超兵器磯辺2号

幻の超兵器2号。。。
磯辺氏の文才を惜しむ声に応えてコンパクトに再登場。
ウルトラな日々がまたここに綴られる。

気負わず自然でひたむきに

2017-02-24 11:39:22 | 少年サッカー
少し前の週末、妻と久々に息子甘辛の練習試合を見に行くことにした。大学生になってプレイするのを見るのは初めてである。これまでも週末の対外試合を見る機会は結構あったが、高校時代サッカー部のグランドが人も羨む専用の人工芝だったのに比べ、今のキャンパスにあるグランドは、甘辛に言わせると「呪いたくなるような」凸凹地面だ。我が家からは割りとちょうどいい距離にあって妻は見に行きたがるのだが、思うようにプレイができないらしく「来なくていい」と言う。その他アウェイの試合は他県であったり早朝であったり中々タイミングが合わないでいた。体育会サッカー部の最下級生だから雑用や使いッパで終わる時もあったり、プレイスタイルが合わずに干されてCチーム落ちなんてことも度々あるようだ。試合の日程もこちらから聞かなければ言わないので、ネットでスケジュールを調べて暖かくなったら見に行こうと妻と話していた。長期オフが明けて、たまたま真冬のわりには暖かい日の夜に練習試合が組まれていた。

ここ数年チームメイトのDスケと乃木坂○6の「ななみん」や「なーちゃん」を追い掛け回していて、よくライブや握手会などに余念のない甘辛だが、「オレは絶対Aチームに残って合宿に行く!」と気合を入れていた。ようやく邪念が晴れてサッカーに身を入れる気になったのかと思ったら、やっとのことでチケットを入手した握手会の開催日がAチームなら最終日、B/Cチームなら出発日になっていて、開催当日に帰宅する方のAチームにいないと駆けつけられないようなのだ。「何か動機の根本が違うような気がするぞ・・・」ともあれ最近はまあまあ調子がいいのか、溶け込んできたのかAチームの試合にも出場するようになったらしい。練習試合はハイソで有名な○ジュクの専用グランドで、もちろん人工芝&ナイター完備、横浜にあり周辺にはラグビー、フットサルなどの専用ピッチもあった。「来るなら『差し入れ』持ってきてくれよ」甘辛は上機嫌で出掛けていった。

      

電車で行って帰りにデニーズ(恋妻家か?!)で反省会とも考えたが、昼間あちこちに出かけて用事を済ませているうちに面倒くさくなり、差し入れもいることから赤いライオン号でグランドに向かうことにした。私は大学生のサッカーというものにあまり馴染みがなかった。自分もやってはいたのだが、同好会というのはあくまで「趣味の世界」で経験者も初心者も草野球のようにとりあえず「サッカーを楽しもう」という雰囲気で、面白くもない集合練習などはほとんどなく、むろん自主的何かするわけでもなく、「ゴルフに誘われてラウンドする」スタイルだった。受験戦争を終え、勉強にも部活にも追われることのない「花の大学生活」を迎え、何が楽しくて自らしんどい思いをする必要があるか?コンパやパーティ、デート、アイドル他イベントを満喫し、不摂生によって幾分デブったカラダを引きずってピッチを走り回るようなものだ。

「部活のようなストイックなサッカーは高校で卒業」という時代だったと思う。いわゆる選手としては引退し、楽しむスポーツへ転向するのである。むろんサッカーもその一つではあるが、バブル期だからスキーやテニスが全盛であり他にも誘惑は巷に溢れ、たまにサッカーをする機会があっても「わーっ、さすがサッカーやってたんだね。すごーい」という女子の声があるときだけ張り切り、疲れたら代わってもらう。実際に体力や運動能力はどうだろうか?プロや本格選手を目指すならもう少し先の年齢まで伸びしろがあるだろうが、高校卒業時点で身体能力の最高ピーク付近に来ていてじかも受験のブランクがあるから、スタイルを変える潮時とするのも自然ではないかと思う。しかし息子甘辛はそういう時代の私とは全然違うスタイルを貫いている。今の時代、周囲にはそういう雰囲気もあるかもしれないが、「ずーっとひたむきに続けている」のである。

私も一緒にやりたかったから、甘辛がごく自然にサッカーをやり始めたのが幼稚園のとき、その延長で小学サッカーを続けていた。高学年になるとスポーツの宿命で「できるできない」の差が現れ、それが目に見える結果となる。たまたま息子甘辛はそこそこ「できる」方だったから、親も夢中で盛り上がった。JリーグやWカップの影響もあって地元でもサッカー熱が上がり続け、試合は県内の隅から隅まで必ず妻と見に行ったし、早朝暗いうちから親子練習をしたり、サッカーを通じて最も家族が同じ時間を過ごした時だった。最高学年は県のトレセンまで選ばれた甘辛だが、どの世界でも同じように「できる」ものが集まるとその中で「できない」ものとの差が現れる。向上心もあった息子は中学生になる際にJリーグ下部チームのセレクションなどを受けてみたが、もはや通じるレベルではなくなっていた。ただ単なる「放課後の部活動」ではなく、専門の活動をしたかったらしく、県内のクラブチームでプレーすることを選んだ。

小学サッカーでは親子のつながりも含めて充実していた甘辛だが、ジュニアチームでのサッカーは一つの精神的試練があった。高度成長期が遅かったために身体の差が大きく現れ先輩のプレーには通じず、同輩には抜き去られたのである。足技などがいかに上手くてもスピードと重量ばかりはどうしようもない。2年生後半で最上級生としてチームの中心になるまではほとんど出番らしいものはなく、試合に出ているのを見ることは無かった。小学時代強豪だったチームメイトが次々にサッカーを辞めていく中で「(身体の成長だけはどうにもならんからな。そろそろ辞めて勉強に専念するのもありかな)」たまに一緒にボールを蹴ったりして、口にはしないがそんな観想をもっていた。校庭の部活と異なり、夜間に市外のグランドに30分以上かけて自転車で練習に行くのである。サッカーそのものよりも「試合に出てナンボ」と考えれば、クサッって辞めたくなっても不思議ではない。

しかしどういうわけか愚痴一つ言わず、甘辛は練習に通い続け、まだ不完全燃焼だったのか、いわゆる受験生となって最後の大会が終わっても、「引退せずに卒業まで続ける!」と言って我々を焦らせた。あまりそういう話をしてこなかったが、この時だけは「進学について何も考えずに『やりたいから続ける』というのはダメだ」と釘を刺した。夏休みが終わって小部屋で一緒に受験勉強するようになり、年末いよいよ追い込み期になると、父子面接演習もやった。入学試験の面接官はやったことがないが、会社では採用、昇進他あらゆる面接を行ってきたベテランではある。そこで「中学時代に一番辛かったことは何か?それをどうやって克服したか?」という事項についてマニュアルをアレンジして質問してみたら「成長期が遅かったので、身体能力の差で試合に出られないのが辛かった。その分チームメイトをできる限りサポートしようと思った」と意外な場面で普段は聞かなかった本心を聞いたとき、「コイツは面接だったら通るな・・・」と何となく直感し、3年後もそれ有を形化することとなる。

高校進学先が決まり、晴れて受験生から開放されると早速進学先のサッカー部に連絡を取って、中学生の身分で練習に参加し始めた。高校サッカー部は別に強くもないが、グランド設備や環境は整っていた。後半になってようやく身長が急激に伸び始め、大人の骨格となっていき、新チームになって中心選手として走り回るようになった。正直、自分の息子がベンチを暖めている試合など興味は無かったので、中学時代はほとんど最後の方しか観戦には行かなかったのだが、高校になりグンとレベルアップしたサッカーについて行けるようになり、しかも主力でいるから再び私たちはホームのグランドに通い詰めることになる。ただ一応進学校ということもあり、新チームへの代替わりを契機に早々と部活を辞め受験勉強に専念するというチームメイトが次々に現れ、甘辛も懸命に引き留めたらしいが主力メンバーはわずか6人となってしまった。元々それほど強豪というわけでもない、インターハイ予選を勝ち進み、最後の試合はものすごくいいプレーをしたそうだが、私が見に行った夏の大会最後はあっさりと負けて高校サッカーのピリオドを打ってしまった。

小学校時の県選抜などという輝かしい足跡とは一転した、あまりパッとしない中高の成長期サッカーで、これを機軸に将来の進路や進学など考えるレベルではなくなっていることは本人も十分承知していたはずだが、私と異なり大学進学を早々と決めた後も、娯楽・快楽の道にはあまり逸れずにごくごく自然にサッカーを続けた。自分でとっとと体育会サッカー部に連絡をとり、入学前から練習に参加し始めてしまった。どうしてそんなにひたむきになれるのか、引っ込み思案の私には考えられない、恐るべき行動力である。体育会系ならではの使いッパシリや理不尽とも思える運営にぶーぶー言いながらも今まで当たり前のように大学サッカーを続けてきた。

これまでサッカーで有名な学校でもなく、強い部にいたわけでもない。「続けること」について気負っているところは全くなく、予定がなければ昼までも寝ているのに、当たり前のように5時の始発電車で雨が降っていても朝練に出かけていく。練習終了後試合に備えて山のように道具を持ち帰らせれても、そのままバイト先の塾に引きずって行く。その姿はどこか泰然としていて、いかにも自然体で完全に生活の一部になってしまっている。周囲の(特に女子の)目や先々の見返り、夢と言えるようなカッコいい目標もなく、あれだけひたむきに「続ける」というのはすごいことだと改めて思う。妻が「大学生にもなって試合を見られるなんてありがたいよね」と言うのを聞いてなるほどと膝を打った。

        

これまで我々は甘辛を応援し、そのチームを応援し、「勝った、負けた」に一喜一憂し、そのプレーについても「ああ、もうちょっと速くボールを出さなきゃ」「そこは左サイドに振るところだろ」「あー、もう不用意なバックパスやめろって」とある意味一体となっていた。ところが今回観た初めて「大学生となった甘辛」のサッカーは何をしていても楽しめるのである。中年の草野球で、親しい友達がプレーするのに声援を送るような気分だ。ヒットを打てば大騒ぎ、トンネルしても大笑い・・・)当人は不満がるだろうが、我々はその当たりを卒業したのだろう。あまり感心しないが、甘辛は「サッカーを自然にできる」職業を志向しているらしいから、社会人になっても「自然に」続けていくことだろう。、そして我々はそんな「気負わず自然でひたむきな」彼のサッカーを見て楽しむだろう。「恋妻家」を観た後、デニーズでの反省会でワインが進んで話題となったのはこんな話である。「部活を卒業す」編でも似たようなことを書いたかもしれない・・・

甘辛、高校を卒業す。

2016-03-12 18:34:44 | 少年サッカー
以前、「マツコの知らない世界」で取り上げられていた「卒業ソング」のことを書いた。タイミング的にはそういう季節なんだろうが、我が家の息子甘辛も先日いよいよ高校の卒業式を迎えた。私の時もそうだったが中学校と異なり高校の卒業式の時点ではまだ完全に進学先が決まっていない生徒も多く、テレビでやっているような感慨深いものではあまりないのが現実だ。たまたま国公立大学前期日程の合格発表が直前にあり、甘辛のクラスメイトやチームメイトも一喜一憂、残りの試験に最後の望みを託す者もいたようだ。仲良しのお友達は国公立の結果を確認し、その日のうちに関西圏にお母さんと飛び、住居を決めて手続きを終え、卒業式前日に電光石火でとんぼ帰りしてきたと聞いた。古都にある有名大学に進学を決めたそうで、甘辛は「旅行の宿泊先ができた」と喜んでいた。中高の卒業式など体育館で行うものと思い込んでいたが入学式同様、親会社である大学の講堂で開催されるという。



甘辛は少し前にテラスモール湘南のとあるブティックで誂えたスリーピースを身に着けて行った。制服のない学校なので学ランはとっくの昔に着られなくなっているし、卒業式のすぐ後にある入学式、アルバイトでもジャケット着用が決まりのようだったので、作っておいたのである。さすがに女子は「就活スーツ」というわけではないだろう、と思っていたらちゃんと高校生のような制服を着ていた。これはAKB48などの衣装の影響で「学校指定のようでちゃんと可愛く着こなせる」「なんちゃって制服」というそうだ。かの講堂の式典は何かと御縁のある私だったが、何か複雑な気分もあって正直あまり出席には気乗りがしなかった。あくまで大学の講堂は大学のものである。そのまま進学すれば私の後輩なので、あのキャンパスに通うことになろうが、予想通り甘辛はその道を選ばなったので、卒業式を行った場所という以外にあまり意味をもたないのである。彼が3年間通い詰めた駅からよく見える学校でやって欲しかった。



妻によると卒業式を終了後、クラスの最後のホームルームがあって敷地内の食堂で謝恩会相当の催しがあるが、甘辛はそれには出ずに移動して高校のサッカーグランドでOB戦を行うという。甘辛達の先輩もやってきて毎年卒業式に行っているそうだ。私は休暇を取り妻だけでなく実家の母親も伴ってやけに寒い空の中、東海道線に乗り込んだ。普通は両親だけなのだろうが、母親を誘ったのは「さすがに今回で最後だろう」と思ったからである。実は通学を別にすると私以上にあのキャンパスと御縁があるのが母親なのだ。最初にかの地に足を踏み入れたのは何と50年以上前!一番下の弟(つまり私の叔父)の卒業式に参列したというのである。入学・卒業を入れると私と甘辛で5回も来ている。父が学生の時に近くに下宿があったこともあって、私が中学に入学した時も確か桜の咲くこのキャンパスを3人で散歩したこともある。先日、母親は私が卒業した時に看板の下で撮った写真をどこからか見つけ出してきた。

正門は駅の真ん前だが、地下に入ってしまったので車窓からはよく見えない。今は路線が変わってしまったが私は昔から愛し、侮られていたメカマ線で通学していた。それも「カエル」とも言われた緑色の丸っこい3両連結のマイナー度100%の車両である。東横線の赤いラインの入ったステンレスカーに対してメカマ線のカエルに乗るのは若者として恥ずかしくてしょうがなかったが、今年の2月に久々に(たぶん)その車両が元気に走っているのを見てうれしくなった。熊本鉄道である。色も当時の緑色そのもの、丸っこさもそのまんまでなぜか「青ガエル」と言われていたそうだが、再会と同時に運行終了という悲しいニュースであった。改札を抜けて正門の前まで歩くと、卒業式の看板が立ち、日の丸が掲げられていた。甘辛達は先に行ってしまったので、私は母親とツーショットで学校の看板をバックに記念写真を撮ってもらった。(30年前と比較すると劣化を思い知るだろうな・・・)

早めに席を確保し、妻はクラスメイトのお母さんたちから盛んに声を掛けられていた。開式時間が近くなると司会が前説を始め、まず来賓の方々が入場してくる。「ねえ、学長って誰?」妻が聞いてきた。「前から2番目だよ」会社のOB会に列席頂いた時に懇親会で「学長のおチカラでぜひ息子を本学に・・・」と裏口交渉したとのを覚えていたのだ。やがて卒業生が入場してきたが、学ランでないだけにどの生徒も似たようなスーツを着込み、女子に多かった「なんちゃって制服」を除けばさながら入社式のように見えた。(結構おっさんぽいのが多かった)
始まるといきなりの国歌斉唱である。何か卒業式の時の「君が代」って色々議論があったような気がするが・・・国立法人だからかな。校歌はいかにも最近作られたっぽい、分かりやすい歌詞だった。品格から言ったら私の母校の方が上だろうな。ゴールデンコンビだし・・・3年前の入学式では大学の校歌もあったような気がするが。かの学長の来賓祝辞もあり、割と淡々と式次第は進んで行き、めった歌わない「蛍の光」2番まで斉唱して閉式となった。退場の際に合唱・演奏されたのは「友よ」「威風堂々」というものだった。これがこの学校の卒業ソングか・・・



卒業生が退場すると、保護者も退場し一緒に最後のホームルームへ案内される。大学の教室を借りているようで、クラスごとに行く方向が違うのである。甘辛達のクラスは本館1階の端っこにあるあまり大きくない教室へ向かっていった。荷物を置いてあるらしい。卒業式では証書はまとめて総代が受け取っていたが、教室で担任から一人ひとり名前を呼ばれて手渡しされていた。副担任や教科の教員も駆けつけて一言ずつ、そして生徒たちも前に出て一言ずつこの3年間を語って行った。「卒業がむろん終わりではない。大学入学も就職もこれで終わり、というのは人生にはない。ずーっと勉強してほしい」有名国立大を卒業後、超大手企業に就職したがまさかの退職、教員免許を元手に本校の門を叩いたという担任の言には説得力がある。最後の起立・礼をまだ桜には早いが、めいめいクラスメイトたちと記念写真を撮りまくった後、本館をバックにたぶん最初で最後の親子3代写真を収めた。周囲は気のいい友達ばかりだが、再びこのキャンパスに通う者が誰もいないというのも中々面白いオチだ。甘辛は早々と進学を決めてしまってから、入学すらしていないのにいそいそとサッカー部の練習に通う毎日だ。先日は本学と練習試合があると言っていた。まさか甘辛が出ることはないだろうが、もしそうなったらどちらを応援するか微妙で面白い話だと思っていた。(結局は雨で流れてしまったが)何となく学校同士のつながりがあるようだから、この先練習試合などを見に来ることはあるかもしれないな。




昼食はさすがに「2食(第2学生食堂)のチキンガーリック」というわけにも言いづらかったので、駅周辺のラーメン屋で済ませた。(特に名物などないのである)東急大井町線で高校キャンパスに向かう。甘辛から2代前くらいの先輩もやってきていて、現役生とのOB戦が始まった。1年生の夏休みに全面改装され、オール人工芝となったサッカー専用グラウンドである。ここで2年半以上、思う存分サッカーができただけでも相当恵まれていると思う。中央にベンチを持ってこようと入口に近くと顧問の先生が走り寄ってきて「磯辺さん!甘辛君、おめでとうございます!」とほとんど最敬礼してみせた。きょとんとして慌ててお礼を言って頭を下げた。サッカー部の活動はこの学校の部活では一番厳しく、3年生になって受験に専念するために退部する生徒も少なくない。彼らの進学状況が必ずしも順調ではないようで、引退まで続けてあっさり決めてしまった甘辛の印象が強かったらしい。



OB戦で中盤を縦横無尽に走り回りながら、甘辛はホントに楽しそうだった。練習や試合ではグラウンドで笑い転げることはないのだが、その日だけは「ファン感謝デー」みたいなものだ。終盤に差し掛かるまで成長期が遅れ、身体の弱さに悩まされ続けてきた中高生期だったが、ようやく堂々たる体格に近づき、目を見張るようなプレーも見せつけてくれた。後ろから後輩が「すげー、現役の時もみたことねえ・・・・」引退してからも休みの時は昔のように私を練習台にしてボールを蹴っていたし、ブランクそのものがあまりなく、すでに今は別の「現役生」とサッカーしているのだ。後半にグランドで歩き始めてしまう選手もいる中で一人走り回っていた。卒業式そのものよりも、いきいきとグランドを走る息子の姿が一番感慨深いものだった。この後、先輩後輩と食事を食いに行って帰りは遅くなるそうだが「(酒だけは飲むなよ)」と心中つぶやいて、ボチボチ寒くなってきたグランドをあとにし、母と妻3人で祝杯をあげに行ったのだった。



甘辛、部活を卒業す

2015-08-21 06:29:44 | 少年サッカー
先日、息子甘辛の高校生活最後の大会が終わったが、「引いて退く」といのはあまり縁起がよくなさそうだから、一足先に「卒業」という言葉を使うことにする。中学生の時はいわゆる「部活」ではなく、私設のクラブチームだったから中体連のサッカー大会などとは関係なく、むろん受験や引退などというものもあまり考慮されていない自己責任だったから、暮れの押し迫った頃でもまだ練習や試合にいそいそと臨み、正直親をハラハラさせたものだ。3者面談で「サッカーは3月卒業まで続けます!」と断言したときにはさすがの母親もたまげたそうだ。幸運なのか「持っていた」のか予想外に年明け早々進路を決めてしまってからは、クラブチームと進学先のサッカー部の活動にさっそく参加し、何とも忙しく走り回り、彼にとっての「切れ目」は無かったようだった。高校の部活は一番最後の大会が野球で言えば甲子園に相当する冬の全国選手権で夏休みに予選が始まる。これを終えると公式な活動はなく3年生は漏れなく「卒業」することになる。

一般的に進学校の3年生は夏の選手権予選まで残らない者も多い。私の母校では初夏のインターハイ予選を「インタイ杯」と呼び、これを終える(つまり負ける)と3年生の主力は引退し早々と受験モードに入ろうとする。受験は「夏休みが勝負」とよく言われ、各々予備校の夏期講習や集中講座などに出かけ始める。一方、夏の選手権予選は8月後半に始まるから部活残留組は練習を欠かさず、合宿にも参加するから受験モードどころではない。この差が出てしまい、「夏の大会残留組は浪人する」というジンクスがまことしやかに囁かれた。とは言っても、我が校特有の事情だが、9月末に湘南近辺ではかなり有名な「体育祭」があり、部活を引退した3年生は最後の祭に向け、夏休みかなりの日数を費やしてしまい、結局それが終わるまではそわそわして受験モードどころではないのである。私が1年生の時は3年が4人、2年生の時は1人、夏の大会に向けて残留したが、それぞれちゃんと突破して見せた。中には「二浪」して大学で私と同級生になってしまった先輩もいたが・・・

甘辛のサッカー部は都内では中堅どころ、たまに都大会本戦に進むくらいレベルのようだ。2年生後半くらいでようやく高度成長期が訪れ、今や私を見下ろすくらいの身長になった甘辛は新チームのゲームキャプテンとなり、トップ下の主力としてインターハイ予選を迎えた。ハイテクやサッカー理論を駆使し、クレバーな試合運びをするスタイルが彼のプレーと比較的あっているようだ。残念ながらくじ運悪く、以前の練習試合では大敗を喫した、かなりの強豪と初戦に当たってしまったが、かつて見たことがないほど素晴らしいプレーをしたそうだ。オープニングシュートから、見事なドリブルで何度も相手ゴールを脅かし、失点しても諦めずにチームを鼓舞し続けてとうとう同点に漕ぎつけた。ところがPK戦の一人目で人工衛星にでもなりそうなとんでもないコースに「外した」そうなのである。何か前にもそういうことがあったが「甘辛で始まり甘辛で終わる」終わりのほうまでは爽やかだったのに、最後にやたら苦く感じてしまう「青汁仕様の宇治金時」みたいな試合だったことだろう。背番号「10」にキャプテンマーク・・・(実は以前お世話になった指導者の喪章も付けている)思えば高校サッカーで彼が最も輝いていた時なのかもしれない。

      

この学校は少し文化(あるいは今昔)が異なるのか、インターハイ予選後夏の予選を終えるまで「引退」という身柄預かりはないらしく、受験モードに入る3年生は「退部」してしまう。サッカー部で甘辛を含み3年生残留組は4名になってしまった。受験のために部を去った者たちに「後で見返してやる」みたいな珍しく感心なことを言っていた息子だが、本人の後日談によるとその後最後の合宿でその「やる気モード」が吹き飛んでしまったという。ゴールキーパーにされてしまったのである。強豪と言われるチームは部員が何十人もおり、当然のように3年生も全員が夏に向けて調整してくるが、彼のチームのように主力メンバーが半分になれば布陣も最初から考え直さなければならない。大会を控えて一か月を切っても2年生のキーパーはあまり使えず、1年生の頼りないキーパー経験者しかいない状態だったそうだ。背の高さや判断の良さ、チームの事情などもあってやむなしの選択だったろうが、最後の大会が未経験だったキーパーとはとても可哀そうに思えた。さすがに必死に1年生キーパーを鍛え上げ、直前の練習試合では再びフィールダーとして登場したそうだが、センターバックつまり小学校時代のポジション、そして私と同じポジションである。私はインタイ杯で引退してしまったが、息子が最後の大会を父親と同じポジションで迎えるというのも不思議なものだ。

最後の大会の数週間前、甘辛は塾にも行かずむろん受験勉強などもせず淡々と練習メニューをこなしているように見えた。クサっているようでもなく、かと言ってがんがんにテンションを上げていくという風でもなかった。本来のポジションでなかったからだろうか?私見だがサッカーの場合、最終ラインは体力の限界まで縦横無尽にピッチを走り回り、勝つも負けるも自分の動きが大きく関わるということがない。簡単に言うとあまり「やり切った」という実感が湧かないのである。私は最後の大会前、自らもチームも鼓舞し意識的にテンションを上げていった。先があった時は「手抜き」だらけだった練習も最後は一生懸命やって声も出し、試合はすべて全力で走った。(最初からそうしろって)しかし999のメーテルが言う「若者は負けることは考えないもの」どころかその真逆の「いつ負けるか?」ばかり考えていた。別に受験モードに入るつもりだったわけではない。優勝しない限りはどこかで必ず負ける。100%どこかで終わる。「負けるために勝ち進んでいるようなものだ」と何となく冷めたところもあるディフェンダーだった。

甘辛の試合日程は予選が3試合、2回戦からの予定だった。ほぼ1日おきだが3試合勝ち抜くと本大会代表となる。初戦は慣れたホームグランドである。ほぼ3年間この真新しい人工芝の専用グランドでサッカーできただけでも、彼はかなりの果報者だと思う。試合前の挨拶にずらりと一列に並ぶとキャプテンマークを腕に巻いた甘辛はいつの間にかチーム一長身のプレーヤーになっていた。(こりゃー、ディフェンスにされるわな)背番号も「10」からセンターバックの「3」になっていた。
この日はどの選手も活き活きと動き回り大差で勝ち抜いた。「(次か?そのまた次か?全部勝つと次は10月になってしまうが・・・)」私はまたしても「負けて終わってしまう時」のことを考えていた。次の試合は平日だったが休暇を取り、最終試合も会社を休む予定にしていた。「高校の姿は見たことないだろ?」と実家の母親を誘い出し私は昔、甘辛と早朝練習をした時にいつも着ていたマリノスの練習着を身に着けて観戦に行った。(思えば私の両親は中学以降のサッカーの試合など見に来たことはなかったが)

    

相手はかなりの強豪でベンチ外の多数の部員が応援歌を合唱し始めたが、開始早々相手のディフェンスのミスをうまく突き先制点をもぎ取った。体格やスピードに勝る相手にかなり押されていたが、甘辛を中心にディフェンス陣が踏ん張り前半はリードのまま終えた。しかし後半、相手にコーナーキックから押し込まれ同点にされると、試合運びは相手の支配権にだんだん推移していった。甘辛も懸命に体を張って、遂に決定的に崩されることはなかったが、相手との身体能力の差とキーパーのキャリアの違いがセットプレーに出てしまい、コーナーから1点、さらに直接フリーキックでダメ押しされてしまった。こうなると時間制サッカーの非情なところで、相手の時間稼ぎにめげずに粘っても刻一刻と時を刻んでしまうもので、遂にタイムアップのホイッスルを聞く時が来た。チームメイトの3年生は目に涙していたが、甘辛は憮然として応援団席に並び「気をつけ!礼!」と頭を深々と下げた。考えてみれば未だ約10年なのだが、少年スポーツの終わりを告げる時のようだった。保護者たちをまとめあげ応援に余念のなかった妻は感無量のようだったし、老母は「いい試合を見られてよかった」と満足そうだった。

      

私は社会人になるまでサッカーを続け、今でもフットサルならそこそこは走るが、やはり普段からの練習の延長線にあるガチンコサッカーは高校の部活をもって一旦「卒業」した。最後は自分なりにテンションMAXにしたつもりのだが「負けて終わり」のホイッスルは不思議に淡々と聞き、涙を流すチームメイトを横に何か実感なく佇んでいた。中学部活は市内から湘南地区予選を勝ち抜くくらいのレベルだったが、高校へ進みそれぞれのサッカー部へ入部したチームメイトは他に誘惑が多い時代だったのか、次々と辞めて行き、最後まで続けたのは恐らく私だけである。また甘辛の所属チームは小学校で県でベスト16に入る強豪だったが、中学はともかく高校サッカーにまで進んだというチームメイトをあまり聞かない。継続は力なりという意味では甘辛の姿勢はずいぶん立派だと思う。さらに進学してもサッカーはずーっと続けるつもりらしいが、さすがに半年ほど一旦ブランクをあけることになる。今は実感なさそうにぼーっとしているが残り少ない夏休みのうちに、一体どんな気持ちで「負けて終わり」のホイッスルを聞いたのか、部活の帰りに申し訳程度に塾に寄るくらいで家では寝るか食うしかしなかった彼が受験モードへ切り換えできるのか、果たして我々の想像もしなかった路線を走るのか、一度聞いてみたいと思う。

中学最後の公式戦

2013-03-20 06:21:11 | 少年サッカー
息子甘辛の中学最後の公式戦が終わった。多摩川沿いの河川敷で何度か訪れた会場だ。暖かかったが少し風のあるコンディションだった。小学生の頃は移動の車だしやら会場の設営やら保護者が協力して直接携わっていたから、試合などはほぼ毎回見に行っていたが、中学のクラブチームではそういう必要がなく(むろん自分達で行う)、単なる観客となっていた。学年別の小学チームとは異なり、U15、14、13というまとまりで、チームに色々あって同学年で加入したのは甘辛を入れてわずかに2人だったために、上位学年と一緒に試合に臨んでいたが体格差もあって最上級生になるまではほとんど出番らしい出番はなかった。。。これまでそういう話はあまり聞かなかったが、小学校では県トレまで選抜されたのに未だ本格成長期間とは言えず、ベンチを暖めるのはずいぶん悔しい思いをしたらしい。子供がポツンとベンチに残るような試合など見に行くはずもなく、何となくクラブチームの活動とは疎遠になっていたものだ。しかし彼は試合には出られずとも練習だけはひたむきに通い、受験のある3年生になっても塾よりも練習日程を優先していた。

中高の本格活動期間は短い。3年生になると部活は夏休みの大会で引退し、受験勉強に備えるのが普通だ。私も結構ひたむきに部活をしていたが、ラッキーにも1年生後半からレギュラーになれたことも影響したのか、最後の夏の大会が終わったら引退することに何の迷いも無かった。実際は大会初日前の練習で左手を骨折し、最後の大会は出られない、というオチがついたが。しかも茅ヶ崎市では優勝し県大会まで進んだのである。まったく存在感のないと苦笑していたところだが、そのお蔭で夏休みは全く何もすることがなく、勉強ばかりしていたのが幸いして第一志望を突破できたようなものだ。息子同様、父親も結果オーライ人生の始まりだった。

高校になるとどの時点で引退するかは自分で選択するようになる。進学校の場合、夏休み前のインターハイ予選あたりで大学進学を目指すものは引退してしまう。正月の選手権予選は秋口から始まるが、まともにこれを突破しようとチームに残る3年生は大抵が浪人覚悟で「燃え尽きたい」という選手だけだった。インターハイ予選は6月くらいに始まるから、早く負けてしまうとあっという間に3年生は抜けてしまう。新入生にとって3年生は「神」のような存在だが、一緒にプレーをすることはほとんどないのが実情だ。また青春真っ盛りの高校生ともなると部活以外の楽しみ(誘惑)も多様化し、中学選抜を何人も出した我がチームの出身者も高校卒業までサッカーを続けたのはなんと私だけだった・・・

さて息子甘辛のチームには後から一人加入したが、最上級生が3人ではせっかく試合に出場できるようになってもチームとしては甚だ弱小だ。大きな大会が結構あったが、ことごとく1回戦負け・・・夏休み明けの大きな大会にあっさり負けた時、そろそろ割り切って次の準備をしたらどうかとも思ったが、受験の準備にサッカーを一時的に休眠することなど全く考えていなかった甘辛は初めての進路相談で担任と母親を相手に「3月までサッカーは続けます」とこともなげに宣言して周囲を驚かせた。秋も深まりクラスや塾でも緊張の雰囲気が漂い始め、また残念ながら「サッカーで進学できるほど優れた技能を持っていない」と気付き始めた甘辛と我々は話し合い、塾を増やして練習日を削り、試合出場を公式戦だけにするなどして少しずつ受験モードに入っていった。

それでも「部活はとっくに引退し」1日数時間も入試勉強に打ち込んでいるのが普通の受験生だと思うと息子を「遊んでいる」としか思えず、「いい加減にやめて、一生でこの数ヶ月間くらい集中しろ!」とどやしつけたものだ。年末になって「親子で受験勉強」などという奇妙なモードに突入し、大晦日まで模擬試験を受けるほど「その気」にはなったようだが、最初の面接日の週まで欠かさずに週一で練習には参加していた。真面目に入試勉強を始めたのはたぶん私の母校を志望校にしたからである。たまたまサッカーが強いというだけで志望候補になる学校が2つ集う選手権予選の試合があって、パスを中心とする比較的クレバーな母校のプレーをいたく気に入ったようなのだ。身体がまだ小学生体型だからスピードとパワーで押しまくるプレーは逆に好きになれないようだった。

前述のとおり正月明け、わずか1週間であっさりちゃっかり進路が決まってしまった。面接で「サッカー部入部」を宣言していた息子は合格発表日に部の監督から声を掛けられその週末から練習に参加する気の早さである。それから2ヶ月、現在のクラブチームの活動と進学先サッカー部の2足のわらじを履いていたが、いよいよクラブチームの最後の公式戦を迎えたのだった。このチームで1,2年のうちはほとんど華々しく活躍した経験もなく、最上級生となっても「出ると負け」状態だったのに、結果オーライだったから良かったものの、下手すりゃ思いもよらぬ進路を辿った可能性もあった・・・あまり接点がなかった私には「彼にとって、このチームでの活動とは一体何だったのか?」とも思えたのだが、卒業文集を読んで初めてその心境というか、存在がわかったような気がする。

「・・・試合に出られずに悔しくてしょうがなかったが、このチームが楽しかったから続けられた・・・少なかったが同じ学年のチームメイトにも支えられた・・・」そして前述のように「この経験をどう活かすか、将来が楽しみ・・・」と結ぶのである。彼にとってはこの上もなく居心地のよい場所だったのだな。
そう言えば父子で面接のリハーサルをしていた時に「中学校生活で辛かったことは何ですか?そしてそれをどう克服しましたか?」という私のアドリブ質問に対し、真顔で彼は答えた。「身体的な成長が遅いこともあって、努力しているのに体力的に試合に出られないときが辛かったです。その時はチームメイトを助けて支える方に回ろうと思いました」私は正直、息子ながら実に立派だと思った。(こいつはこのまま受かっちゃうかもしれぬ)と初めて思ったのもこの時だ。

紙と鉛筆による答案用紙、その他これまでの結果だけで進路が決まる「進学」というのはむしろ異常なケースで(実際に面接もあるようだが割合は小さい)、社会人以降は圧倒的に「面接」で人物判断されることが多い。甘辛はクラスメイトの間でも「うるさい人」、「変な人」の上位にランキングされ、「イジられ役」として溶け込んでいたようだが、社会に出てからは決して入学時に成績としては対象とならないことで評価されてしまうことばかりなのは不思議だ。例えば「何となく『いいね』という感じがする」とか「何を言われても打たれ強そうだ」とか「何かこう、イジりたくなる人柄」などというものだ。入試という試練をかわしてしまったのはどうかと思うが、あの歳で「面接で買われた」とすれば親としても将来が楽しみである。

ここ1、2年、息子の試合からは遠ざかっていたが、週末は最後の公式戦を見に車を走らせた。こういう時唸るようないい試合を見せてくれると物語になるのだが、現実はそう簡単にはいかず目を覆うほど厳しいゲームだった。リーグ戦の中では最も苦手とする相手で、最初から呑まれていたのか動きにも精彩がなく序盤から失点を重ねていた。とくに守備的MFの位置にいる甘辛は変幻自在に動く中盤に翻弄されまくり、いつものプレーが全くできないようだ。「お前は3年間何やってきたんだよ!」という監督の怒号が自分に向けられているかのようにグランドに悲痛に響いた。後半少しエンジンがかかりいいプレーもあったが、結局大量失点のボロ負け・・・「これが3年間の成果か・・・」と無言になってしまうような最終戦だった。試合後応援席に挨拶に来た時にキャプテンの3年生は悔しさのあまり泣き崩れ、「こういうこともあるわなー」と我々は薄曇った気分で会場を後にした。

その晩、妻は用事があったので甘辛の帰宅を待っていると「飯を食ってかえる」というメールがきた。どんなに意気消沈して帰ってくるんだろう?東京ガスのCM「かぞくのはなし・最後の大会」のようなシーンを想像していた。私はシミュレーターゴルフで1時間ほどクラブを振り、帰宅してくるとちょうど息子が帰ってきたところだった。風呂に入り「中々、厳しい試合だったな」と落ち込ませないように注意して聞いてみると「いやあ、あのチーム苦手なんだよ。全然だめねー。でも昨日の相手の方が強いんだぜ。」前日も見に行ったが負けはしたものの結構いい試合をしていたのだ。しっかし全く落ち込んでいる気配がない。私もそういうところがあるが、華やかに有終の美を飾ろうが泥沼で山ほど悔いが残ろうが「通過点」は「通過点」に過ぎない、と考えているらしい。
 
     

「締めくくり」が大きな意味をもつのはどうやら歳を取ってからのことらしい。続けているうちは「終わり」や「負け」はない。「さよなら銀河鉄道999」のメーテルの言葉を思い出した。「若者は負けることは考えないものよ・・・」
今日は「3年生を送る会」だが、活動は月末までありまだ練習試合などにも出る気でいるらしい。あまり未練がましく残ると甘辛の代わりにベンチに下がる選手に申し訳ないが気の済むまでやればよいと思う。進学する高校には野球部他グランドを共有する部活がほとんどなく、サッカー部専用グランドのようなものだから、見に行くとしても自家用車で県内中を走り回ることはもはや無かろう。毎晩のように送り迎えしていた妻に「お疲れだったねー」と言葉をかけ、「この車もうすぐ車検だよな。もう燃費を気にする必要もないから、次は外車でも買うか・・・」と話しながら横浜新道を家に向かったのだった。

息子のサッカーと進路メモ

2012-05-06 05:14:39 | 少年サッカー
5月5日子供の日は息子のサッカーがオフだったので、先日一緒に行ったお友達と3人で熱海に釣行した。腰越の行きつけのイタリアンレストランマスターが大の釣り好きで「バカスカ釣れるからぜひに」と押していたところである。結局息子とは連休に2回出かけたことになる。「難しい年頃」と言われる年代だが、「少し難しくなったらどうだ?」と言いたくなるほど大人度がプアーである。まあ、全く親と出かけないよりはましか・・・毎年この日家の中央柱に身長を測って書いているがもう少しで妻を抜かしそうだ。

息子が幼稚園に入ってお遊戯混じりに「サッカーやりたい」と言い出したときは、それこそ大喜びした。小学校入学後も喜んで続け、後半は可愛そうなことによくある親同士のトラブルに巻き込まれてチームを変わった。私にとっても苦い経験でもあり市内の強豪チームの門を果敢にも叩いたのがその頃だが、そこそこ一緒に練習できるようにもなり親子練習が始まった。私も10数年ぶりだったが、昔取った杵柄というのもあり、少しずつ要領を思い出して行った。指導者などになる気はなかったが少年サッカーの雑誌を購読し成長期の選手の練習方法を研究、甘辛の長所を伸ばしたり弱点を克服する練習メニューも考案してみた。5,6年の上級生になると私達は平日の朝6時に家を出て海浜公園で朝練し、暇さえあれば二人三脚でトレーニングしていた。むろん全て息子をサポートするためではなく、体力増進や自分も再びフットサルなどでプレーするつもりで臨んだ。チームになくてはならない主力選手として県のトレセンにも選ばれたしし、最後の県選手権大会でブロック優勝して中央大会に進出し横浜Fマリノスと激突、負けはしたがそれなりに充実した少年サッカーだったことだろう。

中学では私と違って部活に入らず息子はクラブチームに入会した。彼もお決まりの「学習塾」にも通い始め、学校、塾、そして時間的には夜間になるクラブ練習でほとんど他に何かやる時間がなくなってしまい、私が地方に赴任したことも重なって「親子練習」は幕を閉じた。それなりに頑張っていたのだが、2年になっても成長期が訪れず「小学生のまま」プレイするには体力的に無理があり、次第にゲームからは遠ざかって行った。小学サッカーでは県でも選抜に選ばれそれなりにチームの中心にいただけに、ベンチを温めることが続くのはツラいこともあっただろう。自分があっさり方向転換してしまった野球経験からして「そろそろ彼も潮時なのかなー」、などと何となく見ていたが、エラいことに何も文句言わずに頑張っていた。

その息子甘辛はいよいよ中学3年となった。あっと言う間だったが「進学」を考えなければならない年である。悪くはないが特別良くもない成績だったのが2年の終わりだったので、「どうすんのかなー?」と思っていたら、こともあろうに「サッカーの推薦のある学校に行きたい」と言い出したのである。私も妻もこれには少し驚き、最初は否定せざるを得なかった。強い世代だった上の先輩が推薦やオファーで血みどろの受験をせずに進学先を決めていたのに憧れたのだろうか?しかしそんな実績を全く残していないぞ。これからやるつもりなのかな。今の彼を見ていると月並みだが勉強もサッカーもちゃんと両立させようという姿勢があまり見られない。「中途半端に楽そうだからと言って、何も努力せずにサッカーだけで進路を選ぶのは認めない」と明言してあるが、これから幾度かは衝突するだろな。

彼が不幸だと思うのは、この辺りが私の故郷そのもので、私が通学した「もはや実績は大したことないが、名前だけは何故か誰もが知っている進学校」が近所にあることである。比べられることはないだろうが、そのことを知っている友達やその親、塾講師までもが「続く」ことを口にするのは無理もないから、それが無用のプレッシャーになっては可哀想だと思っていた。そりゃー、後輩になってくれれば嬉しいし、近所だからお奨めではあるが。。。。一度、甘辛に行ったことがある。「オレが言うとプレッシャーにしかならんから口にはしないがなー」意外にも全然気にしていなかったようだ。(out of 眼中?)
一つ上のお友達が内申点は悪かったもののものすごい受験勉強をがんばって志望校に見事合格、やたら受験対策の通信教育が届くし、塾からも高校まるごとガイドみたいな冊子が送られてきて・・・それなりには彼も真面目に考えるようになったようだ。

先日、二子玉川園のウルトライベントの帰り、大井町線で自由が丘に出て母校のそばをかすめ通った。「甘辛よ。表示に●●ってあるだろ。オレが前半通っていた学校が駅前にあるんだよ。ここから一つ二つ行ったところだ」「ふーん、結構遠くねえか?」「だろ?大学なんて必須科目以外は授業を選べるから朝一の講義なんてとらねーんだよ。でも高校はそうはいかねーだろ?」「そーだなー。毎日部活やりながらだと、厳しーかもな」「はっきり言って死んだぜ」
私は前から思っていたことを口にした。ちゃんと目的をしっかり持って、海外へ出ることをプランに入れておれば正直どこへ行ってもよかったが、唯一ただでさえ貴重な「若い時の時間」を通学時間ごときで費やされるのはどうにももったいないと思っていた。通学に2時間かかる学校だったとしたら1年間に通う日数が200日として3年間で通学に費やす時間は約1200時間、つまり50日。寝る間を考えたら150日分「全く意味のない時間」を過ごすことになる。人間本気になって150日間、一日も欠かさず打ち込んだら、大抵のことはできてしまうと思うからそれをみすみす捨てるのが許せないのだ。

我々は自由が丘から東横線で東横線に出て東海道下りに飛び乗った。まさしく私の通学コースである。途中駅で降りてラーメン屋で遅い昼食をとると「湘南ガイダンス」というイベント会場に向かった。簡単に言うと、学習塾による周辺の公立高校の「学校紹介」である。保護者だけなのか、生徒も一緒なのかそのあたりは調べていない。甘辛が「こんなの行きたくねー」とぶつぶつ言っていたが、「お前、読みが足りねーな。母ちゃん一人で行ったら洗脳されてうるささ倍増だべ」たぶんそんなことにはならない妻に悪いと思いながら渋る甘辛を納得させて無理やり連れて行った。
第一部と第二部構成になっていて、何となく甘辛の成績レベルでいうと少し下目の第一部のような気がしたが、ウルトライベントの都合上(もちろんこちらの方が優先である)第二部の「少し難しい方」しか行けなかった。ぼけーっとしている息子に比べ賢そうな子供達で一杯だ。(皆、我が家には全く縁の無い近視メガネをかけている)

紹介対象校はこの辺から無理なく通える3校だ。塾の担当講師がわざわざその学校で生徒にインタビューしたり行事に参加したりした結果をまぜ、むろん最近の大学合格人数などもレポートしている。トップバッターのH高、私は知らなかったがプレゼンテーションが実に興味深かった。理系に力を注いでいてサイエンスパートナーシッププロジェクトというのがあって、国内の色々な研究施設の見学、体験など幅広く行っているらしい。また授業にも「科学と文化」という題材で自由研究の発表会があり、グランプリを競うという。ちなみに昨年のグランプリは「クモの糸の研究」・・・実際に成分を調査し、本物に近い糸と「巣」を作ってみせたらしい。うーむ。理系の血がうずく。。。
次は横浜にある私でも知っている創立99年の有名校だ。「古くて」「真面目で」「勉強ばかりしている」イメージを払拭させたいらしく、担当は懸命にその伝統や勉学以外の活性を強調していた。「今年創立99年ってことは・・・?そう、皆さんの入学時に創立100年の偉業に立ち会えるのです!」苦笑してしまったが、大学進学実績などはすごいものがあった。

甘辛はサッカー部が強いかどうかだけが興味だったようだ。何やら今年から公立高校の入試システムが大きく変わるようだが、まだ詳細は明らかでないので今日のところは学校の広告・宣伝といったところか・・・いい加減疲れてきたが、最後は私が通学した母校であった。校舎から施設からがらっと変わってしまったからあんまり馴染みがなかったのが残念だ。誇大な広告はないか卒業生として厳しく聞いていたが、明らかなウソはなかったようだ。何しろ行事が多いのである。入学してから早速陸上競技大会、その後最大のイベント「体育祭」を9月に迎えるまで毎月何かしらのイベントをこなしている。そしてその中心は常に生徒である。「体育祭の翌日から3年は受験勉強が始まり、2年翌年の体育祭の準備が始まる」と講師が言ってのけたときは思わず膝を打った。他校は「熱い教師陣」「独特な教育方針」「国公立向けのカリキュラム」など保護者の興味を引く事項が満載だったが、母校は生徒の話ばっかりだった。「甘辛よ。あの学校30数年前からあんまり変わってねーよ。教師は大したことねーんだよ。生徒の一部がすごいのさ」(わー、先生ごめんなさい)

息子はあんまりピンときていなかったようだったが、まあ聞いてみるだけでもよかっただろうし私には結構面白かった。進学先の大学にも母校の名が隅っこだが時々出てたしねー。これから受験生の親というのも実はピンときていない。色々と口を出したくなるだろうし、当人の不甲斐なさにイライラすることもあろう。一方で自分の歩まなかった未知のロードを進んでみてほしいこともあるし、時代はだいぶ変わってきたと思う。何か自分なりの道を見つけて「受験」そのものをパスする、というのもありだ。世の人は「自分の思い通りにさせるのが一番」と口をそろえて言うが、中々そう簡単には割り切れないものだ。「自分で考え自分で決める」のがよいとは分かっていながらも、大人は余計な経験があるだけに「好きにさせてもし後悔せることになったら・・・」の繰り返しとなり、中々に面倒くさい。明らかに傍観者なのに「自分でやった方がよっぽど気が楽」である。ということで、教えるとかサジェスチョンではなく「自分も一緒になって受験勉強してみると楽しそうだ」という考えに達した。こういうの嫌いじゃないからなー。。。興味本位だから本人にはえらい迷惑だろけど、習ったことを思い出せるこんなチャンス滅多にないもんなー。

卒団の日

2010-03-21 20:24:51 | 少年サッカー
息子甘辛の卒業式の翌日は卒団式だった。(この時期は「最後ラッシュ」だなー)
彼の所属するサッカー少年団はだいたい小学校ごとにその校庭をホームグランドにして市内に30以上ある。
これらの少年団は普通小学1年から最高学年まで希望すればホームとなる小学校児童でなくても自由に入団することができる。

以前も紹介したが、甘辛のチームは彼が卒業した小学校をホームとしていない。
彼は低学年のとき、別のチームにいたが「より強いチーム」を目指し、自分で練習に通える区域内で、最も強いチームを選んだのだった。
その意味では「よそ者」ではあるが、暖かく向かえもちろん分け隔てなく厳しく指導してくれる。

最高学年である今年度はAチームとして最も忙しかった。土日でオフとなったのが数えるくらしかない。。。
ということは、大抵見に行っている私達も付き合っているということだ。
最後の県大会が終わったのが2月半ば、平日思いきって休みをとり、ようやく南の島へ行くことができた。

学校での接点は運動会とか授業参観とか定例行事だけだから、圧倒的に息子と共有している時間は少年団の活動が多い。
甘辛は一人っ子だから、クラスメイトの他にかけがえのないチームメイトがいてよかった。
実はこの他にも市選抜とかアドバンススクールとか実に多くのコミュニティを持っていて、いたるところで声を掛けられる。
一緒に街を歩いていると、「ねえ、今の誰?」というシーンが多くなった。

さて、卒団式は第1部がグランドで下級生団員との「はばたこう会」、第2部は会場を変えて指導者、卒団生、親との懇親会だ。
卒団するAチームと1、2年生チーム、3年、4年、そして4月からAチームとなる5年生とゲームを行い、親チームと指導者チームと戦う。
これを2ラウンド繰り返すがAチームはずぅーっと出ずっぱり・・・卒団の洗礼みたいなものだな。。。

1、2年生との試合は6年生4人を相手に20人・・・ライオンの狩を群れで守るねずみのようだった。
3年生、4年生くらいでは少しは蹴れる選手がいるので、7人くらいに増やし、5年生のCチームとはほぼ同人数で戦う。
みんな楽しそうな顔して走っているぞ。普段下級生とはほとんど試合とかはしないからこれもいい思い出だよな。みんな県大会応援来てくれたもんな。

  

「一緒に蹴れる最後の機会だからぜひ・・・」と親にはメッセージがあった。
私はむろん出場するつもりだったが、怪我が怖いので実はグランドに行く前に甘辛につき合わせ、庭でウォーミングアップをしていた。
いつも見ているだけで甘辛にやらせるトレーニングを始めたが・・・「コイツ、こんな難しいこといつもやってんのか!」ウォームアップで早くも怪我しそうだ。。。

保護者チームとの試合は母親達も混ざって「何でもあり」に近かったが、結構みんな真剣にやっていた。妻は間近でプレーを見るのは初めてだろう。
「甘辛!母ちゃんはここよ。ここへパスね!」
ゴールキックで妻が声を掛けると皆大笑い・・・和やかな雰囲気だなー。

ところが次の瞬間、矢のような弾道のボールが妻をかすめていった。。。
「まともに当たったら、息できなくなるよ・・・」他のママに囁かれていた。
私は一騎打ちができるポジションにできるだけいようとしたのだが、悲しいかな昔の血が騒ぎ、走り回らずにはいられない。。。

私のスルーパスがゴールラインを割ってしまい、甘辛のゴールキックだった。
前線にいる私の頭の真上を飛んでいったが、ものすごい玉筋だった。
「あいつ、こんなボールが蹴れるようになったのか・・・」

子供の動きに追いついていけず、ペナルティエリア内で手を使っちゃった親がいた。当然PKだ。
選手達は大はしゃぎだったが、キッカーに指名したのは中学受験で先月まで休団していた●ノちゃんだ。
「行けー!●ノちゃん!」甘辛はこのチームに来てホントに良かったと思った。

試合が終わると、センターサークルに下級生の団員が並んで、卒団生を中心に囲み、それぞれのチーム代表からメッセージが贈られる。
3年生と5年生の代表なんて感極まって泣き出してしまって、なかなか言葉にならなかった。
5年生代表のR太選手はずば抜けた能力で5年ながら県大会を共に戦った大事な仲間だ。
最後の平日練習では「オレ、泣いちゃうかもな・・・」と言っていたらしい。。。

物事に感動することがあまりなく、何事にもドライだと言われる現代っ子で、こういうちきに素直に泣いてくれる子がいるというのは素晴らしいと思う。
そして卒団生から下級生へのメッセージを返す。
甘辛はやはり「ないと思っていた」最後の県中央大会進出の思い出を語っていたが、
「神奈川ベスト16になれたのはうれしかったが、やはり大会に出場するなら優勝しなければ意味がない」と言い放って来年に託していた。

第2部は始めから泣き濡れた人もいる会だった。監督も奥さんも、指導者も・・・
ホームの地区内では幼稚園から通算7年という選手もいるから、「あんな小さかった●●が。。。」と感無量の人が多かったんだろな。
それにしても監督の奥さんコーチはホントに素晴らしいものを贈ってくれた。

卒団アルバムなんて、個人ごとに編集してくれていて、拍子のセピア色の写真を見ただけで泣きそうになった。。。
皆がひとりひとり思いを語り、これまでの歩みをDVDにまとめ、選手一人一人にプロのようなタイトルがつけられた。
監督の奥さんは指導だけでなく、このチームの運営にずうーっとそれこそ粉骨砕身がんばってくれたのだ。最後に背番号で選手を呼んで思い出を語ったときは堪らなく切なかった。

甘辛は4年生の夏からの入団だったが、1、2年生からこのチームは実に多くの業績を残してきた。
驚くべきことに最後にトロフィーや賞状を分けてくれるのだが、一人ふたつくらい持って帰れるのだ!すげー。
甘辛は昨年夏、死に物狂いで優勝した市民総体の楯をGETしていた。

途中からの入団だったが、このチームを選んでくれてホントに息子には感謝している。
むろん暖かく成長させてくれた指導者やチームメイトには言葉もない。。。
最後にみんなでやったホイッスル前の円陣、「ルーキーズ」のパクリ、「GO!●●GO!」は忘れないぜ!みなさんありがとうございました。

通過点

2010-01-19 22:17:29 | 少年サッカー
「サッカーでも何でも、続けている限りすべてのことは通過点に過ぎぬ」

先週、息子甘辛のチームは少年サッカー最後の大きな大会となる県大会ブロック予選を迎えた。
この学年から少年団トップのAチームとなり、1年間応援してきた我々にとっても総決算となる。
2年前の同じ時期の低学年の部ではスターともいえる選手を二人擁しながらまさかの初戦敗退。。。

その後学年が上がり、スター選手はJリーグジュニアチームに移ってしまい、戦力的はダウンが否めなかったが甘辛も含み選手達は頑張ってきた。
しかし好不調、気持ちのノリにムラが多く、厳しいメンバの招待杯に優勝してみたり、負けたことのない相手にコロリと負けてしまったり。。。
見ている者をとにかくハラハラさせる応援団泣かせのチームだったかもしれない。終了1分前に同点にされPK負けなんてのも何度も見てきた。

昨年の選手権から、くじ運にはかなり恵まれていたものの、最後までは活かしきれず、「いいところ」までしか行けないジレンマに陥っていた。
昨年の秋季リーグ戦や公式カップなどもインフルの影響もあり、なんとなく本来の大会と違う(例えば人数が足りないとか)コンディションで行われてきた。
そして正月明けの県大会、ブロック予選の相手を見て監督・指導者は正直青くなったらしい。。。

私はその名を知らなかったが、何でも近隣市内でナンバー2を誇る強豪だったらしいのだ。トップはもちろんJリーグのジュニアだ。
市内大会の決勝戦でもいい試合をし、トータル力ではJジュニアと互角に近いチーム力を持つらしい。
仮に勝ったとしても、2回戦から当たるチームも初戦ほどではないが、かなり強いチームなんだって。

県大会は約450チームがエリアと関係なく32ブロックに分かれて予選を戦い、ブロックで優勝すると中央大会に進出できる。
普段試合などしたこともない県下のチームと当たるケースが多いので、強豪といえども勝ち抜くのはかなり難しく、初日で涙を飲むチームが少なくない。
我がチームのブロックはかなり厳しいところで、状況を聞けば聞くほど深刻なようだ。


しかも会場になってしまっているから、なおさら始末が悪い。うっかり初戦敗退でもすると、翌週は応援する自チームがいないので会場設営を手伝うことになる。。。
当人たちはもちろんだが、応援団としてもこれほど虚しい経験はなかなかできまい。
少年サッカー最後の大会で、初戦敗退なんてのはかわいそうだが、半分のチームは1回戦で負けてグランドを去るのだし巡り合わせなのだから仕方がない。

現実的な私は自分のことなら、すぐさま切り替えてしまうのだが、他人だとなかなかそうはいかず、年末からどうもその初日を迎えるのが憂鬱だった。
「負けて悔いのない試合などない。とにかく『これ以上は練習できなかった』と思えるくらいやればあきらめもつくだろ」
インステップの酷使で踵を骨折に近い怪我をしてしまった甘辛と年末年始もできるだけボールを触った。

ドクターストップがかかっているのに、過剰な負荷をかけないように練習試合にも参加し、正月休み明けも日の出の前に朝連でタッチの確認だけはした。
指導者は休みの日は全部熱心に練習や試合にあててくれたが、どこか悲壮感も漂ってきた。
さすがの私も当日が近づくにつれて、ついつい「負ける」ことを意識したフォローっぽいことしか言えなくなってしまった。。。

「サッカーを続けている限り、どこかで『終わり』ということはない」
「どんなチームであろうと、世界一にまでいかない限り、どこかで必ず負ける。それが1回目か4回目かはあまり違いがない」
「次の試合のことは考えないほうがよい。最初の試合がすべてで次はないつもりでいろ。結果はともかく思い切りやれ」

なーんか矛盾してるなー。終わりはないと言ってみたり、次がないと言ってみたり。。。
唯一前日にゲンを担いだのは「ステーキ」に「カツ」とキットカットを用意したこと。
「まあ、健闘を祈る」という乾杯のためだった。

会場には低学年チーム・指導者もスタンドで応援してくれるし、「燃えろイレブン・・・」の団幕も掲げられる。
それらすべてがプレッシャーであり、可能性が高いと言われるだけに「負けた後」寂しそうに団幕を下ろすシーンが脳裏をよぎる。。。

さて、覚悟を決めた?初日、いきなり苦手の朝の第一試合だった。審判と間違うほど背の大きな選手を二人も擁する相手チームに、群がった小兵揃いの我がチームはなんと勝って見せたのだ!
はっきり言って次の試合があることなんか全然考えていなかった。(弁当も注文していなかったし・・・)
逆に相手はまさか初戦で敗退するとは思っていなかったろう。。。ベンチは優勝したようなお祭り状態だった。

大人のような選手をマークして、甘辛はその1試合でもう足が痛くて走れない。。。私は正直「あそこに勝てればもう悔いはないかな」という思いと、「もうひとつだけ勝って次につなげてほしい」という欲張りな思いが半々だった。
はっきり言って次の試合は「やられていた」が何かその日だけは「神のご加護」のようなものを感じた。なんとPK勝ち!

実は年が改まっても、勝利を願ってのお参りのようなことは一切していなかった。
どこで何を祈願してもどうにもならぬことがあると思っていたし、最後くらいは神頼みせず自力で頑張ってほしいこともあった。
ブロックでは次が準決勝なので中央大会進出するには、あと2回勝たねばならないのだが指導者は第1回祝勝会で盛り上がっていたようだ。

そして一昨日、初日よりははるかにリラックスして会場を設営し、駐車場で100円玉を拾ってなーんとなくいい予感がしていたら、準決勝は危なげなく勝利!
そこで低学年チームが一足早く、中央大会進出を決めたという吉報が舞い込んだ。
途中から「足の感覚が半分無くなっていた」という甘辛は肝心の決勝では、得意のインターセプトもできず全然ダメだったが、こうなるとホームチームの強さが出てスタンドからの大応援を得てエースが1点をもぎ取り、後半の長ーい20分ひたすら終了のホイッスルを待ち続け・・・とうとうその時を迎えた。。。

最後の最後でドラマチックにやってくれたものだ。今回限りは「よいこと」はあまり考えていなかった。。。
正月からの少ーし重苦しい気分が吹き飛ぶと同時に、今年はどうも自分に(当人ではなく「自分に」というのが図々しいか?)「風」が吹いているような気がしてきた。
中央大会の初戦はなんと、2年前低学年大会で1回戦負けしたチームだという。。。

ぜひリベンジして行けるところまで行ってほしいが、どこでどうなろうがやはり同じことを言う。
「サッカーでも何でも、続けている限りすべてのことは通過点に過ぎぬ」
しかし今度は「負けた後」のフォローではなく、ホントに次の世界につなげる気持ちでこの言葉を放つことだろう。

おめでとう。

優勝っていいもんだ

2009-09-14 21:17:32 | 少年サッカー
夏休みの終わりから息子甘辛のいるサッカーチームは市民総合体育大会に突入していた。
むろん小学生としては最後になる大会だ。
ここのところ調子を上げてきている我がチームは、1,2回戦を順調に勝ち進んでいた。

調子を上げて、というよりは選手たちの気持ちが入ってきたというのかな。気迫あふれるプレーがよく見られるようになった。
最上級生のAチームになって約半年、くじ運にはかなり恵まれながら、タイトルは湯河原へ行った招待杯のみ。これからが期待できそうだな。
甘辛の「神の手?」っぽい得点もあり、3回戦を突破。準々決勝も怒涛の進撃で突破した我がチームにOコーチから皆が見るフリーメールがきた。

「やればできるじゃん」と一人一人の選手のいいところを上げていた。
「Tロウもソラも『絶対に奪ってやる!』『絶対に奪われないぞ!』というプレーができていました。(そうそう、確かに気迫あふれるプレーだったぞ)
「ヌマの飛び出し、DスケやKトのパス、Uヤの動き、Aキの突っ込み、TカシとTバサのロングフィード、カイの運動量、Uタの惜しい場面」(さっすが、Oコーチ、選手の特徴をズバリ突いてるな)
「甘辛はまだまだ不満ですが、得点したし・・・」(膝カックン)

あれれ&たはは。。。いつもながらコーチは要求厳しいなあ。もっとできるはず、ってえことか?
妻はいつも「コーチからのメッセージにはちゃんと返信しなさい」と言う。
甘辛本人もあの試合では「もっとイケる」と思っていたらしく、気にもとめていなかったが、「何て書いて返そうかなー」と考えていた。

「『オレだけかよ・・・』ってのはどうだ?」

いたずら好きの私はけしかけたが、彼は丁寧に何か返信していた。するとすぐに彼あてに返事が返ってきて・・・
「県トレレベルのプレーを期待している。もっとできるはず・・・」みたいなことが書いてあったそうだ。
親子で海岸練習してる限りではあんなもんだと思うんだがなあ。。。まあ、指導のプロが言うんだから。

そして先週の準決勝、以前18本シュートを放って得点できず、PK戦で涙を飲んだ対戦相手にリベンジだ。
次の決勝戦の相手はこれまでの相手と違う、正真正銘の市内1,2を争う攻撃力を誇る。正直これまではくじ運がよく、反対側のブロックに強いチームが全部集まってくれたのだ。
前半チャンスはあって、かなり押されに押されたものの何とか持ちこたえて前後半0-0。決勝にしかない延長戦にもつれ込んだ。

普段おとなしい監督が審判に注意されるほど興奮して選手に指示を出し・・・「勝ちたいんだろ、お前ら!がんばれ!」というのが印象的だった。
延長戦も得点がなく、とうとうPK合戦になった。ヌマさんの出動だ。
実は以前の都市対抗野球のときも感じた「やる前から勝利の女神と肩を組んでいる」感触がこのときもあり、正直負ける気がしなかった。

やはり、ヌマさんの神懸かりセーブで勝利!甘辛がこのチームに入って以来、初の市内タイトルを手にした。
その夜、指導者、保護者は大盛り上がりで優勝祝賀パーティ、たまにはと妻が駆けつけた。
私達と甘辛は寿司をとり、ウルトラサイダーで乾杯だ。その後Oコーチからフリーメールがやってきて・・・

――今日は、気合い勝ちでした。
全員の「勝ちたい」「優勝したい」という気持ちが、相手よりも勝っていたという事です。
そして監督の言う事を理解して、全員が自分達の役割を果たしたという事です。
個人技もチーム力も相手の方が明らかに上でしたが、みんなは勝ちました。
「もっと上手くなってやる!」とか「絶対に抜いてやる!」「絶対に入れてやる!」という気持ちと強い思いを持って練習に取り組めば、もっと良いチームになると思います。

残り半年、手を抜かず精一杯取り組もう!
そうすれば、もっと良い事が起きるはず。

このところヌマに助けられる事が多くなっています。次は、前の選手達がもっと頑張ろう!

とにかく、君達は藤沢市のチャンピオンだ。
優勝おめでとう!――

私は小学6年のとき、茅ヶ崎市の少年ドッチボール大会でキャプテンとして優勝した。それ以来・・・
少年野球では県大会で優勝までしたが、補欠だったため実感はできず。。。
中学サッカーでは3年の夏、茅ヶ崎市大会で優勝したが、なんと骨折で出場できず。。。
高校サッカーは残念ながら県のベスト8がやっと。。。
校内合唱コンクールで優勝した以外に経験がない・・・いいなあ。

甘辛はヘトヘトだったが、疲れは飛んだようだ。水野晴郎風に「いやぁー優勝ってホッントにいいもんですねえ」

あのピッチに立つ時Ⅱ

2009-07-27 22:10:43 | 少年サッカー
7月末の金土日は神奈川県選抜少年サッカー大会だった。
今年の4月ラッキーにも選ばれた息子甘辛含め県内の各市町代表22名はこの大会を目指して練習してきたという。
選抜チームだから普段プレーをともにするチームメイトとは違うが、「選抜」されるだけあって恐ろしくレベルが高く、いつもとは違った緊張感があるらしい。

会場は横浜みなとみらいのマリノスタウン。県の中央大会など重要なゲームが行われる憧れのピッチだ。(写真はいかにもイケてないが後ろがみなとみらい地区、ドコモメディアタワーの後ろがランドマークタワーなんだが写っていない。。。)
今のチームに移ってきたときに、「このユニフォームを着てマリノスタウンに来ようぜ」と言っていたのはつい2年前だ。
まさか現所属チームで来る前に藤沢選抜のユニフォームを着てこのピッチに立つことになろうとは我々どころか本人も予想しなかったろう。

この選抜チームが発足してすぐに、あの日産スタジアムで横浜選抜とJリーグの前座試合を行った。
日本代表も闘った夢のピッチでスクリーンに何度もそのプレーを映し出されたのもあの時だ。
今日はオーロラビジョンがない代わりに、県内の市町代表選抜がずらりと並んだ圧巻のグランドだ。となりの天然芝グラウンドではマリノストップチームが練習を行っていた。
日本代表の中澤選手もいたぞ。ここでFCバルセロナのカカ選手も練習してたんだよな。

大会は8ブロックで行われ、1ブロック3チームのリーグ戦で1位チームしか翌日の決勝トーナメントに進めない。
ベスト8になると翌日決勝トーナメントが行われ、勝てばさらに翌日に準決勝と決勝、負けると別ブロックの負けチームと親善試合を行う。
どのチームも市町を代表する選抜だ。特に我がブロックは粒揃いの小田原選抜と前回優勝して今回2チーム出場となった超強豪の川崎選抜だ。

1位にならないと翌日はないからな。珍しく悪天候となり苦しい戦いが予想された。
どの選抜も22人いるので、均等の戦力の2チームを作り前後半で交代するのが慣習らしい。
息子甘辛は先発組だ。正直このメンバーにいるのが不思議なくらいで、ポジションはキーパーのまん前、即ちフィールダーでは一番後ろだ。

注目の第1戦目、速いプレッシャーで運動量の多い小田原選抜相手に苦戦しながらも終了間際快速フォワードN也選手が左から抉ったセンタリングを相手ディフェンスがオウンゴールで辛勝。。。
やはり簡単には勝たせてくれない。問題は次の川崎北選抜だ。。。
ところが、甘辛が吹かせたのか暴風雨の中で前半組は意外にもというかちゃっかりというか、何と先取点をとって折り返した。

このあたりから、私達藤沢選抜の応援団が盛上ってきた。ちょうど後ろの天然芝で練習している中澤選手達も思わず振り返るほどの騒ぎ方だ。
普段は相手チーム側だから挨拶くらいしかしないのに、●●FCの何とかクンのママとか言って結局全部仲間になってしまう。
浦和レッズと名古屋グランパスのサポーターが日本代表の予選を応援するようなもんだ(そんなレベルじゃないが、私達はそう感じた)

いつもの自分のチームを応援するのと違い、不思議な気分と強い連帯感を感じた。
そして問題の川崎選抜戦、後半組は1点返されながらもさらに得点してなんと勝利!
1位抜けのベスト8しか進めない翌日に進撃を開始した。

翌日も同じくマリノスタウン、準々決勝は勝てばさらに日曜日にコカコーラグランド、負けたら隣りブロック負けチームと親善試合だ。
神奈川ベスト8にいるのは、横浜西、川崎南、伊勢原、相模原、大和、横須賀、足柄南そして我が藤沢各選抜だ。
我が選抜は足柄南が相手だ。これまであまり聞かなかったが予選リーグを大量点で楽々突破してきた強豪らしい。

我々の試合の前に横浜西とマリノス追浜の主力を擁する横須賀が壮絶な試合を行っていた。
よかったあ、こんなすげえチームと当たんなくて。。。みんなそう思っていたが、次の試合もし勝つと翌日の準決勝はどちらかの勝者だ。
試合は終了間際、J1マリノス予備軍団を擁する横須賀が一瞬のツキをついて得点、優勝候補の横浜勢は姿を消した。

さて、注目の南足柄戦だが正直ブロック内チームがそれほど強くなかったのか終始攻めっぱなしだった。
前半、怒涛の攻撃にも得点はできず後半に期待する。「一点取りゃイケるよね」という一点がどうしても取れない。。。応援団にもストレスが溜まり始める。
サッカーにはよくあるやばい流れだ。押しに押していながらちょっとしたミスで失点しそのまま負けとか・・・

結局後半も得点できず、なーんとPK合戦。。。負けると先ほど負けた横浜西選抜との親善試合が待っている。
緊張の中、PK戦が始まった。プロのジュニアユースからも声がかかる選手がいるのだ。メンバの5人目まで次々とみんな綺麗に決めていく。

「よーし」甘辛と同じ前半組で父母ともに仲良しになったS也選手のパパが両手を前に出してひらひらさせ始めた。
Jリーグのサポーターがやる「呪い」のポーズだ。
同じスポーツ選手だった私にはあまり感心できなかったが、この時ばかりは悪魔に魂を売り渡したつもりで、両手を伸ばして「外してくれ」と思念波を送った。

そしたら、な、なーんと6人目の相手選手はゴール枠上に大きく外してしまいうずくまってしまった。
他人の失敗を願ってはいけないが、チャンスがきたのも事実だ。神様女神さまごめんなさい!もうしません。。。
次の我が方を見事に決めて勝利。。。ベンチも応援席も歓喜の中、さらに昨日の準決勝に進んだ。

3日目まで残れるのは4チームしかない。優勝候補筆頭の川崎南、横須賀、大和、藤沢だ。
場所は変わって海老名のコカ・コーラ総合運動場だ。明らかにマリノスタウンのほうがピッチは素晴らしいのだが、スポンサーだから仕方がない。。。
「もしかしてコーラ飲み放題?!」なーんて期待もあったが甘かった。

我が藤沢選抜は準決勝第一試合だったが、とにかくめまいがするほど暑い日だった。日陰が全く無い。。。
建物のひさしのわずかな影から覗き込むように観戦してる人もいる。

「これじゃあ、『星明子』状態よねえ・・・目の幅涙が基本よね」S也ママが言うと

「そう・・・?私達は『家政婦は見た」なんだけど・・・」

ようは何かの影からこっそり覗き見るというポーズなのだ。微妙に年代が違う親もいる。。。
それでも試合が始まると完全なひなたで絶叫が始まった。相手は全国大会常連の横浜Fマリノス追浜プライマリーのメンバを多く擁する横須賀選抜だ。
先発組の甘辛のチームも後半組もびっくりするほど頑張った。終了間際もう少しで決勝点というところまで追い詰めたが、惜しくも0-0で終了。PK戦で負けちゃった。

でも3位決定戦では大和選抜相手に大量8点でなぎ倒し堂々の3位!みんなよくやったな。
とにかく熱い3日間だった。こちらもヘトヘトに疲れたが、2度は無い経験をさせてもらったぞ。
みなさんお疲れさまでした。来年は「栄光の足跡」に載るんだよね。

http://www.kanagawa-fa.gr.jp/

抽選

2009-04-29 23:12:47 | 少年サッカー
GWは話題の事欠かず、キリがないのでちょびっとずつ綴ることにしよう。

全国少年サッカー大会の抽選があり、息子甘辛は色んなイベントがあって楽しいから行かないかと監督に誘ってもらった。
抽選はいつも行く小机の日産スタジアムで行われ、たくさんのユニフォームが見られるようだ。

基本的にはチーム代表選手が行って抽選してくればよいのだが、サブフィールドで神奈川県内の東西代表戦やリフティングゲームなど色々な催しが用意されている。
私達は川崎ラゾーナに新PCを買うために少しだけ会場に顔を出した。
なるほどすごい数の選手がいるな。全部で400チームほどあり、神奈川県代表となるためには9、10回勝たなければならない。

うーむ。。。J1、2チームのジュニアだけでも4つもあるんだ。夏甲子園の神奈川予選並みの厳しさだな。
場内アナウンスがよく聞こえなかったが、リフティングゲームの説明の前に誰か有名人が登場するそうだ。
あのテレビで見るよりも黒ーい爬虫類顔は。。。「覚えありーっ」(ごめんなさい!)

元よみうりヴェルディの北澤豪選手だ。
リフティングのコツを説明するのはイマイチだったが、さすが元Jリーガー、ボールの扱いは見事なもので、ピッチのタッチラインから反対側まで難なくリフティングで駆け抜けた。
しかし、イマドキの小学生はびっくりするほどうまい。

中村俊輔やロナウジーニョの神業的リフティングをコマーシャルで見て育ったのだ。
「笛がなるまでに落としてしまった選手は失格です」
という説明だったが、2,3分くらいなら半数近くの選手がずーっと続けている。

最後はタッチラインの端から端までのスピード競争になった。
我がチームから参加した主力9人はというと。。。
本命のK選手はまさかの2回戦落ち、我がチームはテクニシャンが多いのだが、どうも本番に弱いのか次々と失格してしまい、キャプテンKT選手が準決勝まで進んだが反撃もそこまでだった。

息子甘辛も主力には違いないが、チーム内でリフティングをやらせたらブッちぎりのドン尻で、ピッチの反対側にいたのにドタバタ走りまわっているのがよく分かった。。。

「周りを巻き込まなきゃいいんだけど。。。」と妻はマジ心配顔だ。と言ってるうちに

「あーっ、甘辛早くも終わっちゃったよー。」監督も笑っている。

この後、外で弁当を食べて、日産スタジアム内で入場・開会式、その後横浜Fマリノス戦の観戦だって。
子供達にはなんて素敵な1日なんだろう。
我々は入場券を持っていないので、晴れの入場式を見ることはできない。
ところが後で聞いてみると、なーんとあの日本代表がWC最終予選でオーストラリアと戦った日産スタジアムで、息子甘辛はデカデカとオーロラビジョンに映し出されてしまったそうだ。

うーむ。。。なかなかやるな。白のアディダス(アジデスではない)のピステ上下結構目立つからな。
イベントの質問コーナーではしきりに大声をあげて手を振っていたようだ。
その声は試合で出せれば褒められるのに。。。

マリノス戦、皆大喜びの大盛上りで子供達は帰ってきた。
帰りには晩御飯まで食べさせていただいて監督・指導者さまホントにありがとうございました。