超兵器磯辺2号

幻の超兵器2号。。。
磯辺氏の文才を惜しむ声に応えてコンパクトに再登場。
ウルトラな日々がまたここに綴られる。

偵察ヘリoh-6D

2012-01-30 04:40:45 | 出来事
「あの人達ね、後ろのドア開けたまんま飛ぶんですよ。信じられねえ。あっちの小さいヤツなんかまるで『アブ』じゃないですか。絶対乗りたかないね」スティーブは高所作業などバリバリこなしてきたのに、ヘリは嫌いらしい。昨年のちょうど今頃行われた陸上自衛隊との共同訓練の日がやって来た。オフィスから約20kmくらいのところにある駐屯地が会場である。
そう、お馴染み(どこが?)ch-47輸送ヘリに特殊機材を搭載して離陸、市内をほぼ一周して現地での着陸を想定して再び着陸して駐屯地内施設に運搬し、そこで作業を行った。陸上自衛隊一旅団と隣接4県の組織による合同訓練である。以前も紹介したが、実は前回の訓練は我が方の精密機器の配線に問題があり一部はうまく行かなかったのだ。責任者のOK所長は恐縮しきって原因の究明に急いでいた。
そしてその1ヶ月半後、かの大地震の発生である。軽トラック1台で乗り切らない量の精密機材をエレベーターが停止してしまった拠点ビルの8階(あれに懲りて今は1回に設置している)から階段で下ろし、速やかに出動準備を整え同じ駐屯地から仙台へ飛び立ったのが3月12日。。。先遣チームは連絡も現地の受け入れも混乱している中、実に立派に任務を果たしてみせた。訓練の成果を発揮できたわけである。

集合はオフィスに朝の6時半、駐屯地集合が7時半である。その週は日本列島に強力な寒波がやってきて、恐ろしく寒い日が続いた。広大な飛行場の屋外で待機する時間が長いから、ヒートテックをはじめタイツ、ホカロン、耳あて、マスク、手袋・・・これ以上着込めないほどモコモコになって登場した。ちょっとした挨拶と予定の確認をすませ、ゲートで敬礼されて飛行場へ入って駐車場へ行くと、懐かしのch-47が「どーん」と構えていた。早速先遣隊のバイクを積み込み始めた。今回トミーやグッチーが初登場だったから、もの珍しそうに周囲を眺め写真を撮っていた。天気は比較的よいが、少したって風が吹きはじめ小雪が舞うほどで気温の上昇はどうも期待できないようだった。
彼らの軍用ヘリコプターは離陸予定時間の約1時間前に「飛行決心」という聞き慣れない儀式がある。その名も通り、天候や現地までのルート状況などを検討して「ホントに飛ぶかどうか」覚悟を決めるわけである。

      

今年は大震災の影響もあったのか、遠隔地どおしでホントに往復し現地での作業に徹する要素が多かったため時間も長く規模も大きくなった。こちらからバイク、特殊機器、人員などを搭載したch-47で隣接する「餃子の町」にある飛行場で荷物を下ろし、そこで実際に作業を行うのである。そしてその後偵察ヘリを飛ばし、現地の様子を上空から映像伝送する。
私が搭乗するのは「絶対乗らせてねー!」と騒いでいたoh-6D偵察・観測用ヘリ。。。スティーブが「アブ」と呼んだあれである。ニュージーランドに旅行した時にラフティングツアーでスタート地点まで乗せてもらったヘリに似ている。右に左にものすごい旋回能力を持った絶叫マシン真っ青の迫力だった。駐屯地を飛び立って、餃子の町までは約30分、上空を旋回し同じ飛行場に帰還するのに要するのは約1時間だ。ch-47は輸送されるモノとしてただ乗っておればよいが、oh-6Dは4人乗りで機能が全く違うので「教育」を受けておく必要があるという。同乗者と私は格納庫へと向かった。
近くで見るとおもちゃのように小さい。ラジコンの親分のようだ。だから機体への近づき方、乗り方、3点シートベルトの締め方、会話の仕方など様々な決まりがあった。何せローターがすぐ頭の真上で高速回転するので、耳栓すら役に立たない。戦闘機乗り用のごっついヘルメットを身に付け、マイクを通して会話することになる。
  
不可解なことに後部座席には今では電車にも無くなった灰皿が・・・もしかしてエライ人が視察するときに使うのかなー。
「狭い中で動きつらいですけど・・・触ってはいけないところが結構あるんでねー。」確かに練習で後部座席について3点シートベルトを締めると真横や前方に「押すな」「触るな」とか色々警告シールがたくさん貼ってある。パイロットの上官にあたると思う人が「航空機の機体ってね。フレームは強いけど外装は応力でもっているところが多くて・・・早い話が『チャチ』だってことですよ。ほらっ」ドアの横を親指で押すと何と一旦凹んでまた元に戻った。。。うーむ、ch-47の頑丈そうな機体に比べて・・・若干怖くなってきたぞ。「アブ」か。
戦闘機用ヘルメットの大きさを合わせて、頭に着けたまま私は「教官、質問!写真撮ってもいいですかー?」「軍事機密みたいなのは全然ないからOKですよー。ただ周波数だけね・・・分かるとまずいので入れないでね」なーるへそ。。。

     
  

飛行時間になって再び格納庫前に歩いていくと、離発着ポートには既にその黒い機体が鎮座していた。パイロットは敬礼し、ルートを説明してくれた。
「若干、雪の雲がありますので避けながら行きますが、桐生、佐野を通過して目的地上空までほぼ直線で30分くらいです。北飛行場へ着陸したと想定し、一旦高度を下げますが、そのままこの駐屯地に帰還します」
離陸用ポートには待機していた人員がまた珍しそうにoh-6Dを取り囲んでいたが、すぐに追い払われた。確かに上昇を始めたときに横殴りの強風があったら、軽く全員道連れだなー。
トップガンよろしくサムズアップで偵察ヘリに乗り込んだら、すぐにローターが回りだした。ヘルメットのマイクからは操縦士が色々と管制官と交信するありさまが聞こえてきた。
「ウォームアップスタート・・・圧正常、現在95・・・何とか、かんとか・・・・オールグリーン!」ホントにフワリと浮き上がった。。。いきなり地面が見えるほど機体を倒し急旋回急上昇・・・と思いきや意外にも機体は首都防衛戦闘機スーパーX(ゴジラ‘84)のように真横に滑り出し、低い高度でホバリングした。。。っとその時に上空から巨大なch-47が真横を通り過ぎて着陸した。実は北飛行場からクロスで出動したスティーブらが到着したのだ。

      

ch-47とすれ違うと我がoh-6D偵察ヘリは次第に高度を上げ、北東へ進路をとった。私の管轄するエリアだから上空から見るとメインどころの建物は何なのかよくわかる。しかし、県庁ビルと競輪場ドームを横切ってしばらくするとマイクで「ただ今桐生の上空です」「高度はどれくらいですか?」「1000フィート、約300メートルくらいですねー」私はFOMA携帯の電波状態とを知るためにアンテナを睨んでいた。同乗者が「携帯使っても大丈夫ですか?」そうだ、さすが!航空機では計器に影響があるので飛行中は一切携帯は使えないんだっけ・・・しかし意外な答えが。。。
「ははは。この機はそんな精密機器搭載してませんから、全然OKですよー」笑ってしまったが、それはそれで結構怖い・・・というか心細い。
「真下の川は『渡良瀬川』ですか?」「そうです。川の右側が大田、左側が足利市です。ここからだとボクどれか分からないんですけど、森高千里の『渡良瀬橋』ってありましたねー」
KICK師匠が懐かしんでくれるかと、懸命に探してみたが残念ながら上空から「渡良瀬橋」を確認することはできなかった。飛行ルートと地図を頭に入れておくか、「上を飛んで」と言っておけばよかった・・・

    

「今、佐野市の上空です。北飛行場まではもうすぐなので、あの小さな山を越えたら高度を落として行きます。ちょっと揺れるかもしれません」それまではそれこそch-47大型ヘリと同じくらい安定していたが、そう言えば右に左に少し揺れ出したようだ。
パイロットは地上と盛んに交信を始めた。どうもこの機体は「オスカー」という愛称かコードネームがあるようだ。新幹線沿線で餃子の市街より少し手前に北飛行場が見えてきた。かなり高度は下ろしたが、「タッチアンドゴー」まではせずにそのまま上昇し、上空で旋回した。私は何度か地上の連中にテレビ電話を発信した。電波は不安定だが、何とか地上のリアルタイムな様子を送信できそうである。ただ戦闘用ヘルメットを着けているので、携帯電話でしゃべることができないのである。カメラを切り替えひたすら地上の様子を送り続けた。何回か足を運んだ本当の被災地を思い出してしまい、その上空の様子を思い浮かべると正直、心が傷んだ。こういうことをしなくてすむように祈るしかない。旋回して元のコースを戻り始めるとはるか下方をすごい勢いで同型?のヘリがすれ違っていった。時速180キロくらいと言うから、かなりな相対速度なんだな。

      

帰りは反対側の景色になるが、見事なA城山の光景が・・・気流が安定しなくなったのか若干速度を上げて揺れながら駐屯地へ向かう。往復約1時間のフライトで予定通り着陸した。
離陸時にすれ違ったch-47に乗っていたスティーブに、「すぐそばをすれ違ったのわかりましたか?」聞くと彼らは軽トラックそのものを搭載した影響で機内で座ることができず、「立ち乗り」でやってきたと言う。
「ボクらが北飛行場を離陸する前にね、磯辺さんのアブと同型のヤツがものすごい勢いで上昇、下降を繰り返す訓練やってたんですよ。あんなのやられたら磯辺さん大変だねーって話してたんです」

      

随分安全運転で飛行してくれたんだなー。多少やって欲しかった気もするけど・・・こうして私にとって2度目の飛行を無事に終了するのである。
大震災の後でもあり、始終本番を想定して色々試してきた私だが、少しだけ「遊んで」しまった。上空からテレビ電話で遠く数百キロ離れた妻にもコールしてみたのである。会話はできなかったが、最初に自分の顔が映ったから何をしたかったか理解できたらしい。後から気付いたのだが、写真メールをもっと効果的に使えばよかった。。。

マイルーム

2012-01-28 09:51:17 | 出来事
私は子供の頃から自分の部屋があった。ベッドと机があって壁一面の本棚とクローゼットがあって、いつしか隣の部屋にあったコンポを運び込んだ。本棚には膨大な数のコミックが並び、ベッドの頭側の脇には毎週欠かさず買っていた少年ジャンプの天井まで届く勢いの塔が3本あった。何度か崩れ落ちて埋もれそうになったことがある。
高校受験の時に快適さを訴えて小さなエアコンを入れてもらい、高校入学のお祝いにそれまで使っていた「くろがね」のスチール学習机に代わり、両袖の木製机が部屋に入ってきた。この机、一見ゴージャスだが実は一人で持ち上げられるほど軽い。。。

すっかり「自分の城」化してしまった私は、別に反抗期とかではなかったが、何となく親に色々言われるのが煩わしく、出先から帰るといつも部屋に真っすぐ向かい一人引き籠っていた。もちろん今風の「ひきこもり」ということはない。一人で部屋にいるのが結構好きだったのである。今となってはもっと両親とコミュニケーションをとっておけばよかったと正直思う。
今は母親が寝起きする部屋になっているが、私の木製机や本棚はまだ捨てずに残っていた。

我が家を建設する時に、当初は普通に2階がありリビングの他に寝室や子供部屋、畳の客間などを思い描いていたのだが、設計士が描いた間取りのプランはそう言った想定をことごとく打ち砕くものであった。息子甘辛の部屋は「コーナー」となってリビングの片隅にされた。キッチンから家じゅうを見渡すことができ、子供が小さなうちは必ず視界に入れることができるし、大きくなってプライバシーや個人スペースが本当に必要になったら間仕切ればよい。私のように玄関をスルーしてすぐに自分の部屋に直行というのも家族的にはどうかと思っていたし、いつも一緒にいるのが当たり前であれば別に自分の部屋など欲しがらないかもなー、とその案を認めた我々であった。予算不足が主な理由だが、どうもうまくやられたような気はしている。。。

実際に息子甘辛は「難しい」という今の年頃まで「子供コーナー」に入り浸るわけでもなく、いつもリビングのど真ん中で何でもやらかしていた。小学高学年になって「部屋はいらんのか?」とたまに聞いても掃除や整理整頓が面倒くさかったのかほとんど興味を示さなかった。。。
しかし意外なことに困ったのは私本人だった。ごくごくたまにだったが、休みの日にサッカーがオフになってお友達を連れてきたりすると私のいる場所がないのである。寝室でゴロゴロ本など読んでいると虚しくなってくるので、大抵はどこかに出掛けてしまう。まあ、知らん顔してテレビゲームを始めてしまうので、それほど気を使うことはないのだったが・・・
そして甘辛が初めて女子を遊びに連れてきたとき私はいなかったが、彼は母親に対して少し気まずかったらしいことを銭湯で口にした。

かくして「庭改造計画」にあった当初の「大きめの物置」又は「ちょっとしたガレージ」案が、中で勉強したり遊んだりすることができる小屋に変貌するのである。たまたま庭を手がけた人が「ガーデンシェッド」というものにすごく強い思い入れがあったこともあるが、どちらかと言うとこちらがメインの改造計画になってしまった。草むしりをしなくてよいように改造するのが目的だから、建物で塞ぐというのも「あり」なわけだ。まあ、図面上そうなるように注文したのだが、いざ出来上がってみると「ものすごく立派」な小屋になっていた。

    

そうして見るとも「せっかくだから」とカーペットを選びに行ったり、エアコンを入れてみたりと装備が豪華になってきた。
ただやはり新生活というような類ではないので、「使える物は全て使う」というポリシーで、テーブルは私が一人住まいしていたときのちゃぶ台、机はずばり私が使っていた木製デスク、ランプも社宅時代にキッチンで使用していたものだ。
木製デスクは茅ヶ崎の実家にまだあったが、これの移送は想像以上に困難を極めた。我が家は軽自動車だからあの大きさのものはギリギリ入るかどうかである。もし入らなければホームセンターなどで大きな買い物をしたときに貸してくれる軽トラックなどを使わなければならない。雨の日は使えないし積み下ろしや荷台への固定など男手がいる上、時間制限の中で往復しなければならない、などかなりな大仕事だ。

大きさを綿密に測ってみると、天板を逆さにして思い切り運転席と助手席を前にずらせばぎりぎり入りそうだ。自家用車に積めればかなり楽だなー。早朝、竜泉寺の帰りに実家に寄り乗るかどうか試してみようと思った。
大して重くはないから、向きや方向を帰るときだけ母親に手伝ってもらい大半は一人でがんばれば運べると思っていたのだが、意外にもそれ以前の問題が到来した。
肝心の木製デスクが「元自分の部屋」から出ないのである。「おっかしいなー、どうやって入れたんだっけ?」窓から入れた記憶はないのだが、あとちょっとのところで足が引っ掛かってどのような角度にしても出られないのだ。「しょうがない。。。入り口のドアを一旦外すからドライバー貸してくれる?」

ホントは狭い部屋の中でどうしても一人で回転できないところだけ手伝ってもらうつもりだった母親に目一杯つき合わせてしまった。。。狭い家で階段とかはないし玄関まではすぐだったが・・・
なんと、玄関の幅からは出すことができなかったのである!これまたもう数センチのところだったが、どう角度を変えてもダメだった。「ずいぶん前に玄関のドアをスチールに変えたからねえ。前より幅、狭くなったかも。。。」さすがに玄関ドアまで外してしまうわけには行かぬ・・・机の四つの足を2cmずつくらいちょん切ってしまえば出るのだが、初っ端からそんなケチをつけては息子がかわいそうだ。

色々考えた末、床や壁の幅などを測りルートを検討した結果、玄関を素通りしダイニングキッチンも素通りして座敷部屋の縁側から出してしまうことにした。ルート上の障害物を全て一旦どかして・・・通路が狭くて一人では運べないのでやはり母親に手伝ってもらったが、ようやく縁側から庭に搬出できた。
出してしまえば後は一人で自動車まで運び逆さにしてトランクから押し込んでみる。心配そうに母親は覗き込んでいたが、後部座席を倒して邪魔モノを全部どかして、運転席と助手席をこれ以上前に行けないところまでずらし、さらに背もたれを90度以下に倒してホントにぎりぎり載せることができた。。。(ふうっー)

別のモノは何一つ載らないのでそのまま一旦自宅へ向かう。免許取立ての女性のようにハンドルが目の前にある、という窮屈極まりない姿勢で前掲姿勢で約15分間海岸線を走った。(あまり人に見せられない姿だった)
塾で英検を受け終わった息子甘辛と妻と3人でホームセンターへ。。。椅子と本棚を選ばせるためである。甘辛はレストランのメニューを選ぶにしても他の何かを選ぶにしても実に明快で迷うことなく瞬間的に選ぶ。(これはすごいといつも思う)ただよろしくないのは、それが親のストライクゾーンから外れていた場合、中々自分のチョイスを変えないことである。所詮はニトリだから別にべらぼうに高額なわけではないが、社長室の椅子みたいなのが気に入ったようだ。本棚を選んだ後、再び実家へ寄って本立てなど残りのモノを運搬して帰宅。椅子と本棚は後日届き、妻が必死こいて組み立てて、とりあえず部屋らしくなってきた。

    

むろん私の部屋でもあるから、いろんなアイテムは収納することになるが、当面は受験生が優先かなー。
あまり快適に「城塞化」し過ぎてしまうと私のように入りびたりになってしまうし、全然寄り付かないと費用をかけた意味がない。。。難しいところだ。M田Y子の息子のようにはならないだろうけどなー。サッカーばかりやっていてまるで受験などを気にかけてもいない息子に切り札の30日コミットメントを課した。
「1日1時間以上はあの部屋で机に向かい勉強すること」。。。まるで小学生相手のお約束みたいなものだ。
あまりよろしくないが、完了しなかった場合、彼が選んだゴージャス社長用椅子は私のモノになることになっている。私はプレッシャーのかからない「勉強」が大好きだから、隅々に私のガラクタが占拠しホントに「マイルーム」化してしまう可能性が結構高い。無理に息子に押し付けるものでもなし、それはそれで「よし」とするか・・・

やる気DASカップ

2012-01-26 17:28:49 | 職場
入学(もとい!社)3年くらいまでの若手も数十人ぐらいになったので、高齢化する職場の中で何か若者らしい取組みをしようぜ、ということになった。
勉強会やらディスカッション、色々と行ってきたが、日々の彼らの奮闘ぶりを披露する会を設けてもらった。考案したのは若きエースであるグッチーの懐刀のハタ坊である。その名を「やる気DASカップ」という。
私はこの命名に思わず膝を打った。先日、全社的に開催された「現場力」を高めるためのイベントでも若者の活躍が目覚しかったが、これはいわゆる業務カイゼンの発表とかとは少し異なる。何でもよいから「聴いている人が発奮するようなことを発表せよ」ということである。だからただの自慢話でもよい。

40件以上エントリーがあり、時間的に全て聴くことができないから、残念ながら事前審査みたいなものが入ってしまったが、全部で7件プレゼンしてもらうことになった。その他30数件も簡単に紹介され、出席者全員で投票して「やる気がDETA」優秀なプレゼンを表彰しようというものだ。
その日は朝から「ドクロネクタイ」大活躍の会議ばかり重なり、自分としても「やる気をDASHI」たいところであった。第1回目ということで趣旨がよく伝わらず、若干肩に力の入った「業務カイゼン」色が強くなってしまったが、「資格をたくさん取った」とか「お客様に褒められる極意」とか色々あって中々興味深かった。

中でも光っていたのは先日の全社イベント技能競技会で堂々の3位入賞を果たしたUNO君である。プレゼンは当日、競技終了までに至る裏話であった。
一見、昔近所の海岸線を爆走していた若造の特攻服が似合いそうなUNO君だったが、腕はもちろん丁寧な顧客応対や気配りが素晴らしく、予選会ともいえる職場のテクニカルコンペティションで優勝して県の代表として乗り込んだのである。
オフィスビルの電気室のようなところのスペースに「練習場」を作り、仕事の合間に技能課題を想定して腕に覚えのある先輩もサポートし練習に励んでいたそうだ。

「某部門長も『プレッシャーをかける気はないけど、出るからには入賞してほしいよなー』と励ましてくれました」
「思いっ切りプレッシャーかけてんじゃんか」振り返ってジロリと睨むとスティーブが赤い顔して頭を抱えていた。技能競技も色々な分野があるのだが、大会が開催されて今回で7回、残念ながら我が方は1度も入賞したことがないらしい。確か昨年も無冠だったから相当な重圧だったろう。。。
前日に会場近くのホテル入りした後もパートナーと作戦打合せを続け、周囲のように「飲み」にも行かずに本戦に臨んだ。堂々の3位は立派なものだ。

技能競技は二つの分野に分かれ、その両方で3位入賞があり私は初のダブル受賞に舞い上がり過ぎて体調を崩してしまったくらいである。
技術競技会、パネル展示、ワークショップ、それぞれ我が方の真摯な現場力を余すことなく伝えられたようだ。技能競技会は「入賞することのみが目的ではない」ことはもちろんだが、やはり選手だけでなくサポーターの努力、意気込み等を考えると「形に現れる」とみんな元気が出るものだ。そういう意味では「獲りに行く」というのも意義あるスタイルと感じた。
色んな質問や意見コメントが飛び交い、だいぶ予定時間をオーバーして「第1回やる気DASカップ」は終了した。そのまま懇親会に流れ込みたいところだが、こういうところでは必ず何か話しをさせられる。。。

「皆さん、お疲れさまでした。実は本日は朝から『やる気のDENAI』会議ばかりが続いて、げんなりしたのですが、ようやく元気が出ました。先週のイベントに参加した人はたくさんいると思いますが、やはり改めて我が社の現場力は大したものだなと感じましたね。技能競技会はもちろん獲りに行ったと思いますが、あのフォーラムの目的そのものが『持って帰って形にする』ことです。今年入社された人たちがしばらくローテーションで職場を回って作成してくれたレポート発表で使えるものは全部形にしてみせました。私自身そういうことが『きらいでない』のもありますが、うちの会社は社長の発案だろうが、新入社員のアイディアだろうが、『いいものはすぐにやる』というところを示すためのスタンドプレーでもありました。今回は少しだけ趣旨が違います。『やる気DASカップ』を実行するにあたって、私はあれこれ注文せずに見ているだけにしましたが、ネーミングを聞いたときは感心しましたね。まさしく『聴いている人がやる気を出す』発表会になって欲しかったのです。UNOさんが『他県の大会を見て発奮したのが受賞の一因」と話していましたが、まさしくそれがこの『やる気DASカップ』の極意です。その点からするとちょーっと業務改善系に偏ったかなー。あまり「カイゼン、カイゼン」などと言うと堅苦しくなりますね。次回はもう少しリラックスした自慢話みたいなのも期待しています。
ここから先は雑談になりますが・・・

今、『ALWAYS-3丁目の夕日-’64」という映画をやっていますね。日テレがバックアップして結構盛り上げっているようです。丁度私たちの年代なので見てみようと思ったら、あれは第一作目から話が続いているので、最初から見た方がよいと言われDVDを借りてきて見たんですよ。そして『あー、なるほどねー』と思いましたね。どうも最近の日本人、日本の国ってどうも元気が無くなってきつつあり、あの頃を偲んで回帰したがっているという気がするんですね。第一作目は昭和33年、東京タワー建設中の話です。さすがに私の年代よりもはるかに前なんですが、イメージは何となく分かるんです。今のように何でもあって便利ではないけれども、街に活気が溢れ子供やノラ犬が路地を走り回り、初めてテレビがやってくると町中の老若男女が集まってきてかぶり付きで力道山を応援する。。。人も会社も色んな意味で上か前だけを見ていた時代でした。入社した時点でどこまでステップアップできるか決まってしまうので何も考えなくてよいような感心しない闇の部分もあったと聞いています。それと比べて皆さんは難しい時代に会社員になったものだと感じます。学歴本位制度も薄れに薄れ、チャンスは広がりましたが、かの制度も完全になくなったわけではありません。仕事を覚えたり、成果をあげたり、売り上げを出したり、色んな資格を取ったり語学を究めて留学したり・・・努力さえすれば必ず報われるというわけでもありません。こういうどうしたらよいか分からないときは、割り切って『努力していること自体を楽しむ』のがいいんじゃないかと思います。ちょっと乱暴ですが、結果どうなるかわからんから、とりあえず楽しんだもの勝ち、というわけです。先の発表会でも言いましたが、人間楽しみながらやっているといい知恵が浮かぶもんですよ。次回はぜひそんな気分で臨んでみてください。今日はとても楽しかったです。ありがとうございました。」

庭改造完了

2012-01-22 14:10:47 | 出来事
構想半年、我が家の庭改造が完了した。改造と言うよりもまるで「庭埋立て」である。「庭改造計画」編でも紹介したが、いくつかのガーデナーに見てもらい、いわゆる「愛でる庭」を提案してもらったが、どうもピンと来ずに「ログキットハウス」を製作するとか、ヨド物置で「蔵」と言われるシリーズの「事務所風」小屋を頼むとか色々二転三転を繰り返した。
エントランスのデザインはほぼ決まっていた(というよりあまり選択肢が無かった)。ウッドデッキや木造家具などを手掛ける産業道路沿いの業者を見つけて提案してもらったら、芝生全面をウッドデッキ化し、ちょっとした小屋を置くシンプルな案を持ってきてくれた。デザイナーはマイク真木風の人で、我々のアイディアや発想を取り入れて我が家の庭を構想するのが実に楽しそうだったのと、事務所の近くにうまいラーメン屋があったことで、そこにお願いすることに決めた。

  

「この際だから家の周囲もすべて固めてしまえ!」
草むしりし過ぎ?!で椎間板ヘルニアになってしまった妻が2度としなくてよいように、自分でいじる(かもしれない)家庭菜園用スペースを除いてはコンクリート板、白砂利、マサド、そしてウッドデッキで全て埋め尽くしてしまった。最初の案では庭の正面に中くらいの小屋が建ち、サーフボードやウエットスーツ、釣り道具に天体望遠鏡、子供のおもちゃやコミック類などを全部収納して小さな机を置けるくらいの予定だった。
その頃は大きい物置と言うよりは息子甘辛が自分の部屋としてもある程度使える「小屋」化に傾いていたので、ログハウスを組み立てるとか既成の簡易ハウスなどを設営できないか相談していた。
するとそのデザイナーは「勝手なようで申し訳ないが、自分が扱おうとしている製品を使ってもらえないか」提案してきた。元々ヨーロッパなどで「シェッド」と呼ばれる居住できるガレージを作りたくてこの商売を始めたのだが、西欧のように庭内や別荘地にそう言ったものを建てるユーザがほとんどおらず、我が家の話がファーストケースにしたいと考えたそうなのだ。

  
  
「最初に伺った予算をオーバーしてしまいますが、とても通常予算ではできない立派なモノを建設しますので。シェッドについては採算度外視(むしろかなり赤字?)で製作する代わりに雑誌やHP、顧客に実物を見せたりすることで契約は成立した。
そして改めて見せてくれた案1は原案の倍以上ある巨大な小屋が「でーん!」と芝生の正面に登場するものだった。「あんなものが出現したらリビングから見た圧迫感はないだろか?」釣り竿やらメジャー、コーンなどを駆使してどんなものかイメージした。この案でいくと入り口がリビングに向かって正面にでき、全面ウッドデッキを歩いて正面から入室することになる自然な動きになる。西側の大きな梅の木を残すこともできるが、マサドで固める範囲が広くなるので費用が嵩むのと、中途半端に梅を残してしまうと落ち葉や実の処理を続けなければならない。。。

もう一つの案2はウッドデッキの向こう側に真四角のシェッドを建設する案である。これだとウッドデッキ側だと窮屈なので左側に入り口を作ることになり、動線的には少し不自然になってしまう。また西側の目隠し用の木以外は全て切り倒すことになってしまう。
デザイナーとしては建物は断然案2がお勧めだが、リビングから眺めると既設のウッドデッキに隠れてしまい、イマイチあまり見栄えがよくないんじゃないか?というのが懸念である。
私達は図面とにらめっこしながら、釣り竿で高さを確認したりロープで大きさをイメージしたりとにかく想像力を働かせ、「角度的にウッドデッキの向こう側でも十分栄える」という結論を出したのである。
最初に庭にウッドデッキを作ろうと計画した時も色んな形や大きさが考えられたが、結局のところ真四角の広大な平面・・・・今回も「とにかくデカい小屋」「周囲は砂利敷きつめ」「芝生は今より低い全面ウッドデッキ」といういかにも乱暴極まりない(ある意味シンプル)な案を採用することになった。我が家の思考パターンが少し伺える。。。

    

年末討ち入りの日あたりから工事が始まった。まずは植木屋さんがやってきて目隠しの剪定、抜根などに取りかかったという。前の剪定がまずかったのか庭の大きな木もほとんど回復は難しい状態だったそうだが、一本だけ健全なのがあったので、わずかに残った土の部分に移してもらった。それ以外は見事なまでに何もなくなってしまった。。。
年末で業者の手配などに苦慮したようだが、いきなり初っ端から問題が発生した。笑止千万なことだが、エントランスを一番先に取り掛かったので自家用車の出入りができなくなってしまったのである。妻は慌てて近所に駐車場を借りたようだが、置く場所がなかったらまずいことになるところだった。。。あまり大きな規模の工事を手掛けたことがないので、段取りがイマイチらしい。「アイツら大丈夫か?!よく見てないとおかしなことになるかもなー」

  

「もちろん人が出入りできるようにはしますので」と言っていたが、幅20cmくらいの工事用足場板が一枚、長さ15メートルの私道に接する道まで渡されているだけである。ここを自転車で通れってか?
押して歩くことなどできる幅ではない。そのまま乗って向こうまで行けたらまるでサーカスだ。。。
色々やらかしてくれたが工事は順調に進み、ついにシェッドも完成した。実家から私の使っていた机を持って来て・・・当面は息子甘辛の勉強部屋になってしまうだろう。
たぶんここに住む限りこのような改造はもう2度とはないだろう。リビング以外には一つしかない我が家にようやくもう一つの部屋ができた。写真で見るとボタンを押すと地下からウィーンと出現する秘密基地にも見えるなー。
中にはエアコンを装備し、カーペットを敷いてある程度居住性をよくしたから、釣り道具とかウェットスーツとか室内に置かないモノは入れないことになってしまった。ってことはもう一つ物置を設置するってか?恐らくCOSTCO製の大きな物置が候補になることだろう。。。

    

息子の友達と釣行

2012-01-20 19:24:09 | 旅行お出かけ
少し前になってしまったが、休みの日、息子甘辛が珍しく「オフ」になったと言う。天気も穏やかそうだから、正月の片瀬漁港のリベンジに「釣りに行かねーか」という話をしていたら、彼の友達から電話がかかってきた。その子は甘辛の小学校からの友達だが、お祖父さん直伝の釣りの腕を持ち、将来はプロを目指しているという。甘辛はサッカーが忙しくて中々行けないが、もう一人の仲間と3人で結構この辺を釣り歩いているらしい。電話はもちろん釣りの誘いだった。
「じゃあ、一緒に行かねーか?」ということになり、翌朝準備をして迎えに行くのである。甘辛は本格的に「釣り」を嗜むわけではなく、「ついて行ってときどき一緒にやる」くらいのものである。だから自分の道具を持っているわけでもなく、海釣りに行くときもトレーニングがてら走ってきたり、釣り場の周りで腹筋をやったり・・・その日行くつもりだったところは南熱海のいつものポイントだ。テトラポットで足場が悪く初心者にはあまり向かないので、甘辛ももっぱら見ているだけだった。。。

友達のショー君は我が家のすぐそばを流れる川の河口で50cmものクロダイを釣り上げたり、同じ川でウナギやシーバスもGETし色々手広く営業しているようだが、あのポイントでできる釣り方ができるだろうか?甘辛など放っておけばよいが、人様の御子息を連れるのは滅多にないから「粗相」があってはならぬ。家の前まで迎えに行くと私よりもはるかに立派なロッドケースを持ち込んできた。前夜、私に場所とか釣り方、時間など詳しく聞いてきたし、ずいぶん楽しみにしていたらしい。海岸線を西へ走り出すと二人で後部座席に座り、PSPの対戦ゲームを始めた。
時々運転席の私とは「茅ヶ崎港でメジナが上がっている」とか「今、片瀬漁港は白灯台の方が釣れている」「H地川の河口は駆け上がりになっていて中々いいポイント。また河口から少し上流のほうがハゼはよく上がる」など私も目がキラキラするような情報を山ほど持っていた。そのうち学校のことや彼女のことなど色々と話し出した。

「この前●原にコクられちゃってさー」「んで?どうしたって?」「いやー断っちゃったよ」「なんで?」「甘辛よ、オレ今人生最初で最後の『モテ期』かもしれねーんだよ。本命から来るかもしれねーだろ?」
「ふーん」「○田いんだろ?アイツ、合唱祭の練習のときちょっとからかたら泣きやがって・・・」「オレ、アイツ苦手・・・・」「甘辛はモテるからねえ。ん?もう50回くらいコクられた?」「んなわけねーだろ」
運転席で少し聞き耳が立った。(へーえ、コイツ結構モテんのか?色々やらかしてるし、もっと勉強できたらもっとモテるかもなー)ネットのニュースで見たが、小中学生女子に「『スポーツはできるが成績の悪い子』と『成績はよいがスポーツはからきしの子』とどちらがいいか?」インタビューしたらかなりの割合で「成績のよいほう」を選んだそうだ。なーんか我々の時代とは違ってきたなー。ドライだし。
ショー君は陸上部だそうだが、釣りキチでは中々女子との接点はないな。先日の「職業体験」でももう一人の仲間と3人で迷わず「釣り船」を選んだというから・・・・

早川港の先でテトラポット群を指差し「ショー君、あのテトラの向こう側、メジナの絶好ポイントなんだぜ。立入り禁止なんだけどさ」「父ちゃん、小田原警察に捕まってオレ迎えに行ったもんなー」
「いるだけだと見逃してくれるらしいんだけど、別のところで採集禁止の貝を採っているヤツが通報されてパトカーが来ちゃったんだよ。近くに居合わせたオレを見ないふりできなかったってしきりに謝られたけど指紋とられた。。。」
「オレ、密漁得意なんですよー!茅ヶ崎の海岸で結構色々採れるんだ」「・・・・」ショー君よ、それは犯罪なんだよ。以後しないようにねー。
いつもの釣り道具やでオキアミと配合エサを買った。ショー君はオキアミとアオイソメだけ購入したようだ。そう言えばバッカン(コマセを入れるバケツ)を持って来なかったから、「ウキフカセ」釣りはしないつもりのようだ。あの場所で付けエサだけでは厳しいかもなー。まあ、そこは子供どおし何とかするだろう、と特に何もコメントせずにいた。。。

いつもはあまり釣り人のいない穴場スポットに近いのだが、その日に限って結構先客が来ていた。本シーズンではないからカゴ釣りで沖目を狙う釣り人が多いようだ。
ショー君はおもむろにロッドケースから竿を取り出したが、すばらしくいい竿だった。磯竿も投げ竿も数万円近くするシロモノじゃないか?道具箱も色々な釣りに対応できるアイテムがたくさん入っている。
初めてのポイントだから仕掛けやハリスの太さなど色々ヒヤリングされた。私は準備をして先端まで降りて行ったが、彼はしばらく潮目?やポイントを調べていたようだ。しばらくしてから私のすぐ横で釣り始めた。。。甘辛は上から見ていたが、そのうちにPSPでゲームを始めた。(彼は放っておけば丸1日でもゲームしている)
カゴ釣り族を見ていると、小さな魚がたまに連れている。ベラのようだ。かの魚とはどうも相性が悪く、1匹でも連れると途端にハリスが引っかかるとかハリを飲み込まれるとか数々のトラブルが発生し私にとっては「呪い」の魚のようである。そうこうしているうちに15cmくらいの小さな黒い魚が釣れてきた。「こりゃーメバルだね」その日の初ヒットだった。。。

普通、逃がすサイズなんだと思うが、私は「その日の初ヒットは必ず持ち帰る」というポリシーを持っている。自然に敬意を表す、というか坊主を逃れるためである。以前、エサを投入後小さなメジナが掛かってきて、「このサイズならこの先もっと大きいのが何枚も上がるだろう。ふふん」と海へ帰したのだが、そのナメた態度に自然の怒りを買ったのか、その後ウソのように全く何も釣れず、完全無欠の坊主という信じ難い悪夢を経験した。やはり自然を侮ってはいけない。最初に釣れたものは何でもありがたく頂戴することにしたのだ。
ショー君はポイントを見ながら粘り強く棚を変えていたが、そのうちにいきなり25cmくらいのメジナを釣り上げた。すげーっ!コマセを使わずにあんな大きな(この辺では)メジナを釣り上げた。メジナは小型でも引きが強い。見事な竿捌きで岩場に逃げ込まれないように誘導し、引っこ抜いた。
「へーえ、すごいなあ。この辺じゃかなり大きい方のサイズだよー」私は感嘆するとともに少しホッとした。楽しみにしていた初めてのポイントで何か釣れて欲しいなー、と思っていたところだった(大人の余裕)からあのサイズをいきなり釣れればまずつかみはOKだろう。
「甘辛―、釣れたぞ!良かった~、これで坊主は免れたぜ。。。」やはり本人も少しは不安だったらしい。そのままじゃかすか釣れるといいなー。

そういう大人の小癪な余裕を自然は見逃さない。次に上がって来た少しカラフルな魚はあの呪いの魚だった。。。「やべえ・・・来た」「ぎゃーはっはっは、父ちゃん。呪いかかるどー!」
その直後にものすごいアタリが来たが岩場に潜られ道糸からプッツリ・・・次のアタリではアワセが早すぎてウキが吹っ飛んできてしまい、後ろのテトラに引っかかってロスト・・・さらに次に上がった同じくらいのベラがハリを飲み込んでしまいあの鋭い歯でハリスがプッツリ・・・こちらの頭が「プッツン」(死語?)してしまうくらいの連続アクシデントに見舞われ、その後全く何も反応しなくなってしまった。。。
その後ショー君はカサゴを釣り上げ、熱心にポイントを攻めている。私はにっちもさっちも行かなくなって上へ登っていき、まだPSPを続ける甘辛にいかりや長介風に「ダメだこりゃ」呟き、他の場所の偵察を始めた。「あの魚が上がって釣れたことねーじゃんか」そう言えば前回一緒に来たときもそうだった・・・

ショー君もウキが全く反応しなくなって、さすがに一休みしに登ってきた。「今、昼休みの空白時間だなー。こっちも飯にしようか」少し風が出て寒くなってきたから車の中で3人で弁当を食い始めた。
最初は晴れていたんだが、雲も出てきたしあんまりコンディションがよくない感じだ。こういう時はじたばたしないで休むに限る。
1時間くらい昼寝して晴れ間が出てきたタイミングでまだゲームをやっている二人を尻眼に「ちょっと再開してくるぞ」と元のポイントに戻った。すると数分で20cmくらいのメジナがヒット。。。おーっ、気分を変えたのが良かったかなー。すると次に一回り大きいのが連続ヒット!慌ててテトラを掛け上り携帯に電話した。「食い始めたようだぞー」
ショー君も勇んで同じポイントに戻ってきたが、今日の魚は気まぐれなのかあまり食う気配がない。そのうちに私の竿に結構強いアタリが来て苦戦の末脚元から引っこ抜いた。上のベンチで見ていた人たちから「おーっ!」という歓声が・・・これが快感なんだよね。
釣った魚を下ろして晩御飯で食べるために5時までには家に帰る必要があるため3時で納竿。。。ショー君は残念ながら最初に釣り上げたメジナとカサゴ、そしてベラが数匹という結果だったが初めてのポイントで見事な腕前だった。

  

「遠くまで釣れ出した割にはあまり釣れなかったねー」別れ際少しすまなそうに言っておいた。後からママから電話があって、すごく喜んでいたそうだ。お父さんが全く釣りをしないので、言ったこともない本場?で釣りが出来たこと自体がうれしかったらしい。取りあえずそこそこの大きさが釣れたしねー。
ママから大層お礼を言われた妻は私への御褒美にいつもは私が下ろす魚を自分でさばいてくれた。これにより私がやるよりも倍近く食べられる身が増えるので甘辛も大喜びだ。
27、24,20cmのメジナは目標とする30cmにまたも届かなかったが、久々に家族3人分おいしい「寒グレ」にありつけた晩御飯であった。

  

センター試験

2012-01-17 17:09:43 | 出来事
先週土日に大学入試の「センター試験」が行われた。問題が届かないとか試験中にヒーターがとんでもない雑音を発して全く集中できなかったとか数々のトラブルがあったようだ。
お隣の韓国では「受験生天国」と言われるほどに学歴社会?で試験会場に間に合うためにはパトカーまで協力を惜しまないというニュースを見たが、我が方でもやはり受験地獄というのは健在らしい。
それにしてもセンター試験後にインタビューされる受験生と成人式に映し出される新成人とどうしてこれほど「知性」に落差があるのか、マスコミの操作としか思えない。。。

その先の進路は別として、かく言う私も「センター試験」に相当するものを約30年前に受験した。こうなったら言ってしまうが悪名高き「共通一次試験」である。
自慢にもならないが、当時の受験生にとってはどう考えても受験地獄を悪化させたとしか思えない、最悪の制度だった。
大学入試制度はよく知らないのだが、それまでは国立大学は一期、二期校なるものがあり、何となく一期校のほうが一流、という雰囲気があった記憶がある。

どちらにしても受験時期が違ったのでチャンスが2回あったわけである。「国立なんて行けたらいいよね」と言われた無邪気な時代でもあったが、共通一次になってから全部同じ日になっちゃったからチャンスは1回こっきり、それも「足切り」なる差別的な制度もあったから全くの暗黒時代だったと思う。
ただの自己都合に過ぎないが、我が校は秋の名物体育祭が終わるまでは受験勉強など頭に欠片も持たない雰囲気だったから、5教科7科目なんて幅広な範囲は詰め込み以外の何物でもなかった。
数年たってから日程が2種類になって2校受けられるようになり、また科目数も減ったのでまさしく我々の時代は前後と比較して最悪中の最悪と言ってよいだろう。

とりあえず私も受験した共通一次試験は確か「成人の日」あたりだったと思う。学校名の中に何故か「国立」と入っている国内唯一の大学で、相鉄線和田町駅から歩いて行くキャンパスであった。
「来年来ることになっても着ないから」と現役生らしく制服を着て行ったら、サッカー部の2コ上の先輩が来ていた。。。「おうっ、太郎か。頑張ろうな。オレも今年で決めねーとなー」
高校1年生で入部した時の3年生の先輩など「神様」のようなものだ。不思議な気持ちで最敬礼したと同時に何となく「何でもいいから浪人なんてするもんじゃないなー」と感じたものだ。

当日は少し小雪の降る寒い日だった。教室を調べて席に着き時間になると試験官と思われる小太りで陰気なオヤジが入ってきた。「これから大学共通第一次学力試験を始めます・・・・」とシナリオ棒読みの試験案内が始まった。
「・・・・してください。机の上には受験票、時計、鉛筆、消しゴムのみ置くことができます。・・・」
驚くべきことにこの初老の試験官はこの前後のフレーズを6回繰り返した。。。(壊れたレコードか、このオヤジは?こんなのが教授とかだとしたらこの大学もたいしたことねーな)入れるわけでもないのに勝手にそんなことを考えていたら、私の真横にやってきて耳元で小さく「つまり筆箱も置けないということです」と囁いたのだ。
机の上にはサントリーのCMで流行ったペンギンがデカデカと乗っている、どピンクのカンペンが・・・(やべえ、このことを言っていたのか!)

さすがに順番は忘れたが、国数外国語が100分で理科(選択は物理と化学)、社会(選択は世界史と政経)が120分。理系、外国語はともかく徒然草から杜甫、果ては東ローマ帝国まで覚えなければならない地獄科目だった。
忘れもしないのは外国語の試験が終わった直後、突然私の一つ前に座っていた男子生徒が奇声を上げて机に突っ伏した。「げっげえーっ!英語Aを受けちゃった!」
私もそうだが確か普通の受験生の選択科目は「英語B」だったのだ。何が違うのかはよく知らないが、問題冊子には両方が閉じこまれ、自分で開けて問題文を読んで回答する方式だったから間違えてしまったのだろう。(あの人どーしたかな)

散々な目にあった思い出したくもない期間だったが、終わってみると「やったもん勝ち」で、あの悪夢を経験したから理系以外の科目でも意外に話が分かるのである。(実生活に役立たないのは言うまでもない)さらに悪乗りして「あの時代に比べれば今の受験生は甘い!」と豪語もできるし。。。。
いずれ息子もその仲間入りすることになろうが、あの年代は一生のうち最初で最後の「知性の花開く」期間だと思う。あくまでも結果はともかく受験生の諸君には今のうちからはあまり勉学の道を狭くせず色々な分野を勉強することをお勧めする。(当時は絶対そんなことは考えなかったけど)

雪の国と新春パーティ

2012-01-15 17:06:51 | 出来事
北関東甲信越地域の技術系の責任者の集合会議があった。数年前までは北関東4県だったのが信越が加わり6県会議となったのである。会場は持ち回りで前回は信玄公の国、今回のホストは越後だ。
天気予報でもよく見るが、この時期の日本海側はいつも曇天、そして豪雪だ。不思議なことだが私は東日本エリアの中でかの地だけは訪れたことがない。長岡は学生時代に学会発表で来たことがあるだけだ。会議は午後からだが、移動時間を考えるとオフィスに出社してもすぐに出発しなければならないから直接行くことになった。初めての場所だから早めに行って見聞を広めておくことにしたのだ。
朝の7時近く、マンションのベランダに出ると恐ろしく寒いが東の空に朝日が登り始めた。今日もこの地方は快晴だ。

  

しかし新幹線に乗り、長ーいトンネルを抜けるとホントに雪の世界だった。越後湯沢駅のすぐそばには真っ白な雪で覆われた湯沢高原スキー場があった。ほとんど満席だった指定席はこの駅でほとんどガラガラになってしまった。。。予報では大雪の恐れがあったのだが、それほどひどいことにもならず、初めての地に降り立った。いきなり改札口には金山て採れていた「金鉱石」が・・・

  

トミーが色々と調べてくれたのだが、面白そうだった信濃川の水上バス(浅草から出ているような平べったい船)はこの時期運行が少なく時間が合わない。せめて歴史でも勉強してみようと、タクシーで「みなとぴあ」という地区に行って歴史博物館を訪れることにした。
横浜と同様、江戸時代末期開港したところだから、当時の建物などはハイカラな感じがする。博物館本館も関内で良く見る堂々たる建物だし、税関庁舎、旧第四銀行、石庫などが展示されていた。

      

博物館には体験コーナーで一昔の家事道具やさらに昔の蓑や草鞋、機織り機なども展示されていた。丁寧に扱えば触ってもよいので中々面白かった。炊事道具を見ながら八兵衛などはやたらに懐かしがっていたが、私の世代よりも少し前なのであまりピンとは来なかった。特に「手回し洗濯機」などは生まれて初めてみたぞ・・・

      

    

時間があまり無かったのでタクシーを手配して昼食会場へ。やっぱり日本海だから海鮮丼だな。午後いっぱを使って会議はかなり盛況だった。そして何よりも楽しみにしていたのが、懇親会だ。何せ日本酒で有名なところだから。。。
丁度私の席の真後ろの床の間のようなところにはずらりと銘酒が並んでいる。全部で10種類くらいあるだろうか、それらはとっくりに分けて各テーブルに運ばれてきた。

  

私にとっては夢のような空間だった。気が付くと付箋紙のついたとっくりをずらりと目の前に並べていた。これらはことごとく飲み干したから全部で1升くらいは飲んだかなー。。。
宴もたけなわになってそろそろお開きと言う時に、ホスト国の課長がこそこそやってきて、「磯辺さん、次回はそちらの開催なので締めの挨拶をお願いできませんか?」
げげえーっ!そんなこと聞いてないよ。まったく想定外でリミッターを外して飲んでいたのでかなりやばい状態だったのだが、もう司会がマイクで私を指名してしまった・・・(アイツ、覚えてろよ)
実は何を話したのかあまり覚えていない。私は2年目になるが結構な人数が今年新たに赴任した人がしたので、
「私は地方に赴任したとたんにブクブクになった人を何人も見てきていいます。γ-GTPが500という怪物(というよりマジでやばい)も知っています。この状態で私が言っても説得力ゼロですが『足元には気をつけて』今年おがんばりましょうねー」3本締めで終えた。新幹線はすごく混んでいて自由席では座れなかったため、通路で立ち飲み・・・駅を降りてからもマンションの近くの飲み屋で閉店時間まで粘って、撃沈。。。

なぜそのまま東京に帰らなかったのかというと、翌日、仕事上のつきあいで新春パーティなるものが催される予定だったからである。賀詞交換会という名のそのパーティは毎年国会、県議会、市議会などの政治家が顔を見せて行く「興行」のようなものだ。昨年など選挙が予定されていたからか、各議員さんが全員(まあ、そうだわな)長々とお話を初めてしまって閉口した。スティーブなどはあの下らない話が今年も続くと踏んで30分遅刻してきたほどだ。
私も前日のスパークが効いて実に調子が悪かった。その重度の二日酔い気分と「つまんねえ飲み会でオレの週末潰しやがって」という意味を込めて今年初の髑髏ネクタイ登場だ。

    

しかし今年は少し様子が変わっていた。以前組織を上げて応援したというご縁のある岩手県山田町の町長さんがわざわざいらしていたのだ。山田町は漁業の町でカキの養殖が盛んだったのだが、東日本大震災で壊滅してしまい、何とか復興を推進するために組織と連携して「カキオーナー制度」というのを初め、そのオーナーを募りに来られたのだそうだ。
町長はあの大震災を身をもって経験されているので、その話は実に重々しい。。。昨年の3月1日比べ町民人口は約1500人減少、その半分は死者行方不明者、もう半分は仕事がなくて町外に出て行ってしまった人だそうだ。
過去何度も大きな津波に襲われ、その経験を活かして作られた6.6メートルの防波堤を建造したが、今回の津波は10メートルを超えたそうだ。また三陸津波の経験により昔から住む多くの町民は高台に居住していたが、町村の合併、港湾施設の拡大などで段々と低地に居住が拡大し、そこが今回の津波で壊滅的にやられてしまったのだそうだ。

    

「入り口に受付がありますので、この機会にぜひ。」私は話が終わって乾杯が済むと同時に受付に向かった。一番乗りを狙ったのだが、財布を取りに言っている間にヤギさんに先を越されてしまった。(こういうときだけ早いのよねー)
「何、ヤギさん一口?ちょっとしけてんじゃねーの。じゃーオレは二口だもんね」大人げなく1万円札を差し出して申込書に記入したのだった。
カキの養殖は2~3年かかるという、今回はゼロからの出発だからオーナーは全員カキを送られてくるのはその時期まで待たなければならない。その数は一口20個、我が家には40個送られてくることになる。2,3年たって忘れた頃にカキが送られてきたらカキパーティにしよう。そこであの大震災からの復興を感じ、遠く山田町を想うのは素晴らしいことに思えるのである。髑髏ネクタイをしていてもいい話はあるものだ。

整理整頓

2012-01-12 16:09:57 | 職場
得意という人をあまり聞いたことがない(そもそもそんなこと言わない?!)が、私はズバリ「整理整頓」が下手だ。女子のそれは「そそっかしい」「おっちょこちょい」と同様、「可愛い」という意味合いが少しはあるが、男子の場合はホントに始末に終えない。。。
子供の頃から通信簿の家庭通信欄には「飽きっぽい」「人の話を聞いてない」「整理整頓できない」という三大連絡事項のどれかが必ず書いてあった。
机の周囲をきれいにするのは特に苦手で中学生まで学校の机も家の机も「魔窟」そのものであった。(高校から定時制生徒も使うので机内にモノを残してはいけないことになった)
それは社会人になって20年以上たった今もそれほど変わっていない。。。

ただこう言っては言い訳だが、「魔窟」からその時に必要なモノを取り出すのは早い。(整理できない人は意外とそういう人が多い)頭の中に全部入っているわけではないのだが、何となく「この辺?」という嗅覚があるのである。
今、こうして見ても私のデスクの上にはデスクトップ&ノートPC、電話機はともかく昨年のカレンダー、コーヒーカップ、法律書、雑誌、卓上計算機、ゾフィー&マンのフィギュア、ホーク1号の模型、ポインターのクリップ入れ&ミニカー、マスク、ティッシュ、ガッツ星人のボールペン、ヤマトのレーザーポインター、手帳、裁縫セット、ウルトラメモ用紙、業者が年末くれたカレンダー多数、耳栓、付箋紙、扇風機、イベントで付けた名札の残骸、団体定期保険の案内、年賀状・・・うーむ。改めて列挙してみるとこんな小さい机が魔窟化しているのがわかる。ちょっとやばい。。。

世の中には私のような者のために「超整理法」とか「整理術」のような本が山ほど出ていて、魔法のように整理整頓ができるように書かれているが何一つとしてモノになったことは無かった。電子化が進んだといっても、仕事柄まだまだ「書類」といった類のものが多く、放っておくとどんどん溜まっていってすぐに箱に収まらなくなる。こちらの方は早朝から目を通し、必死こいてサインしまくれば何とか標高は下げられるが。「仕事は継続性が大事。無理に一新するのはよくない」と自分に言い聞かせ、年末などもあまり大掃除めいたことはしない。
それでも机上が無秩序に散らかっているのは私であっても気分のよいものではない。

こういう時は子供の頃にあみ出して唯一今でも効果を発揮している「片付いた気分になる方法」を使用する。簡単に言うと、机上のあらゆるものを机の縦横の辺(縁)にあわせて「平行」に置き直すのである。ボールペン、ノートPC、卓上カレンダーなど基本的に「四角い」モノはこの方法で何なく片付いた気分になれる。(文書類は積み上げるがこれには注意)
あまりに大量のガラクタはダメだがかなりの効果が挙げられることが分かろう。面倒がってザーッと引き出しに流し込み、無理やり閉めたおかげで開かなくなったことが何度あったことか・・・

しかし時代も移り変わり徹底したエコ施策のおかげで紙製の資料類は確かに姿を消しつつある。逆に個人情報とかセキュリティ上重要な書類が「見える」ところにあるとものすごく目立つのである。
むろんだいぶ前からそのようなセキュリティ上管理レベルの高い書類等は施錠できる書庫に保存する決まりになっている。しかし長ーい過去からの習慣や居室自体が生体認証でなければ入れないことに依存し、足元のBOXに保管しているケースが散見され問題視されていた。
昨今は携帯も情報漏えいのアイテムになり得るので持込禁止ではないか?と議論されるご時勢である。

何となく注意はしていたものの、ある時監査機関による時間外の検査にあたり、手痛い指摘を何発も受け、責任者として「後で職員室に呼び出し」並みのお叱りを受けるのである。
居室の重たいドアは3回に1回は失敗する厳しい静脈認証プラス入退室監視カメラで守られているにも関わらず、「背後霊のように背中に隠れて入ってくれば分からないこともある。」だそうである。年明けしばらくして再度抜き打ち検査をするという・・・ここに至って私は「一斉総点検を繰り返し、年内にデスク周りから紙資料をゼロにせよ!」と厳命を下すのである。
むろんすべての机には施錠を可能にし、書庫に収まりきらなければ「入るまで買ってよし!」とした。

ぶつぶつ問題は出ながらも、皆の協力のおかげで12月22日の最終点検までにエラーを完全にゼロにすることができた。蓋を開けてみればひとつもキャビネットを追加せずにすべての紙資料がオフィスから消え失せてしまった・・・(やればできるものだ)
足元の資料BOX、居室内の掲示板の張り紙、ノートPCのロック、PWD管理、机、書庫の施錠、セキュリティ上問題を起こしうるあらゆる要素を消し去り、また油断するとすぐに元に戻ってしまうので、先日「キャンパス」で受検した個人情報保護に関する資格試験にめでたく合格した私を筆頭に目を光らせているのである。

と、いう感心な話はここまでで、実は自分で厳命を下しておきながら最も困ったのはたぶん他ならぬ私である。むろん紙ゼロ指令は私の周囲だけ治外法権というわけではない。(逆に一番危ない)机の上はガラクタばかりなのでさほど問題ではない。困ったのは何となく取っておいた各種の資料会議の始末である。
私の席の後ろには36個並びの書類ケースがあり(たぶんマメな前任が作った)月ごとのラベルが貼られ会議などで配付される資料も月別に収容してあった。一応3年使える計算になるが、赴任してから1年半たって以前から保管している資料も膨大な量になっていた。

紙嫌いの私はしょうもない資料はもらってすらこないから、結構機密ランクの高い資料ばかりだ。しかも書類ケースと言うだけにどれも鍵がかからない。今更私専用の書庫を作ってもらうのは悪いし、放っておくわけにもいかぬ。実は先般の監査でここを見られたらヤバかった・・・気ぃ使ってくれたのかなー。
ダンボールに詰めて向かいの秘密部屋に保管とか、机の中やキャビネットにある外に出しても問題ないものと取り替えるとか・・・色々考えた末、私は「全部捨てる」ことに決めた。いかにも乱暴なようだが、電子ファイルには残してあるはずだし、これまで一度として後から使った試しのないことに気付いたのである。

ただこれには頭は使わないがやたらに体力と時間を消費した。何せ全てシュレッダーにかけなければならなかったのだ。クリップを外したりホッチキスを取ったり・・・机の上はホチキスの針やら小さなクリップ、ガチャ玉で処理不能に陥り何度も「うっぎー!!」と頭をかきむしりたくなったが、一度始めたものは一枚たりとも残しておくことはできぬ。最後は虚ろな目をしながらやっとの思い出透明の書類ケースを空にしたのであった。

整理整頓とはそれだけでも一つの学問になるほど奥の深いものだと思う。机の上だけでも「30日コミットメント」と考えてもみたが、とても無理そうだった。。。
「『出したものをしまう』だけの簡単なことが何故できないの?」親とか先生とか色んな人に言われ続けて数十年・・・皆さん、もはやこの話は人類学的な問題なのではないでしょうか?

北関東での安全祈願

2012-01-10 04:38:21 | 職場
仕事初めの翌日、さすがにどくろネクタイを着けることもなく、いくつかの用や打合せを済ませるとスケジュールに余裕ができた。(もともとそんなに過密なわけでもない)
年末、バタバタとトラブルが多発し前日から屋外作業などは始まっているから、安全パトロールがてら保全部門独自の「安全祈願」に赴くことになった。
メンバは「いつも作業着ばかりでスーツ姿だと誰だか分からない」と営業に冷やかされるスティーブと、隊長、私の3人である。何となくスティーブと隊長の『思い出の場所巡り』という気がしないでもないが・・・

社用車を走らせること約45分、いくつかの現場を通過して最初に訪れたのが「一宮貫前神社」である。むろん名前を聞いたことも無かったがレアどころかこの地方では一宮、つまり相模の寒川神社のような格式の高い神社だそうだ。東京都心やその近辺の交通な便利な場所ではないが、正月3が日はものすごい人が訪れその数は実に7万人に上るという。。。一番下の駐車場に車を停め、正面の参道石階段を上って大鳥居をくぐると立派な総門が現れる。

  

普通、神社の境内、特に社殿は参道や門から石段を上がったところにあるが、この神社は正面参道からいったん石段を上がり、総門を潜ったところから石段を下ると社殿がある、いわゆる「下り宮」と呼ばれる特異な形態を有しているそうだ。
なるほどねー、確かに門を通った後にもう一度石段を下る、というのは初めてだ。後から知ったのだが総門を入った右側に「蛙の木」と呼ばれるサルノコシカケがあり交通安全の守護「無事蛙」として信仰を集めているそうだ。この地方随一の格式を誇る神社で今年1年の安全を祈願する。

    

さらに強風の中、有線施設などの状況を確認しながら隊長は険しい断崖、奇岩で知られる三山の一つに向かった。恐ろしく切り立った崖に「大」の白い文字が光るところで、私も一昨年の紅葉の美しい時期に訪れたことがある。正面の神社は台風の被害で本殿へは立ち入り禁止になっていた。パワースポットとしてここも有名らしく奥の方には温泉施設もあったと記憶しているが、どうも隊長が目指すのはそこではないらしく車は真横を通過して周辺の山道を登り始めた。しばらくしてたどり着いたのは恐ろしく冷たい強風吹きすさぶ駐車場。。。
そこに巨大な「大黒様」が鎮座ましましていた。「新年の始まりは日本一のだいこく様で・・・」社務所で見たがそれにしてもたくさんの種類の御守りだなー。交通安全御守・カード型御守・金運御守・合格御守・開運御守ペット御守・子宝・厄除御守・野球御守・安産御守・干支守、キティ御守・健康御守・御朱印。。。なんでも御守りにすりゃいいってもんじゃ。。。
日本一のだいこく様は高さ20メートル、重さ8.5t、ふつうだいこく様は「打出の小槌」を持っているようだが、ここはめずらしく剣を持っていて、病や厄、悪霊を祓い福を招くと言い伝えられているそうだ。
そこは中之嶽大国神社という。だいこく様をお祀りしてその縁日である甲子(きのえね)の日に祭を斎行してきたという。なーるほどね、願いバットや野球専用の絵馬・御札があり、見るとみな高校球児や少年達の願ばかりである。ここも「何でもあり」のクチか・・・

    

中之嶽神社社殿に向かう石段は恐ろしく急坂ではるか上の方だ。さすがに手すりを使わないと落ちたらひとたまりもない高さだ。
小さな子供や老人もがんばって登っていたが、祀っているのは社のはるか上方にそびえる「轟岩」という御神体ということだ。とりあえず社殿で安全祈願し記帳を行う。このあたりは奇岩が多く、ご神体までの道のりもあるにはあるが、鎖を伝って這うように登るところもありとてもスーツ姿ではいけないところだ。

      

再び車を走らせ通過した大鳥居のある道の駅まで戻ってきた。登山マップをもらうと世にも奇岩のあふれるその周辺の見どころがざっとパノラマになっていた。神社の側にある「ふれ合いの道入口」からいくつかの「見晴らし」、「本読みの僧」「大砲岩」、4つの「石門」などを経て先程の中之嶽神社まで一般登山道で3時間半くらいのかなりなハードコースのようだ。
白雲山と呼ばれる「大」の字までは途中鎖を伝って登るような上級者コースでその上の本格登山道は滑落死亡事故も発生しており、一般は入ってはいけないワイルドそのものの自然だ。(スティーブは中学生のときによく「大」の字まではトレーニング兼ねて上ったそうだが)
私もピステ上下のトレーニングスタイルで途中まで登ったことがあるが、そんなにヤバいところだったのか・・・?!今度息子が来たら一緒に挑戦してみよう。ちなみに一般登山道でも「大砲岩」に至る短い経路は道の両側は崖だそうである。(自分には無理か?!)

  

丁度昼御飯の時間を過ぎていたので、スティーブ推薦のお蕎麦屋に向かうことにする。田舎道をずーっと走ったところで、いかにも旧庄屋級の館を改造したようなお店だった。年末にも観音山の中腹で見たことがない景観をもつ店に連れて行ってくれたが、彼はこういった隠れ名店をたくさん知っているようだ。(ゲテモノも多いけど・・・)

  

この地方では正月に飾るという「お正月様飾り」なる綱に栗、みかん、するめ、だいだい、昆布、ネギなどをつるした飾りの下で、どっぷり濃い味のつゆに田舎仕立てのコシの強い蕎麦を食べた。次の予定まで少し時間があったので庄屋風家屋の周りをとことこ歩き回り車に乗り込んだら、助手席のスティーブが「おおーっ、あれ猿じゃねえか?!」
見ると畑の真ん中で茶色い動物が何やら地面を堀っくり返しているではないか!「ちょっと車停めてー」私は車から降りて恐る恐るその動物に近づいて行った。
「イノシシかもしれませんよ」後ろからかけられたスティーブの声にぎくりとなった。確か昨年末イノシシに襲われて亡くなった人がいたよなー。。。。「何ともわからねえ顔してるな」最高倍率で拡大しても猿かイノシシかはっきり分からぬ。大して大きいわけでもなさそうだ。土に顔を突っ込んでときどき顔を上げるが、どちらとも言えぬ顔をしているぞ。
思い切って「どどどーっ」と走り寄ったら、一目散に逃げ出してしまった。あの走り方はずばり「イノシシ」に違いない。駐車場の真横にある畑の真ん中だろここは。こんな人里にも出てくるのか。。。
「最初から珍しいもの見たな。今年は猪突猛進かな」スティーブがつぶやいたのであった。
(違うでしょ。今年は「足元には気をつけな!」だよスティーブ君)

    

星人の日

2012-01-09 17:56:06 | ヒーロー
息子甘辛が幼い時、今日という日は「星人の日」だった。熊本、荒尾にある元祖ウルトラマンランドへ足を運び、1年でこの日しか登場しない「星人」と楽しく遊んだものだ。
ものすごく遠いからたぶん甘辛の飛行機代が無料のときだけだったかも・・・それから約10年たっても我が家のウルトラ好きはあまり変わっていない。今年は何年ぶりかで新たなウルトライベントを加えることができた。
話の時系列が無茶苦茶前後してしまっているが・・・今年の職場の標語を生むきっかけとなった「お正月だよ、ウルトラマン(全員集合)」である。仕事納めを終え今年最後の単身泊を終え、湘南の自宅帰りがてら息子甘辛と東京ドームシティで待ち合わせし、初めてこの年末年始催しに行ってきたのだ。

   

この手のイベントはご存知、夏の「ウルフェス」に尽きるのだが、今年は何となく帰りに行きたくなり29日からの前売り券を息子にGETしておいてもらった。ウルフェスでいつもチラシはもらってくるのだが、正月はあまり出掛けないのでこれまで訪れたことは無かった。今年で3回目になるという若いイベントだが、昼間帰りがてらに寄るなんて我ながらいいアイディアだと思う。
その昔、ウルフェスは東京ドームプリズムホールで開催されていたが、池袋サンシャインになってから10年くらいたつ。ここを訪れるのは昨年の都市対抗野球以来だなー。。。
交通費を浮かすために、湘南新宿ラインで新宿まで約2時間、改札で息子甘辛と待ち合わせ、あまりガラのよろしくない場外馬券売り場の横を通って会場へ向かった。

入場するといつもの通り数十人のウルトラ戦士のお出迎えだが、その向こうに「キング神社」なるものが設けてあった。なるほど、ウルトラの国伝説の超人「ウルトラマンキング」は打ち出の小槌をもってるからなー。。。皆列を作って二礼二拍手一礼て畏まっている。でもいくら何でも賽銭を入れてる人は・・・って結構入ってるじゃんか!(明らかに営利目的なのに?!)日本人ってホントに色んな場所で小銭を投げる習慣があるよなー。
会場内は中々賑わっている。中のセットはウルフェスに比べて少し小規模だが、お正月らしく絵馬を書いたり、ウルトラセブンに年賀状を出したり、専門家?の指導を受けて書き初めしたり・・・さすがお正月らしい。そうだよな!書き初めするなら「絆」だよね、ネクサス・・・ニセウルトラマンは何を引っ張っているのかわからないだろうが、実は悪のウルトラマン「ベリアル」の凧を上げているんだ。

      

3月に封切される最新のウルトラマン映画はウルトラ史上初の3D映像!早速、前売り親子券を購入しておまけのタオルをGETだ。この映画は最新のヒーロー、ウルトラマンゼロが主役だが、変身するのは「ダイゴ」(私的にはちょっと?)、地球防衛隊はAKB48のメンバが作った全員女性のTeam-U・・・登場する怪獣はグビラにアーストロン、ハイパーゼットンとイマイチしっくりこない取り合わせだし・・・正直多少の疑問はあるが、ダイナのつるの剛士、コスモスの杉浦太陽らも共演し新しい雰囲気を醸し出している。
平成の3ウルトラマンのうち久々の登場ティガと、華やかなガイアに挟まれて少しマイナーな雰囲気があったダイナだが、実は結構名作もあり、つるの剛士が有名になったこともあって最近ではかなりセンターに位置している。ウルトラマンゼロは私の愛してやまぬウルトラセブンの息子、ここ最近のウルトラ映画では圧倒的な活躍を誇っている。予告編のPVでは
「今年でオレのオヤジ、ウルトラセブンは45周年だ!オヤジよ、おめでとう!」何か我が父子と重ねてしまうところがあるなー。
そしてコマーシャル編では秋元才加(やっと覚えたAKB48メンバ)による「足元には気をつけな!」とかます戦闘機シーン。。。この1年、我が部門はずーっと、この言葉を使い続けるのだ。

  

世の中が少し疲弊してきているのか怪獣の世界でも「癒し」が注目されているという。「お隣の怪獣」が流行っているらしい。。。PVで流れているBGMは鳩笛のウルトラマン・・・うーむ。確かにほっこりするなー。いきなりバルタンのマグカップを購入だー。ウルトラデパートを訪れると常に我々はハイテンションモードに突入してしまい、冷静さを欠いてしまう。息子甘辛はもう中2にもなろうというのに、ウルトラマンゼロアイ(変身アイテム)を離そうとしないし、私は疑いも無くカゴにいれてしまうし・・・(妻のあきれ顔が目に浮かぶ)
会場中央にある「ウルトラ光の広場」では、大怪獣バトルの主人公「レイ」の登場で盛り上がっている。この広場を中心にトークショーやらウルトラ音頭やら、中々の盛り上がりを見せるのだ。

    

ウルトラ音頭で太鼓を叩くのはババルウ星人、トークで盛り上げるのはマグマ星人。。。このコンビはウルトライベントに造詣の深いファンならお馴染みの名コンビで、新しくTVKで放映されている「ウルトラゾーン」(これ最高!別途紹介)でも「サロン マグマ&ババルウ」でレアファン向け爆笑シーンを連発している。

    

ぎゃーはっはっは!メトロん星人がこたつに入っている。本編では丸いちゃぶ台を挟んでモロボシ・ダンと向き合ってあぐらをかくんだけどなー。今は冬だから季節感だしたねー。あれれ?バルタンも寝ころんでいるぞ。。。ちょうど周囲はフードコートのように飲み食いできるスペースになっていて、やたらとカレーの香ばしい匂いが充満している。「ゆで卵の目をしたウルトラマンカレー、オレも食いてえなー」売り場に行ってみるとなんと800円!!(ほとんどレトルトよ)・・・やっぱり版権かかってるからかなー。甘辛にはウルトラ肉まんで我慢してもらった。

  

辰年の「龍」の前では何人ものウルトラ戦士が出てきて一緒に撮影会をやっている。今はウルトラマンガイア(スプリームバージョン)か。。。ウルトラマンノアとウルトラマンジャスティスの出迎えを受けてウルトラバトルステージへ・・・ははは。ジャスティスが独楽を手に乗せている。(色んなところでお正月を装っているのだ)40分ほどのライブステージを堪能して会場から出てくると、ナイスとゼアスがウルトラ漫才を披露していた。
ウルフェスよりも規模は少し小さいが、大人(ファンなら)も子供も十分楽しめる。我が父子の新・年末風物詩になること間違いなし。。。