中小企業の「うつ病」対策ー人、資金、時間、情報に余裕がない

企業の労働安全衛生、特にメンタルヘルス問題に取り組んでいます。
拙著「中小企業のうつ病対策」をお読みください。

心の病に労災認定の壁

2020年11月20日 | 情報

心の病に労災認定の壁 働く人が知っておくべきことは
聞き手・出河雅彦2020年10月25日 朝日

仕事による強い心理的負荷(ストレス)が原因で精神障害になったとして労災認定を請求する件数は増え続け、2019年度は2千件を超えました。一方で、労働基準監督署が労災と認めるか否かの決定をした件数に占める支給決定件数の割合(認定率)は約30%です。労働基準監督署の調査が不十分であったり、企業側が調査に協力的でなかったりすることもあります。労災と認められない場合、審査請求、再審査請求、さらには訴訟という手段もありますが、当事者にとっては大きな負担です。連載「患者を生きる」の「精神障害と労災」で紹介した、大手メーカーに勤務していた男性のケースを見ても、それがわかります。

男性は上司から叱責(しっせき)を受けていることを妻に告白して間もない10年1月、40歳で自殺しました。会社でのトラブルや仕事上の悩みが夫を追い詰めたのではないかと考えた妻は、男性の死後、インターネットで調べた名古屋の水野幹男弁護士(80)の事務所を訪ね、代理人を依頼しました。水野弁護士は愛知県内の大企業の社員の過労自殺訴訟を担当した経験がありました。労災請求の手続きについて何も知らなかった妻は、水野弁護士の勧めで男性が自殺するまでにあった出来事を記憶している限り書き出し、陳述書を作ります。

会社への損害賠償請求訴訟も起こす可能性を考えると、男性の勤務実態を知る手がかりとなる社内文書を押さえる必要があると考えた水野弁護士ら弁護団は10年11月、まず名古屋地裁岡崎支部に証拠保全を申し立てます。申立書には、妻の陳述書のほか、自殺の約1カ月前に受診したメンタルクリニックの診療録、男性が残したノートなどが証拠として添付されました。

男性は自殺する前年の09年9月末ごろから中国・天津市にある子会社の工場の仕事を担当するようになりました。男性にとって初めての海外業務でした。メンタルクリニックの診療録には、中国工場の日本人スタッフと合わないことや仕事が進んでいないこと、上司が厳しく相談できる人がいないことなどが記されていました。

2008年秋に起きたリーマン・ショックで赤字に転落した会社が残業の原則禁止や人員削減で経営改善を図る中、海外工場の現地担当者と本社の板挟みになった男性が、直属上司からのパワハラなどによって強いストレスにさらされ、自殺したのではないか――。そう考えた弁護団は、男性が上司に提出していた業務報告書や男性が出席した会議の議事録などの証拠保全を名古屋地裁岡崎支部に申し立てましたが、証拠保全手続きで会社側は企業秘密を理由に多くの文書を読めない状態にして提出しました。男性がどんな状況で仕事をしていたのか詳しい事実関係を知ることができないまま、11年6月、妻は豊田労働基準監督署に遺族補償給付と葬祭料の支給を求め、労災を請求します。

12年10月、豊田労基署は労災と認めない決定を出しました。はがきで送られてきた不支給決定通知書には不支給の理由は書かれていませんでした。妻は個人情報保護法に基づき、労基署の判断のもとになった調査内容などを記した文書の開示を請求しました。開示された労基署の文書には、①中国工場の仕事は男性の経験からみて過大な業務とは言えない②上司からの叱責も男性への業務上の指導と周りには認識されており、客観的にも上司と対立状態にあったとは認められなかった――などと記載されていました。豊田労基署は、労災認定の可否の判断に当たって医学に関する専門的な意見を述べる愛知労働局地方労災医員協議会精神障害専門部会の意見などに基づき、「精神障害を発病させるおそれのある心理的負荷であったとは認められない」との結論を出したのです。

開示された文書には会社関係者から聴いた内容を記した聴取書も含まれていましたが、氏名も聴取内容もほとんど黒塗りにされたため、だれが何を話しているか知ることはできませんでした。

労基署の決定から2カ月後の12年12月、妻は愛知労働者災害補償保険審査官に審査を請求しますが、審査官は1年後の13年12月、妻の請求を棄却しました。

上司からの叱責について審査官は、「業務指導の範囲を逸脱する叱責等であったと認めるまでの理由はない」として、厚生労働省の認定基準の「上司とのトラブル」であり、トラブルの内容、程度などからして心理的負荷の強度の総合評価は、「せいぜい『中』程度」と判断しました。09年秋から担当していた中国工場の仕事についても、20年ほどの経験を有する男性の能力などに照らして、心理的負荷の強度の総合評価は「弱」にとどまる、と判断し、この二つの出来事を合わせた心理的負荷の全体評価は「強」に至らず、労災とは認められない、というのが審査官の結論でした。

しかし、審査請求によって新たに判明したこともありました。妻のもとに郵送されてきた審査官の決定書は約60ページあり、審査官が審査に用いた証拠のリストが付けられていました。リストの中には豊田労基署が提出した133の資料と審査官が新たに収集した七つの資料があり、新たに収集した資料の中に、審査官が男性の元部下(匿名)から聞き取った内容をまとめた聴取書がありました。聴取書を含む資料そのものは妻のもとに送られてきませんでしたが、決定書にはその一部が引用されていました。

それによると、元部下は、男性が報告資料などに無理難題をつけられ、複数の上司から怒られていた、と審査官に語っていました。「あれほど怒鳴られているのによく頑張っているな」という元部下の発言も記録されており、この元部下も男性と同じ上司によるパワハラに嫌気がさし、男性が自殺した後に会社を退職していたことがわかりました。これを読んだ妻は、男性が自殺する前に自分に打ち明けた「上司からの叱責」を裏付けるものだと受け止めました。

審査請求を棄却された妻は14年1月、東京の労働保険審査会に再審査を請求します。労災が認められなかった場合の最終的な審査の機会です。

再審査を請求すると、労働基準監督署や労働者災害補償保険審査官が集めた資料、会社関係者の聴取書などを含む「審査資料集」が送られてきます。審査制度の最終段階で審査請求者に反論を尽くす機会を与えるための情報提供であり、これによって、会社のだれが、何を言っているのかが初めてわかるのです。上司のパワハラを理由に会社を去った男性の元部下の名前もわかり、水野弁護士らは別の会社に勤務している元部下に会いに行き、協力を求めました。

しかし、審査資料集を読んでも、男性がどんな状況で仕事をしていたのか、詳しい事実関係を知るには不十分でした。証拠保全の際と同様、会社は労基署や審査官に対しても、文書の多くをマスキングして出していたのです。弁護団は14年8月、労働保険審査会宛てにマスキングされていない資料の送付を求める上申書を送りましたが、審査会事務局からは、会社がマスキングをして提出した資料以外を保有していないので送付できない、という連絡がありました。

審査会は15年1月23日付の裁決書で、労基署や審査官が「弱」とした中国工場関連の業務による心理的負荷について「判断が妥当ではない」として、「少なくとも『中』に該当する」との判断を示しました。その理由として、社員としての担当が1人であったことや、中国工場側とのトラブルの悩みを別の仕事を担当する同僚に相談したものの解決できず、上司からの指導・支援もなかったことを挙げました。また、男性が通常業務である生産準備の仕事に加えて、09年5月から12月まで担当した将来ビジョンの作成についても、そのための打ち合わせや会議、報告会が同年5月~9月に計23回に及んでいることなどを指摘し、その心理的負荷は「中」と判断しました。

男性が受けていた2人の上司からの叱責について審査会は、「一般的に上司のパワーハラスメントに関しては、現職の社員であれば、その事実について真実を語り難いものであると考えられる」としたうえで、自らが上司からのパワハラを理由に会社を退職したと述べる男性の元部下が審査官に語った内容を「会社とは関係がないニュートラルな状態で、率直に申述していると認められ、その内容の信憑性(しんぴょうせい)は高い」と判断しました。また、男性の妻が労働組合に相談したらと打診した際に、男性が「それだけは駄目だ。絶対にしたら自分が首になる」と、ものすごい剣幕で怒ったと妻が陳述書に記載していることについて、審査会は「当該会社においては、社員が会社に対し上司とのトラブルなどの業務に関する悩みを相談することは難しい実態があったことが推察される」と裁決書に記載しました。男性の元部下や妻が述べていることに基づき、審査会は「被災者に業務の悩みの相談を許さないと受け止めさせるような叱責が継続的にあったと認めることが相当」としますが、その一方で、上司の叱責は「業務指導の範囲を逸脱し、その中に被災者の人格や人間性を否定するような言動が含まれ、かつ、これが執拗(しつよう)に行われたとまでは認められない」として、その心理的負荷については「中」と判断せざるを得ない、としました。

結局、審査会は男性の心理的負荷の原因となった出来事を三つまで認めたものの、その程度はいずれも「中」で、全体的な評価も労災に当たる「強」とまでは判断できないとして、男性の妻の請求を棄却したのです。

労働保険審査会の棄却決定から約半年後の15年7月、妻は国を相手取り、労災と認めなかった豊田労基署の決定の取り消しを求める訴えを名古屋地裁に起こします。

弁護団は男性が仕事上のさまざまな問題に直面して大きなストレスを感じていた事実を明らかにするためには、男性が作成していた報告書や男性が出席した会議の議事録が必要であるとして、提訴から約2年後の17年6月、裁判所に文書送付嘱託を申し立てました。弁護団が証拠保全手続き以来開示を求めてきたものです。しかし、会社は「技術・ノウハウに関する機密情報が含まれる」として、一部の文書を部分開示したほかは、すべてマスキングして提出しました。これに対し弁護団は同年11月、裁判所に文書提出命令を出すよう申し立てました。水野弁護士によれば、裁判所が命令を出すことはなかったものの、裁判所の意向を受けてか、会社は男性が作成した報告書などを一部黒塗りで提出しました。

弁護団はそれらの文書を証拠として提出するとともに、工場勤務経験を持つ会社OBに読んでもらい、男性が中国工場の仕事を担当する前に担当していた愛知県内の工場での業務でも困難に直面していたとする陳述書を作成してもらいました。男性の自殺後に会社を退職した男性の元部下も陳述書を作成し、2人の会社OBは20年2月、名古屋地裁で証言しました。男性と同じ上司からたびたび叱責されていた元部下は退職した理由を「上司からのパワハラ」と明言し、男性が叱責されているところを見た時の感想を問われると、「あれだけ言われているのを聞いて、よく耐えてるなというふうに感じていました」と述べました。

一方、男性を叱責していた2人の上司は法廷で、原告代理人弁護士から「男性への指導で何か後悔しているところはあるか」と質問され、「ない」と答えました。

名古屋地裁は今年7月29日、男性が中国工場の仕事を担当する前に担当していた愛知県内の工場での業務によるストレスを「中」と認定する一方で、労働保険審査会が「中」と認定した将来ビジョン作成をストレスの原因となった出来事とは扱わず、「精神障害と会社での業務との間に相当因果関係を認めることはできない」として、妻の請求を棄却しました。

男性の妻と娘はこの判決に先立つ7月14日、男性が勤務していた会社に約1億2380万円の損害賠償を求める訴訟を名古屋地裁に起こしました。労災不支給決定の取り消しを求める訴訟では名古屋地裁判決を不服として名古屋高裁に控訴しました。損害賠償の訴えに対し、会社側は請求の棄却を求め、争う姿勢を明らかにしています。

朝日新聞がこの会社に文書で取材を申し入れ、自殺した男性に対する2人の上司の叱責はパワーハラスメントに該当するのか否か▽男性からハラスメント相談窓口に相談があったか否か▽2人の上司からの叱責が男性の自殺の原因となったと考えられるのか否かについて尋ねたところ、「ご遺族と当社の間で訴訟が係属中のため、コメントは差し控えさせていただきたい」との回答がありました。

■天笠崇さんインタビュー

過労自殺をめぐる労災申請や訴訟で多くの意見書を作成した経験があり、労災認定に詳しい代々木病院精神科の天笠崇医師(59)に労災認定の問題点などについて聞きました。

 ――厚生労働省が現在の「心理的負荷による精神障害の認定基準」を定めたのは11年ですが、基準の内容や運用についてどのように見ておられますか。

「認定基準」ができるまでは1999年に定められた「判断指針」に基づいて労災に該当するか否かの判断を行っていました。認定基準は判断指針に比べ多くの点で改善されたと評価していますが、労働基準監督署が認定基準に沿った判断をしていない場合があります。ルールの運用に問題があるのです。具体例を挙げましょう。

認定基準は、心理的負荷(ストレス)の程度を評価するに当たって精神障害を発病した労働者が原因となった出来事を主観的にどう受け止めたかではなく、「同種の労働者」が一般的にどう受け止めるかという観点から評価することを求めています。同種の労働者とは何か。認定基準は「職種、職場における立場や職責、年齢、経験等が類似している者」と定義しています。労基署が調査を行う際には、職場において、だれが同種労働者に相当するかをまず把握し、そうした人たちの意見をしっかりと聴いて、ストレスの度合いを判断する必要がありますが、そうした丁寧な調査が行われていない場合もあります。精神障害になった人が担当していた仕事の後任者が「なんとかこなせる仕事だった」と述べたとしても、前任者と年齢や立場が異なれば、同種の労働者とは言えません。

また、発病前おおむね6カ月の間に業務による強いストレスが認められることが認定要件の一つですが、強いストレスを与える出来事の前と後の両方で発病した兆候(言動)がみられる場合があります。発病時期を特定することが難しい場合もあるので、認定基準には「どの段階で診断基準を満たしたのかの特定が困難な場合には、出来事の後に発病したものと取り扱う」と明記されています。にもかかわらず、出来事の前にすでに発病していたと判断する傾向があります。

――ほかにもありますか。

認定基準には別表として「業務による心理的負荷評価表」が付いています。ストレスの度合いを判断する指標で、現在、37種類の「具体的出来事」が例示され、それぞれの平均的なストレスの強さや総合評価するための視点などが記載されています。

例えば、「顧客や取引先から無理な注文を受けた」とか「非正規社員であるとの理由等により、仕事上の差別、不利益取扱いを受けた」「上司とのトラブルがあった」などです。しかし、職場では評価表に例示されている出来事以外にもさまざまな出来事が起こり得ます。そうした事態を想定して、実際の出来事が評価表に例示された「具体的出来事」に合致しない場合には、「どの『具体的出来事』に近いかを類推して評価する」と認定基準には明記されています。ところが、労基署が評価表に書いてない出来事だからと、まるでなかったかのように扱うことがあるのです。

このほか認定基準は、いじめやセクシュアルハラスメントのように出来事が繰り返されるものについては、繰り返される出来事を一体のものとして評価するよう定めています。ところが、心理的負荷を与える出来事について発病する「おおむね6カ月前」と認定基準に書いてあることを盾に、労働基準監督署が発病の6カ月以上前にあった出来事を切り捨て、労災と認めないことがあります。例えば、6カ月以上前にあった上司による明らかな人格攻撃が発病前6カ月間はやんでいたものの、その6カ月の間も仕事上の叱責が続いていたというような事例があります。この場合、以前の人格攻撃と叱責は一連のものととらえてよいことになっているのです。にもかかわらず、発病前6カ月で線を引いて以前の人格攻撃を何ら考慮に入れず、心理的負荷の程度を「弱」と評価するような事例があります。ストレスの程度が多少弱まったとしても、継続しているのであれば、6カ月以上前の出来事も一連のものと評価すべきです。認定基準には「事案ごとに評価する」「業務による心理的負荷評価表はあくまで例示」と書いてあるのに、それに沿った運用がなされていないのは問題です。労働基準監督署の調査の質にばらつきがあるので、担当者を対象に、認定基準の運用方法について教える研修が必要だと思います。

 ――認定基準そのものに見直すべき点はありませんか。

ストレスを与える出来事が複数あった場合の全体評価について認定基準は、「中」の出来事が複数ある場合は「中」または「強」、「中」が一つあるほかに「弱」がある場合は原則として「中」、「弱」が複数の場合は原則として「弱」と定めていますが、判断基準が明確に書かれていないことが問題で、見直すべきだと思います。例えば、発病前の一定期間内で「中」に当たる出来事が三つあった場合や、「弱」に当たる出来事が五つあった場合には、総合的に「強」と判断してよいといった、具体的な基準を設けるべきだと思います。

 ――働く人が知っておくべきことは何でしょうか。

 長時間労働者に対する産業医の面接やストレスチェックなどが導入され、パワハラを防止するための法律もできました。労働者の健康や人権を守るための制度はまがりなりにも整備されたと言えます。一人ひとりの労働者にとって大切なことはどのような制度があるかを知り、その運用が改善されるよう、しっかり監視し、育てていくことです。

また、「心理的負荷による精神障害の認定基準」には「業務による心理的負荷評価表」(別表1)と「業務以外の心理的負荷評価表」(別表2)が付いています。この二つの評価表には「具体的出来事」とストレスの強度が載っていますので、労働者やその家族が心身の健康を保ち、うつ病を予防するために活用することができます。具体的に言えば、「業務による心理的負荷評価表」で「平均的な心理的負荷の強度」が「Ⅱ」とされる「顧客や取引先からクレームを受けた」や、「業務以外の心理的負荷評価表」で「心理的負荷の強度」が「Ⅱ」とされる「親が重い病気やケガをした」「隣近所とのトラブルがあった」などに該当する出来事を経験したら注意が必要です。そんなときは睡眠をしっかり取って、ストレスによる心身への影響を減らすことが大事です。(聞き手・出河雅彦)

 

  

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« (参考)テレワーク、2万社調査 | トップ | 心の病に労災認定の壁(続編・... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

情報」カテゴリの最新記事