超兵器磯辺2号

幻の超兵器2号。。。
磯辺氏の文才を惜しむ声に応えてコンパクトに再登場。
ウルトラな日々がまたここに綴られる。

昭和の家カレー

2016-03-28 21:53:50 | 昭和
血圧やカロリーコントロールを行う者にとって、極悪な食べ物とされてしまうカレーライスだが、ふっくら炊き上がったご飯にアツアツのカレーをかけてハフハフ食べる幸福感は何モノにも代えられない、心ときめくものだ。カレー用スパイスのみを使用した本格インド料理風のカレーもあるが、味噌汁のような家庭の味(母の味)のようなものがあり、それが一番美味いと言う人も多いことだろう。私もそうだったが、母や妻の作成したカレーライスには遠慮なく好みの注文をつける。長年にわたりこの注文に従って改良されてきたのだから、本人にとっては最も美味しいと感じるのは当然である。そして一般的な家庭でこの味を大きく左右するのはやはり「ルウ」だと思う。特別な処方をしない限り、箱に書いてあるカレーの作り方など似たようなものだから、「ルウ」の味が家庭の味の源泉となると思われる。前回の「周辺の生き物とペット談義」編で多少話題となった「昭和のカレー」(なんでこんな話題になったんだろう?だが、忘れないうちに書き留めておこうと思う。

そうだ、ことの始まりは「10万円7万円5万円 運命の分かれ道!」で知られるいとしこいしさんの「グリコがっちり買いまショウ」からだった。スタジオにお置かれた数々の商品の値段を自分で想定し、合計金額がオーバーせずに一定範囲に入っているように「買い物」をするのだが、スポンサーのグリコのサービスなのか、何となく(というかドンズバ)価格の分かっている「グリコワンタッチカレー」を価格調整用に使用することができた。私は仕事の上で明らかに「帳尻合わせ」と見られるモノの購入を「ワンタッチカレー」と呼んで冷かしているが、説明を省くので昭和の人でも気が付く人はまずもっていない。。。子供の頃は誰でもそうだと思うが、私もカレーライスは大好物で、しかも色んな種類の「ルウ」を買ってきては晩御飯に作ってもらっていた。母親はピーマンやコーンなど時々妙なモノを入れるのには閉口したが、特別な味付けなどしない人だったから、「気に入ったルウ」を見つけ出すまでは試行錯誤(というのかなの連続だった。また子供だったから、コマーシャルでカレーを食べる映像には多分に影響を受けていた。

くだんのワンタッチカレーは「がっちり買いまショウ」の微調整役以外に我が家にも登場したはずなのだが、どうもあまり印象が残っていない。「子供会」のキャンプなどで大鍋で大量に作られる時に使われるイメージがあった。一方、西城秀樹さんの「ハウスバーモントカレーだよ〜」はコマーシャルにおいて印象が強くCM効果は高かったが、「辛くなければカレーでない」と信じていた私にはあの「8つくらいに割れたリンゴに上からハチミツがとろーりとかけられる」シーンをみて「あんな甘ったるいカレーなんか食べられるかい!」と退けていた。辛口で作ってもらってもかなり甘目に感じた記憶がある。この二つのルウはS&Bゴールデンカレーを加えて、どうにも私には存在が薄い「マイナートリオ」だった。CMやパッケージに印刷されたカレーライスの色がちょっと黄色く安っぽいイメージがあったのも影響している。S&Bゴールデンカレーはルウそのものは悪くなかったと思うのだが、母が栄養のためか刻んだピーマンをぶち込んでしまい、世にも奇妙な味で再び「買ってくれ」とは言わなかった。

こうして幼い頃から色々なルウを食べ重ねて行き着いたのは「ハウスジャワカレー」である。当時のCMはどれもジャガイモやニンジンの角切り、四角い肉の入った「ごろごろカレー」だったが、ちょっとマイナートリオに比べて色が黒っぽく濃いめ味もかなり辛く「大人のカレー」という感じがした。千葉真一さんのCMが美味しそうで印象が深く、私の好んだこのカレーライスのルウのCMは皆夫婦だったように思う。その後、ザ・カリーとかディナーカレー(メーカーはどこか忘れた)などがあったと思うがどれもそれほど特徴のあるものではなかった。どの「家カレー」もそうだと思うが、作った日よりも翌日の方がなぜか味が沁み込んでいて美味しい。我が家の習わしでは初日はカレーとサイドディッシュが何かついて、翌日は純粋にカレーライスのみ、そしてさらに次の日はさすがに硬めになってしまうので少しだけ水で薄めて、トンカツをのせてカツカレーにして締めるのである。ちなみに週末に実家に行って戸棚を見たらあったのは何と「ゴールデンカレー」と「ディナーカレー」だった・・・(オレの好み、全然覚えてないのね)

    

そして昭和の時代、子供の頃に母が作る「家カレー」に平行して画期的な食品が登場する。「ボンカレー」である。そして確かしばらくしてもう一つの巨頭として現れたのが「ククレカレー」だったと思う。味覚の適当だった私はどちらも似たような味だと感じたが、圧倒的に「ククレカレー」を好んだ。もちろん見た目とCMからである。ボンカレーは何か「前掛けのおばさん」の田舎臭いパッケージであり「3分間待つのだぞ」という子連れ狼のようなCMであり、ククレカレーはなんたって「おせちもいいけど・・・カレーもね♪」のキャンディーズだからである。子供を対象にしたハウスの宣伝勝ちだったように思う。レトルトカレーと言われたこの食品はカレーとは言っても私に言わせるとどれも同じ味にしか思えなかった。その後バブルを迎える時代となって、色んなレトルトものが登場した。何十倍などと辛さばかり追いかける品もあったし、高級料亭の味を思考した種類もあったが、所詮はレトルト・・・あの独特な共通風味が本物の家カレーとはそもそも比較の対象にもならなかった。「中華三昧」がお店のラーメンとは比較にならないのと同じである。我が家を物色したら、以前買ってきた佐渡島の「ぶりカレー」や観艦式の「護衛艦カレー」などもあったが、所詮は邪道、そして味はやはりレトルトである。

    

我が家のカレーは私と息子甘辛の味の好みに加えて妻自身の好みも多分に入っている。と、いうより甘辛はお子様味覚で辛いヤツは食べられないし、私の注文はあまり採用されない。昔の「ごろごろカレー」というよりは、レストランのようなカレーライスを作る。と、言うこと自体が昭和の世界で、最近は「レストランでカレー」などファミレスくらいしか思いつかないかもしれないが、そんな名残りはゴルフ場のクラブハウスで出すカレーライスである。むろんアラジンの魔法のランプみたいな器(あれ、何という名前なんだろ)に入って、一つも食べられない、紅ショウガ、福伸漬、ラッキョウが3つ並ぶガラスの四角い小物入れと共に登場する。我が「家カレー」はファミレスや某ファーストっぽいカレーハウスのように申し訳程度の具材ではなく、マッシュルームや牛バラ肉のようなちょっと上品系なものがたくさん入っている。時々焼き野菜や目玉焼きのような若干亜流アイテムも乗っかっていたりするが、中々味の深い手の込んだ一品だと思う。あまり製作に関する情報は教えてくれないが、複数種類のルウを使用し、いくつかの香辛料と隠し調味料を入れているらしい。ちなみに市販のルウは「とけ込む」があったが、あまり製品自体に拘りはないらしい。実家のようにカツカレー化はせずに、終わりまで平らげた後に「カレーうどん」にするのが特徴だ。たぶん牛乳を使っているのだが、かなりまろやかでコクがあり、甘辛の好物でもある。

  

私は時々野菜と肉の「ごろごろカレー」が恋しくなると、パッケージに書いてある「作り方」に忠実に自分でカレーを作ったりもする。我が家のカレーとは異なるし、母親の「家カレー」」とも違う何か深みのないものとなってしまう。実家では何か特別なことをしているようには見えなかったが、やはり何かが違う。ずーっと前に書いたが、グンマ単身赴任時にこれをやって散々な目にあった。一人で鍋一杯に作成するといつまでたっても無くならないのである。さすがに3日目ともなると同じ味には飽きてきて、パンや餅に乗せたり、ラーメンやうどんにかけたりしていたが、約1週間ちょっとたってようやく底をついたときは身体中がカレー臭くなったような気がした。またそういう時に限って週末に自宅に帰ると「カレーライス」だったりするものである。あれ以来、単身マンションで再びカレーを製作することはなかった。

昭和期の食卓や食堂にカレーライスとともにあったのが「ハヤシライス」だった。この手のものは「辛くあるべし」と思い込んでいた私はハヤシイスなど「お子様」の食べ物だとし、あまり見向きもしなかったが、さらに後期になってハッシュドビーフやビーフストロガノフなる謎の一品料理が登場した。アラジンのランプで別々に出されることはあっても、カレーやハヤシは白米にかけて食べるものだが、これらのニューフェイスはおかずとしてご飯とは別々に口に入れることもあるし、かけて食べることもあるハイブリッドメニューである。しかも不思議なもので同じものでも別々に食べるのとかけて食べるのとでは、どうも味が違うような気がするのは私だけだろうか?「家カレー」というのは多くの人が語れる昭和(今でもあるけど)を代表する晩御飯だろう。学校から帰宅して玄関を開けた時にプワーンと漂っているカレーの香りで、アドレナリンが全開となったものだ。反対にカレーハウスなどの前を通り過ぎると「たまらない香り」にふらふら立寄りたくなるのだが、実際に席に座って注文すして出てきたものは「大したことがない」という思いが結構ある。血圧レコーディング作戦で減塩中の身だが、試しにグリコワンタッチカレーを購入し今度、普通に作成してその味がどんなものだったが検証したいと思う。(ちなみに話のタネに、帰りがてらクイーンズ伊勢丹に寄ってみたけど「ワンタッチ」は見当たらなかった・・・

  

血圧レコーディング作戦(立案編)

2016-03-23 21:25:14 | スポーツ・健康
年齢を重ねると以前のように身軽に動けなくなったり、疲労が中々回復しなくなったりするのを感じるものだ。人間ドックなどで検査すると内蔵、各器官などの機能は年齢の割に概ね順調な数値を叩きだしていたが、時には故障することもあったし、前回の検査では大腸ポリープが見つかり切除する羽目となった。また視力の低下を実感するようになり、レーシックその他これまで御縁の無かったクリニックの門を叩くようにもなった。そして以前から指摘はあったのだが、人間ドックではそれほど強く言い渡されなかったのに、数値だけから機械的に判断すると「要治療」という領域に入っているものがあった。悪いことにこれが「特定保健指導」を受診する項目になっていたために、警告のお手紙を頂戴してしまった。「高血圧」である。

    

「血圧が少し高めだから、日ごろから測るように」言われ、ジムに血圧計があるのでたまに気が向くと測定していた。確かに少し前は正常値範囲だったのだが、ここ数年で「正常高値」という領域に入ることも少なくなかった。ただ血圧というのは視力や聴力のように「その場しのぎのごまかし」で数値を改善することがほとんどできない。逆に何か原因があって「何か血圧が上がっているようだ・・・」と感じることはたまにあった。人間ドックのでの結果診断でも「何かを避けるとか減らすとかじゃなくて、もっと攻撃的な改善はないんですか?」と聞いたほどだが、決めてとなる作戦がなかったので何となく放っておいた。妻が毎月購入している糖分のない生野菜ジュースを飲むくらいはしていたが、お酒の飲み過ぎや濃い味志向にならないようにと気にかけてはいても具体的に何か取り組んでいたわけではなかった。

息子甘辛が卒業し、基本的に母親の手弁当を持参することはなくなったので、自然とおまけで作ってもらっていた私の弁当もほぼ消滅した。ここ数か月、昼食にカップラーメンやコンビニ弁当などをしきりに食べ、夕食はジムに寄る前に外食などで軽く済ませることが多くなったのが原因なのか、たまに測定する血圧がとうとう「要治療領域」に入ってしまった。「これはまずいかな」と思っている矢先に追い打ちをかけるように「特定保健指導」案内である。実は健診時にはちょっとだけオーバーしていることが多く、医師の診断では「注意深く観察」ということで、昨年もこの案内が来たときは「シカト」してしまった。以前、一度指導を受けたのはグンマでご一緒した保健師「ナエさん」だったが、あの時は腹囲オーバーのメタボであり、いざとなったら力技で(腹を引っ込めて)改善することもできた。3月も下旬に差しかかって少し暖かくなった時、試しに自分で弁当箱にご飯を詰め、簡単なおかずを詰めて持って行ったのだが、すごく塩辛く喉が渇いたと思ったら、帰宅時間くらいになるとどうにも頭に血が集まるような息苦しさを感じ、ジムで血圧を測ったらかつてないほどの記録的数値を叩き出してしまった。。。ここに至り、真面目に血圧正常化に取り組む決心をしたのである。

さっそく図書館で関係著書を探したら「血圧を下げる」関連の本は世の中にゴマンと出版されており、3,4冊見繕ってさーっと読み流してみた。「肥満をしないように」「適度な運動を」「規則正しい生活」「栄養のバランス」「塩分摂り過ぎに注意」・・・どれもよく聞く話ばかりである。「血圧が高いと何がいけないか?」大抵の本には心筋梗塞や脳卒中のリスクなどが挙げられているが、リアルだったのは「血圧が高いまま放置していると血管がボロボロになる」という半ば脅しのような表現だった。そして「なるほど!」と膝を打ったのが「毎日ひたすらに血圧を測り続ける」という単純な提案だった。むろん測定すること自体が降圧する作用はないが、血圧は栄養バランスや睡眠量、神経系の調子、感情・ストレスなどおよそ身体の状態を最もよく表す言わば「鏡」であり、毎日測定することにより「身体の声を聴く」ことが血圧正常化に直結するというのだ。私はこれこそ「30日コミットメント」につながるものだと直感した。

「美人を前にすると緊張しちゃって・・・」というのがドックで血圧測定値が高かった時に使い古したベタな言い訳だが、専門用語では「白衣性高血圧」というらしい。医者や看護師の着る白衣などを見るだけで血管が収縮し普段よりも血圧が高い状態になってしまうそうである。血圧というのはちょっとしたことでもかなり乱高下するらしく、たまに思い出したように測定するだけではとても健康管理のために「普段の値」を把握することなどできないそうなのだ。基本は毎日決まった時間、起床時と就寝時に同じ条件で家庭で測定する。特に就寝時の結果を見て、その日何があったか、思い当たることを挙げるのがポイントのようだ。やることに目新しいことはないのだが、以前流行った「レコーディングダイエット」と心理的には同じで、意識して取り組んだ結果が結果として数値に出れば「やる気」モードになり、続けていくことができるというものだ。その気にな徹底的に追及してしまう自分の性質からみて、かなり有効なのではあるまいか?

まずどの本にも書いてある似たような血管危険度チェックテストを見てみる。○が多いほどリスクが大きいのは言うまでもない。
・血圧は健康診断や病院で受診したときくらいしか測らない。(スポーツクラブでもうちょっと頻繁に測定しているから△)
・家に血圧計がない。あっても家でほとんど測ったことがない。(家にはないが他で測るので1項と合わせて○)
・健康診断でメタボを指摘されたことがある。もしくは血圧が高めだと指摘されたことがある。(残念ながらこれはドンズバ○!)
・頭に血が上りやすい。人から「怒りっぽい」「イライラしやすい」と言われる。(アーユルヴェーダによれば「カファ」(癒し)が優勢なのでこれは×)
・常に緊張を強いられる仕事をしている。(会社員としては「その通り!」とカッコよく決めたいところだが、どっこいあまり緊張感はない×)
・いつも忙しく毎日を時間に追われるように過ごしている。(ビジネスマンとしてはそうあるべきだろうが、これまたどっこいあまり忙しくもない×)
・ストレスが多い生活をしている。 8.残業で夜遅くに帰宅したときは、いつも布団に直行する。(ストレスも残業もあまりない×)
・急に立ち上がったときなどに「立ちくらみ」がすることがある。(これってヤバくないか?!特にはないから×)
・「自律神経失調症」もしくは「起立性低血圧」を指摘されたことがある。(聞いたことがないから×)
・朝、なかなか起きられない。もしくは仕事へ行ってもいつも午前中はなかなか調子が出ない。(これは真逆!私は完全朝(それも早朝)型である)
仕事や普段の生活リズムなどを診断しているようだが、あまり危険と見られる項目にチェックがつかない。「結構オレもいい線いってるじゃん」と思ったが、その後の食習慣で思わず「血管ボロボロ?」と打ちのめされる。。。

・ラーメンのスープは全部飲み干す(うーん。以前はそうだったが、「すごくよくない」と指摘され、申し訳程度に残す。△)
・刺身を食べるとき、しょうゆを多めにつけるほうだ。(その通り!しょうゆどころか、わさびも大量でベタベタにして食べることが多い○)
・外食や出来合いの御惣菜を利用することが多い。もしくは外食の料理をいつもおいしいと感じている。(これもそうだなー○)
・しょっぱいものを食べ過ぎて、夜に喉が渇くことがある(これもその通りだ・・・やばい、ターキーになってしまった。○)
・お酒が好きでほとんど毎日のように飲んでいる(これは微妙だ。一度に飲む量は多いが、休む日も結構あるから毎日ではない△)
・野菜や果物をほとんど食べない日がある。(うーん、朝は納豆ごはん、昼に親子丼、夜はコンビニおにぎりが多い。。。○)
・カレーライス、丼もの、回転寿司などが好きだ。(ナエさん、すいません。ボクの3大好物であります。○)
・甘いものやお菓子に目がない。(女子のように甘いもの好きというわけではないが、口が寂しくなるとお菓子を食っている△)
うーむ。。。これはまずいぞ。ほとんど該当してるではないか。自分の血管が悲鳴を上げているような気がしてきた。
その他は体型、運動、睡眠などだが、前半同様あまり問題があるとは思われない。BMIはかなりオーバーだが、標準体重66kgなど絶対になるわけがない。運動は不足どころか過多気味、早寝早起きだから該当するところはないようだ。

どうやらチェックリストによると食生活が絶望的によくないようだ。ものの本によると私の食生活もそうだが、世界でもトップクラスという「塩分過多」とストレスが圧倒的な原因のようだ。高血圧対策としては1日に平均10~11g摂っている塩分を半分にする必要があるという。塩分だけでいうとピンと来ないが、私の好物である北海道味噌ラーメン一杯で6gだそうだから、一杯分でその日は「ハイ終わり!」となってしまう。これはかなり高いハードルのように思えるが、困難が大きければ大きいほど火が付くというものだ。一応、療法期間としては3~6カ月が目安のようだが、とりあえず30日コミットメントで1か月は続けてみようと決意した。巻末にあるレコーディング用のシートを見ると、起床時、就寝時の時刻、最高・最低血圧、脈拍と朝晩の体重などを記録するようになっている。

  

とりあえずはついでに塩分を通常の半分程度にするために記録できるようにEXCELシートに表を作成してみた。応用編でレコーディングダイエットにもなるというから、だんだんノッてきてしまい、基礎代謝以上の運動による消費カロリーや塩分、なども付け足してみた。さらに気分が盛り上がってきて、朝昼晩の食事内容やそのカロリー、含まれる塩分などのフィールドも作っていくと最後には何が何だか分からなくなってしまい、もう一度作り直してシンプルなものとした。ダイエットのようなものは結構行ったり来たりの繰り返しだが、今度は何せ身体の「鏡」」だから、本気で取り込むことになるが、私がその気になって全力で行うとどんな結果となるか・・・いずれ実践編でレポートしようと思う。

周辺の生き物とペット談義

2016-03-15 22:38:58 | ホビー
平日の夕方、家の近所を歩き回るようなことはないが、ある一定の時刻になると川沿いのハイキングコースや海浜公園は「犬の散歩」がまるで銀座通りのようであるという。新米ママの「お砂場デビュー」などやママ友たちとの付き合いというのは中々難しいものがあると聞くが、犬連れ同士というのは仲間意識が強く、すぐに仲良しになれるそうだ。話題も「ほっこり」したものが多いのだろう。昔で言う「井戸端会議」ではないが、お散歩の交流がご近所の色々な情報流通の場にもなっているらしい。この地に引っ越してきてから、我々も「犬の歩行者天国」みたいな地域性には気付いており、「いつかは犬と住むことになるかもね」なんて話はしていたことがある。お隣のお年寄り夫婦の家にも中型の犬がいて、幼い甘辛がちょっかいを出していたが、老衰のため数年前に天寿を全うしてしまった。私は昔から「死んでお別れするのが辛いから生き物は飼わない」というのは間違っていると考え、息子にもそう言ってきたが、やはりテツくん(犬の名前)の位牌にお線香をあげたときには「そうは言っても人間に近い生き物だと悲しみが大きいのも事実」と感じざるをえなかった。

我が家には以前、ハムスターがいた。私はペットとか「飼う」という言葉に何か人間の傲慢さを感じてしまうのだが、幼い甘辛が初めて飼う、まさしくペットと呼ぶべき生き物だった。名前を「コナス」という。祖母とペットショップに行った甘辛が一目みてインスピレーションを感じたらしい。段ボールなどで彼の遊び場を作成したのは甘辛だが、まだ小さくて全部の面倒を見きれず、ケージの掃除などは私の仕事だった。ハムスターは夜行性で夜な夜な回し車をカタカタ言わせてちょっと不気味だったが人懐っこく、ケージに近寄っていくと寝床から顔をだしてふんふん寄ってくる愛嬌があった。毎日、幼稚園から帰るとコナスと遊んでいたが、1年半あまりたった夏休みに死んでしまった。甘辛は涙ながらに心臓マッサージし、亡骸を保存して茅ヶ崎の祖母にも見せに行った。当時庭にあった一番大きい梅の木の下にお墓を作って一緒に埋葬した。しかし数日すると忘れてしまったようで(子供ってそういうものか)サッカーが忙しくなると再び「ハムスターが飼いたい」とは言わなかった。幼い時の通過儀礼(イニシエーション)だったのだろう。根っこはそのままにし、上にガーデンシェッドを建てたから、今息子はコナスの墓の上で寝ていることになる。

あれ以来、久しく我が家では「ペットとして意識して動物を飼育する」という話は出なかった。甘辛が捕まえてきた番いのカブトムシに卵を産ませ、何代か幼虫から成虫にしたことはあるが、幼虫などほぼ全ての期間が土の中だし、成虫になってひと夏越えると死んでしまう。また小さな水槽に私が近所で釣ってきたハゼやテナガエビ、甘辛が池で捕まえてきたフナやザリガニ、そして二人で捕獲した「ウナ吉」などがいたが、これらは「たまたま連れて帰っただけ」で何やら目的があったわけではない。玄関先に水槽が置いてあるので、家を出入りする時に必ず目に留まり、来客なども珍しがったりするのだが、妻はあまりいい顔をしていない。その他に「飼ってはいないけど確実に居ついている」生き物が2種類・・・たぶん玄関脇のアルミサッシ枠の隙間を寝床としているヤモリと、こちらはどこに住んでいるのか分からないが、もう何代も住み続けている大きなカエルである。大きなカエルは我々以前から住んでいた「主」として、ヤモリは害虫を捕食して「家を守る」として、一応我が家では尊重することにしているのは、以前書いたとおりである。

      

正月に帰宅した際、信じられないことに庭の隅で江ノ島の岩場で見掛けるようなカニを見つけた。いくら海岸に近いからと言っても砂浜からは数百メートル、川からは50メートルくらいだが氾濫したこともない護岸に遮られているはずだ。クリスマス島の赤ガニみたいに移動(あんな集団でこられたら恐怖だ)するものとも思われない。首を傾げていたが、どうやら息子甘辛によるとテツくんのいたお隣さん宅にある庭の池か逃げてきたのではないかという。以前、ボールか何かが入ってしまい、庭に入れてもらったら、多種の生物が生育していて、まるで環境教育用のビオトープのようだったそうだ。金魚やメダカなど、水棲昆虫などならともかく、カニまでいるとはすごい生態系だ。母よりも高齢のお隣様は広い庭の手入れなどしていないようだから、未知の生物も含む魔窟になってしまったような気もするが、一度拝見してみたいものだ。

    

川が近いせいか、我が家の周辺では色々な種類の鳥が生息している。最近はカラスが増えてきたが、家の上空をトンビが飛び回り、夕方になると空を黒く埋め尽くす(たぶん)ムクドリの群れや、梅の花を啄みにくるヒヨドリやメジロなど・・・川岸を歩くとほお毎回カワセミに出会えるし、水鳥もたくさんの種類が見られる。庭をほぼ全面ウッドデッキにしてしまい、これまで訪れた小鳥などはあまり見なくなってしまったので、お皿に水やエサを入れて吊るしてみたりしたが何も起きなかった。以前、夜中に天体望遠鏡をのぞいていると、猫の後ろにのそのそ歩く妙な動物がいて、近寄って確かめると「ハクビシン」で、警察に電話して騒ぎになったことがあったが、あういうのはちょっとごめんだ。。。そしてペットを感じさせるものが何もない我が家に恐るべき動物がやってきた。トイプーである。

正式名?は「トイ・プードル」、最近知人たちの中でやたらと飼う人が多い愛玩犬である。プードルと言えばラムジィ(あれは子羊だったか?!)のような白いからだを人間の好みで妙な形に毛を狩り込んだ犬が想像できるが、トイプーはこれとテディベアを混ぜ込んだような姿をしていて、それこそぬいぐるみのように可愛らしさがパワーアップされている。お友達が我が家に伴ってきたのは、湘南マラソンの打上げの時だったが、昨年夏休みに実家に帰った際にたまたま出会い、そのまま自宅に連れてきてしまったようなのだ。段ボール箱の中ではしゃいでいたが、初めて見る私にすら纏わりつく人懐っこさで、恐るべき可愛さである。思わず連れ帰ってしまう気持ちがよく分かる。「(この可愛さは危険だ)」と内心思った。本人(犬)に全く邪気がないのは確かなのだが、何故か私は「この犬、自分が可愛いことを人以上に心得てるな。」と感じてしまった。ソフトバンクの「ギガちゃん」、古くは「ナマケモノが見てた」の「レッサーパンダくん」を思い浮かべたのである。確かに、先日「怪獣酒場」をご一緒した悪友の「ガンさん」宅にもトイプーがいるらしいし、知人に飼っていると聞く人が少なからずいる。屋内にいる犬らしいから、「家族の一員」として迎える夫婦もいるのだろう。

  

妻にこのことを話してみると、彼女もいずれは何か居てもいいが「トイプーは違う」と考えているようだった。どちらかというと「猫派」のようなことを言っているが、別にまだ我が家に「癒し系」は必要ないらしい。テレビ番組で動物と触れ合うことができるカフェが紹介されていて、「こりゃぁ、いい!」と提案したのが「フクロウ」だが0.1秒で却下された。夜行性のフクロウは昼間はじっとしているので、リビングでゆったりさせておいて、夜は専用の鳥かごを庭に作ってしまえばよい。我ながらいい案だと思い、図書館で本を借りてきて色々調べてみた。寿命が長く20年以上生きる個体もあるそうだが、一体数十万円。。。トイプーと同じくらいの相場(というのは何だが)だが、エサがちょっとすごい。。。昆虫好みの種類はコオロギやバッタ、肉食系はマウス、ヒヨコなどの姿肉である・・・さすがにちょっとグロくて無理かもしれない。

  

どうやら室内に動物を迎えるのはもう少し先の話になりそうだ。これまで撮ってきた生物の写真を見ると、結構我が家の周辺、特に川ベリは生き物バンザイの宝庫なのだ。釣りをすれば淡水から海水のぶつかる水域で様々な魚介類に出会える。その種類は手のひらサイズばかりだが、エイからスズキ、クロダイ、舌平目・・・そして水があるからたくさんの鳥も集まる。以前は我が家の庭にも木がたくさんあったので、野鳥がやってきたが最近はあまり見なくなってしまった。とりあえず、今度野鳥用の巣箱なるものを製作してみようと思う。ホントは猛禽類をカッコよく腕にとまらせたいのだがそうもいかぬようだ。キャプテン・ハーロックの最終回で、親友トチローの娘「まゆ」にかけた最後の言葉・・・「そして蝶や小鳥を呼び戻すんだ」今はたまにしか見かけぬが、我が家にシジュウカラ、スズメ、ムクドリなどが住み着く日も近い?!

              

甘辛、高校を卒業す。

2016-03-12 18:34:44 | 少年サッカー
以前、「マツコの知らない世界」で取り上げられていた「卒業ソング」のことを書いた。タイミング的にはそういう季節なんだろうが、我が家の息子甘辛も先日いよいよ高校の卒業式を迎えた。私の時もそうだったが中学校と異なり高校の卒業式の時点ではまだ完全に進学先が決まっていない生徒も多く、テレビでやっているような感慨深いものではあまりないのが現実だ。たまたま国公立大学前期日程の合格発表が直前にあり、甘辛のクラスメイトやチームメイトも一喜一憂、残りの試験に最後の望みを託す者もいたようだ。仲良しのお友達は国公立の結果を確認し、その日のうちに関西圏にお母さんと飛び、住居を決めて手続きを終え、卒業式前日に電光石火でとんぼ帰りしてきたと聞いた。古都にある有名大学に進学を決めたそうで、甘辛は「旅行の宿泊先ができた」と喜んでいた。中高の卒業式など体育館で行うものと思い込んでいたが入学式同様、親会社である大学の講堂で開催されるという。



甘辛は少し前にテラスモール湘南のとあるブティックで誂えたスリーピースを身に着けて行った。制服のない学校なので学ランはとっくの昔に着られなくなっているし、卒業式のすぐ後にある入学式、アルバイトでもジャケット着用が決まりのようだったので、作っておいたのである。さすがに女子は「就活スーツ」というわけではないだろう、と思っていたらちゃんと高校生のような制服を着ていた。これはAKB48などの衣装の影響で「学校指定のようでちゃんと可愛く着こなせる」「なんちゃって制服」というそうだ。かの講堂の式典は何かと御縁のある私だったが、何か複雑な気分もあって正直あまり出席には気乗りがしなかった。あくまで大学の講堂は大学のものである。そのまま進学すれば私の後輩なので、あのキャンパスに通うことになろうが、予想通り甘辛はその道を選ばなったので、卒業式を行った場所という以外にあまり意味をもたないのである。彼が3年間通い詰めた駅からよく見える学校でやって欲しかった。



妻によると卒業式を終了後、クラスの最後のホームルームがあって敷地内の食堂で謝恩会相当の催しがあるが、甘辛はそれには出ずに移動して高校のサッカーグランドでOB戦を行うという。甘辛達の先輩もやってきて毎年卒業式に行っているそうだ。私は休暇を取り妻だけでなく実家の母親も伴ってやけに寒い空の中、東海道線に乗り込んだ。普通は両親だけなのだろうが、母親を誘ったのは「さすがに今回で最後だろう」と思ったからである。実は通学を別にすると私以上にあのキャンパスと御縁があるのが母親なのだ。最初にかの地に足を踏み入れたのは何と50年以上前!一番下の弟(つまり私の叔父)の卒業式に参列したというのである。入学・卒業を入れると私と甘辛で5回も来ている。父が学生の時に近くに下宿があったこともあって、私が中学に入学した時も確か桜の咲くこのキャンパスを3人で散歩したこともある。先日、母親は私が卒業した時に看板の下で撮った写真をどこからか見つけ出してきた。

正門は駅の真ん前だが、地下に入ってしまったので車窓からはよく見えない。今は路線が変わってしまったが私は昔から愛し、侮られていたメカマ線で通学していた。それも「カエル」とも言われた緑色の丸っこい3両連結のマイナー度100%の車両である。東横線の赤いラインの入ったステンレスカーに対してメカマ線のカエルに乗るのは若者として恥ずかしくてしょうがなかったが、今年の2月に久々に(たぶん)その車両が元気に走っているのを見てうれしくなった。熊本鉄道である。色も当時の緑色そのもの、丸っこさもそのまんまでなぜか「青ガエル」と言われていたそうだが、再会と同時に運行終了という悲しいニュースであった。改札を抜けて正門の前まで歩くと、卒業式の看板が立ち、日の丸が掲げられていた。甘辛達は先に行ってしまったので、私は母親とツーショットで学校の看板をバックに記念写真を撮ってもらった。(30年前と比較すると劣化を思い知るだろうな・・・)

早めに席を確保し、妻はクラスメイトのお母さんたちから盛んに声を掛けられていた。開式時間が近くなると司会が前説を始め、まず来賓の方々が入場してくる。「ねえ、学長って誰?」妻が聞いてきた。「前から2番目だよ」会社のOB会に列席頂いた時に懇親会で「学長のおチカラでぜひ息子を本学に・・・」と裏口交渉したとのを覚えていたのだ。やがて卒業生が入場してきたが、学ランでないだけにどの生徒も似たようなスーツを着込み、女子に多かった「なんちゃって制服」を除けばさながら入社式のように見えた。(結構おっさんぽいのが多かった)
始まるといきなりの国歌斉唱である。何か卒業式の時の「君が代」って色々議論があったような気がするが・・・国立法人だからかな。校歌はいかにも最近作られたっぽい、分かりやすい歌詞だった。品格から言ったら私の母校の方が上だろうな。ゴールデンコンビだし・・・3年前の入学式では大学の校歌もあったような気がするが。かの学長の来賓祝辞もあり、割と淡々と式次第は進んで行き、めった歌わない「蛍の光」2番まで斉唱して閉式となった。退場の際に合唱・演奏されたのは「友よ」「威風堂々」というものだった。これがこの学校の卒業ソングか・・・



卒業生が退場すると、保護者も退場し一緒に最後のホームルームへ案内される。大学の教室を借りているようで、クラスごとに行く方向が違うのである。甘辛達のクラスは本館1階の端っこにあるあまり大きくない教室へ向かっていった。荷物を置いてあるらしい。卒業式では証書はまとめて総代が受け取っていたが、教室で担任から一人ひとり名前を呼ばれて手渡しされていた。副担任や教科の教員も駆けつけて一言ずつ、そして生徒たちも前に出て一言ずつこの3年間を語って行った。「卒業がむろん終わりではない。大学入学も就職もこれで終わり、というのは人生にはない。ずーっと勉強してほしい」有名国立大を卒業後、超大手企業に就職したがまさかの退職、教員免許を元手に本校の門を叩いたという担任の言には説得力がある。最後の起立・礼をまだ桜には早いが、めいめいクラスメイトたちと記念写真を撮りまくった後、本館をバックにたぶん最初で最後の親子3代写真を収めた。周囲は気のいい友達ばかりだが、再びこのキャンパスに通う者が誰もいないというのも中々面白いオチだ。甘辛は早々と進学を決めてしまってから、入学すらしていないのにいそいそとサッカー部の練習に通う毎日だ。先日は本学と練習試合があると言っていた。まさか甘辛が出ることはないだろうが、もしそうなったらどちらを応援するか微妙で面白い話だと思っていた。(結局は雨で流れてしまったが)何となく学校同士のつながりがあるようだから、この先練習試合などを見に来ることはあるかもしれないな。




昼食はさすがに「2食(第2学生食堂)のチキンガーリック」というわけにも言いづらかったので、駅周辺のラーメン屋で済ませた。(特に名物などないのである)東急大井町線で高校キャンパスに向かう。甘辛から2代前くらいの先輩もやってきていて、現役生とのOB戦が始まった。1年生の夏休みに全面改装され、オール人工芝となったサッカー専用グラウンドである。ここで2年半以上、思う存分サッカーができただけでも相当恵まれていると思う。中央にベンチを持ってこようと入口に近くと顧問の先生が走り寄ってきて「磯辺さん!甘辛君、おめでとうございます!」とほとんど最敬礼してみせた。きょとんとして慌ててお礼を言って頭を下げた。サッカー部の活動はこの学校の部活では一番厳しく、3年生になって受験に専念するために退部する生徒も少なくない。彼らの進学状況が必ずしも順調ではないようで、引退まで続けてあっさり決めてしまった甘辛の印象が強かったらしい。



OB戦で中盤を縦横無尽に走り回りながら、甘辛はホントに楽しそうだった。練習や試合ではグラウンドで笑い転げることはないのだが、その日だけは「ファン感謝デー」みたいなものだ。終盤に差し掛かるまで成長期が遅れ、身体の弱さに悩まされ続けてきた中高生期だったが、ようやく堂々たる体格に近づき、目を見張るようなプレーも見せつけてくれた。後ろから後輩が「すげー、現役の時もみたことねえ・・・・」引退してからも休みの時は昔のように私を練習台にしてボールを蹴っていたし、ブランクそのものがあまりなく、すでに今は別の「現役生」とサッカーしているのだ。後半にグランドで歩き始めてしまう選手もいる中で一人走り回っていた。卒業式そのものよりも、いきいきとグランドを走る息子の姿が一番感慨深いものだった。この後、先輩後輩と食事を食いに行って帰りは遅くなるそうだが「(酒だけは飲むなよ)」と心中つぶやいて、ボチボチ寒くなってきたグランドをあとにし、母と妻3人で祝杯をあげに行ったのだった。



雛祭りの飾り

2016-03-09 22:03:07 | 出来事
2月の終わりくらいだったろうか、外出先から直帰することがあって、いつもより早い時間にスポーツクラブに立ち寄った。その時間にはスタジオプログラムがまだないので、エアロバイクを漕いでいたらNHKの「首都圏ネットワーク」というニュース番組が放映されていた。このジムの有酸素系マシンには大抵モニターがついていて、イヤホンを使ってテレビ番組を見たりゲームをしたりできるのだ。確かに30分以上ひたすらに走ったりバイクを漕いだりする退屈さは心肺トレーニング以上に苦痛だ。その日の調子によって、かける負荷と心拍数が結構変わってくるので、様子を見ながら調整していくことになる。7時になってNHKニュースが始まると音声を英語に切り替えて聴くという、最近では唯一の「お勉強時間」がやってくるのである。

さて「首都圏ネットワーク」の中で「いってみよう、いってみたい」というコーナーがあり、神奈川県の足柄地域を紹介していた。どこかで見たことあるなと思っていたら、以前足を運んだことのある松田山ハーブガーデン(番組では西平畑公演と紹介していた)の河津桜だったのだ。そう言えば小田原梅まつりと同じような時期に河津桜が満開となるのを思い出した。レポーターはまさに満開の桜と菜の花の中を歩いていた。確か松田山の中腹から、松田の街を一望することができ、天気が良ければ遠くは富士山や相模湾、大島まで素晴らしい景色が見られる所だった。そして引き続きレポーターが取材していたのが、酒匂川を挟んで向こう側の開成町というところだった。神奈川県に数十年住んでいる私でも初めて耳にするような、県下で一番小さな町なんだそうだ。その町の古民家ですごい雛祭りを行っているという。

その週末は実家の母親と毎年来ている小田原フラワーガーデンの梅を見に行ったのだが、あいにくの雨模様で途中撤退・・・気を取り直して翌週に松田を訪れることにした。我が家から松田山に向かうには西湘バイパスを西に向かい、国府津で山に向かうルートを走る。近くまで来ると満開の桜でピンク色に染まった山肌が見えてくるが、祭り期間中は上の駐車場はすぐに満車になってしまい、少し降りたところの酒匂川河川敷に設けられた臨時駐車場に行き、公園まではシャトルバスを利用することになる。運転手さんは気さくな人のようで、間違って「次降ります」をピンポーンと鳴らしてしまった子供と謝る母親に「はははー。大丈夫ですよ。子供さんは面白くて好きなんですよねー。ボクもやることないんでね。消しますから、もう1回鳴らしますか?」バスの中は笑い声で盛り上がり、和やかな雰囲気になった。



少しだけ「散り始め」ということだったが、菜の花の黄色と重なって見事な咲きっぷりだった。ちょっと霞が多くて富士山や相模湾などまでは見られなかったが、気温はどんどん上がり完全に春の陽気だった。散策路は山の中腹となっているのであまり下まで行かずに一周して戻ってくるが、花びらを啄む大きな鳥やメジロのような小さい鳥が枝から枝へ飛び立つ時に桜の花がひらひらと舞い落ちてくる。子供館では昨年同様、つるし雛が飾られていた。その横にはすごい人数の行列が出来上がっている。どうやら「ふるさと鉄道」の並びのようだ。NHK番組では公園内に敷設されたミニ鉄道は約20分かけて1周するのだが、桜のトンネルの中をずーっと走ることができて人気があるようだ。ロマンスカーとSLがあるようだが、恐らく1年で運行するのはこの期間だけではあるまいか?開園して約1時間、次々にシャトルバスが到着してだいぶ園内も混みあってきたおので、ぼちぼち次の目的地に向かうことした。



「首都圏ネットワーク」で紹介していた開成町の雛祭りは築300年という瀬戸屋敷という古民家が会場になっていて、臨時駐車場からはわずか10分くらいのところだ。正直マイナーなイベントにも見えたが、さすがNHKの威力か元々の駐車場だけでは入りきらないほど観光客がやってきて、近くの公園が臨時駐車場となっていた。早速古民家に入っていくと、番組に登場した近藤春奈さん似の婦人会の人が気さくに話をしていた。確か番組の中では「これといった観光地や特産品のないこの町に名物と言われる催しを立ち上げたい」と婦人会の人たちが毎年手作りでつるし雛を作り続けてきたということだ。その努力も実り、古民家を会場にしてそちらにこれまでの風習として飾られる18組の雛人形と合わせかなり有名な催しとして年々訪問客が増えてきているそうだ。つるし雛も7段になっている雛人形もこれまでほとんど縁のない世界だったので、この機会にその云われなどを聞いておこうと思った。



つるし雛というのは、我が地方であまり見ることはなく、グンマ勤務時代にギネス公認の「世界一のつるし飾り」というのを八兵衛に見せてもらったことがあるのだが、系列は似ているもののこちらは雛祭りに限らない飾りらしい。一方、雛祭りに飾るつるし雛は裕福でない家庭で高価で中々手に入らないひな人形の代わりに両親、祖父母、親類、近隣の人々が生まれた子供の幸せを願って小さな人形を作り持ち寄って作られたそうだ。また裕福な家庭では豪華な段飾りの上につるし雛をダブルで飾りさらに煌びやかにすることも多い。つるし雛には色んな種類があるのだが、全部ちゃんとした意味があるんだそうだ。例えば食べ物に困らないようにとか、「苦労しないようにフクロウ」とか、万年生きる亀とか・・・2年かかりで作成したというつるし雛は圧巻だった。



さてこの瀬戸屋敷という古民家はこの地域の名主を代々努めてきた瀬戸家のものだ。そういう家柄だから江戸時代から伝えられてきた雛人形や親族の雛人形などを揃えて飾るようになったということだ。特に大久保氏(小田原藩主)の紋の入った道具類は貴重で、ミニチュアのような貝合わせ、碁盤、将棋盤などがあった。また江戸時代に流行したという享保雛(享保の改革なら習ったが、その頃だろうか?)というちょっと今とは変わった顔立ちの人形も目を引いた。今まで縁もなかったので、あまり興味を持ったことがなかったのだが、昔の豪華雛人形は一番上の内裏様が御殿の中に鎮座ましましている。「私書箱」事件で「モノ知らず」が露呈してしまった私だが、雛人形の一番上の内裏様っていわゆる帝(みかど)と皇后(もしくは親王とその内儀)と思えばいいんだよな。その下の3人官女はたぶん御世話役で、5人囃子は少年音楽隊みたいなものか。雛祭りの歌からすると、その下のお菓子の両サイドに立つ成人は赤い顔をした方が右大臣とすれば、もう一人は左大臣ということになる。(ちょっと政治向きの役職とは違うようだが)



母親は「中々見応えがある」と感心していた。ずいぶん前だが、実は実家に彼女の雛人形があったのを見たことがある。誕生と共にあった人形らしいから母と同じ年齢で、相当古いが田舎であつらえた品で中々高級なもののように見えた。人形は一揃いあるのだが、飾り棚がないために箱にしまってあったのを内裏様だけ出してみたことがあるという。ただ我が家も女の子に縁がなかったので、孫に女の子がいる妹さんのところにあげてしまったという。開成町の雛飾りを見て懐かしくなったらしく、「押入の上の棚に箱があるから出してくれ」というのだが、主役の二人がいないのに、下っ端だけ出してどうしようというのかよく分からない。かなり広い主屋と土蔵を見学して出口にあるお土産コーナーに立ち寄った。ここにNHKに出演していた近藤春奈さん似がいて、手作りのつるし雛は販売してくれるものもあったが、テレビで紹介されたあじさいの花飾りは売り切れてしまったそうだ。私は2つだけ残ったという、「申年にちなんで9匹の猿を天木に結び付け、『苦が去る』」かけた飾りを購入して会場を後にした。


去る者へのメッセージ

2016-03-06 21:48:05 | 職場
グンマ勤務時代は毎年10人以上のルーキーズが配属されてきた。言葉が合っているか分からないが、大学で言えば理系と文系、採用時の区分で言えば技術系と事務系ということになる。入社した直後はどちらの分野も一通りの部署をローテーションで巡り現場を経験する。その後各職場に配属され、先輩らに指導されながら仕事を覚えて行くプロセスはどの会社も似たようなものだろう。この時期のルーキーズはレポート報告会や何やら発表会で集められることがやたら多く、社会人としてスタートを共にした同期として結束が固い。また数は少ないが毎年刻みで年齢の近い先輩もおり、「若手くくり」としてもいい雰囲気のコミュニティを作っている。ルーキーズ向けの公式イベント以外に私は直接仕事を共にする機会は無かったが、仕事以外に一緒にフットサルをやったりレクリエーションしたり、結構若者と触れ合うことはあった。いつものお出かけ衆に言って、思い出したかのように外に連れ出すこともあった。

傾向的にグンマ近隣出身の人はやはり慣れた土地で経験を積む、それ以外はぽーんとどこかに転勤してしまう者が多い。懐かしのスティーブや八兵衛のセクションにも何人かこうした若手がおり、「若者が珍しい」土地のようにベテランたちが厳しく手厚く指導していた。スティーブや八兵衛の見極め力は大したもので「イケそうな若者」は絶妙なタイミングでどんどん本社など上位組織に送り込んでいた。今となって、彼ら自身が職場を去ってしまったが、私がいる間に見知った若者は多くが、本社等で忙しそうに走り回っている。時々仕事で立寄ることなどがあると、連絡を取ってプチグンマ会をする時もある。先日も「本の友」のあまちゃんやグンマで共に高所経験したはなちゃん、ホエールズ命のガノさん達とも席をともにしたばかりである。

そして先日、同じ本社勤務であるグンマのマッチーから久々に連絡が来た。コバッティが今年度をもって退職するというのである。コバッティは確かスティーブがその高い能力を見出し、自らのお膝元で鍛え上げた青年だったはずである。コバッティのすぐ隣の担当で先輩にあたるマッチーのメールには「縁のある方々へ」というタイトルで「グンマで勤務して現在は本社●○部で活躍されている○◆さんが一身上の都合で今年度をもって退職されることになった。非常に残念だ。ついてはこれまでの労をねぎらい今後の健勝、発展を祈る気持ちを込めて送別会を行うので参加lください」という内容だった。年の近い若手や当時の上司、先輩にも広く声をかけているようだった。直属だったミヤさんや責任者のスティーブもいち早く参加を表明していた。どれだけ集まるのかは分からなかったが、OBも結構いてさながら「グンマ同窓会」のような気がして、私も早速出席連絡しようとキーボードを叩きながらふっとその手が止まったのである。

自分で言うのも何だが、私はグンマの職場では割とシンボリックなポジションにいたから、行けばむろん歓迎してくれるだろう。ホントのグンマ同窓会ならいいのだが、特定の「彼」のために駆け付けるのがよいことかどうか・・・ちょっと考えあぐねた。私はグンマに3年ほどいたから、付き合いは1年の人から3年の人がいる。その中にはかなり密接に仕事を共にした人は少なくないが、もうすでにお辞めになった人もいる。スティーブや八兵衛のように完走ゴールテープを切るのではなく、道半ばで去った人もいるがそれらの人全ての送別会に顔を出したわけではない。誰かに咎められるものでもないが、何か自分が公明正大でないようで気持ち悪いのである。ましては立場上は「引き留めるよう説得すべき」ところで、爽やかに新天地に送り出してやりたいのは確かなのだが、能力の流失を被る会社側の代表(ってほどでもないが)嬉嬉として参上するのはちょっと違うと正直思った。

当日は別の爽やかな人達と席を囲む約束があったが、無理すればハシゴすることもできた。スティーブやミヤさんの残念そうな顔が目に浮かぶ。若手の育成指導責任者だったグッチーも今は本社勤務だから参加するだろう。八兵衛も来るかな。久しぶりに3Bトリオにも会いたいし、入社したてて初々しく頼りなかったが、3年ほどたって本社でバリバリ夜遅くまで仕事している元ルーキーズの顔も見たい。幹事に一旦は断りの返信をしてあるが、その後も「人数の変更はできます」とお誘いのようなものがあった。ところでコバッティはどうして辞める決断に至ったんだろう。確かグンマにいた時に既に結婚しており、パートナーの実家が事業化でいずれ婿養子として承継するような噂も聞いていたが、それのことなのかな。あまり細かく聞き取るわけにもいかない。まあ、あまり気に留めることもなく、その時の気分で決めようと思っていたら、前日まで忘れてしまっていた。

当日は出掛ける予定が重なっていてオフィスに戻ってきたのが夕方近くになっていた。こういう場合、私は大抵「足を運ぶ」ほうに倒れていた。ただ今回は珍しく参加を「見送る」ことにしたのである。何か筋が通らないような気がするのを禁じ得なかった。コバッティの事情や送別会の様子は後から「グンマ同窓会」があればその時に聞けばよい。一方、私は彼ら若手が、わずかな日数だけ研修をともにし、研究所系に配属されていった同期への送別会で作成した「思い出映像」に感動したことを思い出した。その時の感激を覚えていたから、自分が去る時に妻に頼んで3年間の集大成を編集してもらったのである。このままにしてしまうのは、どうにも冷たく寂しい気がしたので、本人にだけメッセージを送ることにした。

「○○●●様

ご無沙汰しています。グンマの◇◆部にいた磯辺です。
▲▽さんから案内を頂きましたが、一身上のご都合で今年度限り会社をお辞めになるとか。
昨日は送別会に駆け付けられなくてすみませんでした。
短い間でしたが、同じグンマで仕事をした者として、○○さんが迷っていたり悩んでいたりしている時期であれば、立場上色々と相談にも乗れたのですが、決断してしまった後では出番がないので、メッセージだけ送りますね。

新しいステージではどうぞ、思う存分頑張ってください。
「どちらか二つに一つ」という大きな選択をした場合、どちらを選んでも間違いなくいずれ後悔することはあります。採らなかった方の選択がよかったように思えることは必ずあるんです。また同様の人を何人も見てきた経験から言うと、恐らく当社にいる選択よりも試練が多いと思います。
昨晩はたくさんの先輩、同僚が集まったことでしょう。ぶっちゃけその年齢では会社に貢献するのはこれからなのに、元の同僚が気持ちよく前途を祝してくれるとは、よい会社仲間ですね。後悔しそうになったら、彼らの顔を思い出して、言い訳せずに突き進んでください。
いつかまた集える日を楽しみにしています。ご身体に気を付けて。活躍を祈念しています。
(もしメールを既に見られないようであれば、このメッセージを伝えてもらいたくBCCで送別会幹事にも送ります)」

会社員ライフを全うし勇退するわけではなく、かと言って不幸を背負って袂を分かつわけでもない。どんな決断があったのか知らないが、新天地を目指す若者を気持ちよく送り出してやりたいが、会社員としては手放しで喜ぶわけにはいかず万歳三唱はできない。こういう「去る者へのメッセージ」とは難しいものだ。しばらくしてBCCで送ったマッチーから返信がきた。「想いを伝えたら今後の糧になると思う。明日(本人が)読めなかった場合は自分より必ず伝えるようにする」という内容だった。
本人はその日は休み、翌日は出張予定であり、退職までの休暇を消化するために事実上もう出勤しないという。「やっぱり、もっと早くに送っておけばよかったか?いや、顔だけでも出しておけばよかった」自分でメッセージの中に入れておきながら、自分が「後悔」する羽目になってしまった・・・

中に書いた「当社にいる(残留する)選択よりも試練が多い」というのはホントの実感としてある。従兄妹に聞かれて答えたことがあるが、私は振り替えると10数回も転勤を繰り返してきたが同僚には恵まれ、どこに行っても「退屈しないネタ」を見出し、「楽しむ」ことができたのでお気楽にも「現状への不満」や「将来への野望」などを持つことがなかった。これまで何人ものバイタリティ溢れる同僚が新天地へ去って行ったが、傾向的にはどうも辛苦が多いようなのだ。大体スカウトされるようなスタイルが多いのだが、行った先の企業が潰れてしまったり、長期の単身海外勤務となったり、ありがたいことに連絡をくれるごとに会社が変わっていたり・・・欧米のように「会社は自分のキャリアアップのため腰掛」と割り切れればよいが、「いつかある今でない状況」や「この会社でないどこかの会社」、「今の私よりも私らしい私」みたいな幻想めいたことを考えるとスパイラルダウンに陥るケースがあるようだ。幸い、コバッティはそういう心境で今に至ったのではないらしい。

最近、時代錯誤ともいえる大学の応援団を描いた本を読んだ。応援する者とされるものは決して同じフィールドに立つことはない。応援する者は応援される者が「応援されている」と意識しないくらい集中して戦えるようにひたすらに応援すべきで、(何か禅問答のようだが)応援される者は応援の声が聞こえないくらいに戦いに没頭すべきだという。応援は「相手に勝て」とは言わない、「負けるな」とも少し違う、「(お前は一人じゃないぞ)」とただひたすらに「がんばれ」と言い続けるのだともいう。「去る者」に対しての応援は「去る時」の一瞬だけである。この応援歌が彼の中に留まり、いずれかたった時に効果を発揮してもらいたいと思う。

GOKUにシビれる

2016-03-02 20:59:44 | 旅行お出かけ
再び妻と「芝居」なるものを見に行った。前回「しばいのチカラ」編で紹介して以来だから、4か月ぶりくらいとなる。前回は初心者の私にとっては中々難しいテーマを扱ったものだったが、今回はいわゆる「エンターティメント」に近いものだ。某有名人気グループのメンバが主役となり、若手の俳優やベテラン勢など個性豊かな面々が取り囲んでいる。舞台俳優とされる人はあまり存じ上げないのだが、何と最新の「ウルトラマンX」の防衛チームの橘副隊長が僧玄奘として登場する、つまりは「西遊記」である。公演は19回予定されていて、我々は最後から2番目だった。ものすごい人気で中々チケットが取れないらしく、妻は19回の公演全てにエントリーして1回だけ当たったという。公演は代々木公園の中の特設劇場で行われる。

学生時代はよく足を運んだ渋谷駅だがやたらに再開発されており、東急線で地下に入ってしまうとどこに何があるのかさっぱり分からない。109を横目に山手線沿いに歩くと坂の上にNHKホールが見えてきた。その横が代々木公園のようである。紅白歌合戦のNHKホールだが、ものすごく前に一度だけ訪れたことがある。日比谷公園の近くに勤務していた頃だ。若手のU田クンが先輩のO内さんにNHKホールの場所を訪ねていた。「よくNHKは渋谷区神南秘書箱何とか号とかいうから、渋谷から歩けるんじゃない?」O内さんもかなり怪しい。。。「君らは情けねえなあ。NHKホールの場所も知らんのか?」「磯辺さんは行ったことあるんですか?」「当たり前だろ」「オーケストラか何かですか?」「いや、堺正章とコロッケショーだけど・・・」隣りで聞いていたKギ女史がイスから笑い転げた。。。(どこに笑うところがあるのか、未だに分からぬ)

    

さて劇場の入口まで歩くと、年齢層はそれなりに広いが圧倒的に女性が多いことが分かる。記念グッズなどを一通り物色し、エントランスを入って行くと前回よりもたくさんの観客が詰め込んでいた。特設なので、シートなどは若干安っぽいものだが、ウルトラマンステージのようちゃちな舞台ではなく、本格セットでかなりの奥行をもっていた。座ったシートは何と最前列ど真ん中!今まで色んなステージやコンサート会場に足を運んだが、最前列というのは生まれて初めてだ。ライブビューや映画と異なり、生身の役者がそれこそ手を伸ばせば触れる距離で演じるというのはすごいことなんだろう。正月に甘辛と行ったウルトラマンステージは前から4列目だったが、横にせり出した細い舞台の真横だったので、ウルトラ戦士と怪獣がドタンバタン戦う時の振動や埃などもやってきた。(下手すりゃ怪獣の尻尾にも触れるくらいだった)

    

開演時刻となり劇場内が真っ暗になって、独特のBGMが孫悟空が生まれるところから物語が始まった。「西遊記」と言えば我々の世代は堺正章さん演じる孫悟空に岸辺シローさん、西田敏行さん、そして惜しくも亡くなった女優夏目雅子さんの三蔵法師だったが、残念ながら私はこちらの方はほとんど見ていなかった。どちらかというとドリフの人形劇の方ばかり見ていた。三蔵法師一行は4名なので、確かカトちゃんは酔っ払いハゲで出ていたと思う。シーンが切り替わるところでピンクレディーのちょい歌があったり、時の首相の人形が出てきたり中々社会を風刺したものだと思うが、やはりドリフものはPTAから目の敵にされていた。また正月の「新春かくし芸大会」ではドリフが中国語で西遊記を演じていたように思う。私よりも息子甘辛が「西遊記」が大好きだった。香取信吾さんが孫悟空でうっちゃん、チビノリダーが共演、三蔵法師は深津絵里さんだったが、子供たちの間でものすごい人気があった。小学生だった甘辛は「西遊記」にハマり込み、これがきかっけで「封神演義」などの中国の物語を読みまくり、今や私よりもはるかに詳しくなっている。

さて、ど真ん中最前列で見るGOKUは圧巻という他なかったが、初めての経験で戸惑うことが少なくなかった。役者と目が合ってしまいやりどころに困るのである。特に橘副隊長(月船さららさん)の僧玄奘が「聞いてくれますか?」と悟空に悲しい身の上話を始めた時、うつむき加減にじーっと私の目を見つめるのである。役者が観客の目を見て演じるというのは聞いたことがあるが、どちらかというとまんべんなくアピールするんだと思っていた。しかし舞台の真ん中からじーっと見下ろされると「全く逃げ場がない」のである。思わず「オ、オレ?」と自分を指差してしまいそうになった。。。しばらく凍り付いてしまったが、休憩時間になって呪縛が解けたように周囲を見渡すと、最前列の男子は私一人だったのである。ちょっとドタバタしていたが、歌踊りあり、アクションあり、アドリブ満点の笑いあり・・・でも最後は泣かせるニクい演出だった。一人ひとりの役者の顔が紅潮していったり、ホントに涙を流したり。。。

  

話自体は西遊記のストーリーに比較的沿ったものだったが、迫力の最前列の余韻にひたって劇場を後にした。渋谷周辺など滅多なことで来ないので、食事は我が街周辺にはあまり見られないところにしようと「肉バル」というジャンルの店に入ってみることにした。美味しい肉を食べながらお酒を飲めるという趣向の店で、若者で賑わうエリアから反対側(五島プラネタリウムがあった方?)だから結構静かで雰囲気のよい店だった。自分で選んだ肉の部位やレバーペーストなどをつまみながら、舞台について語り合うのも一興だ。
「なんかさ、副隊長(私はついそう呼んでしまう)が、じーっとオレの目を見つめてるような気がしてビビったよ」隣に座っていた妻に言わせると、間違いなく私を見つめていたという。「一列目で男性はあなただけだったからねえ」やっぱりそうか・・・・

    

舞台は開演して1時間で1回休憩が入り、後半もほぼ1時間、あの動きで1日2回も公演するのは大変な体力だと思うが、正直チケットも安くはない。パンフレットも高級感溢れていたが、1冊は映画を見る代金とほぼ同じ・・・しかしファンというのはすごいもので、抱えきれないほどのグッズを買い込んでいる人が結構いた。甘辛が家を空けがちになり、親とあまり行動を共にしなくなる今年、数少ない共通の趣味として数回くらいは行ってみようと思う。何となくそう考えていたら、翌晩不可思議な夢を見た。渋谷駅から少し歩くと目の前に実家が現れたのである。(これはたぶん久々に周辺を歩いた影響だろう)実家は私が幼い時のスタイルで座敷の縁側が昔のように少し広いものだった。その縁側に亡き父がせっせと手作りで椅子やらテーブルやら舞台のセットのようなものを大工仕事で作っているのである。(これまた芝居の影響か?!)
正月以来墓参りに行っていないので、そろそろ「掃除しにこい」という意味だろうか?