絶えた。彼は放射線生涯、ケロイド、腫瘍などどこから手掛けてよいか分からないほど症状だったが、「どうしてもあの地獄を絵に残したい」という願いに、ブラックジャックはできた絵を手術代にあてるという約束で手術に踏み切った。それは直前に心臓麻痺で死亡した肉体にそのまま脳を移植する方法だったのだ。肉体は脳(精神)に支配され、新たなゴーギャンとなって絵を描き続けほとんど完成しブラックジャックは満足する。しかしゴーギャンは放射能症に苦しみながらでなければあの惨状は描けない、つまり「絵が死んでいる」と言って筆を投げてしまう。ブラックジャックは約束通り絵をもらっていくが、売らずにとっておいたところ、いよいよ放射線により脳を冒され始めた彼がやってきて、最後に絵は完成する。ブラックジャックが最後に「いや、手遅れではなかった・・・」満足そうな死に顔を見てつぶやく。

この物語の最後にゴーギャンの言った言葉が「変身」と強力に結びついたのだ。「先生、今度はボクの脳を取り換えるというんじゃないでしょうね。この脳はボクのもんですよ。死ぬまでボクが使いますからね」つまりは肉体は脳に支配され、脳が宿る器が「自分」という人格である。「変身」ではそれが中途半端だったため、他人の人格に乗っ取られそうになるという現象を招いたが、もしブラックジャック方式だとしたら、青年は全くドナーそのものになってしまったろう。脳の病気になったり手術を受けたりすると「性格が変わってしまう」ということは現実にあるそうだ。他人の移植脳が作用して人格が変わってしまうのはいかにも恐いことだが、そういうイレギュラーなことなしに自分に別の人格が現れたら、その方向によっては歓迎すべき時だってあると思われる。行動パターンが一つしかないより、多様性があった方が何事も有利のような気がするから(分裂は困るが)。

先の「脳を鍛える」編でも書いたように、脳であっても分子・細胞レベルでは新陳代謝があるのであれば、組織そのものもある必要はなく、神経回路のパターンや信号の進み具合が解明されればそれだけコピーすれば脳そのものもなくても「人格」を作れることになる。生命は無理でも思考パターンくらいはいずれ作れそうな気がするから、改めて二つともすごい話だなーと感じる。しかしウルトラコンピューターがある人格を形成できたとしても、元の脳を超えることはないというのは日常で体験している。私などしょっちゅうだ。同じようなシチュエーションでも時によって「何となく」判断や表す感情を変えてしまう「気紛れ」が人間にはあるからだ。神経回路のパターンが思考を表すとしたら、その組み合わせはほぼ無限にあるはずだ。性格や行動パターンはただその傾向が高いというだけだ。実はそういう話は実に50年も前にルパン3世の「先手必勝コンピューター作戦」に登場するのである。ルパンの言葉「人間のきまぐれってヤツさ・・・」さすがの万能コンピューターも無限の気紛れは予想できないだろう。

脳や人間の身体というのは不思議なものだ。生命の尊厳や魂の存在などと言う話は得意ではないが、これからも未知の分野はなくならないとしても、次々と色々なことが解明されてくると思う。息子甘辛に「ブラックジャックで一番の名作は何だと思う?」と問うと、迷わずに「本間血腫!」と答える。ブラックジャックの尊敬する恩師本間丈太郎が発見した謎の疾患で、本間は治る確信のないのに行った手術を咎められ引退に追い込まれる。本間の「原因が分かるまで手術は厳禁」というメッセージをあえて破りブラックジャックは人工心臓を使用して手術にい挑む。しかし「医学の限界を知る」と予言された通り、疾患の原因は精巧に作られた人工心臓の故障によるものだったのだ。本間医師お死に際の言葉「人間が生きものの生き死にを自由にしようなんて、おこがましいとは…お、思わんかね……」
いずれ現実のものになるかもしれないが、「変身」はこれに真っ向から挑戦した話だと思えた。

ディケイドな「本の友」

2014-02-19 07:32:35 | 書籍
いつもひょんなことがきっかけなのだが、自分が読んだ図書で面白いものをリコメンドしたり、逆に面白かった図書を紹介してもらったりしながら、その本について少しだけ語らうような「本の友」(と自分では勝手に思っている)と言える人が数人いる。元々知性的に信頼できる人ばかりで、響きあうツボも同じような気がするから、「読んだよ」と言われると疑いなく自分もその本を手に取ってしまうのだ。同年代がやはり多いが、10年若い人、20年若い人が少しだけいて、30年若いのが息子甘辛である。しかも甘辛以外は全て女性、というのが不思議だ。この年になるとだからどうと言うことはないのだが、読書に関しては圧倒的に女性の方が相性がよい。なにかのきっかけでとある本を読み、色々なチャネルでそれを紹介するとそれを見て読んでくれる人がいて・・・その人が最近読んだ本で面白い、と言ったものを手にしてその感想を例えば「超兵器」に掲載する。そうこしていいるうちに私が勝手につなげている以外は何の関係もない人たちが「本」をキーに連鎖する時がある。読書を趣味とする者にはこの上なく親しみを感じる時だ。いつか、この人たちと集えたらどんなに楽しいかと思う。

例えば読んだ本の紹介や感想をたまーに直接メールなどしてくれる年来の知人がいる。この人も歴史や社会、人間模様から恋愛モノと読書の幅は桐生の「ひもかわうどん」のように広い。いつか紹介された本について思うままに感想を書くと、少しは期待に応えられたようだった。その彼女にKICKPOP師匠のサイトで拝見し、早速読んでみた「舟を編む」を紹介してみたら、いたく気に入った様子で「語る会」を開こうかなどと話したこともある。そして今度は彼女が教えてくれたのが先日、このサイトで紹介した「流星ワゴン」である。嬉しいことにKICK師匠も反応してくださったが、他にも記事を読んで誰かが読んでくれたら嬉しいと思う。

  

小夏師匠推薦の「Anne of Green Gables」は約10年下の敏腕マネージャー「ベッティ」が読んだはずだ。また別の機会に「イニシエーション・ラブ」という図書を紹介されたことがあった。この本は前回の「人生やり直し・・・」のように小説として内容をかいつまんで紹介しにくいものだった。男子的には歓迎な描写もある恋愛?モノで全体的には「下らない」内容なのだが、読み終わった時にある戦慄が走り、もう一度読み返さずにはいられない。ちなみに私は2回目は紙と鉛筆片手に何度もページを行ったり来たりした結果、落丁まで発生させついに「ヘウレーカ!」となった。なるほど、世の中には不思議な本もあるものだ・・・

  

私はこの本を「ぜひ感想を聞いてみたい」と思う何人かの「本の友」に伝えた。その一人は同門の元同僚だが、わざわざ本そのものを貸してくれた「夜のピクニック」は息子甘辛も気に入ったようで、DVDも家族で見た。また以前に「読書会」のネタになるような本として田辺聖子さんの三部作「言い寄る」「私的生活」「苺をつぶしながら」を紹介してくれた。3つとも読んでみたが、どれも時代を超えた女性の人生観などがいきいきと感じられる味わい深い本だったが、これらを題材に女性メンバしかいない「読書会」に参加した場合、絶対絶命の危機に瀕するような気がして口には出さなかった。今は波多野聖さんの「銭の戦争」という著書を読んでいるそうで、かなりの続き物のようだが私の次の読み物を予定している。

  

イニシエーション・ラブをリコメンドしたもう一人が以前このサイトにも登場したAKB(はたぶん卒業した)改め「あまちゃん」である。初めて会った時は新入社員も同然で「若くハツラツ」オロナミンC的にしか見えていなかったのだが、今東京で立派に中核戦力として活躍している。彼女も「阪急電車」という実本を貸してくれ、フレッシュな気持ちで読んだ。著者はどうも自衛隊フリークなところも私の共感を呼び、その後自衛隊員を主役とする面白い著書をいくつも読んだ。久々かつ突然にメールを送りつけてしまったが、早速読んでみると返してきた彼女が教えてくれたのが「風が強く吹いている」だ。これは先の「舟を編む」と同じ作者の著書だが、このサイトでも何度か話題にした我が家の近くを走る「箱根駅伝」を目指す若者の物語だ。早速読んでみたが、あまりに夢中になって読みながら東海道線を2回も乗り過ごしてしまった。実は陸上競技部錬成所だったボロアパートに住む個性溢れる十人の住人(シャレじゃないよ)が、陸上をやるものは多く特別な思い入れを持つ「箱根駅伝」を目指そうと決意する。ベタベタのフレッシュ青春物にも思えるが、胸の内にぐあーっとせり出したマグマ溜りを爽やかな風が冷やしていくような書物だ。

人数ギリギリの素人衆しかいない弱小クラブがその熱意と血のにじむ努力によってガリバーのような強豪を凌駕していく物語は古くは「キャプテン」「スクールウォーズ」そして最近では「ルーキーズ」と枚挙にいとまがないが、スポーツとしての技能や精神とは一段異なった、最もシンプルで簡単な「走る」ということがどういうことかを取り上げたところが新鮮だ。ボロアパート「竹青荘」にはコミック命の「王子」、理工学部留学生の「ムサ」、元サッカー部の明るい双子「ジョータ」と「ジョージ」、田舎でだけ呼ばれていたという「神童」、卒業前に司法試験合格済の「ユキ」、大学5+2年生のヘビースモーカー「ニコちゃん」、TVの前のクイズ王「キング」だった。それぞれ長距陸上などには全く縁のない生活をしていたが、高校陸上で問題を起こしたが才能抜群の「走(かける)」と出会った影の管理人「ハイジ」が箱根駅伝を目指すことを宣言する。彼は烏合の衆にも見える住人に見出した箱根向きの才能をひた隠し、メンバの頭数が揃うのをひたすら待ちわびていたのだ。

    

なーんかいいよなあ、こういうの忘れちゃいけないよなー。というように読み進められる。私も最近「湘南藤沢市民マラソン」で16キロを走り切り、練習は退屈しながらも、大会の高揚感、沿道の応援との一体感、そして身体との対話などを通し、「走る」って結構楽しいものだし、これから迎える年代向けじゃないか?と思い始めていた時だったから、それこそ夢中になって読み進んだ。予選会をギリギリ通過し、晴れて箱根に向かう本戦に出場する。(ここまではネタバレしてもいいよな)メンバは各区間を走る時、それぞれ仲間への思いや1年間の努力などを振り返り後はひたすら襷をつなぎに走り続ける。単なる悲壮感漂うスポ根ものではないところがいい。小学生なみの感想だが、ちなみに私が一番好きなのはムサ、東海道線を乗り過ごしたのは「双子の弟を想いながらジョータが走る3区」である。

1区:王子
「力石だ、力石ですよニコチャン先輩は!」
2区:ムサ
「神童さんは入学当時から交際している女性がいます。」「私はだめですねえ。なかなか故郷まで来てくれるというかたはいません」
3区:ジョータ
「3区って海沿いを走る道でしょ。景色がいいよな」
4区:ジョージ
「小田原でカマボコ買っていい?」
5区:神童
「田舎の家では、マッサージチェアとルームランナーとぶら下がり健康器が、たいてい埃をかぶっているものなんだよ」
6区:ユキ
「ハイジ。おまえすぐにひとの脚に触る癖、やめたほうがいい」
7区:ニコチャン
「双子がな、葉菜ちゃんの気持ちに気づいたんだよ。それで、走り終わったジョータもふにゃふにゃ、走り始めたジョージもふにゃふにゃってわけだ」
8区:キング
「ムサ、おまえもこの春から聞かされ続けたはずだぜ。ハイジが『番町皿屋敷』みたいに『あと一人たりない、あと一人・・・』とつぶやいているのを。」
9区:走
「シューズのせいじゃないかと思うんですけど。それ、バッシュでしょ?」
10区:ハイジ
「長距離の選手にはいくらでも飲めるって体質の人が多いんだ。内臓の代謝がいいのかな。きみたちもザルを通り越してワクだろ?ずっと飲みっぷりを観察していて、これはいける、と思ったわけだ」

練習中にも本番にも絶妙な抜け具合が随所にあるところが肩の力が入り過ぎなくてよいが、肝心なところは帰マンのウルトラランスのようにグサリとついてくる。「オレは知りたいんだよ。走るってどういうことなのかを」
私は社会人になるまで一応サッカーをやっていたが、「走ること」が楽しいなど一度も思ったことがなかった。高校の駅伝コースマラソンはいつもサボっていたし、学生、社会人になっても「黙々と走る」意味は全く理解できなかった。生まれて半世紀近くたってようやく、人類のただ「走る」という機能に少し興味を覚えた。息子甘辛にもぜひ読ませたいと思った。この本は出世魚のブリのように読む年代によって変わっていくものではあるまいか?!時間はあり余り体力バリバリの学生時代、時間はないがまだまだイケる社会人初期、家庭をもって一旦スポーツとは離れる期間、そしてまた動き出すが身体との対話が必要となる年齢・・・この本を読んで、ついその気になり台場のグルメマラソンにエントリーしてしまったぞ。

骨太筋肉質の「ニコチャン」スタイルの私と異なり、甘辛はスラリとして脚が長く「走」体系だ。長距離走も速そうだが本人は「あり得ない」という。私もそうだったが、いつかもっと年を経て甘辛がこの本を読んだ時、今とは全く違った、私と同じような気持ちになったら実に面白い。(そうなるような気がする)
「あまちゃん」は私のリコメンドした「イニシエーション・ラブ」を読んでくれたようだ。その感想なるものをメールしてくれたが・・・イニシエーションとは「通過儀礼」つまりこれが最後の恋だと思っても、次なる成長はやってくるものだ。。。と最初ここまではボクも何となく理解したのだよ。ふ、ふ、ふふふ。。。ハイジ風に言えば「君は肝心なところにまだ気付いていないようだ」。ちゃんと解き明かして「ヘウレーカ!」とメールしてこいよ。
世代年代を越えて、リコメンドし合う「ディケイドな本の友」は得難い資産だと思う。

人生やり直しの旅で得たもの

2014-01-25 18:33:08 | 書籍
このサイトの読者はそうは多くないから、読んだことのある人はいないかもしれない。親しい知人から紹介されてとある著書を読んだ。「一番の趣味は何ですか?」と尋ねられたら、一秒で「読書です」と答える私だが(ホントです!)、その読書欲はほとんどが他人からレコメンドされることで発動する。こういう読み方をしていたらいつの間にかジャンルは問わなくなった。個人の好みでは歴史物に偏っていたのだが、青春物も恋愛物もノンフィクションや感動物、家族愛や動物、ファンタジーに息子の好むライトノベルなど多岐にわたる。ひとつ傾向があるとすれば、同じジャンルを続けては読まないようにしていることか・・・
さて今回は読書が好きという知人から「読んだ本」というのをいくつか聞いて手当たり次第に図書館で蔵書検索し、あったものを全部借りてきたうちの一冊だ。(読んだ人の知性が信頼できる時はこんな無茶な選び方もできるのである)

著者は直木賞作家で父子や家庭、いじめなど社会問題を扱う作品で注目を浴びたようだ。この本は一種ファンタジックな面も強く、不思議なワールドを展開している。全体としてちょっと重暗くやり切れない場面が多いが、「たぶん救われないだろうな」と見通せても、何とか少しでもハッピーな方向にいかないものかと、先を急いで読み進めてしまうような物語だった。ネタバレするのはいけないし、読書感想文でもないが大体のあらすじはこんな感じだ。

主人公は38歳の「N」、この物語には3組の父子が登場する。Nとその息子「ヒロ」、Nとその父「チュウさん」、そして5年前に交通事故で死んだ幽霊父子の「H」と「健太」である。
Nは子供の頃から傲慢で田舎のハードガイだった父が嫌い。またそのチュウさんは自分の稼業を継がなかったNに不満と嘲りをもっている。ヒロは中学受験に挑戦したが失敗、これがきっかけで不登校となり家庭内で暴力を振るうようになる。ちなみにHは苦労して自動車免許を取得し、初めての家族ドライブで事故を起こし自分と8歳の健太は即死。のっけからハードな設定である。

Nは東京で勤めていた会社をリストラされ、妻は夜な夜な浮気に走り息子は荒れ放題で絵に描いたような家庭崩壊状態だ。病状が悪化して死期が近づく父の見舞いも、「御車代」として渡される小遣いが目当てなほど再就職がうまくいっておらず、全てが壊れてバラバラになるのは時間の問題だった。人生に疲れ果てNは、「死んじゃってもいいかなあ・・・」と頭の中でつぶやき自宅の最寄り駅のロータリーに座り込むとどこから現れたかワゴンから降りた男の子に「早く乗ってよ」と声をかけられる。

車を運転する父親はH、後部座席に乗る子供は健太だった。この二人は5年前に交通事故で亡くなった親子のことを、新聞記事の片隅に見つけた記憶がNにはあった。彼らはNの彼の人生の分かれ目となった「あの日、あの時、あの場所」へと車を走らせて行く。最初は妻が見知らぬ男と歩いているのを見掛けるところ。そこで気のせいだと自分に言い聞かせて通り過ぎようとすると、不思議にも自分と同じ年の父親(チュウさん)に会う。その次は息子のヒロが中学受験を控えて模試を受けたが成績が思わしくなく落ち込み気味のところを無理やり励ますところ。次は勤務先の業績が傾きリストラされる数か月前にその引き金となった親会社の会長が葬式からの帰り道、さらに塾の始まる前に公園で誰にも気付かれずに内緒で購入したパチンコで気に入らない者の名を書き込んだペットボトルを打ち抜いていた息子ヒロの姿。。。

近い未来の悲惨な結果を知っているNは「大事な分岐点」で何とか関わり何とか結果を変えようとするがどうすることもできない。ところどころで同じ年の父「チュウさん」が現れ、何かとちょっかいを出して話しを複雑にしていく。それは「過去」へ行くのではなく、「夢の中」へ行くようなもので、自分は第三者のように外から眺めている時もあれば当時者として生々しい経験もするが、ある瞬間に別の「夢」にドライブし、自分と「チュウさん」以外は何一つ覚えていない。実に陰鬱な話しの展開だが、幽霊親子の切なくも明るい掛け合いに結構救われる。ネタばれさせずに見出し的に紹介するには複雑なストーリーだが、クライマックスは何となく期待した予想通りでしかもほわーっと泣ける。非情のような展開も最後に著者の優しさがどわーっと出る感じだ。

この物語の大きなポイントは言うまでもなく「父と息子」であろうが、もう一つ「あえて過去に関わって結果を受け容れる」というところだと思われる。最初のテーマについて、私は息子であり父でもあるし、家族構成はNと同じ3人家族、しかも息子は若干年齢が違えどちょっと前は受験生ということもあり、やはり重ねて考えることになる。
私の父は他界してしまったが、ごくごく普通のサラリーマンで、この物語の「チュウさん」との関係に比べると、近いような遠いような淡々としたものだったように思う。怖いところも面白いところもあり、思春期特有の反発はあるにはあったが大衝突があったわけでもなく、かといって気に入らない時は離れていたから身近ということもなかった。

高校の合格発表の日、生徒は自宅待機で担任らが手分けして確認に行く(そういうデリケートなところもあった)ことになっていたが、父は待ち切れずに会社を抜け出して見に行っていた。私は苦笑していたが「縁起よし」と考えて大学の合格発表も見に行ってもらった。(単に受験からひとまず開放されて悪友と遊びに行くためだったが)
祖父母の50周忌法事の席で普段会わない目上の親族から卒業後の私はどうするのか?と尋ねられ「更に進学することになった」と答えたときの彼は少し誇らしげだったような気がする。バブルだったから就職は楽だったが、決まったと伝えた時は何となく嬉しそうだったし、結婚して孫は生まれた時も嬉しそうだった。家を建築することになって模型を見せた時は入院していて、ついにこの家を訪れることがなかったのが残念なところだが、大きな山も谷もない、「淡きこと水の如き」関係だったように思いだす。

私と息子甘辛はそれに比べると、今のところかつての我々よりはかなり近しいであろう。中高生やそのちょい先くらいまでは一番親に反発し離れるものだと思うが、彼はど真ん中の年齢にいても何かぼーっとしている感じがする。何にでも手を出す回遊魚系の父親に比べ、ほぼサッカー一筋でゲームにアニメ、一部のライトノベルくらいにしか興味がない。高一ともなれば部活のオフの時は友達と遊びたいらしく、家族で出掛けることはめっきり少なくなった。しかし私とは「ウルトラ」という強力な共通項があり、要所要所では行動を共にするし、本やアニメの話もマニアックに語ることは多い。母親に言わせると女子の好みも似ていて「AKB48で一番かわいいのは『ぱるる』である」ということで意見は一致している。
父と子の深~い軋轢や決別、邂逅などと言った物語はこれからかもしれないが、今のところ付かず離れず手頃な距離にいるように思う。

読書感想文を書くならここだ、思うのは二つ目のポイント「過去に関わって結果を受け容れる」ほうだ。私の読書は歴史(物語)にものすごく偏っていた。本来は「歴史学」という自分では踏み込めていない分野だと思うが、「歴史」に「たら・ればはない」とよく言われる。「もしその時・・・だったら」というのは何となくタブーである。具体的証拠から史実(ホントは確認しようはないが)を組み立て、そこからある「法則」を導き出す学問のようだからだ。しかし後から考えればいかにも「あれが分かれ目だったよね」という点において、いくつもあったはずのオプションのうち何故これを選んだのか?他にどんな選択肢があったのか?何故他のあれは選ばなかったのか?別の選択肢をとったら何がどう変わったのか?と考えるのは結構重要なことだ。

この物語の主人公Nは幽霊の健太君が言うところの「サイテーでサイアク」の結果を回避すべく、幽霊父子が連れていく夢又は過去の別世界の大事な分岐点で様々な別オプションに選択して軌道修正しようとする。もちろんただの1コも結果を変えることはできないが、Nは様々なことを経験する。自分がその分岐点では知りえなかった、知ろうとしなかった人の思いや裏事情を知ることにもなる。これは「知らない方が良かった」と思うことも多く、時に彼は「残酷だ」と言い、さらに絶望を深めてしまう。「やっぱり死んでもいいかな」と考えると幽霊の健太君に「ゼータク」と言われてしまう。。。ところどころで陰鬱な気分に落ち込もうとするのを彼が飄々と救う。この物語の最重要人物は健太君だと思う。

さて、私はこれまで親と決定的に断絶したことはないし、我が家は幸い構成員が正常に動いている。かなりの運を使い果たし「結果オーライ」を得ているとも感じるが、今のところ「ここに戻ってやり直し」という点はない。今までの選択は全て正解だったなどとは思っていないが、他のオプションを選んでも所詮似たような結果に落ち着くと思われるし、自分の昔のどの時点でもそこそこいいが、今より決定的によい時だったかというとそれほどでもないのだ。回遊魚は泳いできた道のり(海道?)はあまり見ないものだ。

一つ言えるのはこの本を読んで「重要な分岐点がある」ということが頭にインプットされたことだ。これから注意深く周囲を眺め「もしかしてここ重要な別れ道じゃね?」と気を引き締めることが多くなるだろう。どうでもいい時の杞憂もあろうが「実はかなりやばい状態」の時に気が付けることもあろう。この本で得た一番の収穫は「この先、分岐点アンテナを高感度にすることによって危機的な状況を回避できる蓋然性がアップしたこと」だと思う。ようするに「足元に気をつける」ということか。

★この本、最後は素晴らしくいいです。泣けます。紹介してくれた人に感謝です。タイトル分かるかな~。。。

部活やめるってよ。

2013-09-28 09:06:58 | 書籍
変わったタイトルだなー、と思った。まるで「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」みたいな奇抜さが全面に出たようなノリだ。どこかのサイトで見たのが記憶に残っていたのだが、どこで見たのか思いだせなかった。ひょんなことから思いだし、知人のFBにあったのだった。世間のレビューを見ると評価が分散されているが、「ああ、こういうの高校時代あったあった〜、こういう気持ち分かる分かる〜」って感情移入してぐいぐい読めた、というので俄然興味が湧いてきた。
昔はそうではなかったが、私の読書は完全他力本願で「誰かが面白い」とコメントした著書は無批判で読むことにしている。共感を得ても、そうでなくてもそれについての「語り」が始まるからである。そして何となくだが、「多くの人が同様に共感・感動する著書」よりも、多数の人が「ああでもない、こうでもない」と喧々諤々議論する作品の方が『深い』感じがする。

ちなみに今回の図書は「桐嶋、部活やめるってよ」というものである。「部活」と言うくらいだから高1の息子に知ってるか聞いたら、タイトルは知っているがあらすじは知らぬという。とりあえず読み始めてみると、「とある高校生」の赤裸々な思いや生活がまるで短編集のように飛びこんできた。タイトルにあるバレー部のキャプテン「桐嶋」は少ししか出てこずに、その補欠だった者や彼の友人に憧れている女子、映画部の目立たないクラスメイトやバレー部のレギュラーの彼女、同じくバレー部のイケ面っぽいヤツ、映画部男の中学時代のヒロイン・・・、昔「笑点」のスポンサーだったサントリーの「ロイヤル」のCMの世界のようだった。淡々とぼーっと読んでいたら、何がなんだかさっぱり分からぬ話だったが、途中からようやく「ああ、カメラの角度と視線を変えてるんだな」というのが理解できた。

  

まず驚いたのが(人間ドックでも指摘さtれないが)、自分の読書における「シーン想像力」が格段に衰えていることである。すっかりコミックに慣れてしまっており、推理小説のように突然局面(と言うよりこの場合は「カメラの中心人物」)が変わってしまうと場面を想像することができなくなっている。私は火曜サスペンス劇場にあった小京都ミステリーで片平なぎさが事件の登場人物を紙に書き出すように「人間関係図」を作りだした。恋愛関係ならハートマーク、片思いなら→付き、敵対関係なら×、その他関係線には「クラスメイト」「部活仲間」「中学同窓生」などと書き出してみる。「●●事件捜査本部」のホワイトボードなら顔写真をピンで貼りたいところだ。読み進めるのはあっという間だが2回くらい読み返してようやく、誰と誰がどうなっているのか、そもそもこの本って何が言いたかったのか何となく感ずるところ得られる「手間のかかる書物」だった。「んっ?ちょっと待てよ・・・そうすると、亜矢と涼汰はお互いに知らないが両想いということか?」なんて調子になる。

あらすじだけ活字にする(しないけど)と実に「なんてことはない」物語である。桐嶋というバレー部のキャプテンが、その「熱さ」?からチームで浮いてしまい、ついには辞めてしまうのだが、そのこと自体が多数登場する男女生徒に直接影響するわけでもなく、単なるトリガーのようだ。おっさんが数十年前を懐かしみながら「きょうびの高校生は・・・?!」とハッとするようなものでもない。
あくまで個人的な感覚では「学校(生活)」というものは数十年単位で見ても、社会の変動に比べて根底は大きく様変わりしないものだ。だから「我々の時代は・・・」と昔を偲ぶよりは、直接比べることができる。特に「部活」なんてものは炎天下でも「水分禁止」だった以外、はほとんど変わっていないように思う。

菊池宏樹というのはこの著書で二つの単元にまたがって登場するから、たぶん主人公級なのだろう。スポーツは万能、高校ではたまたま野球部に入ってるだけで主力選手だが、練習はまじめに出ない。イケメンでクラスでも「上層部」におり、彼女は見目麗しい美少女。。。羨ましい限りのシチュエーションだが、彼にはクラスでも目立たない(女子に言わせると冴えない)映画部男子が自分の好きなことに打ち込んでいる姿を見て「光」に見える。このあたりがこの著書の「肝」なのか。面白かったのは「誰が自分より上で誰が下か教室に入った瞬間に分る」という感性だ。運動が得意でスポーツの場面では活躍し、見た目がよくクラスで目立つヤツが上で、そうでない者は(その他大勢のようだが)下だと言うのである。私の経験から言えばこの高校「進学校」ではないね。公立進学校の入学は普段からの「内申点」が幅を利かすから、中学時代にそれこそ「何でもデキた」ヤツが集まってしまう。丸めて見れば私もそのクチではあったが、下層で通過した集団だったから教室に入った時、クラスの連中は誰もが自分より「すごいヤツら」に見えたものだ。

この本の菊池宏樹クンという高校生はずいぶんと純朴だ。私は思い返すと「菊池」時代は小学校で終わってしまったからである。小学生時代(ガキの頃と言ってよい)は自分で言うのもなんだが、運動だけでなく虫捕りやアウトドアアトラクションなどおよそ子供社会で流行っている「遊び」に関しては私は「万能」だった。「ドブ川球場」というただの広っぱで草野球に明け暮れていた頃である。むろん野球もお得意技だったから当時隆盛を極めていたスポーツ少年団に入団した。関東エリアでも上位に行く競合チームでも最初は主力にいたが、何せ地区ごとではまさしくヒーローばかり集まるドリームチームだから、花形サード4番から外野、ライパチ(ライトで8番)そして6年Aチームではベンチ入りはするが補欠になってしまった。そこで「得意なヤツばかり集まった世界では勝てない」ということを悟ってしまうのである。チームメイトのレギュラー陣は中学校では皆「野球部」に進んだが、私や一部の補欠仲間はサッカーへ転向した。

中学の教室に「目立つヤツ」は確かにいたような気がする。運動部で活躍し見た目もよくて話が面白く女子に人気、という者がクラスの中心に何人かいた。私は彼らの人気にあやかるように同じようなグループに何となくいたが、乱暴で物をよく壊し職員室に呼ばれたので、別の意味で目立ってはいた。女子からは「野蛮人」を見るような視線を感じ、物珍しさ、怖い物見たさはあってもモテることはほとんどなかったが、運動系はまだ何でもできたので体育の成績はほぼ満点だった。「スポーツ万能でも決して女子にモテるとは限らない。どうも気配りや清潔さが大事なようだ」というのは私が息子甘辛に伝える経験値からの教訓である。この本のように高校というステージになると、先に書いたように何をやっても「上層」にいたヤツらばかりで特に女子などは全員自分よりも「勉強ができる」人に見えた。勉強だけでなく体育も「5」だった者が多いから、「運動部でなければ存在感が希薄」という風潮はあったが、球技に関しては割りとイケていたのでサッカーをはじめ「対組競技」という昼休みと放課後部活時間までに約1ヶ月にわたって行われる球技大会では活躍の場がたくさんあった。

中高と続けてきたサッカーだが「桐嶋」のように他を忘れて「打ち込んでいた」わけでもない。かと言って他のスポーツに新たに挑戦しようなどとは全く考えてもみず、ただ当たり前のように疑問も感じずに部活を続けていた。練習は例の「水分禁止令」の影響もあり、帰宅するとぐったり寝てしまうくらいキツいものだったし、部活動必須ではないからさっさと「帰宅部」に加入し、バイトに明け暮れてオートバイを買うクラスメイトもいた。今になってみるとディフェンスというポジション独特の淡白さというのだろうか?中高とも1年後半から新チームのレギュラーで試合に出るだけでもありがたいものだが、サッカーそのものを印象強く面白いとはあまり思わなかった。今でこそ長友選手のように果敢の攻撃の軸として参加するが、昔は分業が徹底していてディフェンスは相手チームで言う所の一番うまいヤツに絡みつきボールを奪って外に蹴りだしたり、たまに味方につなぐだけで、基本「楽しくはない」のである。

一番楽しみだったのは試合のため他校に行ったり、来たりした時に中学時代の知人と顔を合わせることだった。サッカーで元チームメイトと敵としてピッチに立つのはもちろんのこと、屋外で行う野球やテニス、体育館で見えるバスケなども同窓生を見ると男子でも女子でも「おーっ、アイツもがんばってんな」と声を掛けたくなったものだ。しかし実に不思議なことに中学は市大会で優勝するくらいのレベルであったのに、高校入学して1年たつと部活でサッカーを続けているのは何と大して燃えていない「私だけ」になってしまった。私はこの後卒業してから6年間も一応ガチにサッカーを続けることになるのである。

サッカーに対しては思い入れが少なく、中途半端だった私が何となく社会人になるまで続けてしまうのである。この本を書いた時、作者はほぼ登場人物と同じ世代だったと聞く。10代でこんな観察ができるのだから恐ろしく生々しく鋭い感性だが、実は教室というものには「何でもできるヒーロー格だが打ち込めるコトが無い人」と「見た目、目立たない存在が脇目もふらず何かに打ち込んでいる人」というのは希少で、大半の人は私のようにあまり考え込まず何となく続けているのではあるまいか?そしてスポーツに限らず何をやっても平均かそれを少し超えるくらいできるが、極めることができない「そこそこ症候群」は生まれて半世紀近くたっても引きずることになる。

その点、息子甘辛は見事なものである。聞くとクラスの中心人物ではないようだが、菊池宏樹のように何でもスポーツはできる(自称)が、受験だろうが具合が悪かろうが何の疑念もなくサッカー一筋で、今後もずーっと続けるつもりのようだ。この本に登場しないスタイルであり、興味を持たないわけだ。プロにでもなるなら別だが、そうでなければ「続ける」ということ自体はそれほどこだわる必要はない。「何かに打ち込んでいる」のが大事なのであって、同じことである必要はないと思うからだ。何事も「そこそこ」できちゃった人生中途半端な私の正直な読書感想である。この作品は映画にもなったと聞く。一体誰が演じたのか、私がこの本に対してもったイメージが目で見る映像になって立体化したもの見るのがこれまた面白い。「水分禁止令」「マネージャーって?」「キャプテンって?」「引退が決まった時にどんな気持ちだった?」元部活er(ブカチャー)と1回語らいたいものだ。

深く広い言葉の海

2013-02-02 14:07:57 | 書籍
「まじめさんのどこをいいと思われたんですか」「辞書に全力を注いでいるところです」・・・・著書の全てを物語っている部分だと思う。

  

半分は寝ているが、私は長い通勤時間に音楽を聴く習慣がない。電車や街中でイヤホンをして固く外界からの接触を拒み自分ひとり悦に入っているのが、どうもみっともなく見えてしまうのである。ゴジラが襲ってきても全く周囲の異変に気付かずに「いの一番」に踏み潰されてしまう、と思ってしまうのだ。というわけで主に通勤時、私が手放すと死活問題になるモノは本である。私がブラックホールのようにどの分野でも「吸い込み読み」するようになったのはここ10年くらいのことなのだが、直接私に、あるいは単に公表されているだけに関わらず他人が「いいね」と言っている著書を読むのが大好きだ。何故だか最近まで分からなかったが、この本を読んで何となく理解できた。

人がわざわざ他人に薦める本には「外れる」ことがまずもって無いのである。その人が親愛なる人だったらほぼ百発百中である。もちろん人によると思うが、本に限らず「人に何かを薦める」というのは意外に細部にわたって注意が必要なストレスのかかるものだ。自分で面白いと思ったモノを相手も同様に感じるとは当然限らないし、「これのどこが面白いんだろう?」と怪訝な顔をされるかもしれないし、悪くすると「あの人はこんなモノを好んでいるのか」と半ば蔑まれたり呆れられるリスクすらある。自分の低俗さを見透かされてしまう恐れもあるのに、あえて他人にリコメンドするというのは、よほど軽薄な者でなければ「自分の知性を総動員した結果、自信をもって薦められる、ぜひともにこの感動を分かち合いたい」人に向けるものだ。「人から薦められる本というのはかなりの確率で当たる」という法則は、息子のような世代を超えた間でも 成り立つものだ。

逆に世間一般の人が「いいね」と言っている本はあまり期待していない。信頼できるのは最初に言い出した人くらいで、後は何となく流行りものに流されて「よし」としている可能性もあるからである。やはり知人が「いいね」と言っているモノに期待がかかる。さて最近読んだ中では文句なしのNO.1である「舟を編む」という著書は、親愛なるKICKPOP師匠の記事に「面白い」と載っていたものだから、この私が外すわけがなくすぐにAMAZONで入手したのだが、息子甘辛なみに合格率の危うい試験にぶつかることになってしまい(父子で試験勉強しようと思っていたのがあっさりかわされて自分だけになってしまった。)これまで読む時間がなくようやく昨日読み終えたものだ。読み始めると一瞬で終わってしまった。

辞書を編纂する人々の物語である。読んでみてなるほどと思ったが、辞書の編纂には普通何年もかかるという。数千ページを超すページ数に数万を超す見出し語数、主観を交えず万人が理解・納得できる原稿の作成、その元となる用例の採集・・・・改めて考えれば不思議な話ではない。印刷や編集に関わる専門用語は分からぬが、辞書そのものは物語ではなく五十音順に並んだ「言葉の海」だからその原稿はあらゆる方面の「人の叡智」を結集しなければならない。普通の人には中々できない「変人」向けの仕事であるらしい。無論「言葉」に対し一方ならぬ愛着や思い入れがあるのはもちろんだが・・・

この物語の主人公は馬締(まじめ)さんというのだが、趣味はと聞くと「強いて言えば、エスカレーターに乗る人を見ること」と答える。何のことやら分からないだろうが、「電車から降りた客が、わざとゆっくり歩く自分を追い抜いてエスカレーターへ殺到して行くが、乱闘や混乱も起こさずに誰かに操られているかのように二列になって順番に乗る。しかも左側は立ち止まり、右側は歩いて上る列にちゃんと分かれていくのが美しい情景だ」というのである。この本を読みながら何度も「赤ペンがあったら線を引いておこうか」と思う箇所があったのだが、最初の文がこの下りである。「物事を整理するのが好きな人が辞書編集に向く」と言いたいのか、この作者の感性はものすごいなーと思った。

「大渡海」と名付けられたその辞書は、当初から携わっていた定年の老編集者、一緒に監修してきた大学教授、途中で異動させられる先任担当、老編集者が自分の後継者に連れてくる「馬締」、その配偶者、先任担当の異動後数年して着任する女性担当、辞書を構成する特殊な紙を作る担当などの人々が15年にもわたる困難な道のりを乗り越えて、ついに完成の日を迎える。プロジェクトXの世界のようだが、橋でもトンネルでも、新型特効薬の開発だろうが、物理新法則の発見だろうが、人間が何年も何十年も情熱をかけて全力を注ぐ姿には惹きつけられるものだ。物語の展開そのものは何となく見通せてしまうのだが、やはり辞書完成のときはぐーっと熱くなってしまった。私も含めて大多数の人はそういう経験もなく、過ごしてしまうのものだ。約四半世紀会社員をやっていても、強いてあげれば6人で社内基幹システムを立ち上げた時くらいしか、類似と言えるものがない・・・

誰でもそうだと思うが、辞書の編集にまつわる話を聴くと改めて言葉の面白さ、不思議さ、愛らしさのようなものを素直に感じる。息子との物語談話する時も私の単純な癖なのだが、本を読み終わるとその中で「一番好きな人物と下り」を論じる。「舟を編む」を読んで私のお気に入りは途中で異動させられてしまう「西岡」である。最初はあまりいい印象ではない。軽薄なチャラオ君で辞書編纂の本質からは遠いように見える。物事を正面から当たらず「うまく捌く」ことを得意とし、弱い自分を正直に晒すことを決してしない主義だが、時折その片鱗をのぞかせてしまい、たまに親の小言と冷酒のように「後から効く」ようなことをする。(あんまり言ってしまうとネタバレになるから後は読めばわかる) ワンピースで言うと「ウソップ」にあたるキャラである。

「西行」という平安から鎌倉期の歌人・僧を取り上げるところがある。本来の西行法師その人以外にも不死身、遍歴するひと・流れもの、タニシの別名、能の作品である西行桜、風呂敷を斜めに背負う西行背負いなど(本家だってやっと覚えているだけなのに、他のは全然知らぬ!)限られたスペースに全ての意味を載せることはできないとしたらどれを選ぶか・・・「西岡」の考えはこうである。
文脈や響きから何となく推測できるもの、現代人は使わないものは捨てればよい。また本当の流れ者が図書館で何気なく「西行」という項目を見たときに「流れもの」と書いてあったら、「西行さんもオレと同じだったんだな」と心強く思うだろうから、載せるべきだ。それを聞いた「馬締」は西岡を心底辞書編纂に必要な人物だと真剣に言葉にする。ここがこの本で一番好きな「下り」である。これまたあまり言うとネタバレになってしまう)

この話は数年後、辞書を離れた西岡の後任?としてやってくる女性「岸辺」に引き継がれる。この女性は最初ファッション雑誌を担当し、そのあまりにも大きなカルチャーギャップに当惑していたが、だんだん辞書作りにのめり込んでいく。「岸辺」は「愛」という語の②の解釈に異性と表現されていて、同性愛がないのはおかしい、と主張する。日々移ろっていく言葉を、移ろいながらも揺るがぬ言葉の根本の意味を本当に解釈すべきだと。そこで馬締は「昔、西岡さんに同じことを言われたことがある。『その言葉を辞書で引いたひとが、心強く感じるかどうか想像してみろ』と思い出すのである。いくつかの言葉に対して、辞書というのはホントに色々な人の思いや知性が凝縮されているのだとわかるところだ。

読むと「辞書を作るってそうだろうなー」と思い当たるが、辞書自体にはそれまで正直目もくれたことがなかった。国語はもちろん、英語、独語、韓国語が我が家にあるが使い古されることなく、単に物質的に劣化してしまっている。国語辞典は「広辞苑」、漢和辞典は「大辞典」というがこの二つはバイセプストレーニングにしかならないような巨大な辞書だ。小学校を卒業した時に両親と神田の書店街に行き、買い与えられた。「中学へ行ったらこんな漬物石みたいな本を読まねばならないのか」大きな包みを抱えて子供心に驚愕したものだ。その後、父親が大学時代下宿していたという洗足池の近くにあった建物跡?を巡りさらに大きな学校らしき敷地を3人で散歩した。自分は経済学部なのに理系崇拝者のようだった父は「ここに来れればまあ、よしだな」とつぶやいていたが、何のことかさっぱり分からなかった。奇しくも約10年後、再びその地で卒業式を迎えることになるのだが、辞書にまつわる話とはそれくらいしかない。。。

この著書は2012年の本屋大賞第一位(いちばん売りたい本)ということで、帯には架空である「大渡海が欲しい」「言葉への愛」「情熱をかける」などとコメントがあったが、私は真っ先にシェッドでくすぶる我が家の「広辞苑」を明けてみた。最初に引いたのは「編む」という言葉である。「ことばを紡ぐ」というのはよく聞くし、辞書を編むというのも分からないではない。しかし「辞書というのは深く広い言葉の海に乗り出す舟である。その舟を『編む』」という現しかたは素晴らしい。そして途中で出てくるが「言葉とは記憶」「曖昧なまま眠ってしまうものを言語化する」というのはまさしく膝を打った。

考えてみればこのブログも「誰かに見てもらうため」に書いているわけではない。後で読み返すことを想定して日記として書いているわけでもない。自分の文章力を磨くことは意識しているが、今更そんな必要もあまりなく、この誤字脱字ではそもそも磨かれていない?!何となく徒然に思いついたことを言葉として漏れることなく書き留めておきたいだけのようだ。この本を読んで、登場人物や著者には叱られてしまうかもしれないが、何で自分がだらだらこんなに長い文章を書くようになってしまったのか、何となく分かったような気がしたのだった。この記事の読者はわずかだが、誰かにこの本の面白さをパスできればうれしいことだ。

Anne of Green Gables

2012-09-17 05:49:56 | 書籍
すごい本だなー、と思った。私のバイブルにもなれるんじゃないか?正直な感想だ。なるほど、世界中のたくさんの人に愛されているのがよくわかった。。。「赤毛のアン」である。タイトルをそのまま書くとたくさんの「変なもの」に引っ掛かってしまうから、あえて原版名にした。世の女子は大抵読んだことがあるんじゃないか?!恥ずかしながら「世界名作劇場」(カルピスこども劇場だっけ?)でアニメになっていたのは知っていたが、小夏師匠にリコメンドされるまで、実際どんな話なのかこの年齢になるまで読んだことがなかった。(師匠、感謝です!)
「フランダースの犬」「あらいぐまラスカル」「母をたずねて三千里」など「最終回ぐらいは知ってるけどねー」ゾーン、「小公女」「家なき子」「あしながおじさん」など、「子供の時に名著として薦められたけど読んだことがない」ゾーン、「キャンディ・キャンディ」「花の子ルンルン」など「時々見たけど、とどのつまりは知らない『堀江美都子』ゾーン」(でも主題歌は歌える)・・・「赤毛のアン」はそもそもあまり触れることがなかった少女向け物語に位置づけられていて、たまたま一度も見る(読む)機会がなかったのである。

   

図書館で検索すると「赤毛のアン」シリーズというのは山ほど出てきた。どうやら続きモノになっているらしい・・・通常のコーナーにもYA(ヤングアダルト)コーナーにも、児童向け図書にも幅広く登場していた。また「赤毛のアン」そのものを色々と評論する「とりまき図書」も結構たくさんあることがわかった。いくつかあった本の中で最も格調高そうなハードカバー本を選んで読み出した。
たぶん、今人生初めて読んだからだとも思うが、「アン・シャーリー」が登場して30秒後、私は彼女が大好きになってしまった。理系的に言うと彼女の「第17族ハロゲン元素」のような「どんなものにも反応する」活性に魅せられてしまったのである。特にアンの「逆ギレする誇り高さ」が素晴らしいと感じた。

あんまり一緒くたにしては失礼だが、私の分類では名作劇場に登場する「少女」は大抵、「あまり幸福でない生い立ち」だが「明るく活発」で「思いやり」があり、たまに「お転婆」もするが基本的に「けな気ないい子」である。引き取られ先でいじめられれば「しくしく」泣き、それをうまい具合に支える「友」がいる。人間味には溢れ「笑ったり」「怒ったり」感情豊かだが、人を「憎悪」したり「怨んだり」ましてや暴力を振るったりは決してしない。お転婆の代表「キャンディス・ホワイト」だって「あんな人とは一生口をきかない」なんてことは言わない。ところが「アン・シャーリー」は将来結婚する相手(だとは夢にも思わなかった)との初対面で「にんじん」と言われただけで激怒し、石盤を頭に打ち付けて叩き割るのである。ホントに何年も口をきかないという徹底ぶりだ。初めて会った街の識者(とはあんまり思えぬが)レイチェル夫人に切って見せた「あんたは無礼だ!」という啖呵も実に素晴らしい。とにかくキレぶりがあまりにも見事なのである。

通勤途上に少しずつ読み始めたのだが、2回目からはポストイットカードを持ち、あっと言う間に読み終えた時、ハードカバー本は付箋紙で埋まり尽くしていた。何と名言の多いことか!
感想文などと言うよりも、それら「ちょっと書き留めておこう」と思ったフレーズをあげるだけで、原稿用紙何枚分にもなってしまうだろう。アン自身も言っているが、言動にオーバーな表現が多い。「英語」で書かれたモノを「翻訳」された著書は大抵「あー、これ原版は英語だな」と一発で分かってしまうちょっとした「不自然感」を持ってしまうのだが、元々どんな表現をしてるんだろか?と興味が沸いてきた。小夏師匠が「原版で読んでは?」とおっしゃった理由がすごくよくわかった。

「お目にかかれて本当にうれしいです」マシュー・カスバートと出会った直後、その後何篇も続くことになるシリーズの主人公「アン・シャーリー」についていきなりネタバレさせてしまうところがすごい。「見る目のある人が見たら、優れた魂の持ち主だ」
アンとマリラの他には正直、大した人物の登場しないこの物語で、私は見た目もハンサムでなく、内気で口下手、そして女性が大の苦手であるマシューが最も親しみを感じる。あんまり登場シーンがないし、セリフも少ないが、要所要所の肝心なところには必ず現れ、最初と終わりにこの物語をずーっと貫く忘れられないことを口にするのである。(あんまり明言集みたいなのには載ってないようだが)

11歳くらいの男の子を兄マシューの手伝いに引き取ろうとしていたマリラのところに、迎えに行ったマシューが連れてきたのは赤毛の女の子だった。「女の子など畑仕事に何の役に立つのか?」と孤児院に返そうとするマリラに普段物事をあまり主張しないマシューは「自分たちがあの子の役に立つかもしれない」と切りかえすのだ。学校を優秀な成績で卒業し奨学金も受けとることになったアンが帰宅し具合が悪くて疲れた様子のマシューに「自分が男の子だったらもっと役にたって楽をさせてあげられたのに」と悲しむと、彼女の手をぽんぽんとたたいて「自分は1ダースの男の子よりもアンがいい」と語った翌日この世を去る。名言の宝庫であるアンの物語で何故か私はこの冴えない男マシューの言葉を忘れられない。。。

この物語に何度か登場する素晴らしく好きなシーンが3つある。その一つが「朝を迎えた時のアン」である。極め付けシーンがいきなりあるが、せっかく来たのに女の子だから引き取ってもらえない悲しみに泣き明かした夜が明けた翌朝「今朝の私は絶望のどん底ではない。朝はそんな気分にならない。・・・」(この言葉の使い方はすごい)「世界中を愛している気分になる」というから見事なものだ。ここまでキレのよいスイッチを持っている人を見たことがない。朝から溌剌としているアンとは似ても似つかないが私も朝起きるのが早いからか、冬の晴れた朝が大好きだ。たぶん「アン・シャーリー」なら「朝もいいけど、夜も好き」といいそうな気がするが。。。

次にお気に入りのシーンは「立ち直る時のアン」である。友達を酔っぱらわせたり、ケーキの味付けに痛み止薬を入れてしまったり、彼女は様々なことをやらかす。その時の立ち直りの見事さは「前向き」などというのは生ぬるいとも思える「ウルトラマンがライブステージで会場の子供達から『がんばれー』の声援を受けてエネルギー満タンになる」みたいな恐るべき復活劇である。何がすごいと言って、「自分にもいいところが一つあって、二度と同じ過ちはしない」という恐るべき自信を宣言するのである。そして「一人の人間がする過ちには限りがあるはず。最後までやってしまえば、それで自分の失敗も終わりである。そう思うと、気が楽になる」これほどの合理的かつ楽天的な「自分への励まし」を聞いたことがない。最初に紹介されたようにどう考えてもただ者ではない。 何か大きな失敗をしてしまった時にこう考えればあっという間に立ち直れる気がする。

そして一番好きなのが、「家へ帰る時のアン」である。お友達とピクニックに行ったり、音楽会に行ったり、街にいるお友達の親戚にお泊りに行ったり・・・その都度いつもの大げさな表現で「人生最良の日」みたいなことを言うのだが、最後に必ず決めるのが「一番よかったことは家へ帰ってくること」、彼女が孤児院育ちだから帰る家があるのはうれしい、と言えばそれまでだが、普通に帰る家のある私にとってすら「ほっこり暖まる」シーンである。この物語には結構「家に帰る」シーンがあり、スペシャルな付箋紙が貼ってあるのである。
今、「赤毛のアン」の原版を読んでいる。モンゴメリの原版は「Anne of Green Gables」となっている。どうして邦題が「赤毛のアン」となったのかしらないが、悪いけど「そのままのタイトル」の方がよかったのに、と思う。なぜならこの物語の中にアン自身が「私はグリーン・ゲーブルスのアンであって空想の中の素敵な自分よりもずっと好きだ」という素晴らしいシーンがあるのである。奨学金を断って目の悪くなった一人ぼっちのマリラと一緒に住む決断をする時も「グリーン・ゲーブルス」というキーワードが登場する。そして一度シリーズ第2作目「アンの青春」を読みだしたのだが、どうにも違和感がぬぐえずにちょっとストップしてしまった。その前にアニメやドラマを見て4方向から立体化して、この面白さを堪能しようと思う。何か読書感想文になってなくて、小夏師匠ごめんなさい。