超兵器磯辺2号

幻の超兵器2号。。。
磯辺氏の文才を惜しむ声に応えてコンパクトに再登場。
ウルトラな日々がまたここに綴られる。

常備薬歴

2012-11-29 22:35:59 | 出来事
私は幼い頃、そこそこ強かったが「風邪ひとつひかない」健康優良児(って死語かな?!)ではなかった。特に母に言わせれば「給料日直前になると必ずと言っていいほど熱を出した。(つまりピンチに陥った)扁桃腺を腫らすことが多かったようなのだ。わりと我が家はすぐに病院に行くのではなく、「どうしようもなくなるまで薬でがんばる」ポリシーであったらしく、まずは宇津救命丸(実はあまり効用がないようだ)を飲み、鼻が詰まれば「ベポラッブ」、喉を腫らせば「ルゴール」(これ大嫌いだった)をひたすら服用した。どうしようもなくなると今の実家に引っ越す前の家では、「サイトウ医院」という小児科に連れていかれた。ここの先生はやさしいのだが、ドアが木製の観音開きで、建物が古くて昼でも薄暗く、今で言う「心霊スポット」のような何とも言えない恐ろしい雰囲気で、「悪魔の館」に連れて行かれるような気がした。

  
(誕生月なので出血大サービス・・・)

幼稚園の年長くらいで引越したが、その頃から宇津救命丸ではなく「六神丸」というこれまた謎の小さな丸薬を飲まされた(これも風邪にはあまり効かないらしい)。幼稚園や小学校をあまり休ませたくなかったのか、ちょっと薬を飲んで治らないと今度は近所の「フジムラ医院」という内科に連れて行かれた。幼い私はこの待ち合わせ室で(あまりお品のよくない?!)「トイレット博士」を初めて目にし、少年ジャンプのデビューを飾ったのである。ここで覚えた「マタンキ」という言葉が後々、近所の小鳥屋にいつもいたオウムに覚えさせることになるのである。このフジムラ先生は「特捜最前線」の二谷英明さんのように知的で渋かったが、小児科ではなかったので出す薬が「死ぬほど」苦かった。そして母親はとにかく早く治したかったのかやたらに「注射」を志向し、泣き叫ぶ私を横目に容赦なく尻にでかい注射が2本づつ放たれたのだった。

小学高学年、中学生になって私が部活などで遅くなり、時間ができると母親は少し経験があったのか、何かの縁で駅前の小さな外科医院に勤めに出るようになった。以降高校を卒業するまで、怪我だろうが頭痛だろうがあらゆる疾病を診てもらうことになる。ご存知、「大和」竣工まで連合艦隊旗艦だった不死身の戦艦「長門」の軍医長大先生である。何せ軍医上がりの外科医なので荒っぽいことこの上ない。。。小学5年生の時に入っていた野球少年団のパレード(祭りの時に練り歩くヤツ)の帰り、駅前の大踏切りの螺旋階段を転げ落ち、眉間と頭のてっぺんを割ってしまったとき、恐るべきことに7針全部を「麻酔抜き」で縫い上げた。何故か私は平気だったようで、屋根から落ちた「アン・シャーリー」ばりに「首が折れないだけよかった」などと思っていた。。。

私は成長期になると膝の軟骨が変形したり、頭痛が続いたりジンマシンが出たり、正体不明の微熱が出たりと様々な疾患に見舞われた。そのすべての症状にいつも処方されたのが「メブロン」という不思議な青い錠剤である。衝突の多いサッカーをやっていた私にとって軟骨が出っ張って机にかするだけでもうずくまるほど激痛が走る成長期特有の膝痛というのはとても辛かった。これについては特に有効な治療法がなく、「超短波」という装置をあてて少し痛みを緩和する程度だった。またどうも皮膚が弱く、冬場に乾燥したグランドで練習しているとあちこちあかぎれしたり、皮がむけてボロボロになったりした。数学と体育だけは生涯成績(小学校→高校卒業まで)ジャスト5だった私に、軍医長先生だけは「お前は運動選手には向かんから学者になれ」といつも恐い顔をしておっしゃっていた。

「ちょっとこの問題解いてみろ」と出されたのは、やたら入り組んだ図形の問題だった。πを代数として使わずに3.14としてわざわざややこしい計算したからたぶん小学6年だったと思う。後から知ったのだが東大医学部出の大先生の息子さんはこれまた秀才で、とあるブログで高橋●一郎氏が唱えた「人の下に人を作る?!」羨ましき名門ギジュクの学生だったらしいのである。その図形は彼が中学受験の時に取り掛かった問題らしい。奇しくも数年後、門を叩くことにもなるのだが(閉ざされたわけじゃないけど)、残念ながらご縁は無かった。通院するたびに「お前は学者・・・」と繰り返す大先生の訓示に実は半分洗脳されていて、高校生あたりでは「理論物理学者になりたい」とも語ったことがある。

その大先生も引退され、私も社会人になると風邪を引いたり具合が悪くなって会社を休むことなどは滅多になくなった。仮にそうなっても布団にもぐりこみ、獣のようにじっとしてひたすら自らの治癒能力による回復を待っていた。30代も後半になり「健康診断で悪い数値が出ると自慢していた」年代から「問題がない数値に安心する」年代に移ると、何やら正体不明の偏頭痛に悩まされるようになった。
息子甘辛が幼い時に自転車で転んで骨折し初めて入院を経験したのだが、どうやら下半身麻酔が切れてから一定期間「安静にしていなかった」ことによる後遺症ではないかと思われた。退院して数日後ひどい頭痛に襲われて外来したら恐らくそうだと言われ、場合によっては何年も症状が出るかも、と脅されたがその通りになってしまった。。。

それまで薬など飲む習慣は無かったのだが、転んで骨折して以来何年かぶりに外来した脳神経クリニックでは「頭痛は8割くらい原因が分からぬ。(むしろ分かるヤツは危ない)痛い時に我慢すると身体の他の部分によくないので、遠慮なく痛み止めを飲むべし」と2週間分ごっそり渡されたのが、「ロキソニン」である。後に手術後の麻酔切れにのた打ち回っている時にも処方され、強力な「痛み止め」と知った。(今は市販されている)
謎の偏頭痛は1年あまり続いたが、新兵器「高電位治療器」の登場でほぼ撲滅に近いところに至った。しかし「痛みや苦痛に我慢すると他の場所にもよくない」という、これまたギジュク出の脳神経外科先生の言葉が頭にこびりつき、何か調子が悪いとすぐにひょいひょい薬を飲むようになってしまった。

飲み過ぎその他で頭痛がした時は「バファリンプラス」、二日酔で気持ち悪い時は「サクロン」、スポーツジムに行き過ぎて肉体疲労のときは「QPゴールド」(これは違うだろ)、その他風邪用の「パブロンEX」、じんましん用レスタミンなど、リュックサックの中に常備している。
その他に薬剤ではないが、ダイエットサプリメントとして「ファットメタボライザー」、「シェイプボクシング(青)」、「L-カルニチン」、「ラクトフェリン」に今飲んでいる極めつけは「冬虫花草」・・・どれも持ち歩いていたがたぶん効果よりも「これを飲むことによって相殺されるだろう」と思い込んだ不摂生がたたり効き目なし・・・別に宣伝でやっているような劇的な効果を期待していないが、何か自分の身体に変化があるのを見てみたいだけなのだ。

リュックに常備している薬類で大抵の苦痛はあっという間になくなるようになった。最後の課題が冬場の皮膚だった。爪の生え際にいつも数ミリのひびが入ってしまい、海に入ったり釣りに行った時にとても痛い・・・ひび・アカギレ用の軟膏を塗ってバンドエイドでひび割れたところに貼るのだが、やっている間は問題ないがはがして2,3日するとまたピシっとひびが入ってしまう。冬場はその繰り返しなのだった。息子甘辛は新陳代謝がよいのか、手の平全体がぼろぼろである。乳液などを塗るように言われているようだが、ヌルヌルが嫌いなのか中々やりたがらない。
そこへKICKPOP師匠のサイトで発見した「エミューオイル」である。調べてみると「オーストラリアの国鳥からとれる自然のオイル」ということだ。乾燥やひび割れ他皮膚の疾患全般にすごく効くという。「国鳥エミュー」と聞いただけで縁起物の好きな私は虜になってしまい、通販で探して購入することとなったのだ。バンドエイドは使わずにただ塗っていただけだったが、数日で跡形もなく傷は消え去ってしまった。これはすごい!

息子甘辛にも勧めたが「クリームみたいなのもヌルヌルがとれなくていやだ」と中々使いたがらない。先日に女子に告白されたと自慢げに言っていたので「そんな手でつないだら女の子は逃げ出すぞ」と脅しつけ、朝と風呂の後に必ず塗らせていたら、やはり素晴らしく効果がでてきたようだ。「こりゃー、いいかも・・・」何も言わずに息子も使用するようになった。今は米国財団法人の「野口医学研究所」というあまり聞かないメーカの製品で、エミューオイル100%ではなく、グルコサミンなどが配合されているようだ。師匠のように純度100%オイルを使ってみたいが、まずは試しに購入したクリームでこの効果!
おかげでこの冬はバンドエイドを常備しなくて済むかもしれない。よいものを教えてくれた師匠にホント、感謝します。

   

1122の日

2012-11-25 20:19:58 | 旅行お出かけ
11月22日は「いい夫婦の日」だそうだ。たまたま用事があって会社を早退させてもらうことになっていたので、その後たまたま用事があって横浜まで来ている妻と待ち合わせることになった。後付けだがせっかくの日なら「かっちょいい」ところで飲もうということになったが、我々がちょっと「お高い」ところで「時価」で飲むと、ものすごい出費になってしまう。つい先日まで横浜そごうで飲み放題のビヤガーデンがあったのだが、さすがに今シーズンは営業を終了してしまっている。進路相談の後、塾で勉強している息子甘辛をおいて豪華ディナーというのも忍びない。ビールなら「キリンシティ」がいいのだが、それではどうも物足りない。

何年かぶりなのだがそんな我々の為に設けられたようなコースがある。横浜ロイヤルパークホテル最上階「シリウス」の「平日限定レディスアフター5」である。レディスと言っても別に男性にも適用してくれる。(ただし料金が1000円高くなる)時間は午後5時から8時半までで、オードブルが5品くらいついて、ビール、ウィスキー、ワイン、焼酎にカクテル41種類が飲み放題だ。地上70階から眺める横浜港の絶景は代金もお高く、普通に入ったら席のチャージだけで2000円、カクテル1杯1500円とかする場所だ。今回はオプションコースがあって、もう少しプラスするとオリジナルパスタとローストビーフがついてきた。ちなみに私のお誕生日月だからオリジナルカクテルと記念写真がサービスされる。

昔、「みなとみらい」地区というのは桜木町から歩いて行った。駅から長い長い歩く歩道を「日本丸」を横目に進んでランドマークタワーに入ったものだ。今は横浜からの東横線が「みなとみらい線」となってアットの真下まで来るから少し行き安くなった。ランドマークプラザに入ると中央には大きなクリスマスツリーが飾ってある。クリスマスイベント『Landmark Bright Christmas ~横浜の恋と、ユーミンと。~』を開催中で今年のクリスマスはデビュー40周年を迎えるラブソングのカリスマ松任谷由美さんとコラボレーションし、全館Yumingの恋曲がかかっているそうだ。いつの頃からか、やたらめったらクリスマスが盛り上がっていた時は、5階層あるランドマークプラザのてっぺんからなんと人工雪が降ってきたが今年もあるのかな。(引いてしまうほど派手な演出だったが、フロアじゅうに人がぎっしり集まったものだ)

  

中々わかりにくいのだが、プラザから何か所か「ホテル棟」に移動する通路があり、ホテル側に入るとドックヤードガーデンとコスモクロックが見える。(なんか反射してうまく撮れていないが)ドックヤードガーデンは名前の通り昔は船舶のドックとして使用されていた跡地だそうだが、その形が珍しく夏はビヤガーデンなど広場で色々イベントが催されている。私は不思議と何かやっているときに当たらないが、今回は壁を七色にライトアップしているようだった。ホテルから上層階行きエレベーターに乗って一気に最上階スカイラウンジへ。50階くらいを境に下層階はいわゆるオフィスフロア、上層階はホテルの客室である。その昔我が社も48階?にブランチオフィスを構えていたことがあり、オフィス用エレベーターで足を運んだ。「花火大会は見事でしょう?」と皆に羨ましがられたが、実は外壁のガラスが分厚過ぎて音がほとんど聞こえず、あまり気分が乗らなかったそうだ。

  

今はどうかわからないが、オープン時は「世界一速いエレベーター」ということになっており、1階からあっと言う間に70階まで上りつめた。加速がすごいから間違いなく上昇中に体重は増しており、途中で耳の中がおかしくなった。それだけの速度を出しながら、振動や傾斜が全くなく10円玉を立てたまま最上階まで微動だにさせずに到着させる、とテレビ番組で取材されていた。いかにも日本らしい世界に誇る科学技術である。(こういう話、大好き)70階に到着、「シリウス」の隣に二つあるスカイバンケットルームを見に行ったら、片方は何かの学会の集まり、もう片方は結婚披露宴を同時に開催していた。店に入ると正面の大型ウィンドウからは横浜港の絶景が・・・恋人同士で行ったらかなりポイント高いところだ。(海抜も値段も高いけど)

  

元々予約時間には間に合わないと言っておいたが、妻が先に来てビールを飲んでいた。意外にとられることが多いのだが、私は待ち合わせの時間にはピタリと現れる主義だ。店では待つのも待たすのも好きではないので、早く着いたらあえて別の場所で時間をつぶし、30秒前に到着する。何にもないところで待つのは平気なのだが、「店」で待つのがダメなのである。ラーメン屋と牛丼屋類以外に一人で入る習慣がない(むろん飲み屋も)ので、何かを注文して時間をつぶすのが落ち着かないのである。早く着き過ぎて「後から連れが来るから・・・」とかなんとかうまく店員をかわせないし、自分が時間に遅れるのは許せない。結局30秒前に現れることになるのである。
妻はそういうのは全然平気のようだし、息子甘辛ですら全く気にとめない。先日花火大会の後、小田急駅沿線の店で合流しようとした時に塾が終わった甘辛の方が先に着いてしまったようだが、3人予約のカウンター席の真ん中で馬刺しときゅうりの1本漬けを注文しビールジョッキに氷で水を飲みながら平気な顔をしていた。(この度胸はすごい)先週、強風が吹いて東海道線が止まってしまった時も江ノ島のサイゼリヤでの待ち合わせにだいぶ遅れてしまったのだが、彼はまるでオードブルのようにエスカルゴとかクラムチャウダー、プロシュートを注文して手を振っていた。。。

さて70階「シリウス」で私は席についてまずビールを注文し、これを飲み干すと頼みもしないのに誕生月サービスのカクテルが登場し記念写真を撮ってくれた。ウォッカにヨーグルトとオレンジ、大量の砂糖をぶち込んだような味だった。普段カクテルなど全く飲まない私だったが、何せ41種類み放題の機会などここ以外ではたぶんないので、その日はカクテルとしては外道としか言いようのない、「順番に全部飲む」方式を展開したのである。まるで海の家のかき氷のような細かい氷ばかりで、実際の水溶液部分などいくらもない、婦女子の好む甘い半分ジュースの酒など全部制覇して見せようと考えたのだが、誕生月特別カクテルを含む「シリウス」オリジナルカクテル4種を制覇した時点で、目の前が多少歪んできた。。。。シリウスツーダブルセブン(277mの空から)はブルーハワイに濃いウォッカを注いだようなもの、アルテミス(月の化身)は「ガリガリ君梨」を溶かしたところにジンをぶちこんだような味、ガスランプ(ガス灯1870)は唯一シンプルなワインクーラーのような見た目だったが、ずばり不二家ネクターのワイン割、サンセットラグーン(70階からの夕日)は近所の「埜庵」のマンゴーかき氷にリキュールを注いだような味・・・シリウスオリジナルはこの4種だが、早くも目が回ってきた・・・(ちなみに「時価」で飲むと7000円近くになる)

            

途中、妻が「レディスアフター5女性専用カクテル」2種類のうち、「ラグジュアリーサロン」というカクテルを頼んだが、やはり埜庵のかき氷が溶けたイメージしか浮かばなかったらしく、カクテルについては2,3種類しか知らない(普段はハイボール専門)妻は私にフローズンを押し付け、ソルティドッグばかり注文していた。混んできたのか、オードブルが来たのは3杯目を飲んでいるあたり。。。中々おしゃれで時間を持たせることのできる料理だった。そして(写真を撮り損ねたが)ちょっと塩味の効いたシンプルなパスタ、最後が結構迫力のある「ローストビーフ」の登場だ。これはすごいボリュームでしかも肉の甘さが引きたてられた絶品だった。

        

あくまでオードブルをつまみに2,3杯のお気に入りのカクテルを舐めながら静かに絶景と会話を楽しむ、という趣向なのは分かり切っているが、その後も1杯2000円もするキール・ロワイヤルなどをきゅーっと飲み続け・・・
確かこの手のロングドリンクは30~40分くらいかけてゆっくり楽しむのが作法だったと思うが、そんなの完全無視した邪道一筋の荒らし屋と化していた。。。我々のテーブルの真後ろはカウンターになっており、その正面には見事な港の光景が・・・そしてラストオーダー間際に生演奏のピアノ、ギターが始まった。少しだけその演奏を堪能し、時間切れとなって久々の70階を後にしたのだった。滅多に来ないところだが、景色をつまみにカクテルを飲むというのも(飲み方はともかく)悪くない1122の日だった。

        

とある1日の被写体たち

2012-11-21 22:21:21 | ホビー
確か湘南国際マラソンの翌日だったから、随分前になってしまうか・・・?!いつもは早朝、母を連れて竜泉寺に行くのだが、前日から彼女は趣味の仲間達と熱海温泉に旅行(後に実は湯河原だったと発覚)に行って不在だったのだが、起床の早い私は6時をまわるとごろごろとしていられず、とりあえず海岸線を西に車を走らせた。天気が良いから景色でも撮ろうかと超兵器203号をリュックに入れておいた。辻堂海浜公園を過ぎると正面に薄っすらと見事な富士山が現れた。どうやらそろそろ日の出の時間らしい。以前、釣りに行くときに西湘バイパスを走っていて気付いたのだが、ちょうど日の出には角度的に背を向けて富士山を眺めると、光の反射具合なのかピンク色に輝いて見えたのを思い出した。

私は路肩の邪魔にならない(この時間でも結構交通量はある)所に車を停め、海岸まで203号を持って歩いて行った。東の空を見るとだいぶ明るくなってきたがまだ太陽は顔を出していない。風もなく雲ひとつない海辺は中々気持ちよい。「初日の出」で何度か拝んだことがあるが、やがて江ノ島よりもだいぶ左側から「ピカーっ」と光が差し込んだ。おーっ、いつ見ても「夜明け」とはよいものだ。ホントに周囲が急にふわーっと明るくなる。そして反対側を振り返ると、富士山が鮮やかにピンクかかって見える。夕方、歩道橋の上から日没時のシルエットを写そうとたくさんの人が富士山にカメラを向けているが私は朝の方が好きだ。(しかし右端のマンションがちょっと邪魔だ・・・)

        

一人で車を走らせ、高麗山公園に向かった。先日、母を連れて行ったときは西の空は雲がかかっていて、富士山は見ることができなかったが、海岸から見る限り見事な姿が拝めるだろう。日が昇り明るくなってきたが、気温が上がって霞みが前だったので素晴らしい富士山の姿が見られた。このときはまだ雪が今ほど下まで積もっていないのがわかる。展望レストランが開店前だったので真正面ではないのが残念だったが、テレビ塔からはすっかり日が昇った江ノ島やお馴染み「烏帽子岩」も見られる。帰りに公園から山道を降りる途中にも真正面に富士山が見られる絶好のポイントがあったのだった。

      

帰宅して午前中にいくつかあった用事を済ませ、午後はもはや週課のようになってしまった海岸ウォーキングへ。スケッチャーズを履いて、またまた新江ノ島水族館へ向かった。ちょうど「江ノ島フェスタ」も終盤にかかり、えのすいではクリスマスに向けたイルミネーションとして「うなぎECOツリー」という催しがあった。電気うなぎの発電によって、ツリーのイルミネーションを輝かせるというモノだが、こういう理化学実験のようなものが大好きな私は「買えるものならぜひ我が家にも電気うなぎを(うな吉では無理だった)」と真面目に思っていた。これとまだ見ぬショーアトラクション、「ペンギンストーリー」と「ドルフェリア」が目的だった。入り口付近の並木の回りに「ペンギン」型に刈られた庭木が・・・

  

パスポートを出して階段を上がって行くと、いきなり正面に大きな水槽とその上にクリスマスリーフが現れた。よく見ると水槽の中には大きなうなぎが・・・どうやらこれが噂の「ECOツリー」らしい。うなぎは水槽の底でじーっとしているが、子供が水槽を軽く叩いたりすると「ぶよよーん」と動き出し、同時にリーフのLEDがぴかーっと点灯する。へっ?たったこれだけ?「エレクトリカル・パレード」のような光の洪水を想像していた私は「マリラに茶色のギンガムの服を与えられたアン・シャーリー」のような気持ちになった。電気ウナギの発電能力は電圧こそ高いが、容量が小さくて継続することができないそうである。これでは「うな吉」サイズのヤツでは豆電球一個光らすのがやっとだろう・・・

        

いつも色々な形に変化するイワシの大群が妙に水面近くにいたのが不思議だったが、相模大水槽の中には水中クリスマスツリー(アクアツリー)が飾られていた。それでイワシの大群は水面の近くにいたのか・・・粋なことをするものだが、魚にとっては結構迷惑なんだろな。ショーアトラクション「うおゴコロ」ではダイバーが水槽内を魚と友達のように戯れ、「フィンズ」では水中カメラを持ってダイバーが魚の目線で泳ぎ回るが、やはり彼らにとっては何者にも邪魔されずにのびのびと泳ぎ回るのが一番ありがたいのだろう。エサ目当てとは言え長年の習慣で、少しは魚とお近づきになれたようにも見えるダイバーだが、中には魚に「かじられた」人もいるそうなのだ。いかにお友達でもあの巨大なエイや恐ろしい顔をしたウツボなどと一緒に泳ぐ気には中々ならないなー。今が旬というイイダコが泳いでいる。。。

        

クラゲのゾーンには中央にワイングラスのタワーが煌めいていた。おーっ、クラゲの水槽に囲まれた幻想的な空間でこれまた粋なことをするじゃないか・・・と眺めていたら、なんと!1コ1コのワイングラスに小さな透明のクラゲが1匹ずつはいってるじゃないか!このタワーを中心に水槽内で美しく浮遊するクラゲにLEDの光と音の演出が加わる世界初のスターライトクラゲショー「海月の宇宙(そら)」というのがクリスマス期間には開催されるらしい。実はあの幻想的な空間は「クラゲファンタジーホール」と言うそうだが、カップルなどが飽くことなく優雅に漂うクラゲを眺めていた。妻が言うには「この水族館、夜は『カクテルバー』にしたら絶対満員御礼になる!」
事実、館内を貸切にする「ウェディングプラン」というのがあり、披露宴は水槽の前が会場となるらしい。水中(大水槽)で結婚式というオプションもあるらしいが、これはちょっとねー。。。

      

イルカ・アシカショー「きずな」の時間になったのでイルカスタジアムへ。世界で唯一という「飼育の下芸をする四世イルカ」の活躍を見た。このイルカつい先日お父さんになったそうで、赤ちゃんは隣りの水槽でお母さんといっしょに泳いでいた。つまり飼育下五世ということになる。江ノ島や相模湾を背景にして素晴らしい芸を見せてくれるのだが、残念ながらこのスタジアムの水槽がイルカの動きにしては少し小さく、窮屈そうに見えてかわいそうだ。その後、私が子供の頃から好きなペンギンのショー、そしてイルカと不思議な世界を繰り広げる「ドルフェリア」と続くのだが、その話はまた今度。。。夕陽とともに色々脈絡のない撮影の1日を終えた。

    

ガーデンプレイスでの講演

2012-11-19 22:11:58 | 職場
とある大手ITメーカーの展示会に招待された。研究所の時からお付き合いのある会社で数年前、世界的なPCメーカーの展示会と研究所訪問のため、TGVでパリ&グルノーブルを共に旅した方も勤務する会社だ。場所はエビスガーデンプレイスの先にある「ウェスティン・ホテル東京」、こういうことが無ければ決して足を運ばないところである。少し前に到着して周辺をうろつきまわるつもりだったのだが、横須賀線の車両故障により湘南新宿ラインがまさかの大幅遅れ・・・普段の倍も時間を要してしまった。(まったくこんな時にぃ)正面にあったベーカリーでブリリアントな朝食を、と思っていたのに真っすぐ会場に向かうはめとなった。

    

恵比寿駅の改札を出てから長―い動く歩道を進むとガーデンプレイス広場が見えてくる。その昔も長いコンコースを歩いて、やはりレンガ造りのビアステーション恵比寿に足を運んだことがある。中は広々としたビアホールのようで札幌ビール園同様、ジンギスカンなどを楽しめた。そして人気があったのが「ステーション」というように、線路にある「999」のような昔風の本物の客車内で料理を食べることができたことだ。すごい混み方で一度しか入れなかったが、実際は木製の硬い椅子に長時間座り、景色が変わるわけでもなく、目新しさはあったが正直期待したほどではなかった。。。今はサッポロビアステーションと言ってもすっかり建て替えられ、中に入ったことがない。でもたぶん車両は無くなっているだろな。

  

ガーデンプレイスは「Baccarat Eternal Lights」としてすっかりイルミネーションが準備されていた。クリスマス向けに「これでもか」というほど飾りたてられ、シーズンを迎えて夜のライトアップの盛り上がりが想像できた。赤絨毯のプロムナード中央には巨大なシャンデリアが・・・「アン・シャーリー」が見たらどんな言葉を発したろうか?でも彼女にとっては人工物過ぎてダメかもなー。歩き回るだけでも結構楽しかったが、列車が遅れほとんど時間がなくなっていたので、そのまま真っすぐ先のウェスティンホテル東京へ向かった。海外でも泊まったことのないこの高級ホテルもクリスマスムード一色でどこで展示会が行われているのか検討もつかず、うろうろとロビーをうろつくこととなった。

      

展示会を訪問する目的はむろん、かの会社の多彩なITシステムや技術に関する情報収集という面もあったが、特別講演を聴講するためでもあった。元中日ドラゴンズの「谷沢健一」さんであある。タイトルは「未来ある子供たちへ残したいより良い社会」、今どきは少年野球の指導でもiPadでも使ってるのかなと思っていた。ちなみに前日は猪瀬東京都副知事であったらしい。都も色々あって大変なんだろうと思う。(知事って今いないんだっけ?)
講演会司会からも紹介されていたが、谷沢選手と言えばジャイアンツのV10を阻んだ中日の主力選手でファーストの印象が強く、左打者で首位打者も獲ったことがあった。確か背番号は最初「14」で途中から逆の「41」に変えた。私の記憶にある「燃えよドラゴンズ」では「5番谷沢」としてヒットを放ったはずである。

さて以前、同様の展示会で「江本孟紀」氏の特別講演を聞いたこともあるのだが、この手の評論家の話はタイトルや展示会そのもののコンセプトとほとんどつながりがなく、95%は「プロ野球こぼれ話」である。「撮影、録音」は禁止だったが、うろ覚えだからいくつかここで書き留めても問題はないだろう。話は今年の日本シリーズ第5戦、巨人の加藤捕手が受けたボールがデッドボールだったかどうかから始まった。

●当時のプロ野球は報復合戦だった。
終盤で5点とか点差がついている(試合がほぼ決まっている)と、相手チームの大体の投手は谷沢選手の尻あたり(大怪我しないが痛くて次の試合出られなくなるくらいの)を狙ってぶつけてきたそうだ。星野仙一投手は谷沢選手がデッドボールを喰らうと。(結果はともかく)間違いなく相手に報復しようとしてくれた。監督のウォーリー与那嶺さんは熱い男で、乱闘となった時に戦闘に参加せずにベンチにいると罰金だったそうだ。(都市伝説と言われる「乱闘参加義務」もこれだけはホントだったらしい)

●当時のプロ野球はスパイ&心理戦だった。
センターバックスクリーン上のスコアボードがまだ手動でスコア表示版を取り替えていた頃、その隙間から高性能の双眼鏡でキャッチャーのサインを見て球種を推定し、懐中電灯の合図で打者に伝えていたチームがあるらしい。キャッチャーのサインを盗み見するとはよろしくない(今では禁止?)が、ピッチャーがグローブの中でフォークボールの「握り」をした時に見られる肘の筋肉の微動をサードコーチが観察し左バッターはサインで、右バッターはファーストコーチ経由で伝えていたというのは感心した。またとあるチームのキャッチャーはバッターBOXの彼に「谷沢よ、次のボールは何がいい?」と聞いてきたらしい。「不思議に思って『じゃあ、カーブ』お願いします」と言ったらホントにカーブが来た。しかし一度も打てたことな無かったそうだ。もちろん言ったとおりに来る保証はなく、人間半信半疑だとバットがうまく出てこないそうなのだ。

●巨人軍堀内投手との逸話
江川投手が有名だが、打者から見て「浮き上がってくるように見える」速球を堀内投手も持っていた。彼は他に2種類のカーブを持っていて、ひとつは肩口から一度浮き上がってストンとドロップするカーブ、もう一つは腰の高さからすーっと低目に落ちていくカーブだった。当時の数年間彼は堀内投手を全く打つことができなかった。二人はある日、何人かのグループでいるところ偶然に遭遇し、中華料理を一緒に食べることになった。その席で堀内投手は隣りにいた彼に「おい谷沢、お前オレのカーブ打てねえだろ?」と話しかけてきた。首を傾げながらうなずくと「お前はな、腰から低目に逃げるボールを打ってるんだ。アレに手を出しちゃあいけねえ。肩口から一旦ふわっと浮き上がる方のカーブの落ち際を打つのよ」
谷沢選手は生涯2度だけ「5打数5安打」を経験したが、翌日がそうだったそうだ。。。つい最近何十年ぶりに堀内さんと会食した時にその話をしたら、彼もそれを覚えていて「谷沢がオレの言ったことをすぐに実行できる打者かどうか試してみた」と言ったそうである。

あんまり感心しない話もあったが、やはりテレビでしか見たことのない我々にとって、「向こう側」であった逸話というのは実に興味深いものだ。話は今年の日本シリーズ5戦の話に戻った。
加藤捕手の演技?!、原監督の抗議、これをすぐに受け入れた主審、そしてこれに対し抗議に行った栗山監督・・・彼は時代の変遷を感じたそうだが、それをこんな風に語っていた。
「事の是非はともかく、栗山君は見に来ているファンや選手のことを考えて抗議をルール通り5分で終えた。一部コーチにより報復の提案もあったが彼はそれをしなかった。彼自身の性格もあったかもしれないが、私は今のプロ野球に昔にはなかった『優しさ』を感じた。メジャーの弱肉強食などは別として、これから野球をする人にはこの「優しさ」がないと受け容れられないと感じた・・・」

正直何を言いたいのか分からないところもあったが、そんな話を聞きながら私は「侍ジャイアンツ」を思い出していた。たしか「長嶋流喧嘩野球」の巻(ってもしかして死語?)だったと思うが、その話はまた今度・・・
講演が終了し、出口で待っていてくれた元室長の「マイ」さんが昼食を誘ってくれた。新しくなったビアステーションにぜひ行ってみたかったが、どうしても時間が間に合わず会場を後にすることとなった。近くにサッポロビール本社もあるんだな。色々と散策すると面白そうな街で、たぶん有名なお店もたくさんあるだろう。恵比寿という街は一度ゆっくり歩き回ってみたいものだ。。。

      

カイゼンの祭

2012-11-14 22:08:21 | 職場
陸上自衛隊司令官の講演の後、午後の部は各セクションから代表として選考されてきた10数チームがホールで発表を行う。審査員はブランチオフィスの幹部他で、結構細かく採点する。営業や共通事務、法人営業に施設系など多岐にわたるセクションからそれぞれの仕事の中で「カイゼン」したことを8分程度のプレゼンテーションにまとめる。最近はあまり型にはまらない形式になりつつあるが、フレームとしては「チームの紹介」「現状把握」「目標設定」「課題解決」「効果の確認」「歯止め」などと進めるのが一般的だ。数年前は全国規模の大会でも代表となれる「無敵」のチームがあり、毎回完成度の高いプレゼンを披露して最優秀賞を持っていった。

審査員だからあまり「ああだこうだ」言って不公平になってはいけないのだが、私は昨年の発表会では「プレゼンで勝てねえなら『ウケ狙い』で行こうぜ。何か面白いことやってくれ」特に技術屋の工具の工夫やソフトウェアツールなどは劇的に仕事が「カイゼン」されても「百聞は一見に如かず」、図や活字だけではよくわからないことが多く、会場に伝わりにくい不利な面があった。昨年はVTRを効果的に使い、中島みゆきさんの「挑戦者」をBGMにしたり、ビフォーアフターのサザエさんの声「何ということでしょう!」を駆使し、新入社員はいかにも似合わない作業ユニフォームにヘルメット姿で現れ、さんざん会場を荒らしたあげくワン・ツーフィニッシュ、そして5位までを独占したのだった。

特に100円ショップで買ってきた小さな金属の輪を改良して「リング2」と名付け、「貞子」と共に会場を恐怖に陥れたテーマ作品は入賞こそ逃したものの、プレゼンに改良を重ねついに年明けの全国フォーラムのワークショップで「半ウケ半ビキ」という微妙な成果をもたらせたのである。元々、こういった草の根のようなカイゼン運動が盛んな風土を持ち、毎年それなりにはやってくるルーキーズ達と同年代の若手パワーで段々と「王道」からは少し外れてきたが、楽しい方向に盛り上がってきだ。

「よーし、どうせ悪ノリも『あり』なんだったら『祭』にしちまおうぜ」と主催側セクションで飽きっぽく、いつも同じことを繰り返すのが好きでない私はこれまで「発表会」としてきた催しを「発表祭」と変えてしまったのである。司令官にも講演をお願いし、元ルーキーズペアを司会に抜擢、パネル展示なども昨年よりもだいぶパワーアップして臨んだのだった。むろんこれまで高いパフォーマンスを誇ってきた入賞常連チームも完成度の高いプレゼンを初っ端からかまし、審査員達を感心させた。各チームの発表の前には推薦者(PTA)の1分間PRがあり、どんなところを見て欲しいかアナウンスされる。発表後の講評の代わりに今回から採用されたのだが、どうせなら前と後、両方コメントがあったほうが分かりやすかったかなー。

大震災の後、施設の塗料の剥がれ状況を調査しにアンテナ鉄塔を一緒に上った元ルーキーズの「ハナちゃん」が若手の全員投票式「やる気DASカップ」でグランプリを取ったテーマ作品があったが、残念ながら今回は発表者にはならず、また自身が映っていた「カイゼン前後」のモデルも別人になってしまっており、それが裏目に出てしまったのか、入賞には至らなかった・・・渡された発表プログラムを見ると、別に意図した訳ではないが、その発表順はトップバッターが最も「王道」を行く模範サークル、トリが最も「邪道」なウケ狙いサークルになっていた。昨年「リング2」をかました、あのチームである。

PTAは実はサッカーがうまいことが発覚した「いっけい」で「本人達は一所懸命やってますが、大きな期待はせずに暖かい心で『笑うトコロ』は笑ってください。しっかし、発表者はどこに行ったんでしょうねえ・・・・?!」なんーてすっ呆けていると、後ろから謎の白衣翁が現れた。(アイツら、演出十分じゃねーか?!)
会場の半分どよめき、半分爆笑を尻目にステージで「ビートたけし」ばりに大コケし、持っていた怪しげなガラクタをぶちまけて「ワシは発明王『エジサン』じゃ。今日はワシの発明をお披露目するためにやってきたんじゃぞ。。。。」と初めた。名札まで自作したそうだが、この「発明王エジサン」は確か「オバケのQ太郎に登場するのである。動く廊下を発明(40年前くらいに)するのだが、一方向にしか進まないため反対方向に進もうとするとダッシュしなければならない、というシーンを記憶している。

さて我が方の発明王だが、8分の発表時間中ずーっと例の「しゃがれ声」でプレゼンするダメージを想定していなかったのか途中「げほげほ」と苦戦していた。ご丁寧に普段はほとんどされない質問にまで「エジサン」で回答し、撒き散らしたガラクタをそのままに舞台を去って行った。
機密事項なので細かく書けないが実はこの発明王、すごいのは今度考案した秘密兵器についてホントに特許出願しているのである。しかも多少なりとも私のアイディアも入っているから出願者に名を連ねているのだ。ブランチオフィスではKYOちゃん以外にはおらず、もう読者も忘れているかもしれないが、私は研究所に勤務していたので、特許出願の要領とか事務手続きの手順など知るべくもない「エジサン」たちに指南したのである。むろん権利は会社に譲渡してしまうので、大ヒットしても大金持ちにはなれないが・・・

  

私は舞台裏で発明王を記念撮影し、審査員室へ向かった。採点はリアルタイムにPCで行っているから、審査結果は既に出ていたが、「発明王」チームがダントツの1位!私のセクションだったから我田引水のようで苦笑モノだったが、採点は10人近くの人が公正に行ったのでそのまま最優秀賞となった。
表彰式と記念撮影(残念ながらエジサンは着替えていた)を済ませると、発表祭の終了挨拶も兼ねて私が講評させられることになっていた。いつもならチームごとに講評者がいて、発表直後にそれぞれコメントしていたのだが、今回は前にPTAによるPRタイムを置いたので「後ほど磯辺さんにまとめて講評いただきます」と司会進行の「ハナちゃん」に宣言されてしまったのだ。実は壇上に上がる時に「発明王」のコスプレを借りて、タケちゃんばりの「大ずっこけ」をかましてやろうか、と考えていたのだが、表彰式が終わり会場が落ち着いた終了モードになってしまっていたので止めた。
私は人前での挨拶や総評などに「紙」を使う習慣はないのだが、さすがに10数サークルの発表内容を全部暗記しているわけもなく、プログラムだけ持って発表内容を思い出しながら順番にコメントしていった。そして最後に主催事務局を代表して・・・

「皆さん、本日は丸1日にわたり業務改善発表祭に参加いただきありがとうございました。私はこの大会、3回目の参加になりますが、「カイゼン」をテーマにしたものになりますので、「講評」もカイゼンされていかなければならないんですが・・・・午前中の「指令」の講演を聴いて本職で頭が一杯になってしまって、何を話すのかまとまっていないのが正直なところです。初参加の時はこのブロックの改善意識の高さに感心しつつも、セクションごとには若干の温度差を感じ、「全員参加型で行こうじゃないか」をスローガンにしました。結果、これまで聞いていたよりはかなり盛り上がって「やりがい」を感じたところではありました。しかし、どうも個人的には「真面目過ぎて楽しくない。遊び心が足りない」」と感じ、前回は「何でもありで、とにかく面白いことをやろうぜ」と言いました。人間しかめっ面でモノを考えるよりは楽しんでいる方が『いい知恵』が出るものだ、と思ったからです。ノッてくれたチームもあり、目新しかったこともあって、前回は自分なりにずいぶん進化したものだと感じました。これを発展させ(実はかなり『いい気』になってですが)今回は大会を「発表祭」にしました。それはまたしても少し王道から外れたことも始めたかったからです。それはホスピタリティの推進です。顧客賞賛事例紹介やDVDを鑑賞いただいたのもそういう試みの現れなんです。我々は一般的に言う「業務改善」と言う意味ではかなり高いレベルを持っていると思っています。しかしそれはあくまで『自分の仕事を楽にするための』工夫であって、それはまだまだネタは尽きないでしょうが、他人を楽にするために出した知恵も違った味の改善が出てくるのではないか?人間、自分一人の為よりは他人のために力を尽くす時の方が能力を発揮するような気もしたのです。しかしこれまでの「カイゼン」の考え方は「具体的効果」が求められることが多く、このジャンルの取り組みは感心はされるものの「予選」で姿を消すことが多かった。比較的長い我が社の「カイゼン」の歴史には新入社員のアイディア・提案によって大々的に組織名を変えたこともあったんですよ。こういうのも大事なカイゼンだと思います。次回はこういう取り組みもちゃんと取り上げて共有するために「ホスピタリティ」部門を設けようと思います。「全員参加で」「遊び心を持ち」「ホスピタリティを大事にする」というのがカイゼン祭の目指すゴールだと思っています。今日は1日にわたり、皆様お疲れ様でした。これをもって本年度のサービス品質向上・業務改善改善祭を終了します・・・」

駅ナカとデパ地下

2012-11-11 17:08:54 | 出来事
「東京は日本のHbf(ハウプトバーンホフ)=中央駅である。」と以前書いた。丸の内側駅舎は新しくオープンし、その荘厳な姿をライトアップさせている。エキナカも「セントラルストリート」には先日紹介した「駅弁屋 祭」の他に、「Sweets Bouquet(スウィーツ ブーケ) 銘菓紀行」なるお菓子名店街や「Select Market(セレクトマーケット) 東京百貨」がオープンしもう完全にデパート化している。東京百貨は
東京ベーカリー、弁当屋、グロサリー、ワインショップ、テイクアウトカフェ、ドラッグストア、雑貨屋などが立ち並ぶセレクトショップで、おそらく列車に乗る前に何でもそろう。品川駅の「ecute」もすごいと思ったがさすが東京は中央駅、規模にして比較にならないくらいの街となっている。

      

私は普段この駅を通過するだけで、しかもその時間は朝早ーく、帰りは夜なのであまりうろつく暇がないが、新生大丸デパ地下も含め1回でなく何回かちょろちょろと歩き回ったので、一旦紹介しよう。
まずは丸の内側地下ホーム(総武線快速)に行く手前の出口にある「動輪の広場」である。丸の内側の待ち合わせ場として有名だ。かつて東海道線を走っていたC62(確か愛称はシロクニ)蒸気機関車の動輪を保存したものだそうだ。ちなみにC62は「銀河鉄道999」に登場する主役である。前に新しく完成した東京駅丸の内駅舎の模型が展示されている。その昔、横須賀線がまさか千葉の方まで延びるとは思わなかった。このおかげで出張で海外などに行く時には大船からNEX1本で成田空港に出られるのである。ちなみに「快速エアポート成田」というのもあるが、ただの「スカ線」である。

  

さて、八重洲側は「銀の鈴」という待ち合わせ場所があったはずなのだが、最近目にすることがなかった。1Fの改札付近を北、中央、南と、うろうろとしていると、階下に行くエスカレーターがあった。あれれっ?東京駅のコンコースに地下なんてあったかな。降りていってみるとびっくり仰天!地下が1Fに負けないくらい「街」になっていた。しかも何となくお洒落な地下街でカッコよく一杯引っ掛けて(私には無理だが)列車待ち・・・なんてことができそうな空間だった。「銀の鈴」はこの地下1階の八重洲口側に鎮座していたのである。レンガ作りの看板があり、ちょっとお洒落なデパ地下のようなリカーがあり、何となく足が向いてしまう小物屋やトレンチコートで一人グラスを舐めるようなバーもある。実はこの「グランスタ」もう5年近く前にオープンしたそうだ。丸2年、毎日ではないが利用していたのに全く気がつかぬとはぬかったものだ。。。。

                

妻が聞いたらきっと来たがるだろうと思われる地下エキナカを八重洲側に出ると(定期券だから何回で入りしてもOK)「東京おかしランド」というゾーンが登場した。2012年4月14日(土)、日本を代表する大手菓子メーカー3社のアンテナショップが集合した"日本初"のお菓子をテーマとしたゾーンだそうだ。「ぐりこ・やKitchen(江崎グリコ)」「森永のおかしなおかし屋さん(森永製菓)」「カルビープラス(カルビー)」の3店舗があり、全国の地域限定商品に加えて、ここでしか買えない商品もラインナップされている。かなり人でごった返していて、試食のチョコや店内のキッチンで作った出来たておかしを頬張っていた。アーモンドチョコと言えば私は明治よりもグリコ派である。半分だけ銀紙を剥いてカリっと食う松田聖子が懐かしい。

     

次なるは「東京キャラクターストリート」である。ジャンプショップをはじめ、各民放のショップが並ぶ。一番先にあるのが「歌舞伎屋」というのが渋い・・・ちなみに歌舞伎グッズに「歌舞伎揚げ」も売っている。むろんウルトマンM78もはずすことはない。ニューアイテム「ウルトラ警備隊の名刺入れ」うぃ発見!迷わず購入したが、中には地球防衛軍「モロボシ・ダン」の名刺が20枚ほど入っていた。一体どこで何の目的で使うことがあるのだろう?と首を傾げていたが思わぬところで登場し、真っ青になることになる。。。「東京キャラクターストリート」の反対側は「東京ラーメンストリート」である。全国の有名店を集めたようだが、一度も入ったことがない。

             

そして八重洲地下街を歩き進むと大丸デパ地下に入る。テレビか何かの取材班がきていた。先日、いくら探しても見つからなかった小夏師匠の「男弁当」発見!いきなり入り口にあったのか・・・息子の夜食に一つ購入したが、ずしりと重く中身がぎっしり詰まっているようだった。お弁当ストリートが一本入ると、「お肉の細道」というコーナーが現れる。「黒毛和牛のサーロインステーキ」が2100円!もはや弁当の領域を超えていると思うのだが、2580円の弁当が売り切れ・・・買う人がたくさんいるってことか?!そして極め付け「シャトーブリアン弁当」が6800円!そしてトドメがサーロイン、シャトーブリアン、黒毛和牛ハンバーグセットの「極味弁当」9600円!!!恐るべし、まさしく弁当の安土桃山時代だった。。。

        

              

お弁当ストリートの反対側には結構人だかりがしていて、何か演出しているようだ。よく見るとおしゃぶり飴を作っているようだった。板状の飴の素を何種類か重ねてぐるぐる巻きにし、輪切りにしていくようだ。小さいヤツは味見をさせてくれる。これが「PAPABUBBLE」という結構有名なお店らしい。しかしどう見てもただのおしゃぶり飴なんだが、何が流行るかわからないものだ。駅の周辺にも実に面白い名所がたくさんあるようだ。まずは東京駅ナカを妻と歩いてみよう。食事もできるしショッピングもできるし酒も飲める。なんたって改札から出なければ一駅分の料金で来れるからなー。(あれっ?いけないんだっけ?)

          


司令官の講演

2012-11-08 11:09:17 | 職場
我がブランチオフィスでは、年に1回関連会社と全セクションが参加する「業務改善発表会」というのがある。技能競技会などと並び社を上げて行う大きなイベントである。私は施設とともに、CS(顧客満足度)などを管理するCRM系セクションも兼ねて担当しているので、主催者として臨むことになる。少し前はTOYOTAを代表として小グループのグループが仕事上の色々な工夫を形にして発表しあう、「QC(クオリティマネジメント)活動」とあいまって各企業で盛んだった。HBSのケーススタディでも「kaizenn」というのは国際語になっているくらい広まってやがて定着していった。オフィス勤めをしたことある人なら「QC7つ道具」とかは耳にしたことがあるだろう。

それらはごく一般に浸透し、別に廃れたわけではなく当たり前のように使われるようになったのであえて特別な活動としてラベリングされたり、○○大会などと全国まで階層化して共有しあうものでもなくなった。我が社では全部ではないが一般にブランチオフィスごとに独自にその活動を展開し、そのうちの最も「形あるものとして現場力を象徴するモノ」が全国レベルのフォーラムに紹介される。このフォーラムはどちらかというと技能競技に近い意味をもち、昔のQC活動の発表会とはだいぶ様相が異なるのだ。

我が方は毎年、市のホールを借り、ほぼ1日使ってこの発表会を行う。全セクションが集まる会など中々ない機会なので、サービス品質向上に資する他業種の話などを聞けるよう特別講演をお願いするようにしている。偶然、今年はお馴染み(なのは私だけ?)「陸上自衛隊副旅団長兼駐屯地司令官」の○藤一等陸佐であった。以前から何度か訓練でご一緒し、意見交換などもさせていただいたが、きさくな人で何でも興味をもって接する人だった。タイトル「福島での学習と将来への適応」。かの部隊は大震災の翌日我が方の緊急派遣隊を輸送ヘリで仙台へ送り込んでくれた後、福島原発周辺の立入り禁止区域で様々な活動を行っていたそうだ。

防衛大学で宇宙通信工学を修了され、誰に対してもバリバリとモノを言い、ゴルフ、スキー、山歩き大好きのアクティブな方である。ヘリコプター部隊を中心に持つ旅団でつい先日まで旭川で輸送訓練をしていたら明後日からは九州へ飛ぶという忙しさだ。「ch-47いつでも使ってくださいよ!遊覧はまずいですけどねー」とからから笑っておられた。先日の佐渡訓練後の意見交換では「我々はCOI(Community Of
Interest)、共通の使命・関心をもった集まりを形成し国民のために協働したいと思う」と熱く語っていた。その時は当時、多賀城にあり甚大な被害を被った部隊の指令もいらしており、和やかな雰囲気でも中々盛り上がったものとなった。


「我々は国民保護法に則り、3時間以内に被災地最前線に駆け付けることになっておる。民間の関連機関もそれと連携できるようにしてほしい。特にあなたがたは・・・」
「我々が一番困ったのは施設まで辿り付けなかったことです。瓦礫が邪魔でそこまで来ているのにバッテリーが枯渇して停止した施設をいくつも見ました」
「貴社の支店にはバイク隊もおありになるのを見たことがあるが・・・」
「私も要人会議の際に構成した例を見習ってバイク隊を編成してみようと検討したことがありますが・・・なにぶん高齢でオフロード乗れる者がいないんです。カブ隊まで考えたんですよ。」
「2000人からいる我が隊をいつでも協力させる。ところで自衛隊OBにまだ現役ばりにバイク乗れる者がいるんだが、貴社に雇ってもらうとかは・・・」
「な、なんと・・・(げげぇーっ、この司令官まじめに言ってんのか?!)」
とまあ、我々とこんな会話を繰り広げたものだ。(むろん、実際はこんな帝国軍人のような口調ではなく柔らかなものだったが、私にはこんな風に聞こえた。)

さて、年齢でいくと私よりも6つほど年長になろうと思われる方だが、特別講演を快く引き受けてくださり、市民ホールにいきなり「迷彩服」でにこやかに現れた。(色んな人がいるからなー。一般市民の施設であのスタイルでもいいのかな)彼が言うには自衛官としてはこれが正装で、どこに講演行くにもあの姿なのだそうだ。(結構手広く話して回っているらしい)
講師控え室で「いやー、どうもどうも。急に冷え込んできましたねえ。今週なんて旭川の方が暖かかったですよ。おーっそうだ!家内の方にチョコレート付きラスクを贈っていただいたそうで・・・ありがとうございます。単身で滅多に帰らないもんですから、ははは。女房は恐い!」まあ、万事こんな調子である。

司会は講演者のことを「○○先生」と読び、略歴を紹介した。講演を始めるにあたって彼は「日頃から合同訓練などにおいて、自衛隊の活動に理解頂き、多大なご協力を賜りまして深く感謝いたします」と頭を下げた。講演の内容は機密事項のようなものもあって中々ディスクローズできないものが多かったが、司令官が教訓として大事にしているフレーズは中々心打つものがあった。
「最も強い者が生き残るのではなく、 最も賢い者が生き延びるでもない。 唯一生き残るのは、変化できる者である」---チャールズ・ダーウィン
「ボクは自衛官だから『政府』を批判したりするとクビなんですけど・・・」福島原発事故の際、最前線で部下を危険に晒しながら指揮官としてはもの申したいことが山ほどあるのが伝わってきた。
そして、彼が毎日「拝している」(と言っては大袈裟だが、最も大事に抱えている言葉・・・・

「君達は自衛隊在職中決して国民から感謝されたり歓迎されることなく自衛隊を終わるかもしれない。
きっと非難とか叱咤ばかりの一生かもしれない。御苦労なことだと思う。
しかし、自衛隊が国民から歓迎されちやほやされる事態とは外国から攻撃されて国家存亡のときとか、災害派遣のときとか、国民が困窮し国家が混乱に直面している時だけなのだ。
言葉をかえれば君達が「日陰者」であるときのほうが国民や日本は幸せなのだどうか耐えてもらいたい」
吉田茂訓示
昭和三十二年二月
防衛大学校第一回卒業式にて

後から聞くと、会場にも「あれには共感を覚えた。自衛官ならではだよねー」という声がたくさんあった。1時間半の講演が終わり、質問タイムになった。この手の講演会ではほとんど質問らしいものはないのが普通だが、これだけ熱く語っていただいて何もなく終わるのは申し訳ないと思っていると、一つ(もしかして予定通り?)尋ねるものがあった。私は聞きたいことが山ほどあったが、彼のことを何とお呼びしようか考えあぐねていた。「先生」?・・・じゃないよなー。「副旅団長」?・・・うーん、しっくりこないなー。「陸佐」?・・・オレ、自衛官じゃないからなー。。。。やがてショッカー戦闘員のように手を挙げ、
「指令っ!貴重なお話、ありがとうございます。私は佐渡で一緒に訓練させていただいた責任者であります。あの時仰っていた『COI』という言葉がすごく印象的だったので、せっかくの機会ですから会場の者だちに紹介いだたけませんか?それともう一つ、決断力を養うという訓練を見せていただいたり、仕組みについて教えていただくことはできますか?(ぶっちゃけソフトウェアを頂けませんか?)」

彼は「我が意を得たり」という顔をして、また熱く語ってくれた。よほどヒットしたのか、講演後に講師控え室で挨拶すると手を取らんばかりに笑って「いやー、スタッフに言っときますからぜひぜひ見に来てくださいよー。あの訓練、危機管理にはホントにいいんですよ」どうやら防衛関連事項に触れない限りはソフトウェアもいただけそうな感じだ。(ついでにヘリにも乗せてねー)と喉まで出かかったが、さすがに止めておいた。実はそんな想いも込めて駐屯地の売店で買った「oh-6D」偵察ヘリのネクタイピンをしていたのだが、司令官は気がつかなかったようだ。また「講演資料くれませんか?」とお願いしたところ
「丁重なメールありがとうございます。多少なりとも、御社のお役にたてたこと、COI構成メンバーとして嬉しく思っております。ご依頼の件ですが、講演資料は私が作成したものですから、基本的には
送付しても問題ないと考えます。ただ、組織の内規上、部外に出す場合は、保全監査を受ける必要があります。明日から三日間ほど九州に行きますので、戻ってから監査を受けて、その後送付したいと思います。 組織の特性上、多少の時間を要すること、ご容赦下さい。     ○○拝」

実はこの後の発表会が本題だったのだが、午前の講話で頭がいっぱいになってしまい、たくさん書いてしまったので午後の話はまた今度・・・(こういうの多いなー)

駅弁の祭り

2012-11-03 10:55:55 | 食べ物
今、色々と話題になっている東京駅に日本中の駅弁を集めたというコーナーがある。150種類以上の品数を誇り、期間限定のイベントかと思ったらずーっとやっているらしい。部屋に飾りたくなるような見事なショーウィンドーをきっかけに「べんとう」について書きだしたのだが、自分の物語ばかりになってしまって、本題に入れなかったのが前回である。
私が幼い時、実家に自家用車が無かったから家族でちょっと遠くへお出かけするときはどこへ行くにも電車だった。以前書いたように東京方面にお出かけすることが多かったが、東海道線で1時間程度だし、父があまり好きでなかったために駅弁にはあまり縁がなかった。

      

しかし家族で旅行する時や両親の郷里、富山へ行く時などは長時間の乗車になるので何か買って持ち込むことになる。以前も書いたが父はこういう時に何やら必ずパターンを持っていて、東海道線なら「小鯛寿司」か「鯵の押し寿司」、新幹線なら「うなぎ弁当」、北陸線では「鱒寿司」しか食べなかった。私も似たようなものだったが。東海道線ではよく「カツサンド」を食べていた。新幹線は米原までなので「こだま号」だ。丸い顔の「こだま号」には食堂車はなかったが、スピードメーターのついた「ビュッフェ」があった。出窓のようなテーブルで富士山を見ながら食べるのはむろん「ハンバーグランチ」である。子供ながら富山に行く時はこの贅沢なごはんが最大の楽しみだった。。。

      

友人と遠出するようになると、やはり乗用車を使うことが多くなったが、たまに「列車の旅」も恋しくなり「青春18きっぷ(ってまだあるのかな)」を使って鈍行であちこち行った。雰囲気を味わうためにいかにも「形」から入った我々は4人がけBOXで弁当は「幕の内」、杯のような小さなキャップで飲む緑茶、おやつは冷凍みかんである。若い時は年寄りめいた風情を楽しむところがあり、「やはり列車の旅はコレよねー」と景色を見ながら幕の内弁当を開けていた。仲間内で楽しい旅だったが、実はこのスタイルだけはあまり好きになれなかったのだ。

確かに列車の旅の定番3点セットだが、私は漬け物が食べられないから幕の内では「アウト」のおかずが多いのである。さらに念のいったことに、漬け物やその汁などが付着した伝染エリアも食べられなくなるのだ。ごはんゾーンのど真ん中に鎮座まします梅干しはその周囲の米と共に孤島化していった。雑な盛り付けで奈良漬あたりが定位置を越えて他国へ進入していたりするとやはり「希望を埋葬した墓場」になってしまう。。。へなへなの蓋には必ず米粒がたくさんついていて、実に取りにくい・・・幕の内弁当ではえてして色んな悲劇が起った。(どう考えてもカツサンドだろ・・・)と密かに思っていた。

そしてプラスチックの妙な臭いのついた緑茶・・・蓋が小さなカップになっていて中にティーバッグが入っている。ただ苦いだけの茶を飲んでどこがうれしいのか理解できなかった。。。飲む側あと反対側に小鳥のくちばしみたいな金具で穴を開けて飲む、やけに濃い「みかんジュース」の方がよっぽどマシだと思っていた。冷凍みかんは好きだったが、ちょうどいい「半分くらい溶けている」ヤツを探すのが難しい。あまり長くガラスを開けているとKIOSKのおばさんにじろじろ睨まれてしまう。(列車のおやつは森永ハイソフトかチェルシー(ヨーグルト味)に決まってんだろ)と苦笑いしていた。

最近はおにぎりだが、社会人になって一人で出張する時などは父の影響もあったのか、何かにつけて浜松を通過するあたりでお約束のように「うなぎ弁当」を食べていた。東北方面の時は「牛タン弁当」、上信越方面のときは「峠の釜めし」だ。実は昨年の今頃大阪出張した時も新幹線で「うなぎ弁当」を食べようとしたのだが、なんと1300円!さすがにここまで高額になると「駅弁」の域を超えているような気がして名古屋駅の「激辛きしめん」になったのだった。どちらかと言うと車内で弁当というよりも行く先々で名物を食べる方が楽しいものである。

          

東京駅の「駅弁屋」だが、朝5時半から営業しているという。その場で作るのも多いらしいが、駅の営業時間に150種類の日本中の弁当を常備するとは恐るべし!毎日だと財布が持たぬから週一くらいでひとつずつ制覇してみようか。。。こういう時だれかパートナーがいると楽しいのだが、さすがに東京を通過して通勤する同僚はいないのでここは一人飯だなー。
そして駅弁屋もすごいが、もっとすごいところがあった。そう、小夏師匠に教えていただいた「大丸デパ地下」である。

        

駅弁は何となく列車内で食べる「お約束」だが、デパ地下はまさしく昼食(夜食?)の弁当なので実に多彩で「趣向」というよりも「味」重視だ。少し時間があったので足早にうろついてみたが、「弁当ストリート」なるコーナーがあって豪華絢爛、そのまま料亭に出てきてもおかしくないような美味しそうなモノの連続である。駅弁など比較にならない・・・しかしデパートの地下って漬け物コーナーがあるからあまり近寄らなかったのだが、こんなすごいことになっていたのか。。。
さらに弁当ストリートから分岐したところに「お肉の細道」という焼肉やステーキ弁当などのオンパレードコーナーがある。 

さて師匠に教えていただいた「男弁当」、塾で遅くまで忙しい息子甘辛に買って行ってやると言っておいた。が、店名を忘れてしまってどう歩き回っても見当たらない・・・「期間限定なのかなー。見当たらないんだよ」とメールを打った。今、確認したら「うずきの」というお店なんだな。確か入り口付近にあったような気がする。もっとよく調べておけばよかったが、毎日通るから次は必ずGETしよう。また1時間ほどだったが、東京駅ナカも歩き回ってきた。全然知らなかったが、いつも通るコンコースの地下に「グランスタ」という巨大な街ができていた。いずれレポートすることにしよう。(なんか本編の方がしょぼい話になってしまったな)

おべんとうヒストリー

2012-11-01 23:06:06 | 食べ物
先日、テレビ番組で「アメリカの働くお母さん達に日本風弁当が大人気」という特集があった。見た目もきれいで栄養のバランスもよく、世界に誇る「アニメ」なども取り入れているので、子供達にも絶大な人気をもつという。「bento」という言葉が「sushi」や「karaoke」のように浸透し始めているそうで、レシピの本などもたくさん出ているそうだ。写真などを見ていると、思わず楽しくなるようなカラフルなものが多い。幼稚園や小学校の時のお弁当は遠足や運動会が主だったから、圧倒的に「おにぎり」が多かった。おかずがあったとしてもあまり覚えていない。いわゆる「弁当箱」のデビューは中学生になった時だった。

父親は会社勤めに毎日、母親の作る弁当を持って行く人であった。元々食べるものにあまり頓着しなかったらしく、「サケの切り身」「卵焼き」「漬物」あたりを中心母の作るいかにも「地味」な弁当を毎日飽かずに食べていたようだ。私が中学生になって弁当を持って行くようになると、当然初期の頃はおかずについては「便乗」されることになる。私もおかずのバラエティなど気にしていなかったが、そのうちクラスメイトが持ってくる弁当が自分のよりもかなりカラフルなのに気付いてきた。またおかずがおおざっぱで丸ごと入っていることが多く、「品数」が少ないことについてだんだん不満を持つようになった。「もう少しべんとうを色とりどりにしてほしい」と頼むと「お安い御用」みたいな答えが返ってきた。

翌日、期待を膨らませて弁当箱を開けるとおかずゾーンの4分の1くらいを「ミックスベジタブル」が占めていた・・・(微妙に違うんだよなー)
2年、3年生になって部活が忙しくなりいわゆる「成長期」も迎えるとさすがに父親の持って行く「肉の入っていない」地味弁ではもたなくなり、豪華絢爛、弁当の安土桃山時代みたいなのがやってきた。弁当箱はほぼ2倍の大きさ(もはやドカベンの領域)のタッパーになり、母は冷凍食品がまだ貧弱だった当時にしては充実した弁当を持たせてくれた。しかし前夜の残り物を使うことも多く、結構色々とやらかしてくれた。。。

別添付のデザート(主に果物用)の丸いタッパーにぎっしり餃子が入っていたり、冷ややっこの残りが入っていたり・・・ある時、おかずゾーンに焼き鳥(串付き)と枝豆が入っていたことがある。今でこそ焼鳥丼があるくらい市民権を得た焼き鳥だが、当時はまだ「赤ちょうちん」の身分に過ぎず、串付きでおかずゾーンを占められるといかにも違和感があった・・・中ジョッキがついてくればまるで「ほろ酔いセット」のようだった。超久し振りに旧友に会うと今でも言われるから、かなり鮮烈な印象を持たれたらしい。

しかし他の級友にも中々面白いおかずを持ってくる者がいた。実家の裏に何年か住んでいた同級生はある日、教室じゅうに芳しい香りを充満させた。カレーである。今では電子レンジで温めたり保温容器で食べられるらしいが、当時は冷たい米とスプーンでゴリっと削ぎ取るしかない「ルー化」してしまったカレーを交互に食べていたようだが、どうみてもそれほど美味には見えなかった。ただし香りだけは食欲を刺激したものだ。
また、ある者は弁当箱を開けて何やらゴリゴリしだすと教室中に実に個性的な香りが蔓延した。納豆である。まあ、健康食品だし好きな私には分からなくもないが、少なくとも女子ウケは実に悪く「アイツ、弁当に納豆入れてなかった?」とか囁かれていた。

私が地道に要求を続けたことにより、我が弁当はだんだんと素晴らしいものに変貌していった。何せ自分の好きなものしか入っていないから。。。(野菜は好きでなかったが仕方なく食べた)私はおかずの中身がどうのこうのよりも、少し醤油をつけ下地におかかがまぶしてある「のり弁」が好きだった。むろん毎日ではなかったが、勝負日には必ずのり弁をリクエストしたものだ。ただ実家は父のこだわりか朝御飯用の海苔は厚めのいいヤツ?を使っており、それをそのまま弁当に使っていたので、一枚海苔をバーンと張られると箸でちょん切れなくなってしまい実に食いにくい。またふたを開けるとべとーっとふたの裏に張り付いていた時の落胆と言ったら、アン・シャーリーに言わせれば「希望を埋葬した墓場」であった。そんなこんなで「のり弁」には結構思い入れがあり、弁当屋で見る製品では「のり弁」が最も優秀だと今でも思っている。

高校に入学してからは誰にでもある人生の最強食欲期がやってきて、いくら食っても腹いっぱいということがなかった。箱のしきい板をずらしてご飯ゾーンを拡大し、はみ出たおかずは別のタッパーにしてあった。それでも1時限目が終わるとお腹が空いてどうにもならなくなり、休み時間に持参した弁当はあらかた食べてしまった。2時限目を終えると売店にパンが配送されていたので(我が校は1時限70分の4校時システムだった)惣菜パンを買って食い、3時限目が終わるとダッシュで食堂へ行ってランチカレーを食べた。ランチカレーとは通常のおかず+丼飯という構成のランチの米部にカレーがかかっていたものだ。数学にポケ(もう時効だよな)という教師がいて、「習った年数だけ浪人する」という都市伝説があったが、1時限目の休み時間に食べ終わらずに構わず授業中も食っていて取り上げられたことがある・・・(ソースの香りで分かったそうだ)

高校の卒業と共に、母も私に対して6年にわたる弁当作りを卒業した。父向けは相変わらず作っていたので2種類が元に戻っただけだが。ところで東京ガスでロングバージョンだが、母親が息子にお弁当を作り続けるCMがある。息子の成長と母親の想いが弁当に現れて最後にグッとくる心温まるCMである。(東京ガスのCMは時々素晴らしく感動するいいのがある)

社会人になって結婚して会社員としてそこそこ周囲の目が気にならなくなると、妻の作った弁当を持参するようになった。元々社員食堂も充実しているし、そういう文化があったわけではなかったのだが、弁当持参の人もゼロではなかったから試しに頼んでみたら快く作ってくれたので、息子甘辛が弁当の時とか毎日ではないが持って行くようになった。インテリジェント仕様の本社ビルのデスクでいきなり弁当箱を開けると浮きまくるような気もしたがそれすら気にならないようになった。大体曜日が固定してきて「今日はお弁当の日ですよねー」とそれ以外の日は同僚と食堂に行くようになった。

食べた後の容器は給湯室に行って洗剤で一応洗って包んだ。女性社員に「偉いですねー」と言われたことがあったが、単に過去の経験から「食べカス」の着いたままの容器をリュックに入れておくのがいやなだけである。夏休み前に弁当箱を机の中に忘れて帰ったことを「忘れ」てしまい、新学期に「世にもおぞましい容器」を洗う羽目となったことは以前書いた。
幼い甘辛の弁当は私のゴージャス弁当のおまけだったが、そのうち逆転して私がおまけになるだろうと思っていたら、転勤して単身生活になってしまった。今では息子も大きな弁当箱を持って行くようになったが、可哀想に授業カリキュラムがタイトで昼休みにちょっと用があると食べきれず、帰って家で残りを食べることも多いらしい。(クラブ練習が夜だから、一旦帰宅するのだ)生意気にも「温かい米がいい」といって保温ジャーを持っていくらしいが・・・

私はこの夏から自宅からの通勤とした超遠距離のため、弁当を作ってもらうには時間は早すぎる。専ら最近は新幹線で食べる朝飯のおにぎりである。息子はまだ数年は妻の作る弁当を持って通学することになろうが・・・・東京ガスのCMにあるような母子を演じてほしいものだ。
実は今回は次に続く「弁当にちなむ」話が本題なのだが、何やらたくさん書いてしまったので、ここで一旦筆をおくことにしよう。
http://www.youtube.com/watch?v=Xgp3aPR-llM