超兵器磯辺2号

幻の超兵器2号。。。
磯辺氏の文才を惜しむ声に応えてコンパクトに再登場。
ウルトラな日々がまたここに綴られる。

妻と釣行す

2013-01-30 21:34:48 | 旅行お出かけ
先週末、太平洋側は天気は良かったが、寒気がやってきたのか恐ろしく寒かった。これはその前の週末、比較的暖かくて風もなくお出掛け日和だった時の話。朝一で練習という息子を行きだけ送ってやった帰りにFM横浜を聞いていると「仕事ができるようになりたければ釣りをしろ」とい本を著したゲストがトークしていた。結構人気のあるビジネス本らしいが、この手の「奇を衒った」ものには経験上あまり得るところが少ない。話半分に聞いていたが、私も釣りをやるから本は読む気にならなくても興味はあった。根気強さばかりが目立つイメージだが、昔から釣りをするのは「短気」な人がよいと言われる。うまく釣れない時にじーっと辛抱して待ち続けることができないために、エサやら仕掛けをむやみに変えてみたり、タナを変えたりポイントを移動したり・・・何とか釣果を出すためにあらん限りのことを試さずにはいられない。結果、そういう人の方が何もせずにいる人よりも釣果を出すものだそうである。

まあ、そんなところだろうと思って聞いていた。「限られた時間に最大の成果を挙げるために考えうるあらゆる工夫をする」という意味で釣りの上手な人は100%仕事ができる、というのが著者の主張らしい。またゴルフもそうらしいが、休日に家庭を放って遊びに行くことが度重なると家族(特に奥方)が良い顔をしない。それをあの手この手で言いくるめ、涼しい顔で「行ってらっしゃい」と言わせるためには入念な根回しと大胆な交渉が必要だ。つまり魚を釣るプロセスだけでなく、その準備やら承認の段階でも多いに仕事に通じるものがあると言うのである。どちらかと言うとそちらの方が目新しく面白い話だった。

まず「外堀を埋める=周囲を味方につける」ことが大事だという。釣れた魚は丁寧に下ろしてそのまま食べられるようにし、近所の奥様に必ず「おすそ分け」することを忘れない。ずばり人脈作りである。
自分のいないところで、その奥さんに「この前御宅のご主人から頂いたお魚美味しかったわー。ぜひまたお願いします」と言わしめればもう完全勝利間違いなしだそうである。釣りというのは成果があれば皆で共有できるので、ゴルフと違って家族にとっても実利のあるレジャーだと思う。本は世でないので内容がどんなものか知らないが、ラジオトークを聞いていた限りでは大体そういう内容なのだろう。実はその後、パーソナリティとその友人、そして著者の3人で船釣りに行ったときの話が面白かった。

まず乗合船が私もその昔、乗らせてもらった茅ヶ崎港の「●ごうの○」という釣り船だったのである。「●●た」さんと言う若めの船長(代変わりしたのかな)は気さくで物腰も柔らかく、初心者にも丁寧に教えてくれるので女性にも人気の船だという。しかもむろん船頭としての腕は間違いなく、著者によれば湘南エリアほぼ全ての釣り船に乗ったが、この船ほどいつ行っても釣れる乗合船はないそうである。これは貴重な情報だ!船釣りだからレアな獲物(松方弘樹が世界で釣るような巨大魚など)でなければ大概はそこそこには釣れる。しかし厄介なのは昔からの漁師町だったからか船長などが、やたら言葉が乱暴でぶっきらぼうなことだ。普通に言葉を交わしたり何か尋ねたりするだけでも「叱られている」ような気分になる人もいる。(むろん悪気はないんだろうが)

そんなイメージの中で物腰が柔らかくて初心者にも親切という船長は素晴らしい。暖かくなったら誰かを誘ってぜひ行ってみよう。さて、ラジオを聞いているとどうも「ライト五目」という初心者向けの釣り方らしい。しかし五目と言うだけあってアジが主体だが真鯛黒鯛はもちろん季節の多種多様な魚が釣れるらしい。特に今年はヒラメが好調だそうで、パーソナリティの友人が最後に2kgのヒラメを釣り上げたという。著者はベテランの域、パーソナリティとその友人はまだ初心者のようだったが、著者が同行者二人についてすごく感心していたのは
・二人は数時間の全く釣れない時間帯でも文句一つ言わず黙々とエサをつけては海に仕掛けを落としていた。
・自分成果がなくても他人が釣れると自分のことのように喜んでいた。

うーむ。車を運転しながら何だか自分もやたらに釣りに行きたくなってきた。しかし「仕事ができるようになりたければ釣りをしろ」というのはどうも・・・・なぜなら自分で言うのもなんだが、私自身承知しているのは「自分が決して釣りが上手ではない」ということだからだ。回数は行っているから通り一辺倒のことはすべてできるが、自信を持って言えるのは「上手ではないし、上手になる性格をしていない」。
必ずしも短気ではないし、釣り場での細かい作業が煩わしくて嫌なのである。ポイント選びや仕掛け、エサ、釣り方法などは事前に情報を集めてできるだけ分析する。しかし一旦釣りを始めたら途中であれこれ変えたり、工夫したりするのは面倒くさくてしないのである。自分でも何となく分かるがあまり釣りに向かないタイプだ。タナすら変えずに2時間もやって全く釣れなければとっとと帰ってきてしまう・・・

それでもラジオを聴きながら何としても今年初の釣行をしたくなった。幸い息子甘辛の受験も終わりサッカー漬けの毎日だから休みの日は何でもできる。明日は天気も良さそうで風もなくドライブがてら行かないか妻を誘ったら、初釣行に同行するという。私は誘われると喜んで行くが自分から釣りに誘うことをあまりしない。せっかく誘っておきながら全く釣れないと悪いから、そればかり気になってしまうのである。その点、妻は一人で行っても何も言わないし(小さい魚は下ろしてくれないが)、一緒に行っても少しだけやって見てるだけで、しかも運転を交代してくれるからありがたいものである。実は一人で行くとすぐに嫌になって諦めてしまうのだが、同行している人がいると何とか釣って見せたいのであれこれ努力する、という自身への心理効果も狙っていた。

朝はゆっくり目に出発し、西湘バイパスを西走した。南熱海か熱海港、伊豆山港か福浦港・・・一緒にのんびり竿を並べるなら港の護岸が一番安全でコンディションがよいが、何せ釣れない・・・初釣行だしここは雰囲気よりも結果を重視してテトラポット先端で釣る南熱海に車を向けた。立入り禁止ではないが、落ちると危険なので一緒に並んで釣ることはできないが、海に面してベンチがありそこからテトラを大きく越えて投げてやれば一応竿は出せる。天気もよく風もないから座って見物しているだけでも、のんびりはできる。私は結構苦労していつものポイントより右側に座をセットし、妻はしばらくそれを眺めていた。っと、いきなりすーっとウキが沈み何やら小さなアタリがきたのだ。「おーっ、いきなりキタのー?」と声が掛かったが、感触からしていかにも小さい。実際手のひらくらいのメバルだった。

「食べられる初の獲物は必ず持ち帰る」という私のポリシーに従って、持って上がろうとしたが、こんな小さな魚を苦労して持ってあがるのはかなり不便な場所なのだ。どうしようか迷っていると「そっから放り投げなよ。受け取るからさー」妻が黄色い釣り用バケツを抱えていた。私はタイミングを見計らって「とりゃーっ」とアンダースローで投げると見事に受け止めてみせた。しばらくしてもう少しだけ大きなメバルが釣れたのでまたアンダースローで受け取ってもらった。メバル大漁か?!と思いきや、その後はぱったり生命反応がなくなり、エサをつけてはウキを投げ入れる作業の連続になった。一旦陸まで上がり投げ釣り用の竿を準備して「どりゃーっ」とテトラ越しに仕掛けを投げ入れた。

その後テトラの先端に行ったりベンチに戻って投げ竿を見たりと繰り返していたが、投げ竿が一度だけ「ぐぐーっ」としなって大きく動いた。慌ててアワセ、重いリールを巻き始めたが残念なことに途中でどこかに引っ掛かり、ハリは落ちてしまった。「今の何だったのかな」「投げ釣りで真鯛が釣れたことあるって言うからなー。残念!」後にも先にも投げ竿に反応があったのはこの時だけだった。
しばらくテトラ先端で釣っていると20cmくらいのメジナがヒット!記念撮影には寂しい大きさだがこの先釣れるとも限らないから・・・「おーい、写真、写真」超兵器で釣り上げシーンをカメラに収めてもらった。しばらく釣っていたが、またうんともすんとも言わなくなってしまった・・・

  

正午を過ぎていつ来ても全く釣れなかった時間帯になったから、コンビニで弁当を買ってきてもらい、ベンチで海を見ながら昼飯とした。一人だったらもう飽きていてここで帰ってしまうのだが、さすがに連れがいるとまだ何やらやってみようという気になる。そして再び竿を出した直後、今度はかなり強い引きでウキが沈んだ。上がってきたのは23、4cmくらいのさっきより大きなメジナだ。さっきのはナシ!「おーい。もっかい写真頼むよー」今度のは少し様になったようだ。甘辛の好物だから家族で腹いっぱい食うにはもう2枚くらい欲しかったが、結局その2枚で終わりだった。駐車場で「近所にいない鳥がいるよ」と言うので、超兵器片手に偵察し、何羽か撮影した。

    

帰りに長浜海水浴場というのがあり、昔に比べてすごく綺麗に整備されていた。ご当地物産展は終わってしまったようだが、初島の浮かぶ海に向かって無料の「足湯」に何人か浸かっていた。駐車場は無料、新しく設置された消波ブロック帯を歩いてみたが先端は立ち入り禁止のようだ。マリンホールから帰る途中にあった小さな古い堤防が恐らく腰越「ロアジ」のマスターが言っていたポイントなのだろう。駐車場から少し歩くようだが、今度はそちらへ行ってみよう。

        

陽も傾いてきて風も冷たくなり、それほど混んでいないR135号を帰路についた。早川を過ぎて「一夜城公園」という矢印が出てきたのでさっと寄ってみることにした。かなりのパワースポットだと聞いたことがあるし、噂に聞く「ヨロイヅカファーム」というのがあるという。何かものすごい混んでいるときいたから恐る恐る向かったが、駐車場は確かに「混んでる時は大変だろなー」と思われるところだったが、時間も遅いこともあって普通に入店することができた。結構標高の高いところにあり、見晴らしもよいが思ったよりもこじんまりとしたところだな。店内はかなり混んでおり、クッキーやらアイス、パンなどが並んでいた。しかしウィンドーには見たことも無いような煌びやかなケーキ(スィーツというのが正しい?)が所狭しと並んでいた。普通のケーキ屋のものとは数段異なる色々な趣向が融合した高貴な輝き・・・スィーツの「北山文化」というものか。(興味があまりないのでかなり適当なことを言っている)

    

妻は珍しくあまり興味がないようだったが、しばらくして「あの人だよ!」と小声で囁いた。お客さんに満面の商売スマイルを輝かせているパティシエこそ「ヨロイヅカさん」ご本人だったのだ。度々店内や庭まで現れて愛想を振りまいているらしい。女子軍がみんなで一緒に記念撮影をしていた。我々は特に興味があるわけでもなく、買ってきたみかんのアイスとオリーブの実を混ぜ込んだブレッドをむしって食っていた。少し寒くなってきたがファームとしてはのびのびとしたところだ。北山文化を楽しむならばこんなものすごい田舎ではなく、赤坂とか恵比寿の方が雰囲気にぴったりくるようなところだ。私はどちらかというと一夜城公園の方に行きたかったのだが、かなり寒くなってきたのでまたの機会(ここは釣りの帰りにいつでも来れる)にすることにしたのだった。

      

「今日は釣果が少ないからさー。オレが下ろすと食べるところ少しになっちゃうから頼むよ」見事なメジナの刺身に小さなメバルまで煮付けにしてくれたのはあり難い。私と甘辛はもちろんこちらの「北山文化」の方が好きだ。食事と同じように釣りも一人より二人の方が何やら面白い。暖かくなったらまたドライブがてらどこかに釣行することにしよう。「仕事ができるようになりたい」とは今更思わないが、二人で気持ちよく釣行に行く説得術は身につけたいものだ。

        

目黒界隈WALK

2013-01-28 22:42:30 | 出来事
毎年この季節に開催される産学技術交流会というのがある。相手は我が社と何故かご縁があるのか、私の出身校でOBとして毎年頭数揃えのために狩り出される。本社に取り仕切るセクションがあり(色んな部署があるものだ)、大学の教授をお招きし事業に関係する分野について最新の研究内容について講演いただく。我が社も厚木にある基礎研究チームから開発中の技術について講演させてもらう。大先生の前で結構緊張するらしいが、大体社会人になってから研究所で論文ドクターを取得する際に本学にお世話になった人が担当するらしい。

社長はじめ会社の幹部がずらりと顔を揃え、それぞれの講演を真顔で聴いているがどう考えても内容を理解しているとは思えない。生粋の研究開発者らしく、ド素人にも簡単に分かるような説明はしてくれないのである。研究所に勤務していた私ですら半分も分からない。場所はこれまた毎度同じところで目黒雅叙園だ。日本で初めて誕生した総合結婚式場で、旧3号館は「千と千尋の神隠し」のモチーフとなり、百段階段は国の有形文化財登録されている由緒正しい施設だそうだ。普段あまり行くところではないから、少しだけ早めにオフィスを出て周辺をほっつき歩いてみようと思った。

周辺スポットをネットで調べていて、いきなり現れたのが「目黒寄生虫館」である。世界で唯一の寄生虫専門の博物館だという。お友達の「たま」さんが以前、お気に入りのスポットだとおっしゃっていたのを思い出した。早川いくをさんの「へんないきもの」に載っているタイノエという寄生虫の実物が見られると聞いた。タイノエは鯛などの魚の口の中に寄生する見た目結構ラブリーな虫である。目黒通りをまっすぐ歩いていくと、気をつけていないと気付かないような普通の雑居ビルが現れる。デートスポットにもなっていると書いてあったが、寄生虫の実物標本や資料が展示してある真面目な博物館を喜んで訪れる人がいるのだろうか?

      

この手のモノが苦手な人もいるのであまり写真は載せないが、驚いたのはかなりの数の来館者で賑わっており、それもほとんどが若い女性(集団だったのはこの方面の女子学生?!)だったことだ。小さな瓶にホルマリン漬けになって並んでいる薄気味悪い寄生虫標本に「かわいいー」とカメラを向けていた。どうにも理解しにくい光景だった。カップルはほとんどいなく、女学生らしく集団は係の人の説明を熱心に聞いていた。2階に上がると寄生虫によって発症した世界中の病人の写真や症状などが展示されており・・・目玉は「マス寿司を食べた」人の身体から取り出されたという全長8.8メートルの回虫だった。これも若い女性がピースして写真を撮っていた。。。人間にも寄生するという「アニサキス」という線虫が寄生したイルカの胃など見るもおぞましく、魚によっては刺身を食べる時は要注意ということがわかった。甘辛と昔海浜公園で早朝のサッカー練習していた時にみつけたひも状の不気味な虫もいるぞ。コウガイビルと「たまさん」が教えてくれた。シーラカンスにも寄生虫が発見されたというから驚きだ、

      

館内は撮影自由だが、一角で販売されているミュージアムグッズだけは撮影禁止だ。寄生虫を可愛く?あしらったTシャツとか携帯ストラップ、本物の回虫入りアクセサリーなどが並んでいた。正直言って「趣味悪せさり・・・」寄生虫グッズなど喜んで買う人いるんだろか・・・?!日光へ修学旅行へ行った時に自分用のお土産に葵紋様の陣笠を買うのと同様、持って帰って「何でこんな意味の無いモノを買ってしまったんだろう?」と頭を抱える確率は高い。館内はものの20分もあれば大体のものは見ることができ、あまり長くいるところでもない。まだ時間はあったが、マンション風の建物を後にした。

目黒駅の方へ歩くと大きな鳥居が見えてくる。大鳥神社といい、目黒区で最古の神社だそうだ。結構大きなところのようだが、ごく普通の神社で写真を撮り忘れた。この辺には「目黒不動」や五百羅漢寺など結構名所があるようなのだが、残念ながら全部見て回るほど時間はない。ビートきよしさんの歌にもあった「権之助坂」を上って雅叙園の方角へ歩いた。行人坂を下りて行く途中に大円寺というお寺がある。毎年目黒駅から雅叙園に向かう時は前を通っていたのだが、中に入ってみようなどとは思いもしなかった。実はこのお寺に珍しい石仏像群があるというから初めて入ってみた。山門を入って左側の崖に部分に目を見張るほどの石仏が何段にも並んでいる!500体以上もあるというものすごい数の石仏群だ。

  
  
云われが書かれた看板を読んでみると、振袖火事、車町火事とならび、江戸三大火のひとつである行人坂火事(1772年)はこの大円寺が火元とされているようなのだ。大火事の時によく言われる「折からの強風」に煽られて、白金から神田、湯島、下谷、そして浅草まで焼き尽くすものすごい火事だったそうだ。江戸城内の櫓まで延焼してしまったので、その罪として大円寺はそれ以降76年間も再建を許されなかった。石仏群は大火事の犠牲者を供養するために、石工が50年以上かけて彫ったものとされている。小さいのはよく見えないが近くの石仏をよく見るとほほ笑んでいるものや考え事をしているもの、泣いているものなど色々違った表情がある。またこの石仏群の右側に何やら顔が融けてしまったようなお地蔵様がある。これは「とろけ地蔵」と呼ばれ、江戸時代に漁師が海から引き揚げたもので、「悩みをとろけさせてくれる」とありがたがれているそうだ。前を通るだけで全然知らなかったのだが、一見の価値はある名所だと思われる。

    

さて坂を下りてくると大きな近代的なビルディングに囲まれてちょっと浮いてしまった感じの目黒雅叙園「正面玄関」が見える。内装は「昭和の竜宮城」と言われているそうだが、正直いつ来ても「ちょっと違うんじゃないの?」感がぬぐえない。建物の中にも日本庭園のようなものがあり、近代的内装と昔ながらの豪華絢爛な内装が同居している感じだ。文化財である百段階段はちょうどその日から「百段雛祭り」というイベントが開かれていた。入って見学してみたかったが、当日入場料はなんと1500円!「ちょっと取り過ぎじゃないの?」と思える価格だった。めぐろWALKという小冊子をもらえたので改めて周辺のスポットを見てみた。区というエリアで見ると私が通ったキャンパスもあり、ちょうど卒業前に完成した百年記念館が名所として紹介されていた。「ぶらタモリ」などで見ていると東京都心周辺でもまだまだほっつき歩いて面白いところは多いものだ。どこかへ行く時には必ず周辺を調べて早めに外出し、散策することにしよう。

          

受験という名の試練Ⅱ

2013-01-22 22:08:41 | 出来事
(写真は実家の母に頼んで再現してもらったものです)
主人公である息子甘辛当人はどこ吹く風だったのが、やはり進路面談や志望校提出、塾での雰囲気など周囲から段々現実味を帯び、世の中の「受験生支援モード」がそれを後押しした。当初は県下一サッカーが強く、進学校でもある学校に興味を持っていたが。例の選手権予選を見てから「パスでつなぐ」スタイルがよほど気に入ったのか、自分の成績を顧みずに私の母校を第一志望にしたのだった。これは素晴らしく喜ばしいことだったが、最近やたら人気があるようで難しそうに感じた。第二、第三志望も彼にとっては「何か無謀じゃね?」というようなチャレンジャブルな選択のように見えた。「高校受験にがんばって合格し、その先もさらにがんばって一流大学入試を突破したら後は遊び呆けて卒業する頃は社会では『使えない』者になっている」という昔ながらの教育構造にはあまり期待せず「全然違うスタイルもありなんじゃないの?」と思いながらも、現実は目先の受験というのを全く無視することもできず、親としては何やら葛藤が生まれていた。

「まあ高目を目指すのは悪いことではない。ぎりぎりまで志望校は変更できるから、とりあえずがんばって見たら」という担任や塾の煽りなどもあり、何やら真面目に試験勉強をやりだしたのが11月。。。暗記モノはTV見ながら「問題出してくれえ」とか言ってるので、協力していたがやっているうちに「この手のものが嫌いではない私」には何やら面白くなってきて、本気で一緒に試験勉強してみようという気になった。むろん教えられるなんてほどではないが、中学くらいならほぼ何でもいけるだろ。模擬試験の答え合わせをしたり、正月には過去の入試問題を一緒に解いたりした。さすがに「入試問題」となると数学なんてのは図形問題あたりでは「解らない」ものも現れる。どちらかと言うと趣味に走っていた私は息子も解らなければ「この問題迷宮入り!」と軽々しくパスしていた。

一番簡単なのが英語、次がちょっと細かい所を覚えていないが社会、迷宮入りを除く数学。。。塾の入試コースで忙しくなった息子の空いているときには一緒にやっていた。国語は漢字と語句周り以外は読むのが面倒なのでパス、手強いのは理科だった。一分野(物理とか化学)はさすがにほぼ専門だったからわけないが植物、火山、気象あたりの二分野になるとかなり怪しい。実は社会でも歴史、公民はOKだが地理となるとさっぱり?ということもあった。教師や講師でないのに一緒に入試勉強などあまり見られないスタイルだろうが、これはこれでよいコミュニケーションだと思った。時間が足りない時に効果があるか分からなかったが、この時期になっても息子は信じられないことに「やらねえか?」と言わないと中々ガーデンシェッドに向かわないのである。

年末もちかくなって学校に進路希望調書などを出さねばならない段階になって、色々と探して(今はいっぱい選択肢があるものだなー)きたが、どれもレベルが高く「学校が事前にある程度調整してくれる」という「すべり止め」なども中々見つからなかった。本人を見ていると周りがその気になって緊張感漂わせているからか自分もやる気になったようだ。しかし私は進学指導など知らないので「何がどこまでできているのか?」全然分からなかったが、一緒に勉強していて素人目に見ても息子にはムラが多く、直感が冴えるときと全然眠っている時の落差が激しかった。3つも4つも受験することになってしまったが、親ゴコロなのか自分ではない時にはいつものように楽天的に済ませられず、時間を見つけては一緒に勉強しながら「こりゃー、厳しいかな」と挑戦した学校すべてNGでがっかりする息子の姿を思い浮かべてしまっていた。

「自己の利益のために決して神頼みしないこと」を心情にしてきた私だが今度ばかりは「湯島天神」で合格鉛筆でも買ってくるか、と考えていた矢先・・・何と!ダメ元で申し込みしていた別スタイルの入試に合格しあっさりちゃっかり進学を決めてしまったのである。
正月を明けて「さあ、ラストスパートだぜぃ!」と意気込んでいたわずか1週間後・・・狐につままれたようなあっけない幕切れだった。実は一応これも視野に入れて父子面接練習をやっていたところではあったが、正直言ってそんな甘いモノではないと思っていた。息子甘辛は元々悲愴感も持ってなかったようだが、喜んで早速進学先高校のサッカー部の練習に行き出した。。。(これまでの父子勉強は何だったんだ?)

世間一般では中学3年あたりとは俗に言う「反抗期」まっ盛りで家庭によってはすごいことになっていると聞くが、彼は父親と一緒に数学の問題に頭を傾げていても全然平気そうだし、「外へ出て10数えてからノックして入ってこい」と言って面接のリハーサルを真顔でやっている。私は私で足を組んで、「磯辺くんか・・・ちょっと緊張してますか?」などとエセ面接官を演じたものだ。何か普通あまりないコミュニケーションのような気もするし、我が子ながらある意味、不思議なモノを「持っている」と思った。後から結果を少し聞いたそうだが、結構「抜けぬけ」色々なことをかまして、かなり高得点(ずばり満点)だったらしい。私とやった練習など「場慣れ」くらいにしか役に立たなかったはずだが、妻に言わせると「アンタはプロだからねー・・・」別に私は企業の採用面接官をやっただけで、受験の担当官など全然知らないんだって。。。

  

「受験の試練」と言うのは何となく必要な経験だと思っていたし、自分の母校に続いてくれたら正直嬉しかったが、そんな思いを風のように振り切り、「あっさりちゃっかり」進路を決めてしまった甘辛。。。しかし何か改めて息子甘辛らしい「さりげない強運」があり、ある意味スマートだとも思えたのだ。正面からの強行突破のような私とは全く違うこう言ったスタイルも「全然あり」だなーと感じ、これはこれでこの先の彼の進路が実に楽しみになったものだ。
妻のお友達に言わせると、子供さんを見ていて高校、大学と受験は大きな試練だがもっとも過酷なのは「就活」だと聞く。今では大学3年生で本格的に行い、私の職場のルーキーズでも4年生になった頃は入社先はほぼ決めてしまっていたという。

大学というのは「自分の生存能力を高める知性を開花させる」機関で、そこで学ぶ学問など社会でそれほど役には立たない。ストレートに役に立つ人などというのは逆に狭い人生観に見える。再びこれほど学問に勤しむ機会はないから、遊ぶにしても学ぶにしても人生最強の力をもって資質を開花させるべきであり、数年先のよくわからない就職後のことばかり考えていては実にもったいないと思われる。ルーキーズに昔話したことがあるのだが、「皆さんの給料は誰から頂いてると思いますか?まさか社長という人はいないでしょう?世間一般の企業では『お客様』と教えられるのが普通だと思います。しかしそのお客様も誰からか収入を得ているはずで・・・ようするに世の中は貨幣を血液のようにして循環しているのだと思います・・・」

彼らに私が行きついた結論はいきなりは明かさないが、ぶっちゃけ我々は誰でも「社会」から報酬をもらって生きているのだと思っている。「ぐるぐる回っている」のが社会(経済かなー)で、そこからおこぼれのように貨幣を媒介に報酬を得ている。だととすれば、「仕事をする」において大事なのは「キモチ、大目に貢献する」ということだ。キモチというのは「心情」ではなく、少し(a little)という意味である。(むろんサービス残業ということではない!)
10の報酬で10の仕事をするのが一般標準のように言われるなら、11か12くらいはやっておく。横目で関係する仕事が見えたら「ついでにこれも」やっておく。こういうオーバーアチーブできる人が多ければ多いほど社会はほっこり住みやすくなる。社会が一番期待し、伸ばしたい人材だと思うが、必ずしもそうなっていないのが単純でないところだ。

逆に仕事と報酬を「取引」だと考える人が多数を占めると恐ろしく息苦しい社会になる。「給料分くらい仕事しろ!」と言われる人も困るには困るが「もっとできるのに給料分しか仕事をしない」人が最も恐ろしい「ワーム」だと思われる。報酬を働くことや自分の能力、パフォーマンスの「対価」だと考えてしまうと、どうしても目の前に生産性・効率というものがちらついてしまう。算術的に言えば生産効率が最大なのは「何もしないで報酬を得ること」、この時数値上は無限になるが、こんな人ばかりの社会はやがて住めなくなるだろう。たまたま「就活」の話題と記事があったので話が逸れてしまったが、「自分を高く買ってくれる会社」など探さないことだ。そういう所は「自分の代わりはいくらでもいる」会社だと思ったほうがよい。というのが妻に「あんたはプロ・・・」と言われた面接官の所感である。

何か迷走したようだが、こうしてドラマチックなこともなく我が家の受験モードは終わってしまった。受験生同志には申し訳ないようだが、今彼は伸び伸びと中学・高校両方のサッカー練習に通っている。これまであまりにサボっていたので「ホントにこれで良かったのか?!」と妻も一抹の疑問はあるようだ。二人三脚とまではいかないが、自分の趣味の範囲で一緒に受験勉強してきた私にとっても「肩透かし」をくらったような気分だが、これはこれで「あり」だと思う。息子が私の母校を志望してくれたのは嬉しく、結果そうならなかったのは寂しくもあるが、「そちら」も実は私の母校のようなものだから。 面接の時にぬけぬけと言ったそうである。「父が貴校の大学院で・・・・」

ケーシー高峰風に言えば「これを我々は『結果オーライ』という。」中々スマートなスタイルだった。彼が素晴らしいのは私と違ってこれまで「外の世界」に平気で乗り込んでいけたことである。小学生の時は仲良しのお友達のサッカーチームを離れて誰も知り合いのいない強豪チームの門を単身叩いていたし、中学も流れで部活に行かず外のクラブチームを志向した。私の母校だけでなく、この辺の学校に進学すれば仲良しの友達などいくらでもいるのに、あえて外の世界を選んだ。このように周囲の予想通りにはならない「意表をつける」こともこの先大事だと思うのだ。正月3が日も実家で母の作った雑煮を食いながら一緒にやった受験勉強、中々楽しかったぜ。まずはおめでとう。

  

受験という名の試練Ⅰ

2013-01-20 20:44:56 | 出来事
3連休最後の成人の日は東京・神奈川地方は大雪に見舞われた。これだけ大荒れの成人の日もかつて記憶にないほどだ。早朝は母を連れいつもの竜泉寺に行き、海岸のデニーズでモーニングを食べている際にどんどん雪が激しくなってきて、帰宅するころには薄っすら道路が白くなるほどだった。昼になるとベタベタの重たい雪だが、ますます強くなり庭ほぼ全面ウッドデッキの我が家は見渡す限り真っ白に覆われた。「こりゃー、すげえ『かまくら』が作れそうだぜー」久々のサッカー練習が中止になってしまった甘辛もはしゃいでいた。雪の下が土ではないので、きれいに簡単に集めることができるのである。これだけあれば巨大雪だるまも家族3人なら宴会もできる「かまくら」が作れそうだ。

  

息子の星人(もとい!成人)の日にはまだ年月があるが、テレビを見ていて振袖の女性などは気の毒だった。妻に言わせれば「今はレンタルも多いし、水に弱い絹の上に超撥水材を塗布されているから心配なし」(材料科学専攻の私よりも詳しい?!)毎年中継されるTDLショウベース2000の成人式も、すごい雪で前がよく見えないほどだった。どこにも行けないからテレビばかり見ていたが、毎年地方に出没する「成人記念!全国ネットで顔と名前を知らしめる」輩はほとんど見られなかった。前から明らかにあれはメディアに踊らされてる感じがしており、我が国はあんなバカばかりではなく、まともな人が圧倒的多数だとは皆承知の上なのだろう。

さて今週末は大学入試センター試験だ。成人の日のように大荒れにならなくてよかったなー。私達の時代は「共通一次試験」と言って、すべての国公立大学が一つしか受けられずしかも、所定の得点に達していないと「足切り」と言って2次試験受験前に学校側(超難関のみ?)から門前払いされると言う悪夢のようなシステムだった。したがって国公立を志望する者は5教科7科目という広範囲な試験勉強を余儀なくされ、現役でそこまで手の回らないものはごく一部の「ツイている者」を除き、躊躇なく浪人生活を選んだ。逆に早いうちから私立志望校を決め、その受験科目のみにターゲットを絞り他の教科には目もくれずあの要領よく受験勉強した者が笑ってすごい難関を通過して行った。。。

高校も大学も「受験」ははるか何十年も前の話であり、のど元を過ぎ去るどころか記憶までよくあるように「お父さんの子供の頃は90点以下を取ったことがなかった」的に美化・化石かしている。。。高校受験は人生初の試練だったが、今のように多彩な?選択肢があるわけでもなし、公立校は中学2年末のこれまた悪夢のようなシステム「アチーブメント・テスト」によって早くから「何とな~く」志望校が決まってしまっていた。私立は超名門「ギジュク」などを除いては、「滑り止め」としていた人が多かったように思う。何せ「3年B組金八先生」世代である。ほぼ同期して物語が進むので「入試前心得」なんて見ながら「早く終わらないかなー」と割と明るく試練に立ち向かっていた。(今はそう思うが当時はたまらんかった?!)

大学入試は緊迫感という意味でははるかに希薄だった。当時はクラスの半分近くは「浪人」などザラだったのだ。何せ高校のように内申点やら面接やら一発試験以外に合否に影響するものが普通はなく、生涯でほとんど唯一と言ってよい、「その先の進路がコミュニケーション抜きで決まる」プロセスである。秋の体育祭が終わって本格的に受験準備の季節になってもクラスには何となく「オレは一浪してどこそこ・・・」という流れが蔓延していて、私も何となく「やはり行くなら駿台かなー」とぼんやり考えていたが、回遊魚系にとって1年で一番煌びやかなXマス&ニューイヤーを部屋に閉じ籠って過ごすのにはホトホト参り果て、再びこの暗いホリデーを過ごさないために、この先の人生を含めて2度とないと言えるくらい「死ぬほど」勉強した。結果はどう考えてもずばり「運」としか思えないものだったが。。。(何せ紙と鉛筆以外に何もプロセスがないから)

浪人というのには昔から賛否両論あり(当人にとってはないに超したことはないが)、「これからの長い先を考えると人生で大事な挫折経験だ」という人もあれば「若い時の大事な時間を受験勉強だけで過ごすのはよくない」という人もいた。元巨人軍の上原投手は大学入試に失敗し浪人した時の挫折感と辛かった年齢を忘れられずに「19」という背番号にしたそうだ。(本人がインタビューでおっしゃっていた)お隣の韓国は日本以上に「受験地獄」なのは有名な話で、シーズンになると社会全体何よりも「受験生」を優先する。不測の事故などによって試験会場に遅刻しそうな受験生がいると「パトカー」が送ってくれるのをニュースで何度も見た。

高校や大学の「受験」というイベント・・・「紙と鉛筆だけで将来を決める」ともっともらしく批評され、テレビCMや街中のポスターでも「がんばれ受験生!」が目に入るようになり、進学塾では年末年始返上で朝から晩までヒートアップ。。。一部の外国を除くと見られない独特な光景だろうが、終わってほとんど忘れてしまった年齢になると「悪くない経験だった」と思う。知力・体力ともに人生最強の短い期間にある一つの目的に向かい全身全霊で打ち込むという機会はほとんどない。上原投手が語ったように「壁を乗り超える経験」は必要だと思っていた。私は「ポプラ社」の推理本をよく読んだが、ホームズは天才的なひらめきと探偵分野のみの深くあくなき研究心を持つ「とんがった」才能であり、ルパンは数ヶ国語を操り色んな分野の知識に長けた「全方位」な才能というイメージがあった。

どちらかというとアニメ・特撮系に花開いてしまったが(苦笑)、私は完全にアルセーヌ・ルパン信奉派であり、息子甘辛には大人になって「こんなことも語れないの?」と言われないために、とにかく高校までは全方位学習で行くように言ってきた。
その甘辛は今年まさしく入試を控える受験生という立ち位置を迎えた。「3年生の夏休みが勝負!」と言われたのに、相変わらず勉強が大嫌いでサッカーばかりやっていた。うるさく言わなかった私も見かねて「少しは勉強しろ!」などと自分はかつて言われたこともない言葉を口にしたりした。進路調査やら内申書だなどと現実感を帯びてきても、お呼びもないのにスポーツ推薦で進学するとかわけのわからないことを言い続けていた。学校に近く色々と情報を耳にする妻は「頭を抱え」、私も「なんとなくやばくねえか?」と思い始めていた。

学校の説明会なるものも行かず、3者面談でも「3月までサッカー続けます!」と言い切っていた甘辛だが、たまたま冬の高校サッカー選手権の最終予選で私の母校と海辺の進学校が激突、母校が見ていても結構いいサッカーをして辛勝した。数十年ぶりにゴールデンコンビの校歌を聞いたものだ。これまで全く興味を持たなかった息子が、今年かなりサッカー部が強いらしく部員も50人以上いる私の母校に「行きたい」と言いだしたのが10月過ぎてからだ。「言いたかねえけどさ。オレんちは難しいぜー。もう遅いんじゃないの?」ちゃっかり者でそこそこ成績は良かったようだが・・・サッカーが盛んで進学もちゃんとできるところ、という条件で色々と探し始めたようだった。さすがに生まれ育ったこのエリアだから大概のことは知っていたが、何を勧めても「サッカー」で聞いたことが無ければ耳も傾けない。。。。危うし!我が子の進学に大いなる不安の影がよぎり続けるのだった。結果的に息子甘辛がある意味彼らしく「あっさりちゃっかり」この重い試練をかわしてしまうのだが・・・つづく

おジャ魔女の世界

2013-01-17 05:07:47 | ヒーロー
我々が子供の頃(実は再放送の時もあったが)ウルトラ戦士や仮面ライダーなどはちょうど黄金時代の我々が大人になり、合コンやテニス、スキーなど「外の遊び」に忙しくなってテレビやグッズなどから一旦離れると、これと同調するように少し下火になっていき、子供(男の子たち)がヒーローなどに夢中になる年代になるとまた懐かしくて自分も一緒になって追い掛け回し、大人コレクションなどへ発展してきた。自分は興味をずーっと持っていた方だが、やはり「ヒーロー」の波は私達の固有波長とかなり同期していたと思う。ゴレンジャーに始まる「戦隊シリーズ」などは実は40年近く毎年新たな戦隊を生み続け、今に至っているところが実はすごい。

平成になって本格的ウルトラマンが復活し、ミレニアムになって本格カメンライダーが出現する。それ以来、初代マンや私の愛してやまないウルトラセブンの世代がその息子達と「ウルトラ」を追うようになる。仮面ライダーも毎年新ライダーが登場し映画もコラボしている。テレ朝は日曜日の朝7時半から8時半まで「戦隊シリーズ」と「仮面ライダー」と続く時間帯を「スーパーヒーロータイム」として我が父子は息子甘辛が幼い頃から何があってもこの時間はテレビの前に座っていた。甘辛は私に似ず朝早起きに弱く、ぐずぐずと寝ていることが多かったが、テレビで主題歌が流れるとがばりと起き上がってテレビの前に来た。そのうちサッカーなどで息子の方が忙しくなってビデオまとめ見が増えてしまったが、暇な私でも日曜日、早朝から海へ入ってもこの時間までには必ず帰宅したものだ。

せっかく朝御飯を作ってもそっちのけでテレビを見ている私達に「冷めてしまう」と文句を言っている妻だが、その嘆きを倍増させるような番組があった。連続ドラマ「おジャ魔女どれみ」の存在である。仮面ライダーの放送終了後、何となく見ていたのだが、あまりに深くいい話が多くていつも二人で「うるうる」していた。最後のシリーズまで4年くらい続いたのだが、息子甘辛が忙しくなってその時間に見られないことが多くなると、3番組連続で録画しておいた。最初のシリーズが「友達」、次のシリーズが「母性愛」、3作目は同じく「愛と成長など」、最後は「締めくくり」といった感じの根底に流れるテーマがあった。実は「おんぷちゃん」が最初はあまりいい子ではなかったことは知らなかったので、本格的に見始めたのは途中からのようだ。
(知らない人には全然わからない内容なので「スルー」してください。でも機会があれば「ようつべ」のさわりだけでもお勧めです)

少し前だがとある友人が「石野真子さんのコンサートに行った」という記事を載せたところから、「石野真子=デカレンジャー」「デカレンジャー⇒おジャ魔女どれみ」の話題で盛り上がったのだ。「もーっと」シリーズで大好きだった巻をうろ覚えで書き込んだのだが、懐かしくなってきて昔録画しておいたVTRを探し出して見てみたのだ。「おジャ魔女どれみ」は昔からあったようなアッコちゃん、マコちゃん、サリーちゃん、チャッピー、メグちゃんなど魔法中心のものとは少しく趣きが異なる、「人間模様が中心で魔法はオマケ」のようなところがある。しかしちゃんと魔女界には女王様がおり、数々の伝説があったり元老がいたり、要所要所では「魔法」の話が出てくる。私は録画しておいたいくつかのVTR「もーっとおジャ魔女どれみ」の中で、もっとも好きな巻が出現した。「もも子が泣いた!?ピアスの秘密」と「みんなで!メリークリスマス」編である。

「もーっと」シリーズにはアメリカ帰りの「もも子」ちゃんという新たな仲間が登場する。実は息子甘辛はもも子のファンだった。米国カルチャーか、何事も歯にもの着せずに言い積極的なもも子ちゃんだが転校してきた直後は日本語が上手に話せず、元気がないがどれみちゃんたちとおジャ魔女として友達になる。それ自体はよいのだが、彼女がしている「ピアス」がきっかけで米国在住時代の「悲しい想い出」を語ることになる。友達ができずに一人で寂しがっていたもも子ちゃんにモンローという魔女が現れ、共に時間を過ごすようになる。ある日、偶然にももも子ちゃんはモンローの正体が魔女でることを知ってしまい、魔女モンローは最強の魔力を持っていたとされる「先々代の女王様」の呪いにかかり、魔女ガエルという蛙に変身させられてしまう。

                

これを心から悲しみ、自分が魔女になってモンローを元の姿に戻すため、もも子ちゃんは厳しい修行の上、女王様から魔女の認定を受けるのだが、魔女モンローは寿命が尽き、これまでの楽しい月日をもも子に感謝して死んでしまう。もも子は悲しみのあまり「禁断」と言われる「人を生き返らせる魔法」を使おうとするが、失敗し情報に魔女の称号をはく奪されてしまう。このモンローが最期の時に「自分と思って」ともも子に渡すのが「ピアス」なのである。「おジャ魔女」の世界では禁断とされ、使うと自分に同等の災難が降りかかる魔法がある。「死んだ人を生き返らせる」「怪我や病気を治す」「人の心を変える」の3つである。実は「おジャ魔女」に登場するどれみちゃん以外は皆、この魔法を一度は使ってしまうのである。新シリーズが始まってすぐにあった、もも子の悲しい話に小学低学年だった息子は大泣きに泣いたのですごく印象が強いのだ・・・

            

もう一つはこの編だけではないが、「長門かよ子」ちゃんという同級生の物語だ。普段は教室で一緒に勉強することはなく、保健室でユキ先生に面倒を見てもらいながら、勉強を続けるいわゆる「保健室登校」である。体育の授業で「おジャ魔女」の一人、アイドルのおんぷちゃんが貧血で倒れてしまい、かよ子ちゃんと出会う。転校してきたかよ子ちゃんは転校したての頃は級長や友達にも世話をしてもらい、クラスに溶け込んでいくのだが「競争」を重んじた担任の施策でグループの中でたまたま「足を引っ張ってしまって」から次第に「皆に迷惑をかける」と登校するのが怖くなり、学校に向かうと気分が悪くなってもどしてしまうようになる。転校してきた時には同じ不安があったという「おんぷ」ちゃんと「どれみ」ちゃん達にかよ子ちゃんはそう告白する。確かどれみちゃんとかよ子やんは既ににお友達で、以前不登校児童だったかよ子ちゃんと一緒に学校に来ようとしたのだが、ダメだったのだ。とりあえず保健室までは来れるようになったらしい。ちなみに私は保健室のユキ先生が大好きだった。

              

そんな話を聞いたかつてのクラスメイトは知らず知らずのうちに彼女を傷つけてしまったことを謝る。かつてクラスで「競争」させていた担任も自分の考えを反省し、「不登校児童」を集めた施設でボランティアとして教鞭をとり、かよ子ちゃんにもその施設に来るように誘うが、「どれみちゃん」達と学校に行くことを決心する。
しかし保健室に呼びに来たどれみちゃん達と一緒に教室に向かう途中、やはりかよ子ちゃんは気分が悪くなってしまう。それ以上一歩も進めず、うずくまってしまったかよ子ちゃんにどれみちゃんは「ここにもどしていいよ!」とパーカーを引っ張って差し出す。すかさずももちゃんも「アタシのもあるよ!」そして教室のドアがあいて「ボク達のもあるよ!」がんばれかよ子ちゃん!かよ子ちゃんは勇気を奮って教室の入り口をまたぐのである。4年間の「おジャ魔女シリーズ」で私には最も印象深く残っている。

          

          

このシリーズに一貫して現れる基本法則は「魔女は人間に正体を知られると魔女ガエルという緑色の蛙になってしまうこと」である。魔力最強と言われた先々代の女王様は人間との恋に陥り女王の地位を降りて人間界で暮らしていたが、魔女と人間との相容れない宿命(魔法、寿命の違いなど)で深い悲しみにとらわれ、人間との交わりに絶望し「自分のような悲しい思いをさせないように、人間との交わりを絶つために」強力な呪いの魔法(魔女ガエルの魔法)をかけて自身は姿を消してしまうのである。シリーズは最後に佳境に入り、先々代の女王様は(誤解があったこともあり)「人間界との交わりはよき思い出だった」と目を覚まし魔女ガエルの呪いを解くことになる。そしてどれみちゃんたちは魔女になることを承認されるが・・・・最後に誰にも予想できなかったすごいサプライズがある。いつもベールで隠していた現女王様が素顔を現すのである。。。「おジャ魔女の世界」はある意味スーパーヒーローよりも印象深い、今でも何話か忘れられないような深い「教え」があるように思う。そのどれみちゃんが高校生になった物語があるという。ぜひ見てみたいものだ。

結婚の宴

2013-01-14 13:14:59 | 出来事
従弟の結婚式に親類として母の代理で出席してきた。場所は常磐線水戸駅から車で15分くらいの式場である。結婚式など出席したのは何年ぶりだろうか?年齢的なものなのか立場的なものなのか、圧倒的に多いのは葬式である。家を出ようとした時に、さすがにネクタイは黒いのと間違えなかったが、ポケットに数珠が入っているのに気付き、慌てて置いてきた。最近はちゃんとした?昔のように式を挙げる?人は少なくなり、親類だけの内輪にしたり友人どうしのパーティを別に設けたり、色々と多様化しているようだ。年輩の方が多い「親族」のいる堅い場と「悪友」ばかりのくだけた場が融け合う珍しい場なのだが、ちょっと窮屈感を感じるところもあるのだろう。

まだまだ地方によっては「ゴンドラ」、「人力車」にドライアイスのスモークありの派手派手婚や何日も続く大名婚などもあるようだが、昔のオーソドックスなスタイルもまだまだ続いている。親類として参列すると普段あまり合わない人達ばかりなので、「控室」から昔の話に花咲かせられることになる。兄弟の多かった母親方の従兄弟はたくさんいるが、その日は3人男子のいる叔父の長男の結婚だった。私は従兄弟の中では上の方で、その叔父さんには子供の頃よく面倒を見てもらったが、彼と私、そして彼の二男には共通点があると言われた。「落ち着きがなく、とにかく悪さばかりする」というところである。夏休みに富山に遊びに行くと、必ず何かを壊してくるので祖父からは「こう来んでいい。。。」と言われたこともある私である。

叔父の二男も「茅ヶ崎のタロウ」に負けず劣らずやんちゃで、同居していた祖母もほとほと手を焼いたらしい。その二男が小さな男の子を連れており、その子が彼の小さい時のコピーそのものだった。そわそわとあっち行ったりこっち行ったり落ち着かず、なにかを持ってきてしまったり・・・
「お子さんか?キミの小さいときそのまんまじゃないか」「オレぁ、もっと大人しくしてたよー」
その場にいた全員は「いや、お前の方がひどかった・・・・」しかし、私があまりに言い過ぎると彼の父に自分のことについて手痛い逆襲に遭うのであまりわーわー騒がずにいた。

係の人がやってきて、親族の紹介タイムである。大体この手の段取りは決まっているようだが、畏まった場があり、記念写真撮影があり、挙式、披露宴とプログラムが続き、1日結構ハードなコースなのである。親族紹介はそれぞれの父親が行った。これが意外と手強いらしい。新郎新婦の父として初めて会う相手の親族に数十人いる自分の親族の名前を全部紹介するのは至難の業だそうだ。(名前、なんて言うんだっけ?というわけにもいかぬからな)
私の時も亡き父親が行ったが、あまりの緊張のため「ワタクシが新郎『磯辺太郎』の父親の『いそべたろう』です」などとのっけから大技をぶちかましてしまった。。。

親族紹介や写真撮影が無事終わると、式場へ移動する。「人前式」というスタイルでレッドカーペットの先で待つ新郎に父親にエスコートされたウェディングドレスの花嫁がエスコートされてくるのは「教会式」と同じだが、聖書を持った神父(何故か「ひょうきん族の故横沢さんを思い出す」や賛美歌隊がいない。親族だけではなく友人や下手すりゃ「その場に居合わせた人」も参列する。宣誓文を読み、指輪を交換し、結婚証明書(って言ったかなー)にサイン、それぞれを会場の人達に「結婚会見」のように差し出して見せる。最後に「お二人の結婚を承認いただける方は暖かい拍手を」という儀式で締めくくる。今日は大荒れの雪だが、昨日はこの季節では珍しいほど素晴らしい陽気の1日だった。

    

披露宴はど派手ではないものの、実に「よく考えてある」企画盛りだくさんのイベントだった。お涙頂戴や内輪で騒いでいるだけではなく、アットホームで年輩の親族、友人悪友、皆が楽しめるプログラムがあり、「式次第も進化してるんだなー」と感じるところが多かった。特に通常は座っているだけが多い?新郎新婦のご両親の出番が多かったのが好感を持てた。
まず初っ端からウェディングケーキ入刀後、取り分けたケーキをそれぞれの両親に「あーん」して食べさせてあげるのである。お色直しの後はキャンドルサービスの代わりにテーブルごとに記念撮影、その後に2人のご両親がキャンドルをつけて回るのだ。なるほどねー。

お二人は職場結婚のようで、参列者は上司も含めてみんな知り合いだったらしく、余興は彼らの大多数が参加する実によくできたものだった。いきなり消防士の姿をした屈強な若者が7、8人入場し大声で点呼を初め、テーブルからも次々と男女が整列し始めた。職場に設けた「自警消防団」によるアトラクションだったのである。
「主賓席があまりに熱くて燃えそうだ!」「先遣隊は状況を調査!」「新郎は熱のため意識がない!呼吸も停止!」「マウストゥマウスの人口呼吸で蘇生せよ」「男相手じゃいやだ!」「居合わせた新婦に介護させたらいかが?」「では親族に許可をもらってこい!」「緊急事態です。新婦による人口呼吸を施してよろしいでしょうか?」「よろしくお願いします」「ご親族の許可が出た!新婦の●●はただちにマウストゥマウス人口呼吸法により新郎を介抱せよ」(恥ずかしながら新婦は人口呼吸)「ダメだ!オレはそんなヤワな人口呼吸は教えていない!もっと長くちゃんとやれ!」「わかりましたー!」(敬礼)
場内は大盛り上がりだった。皆まるでこの日のために練習を重ねてきたかのようにドレス姿の女性ですらキビキビ走り回り私は県防災訓練を間近で見ているような気分になった。

宴もたけなわになり、友人たちテーブルの代表が新郎新婦に直接呼ばれてメインテーブルからもらった火を一人一人の前にある小さなキャンドルに点けて歩いた。私のテーブルの代表は富山在住で新郎とも仲良しだった同じ従兄弟の●ノリである。正面で並んで畏まってキャンドルの火を分けてもらっている姿をみて叔父叔母たちは「あの子もまともになったよねえ」「そうそう、昔、パンクになってお祖母ちゃん『ノリが変なになっちゃった!』って卒倒しそうになったんだぜ」そんなことを言われてるとは知らず、真面目くさった顔をしてキャンドルを持ちかえってきた。
新婦が両親への手紙を読みだした。「お父さんへ・・・・」この辺は若干お涙頂戴的なところはあるのだが、テーブルに戻った●ノリを見るとぼろぼろわんわん泣いていた。

「●ノリよ。。。何でキミが泣いてるんだ?」対面のテーブルにいた私が冷やかすと「うんうん。オレにも娘がいるんで、何か想像しちゃって・・・」ハンカチで目を拭き拭き答えた。「ふーん。お嬢さんいくつになんの?」「今年1歳・・・・」この大馬鹿野郎!
「タロウんとこの甘辛クンだっけ?お前に似て悪さばっかしてたんだろ?」「いやー、幼い時はそうでもなかったけど、最近悪いかも・・・」色々やらかして、学校に呼ばれたりしてるらしいからなー。
なかなかほっこりしたいい披露宴だった。一昔前は親類で久々に集まると年長者達の「小さい時のお前は・・・」攻撃にいつも閉口していたのだが、もう会社員ライフも終焉に近い私をさすがに冷やかすことはなくなったようだ。
Mトシくん、おめでとう。お父様を安心させられてよかったねー。その幸せがいつまでも続きますように。

紅白の今昔

2013-01-11 04:45:23 | 出来事
もう旬な話題ではないがなー。。。箱根駅伝の次に紅白歌合戦の話題とはいかにも順序レスだが、元々思いつきで書いている記事である。別に強い思いがあるわけでもないが、大晦日の晩は自宅にいても実家にいても、はたまた外出していても必ず「紅白歌合戦」は見ていた。何かを期待しているわけでもないし、録画して毎年の保存版にしているわけでもない。テレビに釘付けになっているわけでもないが、どこにいても必ず見ている。最近、ベストテンのような歌謡番組が無くなってしまい、音楽番組に登場する若いグループなどもだんだん分からなくなってきたが、紅白はさすが張本のような広角打法でどのコースであってもまんべんなく視聴者がヒットできるようにできている。

実は昨年末29日に「昔の紅白の名対決集」を扱った番組があった。「ダンス」「熱唱」「初出場」などそれぞれテーマに関して赤組白組の昔の出演者を放映したものだ。大昔の白黒で名前しか知らない人のときもあったし、つい最近「あぁあぁ、そういう時あったよねえ」という近年のものもある。家族3人で見ていて、さすがに息子甘辛はつい最近以外の歌手はさっぱり分からずつまらなそうだったが、何と言っても我々はアイドルゴールデン世代、ほぼあらゆるジャンルについて「語れる」ので、年を経て今でも活躍している彼が知っている歌手を見ると、我々の解説を聞きながら「なーるほどねぇ」と感心していた。(親に感心するな!)
「やっぱり百恵ちゃんは歌、うまいよねえ」「いや、歌唱力だったら岩崎宏美だろ?」「ダンス対決?そんなの少年隊に決まってんだろ。」「そうそう、あの時、K山雄三さんが『仮面ライダー』って思い切り叫んじゃってねえ・・・」

録画していたわけではないから順序・話題はめちゃくちゃかもしれないが・・・赤組司会が「Perfume」というのがピンと来なかったが、白組の氷川きよしさんは紅白初出場の逸話から色々と語っていた。初出場のとき、彼の名付け親とされるビートたけしさんと志村けんさんが夢の応援競演が放映されたが、当時はあまりの緊張に「えい!」と刀を振り下ろすのがやっとだったと感想を述べていた。
知らなかったこともたくさんあった。石川さゆりさんが「津軽海峡冬景色」を歌った初出場時はなんと19歳だっただと?!「10代初出場であの歌唱力見せつけられたら、他の人ぁ立場ねえぜ・・・」「演歌歌手ってさー、歌い終わった時に声にしないで口だけ(「ありがとうございました〜」)ってやるよな。」「ぎゃーはっはっは!父ちゃん、今やったぞ」その昔、NHKは特定のスポンサーを宣伝するようなことをしなかったので、商品名や企業名を口にすることがなかった。プレイバック2も「緑の中を走り抜けてく真っ赤な『ポルシェ』〜」とは歌わなかったはずだが、紅白でだけはちゃんと歌っていた。(何せ大トリだからねー)レッツゴー・ヤングでも松田聖子さんの「風は秋色」は化粧品のCMソングだったため、歌そのものを歌わずB面を歌っていた。それが数年前には他局のマスコットそのもの「ゴリエ」が歌って踊り、最後が「フジテレビ」のロゴである。。。NHKも変わったものだと話していた。

「中継で歌う」ということで、もう10年以上前になるだろうか、中島みゆきさんが極寒の黒部ダムから「地上の星」を熱唱したときが放映されていた。「プロジェクトX」の主題歌だったからかもしれないが、これまで彼女が紅白歌合戦に出場するのを見たのはその時だけだ。当然、冬は閉鎖されどう見ても氷点下となっている地下道で「モロ肌脱ぎ」で歌うみゆきさんにプロの根性を感じたものだが、妻曰く「確かあの時、途中で歌詞を間違えて、字幕が突然消えちゃったんだよ」そう言えばそんなことがあったような気がする。対決した昨年の長渕剛さん「ひとつ」は震災を受けた学校のグランドからの中継であまりの圧巻に言葉も出なかった。

コラボレーションということで、堀内孝雄さんがその年に亡くなった親友川島英五さんの「酒と泪と男と女」を涙ながら熱唱していた。後半は後ろのスクリーンに生前の英五さんが歌うVTRと重なって・・・中々グッとくるシーンだった。しかしポップス演歌という意味不明な?ジャンルを切り開いた堀内孝雄さんは「どう見ても目張り入れ過ぎなんじゃないの?」というのが我が家の見解である。
やはり我々が目を見張ったのは「歌は歌えないけど、あのポーズだけは誰もが知っている」金井克子さんの「他人の関係」である。パンパンパパンパン、ちゃらんららら、パンパンパパンパン・・・・
「カラオケBOXで盛り上がると誰もがあのフリで行ったり来たりする」チェッカーズの「涙のリクエスト」、父が生前「この男、何かに憑依されてるぞ!?(瞳が変な色に輝いている)」と驚いた沢田研二さんの「TOKIO」は珍しくパラシュートのない映像だった。

弟一部は絶唱対決としてちあきなおみさんの名曲「喝采」と森進一さんの「襟裳岬」(私もレコードを持っていた)で締めくくった。どちらも確かレコード大賞まで獲った名曲中の名曲中だが、実に困ったことにどう聞いても「あの人」の歌に聞こえてしまうのである。「コロッケ」の影響力とは恐ろしいものだ・・・
その他、今や誰もあの腰フリを真似できないであろう山本リンダさんの「どうにもとまらない」、暴れん坊将軍が新しい境地を拓いた松平健さんの「マツケンサンバⅡ」、「・・・かったよ〜」などというやたら女々しい歌詞の多いシャ乱Qの「ズルい女」などなど。。。NHKは年末でなくても、この手の映像を編集して流せばかなりの視聴率は取れると思うのだが妻曰く「本番よりもこっちのほうが楽しめるなんて歳とった証拠だよねー」

今年(もとい!昨年の)紅白本番については色々な人が色々な場所でコメントしていると思う。特に何が印象というわけではないが・・・AKB48を筆頭に嵐にSMAP、浜崎あゆみさんまで、やたらに「メドレー」が多いなー。一旦この波に乗ってしまえば当年にアタリタイトルがなくてもずーっといけるという新しいスタイルか?!衣装というより「セット」だった小林幸子さんは今年も出なかったが、引き継いだ?水森かおりさんの舞台はどう見ても近所にある「埜庵」というカキ氷店の「氷イチゴ」である。倖田來未さんの衣装は多少やばい感じがしたが、知人のFB投稿には笑えた。「妻の実家で紅白見ながら、倖田來未の話題になってたら、酔った義理の父が、『江沢民がどうした?』って。・・・」日中関係の悪化を懸念して中国の元国家主席が日本の国民的行事に出席と聞こえたのだとしたら、なんと素晴らしいお父様か!

番組には副音声で「紅白ウラトーク」というのがある。テリー伊藤さんらが出演していて、時々そちらにフラれるのだが、何せNHKなんでやばい話はできないところが残念だ。細川たかしさんの「浪花節だよ人生は」の時はこんな感じだった。「細川さんてさあ、1年で150回以上ゴルフ行ってるんだよ。芸能界一黒い顔だな、ありゃー」
父がファンだった藤あや子さん、伍代夏子さんは何回聞いても一つも歌を知らないが、箱根駅伝でシード権ぎりぎりで毎年しぶとく出場する某校のようにここ20年くらい毎年出場している。上述の「夢の紅白」でも放映された舘ひろしさんは例のコラボレーション映像で「石原裕次郎」さんの「嵐を呼ぶ男」をかっこよく歌っていた。本物よりもかっこいいと思った。

「ももいろクローバーぁあああゼェーッ」あたりから今年も赤組の負けじゃないかと思い始めてきた。私がJPOPダンスで踊った「つけまつける」の人も頑張ってたんだけどなー。
後半になると「義理のお父様」同様、私も回ってきてAKB48を見ながら「おーっ、AKBの中にニューハーフが混じってんぞ!」「父ちゃんよ、そりゃ『足元に気をつけな』の●元才加じゃんか!大丈夫か?」
初出場という美輪明宏さんの「ヨイトマケの唄」というのは圧巻だった。歌というよりも一人舞台という感じで酔いが一気に冷めた。プリンセス・プリンセスは最初で最後の登場らしく「Diamonds」を歌っていた。それこそちょうど学生時代あたりに最も盛り上がったグループだから、それこそメドレーで、特に「M」を入れて歌ってほしかった。KICK師匠は録画を見ながら子供達に「このオバさん達、飛ばしてもいい?」とかまされてかなりショックだったようだ。。。

石川さゆりさんの鬼気迫る「天城越え」にオリンピックテーマを大トリで勝負をかけたようだが、やっぱり今回も赤組は負けてしまった。。。ここ何年も白組の勝利が続いている。勝敗はあまり気にならないが、個人的には「ロクちゃん」(私は「梅ちゃん先生」を見てなかったので)に勝たせてあげたかった。その昔の採点方法であれば、審査員と野鳥の会だけだったら、何となく「今年あたりは赤組でいいかなー」というバイアスがかかったような気もするのだが、インターネットの時代、国民総投票制ともなるとその辺には容赦(又は偏り)がない。またアイドル熱狂は女性軍が中心(ジャニーズ系とか)で男性は一部を除き違う方面に向かってしまっている。(総選挙で個人には興味があるが、グループそのものには入れ込まない?!)結果、女性票が多く白組に向いてしまってるのではないか?どちらでも出場できそうな人気者を全部赤組に片寄せするとか、何か手を打たないと当分白組の連勝が続くような気がするぞ。

人のつぶやきを拾う

2013-01-08 04:37:35 | 出来事
ここ数年、年頭に掲げている1年のテーマである。
昨年は「足元に気をつける」だった。大震災で人の心が浮ついていたのか、普段は起こらないような事件・事故が重なって発生したことを鑑み、新春の「ウルトラ映画」のワン・シーンからパクったのである。実際に何百人もの人が365日動いていると、人身事故、情報漏洩、メンタル疾患など数え切れない落とし穴が「足元」に散らばっているのが改めて分かった。確率論から言えば「何も起こらない方が奇跡に近い」ほどで、よほどツイているか何かの御加護があるような気がする。そこでレコーディング・ダイエットをパクって「レコーディング事故ゼロ運動」というのを実践した。毎朝ミーティングで「今日で連続無事故記録●日だよねー」とあえて確認することで、この「奇跡を続けられるように」意識するのである。こういうのは「イマイチ」だったら止めればいいから、取りあえずやってみると意外と効果を出した。別に1年こっきりの話ではないから、これはこれで続けようと思う。

さて、「来年はどんなテーマにしようかなー?」なんて考えたことは一度もないのだが、不思議と年末になるとヒントになるような事象が訪れる。CSR(Corporate Social Responsibility=企業の社会的責任)研修を受けたときだ。「一般に企業内での不祥事を未然に防ぐには、『危険を感じ取った人のつぶやき』を検出するのが大切」ということである。上司に不正を指摘したり、内部告発したりするのは階層社会ではまだまだものすごい抵抗感があって、ほんのわずかしかないのが実情だ。しかし「ちょっとまずいんじゃ?」というつぶやきは誰でも放つことであり、これを抜かりなく検出できれば大きな事件も未然に防げる可能性が高い。京都の何とかいう大学の偉い教授の講義で、ほぼ95%寝ていたが「ここだけ」起きていて頭に残った。

なるほどねー。年齢も年齢だから、それなりに責任は重くなったが、人から言われるほど忙しくもないので、「何か御意見があったら、いつでも声を掛けてください」と事ある度に宣伝しているが、1年に自分が言ったことの答えが返ってくる以外にはほぼ一度もない。人間「何かありますか?」と聞かれても何もでないものである。昨年は割と「守りを固め」ていたが、今年は何となく「攻めに転じ」なければならないような気がする。(会社も厳しそうだからなー)しかし「どこから何を攻めようか?」と改めて問われるとやはりすぐに答えは閃かないものである。私は先の「つぶやきから危機を検出する」というのは「いいこと」に応用したほうがいいんじゃないかとぼんやり考えていた。仕事風に言えば顧客のつぶやきや同僚・関係者のつぶやき、巷のつぶやき・・・どんな「ものの本」にも「人に意見を言うよりも人の意見を聴くほうが大事」と書いてあるのだが、不徳の致すところで相手から能動的に「意見してもらえる」のは正直あまり期待できない。しかし現場から発する各種開発、特許にもつながる発明、足元をすくわれるような事件などは確かに「何気ないつぶやき」にヒントが隠されているに違いない。実際にそういう例もすごく多いから拾って歩こうというものだ。
(これって家族や友人にでも使えそうな気がするのだ)

「人のつぶやきを拾って」起こすのは「試しにやってみる」ことである。この職場に来て自分も含めて「人間とは変わることを嫌うものだ」と今更のように感じる。KICKPOP師匠の仰る「comfort zoneから抜け出す」にまさく通じると思うがこれが中々できないのである。何十年も同じことを繰り返し腕を磨いてきた人も多いから当然のことだ。しかし一方でビジネスは「変化し続ける」「変革が必須」「変わらなければ生き残れない」などと言われ続けている。私は確かに「変えるのが仕事」のようなところが多い。(ってか、変えなくてもよければいなくてもよい)しかし数年来でも続けてきたことを新しいことに変えようとすると根強い抵抗が起こる。あからさまに「No」とは言われないが、あの手この手で説得し「元に戻そう」とされるのである。断固として遂行するケースと「やっぱやめべー」と翻すケース・・・強行突破の方が成功打率が低かった。。。

そこで考えた作戦がいつでも元に戻せることにして「試しにやってみる」のである。よっぽどダメならホントに戻してしまえばよいが、大抵のことはしばらくやっているうちに慣れてしまって「こちらの方が居心地がよくなる」ようだ。レコーディング事故ゼロ運動は中々いい例だった。「人のつぶやきを拾って」「試しにやってみて」気付かないうちに「comfort zone」にしてしまうのである。マネージャー稼業を長くやっていると、我ながら色んな作戦を考えるものだ。今年は「とりあえずさー、これだけ試しにやってみようぜ」というシーンが増えることだろう。実は「つぶやき」ではないが、本音っぽいことを簡単に聞けるときがある。「飲み会」の時である。しかし残念ながらこの時は肝心なこちらの「検出装置」そのものが迷走しており、ただしく保存できないことが多い。やはり普段から(別に盗み聞きするわけじゃないけど)「耳の感度をこれまで以上に上げる」ことを心がけるとしよう。

さて少し前から行っていることだが「人のつぶやきを拾って」起こすことがもう一つある。「いいね」と思ったつぶやきを他の人に「パス」するのである。誰かが誰かを褒め称えた時、それを「これっていいね」と思ったときは自分の知っている人でその言葉が相応しいと思った人に「パス」する。その際「他に相応しい人がいたらパスして」と付け足す。実は最初は「つぶやき」ではなく自分へのメッセージだった。今まで聞いたこともなかったような「いい言葉」を頂いたので、気恥ずかしくなってもっと相応しい人にパスしたのである。誰でも面と向かって相手を褒め称えることは少ないものだが、誰かのつぶやきを拾ってそれが相応しいと思う人にパスし、その人が別の人にパスしていくというのは、中々粋な言葉の連鎖ではなかろうか?

お正月だよ!我が家の新風物詩

2013-01-06 22:27:18 | ヒーロー
「やっぱ正月はここに来ねえとなあ・・・」夏のウルフェスの帰りにチラシを見ながら約半年先のイベントにつぶやいたのは息子甘辛である。東京ドームプリズムホールで年末年始に開催される「お正月だよ!ウルトラマン全員集合」だ。元ウルフェスの会場であった場所でもあり、本家ほどの歴史はないがここ数年、夏のウルフェスとともに我が父子が冬の風物詩としているイベントである。ウルトラ戦士達が日本の年越し、新年の伝統を忠実に再現する単なるヒーロー物にはこれまでに無かった趣向を持つ。会場内には展示コーナーは少ないが、新年ならではのアトラクションやウルフェス同様のライブバトルステージがある。バトルステージは後にDVDで発売されるほど、ものすごい凝ったストーリーとなっており、1日に数回行われるが年々にその人気が増してすごい人気となり、とうとう前売り券で指定席を入手するようにまでなった。

前回は実は年末に訪れたのだが、今年は息子の予定と合わせ、正月3日先に紹介した箱根駅伝を応援に行った後、東海道線で水道橋まで向かった。3日いうのはあまり電車で出掛けたことは無かったが初詣他結構人が多く、車内は混んでいた。東京で中央線快速に乗り換えるとこれまた混んでいてふと皇居側を見るとものすごい人混みだった。何があるのかと眺めていたら、なんと箱根駅伝のゴール付近だったようなのだ。神田方面に進んですぐに見えなくなってしまったが、どうもランナーがまさにゴールしようと走っていたようにも見えた。これはすごい!「珍しいなあ、おい、1日に2回も駅伝見るなんてさー」

さて発車ベルまで巨人軍の「闘魂こめて」になっている水道橋駅を降り、場外馬券売り場のイマイチ雰囲気のよくないゾーンを過ぎると「お正月だよ!ウルトラマン全員集合」の会場である。ウルトラマンフェスティバルに比べると少しだけ規模が小さいが、結構家族連れが多く子供達で賑わっている。まずは私の愛してやまない「ウルトラセブン」が紋付羽織袴姿で出迎えてくれる。今年で45周年になるからか、はたまた息子の「ウルトラマンゼロ」がウルトラ戦士で現役のセンターのような存在だからか、最近はセブンが主人公のような設定が多い。私は遥か数十年前から「セブン特別説」を提唱しており、ようやく世間が追い付いてきたということか。

  

入り口からは日本人が新しい年を迎える準備、迎えてからの営み、そのいわれなどをウルトラ戦士が演じている。どこに行っても1年中でここしか見ることのできない、ウルトラファミリーのお正月である。お正月を迎える準備を「煤払い」から始めるので年末なのに「事始め」というのだな。煤梵天というのも恥ずかしながら初めてみた。。。レオとアストラの餅つき、ウルトラの掛け軸があるぞ。「これ売ってねえかなー」甘辛も同じことを考えていたようだ。

        

  ダイナとジャスティスが年越しそばを食べてるぞ。この由来はいくつかあるようだが、説明書きでは金銀細工師が散らかった金粉を集めるのにそば粉を使うために、金を集める縁起で始まったと書いてあった。子供の頃は「そばは長く伸びるので延命長寿や身代が細く長くのびるように」と教わったような気がする。食べるタイミングだがその名のごとく、我が家では31日の紅白終盤から蕎麦をゆで始め、除夜の鐘と0時の時報を聞きながら食べるのが習慣となっている。大晦日のニュースで見ると、昼食に蕎麦屋が満員になっている光景が放映されるが、とりあえず大晦日に食えばOKということになりつつあるらしい。天ぷらをよくつけるが、夜中の0時に「天麩羅そば」というのはあまりヘルシーではないなー。

    

正月を迎えると全国のお雑煮特集が・・・北海道は角焼き餅にじゃがいもにコーンのしょう油味、岩手はつきたての手切り餅にニンジン、大根、きのこなど、我が家ははやり富山風になっているようで、餅は焼かずに煮るほうである。これにだいこん、焼き豆腐、里芋、ほうれんそう、蒲鉾、にんじん、筍、三つ葉、エビが入る昆布だしのしょう油ダシである。(結構色々入ってるな。写真撮っときゃよかった)静岡、愛知の方になると花かつおだしに小松菜が乗るようだ。京都になると白味噌味になるのは有名で、これに鳥肉と三つ葉が乗るようだが、四国も白味噌味が主流のようだ。山陽や福岡などはすまし汁の所も結構ある。餅の形にも丸型と角型があるようで、色々な地方のお雑煮というのを比べると面白そうだ。

  

おせち料理になるとあまり地方色はなく、全国統一のコンテンツらしい。それぞれに確か色んな意味が込められていた。海老は「共に腰が曲がるまで長生きできるように」、数の子は「子沢山、子孫繁栄」、黒豆は「マメに暮らす」、昆布巻きは「よろこぶ」、田作りは「豊作祈願」、れんこんは「将来を見通せるように」などなど・・・私は正直言って「おせち料理」というのをあまり好んで食べない。肉や活魚があるわけでもなし、ごはんのおかずにもならない半漬け物のようなものばかりだからだ。都市伝説とも言われているらしいが、「お母さんが正月3が日くらいは料理を作らなくてよい保存食」という解釈を割りと信じている。最近は元日からスーパーなど初売りをやっているから、何も好き好んで保存食を食う必要はない?!

  

おおっ、ウルトラの父とタロウ(実の親子)が酒を酌み交わしているぞ。男親なら誰でもこのシーンを思い描くものだろうなー。昔、植田まさしの「フリテンくん」という4コマ漫画に「年老いて煎餅蒲団に寝る父親と働き盛りの息子の正月」の話しがある。仕事関係で年始に挨拶に来る接客に忙しい息子に「おーい、一郎」という老父の声。。。何度も呼ばれて部屋を訪ね「何ですかお父さん。今、来客で忙しいんですけど」と面倒くさそうに聞く息子に布団の脇から「お年玉」と書いたポチ袋が差し出される。この4コマ漫画のタイトルは「親」である。私はかなり大人になってからも親からお年玉をもらっていたが、最初は抵抗があったものの、今となっては「親というのはそういうものだ」と思う。

    

メビウスとウルトラマンヒカリ、そしてゾフィー隊長が絵馬を書こうとしているぞ。その横には「打ち出の小槌」を持った「キング神社」がある。昨年から(正確には年を越してなかったが)我が父子の初詣はこの「キング神社」になってしまった。私はよく息子に言う。「神様に自分の利益を願ってはいけない。何事もないことを祈るべきだ」宝くじに当たるとか、志望校に合格とか、いい人が見つかるなどというのは全て「自分のための利益」である。どこかのサイト(都市伝説かもしれないが)で見た「祝」と「呪」のいわれに基づいてそう考えている。二つは元々「神事」であり簡単に言うと「祝」は人に何事も起きないことを祈る、「呪」は人に何がしかが起こることを祈るものであると。むろん呪うことなどすべきではないので、せいぜい「怪我なく事故なく病気なくその日を迎えられますように」と願うことにしている。

      

神社を過ぎると縁日や書き初め、ウルトラ戦士とのカルタ取り大会などが小じんまりと賑わっている。うーむ。漢字でズバリ「七」と書いてセブンか・・・ぎゃーっはっはっは!公一君は世代を超えてお友達になれそうだ。ウルトラマンネクサスとのカルタ取り大会、楽しそうだなー。息子が幼かったら間違いなく出場していた。小倉百人一種のように「上の句」を呼んで「下の句」の札を当てるスタイルをウルトラシリーズで行ったら、かなり上位まで残れるはずである。みんな神妙に正座しているところがいいなー。(鉢巻きをしている子もいるぞ)
ゼアスよナイスの漫才も普段見られない面白さだ。やはりウルトラの国でも「笑う門には福来る」正月は笑いで始まるのだろう。仕上げはウルトラマンバトルステージだ。「ここに来ないとお正月にならない」と言った息子の言葉通り、我が家の新正月風物詩&初詣先になりそうだ。(いつまで続くかなー)

        

箱根からの襷リレー

2013-01-04 22:49:50 | 出来事
年始は大抵、実家でテレビを見ながら酒を飲んで過ごす。意外に思われるかもしれないが「朝から酒を飲む」のは1年でこの時だけである。元日は毎年朝から爆笑ヒットパレードを見て、ここ数年はニューイヤー駅伝を一部だけ覗き、家族で新春麻雀をやったりだらだらと過ごしていた。2日は思い立ったらどこか突拍子もないところに出かけたり、寝ていたり・・・4日から仕事始め(休むことが多いけど)だから、3日のうちには自宅に帰ることになる。どこに行くにしても距離にして大したことはないが、かなり注意しないと悲惨なことになる大イベントが近くで行われる。「箱根駅伝」である。海岸方面へ出かけるにも我が家へ帰るにも必ず「駅伝」コースを横切らなければならないのである。通過1時間前くらいから道路は規制され沿道は人で溢れ帰り、応援に向かう徒歩の人、自転車などで道路はいっぱいになり、しばらく自動車は動けなくなる。

考えてみたら家のすぐ近所に日本中の耳目が集まるイベントなのだが、なぜかその昔は「箱根駅伝」なるイベントに何の興味も沸かなかった。正月早々面白い番組はゴマンとあるのに、何であんな退屈なモノを好んで見るのか理解できない上に、この寒空に母校でもない学校の応援に「わざわざ行く」人たちもすごい物好きだと思っていた。初めて見たのは今の我が家に引っ越してきてからで、通過時間近くになるとあまりにヘリの音が騒がしいので試しに甘辛と見に行った時である。復路だったと思うが、初めて見て素直に感動にうち震えた。自分の全速力くらいの速度で疾走しながら、苦しそうな顔をしながらも次の人に「襷をつなぐ」ために懸命に走っている選手とその後ろから激励を飛ばしているスタッフに、「駅伝」という催しに日本人は特別な意味を感じているとあらためて思った。

息子が高学年になって入ったサッカー少年団は前述の通り、1月3日に「初蹴り」という儀式があり、保護者と全学年が集まってゲームをやったり豚汁を食べたりする。11時近くになると駅伝復路のランナーが目の前の通りを疾走するから、ユニフォーム姿のまま彼らを応援するのが習慣になっていた。パパママの中には母校の選手が走ってくる人もいて、ものすごい熱がこもっていた。今まで母校を応援することに縁の無かった私はそんな保護者達を羨ましそうに見ながら一緒に応援していた。当時、オフの日に父子で近所の運動施設で練習していた際、ベンチから気さくに声をかけてくれたおじいさんが、実はその昔、箱根駅伝4年連続出場で「山を下る神」だったと聞いたときはホントに驚いた。(そう言えばどことなく、背中から「神」らしいオーラが輝いていた)

息子甘辛が卒業してしばらく箱根駅伝からも遠ざかっていたが、今年は実家から初めて海岸まで歩いて応援に行こうか、ということになった。明らかに「いやいや」受験勉強していた息子も、サンタにもらったお気に入りのジーンズとサルバトーレ・●ェラガモのズックを履いてついてきた。このブランド靴はいつか海外旅行した時に妻が買ってくれたのだが、踵が高くて脱ぎはぎが面倒くさいため「機能的でない」と滅多に履かなくなったものをお下がりとして甘辛にやったもので、私よりもはるかに似合っているようだった。ただ履きなれないためか(当たり前だ!中学生が●ェラガモなんて)よく蹴躓いて歩きにくそうだった。海岸までは歩いて約20分、昔通学で使った道をまっすぐ海に向かうコースになる。

しばらく歩いて海まで数百メートルとなった時点で、海岸線がものすごい人だかりなのが分かったが、その向こうの防砂林が切れて海岸までの砂道となっているところに大きな岩らしきものが見えた。今まで気が付かなかったがどう見ても●帽子岩である。海岸からは小さな岩にしか見えないのに、目の錯覚(月が地面に近い時は大きく見える)なのかものすごい近くに見える。しかも最初は見えなくて、あるところから見え始め、海岸に近付くにつれて再び見えなくなってしまう。。。道路の傾斜角度といい、向かう方角といい、防砂林の切れ方といいすべてが絶妙でなければ、ああまで見事に岩だけがアップされては見えないはずだ。私は後ろからの自動車にクラクションで怒られながらも道路の真ん中から超兵器を望遠レンズにしてシャッターを押した。珍百系にでも出られそうな光景だが、ここいらの人は皆してるんだろうか?10年近くこの道を使って通学した(実は危ないからあまり使ってない?!)私も何か前に見たような気がするが、歩きでまじまじと見たのは初めてだ。

        

さて海岸線までつくと沿道は人で埋め尽くされていた。テレビを見ながら「今、行けば丁度よい?」と見計らってきたつもりなのだが、前で応援者を誘導していたきさくな警察官が「2位との間がずいぶん開いちゃってるねえ」どうやら●帽子岩の不思議な姿に気をとられて立ち止まっていた時間が長かったらしく、1位の日体大はどうやら通過してしまったらしい。残念・・・トップが来る前に先導車やらパトカーやら付近警備の人たちが「前説」やってくれ、「後何分!」とか声をかけてくれるのが結構面白いのに。。。しばらくすると、西の方に歓声が上がりバタバタと旗が振られた。白バイと地球防衛軍の特殊車両のような中継車の後からものすごいスピードで走るくるランナーが見えた。今年は超兵器の連写モードが使えたので声援を送りながら夢中でシャッターを押し続けたが、前の人がやたら旗を振るのでそれしか写ってないようだ。

      

息子甘辛もこの雰囲気に少なからず興奮したらしく、「おーい、がんばれーぃ」と声援を送っていた。そして「あの大学ってどこにあるんだろうなー」とその前段のステップすらかなりやばいのに、その先にある大学名に興味を持ち始めたようだった。私にゆかりのある大学は残念ながらW田大学くらいしかなかったが、共通の知り合い(大抵は友人のパパ)を見つけて応援することはできた。
甘辛も結構覚えていて2番で走ってきた大学は「去年、『山ノ神』いたところだろ?」、3番目は所属のクラブチームから付属高校の案内書をもらってきたし、4番目は1昨年面倒を見てくれた先輩が山梨の付属高校にスポーツ推薦で進学している。次は知らない人のいない(かつて父も門を叩いた)名門校だし、7、8、9番目は彼にとって「じーじ」、大井でBBQやった時に遊んでくれた研究所仲間のK木おじさん、そして仲良しのSちゃんパパの母校である。皆それぞれの場所から熱く応援していたことだろう。(写真とは異なります)

          

割と出場校にその名を連ねる常連だが、いつも下位争いになってしまう県内の大学はこの家を設計した夫婦の奥さんの方の母校、赤字のCの大学などは学生時代にドイツ語の講義に紛れ込んだ懐かしい八王子キャンパスだったが実に残念だった。最後に走ってきたのはここ数年、私が勤務する地方から敢然と出場権をGETしてくる大学である。この地方から箱根に向かうだけでもずいぶん価値のあることらしく、高速道路には「●●から箱根へ!」という大きな看板が見られる。まだまだ歴史が浅いのか、しぶとく連続で出場しているが、2区くらいから早くも指定席・・・毎年復路では「繰上げスタート」の憂き目を見ていた。しかし今回は最後の数十秒、ぎりぎりで最後まで襷がつながった。

毎年4日が仕事始めだが私は休みを取ることが多かった。今は自宅からなので関係ないが地方では大抵仕事始めの日には近所の由緒ある神社仏閣で「安全祈願」という儀式が執り行われ、最前列に欠員が出ては縁起が悪いため週末であっても1日だけ来なければならない。今年も安全祈願が無事に終わった後、昼食を「King Of Pasta」で有名なイタリアンで食べながら、スティーブ達と正月の話をしていた。
「箱根駅伝見に行ったときさー、オレって贔屓の学校って無いだろ?だからみんな応援したんだけど、●●は思い切り声援送ったんだぜ。『■■(地方名)がんばれぇーっ』てさ。でもそれが通過したすぐ後に道路が規制解除になって皆帰り始めたんだよ・・・」
「磯辺さん、すごかったでしょ?最後の40秒!初めてゴールまで襷がつながったんですよ。こりゃー快挙だぁ」
スティーブは上機嫌だった。往路・復路、総合優勝を狙う、シード権獲得を目指す、「襷をつなげる」ことで快挙とされる・・・それぞれ色々な目標があるものだと思った。
これからは後に紹介する「お正月だよウルトラマン」と同様、年中行事になるような気がした正月だった。

皆さん、明けましておめでとうございます。今年も「超兵器」をよろしくお願いします。