中学生の読書感想文課題図書を読んだ。課題図書は先般、少し記事にした「聖夜」、「夢をつなぐ 山崎直子の4088日」、そして「スピリットベアにふれた島」である。
息子甘辛とともに全部読んでみた。 彼が感想文にしたのは「聖夜」(たぶん最初に読んだ本だから?!)。私も最初に「聖夜」を読んで中々深いものを感じ、このサイトでも少し紹介した。
山崎直子さんの自伝?!からは正直言って「宇宙飛行士などなるものではないな」と感じてしまった。「自分の夢をつなぐ」ためには「他者に犠牲が必須」という印象を受けたのである。
学生時代に「毛利さん」「向井さん」「土井さん」らが研究室に遊びに来たこともあり、宇宙飛行士を結構身近に感じていたが、改めて本人だけにとどまらない過酷な試練を垣間見た。
最後に読んだのが「スピリットベアにふれた島」である。何となくとっつきにくい感じがして後回しにしてしまったが、私はこの本から最もたくさん色んなことを感じた。
まず、(本の紹介をしてもしょうがないから)さわりだけ書くと
「主人公のコール・マシューズ(15歳)は裕福な家庭だが両親とのぎくしゃくした関係からか、怒りをコントロールできなくなり、同級生に重傷を負わせる。本来なら裁判の後、刑に服するところだが、『サークル・ジャスティス』という独特の制度を使って一人無人島で「自分を見つめなおす」機会を与えられる。コールは厳しい自然の中で孤独と闘いながら『自分を変える』とはどういうことかを学んでいく」
という、ところか。。。
凶暴でクラスメイトにも手に負えない少年、資産家だが世間体だけを重んじ息子(コール)には暴力を振るってきた父親、その父親に何もできない母親・・・周囲の支えと大自然とのふれ合いから少年が変わっていく様は「はっきり言ってベタ」(中学生向けだからね)ではある。「積木くずし」を思い出した。
物語の内容そのものの感想には全然ならないが、人類学?的なカルチャーの違いと共通点のようなものを感じ、一番たくさん「語れる」本であった。
主人公コールが住んでいるのはアメリカミネソタ州ミネアポリス、1年間孤独な追放生活を送ることになるのがアラスカ州ケチカンから水上飛行機で行くドレイクという村からさらに船で向かう無人島である。ドレイクはトリンギット族というアラスカからカナダ北西部を居住区よしていたインディアンの村で、コールを支えるガーヴィという保護観察官と、無人島生活の手配を手伝ったエドウィンという古老の故郷である。
「文化」を感じたその1:サークルジャスティス制度
北アメリカ先住民のあいだで何世紀にもわたって行われてきた慣習だそうだ。傷害事件などの加害者、被害者、関係者が「環」(サークル)をつくり、どうやったらお互いに魂を救済し、和解しあえるかを話し合う集いである。どちらかというと加害者を立ち直らせるためのもので、参加者が創造力をもって解決案をひねり出すのが特徴だ。ここでコールは「無人島で一人生活し、自分を見つめ直す」という実に創造的な裁きを受ける。(正式な司法制度とは別)
この制度はいくつかの州や市で実際に採用され、その有効性を発揮しているらしい。日本には全くない制度だが、コールへの「裁き」は日本で昔あった「島流し」の発想に見えその共通性が面白い。
もともと「変わる」気などなかったコールは無人島生活用にエドウィンがせっかく用意してくれた小屋や物資を盛大に燃やし、島からの脱出を目論むが失敗する。
さらにコールは一頭のアメリカクロクマと遭遇するが、自分を怖がらずに見つめるクマに怒り心頭に達しこれを殺そうとして、逆にその後の生活にも不自由するほどの重症を追って生死をさまようことになる。そのクマはスピリットベアと言われる誇り高きクマだった。
ガーヴィとエドウィンに奇跡的に助けられたがその後数ヶ月は入院生活を余儀なくされたコールはその経験を通して少しだけ「生」というものを考えるようになった。自分の行為でせっかくのチャンスをふいにしてしまったコールだが、ガーヴィとエドウィンの計らいでサークル・ジャスティスを説得し、再び同じ島での追放生活を送ることになる。
「文化」を感じたその2:池での修行と石運び
古老エドウィンは無人島にしばしば訪れ、コールにインディアンに伝わる色々な修行を教える。氷のように冷たい池に全身浸かり座る行、「先祖」と称した石を小高い丘の上に持ち上げ、頂上からはこれを「自らの怒り」と見立てて転がり落とす行。。。いかにも奇行のように見えるが「禊」をするという意味では滝行に通じるものがある。何か「気」を落ち着かせるときに「水に触れる」というのが人類共通な習性のようで面白い。「石を運ぶ」という行為は意味は異なるがやはり「シシフォスの岩」に通じるものがある。
再び無人島で生活を始めたコールはエドウィンから教わった様々な「修行」により、「怒り」、「癒す」、「赦す」とは何かを少しずつ考え始める。「誰にも見られていない時に何をするか」と言われたら「自然を見る」というのが自然なのだろう。
「怒りは決して忘れることのできない記憶」としてこれと向き合い、自らの行動を振り返ったコールは、重症に悩み「うつ」になって自殺を繰り返す被害者ピーターを島に呼び寄せることにするのである。
「文化」を感じたその3:ダンス
「わしらのまわりにはいろいろな力がある。たとえばクジラ、クマ、オオカミ、ワシといった動物がいる。太陽や月や季節の力もある。幸せや怒りのように人の心の中にある力もある。わしらはそれをすべて感じとり、ダンスで表せる。こうした力にはみな、教わるところが多い・・・・」
このあたりはいかにもインディアン的だが、実に面白かったのは「動物を見て学んだことを踊る」のではなく、「動物を踊ったこと自体から学ぶ」ということだ。
ふてくされた態度をとってガーヴィとエドウィンから無人島生活の終焉を宣言され、一人残ったコールはたき火を見つめながら自然と自分一人だけが見たオオカミを踊りだす。
起きてきたガーヴィから「何を学んだ?」と聞かれ「オオカミの群れのように、まわりの助けが必要だとわかった」
「見えない存在になるには、心を無にしなければならない」どうもその時にスピリットベアは現れるらしい。。。洋の東西を問わず修行というのは「心を無にする」という要素が必ずあるようだ。禅にも通じるものがある。
やがて両親の苦渋の決断としていやいやながらも無人島にやってきた被害者ピーターに散々に仕返しされながらも、一緒にダンスを踊りトーテムポールを彫ることになるのである。
「踊りながら何かになりきり心を同化させることによって何かを学ぶ」というのは実に興味深い。ヨーガなどはそういう境地があるんじゃないだろか・・・
この本のテーマのひとつは「怒り」だと思う。10代の少年が誰でも持っている怒りとか不安が題材のようだ。私もこの本から「怒り」について一つ学んだ。
私は中年の域にどっぷり浸かった年齢でさすがに「怒りを露わ」にすることはほとんどないが、恥ずかしながら剥き出しにしてしまうときが度々ある。
「赤信号」が大嫌いなのである。走行中に正面の信号が黄色を経て「赤」になると必ずと言っていいほど「呪い」の言葉を出してしまう。。。元々「赤」ならかまわない。目の前で変わられるのが、「行く手を故意に遮られる」ようで堪らなくいやなのだ。
「信号が目の前で『赤』に変わったときに『怒り』を露わにするのはどうもよくないらしい、ということを学んだ」
妻に話したら、「そんなこと学ぶのに40年もかかってんのかよ・・・」
息子甘辛とともに全部読んでみた。 彼が感想文にしたのは「聖夜」(たぶん最初に読んだ本だから?!)。私も最初に「聖夜」を読んで中々深いものを感じ、このサイトでも少し紹介した。
山崎直子さんの自伝?!からは正直言って「宇宙飛行士などなるものではないな」と感じてしまった。「自分の夢をつなぐ」ためには「他者に犠牲が必須」という印象を受けたのである。
学生時代に「毛利さん」「向井さん」「土井さん」らが研究室に遊びに来たこともあり、宇宙飛行士を結構身近に感じていたが、改めて本人だけにとどまらない過酷な試練を垣間見た。
最後に読んだのが「スピリットベアにふれた島」である。何となくとっつきにくい感じがして後回しにしてしまったが、私はこの本から最もたくさん色んなことを感じた。
まず、(本の紹介をしてもしょうがないから)さわりだけ書くと
「主人公のコール・マシューズ(15歳)は裕福な家庭だが両親とのぎくしゃくした関係からか、怒りをコントロールできなくなり、同級生に重傷を負わせる。本来なら裁判の後、刑に服するところだが、『サークル・ジャスティス』という独特の制度を使って一人無人島で「自分を見つめなおす」機会を与えられる。コールは厳しい自然の中で孤独と闘いながら『自分を変える』とはどういうことかを学んでいく」
という、ところか。。。
凶暴でクラスメイトにも手に負えない少年、資産家だが世間体だけを重んじ息子(コール)には暴力を振るってきた父親、その父親に何もできない母親・・・周囲の支えと大自然とのふれ合いから少年が変わっていく様は「はっきり言ってベタ」(中学生向けだからね)ではある。「積木くずし」を思い出した。
物語の内容そのものの感想には全然ならないが、人類学?的なカルチャーの違いと共通点のようなものを感じ、一番たくさん「語れる」本であった。
主人公コールが住んでいるのはアメリカミネソタ州ミネアポリス、1年間孤独な追放生活を送ることになるのがアラスカ州ケチカンから水上飛行機で行くドレイクという村からさらに船で向かう無人島である。ドレイクはトリンギット族というアラスカからカナダ北西部を居住区よしていたインディアンの村で、コールを支えるガーヴィという保護観察官と、無人島生活の手配を手伝ったエドウィンという古老の故郷である。
「文化」を感じたその1:サークルジャスティス制度
北アメリカ先住民のあいだで何世紀にもわたって行われてきた慣習だそうだ。傷害事件などの加害者、被害者、関係者が「環」(サークル)をつくり、どうやったらお互いに魂を救済し、和解しあえるかを話し合う集いである。どちらかというと加害者を立ち直らせるためのもので、参加者が創造力をもって解決案をひねり出すのが特徴だ。ここでコールは「無人島で一人生活し、自分を見つめ直す」という実に創造的な裁きを受ける。(正式な司法制度とは別)
この制度はいくつかの州や市で実際に採用され、その有効性を発揮しているらしい。日本には全くない制度だが、コールへの「裁き」は日本で昔あった「島流し」の発想に見えその共通性が面白い。
もともと「変わる」気などなかったコールは無人島生活用にエドウィンがせっかく用意してくれた小屋や物資を盛大に燃やし、島からの脱出を目論むが失敗する。
さらにコールは一頭のアメリカクロクマと遭遇するが、自分を怖がらずに見つめるクマに怒り心頭に達しこれを殺そうとして、逆にその後の生活にも不自由するほどの重症を追って生死をさまようことになる。そのクマはスピリットベアと言われる誇り高きクマだった。
ガーヴィとエドウィンに奇跡的に助けられたがその後数ヶ月は入院生活を余儀なくされたコールはその経験を通して少しだけ「生」というものを考えるようになった。自分の行為でせっかくのチャンスをふいにしてしまったコールだが、ガーヴィとエドウィンの計らいでサークル・ジャスティスを説得し、再び同じ島での追放生活を送ることになる。
「文化」を感じたその2:池での修行と石運び
古老エドウィンは無人島にしばしば訪れ、コールにインディアンに伝わる色々な修行を教える。氷のように冷たい池に全身浸かり座る行、「先祖」と称した石を小高い丘の上に持ち上げ、頂上からはこれを「自らの怒り」と見立てて転がり落とす行。。。いかにも奇行のように見えるが「禊」をするという意味では滝行に通じるものがある。何か「気」を落ち着かせるときに「水に触れる」というのが人類共通な習性のようで面白い。「石を運ぶ」という行為は意味は異なるがやはり「シシフォスの岩」に通じるものがある。
再び無人島で生活を始めたコールはエドウィンから教わった様々な「修行」により、「怒り」、「癒す」、「赦す」とは何かを少しずつ考え始める。「誰にも見られていない時に何をするか」と言われたら「自然を見る」というのが自然なのだろう。
「怒りは決して忘れることのできない記憶」としてこれと向き合い、自らの行動を振り返ったコールは、重症に悩み「うつ」になって自殺を繰り返す被害者ピーターを島に呼び寄せることにするのである。
「文化」を感じたその3:ダンス
「わしらのまわりにはいろいろな力がある。たとえばクジラ、クマ、オオカミ、ワシといった動物がいる。太陽や月や季節の力もある。幸せや怒りのように人の心の中にある力もある。わしらはそれをすべて感じとり、ダンスで表せる。こうした力にはみな、教わるところが多い・・・・」
このあたりはいかにもインディアン的だが、実に面白かったのは「動物を見て学んだことを踊る」のではなく、「動物を踊ったこと自体から学ぶ」ということだ。
ふてくされた態度をとってガーヴィとエドウィンから無人島生活の終焉を宣言され、一人残ったコールはたき火を見つめながら自然と自分一人だけが見たオオカミを踊りだす。
起きてきたガーヴィから「何を学んだ?」と聞かれ「オオカミの群れのように、まわりの助けが必要だとわかった」
「見えない存在になるには、心を無にしなければならない」どうもその時にスピリットベアは現れるらしい。。。洋の東西を問わず修行というのは「心を無にする」という要素が必ずあるようだ。禅にも通じるものがある。
やがて両親の苦渋の決断としていやいやながらも無人島にやってきた被害者ピーターに散々に仕返しされながらも、一緒にダンスを踊りトーテムポールを彫ることになるのである。
「踊りながら何かになりきり心を同化させることによって何かを学ぶ」というのは実に興味深い。ヨーガなどはそういう境地があるんじゃないだろか・・・
この本のテーマのひとつは「怒り」だと思う。10代の少年が誰でも持っている怒りとか不安が題材のようだ。私もこの本から「怒り」について一つ学んだ。
私は中年の域にどっぷり浸かった年齢でさすがに「怒りを露わ」にすることはほとんどないが、恥ずかしながら剥き出しにしてしまうときが度々ある。
「赤信号」が大嫌いなのである。走行中に正面の信号が黄色を経て「赤」になると必ずと言っていいほど「呪い」の言葉を出してしまう。。。元々「赤」ならかまわない。目の前で変わられるのが、「行く手を故意に遮られる」ようで堪らなくいやなのだ。
「信号が目の前で『赤』に変わったときに『怒り』を露わにするのはどうもよくないらしい、ということを学んだ」
妻に話したら、「そんなこと学ぶのに40年もかかってんのかよ・・・」